キンバリーでダイアモンドざんまい?
08/08/25(月) 晴れ
[Kimberly→Cape Town:South Africa]
7時頃起床。やはり高級な宿は寝心地が違う、なんてことはない。やっぱりこの部屋は見るだけにして、ドミにすれば良かったなどと考える。
電気ポットに水をいれ、沸かす。ティーバッグを入れたカップにそのお湯を注ぐ。もしや朝飯付きだったりしてなどと突然思って、台所に行ったが、誰もいないし、そんな用意もされていない。昨日は宿で朝にスープを食い、電車の中でみかん2つとジャガイモ3個ほどを食っただけだったから腹が減ってきた。西アフリカではその辺の露店で飯が食えたから食い物には困らなかったのに、こっちに来てからは飯を食うにもスーパーに行ったりしないといけないから面倒だ。
さて、今日はケープタウン行きのバスをまず調べて、それから市内散策となる。ケープタウン行きのバスで今晩発のがあれば1泊ぶん浮くのでベストなのだが、あまり期待できない。
宿の人が起きてくるのを待って、部屋替えを頼む。ネットでドミがあるとみたので、もう1泊する可能性が高いため、そちらに部屋を変えたい旨を告げる。すると彼は、ドミは掃除されていないからすぐには移れないが、荷物は部屋から出してほしいと言う。なので、荷物を廊下に出すと別の部屋に荷物を置くよう案内された。
そうしてから9時頃宿を出る。宿で市内観光のパンフをもらい、それに地図が付いていたので、それを見ながらバスの予約ができるというインフォメーションに向かう。半袖シャツの上に長袖のシャツを1枚という格好で外に出てみると、けっこうひんやりしている。月曜なのに車の通りは少ない。かすかに風がふいていて、そのせいかだんだんと手が冷たくなってくる。
商店からはパンやリンゴを数個買った人が出てくる。ぼくもパンを買おうかと思い、その商店に入るが気に入るものがなく、別を探すことにする。なお、その商店の雑誌コーナーには『Farmer's Weekly』という雑誌があった。
インフォメーションまでは30分ほど。中心部ではないとは言え、予想に反しその間パン屋は一軒もなかった。途中、通った病院の前ではホットドッグを売っていたが、どうせ偽物ソーセージだから食べる気にならない。
えーっと思うような立派なCollege(大学?、中にいたのは中学生くらいだった)の敷地前を通る。建物はレンガ造りのどでかい教会のよう。敷地もサッカー場くらいはある。
歩いている歩道は舗装されていないものの幅が10mほどある。1階立ての平屋の家が並んでおり、どこも柵は低いし、有刺鉄線も防犯用の電流が流れている鉄線も張られていない。これらからするとやはりここは安全なまちのようだ。
教会がいくつかあり、Buptistだったりユダヤ教のものだったりする。
目的の通りに出るとインフォメーションはすぐにわかった。「i」と大きな文字が表の看板にある。建物はけっこう大きく小さな道の駅並。建物内に入ってみると、国内各地の観光パンフレットがそれぞれ地域別に並んでいる。インフォメーションの屋根続きでバスのチケットを扱っているエージェントがあり、そこで国内の主要なバス会社のチケットが買える。
窓口の若いでかい男性にケープタウン行きのチケットを聞くと、幸いなことに今晩発のバスがあった。値段は450ランド(約6500円)。電車であれば200ランド程度らしいからやっぱりバスは高い。しかし、それを頼む。男性が手続きをしている間に、もしやこれは高級なバスのチケットかもしれないと思い、それが一番やすいものか尋ねる。すると男性は一番安いのがいいのかと確認してくる。そうだと言って、安いのを頼むと、今度は350ランド(約4500円)のチケットが出てきた。それでも高いが、これが最安ならしょうがない。そのチケットを買う。チケット自体は330ランドほどだが、差額を手数料で取られる。
チケットは印刷機から出てくるのではなく、決まった用紙に窓口の人が必要事項を書き込むタイプ。この点は、地理やアルゼンチン、ブラジルの方が機械化が進んでいる。男性はチケットをぼくに見せながら、バス会社の名前と発射場所(インフォメーションの駐車場)、発車時刻、到着場所と到着時刻、運賃などを読み上げ確認する。非常に丁寧。
予感に反して今晩のチケットが取れたので、チェックアウトするために宿に戻る。歩くこと30分。途中、インフォメーションに行く途中に下見した商店で半斤の食パンを買う。4.2ランド(約60円)。パンは安い。
宿に戻ってチェックアウト。もしやドミトリーの掃除の最中ではないかと心配したが、朝食の後かたづけをしているところだった。男性にチェックアウトする旨を告げると、イヤな顔もせずそうかそうかと精算の手続きに入る。宿代1泊分350ランドとネット2時間分40ランドの合計390(約5000円)。バス代とあわせあっと言う間に1万円が消えていったのであった。
男性はバスの時間を尋ねてくる。夜7時と伝えると、じゃあ、荷物をここにおいて1日歩いて回ると良いと言う。ここはバスに乗るインフォメーションから遠いし、インフォメーションでも荷物を預かってくれる(これは特別サービスのよう)と言っていたので、インフォメーションまで荷物を持っていくつもりだったが、せっかくの提案なのでそうすることにする。
再びまちへ。さっき買ったパンをかじりつつ、中心部に向かう。このまちに来て驚いたのは、病院が充実していること。10階立ての比較的新しく見える病院の周りにはメディケア施設や保健センターのような建物もあり、さらにはホスピスまであった。どの建物も日本ではなかなか見ないくらいきれい。病院の入り口には道ばたでスナックや果物(青と赤の小さめのりんご、洋なし、バナナ、アボカド、みかん6種類ほど)やじゃがいもを売る人あり。小袋のポテトチップを買ってみると値段は3ランド(約40円)だった。
セシルローズの銅像の前を通り、その近くにあった酒屋に行く。水を探していたのだが、ここのは1.5リットルのペットボトルが9ランド(約150円)とやや高い。のでパス。
しばらく歩くとガソリンスタンド併設の店があったので、そこで水を買う。ここでは1.5リットルが7ランド(約90円)ほど。店主はインド系。
この辺りはCity Centerとあったので、しばらくうろつく。名前からただの官庁街を想像したのだが、違った。本当に中心街だった。ショッピングセンターが固まって3つほどあり、そこより東(鉄道駅より)に個店や銀行が並ぶ商店街がある。市庁舎の近くには郵便局があり。
またその近くにはMini Pakistanと書いたファストフード店があった。パンを食べただけでは物足りなかったので、その店に入ってみるとすでに20人ほど座れる客席はいっぱい。注文をするレジにも10人くらい並んでいる。メニューがカウンター上のプラスチックボードに書かれていたが、カレー&ライス以外は馴染みのない名前ばかりで中身が想像できない。人が多いのでここで食べるのはやめ、またぶらぶらする。
Bureau de Change(両替所)となぜかフランス語の看板を出している銀行があったので、ランドを米ドルに両替しようと行ってみたが、ここでも外国人には米ドルを売れないと言われ、断念。
そこから適当に歩いているとワゴンを改造したミニバス乗り場に出た。そこはそれまで歩いてきたところと違ってゴミが散乱し、汚れている。ワゴンは何台か止まっているものの客はほとんどいない。
その敷地内にはミニ商店街があったので、そこを見て回る。サロン(美容院)やファストフード店、八百屋などがあるが、閉まっている店の方が多い。黒人のおばちゃんがやっている食堂があったので、そこで飯を食うことにする。気が付けばもう11時を過ぎていた。
何が食べられるかと聞くとチキンとパンと言う。値段を聞くと14ランド(約200円)と言う。テーブルに座り料理を待つ。店は屋内に調理場があり、その表に客用のテーブルが3つほどあるだけの小さな店。なぜかコインゲーム機があって、それを見ると画面に日本語が流れていた。警部:う~ん、におうな。これは同じ人間の仕業かもしれない。部下:俺にはわからないですね。なぜですか? みたいな文がカチャカチャと流れる。これは1度でもここの人が遊んだことがあるのか不思議に思う。
15分ほど待って出てきた料理はなかなかのものだった。食パンの端5cmほどを器代わり(ミミの部分なので器代わりになる)にして、その中に具だくさんのチキンカレーが盛られ、その上にくり貫いたパンの白身(パンの白い部分)が蓋のように被さっている。なかなか豪快。カレーは日本で食べるカレーと味は変わらない。鶏肉は首から背骨にかての部分だったため肉があまり付いていない。紅茶が付いた。
けっこう腹一杯になり、そのミニバス乗り場を後にする。それからここキンバリーに来た目的であるダイアモンドの採掘跡地に行く。そこはThe Big Holeと呼ばれており、市内各所にある観光標識に従って行けばたどり着く。
中心部からゆっくり歩いて5~10分ほどでビッグホールに着く。ぼくはただその穴とダイアモンドに関する博物館があるだけかと思っていたが、違った。
入り口を入ると当時のまちを再現した1画があり、そこには当時使われていた建物が移築され、またさまざまな道具などもそれぞれの建物に展示されていた。ダイアモンド買い取り屋の建物からタイピング屋、散髪屋、教会、喫茶店(看板にはチョコレートやティーとあった)、図書室、食器屋、洗濯道具屋、金持ちの住宅や労働者の住宅まであった。その中にはぼくが泊まった宿の家主であったGreat Batchの設計事務所もあった。その事務所の壁には設計図が張られ、各種道具や古い本などもあった。ここまでは無料なのがすばらしい。ヨハネのゴールドリーフシティよりはるかに充実している。
博物館に入るときは入り口でセキュリティチェックを受ける。金属反応を探る棒で全身をチェックされ、さらに銃は持っていないかと聞かれる。
博物館の入り口はもう1つ先のゲート。そこから入らなければお金はとられない。建物内にはカフェとアフリカの彫り物や布地、服、本などを売っている土産物屋の他にもちろんダイアモンド屋(宝石屋)があった。
博物館の入り口で入場料を払い中に入る。料金60ランド(約900円)はちと高い。13時からガイドがビッグホールや坑道を案内してまわるというので、それまでは中の展示を見る。展示はダイアモンドが店に並ぶまでの過程を地球の活動の歴史から鉱脈(?)の探査、発掘の技術、研磨などあらゆることを紹介している。知らなかったのが、けっこう河口や海沿いでもダイヤがとれること。どこで見た地図だったか、ナミビアの南の海沿いがダイアモンド地区で立ち入り禁止となっていたのは、たぶんそのためなのだろう。
展示はもちろんキンバリーの歴史もある。またある壁には南アフリカとそれに関係するヨーロッパを中心とした世界の歴史が年表形式で紹介されている。
もちろん本物のダイアモンドの展示もあり、巨大な金庫のような中にキンバリーや各地の鉱山で取れたさまざまなダイアモンドが展示されている。掘り出されたときのままの岩石の1角となっているものもあれば、きれいにカットされたものもある。当然、警備員の見張り付き。ぼくは知らなかったが、ダイアモンドには茶色や緑、青、ピンク、オレンジ、黄色、たまに赤といったいろんな色があり、それぞれの色のダイヤも展示されている。ピンクは白とほとんど見分けが付かない。
ダイアモンドのかけらを見ているとどうしても角砂糖、あるいは金平糖(こんぺいとう)あるいはまた飴玉のかけらに見えて仕方がない。テーブルの上にこれが転がっていたらおそらく口に入れてしまうだろう。プラスチックのなかった当時ならダイアモンドは珍しいものだったかもしれないが、きれいな飴玉やプラスチックでダイアモンドもどきを作れる今となっては、それと言われなければダイアモンドなど素人には見分けが付かないだろう。そんなものが紛争の原因だったり、その資金源だったりになってしまっているのが、なんともアホらしい。
ダイアモンドの歴史ではインドで古くから王様が好んでいたことが意外だった。また、現代のダイアモンド産業が盛んな地域としてタイがあげられていたことも意外だった。また、ロスチャイルドがセシル・ローズに融資していたらしい記述もあり。あとティファニーというのがダイアモンドの名前、ひいてはそのダイアモンドを買い取った人の名前だったとは初めて知った。
13時からのツアーの参加者は、ぼくの他に白人の年輩夫婦2組のみ。まずダイアモンド発見から一大産業になるまでの過程を描いた映画を見る。驚いたのはスクリーンの大きさ。東京のミニシアターがかなわないのはもちろん、普通の映画館よりも大きい感じがした。真ん中あたりに座ったのだが、画面が大き過ぎてクラクラする。
映画で印象的だったのは地元のズールー族(だったと思う)の王もダイアモンド鉱山で働いて、作業中の事故から何人もの人を救い出したことがあったとあったこと。ただ、もちろん王だからといって特別扱いではなく、他の労働者と同じ扱いだったらしい。
その後、ビッグホールを見学。見学用のデッキというか通路から眺める。でかい! 30mほど下の水面の上をツバメに似た鳥が飛び回っている。
その後、エレベーターで10mほど潜った坑道に行く。中身はゴールドシティと似たようなものであまり新発見はなし。
最後にさっき見ていた展示コーナーに行って解散。
※The Big Hole,Kimberley
http://www.thebighole.co.za/index.html
ビッグホールを後にして、また街に行く。さっきは素通りしたショッピングセンターをそれぞれ見学。客はどこも多い。物はあふれている。茄子はしおれている。ショッピングセンターの一角には携帯電話屋、電化製品屋、スポーツ用品店などがあり、本屋もあったので見学。雑誌『Focus on Africa』というBBCが出している薄い雑誌を購入。27.95ランド(約400円)。表題は”Oil Boom-What's in it for you"だった。
それからぶらぶらしていたら古本屋があったので、そこも立ち寄る。英語とアフリカーン語それぞれの本がある。ここは見ただけ。
それからショッピングセンターの近くに図書館があったので、そこも見学。ワンフロアのみで児童用こーなーもあり。ここも英語とアフリカーン語の2言語の本が置かれている。CDやDVDの貸し出し、視聴もできる。高校生などが勉強するコーナーもあり、数人が勉強していた。
そんなこんなしているうちに17時に近くなったので宿に荷物を取りに行く。18時前にはインフォメーションに行き、そこで荷物を預けて、水を買いにスーパーに行く。18時を過ぎるともう暗くなる。その後はインフォメーション内のベンチでバスがくる時間を待つ。
バスは19時半過ぎに駐車場に入る。座席の指定は特になく、けっこう空いていたので二人ぶんの座席を確保。脚は伸ばせないものの、そこまで窮屈ではない。心配した暖房もちゃんときいていてボリビアのように寒い思いをすることはなかった。
まちなかを抜け、窓から空を見上げると文字通り満天の星。しかし、ガソリンスタンドに入ったときにバスから降りて見上げたときには車内から見えたほどは見えず。ガソリンスタンド程度の光でこれだけ見えなくなるとはと感心する。
ケツの痛みで目覚めつつもこつこつ寝る。
Fin
2008年10月29日水曜日
[diary]ヨハネからキンバリーへ
ヨハネからキンバリーへ
08/08/24(日) 晴れ
[Johannesburg→Kimberly:South Africa]
朝日がのぼった7時頃、起床。今朝もそこそこ冷えている。
昨日と同じように昨晩作ったスープを火にかけ、朝飯。ゆがいたじゃがいも1kg相当は食べきれなかったため、持参しているビニール袋に入れ、持っていくことにした。
電車は10時半発だったものの明日の電車のチケットを買うために早めに宿を出る。
車で20分程度の中央駅までの送迎代は140ランド(約2000円)。宿代は安いもののこういったカネがかかるから結局1泊3000円程度かかったことになる。
バスの中央ターミナルと鉄道の中央駅は屋根続き。同じ屋内にある。ガラス張りの鉄道のチケットオフィスに行って、明日のキンバリーからケープタウンに行くチケットを頼む。窓口の女性は出発地がキンバリーになっていることを不思議に思ったようで、何度かぼくに聞き返す。なのでここからキンバリーまでのチケットを彼女に見せ、旅程を説明すると大きくうなづいてパソコンに向かい出した。
