2011年3月7日月曜日

[diary]列車でカシュガルからウルムチへ(1日目)

列車でカシュガルからウルムチへ(1日目)

2009/03/01(日) 晴れ
[Kashgar→Urmuqi:China]
レート:1米ドル=6.8元=97円

※時間は新彊ウイグル自治区の時間

・早起き
・メーターを倒さないタクシー
・駅の待合室
・列車の中で

カシュガルの宿。

目覚ましよりも早く目覚める。時刻は4時すぎ。
同じ列車に乗る同室の旅行者を起こす。

5時前、荷支度をしてフロントに降りる。スタッフはベンチで布団をかぶって寝ていた。足音に気づいた警備員がスタッフを起こす。フロントでカードキーを返却し、デポジットの100元を返してもらう。

ホテルの前の通りに立ち、タクシーを捕まえる。

乗ってしばらくしてSさんがメーターがうごいてないんじゃないかと言う。確かに動いていない。なので運転手に言うと何やらごちゃごちゃという。なので勝手にメーターを倒すが、運転手はまた何かという。じゃあ、運賃はいくらだと聞くと20元だという。仕草から早朝割り増しの運賃らしい。確かめると2人で20元と言うので、まぁそれくらいならいいかと許可する。

さすがにこの時間なので車も人通りもほとんどない。

タクシーは駅の駐車場の入り口で止まる。中に入るとお金を取られるらしい。なのでそこで降りて歩いて駅に向かう。見上げれば星空。星の量はたいしたことはない。

駅の入り口にはすでにひとだかりが出来ていた。周辺の売店で低糖のお茶を買う。中国でもペットボトルのお茶は売っているが、甘いものばかり。

駅構内に入る前にチケットのチェックがある。中に人がなだれ込まないように手すりなどで1列になるよう誘導され、係員が一人ずつチケットを確認する。

中に入ったら機械に荷物を通し、その後、待合室に入る。待合室はすでに大きな荷物を持った人たちであふれ返っていた。バスケットコートが1面取れるくらいの広さの待合室がすでにいっぱい。待合室に行くとじろじろ見られる。

発車予定時刻の30分ほど前、乗車が始まる。向かい合っているベンチの列が5本ほどあったのだが、奥の方の列
から順々にホームへと入っていく。我先にとみなが動く。ホームに入ると駆け足で車両に向かう人もいる。

車両は2階建てだった。

車両に乗り込む前に入り口でまたチケットのチェックがある。無座でも車両は指定されいるためその車両の入り口からでないと乗り込むことが出来ない。よってまた列を作って並ぶことになる。適当に並んでいたら駅員らが1列に並ぶよう指導してくる。

車内に乗り込む。みなあんなに急いでいるならさぞかし車内は込んでいるのだろうと思っていたが、意外にもたいして混雑していなかった。座席はないが荷物だけはどこかに置こうと思い、置き場所を探していると乗務員の女性が声をかけてきて、ここに置くように言う。そこは向かい掛けで4人座れる座席だったのだが、荷物置き場にするらしい。椅子の上にリュックを乗せると、その上に、さらにその上にと荷物が積み上げられていく。

通路には荷物を置かせないようで、通路に荷物を下ろしていた人を乗務員は注意し、荷を別のところに移動するように言う。そもそもいくつかの席は乗客が座る席としてではなく荷物置きとして使うことを想定していたようで、あるボックス席に座っていた人を乗務員はどかし、床に置かれていた荷物をそこへ置くように指導する。

リュックを置いてからSさんがいる車両に行ってみる。座席は埋まっているもののこちらの車両もわりと空いていた。他の旅行者から聞いていた話と他の国での体験などからてっきり足の踏み場もないくらいにごちゃごちゃしているのだろうと予想していたのだが、それが杞憂となったので気が楽になる。

列車は予定通り新彊時間の6時40分に発車。外はまだ暗い。

列車が走り出すとすぐに各ボックス席にトレイが1枚ずつ配られる。これがゴミ箱代わりらしい。とりあえずここにゴミを集めておいて、トレイがいっぱいになったら車両に備え付けられているゴミ箱に捨てる、という仕組みになっているらしい。

しばらくするとでかいやかんとバケツを持った乗務員の女性(10代後半~20代前半?)が車両をまわってくる。やかんにはお湯が入っていて、それを乗客に配って回っている。ある人は茶葉を入れたマイカップに、またある人はカップラーメンにお湯を注いでもらっている。車両に給湯器がついているというのはあったが、乗務員がお湯を注いでまわるというのは初めて見た。まさか中国でこんなサービスがあるとはと驚く。なお、このお湯を注いでまわるサービスは発車直後だけのようで、以後は各自が給湯器まで行ってお湯を補給していた。

一方、40代くらいに見える別の女性=車掌は、客席や車両の接ぎ目でたばこを吸っている男たちを注意して回る。中国語の音がただそうなだけかもしれないけれども、それにしても彼女の口調はかなりきつい。本当に親が子どもを叱るような口調で注意している。男たちは特に言い返すことはせず、黙ってたばこを消す。そして、彼女がいなくなるとまた吸い始める。

車内には音楽が流れる。歌なしのトランペットか何かの管楽器による独奏。いろいろな曲が流れるが、そのなかにランバダとKIROROのベストフレンドもあった。

壁にもたれて手帳にメモ書きをしていたら、通りすがりの男たちがわざわざのぞき込んでくる。無視してそのままメモ書きを続けていると、適当に気が済んだところで黙って去っていく。

Sさんはこっちに来てトランプを買ったようで、それを取り出し、マジックを見せてあげようと言う。彼女はトランプを手に扇子のように並べ持ち、マークをこちらに見せ、好きなカードを一枚決めてと言う。ボックス席に座っているウイグル人のおじさんやおばさんはぼくらのやり取りを適当に見ている。彼女は一定の手順を踏んでぼくが選んだカードを当てる。

そうしてデモンストレーションをした上で、彼女は隣に座っていたウイグル人のおじさんに同じマジックをしてみせようとする。おじさんに好きなカードを選んでもらい、一定の手順を踏むのだが、おじさんは何をしているのか理解できていなかったのか、あるいは意図的だったのか、彼女の質問に対して嘘をつく。つまり、この中に自分の選んだカードはあるかと聞く彼女に、実際はその中にあるにも関わらず”ない”と答える。というわけでマジックは成立せず。

彼女は気晴らしに(かどうかはわからないけど、そう見えた)席をたつ。すると彼女の席には山高帽に長い髭を蓄えた長身のおじいさんが座りこむ。そして、動かなくなってしまった。彼女が席の近くに行ってもまったく動じず。どけとも言えない彼女は、無座状態になってしまった。

座席は基本的に2人掛けなのだが、若い男たちは3人で座ったりしている。イスラムの人たちは他人同士でも関係が近いので、端(はた)から見ているとどこからどこまでが旧知の人でどこからどこまでが列車内で知り合った人なのかわからない。

新彊時間の8時を過ぎるとすっかりあたりは明るくなる。車窓から見える景色は一面の土漠。緑がない。

どういうきっかけだったか、隣の車両に座っていた絵描きの若い男がぼくらが話をしているところに入ってくる。彼の左脇には画板。彼は片言英語で話しかけてくる。そして絵を描かせてほしいというようなことを言う。そう言われたのは彼女の方で、そういうわけで彼女はそこでモデルとなる。

しかし、通路では人通りが多くて落ち着かないため彼の席へ移動。彼と同じボックスに座っている誰かが席を空け、そこにSさんが座る。彼はその向かいに座って彼女の肖像画を描き始める。すぐにまわりに人だかりができる。

その様子を見ていたら、彼の仲間らしい別の絵描きの男が声をかけてくる。というわけで、ぼくもモデルに変身。

彼が描き始めると通路を挟んで向かいの席に座っていたやはり彼らの仲間らしい女性の絵描きが画板を持ってぼくたちのボックスに移動してくる。というわけで、ぼくはそれからしばらくの間、二人に見つめられることになった。

こちらにも人だかりができる。だから絵を描いている2人以外の人からもじろじろと見つめられることとなる。

Sさんの方が先にモデル終了。出来上がった絵を見せてもらう。一筆書き的な描き方の絵で、まるっきりそっくりというわけではないが、けっこう似ている。

ぼくは見られる役が続く。

同じ車両の反対側の方からウイグルギターをかきならす音が聞こえてくる。それに合わせて歌う男の声も聞こえてくる。Sさんはそちらに行って音楽に合わせ踊ったりしていたらしい。

