ビシュケクからアルマティへ
2009/02/11(水) アルマティは霧雨 2度程度
[Bishkek:Kyrgyzstan→Almati:Kazakstan]
レート:1米ドル=147テンゲ=90円、1ユーロ=180テンゲ=118円
・マルシュルートカで1時間待ち
・国境越え
・移動中にて
・マルマティ着
・日本大使館出張駐在館事務所閉館日
ビシュケクの宿,南旅館。
昨晩もやや夜更かししたため、やや寝坊。時計が動いていないから何時かわからない。
とにかく宿を出る支度をして、玄関前に荷物を移動させる。そして鍵を返そうと宿主の部屋をノックするが誰も出てこない。なので、別室で寝ている旅行者を起こして鍵を頼む。
歩いて近くのバス乗り場まで行き、そこで132番のマルシュルートカに乗る。通勤者などで満席になっていたら面倒だなと思っていたが、幸い空いていた。運賃8ソム(約20円)。
道の渋滞はいつも通り。距離のわりに時間がかかる。
30分ほどかかって終点の西バスターミナルに到着。すぐ近くのアルマティ行きのマルシュルートカ乗り場に移動する。20代前半くらいのロシア系男性が客引きをしていて、彼に運賃を確認してから荷物を後部に乗せてもらう。車はメルセデスベンツのスプリンターという大型ワゴン。助手席に2人、後部座席に15人ほど乗れる。また後部座席の正面上部にはソニーのテレビが備え付けられている。
彼に出発時刻を聞くと7~8人集まったら出ると言うので、両替と買い物に行く。バスターミナルの敷地内にある両替所で昨日オシュバザールの両替所で拒否された10米ドル札を使ってテンゲを入手する。ソムを間に挟むため1米ドル=135テンゲになる。
カザフスタンは物価が高いらしいので、ここで食料を少し買うことにする。残っているソムでパンを買う。1枚10ソム(約25円)。
それから車に乗り込み、書き物をしたりしながら発車を待つ。ぼくの次に乗り込んできたおばちゃん二人は待っている間、何度か運転手の彼を呼び、いつ出るのかと聞く。そのたびに彼はあと何人集まったらと答える。
車に乗車したのが9時40分頃。そして、ようやくそこそこの乗客が集まり、発車したのは10時35分頃だった。
運転手は東バスターミナルにも寄って、そこで数人の客を集めてくる。結局車内は8割程度埋まる。
テレビではバスターミナルで待っている間からすでに映画が流されていて、乗客の何人かはずっと画面を見続けている。ロシア映画(ロシア語)なのでぼくにはさっぱりセリフがわからないのだが、映像を見ているだけでもコメディ映画だということはわかる。
20分ほど走るとなだらかな平原が左右に広がる。雪がところどころに残っている。
11時半前、カザフスタンとの国境に到着。車からみな荷物をおろし、客は客でイミグレの方へ行き、車は車で車チェックの方へ行く。
カザフやキルギスの人はパスポートではなく、身分証だけで国境を行き来できるためさらさらと行ってしまう。ぼくは一人外国人用のボックスに行く。面倒くさいことがなければいいが、と思っていたが、杞憂に終わる。数秒でスタンプをもらい、さっさとキルギス出国。
そこから歩いて50mほど行くとカザフのイミグレがある。こっちはいくらか行列ができていた。パスポートコントロールの窓口の女性にパスポートを渡す。ロシア語はしゃべれるかとロシア語で言われ、少しだけと答える。カザフスタン入国の目的やこの後どこに行くかを聞かれる。最後に気になっていた滞在登録は必要かと彼女に聞くと必要ないとのことだった。
その後、荷物チェック。チェックの方法は機械に通すだけ。税関申告もしないといけないかと思っていたが、3000米ドル以上の現金などを持っていなければ必要ないらしい。言葉がわからなかったので、申告書を一通り書いたのだが、担当の人はぼくが書いた所持金額を見て申告は不要と言う。ただ、そこへ人相の悪い別の係官が来て、ここでカネを数えて見せろと言うようなことを言う。そんなことする必要はないと言うと、担当の係官も必要ないと彼に言う。彼もカネを抜き取ろうとでも考えていたのだろうが、まともな担当者のおかげでさっさと抜けることができる。
これで入国完了。イミグレを出たところには両替屋やガソリンスタンドがあり、タクシーの客引きなどもいた。
