2010年12月31日金曜日

[diary]アッコーの旧市街、ホロコースト博物館

アッコーの旧市街、ホロコースト博物館

08/11/17(月)
[Jerusalem→Haifa→Acco→:Israel]

・エルサレムからハイファへ
・ハイファからアッコー
・アッコーの旧市街
・キブツ附属ゲットーファイターズハウス
・物価高!

6時過ぎに起床。荷自宅をして7時半前に宿を出る。

今朝も気温は20度をちょっと下回った程度。ひんやりしている。歩いてセントラルバスステーションに向かう。再整備のためか車道の路面が掘り返されている通りを歩く。まだ人通りはまばら。

30分ちょっと歩いてバスステーションに到着。例のごとく入り口でセキュリティチェックがある。空港と同じように金属反応を調べる機械の中を通り、荷物をベルトコンベアの上に乗せてチェックを受ける。

昨日はこれでもかというくらい兵役中らしい若い軍人がうじゃうじゃといたが、今日はわりかし少ない。しかし、ライフル銃を持っている人はいるからやっぱり目立つ。入り口でセキュリティチェックをしているのに、これだけ銃を持ち込んでいたら意味がないような気がするのだが・・・。
From israel


エスカレーターで3階にあがり、チケット売場でハイファ行きのチケットを買う。片道41シュケル(約1300円)。高い。たった150km程度の移動というのに、宿賃よりも高い。

ハイファ行きバス用の乗車口に行き、列に並ぶ。ほとんど待つことなく、バスがやってきてそれに乗り込む。バスに乗り込むマナーはドバイよりもよろしくなく、列を作って並んでいるのにいざバスのドアが開くと、列は崩れぐちゃぐちゃとドアに殺到するような形になる。ただ、ドバイのようなおかしいレディファーストの習慣はないよう。

8時過ぎにバス発。乗車率は9割ほど。

昨日と同じく市街地を出るとバスは下り坂をどんどん下っていく。片道2車線の車線もしっかりひかれたきれいな道路。車窓からは丘の上に立つ4~5建てのアパート群が見える。そのうちビニールハウスやビニールマルチを使った畑が沿道に見えてくる。
From israel


10時前、寝ている内にハイファに到着。やっぱりイスラエルは小さい。国内でも北の端なのに2時間程度で着く。
From israel


ハイファのバスターミナルの建物は小さいながらもきれいに整備されており、建物内には洋服屋から雑貨屋、本屋、アーミーグッズ屋、カフェなどが入っていた。インフォメーションでアッコーに行くバスの乗り場を聞く。

12番乗り場からアッコー行きのバスに乗る。チケットは乗車時に運転手から買う。13.4シュケル(約400円)。高いなぁ。

ハイファには何本か高層ビルがあった。ただ市街地からバスのルートは外れているらしく、中心部がどんなふうなのかはわからず。地中海を左手に見ながら北に向けて走る。車道にはバスの専用レーンが引かれており、バスはその専用レーンを走る。

幹線道路沿いには大きなショッピングセンターがいくつか見える。日本と同じようにまちの郊外に大きな店が立地している。

一度、どこかのバスターミナルで降ろされ、そこで乗り換えるように言われる。乗り換えのバスは向かいのホームにすぐに来たから待ち時間はほとんどなし。チケットもさっき買ったものがそのまま使えたので追加料金はなし。

11時頃、ようやくアッコーのバスステーションに到着。乗り換え時間などのためもっと時間がかかるだろうと思っていたのでずいぶん早く着いた印象を受ける。ターミナルはとても小さい。エルサレムからハイファまでのバスには、外見で判断する限りイスラム系の人は乗っていなかったが、ここではバス停にスカーフをかぶった女性等がいる。

手元の地図を見ながら旧市街を目指す。舗装されている歩道を歩き、服屋ばかりが並んでいる歩行者天国を歩いていく。バスステーションから15分ほどで旧市街の入り口に到着。ユネスコのマークが描かれた看板があり、城壁近くには解説板もある。

十字軍からナポレオン、オスマントルコと世界史で習ったような名前がごろごろ出てくる。

旧市街の入り口に近い宿にチェックイン。数年前のガイドブックにはここのドミトリーは25シュケルだったようだが、今は40シュケル(約1200円)。縦長の8畳程度の部屋に2段ベッドが4つあるだけの部屋。トイレとシャワーは共同。かなりしょぼい。

宿代を払って荷物を置いて、旧市街を見に行く。まさしく城壁都市という感じで数メートルの壁に囲われている道ばかり。港には小さな漁船(ボート)がたくさん泊まっており、道ばたには捨てられているのか漁網が山積みにされていたりする。学校の授業の一環なのか中学生くらいの男女の集団が港近くにいて、観光用なのだろう大蛇を首にかけてみせるおじさんを取り囲み、歓声をあげている。

港の水はとても澄んでいて、海中にいる小さな魚の群がよく見える。
From israel


旧市街は迷路のように小道が張り巡らされている。そこを適当にぶらぶらと歩いて回る。ここらは道の名前を示す標識も道ばたから聞こえる言葉もアラビア語ばかり。

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昼ということでシーフードレストランにでも入ろうかと思っていたが、どこも1000円近くするので断念。

この旧市街の中には十字軍のまちと呼ばれるところやオスマントルコ時代に作られたハンマーム(公衆浴場)など世界遺産となっている見所があれこれあるのだが、入場料が軒並み1000円程度もし、かつ遺跡の関係にはあまり関心がないこともありすべてパス。
From israel