男の絵描きさんの方は、鉛筆の消費が早い。4Bだからというのもあるのだろうが、30分程度で研いだ芯を使い果たしてしまう。やじ馬のおじさんは絵を描いている彼の顔の前に携帯電話をかざし、絵の写真を撮ろうとする。彼は邪魔そうな顔をするが、特に文句は言わず。

先にあがったのは男の絵描きさん。出来上がるまで1時間ほどかかった。そこへさっきSさんの絵を描いた別の男の絵描きさんがやってきて、今度は彼がぼくを描きはじめる。女の絵描きさんはまだ進行中。

結局、モデルの仕事は1時間半ほど続いた。三人三様の仕上がり具合でどれも力作。最後に絵と一緒に記念撮影。

一仕事終えてまた通路に戻る。Sさんの席には相変わらずおじいさん(実は60代前半?)が座っている。

車内を見回して目に付くのはトランプゲームをしている人たち。けっこうな数の人たちがトランプゲームに興じている。やっているのは日本で言う大富豪というゲームのよう。

車内には定期的に車内販売が回ってくる。食堂車で作ったばかりらしい、本格的な弁当や麺料理もまわってくる。飲み物やお菓子やつまみを売って回っている若い男の添乗員は、どこに行っても通路に人だかりができているからいちいち退(ど)くよう言いながら売り歩いている。しかも車両は2階建てだから1つの車両で2車両ぶんの仕事がある。なかなか大変。

定期的にと言えば、床掃除も頻繁になされる。お湯を注いで回っていた乗務員の女性は、ほとんど1時間おきくらいのペースで床を掃いたり、モップで拭いたりしている。そして、その度にけっこうな量のゴミを集めてくる。

昼時になるとカップラーメンなどのにおいが車内に充満する。

洗面所では2歳くらいの子どものうんこの手伝いをしているお母さんあり。うんこは洗面所の床に直接発射。床の端には穴が開いているので、した後でそこに流しているっぽい。

アク・スーという駅で絵描きさんたちは降りていった。

新たに乗り込んできた子連れのおばさんは、ぼくが立っている近くに荷物を持ったままやってきて落ち着く。が、そこへ車掌の女性がやってきて、荷物を移動せよと注意する。車掌さんはまたボックス席をつぶして荷物置き場にする。おばさんはボストンバッグの他に荷物でパンパンになっている肥料袋を持っていた。おばさんは先にボストンバッグを移動させる。おばさんの子どもは残された肥料袋を運ぼうするが、背が低いこともあり持つことができない。

そうした様子を見ていたので、荷物を動かすの手伝おうと男の子に近づくと、男の子はぼくが近づいてくるのを見た瞬間、見事と言いたくなるくらいに驚いて、目をふるわせ大声で何をか叫び、母親の方へ駆け出す。この旅では見つめただけ、あるいは近づいただけで子どもを泣かすということを何度かしてきたが、ここまで驚かれたのは初めて。

駆けてきた息子を見て母親は何が起こったかわかっていなかったが、Sさんと同じボックスに座っていたおばさんが事の成り行きをウイグル語で母親に説明する。母親はそれを聞いて微笑む。男の子はすぐに落ち着き、苦笑いしている。Sさんも現場をしっかり見ていたようで、またいいネタができたと言って笑っていた。

ぼくは男の子の機嫌取りに手裏剣を作る。適当な紙で折っていると例のごとく通りがかりの人がのぞき込んでくる。

出来上がったものをSさん経由で男の子にプレゼントすると嬉しそうに受け取ってくれる。通りがかりの女の子が手裏剣を羨ましそうに見ていたので彼女のためにと今度は箱を折る。折っていたらすぐに通りがかりの人等に取り囲まれる。さっきの男の子もやってきて、折る様子を見ている。あげようと思っていた女の子はその男の子の後ろにいた。出来上がった箱を彼女に渡そうとすると男の子は自分へのプレゼントだと思ったらしく、男の子が取ってしまった。

男の子は嬉しそうに紙箱を手にする。そして、それを頭に乗せて”??(ウイグル語でムスリムの人がかぶる帽子のこと)”と言う。ぼくは箱を作ったのだが、彼にはイスラム帽子に見えたらしい。

Sさんが座っているボックス席の通路を挟んで向かいには、若い大学生くらいの男たちが座っていたのだが、その中の一人がぼくに今作った箱=帽子を自分にも作ってほしいと言ってくる。なのでまた作ってプレゼント。そしたら彼の友達たちはそれを解体して、その紙を使って別のものを作り出す。彼の仲間の一人がチューリップの折り紙を知っていて、それを作っていた。

ちなみにそのウイグル人の若い男はウルムチの大学に通う学生だった。外国語が専門らしい。中国語の他にロシア語がほんの少しできる。彼はテレビで覚えたらしい日本語を連発する。彼が知っている日本語は”よし”だけのようで、「よぉーし、よし、よし」などと言う。野次馬で集まっていた別のウイグル人のおじさんは”バガ”と言う。なんのことかと思ったらSさんが”バカ”って言っているのだと解説してくれる。

ぼくは中国語はまったくと言っていいほどわからないし、Sさんもぼくよりわかるもののそれほどわからないので、ときどき紙に字を書くよう頼むのだが、大学で外国語を専攻しているという彼以外には中国語をきちんと書ける人はあまりいなかった。

彼が日本語はどんな文字だと言うので、Sさんが漢字とひらがなを書いてみせるのだが、漢字を見てこれは日本語ではなくて中国語だと彼は言う。

まぁ、そんなことをしながら時間をつぶす。途中の駅で人が降りたとき適当に車内をふらついていたら空いている席をすすめてくれるおじさんがいたので、そこに座ってしばし寝たりもする。

新彊時間の21時過ぎ、Sさんが座っていたボックスに座っていたおばちゃんたちが席を移動する。なので、ぼくはようやく席にありつくことができる。やっぱり心おきなく座れるのは気分がいい。

しかし、ぼくらが何かしようとするとすぐに人だかりができたりするので、だんだんぼくは相手にするのが億劫になってくる。動物園の檻の中にいる動物たちの気持ちがわかった感じ。幸いSさんが彼らの相手をしてくれるので、ぼくは彼女に彼らの相手を任せ、本を読んだり、ボーとしたりする。

深夜をすぎると眠りにつく人たちが増えたのだが、一方で、そんなのお構いなしにギターをかきならし、歌う人々もあり。やれやれ。なんでそんなに元気なんだ?

Fin

[diary]おばさんところに遊びに行く

おばさんところに遊びに行く

2009/02/28(土) 晴れ 日中10~15℃
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=96円

※時間は新彊自治区の時間

・化粧待ち
・おばさんところへ
・書斎拝見
・ティータイム
・チケットを買いに
・失くしもの
・りーちゃんの電話


明るくなり始めた7時過ぎに起床。しばらく書きものをする。

今日はこの間会ったウイグル人のおばちゃんの家に同室の日本人旅行者たちと行くことになっていた。

おばちゃんは一日中家にいるから都合のいい時間に電話をくれるよう言っていたが、パロウ(ウイグル風ピラフ)を作ってくれると言っていたから昼前には行かなければいけない。

が、同室の人たちの動きを待たないといけないのでしばらく部屋でぶらぶら。同室の人たちが起きて準備ができるまで待つ。

11時を過ぎて宿の敷地内にある電話屋からおばさんの家に電話をする。これから向かうと伝えると了解とのこと。

3人でおばさんの家に向かう。前回お邪魔したときにおばさんが通ったのと同じルートで行くことにする。が、これがあえなく失敗。どこからどう入っていったのかわからなくなる。やっぱり人に連れられていったのでは、このように入り組んだ住宅街を一回で把握するのは難しい。

しょうがないので近くにいた若い女性(ウイグル人)に聞く。中国語で書かれた住所を見せるとこっちだと案内してくれる。しかし、しばらく行くと細かいところがわからないらしく、電話番号を教えてほしいというようなことを言う。なのでSさんのノートを見せるとそこにアラビア文字で書いてあった住所を見て、わかった!というような笑顔をしてまたすぐに歩き出す。

歩きだして100mほど行ったところにあった門の前で彼女は立ち止まり、ここだ、とニコニコしながら指さす。どこの門も似たようなものなので、ぼくは本当にここなのか確信がなかったのだが、それはいらぬお世話で、確かにおばさんの家はここだった。なかからおばさんが出てきて「遅かったですね。ずっとずっと待っていました。」と言う。時計を見ると電話をしてから1時間ちょっと経っている。迷わなければ30分足らずで来れる距離なのだが・・・。