車のチェックの方が時間がかかり、ぼくらはしばらく待たされる。
12時過ぎようやく車がやってきて、再度乗り込む。
車窓からはうねうねと波打っている丘陵が見える。木はない。ときどきその丘陵を羊の群を連れて歩いている人たちを見る。
車内では1作目の映画が終わり、新たな映画が始まる。今度もちょっとしたコメディ映画。言葉がわからなくてもそこそこ楽しめる。
道路はきれいに整備されているため、車は上下に揺れたりすることはない。
2作目の映画が終わるともう映画は流されなかったので、暇になる。車窓からは白くなった木々や遠くに雪山を見る。その景色からビシュケクよりもずいぶん気温が低いことがわかる。車内は暖房が効いて十分暖かいためときどき寝る。休憩はなし。
だんだんとアパート的な建物が増える。ビルのてっぺんにアルマティとキリル文字で書かれている文字板を見る。車はそこをいったん素通りして、Uターンしてそのビルの下の駐車場に入る。そこが終点のサイランバスターミナルだった。
車から降りるとタクシーの客引きがやってくる。リュックを受け取り、運転手にトロリーバス乗り場を聞く。指さして教えてくれたので、そちらに行く。
さっきまで暖かい車内にいたためか外がやけに冷たく感じる。実際に気温もゼロ度前後なのかもしれない。手は外に出していたらすぐに冷えて動かなくなる。
ちょうどその乗り場に着こうというときに乗る予定の19番のトロリーバスに追い越され乗ることできず。すぐに来るかと待っていたが、これがなかなか来ない。
20分ほど待ってやっとやってきたトロリーバスに乗る。乗って驚いたのは、自動精算機が使われていたこと。しかも精算機は違う形のものが2台並んでいて、片方にオカネを入れると片方からお釣りが出てくる。なぜ二つに分かれているのか気になる。ちなみにお札は使えない。ちゃんとお釣りが出るのはすばらしい。乗客はみなこの機械で運賃50テンゲ(約30円)を払い込み、チケットを手に入れる。
無事に乗り込んだはいいものの、乗って10分もするとどうも中心部とは反対の方向に行くものに乗ったことに気づく。ただ、幸いなことに終点まで20分足らずだった。
先に出るトロリーバスに乗りかえ、出発を待つ。10分ほど待つと発車。
さっきも通った道を通って中心部に向かう。旧ソ連のまちらしく街路樹が多い。それから霧が深い。
ガイドブックではぼくが泊まる予定をしている宿の近くの交差点まで20分ほどとあったのだが、なかなかそれらしきところに着かない。いつまでたっても木立の多い幅広の道路。全体的に暗い。中心部に来たとわかるような明るさがなかなかやってこない。
と、突然、交差点にどでかい電光掲示板を見る。バレーボールコートの半面はあろうかというくらいでかい。電光掲示板には動画の広告が次々と流れる。その他にもここほどでかくはなかったが、いくつか広告用の電光掲示板を見る。
周りの建物に書かれている通り名を読みながら、地図で現在地を把握しようとするが、通り名が地図上に載っていなかったりしてよくわからない。
その様子を見ていたらしい初老の男性がロシア語で話しかけてくる。どこに行きたいのかと聞いてくるので目印の大学名を伝えるが、彼は知らないよう。そこへその男性の前に座っていたマラソンの有森裕子似の女性が英語でどこに行きたいのかと聞いてくる。それで目安の通り名を伝えると、そこに着いたら教えてくれると言う。
ホテルらしき建物などがいくつか見え、いくつかの交差点を越えた頃、女性が次だからと教えてくれる。停留所は目的の通り(今走っている通りとは交差している)を通り過ぎたところにあるらしく、彼女は一度戻らないといけないということまで教えてくれる。だが、ちょうど信号待ちのために目安の通りとの交差点でバスが止まったので、そこで運転手にお願いしてドアを開けてもらい、降りる。
外は霧。地図を見ながら宿を目指す。右手にエッフェル塔を模したらしい作りものが見える。高さは20mほどあり、材質も普通の鉄塔と同じだからただの見せ物なのか、それとも実際に電波塔かなんかで使っているのかよくわからない。ただ、それはホテルの入り口に建てられているので、おそらく作りものなのだろう。ホテルの入り口の軒とエッフェル塔の模造品はくっつくような距離にあるから、ごちゃごちゃしていてあまり見た目にはきれいではない。