観光客はエルサレムほどではないが、ぼちぼちいる。おそらくハイファあたりに泊まってここは日帰りなのだろう、大型バスが駐車場に数台停まっていて、観光スポットあたりにのみ外国人らしき人々がたむろしていた。駐車場ではバスの運転手らが時間潰しに水タバコを吸っていた。

ガイドブックにここからバスで行けるところにホロコースト博物館があるとあったので、そちらに向かう。途中、ピタサンドでも買おうかといくつか店をのぞくが、これがまたどこも10シュケル(約300円)以上するところばかり。エルサレムよりも高い。なのでパス。

いったんバスステーションに行き、そこから271番のバスに乗る。郊外に出てしばらくすると、右手にローマ式の水道橋が見える。高さ10mほどの水道橋はきれいに残っていて100mほど続いている。
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それを過ぎた直後に沿道に博物館を示す看板を見つけ、次のバス停で降りる。同じバスに乗っていた兵役中らしい軍人(?)男女10人ほども同じバス停で降りる。

バス停の裏がキブツの入り口になっていた。入り口には門があり、端の方にゲストハウスや博物館、カフェなどの位置を指し示す案内板が立っている。キブツがどんなところなのかまったくわからなかったのだが、ここの場合は広大な工場のような雰囲気。入り口を入るとコンクリート製の建物が右手と左手に数棟あり、真ん中に奥へと続く舗装道路が走っている。やや傾斜があることもあり、奥はどこまで続いているのかわからない。標識に沿って博物館に行く。途中、日本ではあまり見ることができない大型のトラクターなど農業機械が置かれている場所あり。

博物館は敷地の南の端にあった。さっき見えたローマ式水道橋が近くに見える。同じバス停で降りた軍人たちが一足早く着いており、ガイドらしき人を付けてさっそく見学している。

6年ほど前の『歩き方』によればここの入場料は無料とあったのだが、受付に行くと入場料を請求される。しかも20シュケル(約600円)。高いなぁと一瞬ひるむが、ここまで来ているし、エルサレムやテルアビブの博物館は入場料を理由にパスしたので、ここは入ることにする。受付と向かい合っている壁を見ると、なにやら団体名などが刻まれていたのでよく見てみると、どうもこの博物館は最近リニューアル(あるいは展示内容の拡充)したようで、それを支援したグループの名前などがそこに書かれているのだった。アメリカのユダヤ人団体やアメリカの教育省(?)の名前もある。

受付の男性は英語はあまり得意ではないらしく、一枚の紙をぼくに渡しながら何かを伝えようとするのだが、言葉が出てこない。紙を見るとこの博物館のルートなどを説明したものだったので、このことについて何か言いたかったよう。適当にオッケーなどと言って中に入る。なお、ぼくが受付に着いたとき、受付の男性は電話をしていたのだが、その際の言葉はロシア語だった。

展示は大きく3部構成になっていて、それぞれのタイトルは以下の通り。1.The Jews of Holland during the Holocaust(ホロコースト期のオランダ在住ユダヤ人たち), 2.Concentration and Death Camps(強制収容所、死の収容所), 3.Yizkor Hall-Museum Archive(ここの博物館についてのアーカイブ)。

どの展示も基本的に拡大した写真と映像、少数の現物によるもの。

2.Concentration and Death Campsのコーナーは、ドイツにおけるナチスの台頭から始まる。このコーナーは予想以上に充実していて、コーナー内部でHall of Testimony(証言), Germany Overruns Nations and Cuntries, Ghettos and Deportations(強制送還), the model of Anne Frank's house, Jewish Resistance in the Holocaust, the Righteous among the Nationsといったテーマに分かれている。
From israel


展示の解説はヘブライ語と英語。ゲットーのコーナーでは特にポーランドはワルシャワのゲットーが取り上げられていた。当時のユダヤ人ゲットーの中ではここが最大だったらしく数十万の人がここに住まわされていたらしい。ゲットーの周辺は金網や有刺鉄線が張り巡らされ、内部は人口過密だったらしい。当時の写真や説明文を見ていると、ネット上で読んだパレスチナのガザ地区に関する文章とだぶって見える。

ガザ地区は青空監獄と呼ばれているらしく、四方を完全に封鎖され、地区外との行き来は不自由で、内部は人口過密。さらに失業率は8割を越えるらしい。まさしくユダヤ人がナチ政権下で経験したことを今度は自分らが別の人たちに強いているわけで、そのことをイスラエルの一部の人々は認識しているだろうに、なぜこのようなことを続けているのか? 

もしパレスチナの博物館を作ることになれば、きっとここの展示内容の当事者を入れ替えたようなものになるだろう。ここに見学に来ている若い兵士たちはここで見たことをどう受け取っているのか気になるところ。

16時が閉館時間だったので、それまで見て、またバスを拾って宿に戻る。

旧市街の市場などはもう店じまいを始めていた。晩飯をどこかで食べようかと思い、レストランを眺めるがどこも500円以上するようなところばかりなので断念。

17時過ぎに日が暮れて以降は宿にこもる。部屋は細長い8畳ほどのところに2段ベッドが4つ。たまたまエルサレムで同じ宿だったアメリカ人らしい若い男二人も同じ部屋だった。年輩のオーストラリア人のおじさんもいて、1ヶ月ほど中東を旅行しているらしい。

Fin

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