おばさんはちょっと疲れ気味とのことでパロウ作りはやめて外食しようと言う。なのでおばさんの家族と日本人3人で近くの食堂に行き、ラグメンをご馳走になる。この間来たときもそうだったが、相変わらずここの店は繁盛していて、席はいっぱいだった。

食事後、おばさんに連れられておばさんの親戚の家に行く。

親戚の家は改装したのかタイル張りの比較的新しい家だった。母屋に通されたがちょうどおばさんのおばさんがお祈りの最中だった。

母屋は日本の古い民家のように土間のような部分があって、そこまでは靴で入り、いわゆる座敷には靴を脱いであがる。座敷の床には絨毯が敷かれていて、さらにお客が来たからと座布団に似たものが口の字型に敷かれ、真ん中にアーモンドやレーズン、クッキーなどのお菓子が置かれた。

”これがウイグル式だ”と言われ、まず一人ずつ手を洗う。洗い方は、この家のお嫁さんらしい女性が、水が入ったアラビアンナイトに出てくるような金属製のジョウロ型の容器を持ってきて、手を差し出すと2~3度水がかけられ、それで手をすすぐ。もちろん受け皿も用意されており、それもジョウロと同じく金属製の専用の容器だった。

アーモンドなどをつまみながらしばらく団欒。

その後、2階にあるおばさんのおじさん(だったっけな?いとこか?)の書斎を見てもらう。5畳程度の広さの書斎で3方の壁はすべて本棚になっていて、さらに本棚の前に台があり、そこにも本が積まれている。書籍の数は1000冊は裕にある。書籍のほとんどはアラビア文字で書かれたものだからウイグル語の本なのだろう。壁の柱にはレーニンやマルクス、エンゲルス、スターリンなどの肖像(ポスターみたいなの)が貼られている。このおじさんはウイグル語で物語を書くのが仕事のようで、今はトルコだったかの大学で先生をしているらしい。

蔵書の前でみんなで記念写真。

ごはんをごちそうになる

駅に切符を買いに

おばさんの家に。家でゲーム。自作の音楽映像。

[diary]ビザ受領、おじさんたちの正体判明

ビザ受領、おじさんたちの正体判明

2009/02/27(金) 晴れ 日中10~15℃
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=96円

※時間は自治区の時間

和田から戻ってきてカシュガル5日目。

昨日の酒のせいか、暗いうちに目が覚める。

しばらく書き物。

新彊時間の9時頃から支度をして、同室の旅行者とともに3人で公安に向かう。外はやや冷えている。気温は3~5℃くらいか。

公安に行くと昨日も会った日本語を話す女性が既に来ていた。挨拶をした瞬間「今、何時? 昨日何時に出来るって言った? 日本人は時間を守るでしょ」と軽く怒られる。昨日の話では9時に来るように言われていたのだが、すでに9時半を過ぎていたのだった。

彼女は彼女自身の手続きのことで男の職員とあれこれと話している。ぼくらは椅子にかけて待つ。

別の職員が10分もせずにパスポートを手渡してくれる。ビザのシールを確認。1ヶ月のビザが貼られてあった。デザインは中央アジアと比べるとやや地味。ここでビザ代160元(約2500円)を払う。

彼女の手続きが終わるまでしばらく待つ。ぼくは壁に貼られていた各種手続きの名前とその代金が書かれている板を眺める。台湾への渡航1次(シングルエントリー)ビザは20元、多次(マルチエントリー)ビザが100元とあった。

彼女の手続き後、事務所を出たところで少し話す。彼女が話しかけるのはぼくではなく、もっぱら同室の日本人女性旅行者の方。明日、うちに来ないかと誘われる。なので、明日行くことを約束する。料理をご馳走してくれるというので、その料理などの手伝いも兼ねてお邪魔することに。

そこで彼女とは別れ、ぼくらはアトシュバスターミナルに向かう。その途中のウイグル料理屋で朝飯。メニュー板の漢字を見て適当に注文。出てきたのは鶏肉の入ったカレー風味の汁と白飯だった。メニューに大小とあったので安い小の方を頼んだのに、結局伝わっていなかったらしく、大の値段8元取られる。

ぼくはこれに加えてマントゥ(包子:肉まんみたいなの)を注文。てっきり1個1元かと思い、2元ぶん頼んだら6個ぶんが皿に乗って出てきた。肉は羊肉。ミンチにはなっておらず、細かく切られた肉片とタマネギなどが入っている。油がなかなかすごい。

食事後、再び歩いてアトシュバスターミナルへ。

途中、たまたまアトシュに行くというタクシーが声をかけてきたので、ぼくはそこで彼女らと別れる。彼女らはアトシュへ。ぼくは国際バスターミナルに行く。

そこから歩いて20分足らずで国際バスターミナルに到着。この間、ここを使ったのでだいたいわかっていたが、改めて眺めてみるとあたりは昔ながららしい土壁の家がやはり多い。路面は舗装されていないのか、舗装されていたアスファルトが剥がれてしまったらしく、バイクや車やバイクの後ろに荷台をくっつけた馬車型バイクタクシーが土ぼこりをあげて走っていく。

その土ぼこりの巻き立つ道沿いにはパン屋が3軒ほど並んでいて、釜で焼いたパンを店の前の台に並べて売っている。ぼくがその近くの路地を写真に撮ったら、それを見ていたおばちゃんがこの子どもの写真を撮ってと仕草で伝えて来る。3~4歳くらいの男の子で、カメラを向けるとぎこちなく固まる。写した写真を見せるとその子は顔を崩して笑った。

国際バスターミナルではコルラ行きのバスを確認したかったのだが、ただの空き地みたいなこのターミナルにはそれらしきチケット売場が見あたらず収穫はゼロ。トイレとかの管理をしている女性に聞いたがぼくの中国語が伝わらず、結局何もわからないまま帰ることに。

帰り道さっきのパン屋でピザ生地のような平たい円形のナンを2枚買う。1枚1元(約15円)。直径は40cmくらいある。

それから大きな通りに出てバスに乗って人民広場へ。お金を両替市内と行けないので、中国銀行に行ったところすでに昼休みに入り、閉まっていた。

なので、近くのネット屋に行って時間つぶし。いくつかのメールに返信したり、東南アジアのビザ情報や飛行機情報を検索したり、中国の山峡ダム情報などを集めたり、膵臓炎について調べたりなどなど。円が1米ドル=90円から98円まで急激に安くなっているのに驚く。ネット代は1時間2元(約30円)。日本語のIMEはインストールされているようで、表示もされるのだが、いざ中国語から変更しようとするとなぜか使えない。

ちなみに他の人の画面をちらっと見てみるとチャットや映画を見ている人、ゲームしている人が多い。

2時間後、再び銀行へ。ここで両替する。

それからバスに乗って鉄道駅へ。このルートは運賃1.5元(約25円)。

20分ほどで駅に到着。駅の周りは閑散としていて、いくつかの食堂や商店があるだけ。本当であとから取って付けたような雰囲気の場所だった。

しかし駅舎はなかなか立派。手持ちの荷物を荷物検査の機械に通してから中に入ると正面に電光掲示板があり、1週間先くらいまでの各地へのチケットの販売状況が映し出されている。ここからウルムチだけでなく、ウルムチから上海や北京、西安などへの列車についても残りの座席数が、座席の種類ごとに表示されるのでわかりやすい。壁には各地への時刻表とそれぞれの運賃が整理されたものが張り出されている。

窓口は5つほどあったのだが、開いているのは左端の1つだけ。そこに20人くらい人が並んでいる。

ぼくは残りの座席数を示す電光掲示板を眺める。同室の日本人旅行者の話では、彼女がチケットを買った昨日の時点で今週末のぶんはだいぶ少なくなっていたと言っていたので、もう座席はほとんどないのではと思っていたのだが、土曜発は売り切れていたものの日曜発はまだ十分に空きがあった。座席の種類は無座(座席なし※なお”無”の字は日本では使っていない漢字)、硬座(日本で言う普通の座席)、硬臥(ベッドが堅い3段寝台)、軟座(ベッドがそれらしい2段寝台)とあり、硬座も無座も200席以上空きがあった。

窓口は完全に電子化されており、ここの窓口で国内各都市への列車のチケットも買えるよう。

ウルムチ方面に戻って西安に行くか成都に行くか、それとも重慶に行くか。まだ次の目的地が絞れていなかった。バスを乗り継いであちこち行こうかと思っていたが、バスが予想以上に高かったので、列車の硬座で移動した方がはるかに安い。お金を考えれば一気に列車で移動する方が安く済む。