歩いていても霧の水滴を感じるほど、霧は濃かった。地図からするとそろそろ着いていいような場所にきたのだが、それらしきところが見あたらない。なので、近くにいた若い男に聞く。ロシア語で話しかけたのに相手には通じておらず、英語はわからないと言われ、英語ができる友達を携帯電話で呼び出してくれる。その友達はすぐ近くにいたようで、すぐに現れた。彼に聞くとこの先を左に曲がったところにあるという。
だが、ぼくが行きたかった宿は隣の建物だった。入り口の看板を見て確認。2階の受付に行く。学生寮をホテルとしても解放しているところらしいことは聞いていた。2階にあがると確かに学生くらいの年齢の女の子たちが廊下にいて、ぼくの姿を見ると友達同士で何かを言い合う。どうせ髪が長いだの、髭がどうのだと言っているのだろう。
受付の女性は慣れたものでさっさと手続きをしてくれる。何泊するか聞かれ、とりあえず2泊と伝える。部屋は416号室。ドミトリーで1泊1000テンゲ(約700円)。部屋に誰かいるらしく鍵はもらわず。
階段を上り最上階へ。416号室のドアを開けると背の高い若い男が一人いた。「ズドラーストヴィチェ」とロシア語で挨拶すると、挨拶が返ってきた後で「ニホンジンデスカ?」と日本語で聞かれる。ビシュケクで会った日本人がこの宿で韓国人と一緒だったと言っていたのを思い出し、彼がそうかと合点する。
彼は日本語はほんの少しだけ知っているらしい。会話は英語。彼はお茶を淹れてくれる。ありがたくいただく。
聞くと彼はイギリスの大学に通う大学生で、専攻はロシア研究(特にロシア語)らしい。大学の制度上、在学中にロシアに1年滞在しなくてはいけないらしく、今は休みでカザフスタンを旅行していると言う。この後、ウズベキスタンなどにも行く予定らしい。
お茶を飲み干してからぼくは外に出る。滞在登録(レギストラーツィア)の件で日本大使館に確認したいことがあったので、まずは日本大使館に向かう。
日本大使館への道は緩やかな下り道。霧が濃くてあまり見通しは良くない。暗い。沿道には映画館、スーパーやしゃれたカフェなどを見る。それだけでもキルギスとの違いを感じる。HSBCというイギリス系の銀行があったりするのも違う。外資が入っているレベルが明らかに違う。それからATMもあちこちに見る。
通りを歩く人は少ない。日本大使館(正確には出張駐在館事務所)まで30分近く歩いたが、すれ違ったのは50人もいない程度。歩道も広いし、道路も広いが人口密度は低い。
1階はきれいにリニュウアルされているが、2階から上はボロボロという建物もある。
日本大使館が入っているビルに行き、1階にいた警備員のおじさんに聞くと、今日は休みだと言う。残念。同じビルにシティバンクがあったので、そこでドルをおろす。
テンゲに両替することも考えたが、今はどんどん落ちているらしいので、1日様子を見ることにして、今日は両替せず。
帰りがけ歩道にあるキオスクをのぞく。新聞が20種類ほどあるところもウズベクやキルギスと違う。トルクメやウズベクでは新聞はないに等しかったし、キルギスも少なかった。だが、ここのキオスクには多種類の新聞が並び、雑誌も豊富。なお、ビシュケクではキオスクで普通にヌード専門の雑誌がぶら下げられて売られていたが、ここではそうしたものは売られていない。
数ある新聞の中から英語のものを探す。1紙だけ「Central Asia Monitor」と英語でタイトルが書かれた新聞があったので、それを買う。お値段45テンゲ(約30円)。新聞は安い。
宿に戻ると同室のおじさんたちが部屋にいた。50歳は過ぎていそうなおじさんと40代前半くらいに見えるおじさんの二人。ロシア語で挨拶。
自分のベッドに座り、さっき買った新聞を広げてみると、なんと英語なのはタイトルのみで、記事は完全にロシア語だった。おじさんたちがロシア語が読めるのかと聞いてきたので、読めないと答える。それで片言ロシア語と仕草で英語かと思って買ってきたら違ったと言うと、言葉は不十分だったものの意図は伝わったらしく笑っていた。