その電車は夜19時頃キンバリーを出て、翌日の昼頃ケープタウンに着く。だから1泊分宿代が浮くし、移動費もバスより安く、しかも明日朝から夕方までキンバリーのまちを見て回れるからロスがない。完璧な旅程だなと思いつつ、彼女の返事を待つ。
パソコンを見ていた顔をこちらに向け、彼女は言った。”No space(空きがない)”。えー!やっぱり。しかも次の同じ電車は金曜発だという。それまで待てるわけがない。
というわけで電車のチケットは買えず。ここじゃ行きあたりばったりだと移動もできないし、余計にカネがかかってしまう。
1時間ほどベンチで待ち、ホームに入る。すべて屋内になっており、警備員もそこそこ張り付いているため、外部から自由に人が出入りすることはできない。ただ、屋内の電灯は少なく白熱灯のような色であるから薄暗く、そのためどこかかに悪い奴が隠れているんじゃないかと思わせ、やや気になる。
『歩き方』などに電車は危険ですすめられないとあったから、てっきり白人も乗らないような電車かと思っていたが、電車待ちしているのは白人の方が多かった。
ホームは2車線で通路を真ん中にして右と左に電車が止まっている。防犯のためなのだろう、どちらも高さ3mほどの柵が、日本で言う黄色い線の位置に設置されていて、何カ所かあるゲートは閉まっている。電車が線路に入るとゲートが開くよう。
ホームにはどちらの車線からどこに行く電車が出るのかが書かれていない。そのためどっちの電車に乗ればいいのかわからない。加えてチケットには、座席番号が書かれていない。
ホームに降りる階段をおりきったところに女性の警備員がいて、”Hello"と声をかけてくる。切符を見せてというような仕草をするから切符を見せるとそこのインフォメーションに行くよう言われる。
ホームには円柱形のインフォメーションがあった。そこのおじさんにどっちの電車かと聞く。するとおじさんは冊子をパラパラとめくり、ぼくのチケットに「5G」と書いて、まだ電車はホームに入っていないが右側の車線に入ってくると説明する。
しばらくベンチで待つ。
電車が入ってきたのは出発予定時刻の10分前。車体はピンクと緑の線でデザインされているが、あまりかっこよくない。寝台車両がほとんどで食堂車もついている。
荷物を背負い、高さ3mほどある柵の格子状の「5G」、つまり5両目のG室に行くとすでに白髪の男性が窓際に座っていた。ハロウーと挨拶をする。
部屋は日本で言うB寝台のようなスタイルで2段ベッドが2つ。窓際のベッドとベッドの間には60cm四方ほどのテーブルが備え付けられている。驚いたのはそのテーブルの下が小さな洗面所になっていたこと。こんなのは初めて見た。また、内側からは鍵がかけられるようになっている。車両の端にはトイレとシャワー室、冷水機があり。
ファーストクラスというので、てっきり1人部屋かと思っていたので当てが外れる。電車の中で書き物をしようと思っていたが、それはヤメにする。
予定時刻の10時半になったが、電車は出ない。おじいさんは、時計を指さしながらだいぶ遅れそうだと英語で言う。ぼくがおじいさんに行き先を尋ねるとケープタウンまで行くという。おじいさんはぼくにどこから来たのかと聞いてくる。日本からと言うと、おじいさんは広島と長崎の名前を出し、原爆の話をする。アメリカは原爆を実際にテストしてみたいということで、広島と長崎に落とした。なんてひどいことを("It's terrible")。アメリカは原爆を使用した唯一の国。まったく信じられない。というようなことを言う。
ぼくが今も原爆症で苦しんでいる年寄りがたくさんいると彼に言うと、”Still"とちょっと驚いたように言う。
それからおじいさんは、あなたは英語がよくできる、とぼくを褒める。しかしぼくからすれば、おじいさんの英語の発音が聞き取りやすく、話すスピードも遅いため、理解しやすかっただけのことだった。相変わらずしゃべるのはつっかかりながらだし。
おじいさんに南アフリカで生まれたのかと聞くと、自分は南アフリカで生まれたが、両親はイギリスから来たという。キンバリーとケープタウンの間にあるリッチモンドという地で生まれ育ち、その後、家族でケープタウンに移る。彼はその後、仕事のためにヨハネに行ったという。
おしゃべりしていたら隣のおじさんがおじいさんに話しかける。英語ではない。二人の会話が終わった後におじいさんに何語を話していたのかと尋ねると「アフリカーン」だと言う。一般にオランダ系移民=ボーア人が話す言葉だとアフリカーン。アパルトヘイト時代には突然、学校の授業がアフリカーンのみで行われることになり、それが中・高校生の反アパルトヘイト運動に火をつけた。
おじいさんにアフリカーンは学校で習ったのかと尋ねると、学校でも習ったし、まわりにしゃべる人がいたからと言う。
おじいさんにいくつの言語をしゃべれるのかと聞いたら、英語とアフリカーンの2つだという。日本語も話したいが難しいと言い、さらにユダヤの言葉であるヘブライ語も話したいと言う。
なぜヘブライなのかと聞くと、ヘブライ語で聖書を読みたいかららしい。おじいさんは、聖書を知っているかと聞いてくる。中身は知らないけど知っていると答えると、聖書は神が人間に与えたものだが、神が与えたのは1つ限り。しかし、人間はそれを2つに分けた。1つはキリスト教となり、もう一つはユダヤ教となった。そのことが今、いろいろな問題を引き起こしている。それぞれの聖書に書かれていることはほとんど同じだし、そもそもは一つのものだ。神の言葉は1つなのに、人間がそれを2つに分けた。それが問題。だから自分はすべての教会は窓から捨ててしまえばいいと思っている。
そういうこともあり、自分はヘブライ語で聖書を読んでみたいと思っている。なぜなら英語版のユダヤ教の聖書もあるが、きっと翻訳者が意味を変えているだろうから。
おじいさんはだいたいこのようなことを言った。まったく同感。だから宗教は当てにならないと思うと思うのだが、それは言えない。仏教も同じように大乗仏教だの小乗仏教だのとあれこれぐちゃぐちゃになって、スリランカではそれがひとつの問題になっているというようなことを言いたかったが、単語が思いつかず。
電車は11時前に発車。もっと遅れるかと思っていたので、ちょっと安心した。キンバリー着は18時半となっていたので、あんまり遅くなると現地での移動が面倒になるなと思っていたから。
走り出したら5分もせずに止まってしまう。しかし、それほど停車することなく、また走り始める。ヨハネのまちなかを抜ければ近代的な建物は何一つ見えなくなる。窓からはレンガづくりの1軒家が立ち並ぶ住宅街や黒人やカラード、アジアンの居住区として作られたらしい地区が見える。居住区の建物は、コンクリート造りの家もあるが、トタンを張り合わせて作った家も半分くらいある。
強制移住による居住地の隔離政策は、そこが暮らしの場になるだけに誰にでも見える形で残り、かつ容易にはなくならない。
1時間近く走るとあたり一面が平原になる。枯れて白くなった草地にポツポツと木が生えているだけ。右も左も地平線。起伏もほとんどない。
ときどきマインダンプ(鉱石を採掘するときに掘り出した土が山のようになっているところ)が現れる。
ぼくは眠くなり、うつらうつらと居眠り。
ずっとそんな調子で変わり映えのしない景色が最後まで続いた。
夕方18時前に、日が暮れる。キンバリーの宿は予約していないから歩いて探さないといけないのだが、暗くなっていく外を見ながらやはり予約をしておけば良かったなどと思う。
18時前、進行方向右手にオレンジ色の明かりがたくさん見える。おじいさんはあれがキンバリーだと言う。電車の速度が遅くなり、19時頃キンバリーの駅に到着。おじいさんによい旅をと言われ、握手をして別れる。
キンバリーの駅舎は小さかった。改札を出ると右側に待合室があり30人くらいが電車待ちをしている。電車待ちをしているのは黒人ばかり。
宿に直接行かずに電話して空きを確認した方がいいなと思い、公衆電話から宿に電話する。が、悪い予感のとおり満室だと言われる。ゲゲッと思い、その宿の人に安い宿を教えてもらう。
そんでその名前を元に表でタクシーを拾おうと思ったら、駅前にはタクシーは一台もなかった。迎えを待っているらしい女性にタクシーはどこで乗れるのだと聞くと、どこに行きたいのかと聞かれる。なので、宿の名前を言うが、電話番号がわかれば電話してくれるとのことで、それがわからないから事は進展せず。ただ、電話番号案内をしている電話番号は教えてくれたから、そこで宿の電話番号を尋ねることにする。
電話はコイン式とカード式があり、コインは大きなコインを入れると戻ってこない。さっき釣り銭が出てくるだろうと思って5ランド(約80円)のコインを使ったら出てこなかった。おかげで手持ちのコインがなくなったため駅の窓口で両替してもらう。
10ランド(約140円)札を2ランドコイン5枚にしてくれ、それを持って公衆電話に行く。電話がつながり、宿の名前Great Batch hotelの番号を知りたいというと2度ほど名前を聞き返された後に番号を教えてくれる。だが、声が聞き取りづらくその番号が正しいか自信がない。それで、その番号にかけてみたら通話中のような音になる。
3度ほど電話したが、同じ調子。つながらない。しょうがないので安宿はあきらめ、ロンプラに載っている40ドルほどするやや高めのホテルに電話する。すると今度はこの番号はMTN(電話会社の名前)ではカバーしていないと女性の機械的な声が告げる。
安宿の番号を番号案内で聞き直すのにまたお金を使う気にはなれず(正確に聞き取れると思えなかった)、直接ちょっと高めの宿に行くことにする。その宿はまちの中心にあり、誰でも知っているであろうからタクシーに乗りさえすればたどり着けると判断した。
それでまた駅舎の表に出て、迎えを待っているらしいさっきとは別の女性にサヴォイホテルまでタクシーで行きたいんだがと聞いてみる。するとその女性は、近いからタクシーに載る必要はないと言う。そこの道をまっすぐ行って(straight downと言った)、ロボット(と彼女は言った)が見えたら右に曲がり、それをまっすぐ行ってるとホテルが見えると言う。
暗い中、しかも店も車の交通量も少ない中、知らない街を荷物を背負って歩くのはちと不安ではあったが、本当に危険な街では地元の人は歩くのは危険と教えてくれるから、ここは大丈夫なのだろうと思い、おばさんに教えられた道を行く。
10分ほど歩くと1軒だけ開いている店があり、その店に入ろうとした男性がいたので、その人に道を確認。そのおじさんはまっすぐ行けとだけ言う。
街灯はあるもの暗い。車のショールームは昼間と同じくらい明るく、そこを通るときだけなんだか安心する。歩いているのを見たのはこれまでのところ2人だけ。
歩いていたら紹介された安宿の方向を示す看板があった。なので、急遽サヴォイホテルはやめ、そちらに行くことにする。方向を指示する看板に従って行くが、これがなかなか見あたらない。そのうち歩き方に載っていた高級ホテルの前に着いたので、そこの警備員の人に聞いてみる。するとその人は「Just two」と言って、2つ交差点を越えれば着くと仕草混じりで言う。
2つなら近いと思い、また歩く。しかし、その2つまで来たはずなのにそれらしき宿はない。看板もさっき見たっきり立っていない。駅からここまで30分は歩いただろう。空気はひんやりしているもののすでに背中は汗をだいぶかいている。その汗は歩いてきたからだけでなく、このままでは宿が見つけられないかもしれない、あるいは1万円以上するさっきのホテルに泊まるしかないかもしれないという焦りによるものででもあった。
人が出入りしている病院があったので、そこの入り口にいた黒人の警備員に聞く。すると彼は表でたばこを吸っていた白人の職員二人を指さしあっちに聞けというようなことを聞く。たばこを吸っていた男女に宿の名前を伝え、ここらにあるはずだがと聞くが、宿の名前を繰り返しつぶやくだけで、宿自体を知らないようだった。
男性の方が、来た道を戻ってどっかを曲がるとゲストハウスがあるからそこに行けばというようなことを言うが、ぼくには彼の英語が半分程度しかわからない。列車で一緒だったおじいさんとはだいぶ違い、別の言葉かと思うくらい訛がある。
なので、これは何度聞き返しても聞き取れないと思い、さっき看板があってこっちだと示したと言って、教えてくれたことは無視してとりあえず歩いてみる。するとホテルから10mほど行ったところに表がライトアップされた家があった。そこだけずいぶん明るく、看板を見るとB&B(Bed&Breskfast)とある。きれいな建物だったが、1階立てのこじんまりしたものだったのでここならB&Bだし安いだろうと思い、玄関まで行く。
なんだかんだで宿が見つかって良かったと思いながら玄関のブザーを押す。玄関のドアの上部のガラスから光が漏れているから中に人がいるはずなのだが、これが何度ブザーを鳴らしても中から人の気配がしない。ブザーが壊れているのかと思い、音が鳴っているかじっと耳をそばだてて聞いてみると、確かにブザーの音はしている。5分ほどブザーを鳴らしながら待ったが、誰も出てこない。夜の一定の時刻を過ぎるとブザーを鳴らされても対応しないという宿はけっこうあるので、その類かと思うがまだ時刻は20時前。
しょうがないので、そこは諦める。またさっきの宿探しを始める。近くの路上にちょうど来客を見送っている家族がいたので、そこのパパに聞いてみるが知らないと言われる。
大きな通り沿いには営業しているパブがあって、そのパブに来る客の車を警備しているおじさんが歩道にいた。なので、そのおじさんに行きたい宿の名前を伝える。が、やはり知らないよう。が、そこへ一人男性が歩いてくる。おじさんはその男性に宿の名前を言い、場所を聞く。やりとりは英語ではなくアフリカーンだから何をしゃべっているかはわからなかったが、その男性はすらすらと答えているから場所を知っているようだった。
おじさんがその男性と一緒に行けというので、彼と一緒に歩く。なぜか彼はそこそこ広い歩道があるのに、車道の端を堂々と歩く。何も話しかけてはこない。なので無言で彼の横に並んで歩く。
そして、そのパブから100mほど行った先の信号機を左に行ったところに目指していたGreat Batch Guest Houseはあった。煌々と看板が光っており、そこにその名前が書かれいて、ひげのおじさんの古い白黒写真も載っている。どうもGreat Batchというのは、そのおじさんの名前らしい。宿は発見したものの気になるのが、看板に星が3つあったこと。これは10米ドルや20米ドルじゃすまいなと思いつつ、しかしまた宿探しをする気にはなれないので、とりあえず表のブザーを鳴らす。10秒ほどして男性の声が下ので、部屋があるかを聞くとあると言う。
男性は中の建物から出てきて、リモコンで2mほどの高さの格子状の門を開ける。30代前半くらいの白人男性で身長は190cmほどある。彼はにこっとして「You are looking for single room?」と聞いてくる。そのときぼくはこの宿にドミがあることを知らず、西アフリカのノリ(西アフリカではドミはほとんどなく、安いのはシングルルームだった)で、「Yes」と答える。
建物は洋風の木造建築で、入り口のドアを開けると壁には100年くらい前のこのまちの白黒写真が額縁に入れられ飾られてあった。白い壁の廊下は香水の香りがする。
部屋に案内され、入るとこれまた驚く。大きめのベッドが二つあり、落ち着いた茶色の布団はつやつやとテカっている。そのベッドの上にはこれまた茶色のバスタオルと小瓶に入ったシャンプーとリンス、小型の石鹸があった。また、壁沿いの棚には電気ポットと水の入った1リットルほどの瓶、ティーカップ、瓶に入った紅茶のティーバッグ、ネスカフェの棒状のコーヒー粉、砂糖などもあった。あと小型冷蔵庫も空り、その中にはきちんとペットボトルや瓶の飲み物が入っていた。この時点で5000円はするなと悟る。
部屋に荷物を置くと風呂やその他宿内を案内してくれる。部屋の向かいに風呂があり、そこもまた驚く。9畳ほどの広さがあり、左奥にはガラスドアに仕切られたシャワールーム、右の壁沿いには180cmはある広い湯船、あと水洗トイレがあり、脚拭きようのタオルや香水のような小瓶などがおかれ、自分には縁遠い世界の雰囲気を醸し出している。