電光掲示板を見ていると西安や成都方面の列車もまだだいぶ空きがあるようだったので、とりあえず今日はチケットは買わず、宿に戻ってからまた考えることにする。

駅近くのウイグル食堂で遅めの昼飯。料理名を知らないので適当に頼んだら前にも食べたことがある料理だった。麺ではなくラザニアに使われているような各辺が3cmほどの平たいもの。だが、上にかかるソースはラグメンと同じ。5元(約75円)。

ぼくが料理を待っている間手帳を開いてあれこれ書いていると店の女性がのぞき込んでくる。手帳を渡すと文字が珍しいようで、ページをぺらぺらめくりながら微笑む。

食事後、バスに乗って中心部に戻る。写真屋に行き、現像を頼んでいた写真を受け取る。現像代は1枚1元(約15円)。日本で言うLサイズなので、現像代は日本よりも高い。

宿に戻り、しばらく今後のルートを考えたり、書き物をしたり。

そのうち同室の日本人旅行者2人の1人が帰ってくる。聞くとこちらに戻ってきてからはぐれてしまったらしい。そのうちもう一人も帰ってくる。

同室のSさんのベッドの横にキリル文字で書き置きされた紙があった。彼女が「何これ?」と言うので読んでみると、ロシア語で”明日、バスでウルムチ。電話する”とある。主はハキムおじさん。記されていた部屋番号が昨日の部屋と違ったので、部屋を変えたのかと思い、その部屋番号の部屋に行ってみたが違う人たちがいた。

なので、フロントに行って聞いてみると、彼らはチェックアウトしたらしい。

そういえばさっき部屋の電話が鳴ったのは、おじさんからかもしれぬと思い、紙にあった電話番号にかけることにする。ロシア語での電話には自信がなかったので、同室の中国語がそこそこできる日本人を連れて、ホテルの敷地内にある電話屋に行く。

電話するとおじさんが出た。声は相変わらずハイテンション。予想通り一部の言葉しかわからず。しかもわからないまま切れる。昨日、こちらから火鍋が食べたいと言ったのでそのことだろうと思い、もう一度かけ直して宿で待っていればいいのかと言うと、そうそうと言うので部屋で待つことにする。

するとしばらくしてからドアをノックする音がして、ハキムおじさんが登場する。そして挨拶代わりに同室の日本人女性の名前を呼ぶ。相変わらずぼくの名前は覚えていないようで、ぼくの名前は呼ばれず。

おじさんはりーちゃんに電話する。彼もまた登場するらしい。りーちゃんが来るまでしばらく部屋で待つ。

各々書きものをしたりしていたため、おじさんは手持ち無沙汰。加えて部屋の照明が暗いことをあれこれ言う。確かにここの部屋は3つある部屋のうち2つの部屋の照明がダメ。暗すぎる。

しばらくしてりーちゃんが到着。フロントに降り、そこでりーちゃんと合流。りーちゃんはこの宿は良くない(不好)と言う。鼻をつまんで臭いというような仕草をする。

てっきり火鍋に連れていってくれるのかと思いきや、ハキムおじさんは腹の調子が悪いらしく、火鍋はウルムチで食べればいいと言う。ウルムチにおじさんの妹がレストランを持っているからそこで食べればいいというわけ。

飯を食ったのかとロシア語で聞くので、食べていないと言うと近くのウイグル料理店に連れていってくれる。今日は質素に定食のようなものをごちになる。一人12元(約200円)。

りーちゃんはすでに食事を済ませていたらしく、何も食べない。タバコを吸おうとするが、店内は禁煙。なので、外でタバコを吸ってくると途中で退席。

ハキムおじさんは昨日、一昨日の勢いがない。腹の調子のせいなのかりーちゃんのせいなのか。

食事後、タクシーに5人ぎゅうぎゅうで乗る。

りーちゃんの会社に行く。最初の話ではぼくらの部屋のシャワーがダメ(お湯が出ない)なので、ハキムおじさんの部屋のシャワーを借りることになっていたのだが、それが急遽変更になり、りーちゃんち(家)へとなった。後にハキムおじさんは自分の部屋は小さいからと言っていたが、タクシーに乗った後で行き先を争っているふうがあったので、おじさんたちの間で何かあったよう。

ハキムおじさんはウイグル語が多少わかるから運転手とはそちらの言葉で静かに話す。が、りーちゃんは例の勢いで行き先などを告げる。

りーちゃんはハルピンの出身のため、こちらの人の中国語と比べるとずいぶん勢いが違う。こちらの人の中国語はやさしいが、りーちゃんの中国語はいかにも中国語という感じでひとつひとつの音が強くはっきりしている。

りーちゃんにすれば普通に話しているのだろうが、こちらの中国語になれた日本人にすると、そもそもが日本語よりも勢いが強いので、さらに口調が強いように感じる。おそらくウイグル人にとっても、他の国の人にとってもそうなのでは、と思えてしまう。

言葉の勢いということで言えば、ぼくは中国語と大阪弁は似ているように思う。一度日本で電車に乗っているとき、おばちゃんが二人で話している声を聞いて中国語かなと思い、注意深く聞いてみたところ、まったくの大阪弁だった。自分でも、なぜあのときおばちゃんたちの声を聞いた瞬間に中国語と判断したのか不思議なのだが、確かにそう聞こえたのだった(なお、その時点では中国語はまったく勉強したことがなかった)。おそらく大阪弁のイントネーションと中国語のピンイン(声調)、それから大阪弁特有のはっきりした発音がそれっぽく聞こえた原因だったのだろう。日頃、大阪弁を聞き慣れている人にとってはそんなことないだろうが、そうでない人にとっては、それは中国語のように聞こえるときもあるのでは。

夜の通りはえらく派手だった。一部の通りはライトアップされているのだが、その色合いが日本で言うとパチンコ屋的。人民広場も毛沢東像も観覧車もライトアップされていた。

タクシーで走ること15分ほど。到着したのは、昼間に鉄道駅に行く途中に見たどでかい商業施設だった。ここがりーちゃんの会社だと聞いて驚く。

奥行きはわからないが、道路に面しているぶんだけでも全長100m以上ある。建物は数棟にわかれていて、一番立派なのは中心部方面にある建物。日本で言えば会館のような建物がどどんとあり、その並びに四角い4階建てくらいのコンクリートの建物が並んでいる。見た目はちょっと公営アパートっぽい。その1階部分には商店などが入っており、タクシーはその商店の前で止まる。

商店でビールやつまみなどをりーちゃんが買う。

表に並ぶ建物の裏手に従業員寮みたいなのがあり、その1室がりーちゃんの部屋だった。鉄製のドアを開けるとすぐ右手にシャワー兼トイレルームがある。床も壁もコンクリートそのまま。部屋は12畳ほどの広さであるのは机とベッドが2つとけっこう大きめのテレビだけ。本棚やタンスがないので、広い。端の方には野菜と小さなまな板、電気コンロ、炊飯器があった。聞くとここで自分で料理しているらしい。

社長だと言うからもっと豪勢な部屋かと予想していたが、田舎から出てきたばかりの学生の部屋のような雰囲気。一時期滞在するだけの部屋などにはお金をかけずに節約するというのが、慣習なのだろうか。

女性陣はシャワーをここで借りる。お湯の温度も湯量も申し分ないとうれしそうだった。りーちゃんは毎日朝と夜にシャワーを浴びていると言う。

聞くとりーちゃんも結婚しているらしく、家族はハルピンにいるらしい。だから日本で言う単身赴任のよう。3月の後半にはキルギスのオシュに行くという。

そんな話をしながらりーちゃんが大量のパスポートを出してきて見せる。数は30ほどある。それを見てようやくりーちゃんとハキムおじさんの関係が判明する。つまり、ハキムおじさんはりーちゃんの会社の従業員たちのキルギスビザの手配を代行しているということだった。

りーちゃんはウルムチには行かないと言っていたので、ハキムおじさんだけ明日ウルムチに行って、ウルムチのキルギス領事館でビザの受給手続きをし、またここに戻ってくるっぽい。

この間、一緒に食事をしたキルギスの大統領のいとこもとりーちゃんのキルギスでの仕事を円滑にするための会食だったということのよう。そもそもキルギスの大統領はオシュ出身だし、あのおじさんはジャララバード近辺のボスだと言っていたから、キルギスのいろんな面倒なことを彼らに抑えてもらうのだろう。