そこへ韓国人の彼が戻ってくる。彼は同室の16歳の少年のボクシングの試合を見に行ってきたらしい。今、10代のボクシング大会が行われているらしく、その大会に出る選手がこの宿に多く泊まっているらしい。彼は今晩のバスでトルキスタンというまちに行くらしいが、バスは遅い時間のためしばらく部屋で待機のよう。
彼を加え4人で話ながら夕食。ぼくがビシュケクで買ったパンを取り出すとおじさんの一人がそれを取ってビリビリに裂いてみんなで食べようと提案する。おじさんたちは魚の缶詰やビスケットを供出。一緒に食べる。が、ビスケットはどうやったらここまで湿気るのかと聞きたくなるくらい湿気ていた。ビスケットの端を持って振るとしなるし、口に入れてみるとすでに誰かの口の中にしばらく入っていたんじゃないかと思えるくらい湿気ている。
韓国人が通訳となり、おじさんたちと話す。聞いてくるのは他と同じ。年齢はいくつだ、結婚しているのか、なぜ結婚していない、どこから来たのか、どこに行くのだ・・・といったような質問。本当にここらの人は、というよりも世界の人(いわゆる先進国をのぞく)は、結婚話が好きだ。中でもここらの人は必ず聞いてくる。もっとも話しかけてくるのはぼくより年輩の人が多いから、みなたいてい結婚している人で子どももいる人が多い。こちらとしてはなんで結婚したのかと聞きたいとところだが、あえて突っ込まず。
20時頃、韓国人が去る。同室のおじさんの一人が彼を見送りに出たので、そこで会話は終了。ぼくはベッドで『罪と罰』を読む。残ったおじさん(大学教授)はヒューレットパッカードのノートパソコンでなにやら作業を始める。
『罪と罰』を読み始めたものの寝ころんでいたら眠くなり50ページも読まないうちに寝てしまう。
Fin
2011年3月7日月曜日
[diary]ビシュケクでだらだら 再々々々
ビシュケクでだらだら 再々々々
2009/02/10(火) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
昨晩もおしゃべりして夜更かし。朝の3時過ぎまでしゃべっていた。
よって朝は大幅に寝坊。腕時計が動かなくなったままなのは不便だ。
しばらく書き物をしてから出かける。同室の人に教えてもらった安い食堂に行ってみる。宿から歩いて5分ほど行ったところに小さな小さなバザールがあってその一角にあると聞いていたのだが、いまいちわからず。なので、適当にその一角にあったカフェに入る。先客が2組ほど。
メニューを眺めてこれまで注文したことのない名前を探す。それから値段を見て100円程度の料理かどうかを確認。なんだかわからなかったがアシュリャムフという料理を注文。が、これがないという。じゃあ何があるのだと尋ねたらメニューにあった30ほどの料理のうち10ほどしかないと言う。その中から食べたことがある気がするけどはっきりしないショルポという料理を注文。
しばらく待つ。台所の方を見ていたら自分のものらしい料理が出てきたのだが、ウェイトレスの女性がこっちに持ってこない。他の客としゃべっていて動く気配がないから自分で取りに行く。すると彼女はあわてて「イズヴィニーチェ」と謝る。彼女に声をかけて持ってきてもらう方法もあったのだが、ここも客から代金の他にサービス料を取るようだから、こうして自分で取りに行ったことで彼女はそれを請求しないだろうという読みそうしてみた。
料理は以前にも食べたことのあるものだった。トルクメニスタンでだったかな。肉の出汁が出ている透明のスープに羊のバラ肉の固まりと小さなじゃがいもが丸ごと2個。ただそれだけ。お茶やパンは別料金になるから頼まず。
あっと言う間に食べてしまう。会計を頼むとなんと彼女は恥ずかしげもなくサービス料を請求してくる。料理代40ソム(約90円)とサービス料3ソム(約8円)。額が小さいので素直に払ったが、なんのためのサービス料かわかってないなぁ。
それから写真のデータを整理するためにネット屋に行く。あれこれやってたら2時間ほど経過してしまった。1時間40ソムだから合計80ソム(約180円)。