部屋の隣はテレビルームで大型テレビと革張りのソファ、木製の本棚があり、その隣はバーになっていて、ビリヤードの台と小さなバーカウンター、それからインターネットができるパソコンが1台あった。また、台所や食事をする部屋も案内されるが、どこも広い(9畳以上はある)。食堂なんかはどこかのちょっとしたレストランかと思えるくらいきれい。
あまりの豪華さ(と言ってもきらびやかと言うわけではなく、落ち着いたヨーロッパふうの豪華さ)に、ちょっと後悔しつつ、疎外感を感じつつ、まぁ、ここはダイアモンドのまちだし、記念にいいかと自分を納得させる。
料金は一泊350ランド(約4500円)。大幅な予算オーバー(予算は80~100ランド)。しかし、日本ではもちろんこんな値段で泊まれるところではない。日本でなら15000円は堅いだろう。というふうな計算を用いるとぼくの予算はあっと言う間になくなるのだが、こういうときに自分を納得させる論理としては使える。というか、そういうふうに納得するしかない。
一通り宿の施設を案内された後、ぼくはネットをする。てっきりネットはタダだろうと思っていたのだが、翌日料金を請求される。1時間20ランド(約250円)は、南アフリカではそこそこだが西アフリカと比べれば2.5~5倍の値段。せっかくなので、写真のデータのバックアップとネットへのアップロードもしようと思ったが、アップロードはバージョンが古いようでできず。スピードはADSLなどと変わらないくらい速い。日本語も読める。
ネットで宿のホームページを見て料金を見るとドミトリーがあることを発見。88ランド(約1200円)とある。本来ならこっちに泊まるはずなのだが、今更部屋を変えるのもなんだかなと思い、動かず。
しばらくネットをやって部屋に戻る。どうもぼく以外には客がいないようで、他の部屋はとても静か。部屋に戻ってベッドとベッドの間にある棚(ではないんだけど、なんて呼ぶのかわからないので便宜上棚と言うことにする)にあった数冊の雑誌をパラパラ見る。その中にファイルが一冊あったので、それを見るとこの部屋の名前になっている人に関する資料だった。長ったらしい名前のこの人は、建築家でなんだかんだの建物を設計したとかと書かれてある。英語なのであまり読む気になれず。それくらいしかわからなかったが、どうもこの宿はGreat Batchというこの地の建築家の家を改装したもので、壁に掛けられている白黒の写真は彼が設計した当地にある建物の数々で、各部屋の名前は書れと同じようにこの地で活躍した建築家から取られているらしいことがわかる。
テレビも部屋にはあったが、さっきネットを見たらオリンピックは終わったとあったので、特に見る気にもなれず、ふかふかのベッドでさっさと寝るのであった。
Fin
08/08/24(日) 晴れ
[Johannesburg→Kimberly:South Africa]
朝日がのぼった7時頃、起床。今朝もそこそこ冷えている。
昨日と同じように昨晩作ったスープを火にかけ、朝飯。ゆがいたじゃがいも1kg相当は食べきれなかったため、持参しているビニール袋に入れ、持っていくことにした。
電車は10時半発だったものの明日の電車のチケットを買うために早めに宿を出る。
車で20分程度の中央駅までの送迎代は140ランド(約2000円)。宿代は安いもののこういったカネがかかるから結局1泊3000円程度かかったことになる。
バスの中央ターミナルと鉄道の中央駅は屋根続き。同じ屋内にある。ガラス張りの鉄道のチケットオフィスに行って、明日のキンバリーからケープタウンに行くチケットを頼む。窓口の女性は出発地がキンバリーになっていることを不思議に思ったようで、何度かぼくに聞き返す。なのでここからキンバリーまでのチケットを彼女に見せ、旅程を説明すると大きくうなづいてパソコンに向かい出した。
その電車は夜19時頃キンバリーを出て、翌日の昼頃ケープタウンに着く。だから1泊分宿代が浮くし、移動費もバスより安く、しかも明日朝から夕方までキンバリーのまちを見て回れるからロスがない。完璧な旅程だなと思いつつ、彼女の返事を待つ。
パソコンを見ていた顔をこちらに向け、彼女は言った。”No space(空きがない)”。えー!やっぱり。しかも次の同じ電車は金曜発だという。それまで待てるわけがない。
というわけで電車のチケットは買えず。ここじゃ行きあたりばったりだと移動もできないし、余計にカネがかかってしまう。
1時間ほどベンチで待ち、ホームに入る。すべて屋内になっており、警備員もそこそこ張り付いているため、外部から自由に人が出入りすることはできない。ただ、屋内の電灯は少なく白熱灯のような色であるから薄暗く、そのためどこかかに悪い奴が隠れているんじゃないかと思わせ、やや気になる。
『歩き方』などに電車は危険ですすめられないとあったから、てっきり白人も乗らないような電車かと思っていたが、電車待ちしているのは白人の方が多かった。
ホームは2車線で通路を真ん中にして右と左に電車が止まっている。防犯のためなのだろう、どちらも高さ3mほどの柵が、日本で言う黄色い線の位置に設置されていて、何カ所かあるゲートは閉まっている。電車が線路に入るとゲートが開くよう。
ホームにはどちらの車線からどこに行く電車が出るのかが書かれていない。そのためどっちの電車に乗ればいいのかわからない。加えてチケットには、座席番号が書かれていない。
ホームに降りる階段をおりきったところに女性の警備員がいて、”Hello"と声をかけてくる。切符を見せてというような仕草をするから切符を見せるとそこのインフォメーションに行くよう言われる。
ホームには円柱形のインフォメーションがあった。そこのおじさんにどっちの電車かと聞く。するとおじさんは冊子をパラパラとめくり、ぼくのチケットに「5G」と書いて、まだ電車はホームに入っていないが右側の車線に入ってくると説明する。
しばらくベンチで待つ。
電車が入ってきたのは出発予定時刻の10分前。車体はピンクと緑の線でデザインされているが、あまりかっこよくない。寝台車両がほとんどで食堂車もついている。
荷物を背負い、高さ3mほどある柵の格子状の「5G」、つまり5両目のG室に行くとすでに白髪の男性が窓際に座っていた。ハロウーと挨拶をする。
部屋は日本で言うB寝台のようなスタイルで2段ベッドが2つ。窓際のベッドとベッドの間には60cm四方ほどのテーブルが備え付けられている。驚いたのはそのテーブルの下が小さな洗面所になっていたこと。こんなのは初めて見た。また、内側からは鍵がかけられるようになっている。車両の端にはトイレとシャワー室、冷水機があり。
ファーストクラスというので、てっきり1人部屋かと思っていたので当てが外れる。電車の中で書き物をしようと思っていたが、それはヤメにする。
予定時刻の10時半になったが、電車は出ない。おじいさんは、時計を指さしながらだいぶ遅れそうだと英語で言う。ぼくがおじいさんに行き先を尋ねるとケープタウンまで行くという。おじいさんはぼくにどこから来たのかと聞いてくる。日本からと言うと、おじいさんは広島と長崎の名前を出し、原爆の話をする。アメリカは原爆を実際にテストしてみたいということで、広島と長崎に落とした。なんてひどいことを("It's terrible")。アメリカは原爆を使用した唯一の国。まったく信じられない。というようなことを言う。
ぼくが今も原爆症で苦しんでいる年寄りがたくさんいると彼に言うと、”Still"とちょっと驚いたように言う。
それからおじいさんは、あなたは英語がよくできる、とぼくを褒める。しかしぼくからすれば、おじいさんの英語の発音が聞き取りやすく、話すスピードも遅いため、理解しやすかっただけのことだった。相変わらずしゃべるのはつっかかりながらだし。
おじいさんに南アフリカで生まれたのかと聞くと、自分は南アフリカで生まれたが、両親はイギリスから来たという。キンバリーとケープタウンの間にあるリッチモンドという地で生まれ育ち、その後、家族でケープタウンに移る。彼はその後、仕事のためにヨハネに行ったという。
おしゃべりしていたら隣のおじさんがおじいさんに話しかける。英語ではない。二人の会話が終わった後におじいさんに何語を話していたのかと尋ねると「アフリカーン」だと言う。一般にオランダ系移民=ボーア人が話す言葉だとアフリカーン。アパルトヘイト時代には突然、学校の授業がアフリカーンのみで行われることになり、それが中・高校生の反アパルトヘイト運動に火をつけた。
おじいさんにアフリカーンは学校で習ったのかと尋ねると、学校でも習ったし、まわりにしゃべる人がいたからと言う。
おじいさんにいくつの言語をしゃべれるのかと聞いたら、英語とアフリカーンの2つだという。日本語も話したいが難しいと言い、さらにユダヤの言葉であるヘブライ語も話したいと言う。
なぜヘブライなのかと聞くと、ヘブライ語で聖書を読みたいかららしい。おじいさんは、聖書を知っているかと聞いてくる。中身は知らないけど知っていると答えると、聖書は神が人間に与えたものだが、神が与えたのは1つ限り。しかし、人間はそれを2つに分けた。1つはキリスト教となり、もう一つはユダヤ教となった。そのことが今、いろいろな問題を引き起こしている。それぞれの聖書に書かれていることはほとんど同じだし、そもそもは一つのものだ。神の言葉は1つなのに、人間がそれを2つに分けた。それが問題。だから自分はすべての教会は窓から捨ててしまえばいいと思っている。
そういうこともあり、自分はヘブライ語で聖書を読んでみたいと思っている。なぜなら英語版のユダヤ教の聖書もあるが、きっと翻訳者が意味を変えているだろうから。
おじいさんはだいたいこのようなことを言った。まったく同感。だから宗教は当てにならないと思うと思うのだが、それは言えない。仏教も同じように大乗仏教だの小乗仏教だのとあれこれぐちゃぐちゃになって、スリランカではそれがひとつの問題になっているというようなことを言いたかったが、単語が思いつかず。
電車は11時前に発車。もっと遅れるかと思っていたので、ちょっと安心した。キンバリー着は18時半となっていたので、あんまり遅くなると現地での移動が面倒になるなと思っていたから。
走り出したら5分もせずに止まってしまう。しかし、それほど停車することなく、また走り始める。ヨハネのまちなかを抜ければ近代的な建物は何一つ見えなくなる。窓からはレンガづくりの1軒家が立ち並ぶ住宅街や黒人やカラード、アジアンの居住区として作られたらしい地区が見える。居住区の建物は、コンクリート造りの家もあるが、トタンを張り合わせて作った家も半分くらいある。
強制移住による居住地の隔離政策は、そこが暮らしの場になるだけに誰にでも見える形で残り、かつ容易にはなくならない。
1時間近く走るとあたり一面が平原になる。枯れて白くなった草地にポツポツと木が生えているだけ。右も左も地平線。起伏もほとんどない。
ときどきマインダンプ(鉱石を採掘するときに掘り出した土が山のようになっているところ)が現れる。
ぼくは眠くなり、うつらうつらと居眠り。
ずっとそんな調子で変わり映えのしない景色が最後まで続いた。
夕方18時前に、日が暮れる。キンバリーの宿は予約していないから歩いて探さないといけないのだが、暗くなっていく外を見ながらやはり予約をしておけば良かったなどと思う。
18時前、進行方向右手にオレンジ色の明かりがたくさん見える。おじいさんはあれがキンバリーだと言う。電車の速度が遅くなり、19時頃キンバリーの駅に到着。おじいさんによい旅をと言われ、握手をして別れる。
キンバリーの駅舎は小さかった。改札を出ると右側に待合室があり30人くらいが電車待ちをしている。電車待ちをしているのは黒人ばかり。
宿に直接行かずに電話して空きを確認した方がいいなと思い、公衆電話から宿に電話する。が、悪い予感のとおり満室だと言われる。ゲゲッと思い、その宿の人に安い宿を教えてもらう。
そんでその名前を元に表でタクシーを拾おうと思ったら、駅前にはタクシーは一台もなかった。迎えを待っているらしい女性にタクシーはどこで乗れるのだと聞くと、どこに行きたいのかと聞かれる。なので、宿の名前を言うが、電話番号がわかれば電話してくれるとのことで、それがわからないから事は進展せず。ただ、電話番号案内をしている電話番号は教えてくれたから、そこで宿の電話番号を尋ねることにする。
電話はコイン式とカード式があり、コインは大きなコインを入れると戻ってこない。さっき釣り銭が出てくるだろうと思って5ランド(約80円)のコインを使ったら出てこなかった。おかげで手持ちのコインがなくなったため駅の窓口で両替してもらう。
10ランド(約140円)札を2ランドコイン5枚にしてくれ、それを持って公衆電話に行く。電話がつながり、宿の名前Great Batch hotelの番号を知りたいというと2度ほど名前を聞き返された後に番号を教えてくれる。だが、声が聞き取りづらくその番号が正しいか自信がない。それで、その番号にかけてみたら通話中のような音になる。
3度ほど電話したが、同じ調子。つながらない。しょうがないので安宿はあきらめ、ロンプラに載っている40ドルほどするやや高めのホテルに電話する。すると今度はこの番号はMTN(電話会社の名前)ではカバーしていないと女性の機械的な声が告げる。
安宿の番号を番号案内で聞き直すのにまたお金を使う気にはなれず(正確に聞き取れると思えなかった)、直接ちょっと高めの宿に行くことにする。その宿はまちの中心にあり、誰でも知っているであろうからタクシーに乗りさえすればたどり着けると判断した。
それでまた駅舎の表に出て、迎えを待っているらしいさっきとは別の女性にサヴォイホテルまでタクシーで行きたいんだがと聞いてみる。するとその女性は、近いからタクシーに載る必要はないと言う。そこの道をまっすぐ行って(straight downと言った)、ロボット(と彼女は言った)が見えたら右に曲がり、それをまっすぐ行ってるとホテルが見えると言う。
暗い中、しかも店も車の交通量も少ない中、知らない街を荷物を背負って歩くのはちと不安ではあったが、本当に危険な街では地元の人は歩くのは危険と教えてくれるから、ここは大丈夫なのだろうと思い、おばさんに教えられた道を行く。
10分ほど歩くと1軒だけ開いている店があり、その店に入ろうとした男性がいたので、その人に道を確認。そのおじさんはまっすぐ行けとだけ言う。
街灯はあるもの暗い。車のショールームは昼間と同じくらい明るく、そこを通るときだけなんだか安心する。歩いているのを見たのはこれまでのところ2人だけ。
歩いていたら紹介された安宿の方向を示す看板があった。なので、急遽サヴォイホテルはやめ、そちらに行くことにする。方向を指示する看板に従って行くが、これがなかなか見あたらない。そのうち歩き方に載っていた高級ホテルの前に着いたので、そこの警備員の人に聞いてみる。するとその人は「Just two」と言って、2つ交差点を越えれば着くと仕草混じりで言う。
2つなら近いと思い、また歩く。しかし、その2つまで来たはずなのにそれらしき宿はない。看板もさっき見たっきり立っていない。駅からここまで30分は歩いただろう。空気はひんやりしているもののすでに背中は汗をだいぶかいている。その汗は歩いてきたからだけでなく、このままでは宿が見つけられないかもしれない、あるいは1万円以上するさっきのホテルに泊まるしかないかもしれないという焦りによるものででもあった。
人が出入りしている病院があったので、そこの入り口にいた黒人の警備員に聞く。すると彼は表でたばこを吸っていた白人の職員二人を指さしあっちに聞けというようなことを聞く。たばこを吸っていた男女に宿の名前を伝え、ここらにあるはずだがと聞くが、宿の名前を繰り返しつぶやくだけで、宿自体を知らないようだった。
男性の方が、来た道を戻ってどっかを曲がるとゲストハウスがあるからそこに行けばというようなことを言うが、ぼくには彼の英語が半分程度しかわからない。列車で一緒だったおじいさんとはだいぶ違い、別の言葉かと思うくらい訛がある。
なので、これは何度聞き返しても聞き取れないと思い、さっき看板があってこっちだと示したと言って、教えてくれたことは無視してとりあえず歩いてみる。するとホテルから10mほど行ったところに表がライトアップされた家があった。そこだけずいぶん明るく、看板を見るとB&B(Bed&Breskfast)とある。きれいな建物だったが、1階立てのこじんまりしたものだったのでここならB&Bだし安いだろうと思い、玄関まで行く。