りーちゃんは窓辺に行って、外を指さし、あれを見ろと言う。行ってみると外には大型トラックが並んでいる。このトラックで商品を運んでいると言う。行き先はパキスタン、タジキスタン、キルギス、ウズベク、カザフなどらしい。

そういえばさっきりーちゃんの部屋に来る途中に見た建物には中国語でパキスタンなんちゃらとあったから意外と国家レベルのプロジェクトにも関係しているのかもしれない。

テレビではジャッキーチェンのコミカル映画が流れ、その後にはチベットの旅行番組が流れた。

りーちゃんたちがビールを勧めるのでいただく。ウルムチ産のビールらしい。瓶ビールは1本620ml。女性陣の一人は腹がいっぱいで飲めないと言うのだが、けっこうしつこく飲むように勧める。というか、何度も乾杯(かんべい)と言ってくるので、飲まざるを得ないような状況を作られる。

ハキムおじさんはかなり無口。りーちゃんのことが嫌いだみたいなことはこの間から仕草等々で語っていたので、腹の調子が悪いだけでなく、こういう場にいることが面白くないのかもしれない。一方のりーちゃんは上機嫌。

中国語のわからないぼくにもいろいろ話しかけてくる。中国と日本は昔戦争をしたが、今は「友好(※この言葉だけわかった)」だと仕草を交えながら言う。

こちらが言葉が不十分な人間ばかりなので、いろいろ会話を楽しむというよりも、ノリでこの場を楽しむという雰囲気。ぼく自身はそうしたノリがないから、こうしたときに他の人がいるのは助かる。

ウルムチではただビザを入手するために時間を潰さないといけないと当初は思っていて、この1週間は毎日部屋にこもってたまっている日記の始末をするんだなと思っていたが、まさかこんな展開になるとは。これもたまたま同室になった人のおかげ。どう贔屓目(ひいきめ)に見ても彼女らがいなければ、ぼくはこういう場に出会うことはなかっただろう。だいたい始まりはハキムおじさんのナンパだったのだから。

そういうことからすると、男性旅行者よりも女性旅行者の方がこうした予想外の展開に出会う確率はずっと高いのだろうと思う。もちろんそうした誘いには常に危険性がつきまとっている。日本人であることが吉と出ることもあれば、凶と出ることもある。ただ、運が良ければそれによってとても楽しい旅となる。

今回は人数がいたので、お互いにとってメリットがあった。彼女は一人では行かなかったと言うし、ぼくはそもそもそのきっかけ自体が得られなかっただろう。

新彊時間の23時頃、りーちゃんの部屋を出る。ハキムおじさんは自分のホテル前で降り、その後、ぼくらのホテルまで行く。タクシー代の5元(3人で)は自腹だった。きっと連日ぼくらのために酒を買ったりしているので、ハキムおじさんの懐もだいぶ厳しくなってきたのだろう。

宿に着く頃には、ぼくの頭はギンギンに痛み、何もできなくなる。やはり酒など飲むものではない。

部屋に戻ると電話が鳴る。出るとハキムおじさんだった。「フショー ノルマーリナ?」とだけ聞いて、電話を切る。

さらに夜中、電話の音がなる。これはSさんが対応。翌日聞いたところによるとりーちゃんからの電話だったらしい。

Fin

[diary]ビザの延長手続き、日本語を話す女性と出会う、白酒

ビザの延長手続き、日本語を話す女性と出会う、白酒

2009/02/26(木) 晴れ 日中10~15℃
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=96円

※時間は自治区の時間

和田から戻ってきてカシュガル4日目。

・Sさん再びのチェックイン
・二人で公安へビザの延長へ
・日本人男性を夫に持つウイグル人女性と遭遇
・彼女の家に招かれる
・彼女から聞いた話
・食事をごちそうになる
・本屋へ
・バスターミナルへ
・プリクラ
・写真の現像
・新たな日本人客
・3夜連続でおじさんたちと飲み会

カシュガルの色満賓館のドミトリー室。1泊30元。

まだ暗いうちに目が覚める。昨日の火鍋の会で調子に乗って辛い方のを食べたせいか、それとも鍋に入っていたニンニクを10粒ほど食べたせいか、腹の具合がおかしい。

新彊時間の7時頃、同室のSさんも起床。バタバタと支度をして彼女は宿を出ていった。

ぼくは大量にたまっている日記の始末をしなければならなかったのだが、旅にでる前に友達が贈ってくれた『文明の生態史観』に逃げる。前半部分だけだが、読んでて面白かったのが、著者が日本の人口問題を憂いていることだった。本書が書かれたのは1950年代半ばだから、後に団塊の世代と呼ばれる人たちが生まれてちょっとした頃。今や人口減少期に入っているので人口問題も増えることを憂えるよりもその逆になってしまった。そのことがなんだか面白い。

その他、日本には英語看板が少ないことに気づいたという話などは今もけっこう変わらないだろうなと思う。同じルートを通っていないので、なんとも言えないが、おそらく著者がパキスタンやインドで見た光景の中には今はだいぶ見られなくなっているだろう。洗濯物を二人で持って乾くまで待つというような仕事をしている人は今でもインドにいるのか?

と、本を読んでいたら部屋のノブがガチャガチャ言う。新たな客かと思いやさっき出ていったばかりのSさんが再びのチェックインですとか言ってやってくる。

聞くと、宿の下にはソレットおじさんはいず、自力でキルギス行きのバスが出ているバスターミナルに行ったものの国境までしか行かないと言っているのにオシュまでの運賃450元を払えと言われ、値切ったところ100元まで落ちたが、結局高くつくのでやめて戻ってきたらしい。

というわけで彼女もここでビザの延長をするというので、一緒に公安に行くことにする。前回行ったときはビザが切れる来週の月曜日に来いということだったが、週末が近いからなんとかなるかなと見込んでいた。

公安に行く前に申請に必要な宿の領収書のコピーを近くのコピー屋で取る。コピーは1枚0.3元(=3角)。

で、歩いて1本向こうの公安がある通りへ行く。

公安の入り口のすぐ手前にあるビザ延長事務所に入る。先客が2人。地元の人っぽい女性とやや地元の人にしては彫りの深い男性が一人。いずれも40~50代。

書類を取り出し、カウンターにいた女性に見せる。そこへ隣にいたおばさんから声がかかる。「日本人ですか?」と日本語でおばさんは聞いてくる。二人して驚く。こんなところで日本語を話す人に出会うとは。

おばさんが言うには、旦那さんが日本人で、日本では神戸に住んでいるらしい。

カウンターの職員は、ぼくらに中国の入国スタンプがあるページもコピーして来るように言う。こちらではパスポートの写真があるページのコピー1枚と宿のレシートのコピー1枚、それにパスポートサイズの証明写真2枚を用意していたのだが、それだけでは足りなかったよう。

おばさんは、ぼくらがコピー屋に行こうとするとすぐ近くにあるから案内してすると言って、道路を渡った向かいにあるコピー屋までついてきてくれる。そして、そこの店主にウイグル語で注文を伝えてくれる。コピーは1枚にパスポートの写真があるページと入国スタンプがあるページをコピーして、料金1元。

再び事務所へ。

先客の書類をさばくのに時間がかかっていたので、ぼくはちょっとトイレ休憩。同じ通りにあるシャワー屋も兼ねているらしい有料公衆便所で用を足す。料金0.5元(約7円)。大の方は、大人がしゃがむと頭が見えるか見えない程度の高さのしきりがあり、ドアもちゃんとついていた。ウズベクやキルギスのように各便所のしきりはあるが入り口のドアがないというタイプではない。10年近く前に聞いた話では、中国の公衆便所は、各個別の便所の入り口のドアはおろかしきりもないと聞いていたのだが、こういう大きなまちではそういう状態は改善(?)されたということか? 

一方で旅行者に聞いた話では、しゃがんだら尻に付きそうなほど糞が山盛りになっていたり、女性用便所では使用済みの生理用品が踏み場もないほど足下に散らかっていたりすると言うから、地域や便所によるのかもしれない。

事務所に戻る。Sさんの書類はすでに処理されたようで、すぐにぼくの番になった。まずは申請書に記入。名前や生年月日や国籍その他いろいろ記入欄はあったもののぼくが書くのは名前とサインの欄だけで良いと言う。他の欄は職員がぼくのパスポートを見ながら必要な情報を書き込む。職業などパスポートには記載されていない事柄についても記入する欄があったが、そこは空欄でいいらしく、特に質問されることもなかった。なお、申請用紙は漢字と英語の併記。

その書類を書いた後に写真撮影。カウンターの椅子に座って、パソコンに接続されている小型カメラで写真を撮られる。

これで手続きは終わり。受け取りは明日だという。パスポートを預けたままになるので、その引換証みたいなものをくれるのかと思ったが、それはなし。まぁ、まちでパスポートの提示を求められることはないからたいして問題ではないが。

おばさんは、自分の家に来ないかと誘ってくれる。というわけで、2日連続で二人してウイグル人の家におじゃますることにする。

おばさんの家は、ガイドブックでは旧市街と呼ばれているところにあった。一帯はウイグルの伝統的な家が並ぶところで、家々の間をくねくねと石畳の道が通っている。各家の敷地は壁で隔ていられているものの道に面した部分は一枚の壁のようにして続いている。

ときおり玄関のドアが開いているところがあるが、ドアが開いていても布生地がカーテンのようにしてぶら下がっているので、中の様子は見れなかったりする。それでも隙間などから、ドアを入るとすぐ家の中ではなく、まず中庭のようなものがあり、そこを通ってからまた家本体の玄関のドアを開けるという二段階方式になっているのが一般的であるらしいとわかる。

おばさんの家もその方式で、道に面した壁に埋め込まれているドアを開けると、まず中庭があった。中庭の広さは5m四方ほどで、一角には中央アジアなどではたまに食堂などでで見かけるベッドのような形をした家具(食堂ではベッドの上にちゃぶ台が乗っており、客は靴を脱いであがり、飯を食う。日本で言えば、食堂の座敷部屋に相当するような感じ)が置かれている。中庭と便宜上書いているが、地面は石畳なので植物などが栽培されているわけではない。こういうスペースのことを何というのだろうか?

家の本体は2階立てで、2階には中庭から階段を登ってあがる。階段も石製。昨日聞いた話では2階や3階で鶏を飼っている家もあると言っていたが、ここはそうではないよう。

ぼくらはまず家本体の居間に案内される。靴を脱ぎあがる。床にはじゅうたんが敷かれ、壁にも飾りとしてか大きな絨毯が架けられている。Sさんに言われてなるほどと思ったが、こうして壁に絨毯を架けることで部屋を暖かくする機能もありそう。なお、この家は父親がたが代々使ってきた家らしい。

座布団代わりに細長い布団がコの字型に敷かれ、座ってくださいと勧められる。間もなくして平たく円いナンとベーグルのようなナンが山盛りになって出てくる。それと一緒に薄緑色のレーズン、殻付きアーモンド、ナツメヤシが出る。ヤシの木をここらで見たことがなかったので、ナツメヤシがどこから来たものなのか聞くと、サウジアラビアからの輸入品だと言う。

彼女は自分でナンや

ちゃぶ台を置いてバザールの食堂などこと。

2階にあがる階段があり、藁などが塗り込まれた黄土色の土壁が一帯にあった。

[diary]郵便を出す、ウイグルの家を見せてもらう

郵便を出す、ウイグルの家を見せてもらう

2009/02/25(水) 晴れ 日中10~15℃
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=96円

※時間は自治区の時間

和田から戻ってきてカシュガル3日目。

午前中 8時におじさんたちと朝食(ポロウ)。新しい店の開店。太鼓とラッパ。
その後、書き物、おしゃべり、パッキング、おじさんが来るも断る
12:30 郵便局へ、カスタム担当不在
モスク周辺へ、1時間ネット、便所 腹の具合悪い
14:40 再び郵便局へ、執拗な検査、新聞送れず
15:30? ウイグル地区へ、路上の子どもたち、石炭、立ちはだかるおじさん、女性旅行者との違い、ソーミンを食べる。セリカさんがウルムチの友人に電話。タクシーでホテルに戻る。しばらく待つ。1月23日の英字新聞はアンゴラ特集、部屋で待つ。
部屋に英語を話す若い男が登場。そのすぐ後に日本語がわかるヌルブさん登場。モンゴル系のウイグル人。旧市街を案内してもらう。

彼女の経歴:ウルムチで育ち、西安師範学校で日本語を勉強。その時日本人の教員に習う。同級生は全部中国人。中国語もうまくできなかったので、中国語も同時並行で勉強する。日本語を勉強したのは2年間。現在はカシュガルの大学で教員になるための勉強中、中学・高校の政治の教員になりたいらしい。なお、卒業までには5年かかるらしい。

中国は高校までは学費無料。大学は有料。お金が払えないときは政府などからもらったり、借りたりする。同級生には路上でものを売って稼いでいる人もいる。

中華料理は基本的に食べない。理由は味が合わないから。外食するのはわりと一般的らしい。

スカーフは若い人になるとつけないのが多いらしい。つけないからと言って親と喧嘩になることはない。小さい頃はスカーフをかぶっているが、高校生ぐらいになると脱ぐという。

男も若い人では髭を生やす人は少ないらしい。男の長い髪は「ダメ」と即答。

18:00頃 宿に戻る。おじさんたちがこれから食事に行くところに出くわす。そのまま一緒に食事へ。今日は火鍋。

中国人の社長が現れる。中国語の発音が違う。ハキム、ソレット、バトル、李強(リーチャン)、Sさん、ぼく。

手元のティッシュペーパー、ビニールでパッキングされた食器、こぼしても何も言わない店員、箸をうまく使えないソレット、


タマダ

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カーシーで暇つぶしと思いきや予想外の展開

2009/02/24(火) 晴れ
[Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=93円

※時間は自治区の時間

・書き物
・郵便局下調べ
・ウイグル地区で食事
・同室の人と同宿のおじさんたちとお食事会

和田から戻ってきてカシュガル2日目。

ちょっと橋本龍太郎系の顔をしているハキムおじさんの話から
現在年齢は40代後半。中国人の母親(回族)とアラブ人の父親との間に生まれる。本人は自分は回族だと言う。しかし、酒好き。タバコは吸わない。生まれは中国だが、1962年に戦争(※おじさんは鉄砲を撃つ格好をしてドゥドゥドゥドゥドゥと言った。要確認)が勃発したため、家族でキルギスに移る。

その後はビシュケクにいた模様(※細かくは確認していない)。22歳前後の2年間は兵役でモスクワに行っていた。アフガン戦争に行ったらしいことも言う。そして、”たくさんのことを見てきた”とも。右のわき腹には弾痕があると言ってSさんに触らせてみせる。彼女によれば確かにくぼみみたいなものがあったらしい。それまでは酒を飲まなかったが、その負傷がきっかけで酒を飲むようになったらしい。

おじさんは中国の警官は「ハローシィ(よい)」と言う。だが、キルギスとカザフスタン、ウズベクスタンはダメだと言う。

おじさんが言うには、自分はロシア語は95%程度、中国語は70%程度、ウイグル語やキルギス語はそれらよりも劣る程度に理解できるらしい。

カシュガルにはコンダクターの仕事で来ているらしい。中国人のパスポートをたくさん持っていたため、そのビザ申請(おそらくキルギスへの。でも、カシュガルに領事館みたいなのがあるかどうかは不明)か何かの仕事のよう。しかし、これはあくまでも想像にすぎない。

[diary]和田からカーシーへ逆戻り

和田からカーシーへ逆戻り

2009/02/23(月) 晴れ
[和田→Kashgar:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

・行き先変更
・バスでカシュガルに戻る

朝方、まだ暗い頃、バンバンと板に何かを叩きつけるような音がして目が覚める。そういえばすぐ向かいに料理屋の調理場があったから、そこで麺か何かを打っているのかもしれないとぼーっとした頭で思いつつ、布団に入り続ける。

布団をかぶっていないと朝は肌寒いくらいだった。暖房器具(お湯を常時通しているやつ)を触ると冷たかったので、どうも暖房が機能していなかったよう。

新彊時間の7時過ぎに起きる。ルートをどうするのかの結論が出ていなかったので、ガイドブックの地図を眺めながらまたしばらく考える。そして8時前に荷物はおいたまま宿を出て近くのバスターミナルに行く。

そして、クルム行きのバスチケットを買う。160元(約2500円)。結局、クルムまで行ってウルムチかトゥルパンに行き、そこから西寧を目指すことにした。そちらの方がバスの本数が多く、時間的なロスが少ないし、途中泊まることになっても宿が多いだろうから安く済むだろうと考えてのことだった。