なんだかんだで宿が見つかって良かったと思いながら玄関のブザーを押す。玄関のドアの上部のガラスから光が漏れているから中に人がいるはずなのだが、これが何度ブザーを鳴らしても中から人の気配がしない。ブザーが壊れているのかと思い、音が鳴っているかじっと耳をそばだてて聞いてみると、確かにブザーの音はしている。5分ほどブザーを鳴らしながら待ったが、誰も出てこない。夜の一定の時刻を過ぎるとブザーを鳴らされても対応しないという宿はけっこうあるので、その類かと思うがまだ時刻は20時前。
しょうがないので、そこは諦める。またさっきの宿探しを始める。近くの路上にちょうど来客を見送っている家族がいたので、そこのパパに聞いてみるが知らないと言われる。
大きな通り沿いには営業しているパブがあって、そのパブに来る客の車を警備しているおじさんが歩道にいた。なので、そのおじさんに行きたい宿の名前を伝える。が、やはり知らないよう。が、そこへ一人男性が歩いてくる。おじさんはその男性に宿の名前を言い、場所を聞く。やりとりは英語ではなくアフリカーンだから何をしゃべっているかはわからなかったが、その男性はすらすらと答えているから場所を知っているようだった。
おじさんがその男性と一緒に行けというので、彼と一緒に歩く。なぜか彼はそこそこ広い歩道があるのに、車道の端を堂々と歩く。何も話しかけてはこない。なので無言で彼の横に並んで歩く。
そして、そのパブから100mほど行った先の信号機を左に行ったところに目指していたGreat Batch Guest Houseはあった。煌々と看板が光っており、そこにその名前が書かれいて、ひげのおじさんの古い白黒写真も載っている。どうもGreat Batchというのは、そのおじさんの名前らしい。宿は発見したものの気になるのが、看板に星が3つあったこと。これは10米ドルや20米ドルじゃすまいなと思いつつ、しかしまた宿探しをする気にはなれないので、とりあえず表のブザーを鳴らす。10秒ほどして男性の声が下ので、部屋があるかを聞くとあると言う。
男性は中の建物から出てきて、リモコンで2mほどの高さの格子状の門を開ける。30代前半くらいの白人男性で身長は190cmほどある。彼はにこっとして「You are looking for single room?」と聞いてくる。そのときぼくはこの宿にドミがあることを知らず、西アフリカのノリ(西アフリカではドミはほとんどなく、安いのはシングルルームだった)で、「Yes」と答える。
建物は洋風の木造建築で、入り口のドアを開けると壁には100年くらい前のこのまちの白黒写真が額縁に入れられ飾られてあった。白い壁の廊下は香水の香りがする。
部屋に案内され、入るとこれまた驚く。大きめのベッドが二つあり、落ち着いた茶色の布団はつやつやとテカっている。そのベッドの上にはこれまた茶色のバスタオルと小瓶に入ったシャンプーとリンス、小型の石鹸があった。また、壁沿いの棚には電気ポットと水の入った1リットルほどの瓶、ティーカップ、瓶に入った紅茶のティーバッグ、ネスカフェの棒状のコーヒー粉、砂糖などもあった。あと小型冷蔵庫も空り、その中にはきちんとペットボトルや瓶の飲み物が入っていた。この時点で5000円はするなと悟る。
部屋に荷物を置くと風呂やその他宿内を案内してくれる。部屋の向かいに風呂があり、そこもまた驚く。9畳ほどの広さがあり、左奥にはガラスドアに仕切られたシャワールーム、右の壁沿いには180cmはある広い湯船、あと水洗トイレがあり、脚拭きようのタオルや香水のような小瓶などがおかれ、自分には縁遠い世界の雰囲気を醸し出している。
部屋の隣はテレビルームで大型テレビと革張りのソファ、木製の本棚があり、その隣はバーになっていて、ビリヤードの台と小さなバーカウンター、それからインターネットができるパソコンが1台あった。また、台所や食事をする部屋も案内されるが、どこも広い(9畳以上はある)。食堂なんかはどこかのちょっとしたレストランかと思えるくらいきれい。
あまりの豪華さ(と言ってもきらびやかと言うわけではなく、落ち着いたヨーロッパふうの豪華さ)に、ちょっと後悔しつつ、疎外感を感じつつ、まぁ、ここはダイアモンドのまちだし、記念にいいかと自分を納得させる。
料金は一泊350ランド(約4500円)。大幅な予算オーバー(予算は80~100ランド)。しかし、日本ではもちろんこんな値段で泊まれるところではない。日本でなら15000円は堅いだろう。というふうな計算を用いるとぼくの予算はあっと言う間になくなるのだが、こういうときに自分を納得させる論理としては使える。というか、そういうふうに納得するしかない。
一通り宿の施設を案内された後、ぼくはネットをする。てっきりネットはタダだろうと思っていたのだが、翌日料金を請求される。1時間20ランド(約250円)は、南アフリカではそこそこだが西アフリカと比べれば2.5~5倍の値段。せっかくなので、写真のデータのバックアップとネットへのアップロードもしようと思ったが、アップロードはバージョンが古いようでできず。スピードはADSLなどと変わらないくらい速い。日本語も読める。
ネットで宿のホームページを見て料金を見るとドミトリーがあることを発見。88ランド(約1200円)とある。本来ならこっちに泊まるはずなのだが、今更部屋を変えるのもなんだかなと思い、動かず。
しばらくネットをやって部屋に戻る。どうもぼく以外には客がいないようで、他の部屋はとても静か。部屋に戻ってベッドとベッドの間にある棚(ではないんだけど、なんて呼ぶのかわからないので便宜上棚と言うことにする)にあった数冊の雑誌をパラパラ見る。その中にファイルが一冊あったので、それを見るとこの部屋の名前になっている人に関する資料だった。長ったらしい名前のこの人は、建築家でなんだかんだの建物を設計したとかと書かれてある。英語なのであまり読む気になれず。それくらいしかわからなかったが、どうもこの宿はGreat Batchというこの地の建築家の家を改装したもので、壁に掛けられている白黒の写真は彼が設計した当地にある建物の数々で、各部屋の名前は書れと同じようにこの地で活躍した建築家から取られているらしいことがわかる。
テレビも部屋にはあったが、さっきネットを見たらオリンピックは終わったとあったので、特に見る気にもなれず、ふかふかのベッドでさっさと寝るのであった。
Fin
[diary]ゴールドリーフシティ、アパルトヘイトミュージアム
ゴールドリーフシティ、アパルトヘイトミュージアム
08/08/23(土) 曇り、晴れ
[Johannesburg:South Africa]
・両替できず
・金鉱山後のテーマパーク
・アパルトヘイトミュージアム
7時頃目覚める。昨晩は毛布等をかぶって寝たので寒くなかった。
昨日作ったスープを火にかけ、朝飯準備し、8時頃朝飯。
9時過ぎに昨日できなかった米ドルへの両替をしようとショッピングモールの両替屋に行く。ぼくが行ったショッピングモールには2軒の両替屋と1軒の銀行があるので、そこで両替をしようと思ったら・・・
1軒目の両替屋で米ドルを買いたいというと、パスポートと居住地の証明書(Proof of Residence)、航空券を見せろという。住んでいるところの証明書はないから他の2つを見せたら、ここでは両替できないと言う。両替したいなら空港へ行けとのこと。
店を変えてもう一つの両替屋に行くと、ここではパスポートのコピーをまず見せろと言われ、さらにここにはいつ来たかと聞かれる。初めて来たのでそう伝えるが、他の日本人と勘違いしているようで、なんか納得していない。両替する金額がでかいこともあってか、両替はできるが手元のランドを入手したときの証明書(ATMのレシートなど)を見せてもらわないとできないと言う。あいにくATMのレシートは宿に置いてきているし、いちいちプリントアウトしてもいない。そういうわけで、ここでも両替できず。
ここの両替屋の人にどこで両替できるかと聞くと、銀行でトライしてみたらと言う。なので、銀行に行き、両替と看板が出ている窓口に行き、米ドルを買いたいと言うと、コンサルタントに相談してくれと、奥の個室のようなところに案内される。土曜ということでか、コンサルタントは2人しかおらず、二人とも先客の対応中。20分ほど待ってやっと自分の順番になる。対応してくれたのは、台湾系の人。ここでもパスポートを見せろと言われたので、見せると知っている日本語を交ぜて説明してくれる。結論は、ここでも両替できないとのことで、理由は、外国人にドルを売るためには政府の許可を得ないといけないのだが、その許可をこの銀行は得ていないとのことだった。どこで両替できるか聞くとやはり空港だと言う。
結局、目的は果たせず、徒労感が漂う。こんなに南アフリカでの両替(ランドに両替するのはまだ楽なよう)が面倒だとは思っていなかった。
宿に戻り、10時過ぎにゴールドリーフシティまで送ってもらう。ゴールドリーフシティは金鉱山の跡地に作られたテーマパークで金鉱に入るツアーもあるというので行くことにしたところ。
※Gold Reef City
http://www.goldreefcity.co.za/
金やダイアモンドは南アフリカの歴史とは切り離せないし、アパルトヘイトにつながる背景ともなっている。たとえばヨハネスで言えば、文字通りの一攫千金を狙って南アフリカ中または世界各地から人がヨハネスに集まったことで、ヨハネスは急速に都市化し、人口増加が社会問題となり、そうした中で白人は黒人が白人よりも優勢になることをおそれ、まちから黒人を郊外の地域に強制移住させた。その移住地がこの間行ったソウェトなど。
こうした動機のほかに、ボリビアのポトシでもすず鉱山に入ってみて驚いたことがいろいろあったし、金の精製現場が見られるなんて話もどこかで読んだので、それも関心があった。
宿からゴールドリーフシティは車で30分ほど。宿からの送迎はもちろん有料で片道150ランド(約2300円)。高い! 公共交通機関はあることはあるが、宿からだとまちの中心部などで乗り換え、乗り換えしないと行けないよう。
ゴールドリーフシティは金鉱山に関するテーマパークの他に観覧車やジェットコースターなどいろんなアトラクションも兼ね備えた遊園地でもあった。土曜ということで10時半の開園時間直後に行ったが、すでに入り口には数十人が並んでいた。子ども連れの家族、高校生くらい子たちのグループが多い。白人から黒人から、アラビア系からインド系までいろんな人たちが遊びに来ている。ただ中国人の家族などは見ない。
金鉱に入るツアーは時間が決まっており、ツアーでないと中に入れないようになっている。ツアーは入場料込みで170ランド(約2500円)。高いねぇ。11時からのツアーに参加する。
最初に映画館で古い映像などを使ってゴールドリーフシティの歴史を紹介するビデオを見て、それから金鉱に入る。金を掘るときに使っていたらしい巨大な機械などが展示されているところでヘルメットをもらい、実際に作業用に使われていたエレベーターを使って地下へ。
ここの鉱山は最深部は約3500mもあるらしいが、ツアーでは安全な地下300mにある坑道を回る。女性のガイドがあれこれと坑道を歩きながら、観光ポイントで説明する。例えば、アルフレッドノーベルの名前が入ったダイナマイトの箱などが展示されているところでは、ダイナマイトをどう使うかといったことや坑道内の救急処置コーナーの役割、水を排出する機械の説明、崩壊した坑道(実際に崩れたままになっている)のの説明等々。英語なのでほとんど言葉が頭に残らない。が、ポトシと比べるとこちらの方がずっと近代的のように感じた。
その後、当時の家族が住んでいた家を復元しているところに行き、家内を見学。家具等は当時のものらしい。当たり前だが、いかにもヨーロッパ的なレトロ感があり、また家具類がえらく多いことからかなりの金持ちの家らしいことが感じられる。
最後に金の精製の実演を見る。ぼくはてっきり本物の精製過程が見られると思っていたのだが、見ることができたのは金を鋳型に入れるパフォーマンスだけ。二人の男性のスタッフが、釜の中から溶岩のようにどろどろになって真っ赤にたぎっている金を取り出し、それを金の延べ棒の鋳型にそそぎ込み、金らしく見えるまでしばらく冷やしておしまい。金があんなになるのかというのは驚きではあったが、期待はずれだった。完全に冷えている別の金の延べ棒は、触ることができて客が次々と手に持ったりしていた。
その後、硬貨の製造過程を紹介した銀行の博物館に行く。なぜか中国や日本の古いお金も展示されていた。また、ここでは金を売っていた。
あとは見るべき物はなし。いろんなアトラクションがあるだけなので、園を出る。ツアーに参加しただけだったが、2時間ちょっと園にいた。
その後、駐車場を挟んで向かいにあるアパルトヘイトミュージアムに行く。宿の人にここを見て回るのは3時間くらいかかると言われたのだが、確かにその通りだった。
展示はヨハネスの歴史からアパルトヘイトが生まれ、それに対する反対運動がおき、廃止されるまでを丹念に追っている。言葉は英語オンリー。実物(銃や装甲車、アパルトヘイト時代に黒人に外出時の携帯が義務づけられていたパス、ポスターなどなど)の展示から当時の映像や写真も多用されているので、当時の雰囲気がけっこうわかる。
※apartheidmuseum
http://www.apartheidmuseum.org/
アパルトヘイトに関する常設展のほかに、今は特別展としてアパルトヘイト廃止運動で大きな役割を果たしたスティーブ・ビコ(Steve Biko)展もやっていた。ビコが死んでから(殺されてからと言った方が妥当だろう)30周年ということで、それを記念しての展示らしい。その他にHome Afairsというタイトルで多様な家族のあり方(ゲイ、レズビアンのカップルを含む)を紹介する展示もあり。また、受付横にはアパルトヘイトの歴史をアニメで簡単にまとめた子ども向けの無料の冊子もあり。
これで入場料30ランド(約450円)は安い。これと比べるとゴールドリーフシティはカネを取りすぎだ。
ヨハネの歴史の展示から見る。壁紙が当時の写真を引き延ばしたものになっており、遠目から見ると当時のヨハネはほんとにタダの平原(草もたいして生えていない)で、そこに最初に入植してきた人(オランダ人やイギリス人など)はテントを張って暮らしていたことがわかる。
その壁には、ヨハネの発展の歴史の解説と、ヨハネに移住してきた一般の人たちの簡単な個人史が紹介されている。その中に中国人の人がおり、その人の部分を読むと顔写真が出ている人のおじいさんだかお父さんだかが中国から南アフリカにやってきたらしい。目的は金で一儲けすることだったらしいが、南アフリカに来てみると中国人は金鉱山では働いてはいけないという差別的な法律があり、そのため金の夢は諦め、他で仕事を見つける他なかったという。
その他、インド系の人の紹介もあり。
展示を見ているとヨハネは本当に金があったからこそできたまちだったということがわかる。
アパルトヘイト時代の展示については、写真や映像も豊富。有色人種(黒人、カラード、アジアン)を隔離するために書かれた住居地図やそれを正当化した法律などについて細かな説明があるが、とても全部は読み切れない。
映像では子どもたち(中学生くらい)や若者などを中心にデモ(英語ではmarchと表示されていた)をしている様子やそれに対して警察や軍が発砲し、捕まえた人を棒でさんざん叩いたりする様子を映したものも流れている。驚いたのは反対運動をしていた10歳前後の子どもまで警察は自宅まで行っていわゆる検挙し、強制的に連れていったことがあったということ。これも映像で流れていた。
それから目をひいたのが、そうした反対運動をする黒人を黒人の警官がさんざん殴り付けている場面。マンデラが刑務所に入っているときにその見張り役だった人が黒人で、その人はマンデラと接する中で、だんだんと白人政府のおかしさを理解するようになったという話をどこかで読んだが、こうした場面を見ると問題の複雑さを感じる。