チケットを買った後、宿近くの食堂で朝飯。食堂にはいるとストーブの上で温められている黄色いお粥のようなものがあったので、それを指さして頼む。見た目からはかぼちゃのお粥かなと想像していたところ、味は肉の出汁がかなり効いていた。牛肉らしい。ニンニクをあげたものも入っているらしい。お粥というよりも米の粉をお湯で溶いたような触感だった。どんぶりに1杯で2元(30円)。

それから両替をしに中国銀行に行く。中国に入って以降、両替する頻度が高くなった。バスに1日乗るとすぐに3000円くらい飛ぶので、あっという間に1万円がなくなってしまう。この点についてはイランが恋しい。イランでは12時間の移動でもせいぜい600円程度だったが、ここはその2.5倍はする。

中国銀行はまちの中心部にあった。まだ朝が早いということで人通りも少ないし、店も開いていないが、ここの中心部もウルムチやカシュガルと似た雰囲気。広い車道に広い歩道、目立つ看板、四角い店並び。この地は玉(石)が名産ということでその玉屋さんがずらっと並ぶ通りもあった。

中国銀行でのレートは1米ドル=8.67元だった。ここの窓口の人も丁寧で感じはよい。横から割り込みしそうなおじさんがいたが、ちゃんとぼくの方を先に受け付けてくれたし。

両替してからまた宿に戻る。歩きながらルートのことを考えていたが、クルムルートでも西寧に金曜日までに着くかやや不安になってきた。クルムまで20時間かかるから、火曜日にクルム着で、その日のうちに行けてもウルムチ、トゥルパンまで、水曜日に列車がとれればいいが、取れなかったらバスを乗り継いで西寧まで行かないといけない。特に面倒なのはバスで移動する場合甘粛省では保険料を払わないといけないらしいこと。甘粛省ではバスのチケットを買う際には保険の加入を確認されるらしく、加入していないとチケットを売ってくれないらしい。しかもその保険が30元(約450円)もするというからバカらしい。鉄道で移動できればいいが、途中駅から乗るのは至難の業だったりすることもあるらしいし・・・ということを考え出したら、結局、カシュガルで待った方が安く、確実だという結論になる。

というわけで、行き先をカシュガルに変更。宿が安かったら今日もここに泊まっても良かったが50元(約750円)じゃ高い。

バスターミナルに行ってチケットの変更を頼むとなんと変更手数料に30元(約450円)かかると言う。1泊の宿代ほどもするとは予想外だった。高すぎる。あんたら変更って言ったってパソコンのキーボードを押すだけだろうが。それに発車直前でもないだし。まったくがめつい。とそんなふうに、30元という値段を聞いて一瞬ひるむが、ビザは安全第一というわけで涙を飲んで変更手数料を払う。やれやれ判断ミスは高くつく。

宿が許せば夕方のバスに乗ろうかと思ったが、宿のチェックアウトは新彊時間の10時というので、午前中のバスに乗ることにする。1時間後の発車。

なので気になっていたことがあったので、20分ほどネット屋に寄ってから、宿に戻って荷物をまとめてチェックアウト。バスターミナルに行く。

ゆるい荷物チェックを受け(というかスルーだったんだけど)、駐車場に泊まっていたバスに乗り込む。今回は荷物代を請求してくる輩はいなかった。

しかし、バスに乗り込んでから何か足りないことを思い出す。手荷物を確認するとガイドブックを入れた袋がない。あっ!と思い、バスを降り、さっきのネット屋に行く。ネット屋の受付に行くと受付のにいちゃんがすぐに気づき、ぼくの袋を取り出し手渡してくれる。

それから再びバスに戻ったところ、今度はMP3プレーヤーがないことに気づく。あっ!と思い、ホテルに戻る。幸い部屋は掃除中でドアが開け放たれていた。朝方でかけるときに枕の下に隠しておいたMP3プレーヤーを無事発見し、バスに戻る。

まったくカシュガルに来て腹をこわして以降、忘れ物、紛失ものばかりだ。しょうもないことで時間とカネを失う。

バスは予定通りに新彊時間の10時40分頃、発車。今回は中頃の席だった。ただ通路側だったので、後ろの方の席で空いているところに移動。

これで運転手のタバコの煙を吸わなくて済むと思っていたら、今度は後ろの客が吸い出す。頻度は少ないもののいらつく。中南米やアフリカではタバコを吸う人自体が少なかったから煙を気にすることもなかったけど、中東以降がひどい。特にイスラム圏がひどい。男の喫煙率は少なく見積もっても8割くらいはいってるんじゃなかろうか。ただ、カフカスは気にならなかったな。

今日も空は曇っているのでヒマラヤがある方を眺めてみても山の形すら見えない。

当然ながら昨日と同じく砂漠時々まち。波間をかき分けて走るボートのようにバスは上下に揺れる。今日の運転手の方がスピードを出すので、たまに腰が座席から浮くほど。そんなときには、客の一部が「おぅ!」と驚きとも非難とも聞こえるような声を出す。

砂漠の脇でトイレ休憩あり。トイレはもちろんないので、男も女も広い空の下、しゃがんで用を足す。幸い砂漠の起伏で隠れることができるので、直接見る/見られることはない。

今回は昨日よりも1時間早く10時間でカシュガルに着く。新彊時間の21時過ぎにカシュガルのまちに到着。この間も泊まった宿にバスと歩きで向かう。

ドミはまた一人で使えるだろうなと思っていたら、意外にも日本人女性旅行者が一人泊まっていた。

宿に戻った後、近くのウイグル人の店で食事。これまで食べたことのないものをと思っていたが、時間が遅いためかラグマンと餃子しかなかった。なのでラグマンと餃子を注文。ラグマンは大で4元(約60円)、餃子は10粒ほどで2元(約30円)だった。どちらも味は良い。

腹が膨れたところで宿に戻る。

宿で同室の日本人とおしゃべり。日本語でおしゃべりをするのはキルギスのビシュケク以来、約20日ぶりだ。

彼女は中国4回目らしい。聞くとあまりの物価の変動についていけない、と言う。以前来たときよりもたとえば北京の地下鉄の値段が2倍になっていたり、宿代も高くなっていたりと本当に高くなったらしい。中央アジアから来たぼくとしては食い物が特に安いなという印象だったので、そうなのだと感心する。

また人民のマナーもずいぶん良くなったらしい。以前であれば列車やバスの中では、通路で子どもは小便したり寝ころんだりするし、タバコは普通に吸っているし、ひまわりの種の食べかす(殻)などは床中にあふれているしと、まぁ、噂通りの汚さだったらしい。しかし、それが今回来てみると列車の中でタバコは数人はいないし、ひまわりの種の殻も床に捨てたりしなくなっていたという。それを聞いて、やはりオリンピック前に一度でも中国に来ておくべきだったと思う。

そんな話をべちゃべちゃして、夜中すぎに就寝。

Fin

[diary]カーシーから和田へ

カーシーから和田へ

2009/02/22(日) 晴れ
[Kashgar→和田:China]
レート:1米ドル=6.8元=91円

※時間は自治区の時間

・バスで和田へ
・砂漠ときどきまち
・たばこ臭いバス
・でこぼこ道
・ヒマラヤ見えず
・和田着

暗いうちに目覚めてしばらく書き物。

新彊時間の7時過ぎ、明るくなってきた頃に宿をでる。外はひんやりとしていた。まだ人通りは少ない。

歩いて近くのバス停に行く。そこから10番のバスに乗る。運賃1元。

バスターミナル近くで降りて、100mほど歩いてバスターミナルへ。

和田行きのチケットを買おうと窓口に行ったら、次の和田行きは新彊時間の11時発だと言う。てっきり1時間ごとくらいにあるかと思っていたし、それらしきことを書いている看板があったので、前日に時刻表を調べていなかったのが裏目に出た。しかも8時発のバスがあったものの、つい10分ほど前に発車した模様。3時間も待たねばならぬことになる。

しょうがないので11時発のチケットを買う。バスのチケット代は89.5元(約1500円)。けっこう高い。100元札を渡すと釣りが足りない。釣りが足りないと仕草で伝えると、窓口の女性はチケットを指さす。チケットを見ると2枚紙があって、1枚はバスのチケットだが、1枚は保険などと書かれてあった。その保険が3元するらしい。保険なんていらないんだけど、と思いつつ、そういう決まりになっているのかと思い、とりあえず納得する。

3時間もあるので、時間つぶしに本でも読むことにする。ビシュケクの宿で入手した『列子』を読む。漢文と書き下し文と日本語訳が書かれているためページ数のわりに内容は少ない。日本語訳だけ読んでいくとあっと言う間にページが進む。

これを読んでいると、今更ながら日本語で漢文と読んでいるものは、つまりは中国語なんだと改めて思う。だったら書き下し文なんて面倒なことを勉強させるよりも中国語を勉強させた方がすらすら読めていいんじゃないかとも。発音さえクリアできれば中国語の文法なんて英語なんかと比べればだいぶ楽だし、中国語と日本語の漢字を比較したりするだけでもなかなか楽しめたりする。漢文の授業を廃止して、中国語を!なんて思う。

『列子』の中に朝三暮四の話があったのが意外だった。その他、子どもに聞かせたりするのにちょうどいいような話も多々ある。なかなか面白い。

待合室で読んでいたらだんだんと体が冷えてきて寒くなったので、バスに移動できないか駐車場を見てみる。するとすでにバスは止まっていて乗客も数人乗り込んでいる。近くにいたおじさんにチケットを見せると間違いないようだったので、荷物を持ってバスに移動。

荷物を荷台に積むとき、その作業を手伝ってくれた男が、5元くれ、というようなことを言ってくる。そんなもんやるか、と無視したら、それ以上要求はしてこなかった。

バスのチケットには座席番号があったものの、乗り込んでみるとぼくの座席に他の人が座っていたので、関係ないのかと思い、適当なところに座る。

バスの中は暖かいかと思っていたらそうでもなかった。

しばらく本を読みながら待っていたら、新たに乗り込んできた客が自分の座席のことでなんだかんだと言い出す。そんでバス会社の人らしい人を呼んできて、その人が客のチケットをチェックし始める。こうしてみな座席を移動。ぼくは1番だったので1番前の席に行くが、窓際のはずの1番の席には2番のおじさんが座っていてぜんぜん動きそうにない。窓際がよかったが、おじさんをどかすのも面倒なので、そのまま通路側の席に座る。

バスのエンジンがかかる。

そろそろ発車かと思っていたら通路を挟んで隣に座っているわかめの男と運転手らしいおじさんが大声で言い合いを始める。言葉がわからないので、もちろんなんで言い合っているかわからず。しかし、5分ほどずっと言い合いをしていた。

そのうち収まり、バスは発車する。運転手のおじさんはたばこをくわえながらの運転。それを見た隣の若い男もたばこを吸い始めるが、客はたばこを吸ったらいけないらしく、運転手のおじさんが猛烈にその男を怒る。自分は吸いながら客にだけ注意をするという神経がわからない。運転手は交代要員でもう一人乗っていて、その人もたばこを吸うからこっちは臭くてたまらない。一応、窓を開けて吸っているが臭いが鼻につく。やれやれ、高い金払ってバスに乗っているのになんでたばこの煙を吸わされないかんのじゃ。

バスは舗装された道をとろとろ走る。なんでこんなにとろいんだというくらいとろい。検問というかチェックポイントがいくつもあり、公安と書いたボックスがあるところでいちいちバスは止まり、運転手の一人がそこに行って何やら書類を書いたりしている。

そのうちまちを過ぎて砂漠地帯にでる。砂漠の一本道。ここまで来ると多少スピードがあがるが、だがそれでもたいして速くない。

加えて舗装はされているものの表面がでこぼこしているようで、並みに向かって進むボートのようにかなり上下に揺れる。

砂漠はさらさらした砂の砂漠ではなく、どちらかと言えば土漠的。カタい。

がたがた揺れる区間があったかと思えば今度はスラッ~としたまったく平たい区間になったりする。

ヒマラヤ山脈が右手に見えるかと思っていたが、やや曇っているためか山らしきものはまったく見えず。夏だったら見えるのかな。

そうした砂漠を通った後に集落が現れる。集落といっても見える範囲の家の数からしても数千人は住んでいそうなかなり大きい集落。こうした集落に入って目立つのがロバ車とバイクと荷台をくっつけた乗り物。特にロバ車の数がぐっと増える。一方で客を乗せて走る馬車もある。ロバ車は見た感じ荷物運搬用らしいが、人を乗せて走っているのもある。

そうしたロバ車が前を走っていると、バスの運転手はそこまで鳴らさなくていいじゃないかというくらいクラクションを鳴らす。

ある集落にはビニールハウスがたくさんあった。50mくらいの長さのハウスが目算でも50棟以上ある。ただハウスの形が変わっていた。その形を単純化して言うとおおむね90°と60°と30°の角を持つ直角三角形の形をしていて、一番長い片が底辺(地面)となっている。そして、一番短い片は土で作られていて、二番目に長い片がビニールになっている。だから見た目は、土の中にビニールが張られているような印象を受ける。中で何を栽培しているかは不明。

他にもカマボコ型の普通のビニールハウスもあった。

また集落内には畑もあり。細かく畦で区切った畑が見えるが、作物はほとんど植わっていない。リンゴらしき木々を見る。また棉花畑は白いものが見えたのでそれとわかった。

バスが走る道が舗装されている他はほとんど未舗装の土道。沿道に見える家もほとんどが煉瓦を積んだものか、土壁(内部はおそらく煉瓦で表面だけ土を塗っている)のものがほとんど。長い間回収されていないようで、これで人が住んでいなければ遺跡か何かと思うんじゃないかというような家もあり。

そういう集落ではこの道の沿道がまちの中心部になっていたりするため、その辺りに行くとロバ車とその他の乗り物で渋滞になる。

またそういう集落にさしかかる度にチェックポイントがある。

そうした集落をいくつか越える。

また時折、車を降りてメッカの方向を向いてお祈りしている人たちを見る。が、このバスがそのために止まることはなかった。

時折沿道にこの先のまちの地名などを書いた看板が現れる。ガイドブックでは5~8時間とあったので、8時間近くたった頃、看板に目的地の名前が出てきたとき、もう近いなと思ったがこれが外れ。そのしばらく後に目的地までの距離を書いた看板が現れる。そこにはまだ200km近くあるとあった。がっくり。

新彊時間の19時前には日が暮れるが、まだ着かない。

結局、和田の着いたのは新彊時間の22時近くだった。11時間もかかった。

和田のバスターミナルは既に営業を終わっていたが、なかに入って明日移動する先のバスがあるか壁の時刻表などで確認しようとしたところ、中にいた係員の女性に中には入れないというようなことを言われる。が、それを無視して彼女に話しかける。明日行きたいところを告げると、そこに行くバスはないと言われる。その途中までのバスもないらしい。中国語なのではっきりわからなかったが、どうもすんなりと行きたいところにはいけそうにない。

それから宿探し。バスターミナルの前の通りには招待所の看板がいくつもあった。なので、近くのところから当たってみたが、ことごとく宿泊拒否される。しょうがないのでガイドブックに載っていた宿に行ったが30元だったのが50元に値上げされていた。他に選択肢もなさそうなので、50元であきらめる。一人部屋ではあるものの施設はしょぼい。とても50元(約750円)の価値などない。

この時間でもまだやっている屋台や食堂はあった。腹の調子がまだ完全には回復していないので、晩飯代わりにバナナを買おうかと思ったらこれが高い。1本1元(約15円)。0.5元で包子(パオズ:肉まん)を食べられるこの国にすると高い。あとで気づいたらやっぱり輸入品。それもエクアドル産だった。

宿が高いことといい、バナナが高いことといい、バスの中のタバコといい、なんだかいらついてきたので、やっぱり食堂で飯をくうことにする。牛肉麺屋があったので、そこで牛肉麺の小を頼む。5元(約75円)。日本のラーメン的で手打ちの細麺に牛のチャーシューが入っているだけ。味はよし。麺はちょっとコシがない。

ここではお茶が出なかったので、帰りがけ商店で水のペットボトルを買う。600mlが1元(約15円)。安いが「配料」という欄に「純粋水」などと一緒に「硫酸●(漢字のフォントなし)」とあるのが気になる。

部屋に戻ってからはテレビでブンデスリーガを見ながらルートを考える。予定では木曜の夜までに西寧まで行くつもりだったが、当初予定していたルートではバスの乗り換えがけっこう多いようだし、ここみたいに安い宿に泊まれないとなると出費が嵩む。これで金曜日までに西寧に着かなかったら月曜日のビザの最終期限日に延長手続きをすることになり、それがもし数日かかるとなったらオーバーステイの罰金など面倒なことになる可能性もある。できれば金曜日に延長手続きをしに行って、ダメだったら一気に香港かベトナムかラオスまで行ってしまおうかと思っていたが、どうも当初のルートでは時間もカネもけっこうかかりそうだし、ややリスクが高い。どうするか・・・。

と考えているうちに寝る。

Fin