また、マンデラと同じ黒人居住区で生まれ育ち、ノーベル賞を受賞したツツ大司教(最新のReader's Dugestの表紙を飾っていた)がお祈りをしている場面の映像も印象的。大ざっぱに言っていたことを訳(日本語訳と要約)すると、次のようなことを言っていた。”神よ、私たちは信じている。今、私たちが自由の道に向かって歩いていることを。しかし、なぜこんなにも多くの犠牲が必要なのか。”
アパルトヘイトの廃止に諸外国からの圧力があったことも展示ではふれられており、そうした中に日本もあるか探してみたが、ざっと見た限りでは見あたらず。誰かが書いていた話では、中国人などが差別されていたにもかかわらず、日本人はその経済力を背景に名誉白人扱いとなり、当時の南アフリカ政府と貿易をしていた富士通なんかは軍事技術の向上に一役かったとか。南アフリカに住む多くの人々にとってだけでなく、その他のアフリカ諸国にとっても黒人を差別する南アフリカ政府は敵でしかなかったのに、その南アフリカ政府を太らせるのに日本企業(その進出を止めなかった日本政府)が一役かったことは記憶しておく必要があるだろう。
結局は、国内及び国外のアパルトヘイト反対運動とヨーロッパやアメリカなどによる経済制裁・国交断絶などによって、アパルトヘイトは廃止される。が、それまでには50年ほどの年月がかかった(50年とは言うのは政府がアパルトヘイトという言葉を政治の場で正式に使った時点からのこと。アパルトヘイト的考え方はそれよりも前から存在していた)。
アパルトヘイトの経緯を見ていて思うのが、人が変わること、世代が変わることの影響の大きさ。アパルトヘイトが一気に廃止に向かったのは、政府側の変化として大統領をしていたボタが病気で倒れ、デクラークに大統領に変わったことがあった。これは冷戦の終結の過程と似ている。また、政府の圧力によって反対運動が停滞したときにはビコら若い世代による新たな論理を掲げた運動が、その流れを変える役目を果たした。また、展示では80年代には豊かな黒人の中間層が増えていたことが、運動にも変化を与えたというようなことが書かれていた。
当時の状況からすれば絶望するのも無理はないと思えるような中から、平等と自由を求めて動いた人たちはすごい。そうした人たちを動かし、支えたのは何だったのか? 精神的、経済的な支えとなったのは何か?
気になるのはマンデラが釈放されてから大統領になるまでの数年間の間、白人政府とマンデラ等のグループの間でどのような交渉がなされたのかという点。後半は、英語を読むのに疲れたので見逃したのかもしれないが、これについてはあまり展示もなかったように感じる。マンデラの自伝は日本語になっているので、帰国後要チェック。
ミュージアムの売店では、マンデラの本など数10種類の本やCD、DVDなどが売られていた。日本ではあまり手に入らなそうな本を3冊購入。これでまた荷物が1kgくらい増える。
夕方17時半に宿の人に迎えに来てもらう。宿には直行せず、途中の中央バスターミナルで宿泊客をピックアップするというので、ぼくもつきあうことに。バスターミナルはまちの中心部にあり、まわりは危険区域。鉄道駅も併設されていて、明日ここから電車に乗ることもあり、見ておきたかった。
バスのターミナルは屋内式になっていて、中はとてもきれい。10社ほどのバス会社がカウンターを構えており、ここからジンバブエなどにも行ける。人もそこそこ多い。ぼくは明後日の電車のチケットがほしかったので、鉄道のチケット売場に行くと、ほんの3分ほど前に終了したとのことでゲットできず。
ピックアップする客は30分後くらいにここに着くらしかったが、時間があったので宿の人と一緒に2階のバーでお茶しながら待つことに。大音量で音楽が流れ、客の9割9分が黒人。ぜんぶで客は100人以上いそうなのに、白人は2人ほどしかない。でも、雰囲気は特に悪くはない。表には警官もいるし。壁の大型スクリーンではイギリスのサッカー、プレミアリーグの試合を流していた。なので、ぼくは紅茶を飲みつつ、それを眺める。
当初の予定の時刻になっても客は現れず、結局、1時間ちょっとこのバーで待つことになった。
ヨハネスの夜景を左手に見ながら宿に戻る。中心部はほんとに人気がなかった。
宿に戻って、昨日までに買っていた野菜などで夕食づくり。今日もスープ。
食事後は荷造りと明日行く先の地図の読み込み、日記書きなど。夜は半袖では寒いほど冷える。
今日はぼくの寝ているドミトリーには3ヶ月ほど滞在しているという60代後半くらいのおじさんとぼくだけ。
FIn
08/08/23(土) 曇り、晴れ
[Johannesburg:South Africa]
・両替できず
・金鉱山後のテーマパーク
・アパルトヘイトミュージアム
7時頃目覚める。昨晩は毛布等をかぶって寝たので寒くなかった。
昨日作ったスープを火にかけ、朝飯準備し、8時頃朝飯。
9時過ぎに昨日できなかった米ドルへの両替をしようとショッピングモールの両替屋に行く。ぼくが行ったショッピングモールには2軒の両替屋と1軒の銀行があるので、そこで両替をしようと思ったら・・・
1軒目の両替屋で米ドルを買いたいというと、パスポートと居住地の証明書(Proof of Residence)、航空券を見せろという。住んでいるところの証明書はないから他の2つを見せたら、ここでは両替できないと言う。両替したいなら空港へ行けとのこと。
店を変えてもう一つの両替屋に行くと、ここではパスポートのコピーをまず見せろと言われ、さらにここにはいつ来たかと聞かれる。初めて来たのでそう伝えるが、他の日本人と勘違いしているようで、なんか納得していない。両替する金額がでかいこともあってか、両替はできるが手元のランドを入手したときの証明書(ATMのレシートなど)を見せてもらわないとできないと言う。あいにくATMのレシートは宿に置いてきているし、いちいちプリントアウトしてもいない。そういうわけで、ここでも両替できず。
ここの両替屋の人にどこで両替できるかと聞くと、銀行でトライしてみたらと言う。なので、銀行に行き、両替と看板が出ている窓口に行き、米ドルを買いたいと言うと、コンサルタントに相談してくれと、奥の個室のようなところに案内される。土曜ということでか、コンサルタントは2人しかおらず、二人とも先客の対応中。20分ほど待ってやっと自分の順番になる。対応してくれたのは、台湾系の人。ここでもパスポートを見せろと言われたので、見せると知っている日本語を交ぜて説明してくれる。結論は、ここでも両替できないとのことで、理由は、外国人にドルを売るためには政府の許可を得ないといけないのだが、その許可をこの銀行は得ていないとのことだった。どこで両替できるか聞くとやはり空港だと言う。
結局、目的は果たせず、徒労感が漂う。こんなに南アフリカでの両替(ランドに両替するのはまだ楽なよう)が面倒だとは思っていなかった。
宿に戻り、10時過ぎにゴールドリーフシティまで送ってもらう。ゴールドリーフシティは金鉱山の跡地に作られたテーマパークで金鉱に入るツアーもあるというので行くことにしたところ。
※Gold Reef City
http://www.goldreefcity.co.za/
金やダイアモンドは南アフリカの歴史とは切り離せないし、アパルトヘイトにつながる背景ともなっている。たとえばヨハネスで言えば、文字通りの一攫千金を狙って南アフリカ中または世界各地から人がヨハネスに集まったことで、ヨハネスは急速に都市化し、人口増加が社会問題となり、そうした中で白人は黒人が白人よりも優勢になることをおそれ、まちから黒人を郊外の地域に強制移住させた。その移住地がこの間行ったソウェトなど。
こうした動機のほかに、ボリビアのポトシでもすず鉱山に入ってみて驚いたことがいろいろあったし、金の精製現場が見られるなんて話もどこかで読んだので、それも関心があった。
宿からゴールドリーフシティは車で30分ほど。宿からの送迎はもちろん有料で片道150ランド(約2300円)。高い! 公共交通機関はあることはあるが、宿からだとまちの中心部などで乗り換え、乗り換えしないと行けないよう。
ゴールドリーフシティは金鉱山に関するテーマパークの他に観覧車やジェットコースターなどいろんなアトラクションも兼ね備えた遊園地でもあった。土曜ということで10時半の開園時間直後に行ったが、すでに入り口には数十人が並んでいた。子ども連れの家族、高校生くらい子たちのグループが多い。白人から黒人から、アラビア系からインド系までいろんな人たちが遊びに来ている。ただ中国人の家族などは見ない。
金鉱に入るツアーは時間が決まっており、ツアーでないと中に入れないようになっている。ツアーは入場料込みで170ランド(約2500円)。高いねぇ。11時からのツアーに参加する。
最初に映画館で古い映像などを使ってゴールドリーフシティの歴史を紹介するビデオを見て、それから金鉱に入る。金を掘るときに使っていたらしい巨大な機械などが展示されているところでヘルメットをもらい、実際に作業用に使われていたエレベーターを使って地下へ。
ここの鉱山は最深部は約3500mもあるらしいが、ツアーでは安全な地下300mにある坑道を回る。女性のガイドがあれこれと坑道を歩きながら、観光ポイントで説明する。例えば、アルフレッドノーベルの名前が入ったダイナマイトの箱などが展示されているところでは、ダイナマイトをどう使うかといったことや坑道内の救急処置コーナーの役割、水を排出する機械の説明、崩壊した坑道(実際に崩れたままになっている)のの説明等々。英語なのでほとんど言葉が頭に残らない。が、ポトシと比べるとこちらの方がずっと近代的のように感じた。
その後、当時の家族が住んでいた家を復元しているところに行き、家内を見学。家具等は当時のものらしい。当たり前だが、いかにもヨーロッパ的なレトロ感があり、また家具類がえらく多いことからかなりの金持ちの家らしいことが感じられる。
最後に金の精製の実演を見る。ぼくはてっきり本物の精製過程が見られると思っていたのだが、見ることができたのは金を鋳型に入れるパフォーマンスだけ。二人の男性のスタッフが、釜の中から溶岩のようにどろどろになって真っ赤にたぎっている金を取り出し、それを金の延べ棒の鋳型にそそぎ込み、金らしく見えるまでしばらく冷やしておしまい。金があんなになるのかというのは驚きではあったが、期待はずれだった。完全に冷えている別の金の延べ棒は、触ることができて客が次々と手に持ったりしていた。
その後、硬貨の製造過程を紹介した銀行の博物館に行く。なぜか中国や日本の古いお金も展示されていた。また、ここでは金を売っていた。
あとは見るべき物はなし。いろんなアトラクションがあるだけなので、園を出る。ツアーに参加しただけだったが、2時間ちょっと園にいた。
その後、駐車場を挟んで向かいにあるアパルトヘイトミュージアムに行く。宿の人にここを見て回るのは3時間くらいかかると言われたのだが、確かにその通りだった。
展示はヨハネスの歴史からアパルトヘイトが生まれ、それに対する反対運動がおき、廃止されるまでを丹念に追っている。言葉は英語オンリー。実物(銃や装甲車、アパルトヘイト時代に黒人に外出時の携帯が義務づけられていたパス、ポスターなどなど)の展示から当時の映像や写真も多用されているので、当時の雰囲気がけっこうわかる。
※apartheidmuseum
http://www.apartheidmuseum.org/
アパルトヘイトに関する常設展のほかに、今は特別展としてアパルトヘイト廃止運動で大きな役割を果たしたスティーブ・ビコ(Steve Biko)展もやっていた。ビコが死んでから(殺されてからと言った方が妥当だろう)30周年ということで、それを記念しての展示らしい。その他にHome Afairsというタイトルで多様な家族のあり方(ゲイ、レズビアンのカップルを含む)を紹介する展示もあり。また、受付横にはアパルトヘイトの歴史をアニメで簡単にまとめた子ども向けの無料の冊子もあり。
これで入場料30ランド(約450円)は安い。これと比べるとゴールドリーフシティはカネを取りすぎだ。
ヨハネの歴史の展示から見る。壁紙が当時の写真を引き延ばしたものになっており、遠目から見ると当時のヨハネはほんとにタダの平原(草もたいして生えていない)で、そこに最初に入植してきた人(オランダ人やイギリス人など)はテントを張って暮らしていたことがわかる。
その壁には、ヨハネの発展の歴史の解説と、ヨハネに移住してきた一般の人たちの簡単な個人史が紹介されている。その中に中国人の人がおり、その人の部分を読むと顔写真が出ている人のおじいさんだかお父さんだかが中国から南アフリカにやってきたらしい。目的は金で一儲けすることだったらしいが、南アフリカに来てみると中国人は金鉱山では働いてはいけないという差別的な法律があり、そのため金の夢は諦め、他で仕事を見つける他なかったという。
その他、インド系の人の紹介もあり。
展示を見ているとヨハネは本当に金があったからこそできたまちだったということがわかる。
アパルトヘイト時代の展示については、写真や映像も豊富。有色人種(黒人、カラード、アジアン)を隔離するために書かれた住居地図やそれを正当化した法律などについて細かな説明があるが、とても全部は読み切れない。
映像では子どもたち(中学生くらい)や若者などを中心にデモ(英語ではmarchと表示されていた)をしている様子やそれに対して警察や軍が発砲し、捕まえた人を棒でさんざん叩いたりする様子を映したものも流れている。驚いたのは反対運動をしていた10歳前後の子どもまで警察は自宅まで行っていわゆる検挙し、強制的に連れていったことがあったということ。これも映像で流れていた。
それから目をひいたのが、そうした反対運動をする黒人を黒人の警官がさんざん殴り付けている場面。マンデラが刑務所に入っているときにその見張り役だった人が黒人で、その人はマンデラと接する中で、だんだんと白人政府のおかしさを理解するようになったという話をどこかで読んだが、こうした場面を見ると問題の複雑さを感じる。
また、マンデラと同じ黒人居住区で生まれ育ち、ノーベル賞を受賞したツツ大司教(最新のReader's Dugestの表紙を飾っていた)がお祈りをしている場面の映像も印象的。大ざっぱに言っていたことを訳(日本語訳と要約)すると、次のようなことを言っていた。”神よ、私たちは信じている。今、私たちが自由の道に向かって歩いていることを。しかし、なぜこんなにも多くの犠牲が必要なのか。”
アパルトヘイトの廃止に諸外国からの圧力があったことも展示ではふれられており、そうした中に日本もあるか探してみたが、ざっと見た限りでは見あたらず。誰かが書いていた話では、中国人などが差別されていたにもかかわらず、日本人はその経済力を背景に名誉白人扱いとなり、当時の南アフリカ政府と貿易をしていた富士通なんかは軍事技術の向上に一役かったとか。南アフリカに住む多くの人々にとってだけでなく、その他のアフリカ諸国にとっても黒人を差別する南アフリカ政府は敵でしかなかったのに、その南アフリカ政府を太らせるのに日本企業(その進出を止めなかった日本政府)が一役かったことは記憶しておく必要があるだろう。
結局は、国内及び国外のアパルトヘイト反対運動とヨーロッパやアメリカなどによる経済制裁・国交断絶などによって、アパルトヘイトは廃止される。が、それまでには50年ほどの年月がかかった(50年とは言うのは政府がアパルトヘイトという言葉を政治の場で正式に使った時点からのこと。アパルトヘイト的考え方はそれよりも前から存在していた)。
アパルトヘイトの経緯を見ていて思うのが、人が変わること、世代が変わることの影響の大きさ。アパルトヘイトが一気に廃止に向かったのは、政府側の変化として大統領をしていたボタが病気で倒れ、デクラークに大統領に変わったことがあった。これは冷戦の終結の過程と似ている。また、政府の圧力によって反対運動が停滞したときにはビコら若い世代による新たな論理を掲げた運動が、その流れを変える役目を果たした。また、展示では80年代には豊かな黒人の中間層が増えていたことが、運動にも変化を与えたというようなことが書かれていた。
当時の状況からすれば絶望するのも無理はないと思えるような中から、平等と自由を求めて動いた人たちはすごい。そうした人たちを動かし、支えたのは何だったのか? 精神的、経済的な支えとなったのは何か?
気になるのはマンデラが釈放されてから大統領になるまでの数年間の間、白人政府とマンデラ等のグループの間でどのような交渉がなされたのかという点。後半は、英語を読むのに疲れたので見逃したのかもしれないが、これについてはあまり展示もなかったように感じる。マンデラの自伝は日本語になっているので、帰国後要チェック。
ミュージアムの売店では、マンデラの本など数10種類の本やCD、DVDなどが売られていた。日本ではあまり手に入らなそうな本を3冊購入。これでまた荷物が1kgくらい増える。
夕方17時半に宿の人に迎えに来てもらう。宿には直行せず、途中の中央バスターミナルで宿泊客をピックアップするというので、ぼくもつきあうことに。バスターミナルはまちの中心部にあり、まわりは危険区域。鉄道駅も併設されていて、明日ここから電車に乗ることもあり、見ておきたかった。
バスのターミナルは屋内式になっていて、中はとてもきれい。10社ほどのバス会社がカウンターを構えており、ここからジンバブエなどにも行ける。人もそこそこ多い。ぼくは明後日の電車のチケットがほしかったので、鉄道のチケット売場に行くと、ほんの3分ほど前に終了したとのことでゲットできず。
ピックアップする客は30分後くらいにここに着くらしかったが、時間があったので宿の人と一緒に2階のバーでお茶しながら待つことに。大音量で音楽が流れ、客の9割9分が黒人。ぜんぶで客は100人以上いそうなのに、白人は2人ほどしかない。でも、雰囲気は特に悪くはない。表には警官もいるし。壁の大型スクリーンではイギリスのサッカー、プレミアリーグの試合を流していた。なので、ぼくは紅茶を飲みつつ、それを眺める。
当初の予定の時刻になっても客は現れず、結局、1時間ちょっとこのバーで待つことになった。
ヨハネスの夜景を左手に見ながら宿に戻る。中心部はほんとに人気がなかった。
宿に戻って、昨日までに買っていた野菜などで夕食づくり。今日もスープ。
食事後は荷造りと明日行く先の地図の読み込み、日記書きなど。夜は半袖では寒いほど冷える。
今日はぼくの寝ているドミトリーには3ヶ月ほど滞在しているという60代後半くらいのおじさんとぼくだけ。
FIn
[diary]イーストゲイトのショッピング街、チャイナタウン
イーストゲイトのショッピング街、チャイナタウン
08/08/22(金) 曇り、晴れ
[Johannesburg:South Africa]
・郵便局
・中国語のインターネット屋
・屋内型チャイナタウン
・ワールドマーケット
・両替
さすがに南アフリカの朝は冷えた。夜中にも寒さで数度目が覚める。気温は10℃前後くらいだろうか。
南アフリカまでは来たものの、まだこれからのルートが決まっていない。宿の情報ノートとガイドブックを見ながら、さて南アフリカをどう回ろうかとしばしのんびり考える。
10時頃、宿を出て近くの郵便局を目指す。歩いていたら道ばたで駐車の誘導のようなことをしていた男が寄ってきて、たばこをくれと突然言ってくる。たばこは吸わないと言うと、じゃあ100ランド(140円くらい)くれと言い出す。なんなんだいきなり。断ってさっさと歩く。
郵便局の入り口はショッピングセンターにある両替屋と同じような仕組みだった。中に入るには2つのドアを続けて通らないといけない。つまり、一つのドアを抜けるとまた目の前にドアがあるいう仕組みになっていて、しかも2つ目のドアは1つ目ののドアが完全に閉まらないと開かないという仕組みになっている。簡単に言えば、片方のドアが完全に閉まっていないともう片方のドアが開かないという仕掛け。
ドアとドアの間は大人が3人も立てば窮屈というくらいのスペースしかない。だから基本的には1人ずつしか入れない。ぼくはそれを知らず、先に入ったおばさんが2つ目のドアを開けて入るのを1つ目のドアを開けて待っていたところ、そのおばさんにそこを閉めてと注意されてしまった。これも安全上の対策の1つなのだろうが、こんなことが普通になっているところに、この地の治安の悪さが現れている。
この周辺は安全だと言われているものの歩道を歩いている人は少ない。辺りを見回しても5人程度。ほとんどの人が車を使っている。
それから近くにあるという中国人街を目指す。途中、ショッピングセンターを見学しながら2つ経由。改めてゆっくり回ってみても、やはり日本や中南米で見たショッピングセンターと遜色ない。ものの値段も日本と同じ程度かそれ以上。安いと思えるものはないなぁ。
ヨハネスの中心部に続く幹線道路を横切り、マクドナルドの看板などがある方面へ。あたりにあるのはショッピングセンターの他はホンダや他の自動車メーカーのショールーム、レストランが入った小型の複合ビルと道路だけ。整然としていて味気ない。
下り道を歩いていくと右手にアフリカの民芸品を一同に集めて売っているというワールドマーケットがあり、左手に体育館のような四角い大きな建物が見える。この建物には漢字の看板が踊っている。
ここに日本語のできるネット屋があったので、そこに行く。オーナーはもちろん中国人。英語はあまりわからないよう。パソコンは中国語表示が基本になっている。思えば中国語表示が基本になっているネット屋は初めて。スピードは期待したほどは早くなかった。
店内にはヨーロッパ系の女性客が二人。懐かしい音だなと思って聞き耳を立てると、彼女らはスペイン語を話していた。自分の持ってきたパソコンをつなごうとしているのだが、うまく接続できないようで、盛んに店主に向かって「チーノ」を連発し「プロブレム」と訴える。が、店主は「ノープロブレム」と言ってほとんど相手にしていない。なので、また「チーノ」が繰り返される。ここでもなぜスペイン語にはアミーゴという呼びかけの言葉があるのに、それを使わずにわざわざチーノというのか、と疑問に思う。
ネットで用事を済ませた後、隣の中国食料品店による。中国から輸入されたもろもろの食料品が並んでおり、なかにはポッキーの中国版もある。アイスの冷蔵庫をのぞくと北京オリンピックを記念した包装袋に入ったアイスがあったので、記念に買う。
レジにそのアイスを持っていくと、レジの中国人のおばさんは英語でこのアイスはベリーグッドだと言う。
それから本体である四角い建物に入る。この平屋の建物は中国系の資本が共同で作った中国製商品だけを扱っているショッピングモールのようで、別の入り口の脇には店内の見取り図とともにそれらしき説明を書いた板があった。
中国人の商店街らしく中は四角四面のつくりになっている。小さな個店が集まってできているショッピングモール(日本的にいうとミニ商店街に近い)で、壁で区切られた各店は小さいと3畳程度、広くても10畳くらいという大きさ。服などの衣料品から電化製品、アクセサリー、工芸品などいろんなものが入っている。店の数は200くらいだったか?
その中に食堂もあったので、そこで昼食を取ることにする。3つ並んでいて、それぞれ黒人の若い女の子が呼び込み役をしているようだったが、おしゃべりしていてぼくには声がかからず。
適当に良さそうな店で注文。店のおばさんが最近の新メニューと言ってカレー麺のようなものを薦めてくるのでそれを食べる。味は可もなく不可もなく、ちょっと物足りないかなという感じ。3店合わせても座席は50もなかったが、昼時になるとそれなりに客が入ってくる。白人系の人も多い。ぎこちなく箸を使って食べている。
その後、中国人街というのがわからなかったためワールドマーケットに行ってみる。土産物屋が集まっているところだったのだが、これがなんと入場料を取る仕組みになっていた。一瞬ためらうが100円程度だったので、記念に入る。
中には彫刻品やアクセサリー、服などいかにもアフリカという品々が並んでいる。一目見た印象ではどこも同じような品ぞろえ。歩いていると声がかかるが、買う気はまったくないので素通り。中にはインド系の人がやっている店もあり、音楽テープやビデオを売っていた。なんだかよくわからないところだ。
それから近くに野菜専門の店があったのでそこで野菜をいくつか購入。かぼちゃがでかい。直径50cmほどあり、重さは10kgくらいあるんじゃないかというカボチャが山積みにされている。店内の野菜は基本的に量り売り。品ぞろえが豊富で数10種類の野菜が売られていた。
その隣は肉屋。その隣の隣はポルトガル系のバーがあった。
宿に戻る途中、ショッピングセンターの両替屋に立ち寄る。ランドを大量に引き出したので、それをドルに替えようと思ったのだが、1軒目ではATMでおろしたときの領収書が必要と言われてできず(宿に置いたままだった)、別の店では外国人にはドルは売れないと言われ、結局両替できず。
宿に戻ってからは一休みした後、料理。夜は今日、新たに到着した日本人旅行者らとおしゃべり。マダガスカルのビザが空港で90米ドルしたという話に驚く。
Fin
08/08/22(金) 曇り、晴れ
[Johannesburg:South Africa]
・郵便局
・中国語のインターネット屋
・屋内型チャイナタウン
・ワールドマーケット
・両替
さすがに南アフリカの朝は冷えた。夜中にも寒さで数度目が覚める。気温は10℃前後くらいだろうか。
南アフリカまでは来たものの、まだこれからのルートが決まっていない。宿の情報ノートとガイドブックを見ながら、さて南アフリカをどう回ろうかとしばしのんびり考える。
10時頃、宿を出て近くの郵便局を目指す。歩いていたら道ばたで駐車の誘導のようなことをしていた男が寄ってきて、たばこをくれと突然言ってくる。たばこは吸わないと言うと、じゃあ100ランド(140円くらい)くれと言い出す。なんなんだいきなり。断ってさっさと歩く。
郵便局の入り口はショッピングセンターにある両替屋と同じような仕組みだった。中に入るには2つのドアを続けて通らないといけない。つまり、一つのドアを抜けるとまた目の前にドアがあるいう仕組みになっていて、しかも2つ目のドアは1つ目ののドアが完全に閉まらないと開かないという仕組みになっている。簡単に言えば、片方のドアが完全に閉まっていないともう片方のドアが開かないという仕掛け。
ドアとドアの間は大人が3人も立てば窮屈というくらいのスペースしかない。だから基本的には1人ずつしか入れない。ぼくはそれを知らず、先に入ったおばさんが2つ目のドアを開けて入るのを1つ目のドアを開けて待っていたところ、そのおばさんにそこを閉めてと注意されてしまった。これも安全上の対策の1つなのだろうが、こんなことが普通になっているところに、この地の治安の悪さが現れている。
この周辺は安全だと言われているものの歩道を歩いている人は少ない。辺りを見回しても5人程度。ほとんどの人が車を使っている。
それから近くにあるという中国人街を目指す。途中、ショッピングセンターを見学しながら2つ経由。改めてゆっくり回ってみても、やはり日本や中南米で見たショッピングセンターと遜色ない。ものの値段も日本と同じ程度かそれ以上。安いと思えるものはないなぁ。
ヨハネスの中心部に続く幹線道路を横切り、マクドナルドの看板などがある方面へ。あたりにあるのはショッピングセンターの他はホンダや他の自動車メーカーのショールーム、レストランが入った小型の複合ビルと道路だけ。整然としていて味気ない。
下り道を歩いていくと右手にアフリカの民芸品を一同に集めて売っているというワールドマーケットがあり、左手に体育館のような四角い大きな建物が見える。この建物には漢字の看板が踊っている。
ここに日本語のできるネット屋があったので、そこに行く。オーナーはもちろん中国人。英語はあまりわからないよう。パソコンは中国語表示が基本になっている。思えば中国語表示が基本になっているネット屋は初めて。スピードは期待したほどは早くなかった。
店内にはヨーロッパ系の女性客が二人。懐かしい音だなと思って聞き耳を立てると、彼女らはスペイン語を話していた。自分の持ってきたパソコンをつなごうとしているのだが、うまく接続できないようで、盛んに店主に向かって「チーノ」を連発し「プロブレム」と訴える。が、店主は「ノープロブレム」と言ってほとんど相手にしていない。なので、また「チーノ」が繰り返される。ここでもなぜスペイン語にはアミーゴという呼びかけの言葉があるのに、それを使わずにわざわざチーノというのか、と疑問に思う。
ネットで用事を済ませた後、隣の中国食料品店による。中国から輸入されたもろもろの食料品が並んでおり、なかにはポッキーの中国版もある。アイスの冷蔵庫をのぞくと北京オリンピックを記念した包装袋に入ったアイスがあったので、記念に買う。
レジにそのアイスを持っていくと、レジの中国人のおばさんは英語でこのアイスはベリーグッドだと言う。
それから本体である四角い建物に入る。この平屋の建物は中国系の資本が共同で作った中国製商品だけを扱っているショッピングモールのようで、別の入り口の脇には店内の見取り図とともにそれらしき説明を書いた板があった。
中国人の商店街らしく中は四角四面のつくりになっている。小さな個店が集まってできているショッピングモール(日本的にいうとミニ商店街に近い)で、壁で区切られた各店は小さいと3畳程度、広くても10畳くらいという大きさ。服などの衣料品から電化製品、アクセサリー、工芸品などいろんなものが入っている。店の数は200くらいだったか?
その中に食堂もあったので、そこで昼食を取ることにする。3つ並んでいて、それぞれ黒人の若い女の子が呼び込み役をしているようだったが、おしゃべりしていてぼくには声がかからず。
適当に良さそうな店で注文。店のおばさんが最近の新メニューと言ってカレー麺のようなものを薦めてくるのでそれを食べる。味は可もなく不可もなく、ちょっと物足りないかなという感じ。3店合わせても座席は50もなかったが、昼時になるとそれなりに客が入ってくる。白人系の人も多い。ぎこちなく箸を使って食べている。
その後、中国人街というのがわからなかったためワールドマーケットに行ってみる。土産物屋が集まっているところだったのだが、これがなんと入場料を取る仕組みになっていた。一瞬ためらうが100円程度だったので、記念に入る。
中には彫刻品やアクセサリー、服などいかにもアフリカという品々が並んでいる。一目見た印象ではどこも同じような品ぞろえ。歩いていると声がかかるが、買う気はまったくないので素通り。中にはインド系の人がやっている店もあり、音楽テープやビデオを売っていた。なんだかよくわからないところだ。
それから近くに野菜専門の店があったのでそこで野菜をいくつか購入。かぼちゃがでかい。直径50cmほどあり、重さは10kgくらいあるんじゃないかというカボチャが山積みにされている。店内の野菜は基本的に量り売り。品ぞろえが豊富で数10種類の野菜が売られていた。
その隣は肉屋。その隣の隣はポルトガル系のバーがあった。
宿に戻る途中、ショッピングセンターの両替屋に立ち寄る。ランドを大量に引き出したので、それをドルに替えようと思ったのだが、1軒目ではATMでおろしたときの領収書が必要と言われてできず(宿に置いたままだった)、別の店では外国人にはドルは売れないと言われ、結局両替できず。
宿に戻ってからは一休みした後、料理。夜は今日、新たに到着した日本人旅行者らとおしゃべり。マダガスカルのビザが空港で90米ドルしたという話に驚く。
Fin
[diary]ジョハネスバーグに到着、ソウェトツアー
ジョハネスバーグに到着、ソウェトツアー
08/08/21(木) 曇り
[Johannesburg:South Africa]
・ラクラク入国
・充実した空港の本屋
・広い道路
・ソウェトツアー
ガーナのアクラからジョハネスバーグに向かう飛行機の中。
ようやく眠りについたかと思ったところでバタバタする音に起こされる。着陸態勢に入った模様。
南アフリカ上空はすでに明るくなっていて、窓から外をのぞくときれいに地上が見える。他のアフリカの国と違う点は、おそらく空港の周辺に倉庫らしき建物がたくさんあることだろう。それだけでもどれだけ物資の行き来が盛んな国かがわかる。道路もきれいに整備されている。
アクラ時間の5時半に飛行機は、ジョハネスバーグの空港に着陸。南アフリカとガーナは時差が2時間あるので、時計を2時間早める。
機体を降りるとスゥッーとひんやりした空気に包まれる。夏の西アフリカから冬の南アフリカへ。気温は18度程度だろうか。
南アフリカに入るにあたって気になっていたのが、往復チケットの提示を求められるか否かということ。すでに往復チケットを買っているから、聞かれても別段問題はないのだが、少し気になっていた。
はたしてイミグレでは簡単な質問をされただけで、往復チケットの提示は求められず。全体でも5分もかからずにパスできた。
荷物を受け取りにベルトコンベアがまわる部屋に行く。辺りを見回してガーナの飛行場と比べ、変化したのが人。白人が多い。
リュックを受け取り、到着ゲートを出る。出たところに出発ロビーの階にあがるエレベーターがあったので、それに乗って出発ロビーにあがる。目的はお金をおろすこと。到着ゲートを出た右の方にもATMはあったもののまわりから丸見えなので、あまり安全なように思えなかった。そこで出発ロビーに行き、そこの一角にあったATMでカネをおろす。
それから宿に電話をするために電話屋を探す。到着ロビーの端に電話屋と公衆電話があった。公衆電話はコイン式のため、手持ちの札では使えず。電話屋で電話した方が、コインの減りとかも気にしなくて済むので、そちらで電話をする。
ヨハネスにはバックパッカー向けの宿がいくつかあって、だいたいどこも電話をすれば空港まで迎えに来てくれるような仕組みになっている。その理由はもちろん治安。ヨハネスの街では公共交通期間を乗り継いでまちなかまで行き、宿を探すなんて当たり前のことができない。
ぼくはEast Gate Backpacker'sという日本語の情報ノートがある宿に電話をする。英語での電話は苦手なのだが、まぁ、話は通じて迎えに来てくれることになった。しばらく電話屋周辺の空港施設を見学。けっこう充実した本屋があり、マンデラの本が数種類見えやすいところにレイアウトされている。ガーナをはじめ西アフリカでは本屋はほとんど見なかったから、これだけ充実した本棚を見るのは久しぶりだ。
電話屋の前で待っていると左手にコーヒーカップを持った細身の女性がやってきて、声をかけてくる。彼女が宿主らしい。サラという名の彼女は見た頃40代。彼女に付いて空港を出て、近くの駐車場まで行く。これが自分の車だと指さした車は、トヨタの古い型の車。おそらく80年代後半くらいのもののように思われる。
助手席に座ろうと右側のドアの前で待っていたら、逆側に回ってと言われる。車は日本と同じ右ハンドルだった。なんだか久しぶりの感覚。駐車場を出て、化片道3車線の幹線道路に入る。車は左側通行。これもなんだか懐かしい感じ。
沿道には大型のスーパーやホームセンターのような店が見える。道路はまったくきれいに整備され、走っている車も型は古くてもへこんだり、ドアがなかったり、ガラスが割れていたりすることもない。
聞くと彼女はイギリス出身で西アフリカを3ヶ月旅したりしたこともあるという。仕事でタイに暮らしたこともあり。南アフリカには10年ちょっと住んでいるとのこと。
彼女はヨハネスではどこに行くのかと聞いてくるので黒人居住区だったソウェトに行きたいと言うと、ちょうど今日、宿に泊まっている別の日本人がツアーで行くので、それに便乗してはと提案される。それならと今日、行くことを決定。
空港から20分ほどで宿があるイーストゲートという地区に入る。沿道には2m以上ある白い壁に有刺鉄線という住宅が並び、それぞれの邸宅の入り口の門の横には、セキュリティ会社のシールが貼られている。壁の向こうにちらちらと屋根が見えるが、中の建物がどういったものかは見えない。きっと豪勢な家なのだろう。
宿もがっちりとした門の中にあった。安全上なのだろう、入り口にはそこが宿だとわかるようなものは何もない。鉄のゲートを開けて、中に車ごと入る。敷地は30m×30mといったところか。かなり広い。使われていないテニスコートもある。建物はL字の平屋建て。ドミの部屋には2段ベッドが5つほどあり、その他にも個室が何部屋かあるよう。豪邸(ぼくから見れば)を宿として使っているようだった。
ちなみに宿代は1泊80ランド(約1200円)。荷物をおいて一息ついていると、サラがソウェトツアーの車が来たと伝えに来る。表に出ると通りに乗用車が一台。助手席に日本人1人。運転手兼ガイドの黒人男性が一人。
車に乗り込む。車はまずヨハネス中心街に向かう。高層ビルと古いヨーロッパ調の建物が並ぶ中心街は人通りが少なかった。まだ朝の10時だからか?それともやはり歩けないほど危険だからか? 基本的に歩いている人は黒人ばかり。白人は一人だけ。見た印象ではたいして危険そうではない。
運転手のおじさんは、この建物はどうだああだとガイドブックに載っているようなことを言う。
市街地は本当に通り抜けるだけでそのままソウェトに向かう。相変わらず幹線道路は2車線や3車線で広くきれい。市街地の東になると数百メートル向こうに小山が見える。自然にできた山ではなく、人工的に積み上げられたような山。おじさんはそうした山を指さしながら、ああいった山はどれもダイアモンドなどの鉱物を掘ったときにできた山だと解説する。
ソウェト地区の入り口らしいところ(ただの道ばただったけど)でいったん車を止め、外を眺める。中心市街からここまでの間に見えた家々は一軒家で日本の基準から言ってもそこそこの金持ちが住んでいそうな家ばかり。
ところが、そこからソウェトの中心部の方へ行くと、政府が作ったという労働者向けのアパート群が見える。車はある居住区の前で停車。ここにはこの居住区を案内するガイドがいるから、その人について見て回るといいと言う。
ガイドという青年は見たところ20歳前後。ガイドとは言ってもあれこれ説明してくれるわけではなく、その地区を一緒に歩いてくれるだけ。質問をすればもちろん答えてはくれるけど。
その地区は数百人の人が自分たちで資材を拾ってきて、自分たちで家を作って住み着いたという地区だった。幅2mほどの未舗装の道の両脇に住宅が建ち並んでいるのだが、どれも堀立て小屋レベル。壁などに使われているトタンはきれぎれ、バラバラ。なんとか隙間のないよう上手に貼られている。家の大きさは6畳からおそらく大きくても10畳程度。そこに家族で住んでいるよう。水道は何カ所かにあり、そこから水を汲んで自分の家で使うらしい。互いの敷地は有刺鉄線で仕切られていて、人によってはその敷地内に小さな畑を作っている。
歩いていると住民の人と目が合う。ハローというとにこやかにハローと返してくれる。
ガイドの青年によれば、ここに住んでいる人たちは仕事がなく、そのため収入もないため生活はかなり厳しいらしい。
20分ほどでそこをあとにする。
途中、運転手のおじさんは沿道に見えたこの地にある大学について説明した。なんでも南アフリカのいろんな問題がつまっているこの地で現場に関わりながら、そうした問題を解決していこうとする人を育成するために作られた大学らしい。
次に止まったのが教会。昼近くということでか、いわゆる炊き出しをもらいに来ている年輩者が数人教会の敷地内にいた。
この教会は反アパルトヘイト運動でとても重要な役割を担った教会だそうで、ここでは政府、つまり警察も横暴なことはできない、してはいけないというような互いの了解があった場所らしい。しかし、ここでも警官が発砲するようなことがあったらしく、そのときの弾痕が建物にはそれとわかるように残されていた。
それからまた車に乗って移動。次に行ったのは、世界で唯一ノーベル賞受賞者が2人ーその2人とはマンデラ元大統領とツツ大司教ーも出た通り。つまりマンデラとツツの生家がある通りで、ぼくとしてはマンデラハウスに行くことを楽しみにしていたのだが、これがなんと改装工事中。10月のリニューアルオープンまでまったく見学はできないとか。そういうわけで工事している脇を車で素通りしただけで終わる。
それからその通りから100mほどのところにあるヘクターピーターソン博物館(Hector Pieterson Museum)に行く。
※Hector Pieterson Museum
http://www.southafrica.info/about/history/hector-pieterson.htm
ヘクターピーターソンは、1976年のソウェト蜂起で警察からの発砲を受け、犠牲となった人の名前。当時彼はまだ12歳だった。
入場料をツアー代とは別に払い、博物館を見学。当時のビラや落書きの文句、ビデオ映像などを多用した情報量の多い博物館で、とても1時間や2時間では見切れない。例えばガラス窓にもその窓から見える風景の中のどこで何があったかという説明が付されている。
アパルトヘイトについては、概要程度しか知らなかったが、この博物館に来て初めて、10代の、日本で言えば中学生程度の子たちも半ば命がけでアパルトヘイトを撤廃させる運動をしていたことを知る。また当時の政府はそうした子どもさえも逮捕し、拘留するなどしていたとあり、そこまでひどい政府だったのかと驚く。
また、印象に残ったのが、ピーターヘクターソンの名前について。ピーターソンという苗字はそもそもの苗字ではなく、そもそもはPitsoという苗字だったらしい。しかし、アフリカネイティブのこの苗字では就業等に不利だったためヨーロッパ的なピーターソンという名前に変えたと言う。ふと在日外国人(特にコリアンや中国人ら)が日本社会で生き抜くために日本名を作り、名乗っていることを連想してしまう。その点だけで言えば、当時のアパルトヘイト下のアフリカネイティブの感覚とそうしたふうにして日本社会に生きる在日外国人の感覚は似ているのだろう。そういう意味では明文化こそしていないが、日本社会の差別的な圧力もアパルトヘイトに劣らず苛烈なものだった(である)と言えるかもしれない。
小学生や中学生、高校生たちも授業の一環で見学しに来ており、館内は盛況。ノートを片手に説明板に見入り、盛んにメモを取っている子もいる。
入り口横には売店があったので行ってみたところ、アパルトヘイトに関連した書籍や映像(DVDなど)資料がおそらく100点以上並べられていた。なかなかの量。
既に同行者と運転手は博物館を出ていたので、ぼくも1時間足らずで博物館をあとにする。
ツアーはこれでおしまいであとは宿へ。博物館代別でツアー代は約50米ドル。高いなぁ。
帰り道はすっかり寝てしまう。
宿に戻ったのは15時過ぎ。それから同宿の日本人旅行者と近くのショッピングセンターに買い出しに行く。近くにはショッピングセンター内をのぞき、食事ができるところがないので、自炊用の野菜などを買いに行く。
ここイーストゲートはショッピングセンターが集まっている地区ということで、ショッピングセンター周辺には大きな駐車場が整備されている。宿からは歩いて10分ほど。このあたりは歩いても安全らしい。
行ったのは複数あるショッピングセンターの1つだけ。3階建てで日本人の感覚からしてもなかなかでかい。中には銀行や両替屋、本屋、ネット屋、香辛料屋、高級スーパー、スポーツ用品店、電化製品店などがあり、たいていのものはここでそろう。
スーパーで夜食用の食材を探すが、品種は豊富ではあるものの値段が高い。これにもびっくりだ。自炊してもそこまで安く上げられそうにはない。
その後、センター内のネット屋に行ってみる。値段を聞くと1時間あたり400~500円。これまた驚く。当然、ネットはせず。
ショッピングセンターの近くの通りでは、路上で菓子を売っている人や交差点で新聞、果物(いちごやリンゴ)などを売っている人たちがいた。が、あまり売れている様子ではない。
明るいうちに宿に戻り、しばらくのんびりした後、調理をして夕食。ぼくは豚の肉を大量に投入したスープを作る。アクがすごかった。同宿の人は羊の肉のステーキを作る。互いにお裾分け。羊のステーキはなかなかうまかった。
夜は宿で旅話をしたりなんたりして過ごす。
シャワーはもちろんお湯が出て快適。トイレもきれい。
もう少し安ければいいんだけど、西アフリカの平均値と比べれば、圧倒的に心地よい。
Fin
08/08/21(木) 曇り
[Johannesburg:South Africa]
・ラクラク入国
・充実した空港の本屋
・広い道路
・ソウェトツアー
ガーナのアクラからジョハネスバーグに向かう飛行機の中。
ようやく眠りについたかと思ったところでバタバタする音に起こされる。着陸態勢に入った模様。
南アフリカ上空はすでに明るくなっていて、窓から外をのぞくときれいに地上が見える。他のアフリカの国と違う点は、おそらく空港の周辺に倉庫らしき建物がたくさんあることだろう。それだけでもどれだけ物資の行き来が盛んな国かがわかる。道路もきれいに整備されている。
アクラ時間の5時半に飛行機は、ジョハネスバーグの空港に着陸。南アフリカとガーナは時差が2時間あるので、時計を2時間早める。
機体を降りるとスゥッーとひんやりした空気に包まれる。夏の西アフリカから冬の南アフリカへ。気温は18度程度だろうか。
南アフリカに入るにあたって気になっていたのが、往復チケットの提示を求められるか否かということ。すでに往復チケットを買っているから、聞かれても別段問題はないのだが、少し気になっていた。
はたしてイミグレでは簡単な質問をされただけで、往復チケットの提示は求められず。全体でも5分もかからずにパスできた。
荷物を受け取りにベルトコンベアがまわる部屋に行く。辺りを見回してガーナの飛行場と比べ、変化したのが人。白人が多い。
リュックを受け取り、到着ゲートを出る。出たところに出発ロビーの階にあがるエレベーターがあったので、それに乗って出発ロビーにあがる。目的はお金をおろすこと。到着ゲートを出た右の方にもATMはあったもののまわりから丸見えなので、あまり安全なように思えなかった。そこで出発ロビーに行き、そこの一角にあったATMでカネをおろす。
それから宿に電話をするために電話屋を探す。到着ロビーの端に電話屋と公衆電話があった。公衆電話はコイン式のため、手持ちの札では使えず。電話屋で電話した方が、コインの減りとかも気にしなくて済むので、そちらで電話をする。
ヨハネスにはバックパッカー向けの宿がいくつかあって、だいたいどこも電話をすれば空港まで迎えに来てくれるような仕組みになっている。その理由はもちろん治安。ヨハネスの街では公共交通期間を乗り継いでまちなかまで行き、宿を探すなんて当たり前のことができない。
ぼくはEast Gate Backpacker'sという日本語の情報ノートがある宿に電話をする。英語での電話は苦手なのだが、まぁ、話は通じて迎えに来てくれることになった。しばらく電話屋周辺の空港施設を見学。けっこう充実した本屋があり、マンデラの本が数種類見えやすいところにレイアウトされている。ガーナをはじめ西アフリカでは本屋はほとんど見なかったから、これだけ充実した本棚を見るのは久しぶりだ。
電話屋の前で待っていると左手にコーヒーカップを持った細身の女性がやってきて、声をかけてくる。彼女が宿主らしい。サラという名の彼女は見た頃40代。彼女に付いて空港を出て、近くの駐車場まで行く。これが自分の車だと指さした車は、トヨタの古い型の車。おそらく80年代後半くらいのもののように思われる。
助手席に座ろうと右側のドアの前で待っていたら、逆側に回ってと言われる。車は日本と同じ右ハンドルだった。なんだか久しぶりの感覚。駐車場を出て、化片道3車線の幹線道路に入る。車は左側通行。これもなんだか懐かしい感じ。
沿道には大型のスーパーやホームセンターのような店が見える。道路はまったくきれいに整備され、走っている車も型は古くてもへこんだり、ドアがなかったり、ガラスが割れていたりすることもない。
聞くと彼女はイギリス出身で西アフリカを3ヶ月旅したりしたこともあるという。仕事でタイに暮らしたこともあり。南アフリカには10年ちょっと住んでいるとのこと。
彼女はヨハネスではどこに行くのかと聞いてくるので黒人居住区だったソウェトに行きたいと言うと、ちょうど今日、宿に泊まっている別の日本人がツアーで行くので、それに便乗してはと提案される。それならと今日、行くことを決定。
空港から20分ほどで宿があるイーストゲートという地区に入る。沿道には2m以上ある白い壁に有刺鉄線という住宅が並び、それぞれの邸宅の入り口の門の横には、セキュリティ会社のシールが貼られている。壁の向こうにちらちらと屋根が見えるが、中の建物がどういったものかは見えない。きっと豪勢な家なのだろう。
宿もがっちりとした門の中にあった。安全上なのだろう、入り口にはそこが宿だとわかるようなものは何もない。鉄のゲートを開けて、中に車ごと入る。敷地は30m×30mといったところか。かなり広い。使われていないテニスコートもある。建物はL字の平屋建て。ドミの部屋には2段ベッドが5つほどあり、その他にも個室が何部屋かあるよう。豪邸(ぼくから見れば)を宿として使っているようだった。
ちなみに宿代は1泊80ランド(約1200円)。荷物をおいて一息ついていると、サラがソウェトツアーの車が来たと伝えに来る。表に出ると通りに乗用車が一台。助手席に日本人1人。運転手兼ガイドの黒人男性が一人。
車に乗り込む。車はまずヨハネス中心街に向かう。高層ビルと古いヨーロッパ調の建物が並ぶ中心街は人通りが少なかった。まだ朝の10時だからか?それともやはり歩けないほど危険だからか? 基本的に歩いている人は黒人ばかり。白人は一人だけ。見た印象ではたいして危険そうではない。
運転手のおじさんは、この建物はどうだああだとガイドブックに載っているようなことを言う。
市街地は本当に通り抜けるだけでそのままソウェトに向かう。相変わらず幹線道路は2車線や3車線で広くきれい。市街地の東になると数百メートル向こうに小山が見える。自然にできた山ではなく、人工的に積み上げられたような山。おじさんはそうした山を指さしながら、ああいった山はどれもダイアモンドなどの鉱物を掘ったときにできた山だと解説する。
ソウェト地区の入り口らしいところ(ただの道ばただったけど)でいったん車を止め、外を眺める。中心市街からここまでの間に見えた家々は一軒家で日本の基準から言ってもそこそこの金持ちが住んでいそうな家ばかり。
ところが、そこからソウェトの中心部の方へ行くと、政府が作ったという労働者向けのアパート群が見える。車はある居住区の前で停車。ここにはこの居住区を案内するガイドがいるから、その人について見て回るといいと言う。
ガイドという青年は見たところ20歳前後。ガイドとは言ってもあれこれ説明してくれるわけではなく、その地区を一緒に歩いてくれるだけ。質問をすればもちろん答えてはくれるけど。
その地区は数百人の人が自分たちで資材を拾ってきて、自分たちで家を作って住み着いたという地区だった。幅2mほどの未舗装の道の両脇に住宅が建ち並んでいるのだが、どれも堀立て小屋レベル。壁などに使われているトタンはきれぎれ、バラバラ。なんとか隙間のないよう上手に貼られている。家の大きさは6畳からおそらく大きくても10畳程度。そこに家族で住んでいるよう。水道は何カ所かにあり、そこから水を汲んで自分の家で使うらしい。互いの敷地は有刺鉄線で仕切られていて、人によってはその敷地内に小さな畑を作っている。
歩いていると住民の人と目が合う。ハローというとにこやかにハローと返してくれる。
ガイドの青年によれば、ここに住んでいる人たちは仕事がなく、そのため収入もないため生活はかなり厳しいらしい。
20分ほどでそこをあとにする。
途中、運転手のおじさんは沿道に見えたこの地にある大学について説明した。なんでも南アフリカのいろんな問題がつまっているこの地で現場に関わりながら、そうした問題を解決していこうとする人を育成するために作られた大学らしい。
次に止まったのが教会。昼近くということでか、いわゆる炊き出しをもらいに来ている年輩者が数人教会の敷地内にいた。
この教会は反アパルトヘイト運動でとても重要な役割を担った教会だそうで、ここでは政府、つまり警察も横暴なことはできない、してはいけないというような互いの了解があった場所らしい。しかし、ここでも警官が発砲するようなことがあったらしく、そのときの弾痕が建物にはそれとわかるように残されていた。
それからまた車に乗って移動。次に行ったのは、世界で唯一ノーベル賞受賞者が2人ーその2人とはマンデラ元大統領とツツ大司教ーも出た通り。つまりマンデラとツツの生家がある通りで、ぼくとしてはマンデラハウスに行くことを楽しみにしていたのだが、これがなんと改装工事中。10月のリニューアルオープンまでまったく見学はできないとか。そういうわけで工事している脇を車で素通りしただけで終わる。
それからその通りから100mほどのところにあるヘクターピーターソン博物館(Hector Pieterson Museum)に行く。
※Hector Pieterson Museum
http://www.southafrica.info/about/history/hector-pieterson.htm
ヘクターピーターソンは、1976年のソウェト蜂起で警察からの発砲を受け、犠牲となった人の名前。当時彼はまだ12歳だった。
入場料をツアー代とは別に払い、博物館を見学。当時のビラや落書きの文句、ビデオ映像などを多用した情報量の多い博物館で、とても1時間や2時間では見切れない。例えばガラス窓にもその窓から見える風景の中のどこで何があったかという説明が付されている。
アパルトヘイトについては、概要程度しか知らなかったが、この博物館に来て初めて、10代の、日本で言えば中学生程度の子たちも半ば命がけでアパルトヘイトを撤廃させる運動をしていたことを知る。また当時の政府はそうした子どもさえも逮捕し、拘留するなどしていたとあり、そこまでひどい政府だったのかと驚く。
また、印象に残ったのが、ピーターヘクターソンの名前について。ピーターソンという苗字はそもそもの苗字ではなく、そもそもはPitsoという苗字だったらしい。しかし、アフリカネイティブのこの苗字では就業等に不利だったためヨーロッパ的なピーターソンという名前に変えたと言う。ふと在日外国人(特にコリアンや中国人ら)が日本社会で生き抜くために日本名を作り、名乗っていることを連想してしまう。その点だけで言えば、当時のアパルトヘイト下のアフリカネイティブの感覚とそうしたふうにして日本社会に生きる在日外国人の感覚は似ているのだろう。そういう意味では明文化こそしていないが、日本社会の差別的な圧力もアパルトヘイトに劣らず苛烈なものだった(である)と言えるかもしれない。
小学生や中学生、高校生たちも授業の一環で見学しに来ており、館内は盛況。ノートを片手に説明板に見入り、盛んにメモを取っている子もいる。
入り口横には売店があったので行ってみたところ、アパルトヘイトに関連した書籍や映像(DVDなど)資料がおそらく100点以上並べられていた。なかなかの量。
既に同行者と運転手は博物館を出ていたので、ぼくも1時間足らずで博物館をあとにする。
ツアーはこれでおしまいであとは宿へ。博物館代別でツアー代は約50米ドル。高いなぁ。
帰り道はすっかり寝てしまう。
宿に戻ったのは15時過ぎ。それから同宿の日本人旅行者と近くのショッピングセンターに買い出しに行く。近くにはショッピングセンター内をのぞき、食事ができるところがないので、自炊用の野菜などを買いに行く。
ここイーストゲートはショッピングセンターが集まっている地区ということで、ショッピングセンター周辺には大きな駐車場が整備されている。宿からは歩いて10分ほど。このあたりは歩いても安全らしい。
行ったのは複数あるショッピングセンターの1つだけ。3階建てで日本人の感覚からしてもなかなかでかい。中には銀行や両替屋、本屋、ネット屋、香辛料屋、高級スーパー、スポーツ用品店、電化製品店などがあり、たいていのものはここでそろう。
スーパーで夜食用の食材を探すが、品種は豊富ではあるものの値段が高い。これにもびっくりだ。自炊してもそこまで安く上げられそうにはない。
その後、センター内のネット屋に行ってみる。値段を聞くと1時間あたり400~500円。これまた驚く。当然、ネットはせず。
ショッピングセンターの近くの通りでは、路上で菓子を売っている人や交差点で新聞、果物(いちごやリンゴ)などを売っている人たちがいた。が、あまり売れている様子ではない。
明るいうちに宿に戻り、しばらくのんびりした後、調理をして夕食。ぼくは豚の肉を大量に投入したスープを作る。アクがすごかった。同宿の人は羊の肉のステーキを作る。互いにお裾分け。羊のステーキはなかなかうまかった。
夜は宿で旅話をしたりなんたりして過ごす。
シャワーはもちろんお湯が出て快適。トイレもきれい。
もう少し安ければいいんだけど、西アフリカの平均値と比べれば、圧倒的に心地よい。
Fin
2008年10月27日月曜日
[速報]サナアに戻りました
今、サナアです。
今朝、アデンを出て1日かけて戻ってきました。
報道をご覧になった方もいるかと思いますが、イエメン南東部では大雨、洪水、雷で60人を超える死者が出たようです。今朝、アデンからその南東部のまちムカッラに行こうとしていたところ、通りすがりのおじさん2人が英語で話しかけてきて、ムカッラはめちゃくちゃになっているから行かない方がいいと新聞の写真を見せながら教えてくれました。
アデンから乗ろうと思っていた乗り合いタクシーにも乗せてもらえず、バスもないとのことだったので、結局、ムカッラに行くのはやめ、サナアに戻ってきたしだい。陸路でオマーンに行くには南東部を通らないといけないのですが、橋なども寸断されているようなのでどうも当初予定していたルートでは無理のようです。なので、また飛行機に乗らざるを得ないかと。
明日はその飛行機探しですね。
では。
2008.10.26 11;03
Sana'a,Yemen
今朝、アデンを出て1日かけて戻ってきました。
報道をご覧になった方もいるかと思いますが、イエメン南東部では大雨、洪水、雷で60人を超える死者が出たようです。今朝、アデンからその南東部のまちムカッラに行こうとしていたところ、通りすがりのおじさん2人が英語で話しかけてきて、ムカッラはめちゃくちゃになっているから行かない方がいいと新聞の写真を見せながら教えてくれました。
アデンから乗ろうと思っていた乗り合いタクシーにも乗せてもらえず、バスもないとのことだったので、結局、ムカッラに行くのはやめ、サナアに戻ってきたしだい。陸路でオマーンに行くには南東部を通らないといけないのですが、橋なども寸断されているようなのでどうも当初予定していたルートでは無理のようです。なので、また飛行機に乗らざるを得ないかと。
明日はその飛行機探しですね。
では。
2008.10.26 11;03
Sana'a,Yemen
2008年10月25日土曜日
[速報]アデン(イエメン)いり
今朝、タイズを出てアラビア海に面する町アデンにきました。
乗り合いタクシーの運転手がぶっとばしてくれたおかげで2時間ちょっと、
午前中のうちにここに着きました。やはり海辺は暑いですね。
スエズ運河ができる前までは世界3大港の1つだったまちらしく
なかなか大きな町ですね。
ただ予算のこともあり、明日にはまたここを離れ、オマーンよりの
ムカッラというまちに向かいます。
ムカッラからはオマーンに国際バスが出ているらしいので、
うまく乗り継げれば、3日後くらいにはオマーンです。
では。
2008.10.25 13;40
Aden,Yemen
عرض خريطة بحجم أكبر
乗り合いタクシーの運転手がぶっとばしてくれたおかげで2時間ちょっと、
午前中のうちにここに着きました。やはり海辺は暑いですね。
スエズ運河ができる前までは世界3大港の1つだったまちらしく
なかなか大きな町ですね。
ただ予算のこともあり、明日にはまたここを離れ、オマーンよりの
ムカッラというまちに向かいます。
ムカッラからはオマーンに国際バスが出ているらしいので、
うまく乗り継げれば、3日後くらいにはオマーンです。
では。
2008.10.25 13;40
Aden,Yemen
عرض خريطة بحجم أكبر
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