それから明日のバス代のためのソムがなかったので、オシュバザールに両替に行く。バス(6ソム)に乗って1本。昨日も両替した両替屋で10米ドル札2枚を出し、両替してもらおうとしたところ、一方のお札にちょっとした破れ目(約1cmほど)があり、他にも破れそうな皺(しわ)があるため、こっちは両替できないと言い出す。そのくせしてこちらに渡すソム札はボロボロ。しわくちゃで一部破れているものはいくらでもある。やれやれ。ソムはボロボロでもいいが、米ドルはそうはいかないらしい。
オシュバザールでは通路でナン(円形のパン)を売っていたおばちゃんからナンを3枚買う。
またバスに乗って宿に戻る。
17時過ぎに宿に戻ってしばらくした頃、宿のチャイムが鳴る。また一人旅行者がやってきた。日本人男性。22歳の学生らしい。
ロシア語を勉強している別室の日本人男性(ぼくとほぼ同年代。以下、A君)と今来たばかりの彼(以下、B君)とでしばらくおしゃべり。なぜキルギスに来たのかとB君に聞く。彼はインドからカザフスタンに飛行機で行き、そこから南下してきたらしい。ちなみに中央アジアにはまったく来る気はなく、カザフスタンとかキルギスについてはどこにあるのかさえ知らなかったと言う。
ちなみに彼は日本の下関から韓国の釜山に船でわたり、その後韓国の仁川(インチョン)から中国のどこかだかにやはり船で行き、そこから陸路でラオス、ミャンマーなどに行き、飛行機だったかでインドに飛び、そしてここらしい。特に最終目的地はなく、カネが続くまで旅行すると言う。
ぼくとA君は、二人してキルギス、特にビシュケクのダメな部分についてあれこれ彼に説明する。これはもはやちょっとしたネガティブキャンペーン。一通り聞いた後、B君は「宿から出る気がしなくなったんですけど・・・」と言う。キャンペーン成功!
A君は、たとえばロシア革命時に日本に逃げてきた白系ロシア人のこと(具体的にはプロ野球の巨人軍で活躍したビクトル・スタルヒンのこと)や、チョコレートのモロゾフもその系統であることを知っているなど、ロシアや中央アジアのことについてけっこう詳しいので聞いたら、大学の卒論で中央アジアのことをやったらしい。彼は、ロシア・旧ソ連の歴史をもう一度詳しくやってみたいと言う。その理由として、たとえば、こんなところ(カザフやキルギス)にドイツ人がいたり、チェチェン人がいたり、タタール人がいたりと、わけのわからないことがけっこう多いから、といったことを彼は挙げる。
ぼくも彼同様、特にスターリン時代に何が起こったのかが気になる。滅茶苦茶なことをしたということは知っているが、具体的にどんなことをしたのかまでは知らない。
またソ連崩壊後の出来事についても同様。ぼくもA君もソ連崩壊については覚えているが、その後、たとえばタジキスタンで血で血を洗うような内戦があったことなどは、ぼくは今回ガイドブックで読むまで知らなかった。またアゼルバイジャンでもソ連崩壊後のどたばたの中で虐殺があったらしいことは、バクー市内にあったモニュメントを見て初めて知った。とにかくソ連及びその崩壊後の出来事については知らないことばかりだ。
話している中で面白かったのが、A君の友人のロシア人かキルギス人だかが、母親を連れて日本に行ったときの話。
その母親は日本に来て、日本のあるテレビ番組を見たとき腰を抜かしそうになるくらい驚いたことがあったらしい。何が母親をそれほど驚かせたのか? 母親を驚かせたもの、それは他でもない俳優(?)の岡田真澄だった。母親は岡田真澄を一目見たとき、完全にスターリンだと勘違いし、”生きていたんだ!”と驚いたらしい。
ちなみにぼくは腰を抜かすほどではなかったけれども、同じように驚いたことがある。ぼくの場合はその母親とはまったく逆でテレビで「映像の20世紀」というシリーズものを見ていたとき、その中でスターリンが出てきたときに、”あっ、岡田真澄じゃん!”と思って興奮したことがある。
彼の話を聞いてやはり旧ソ連人でも見間違えるのかと面白かった。ちなみに岡田真澄の父親だかはロシアからやってきた人だったはず。理由はロシア革命だったような気がしたが、うろ覚えで自信がない。
その他もろもろの話をしていたら眠くなる。いつの間にか日付が変わり、時間も1時を過ぎていたので解散。
明日の出発の準備をしてから寝る。
Fin
2009/02/10(火) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
昨晩もおしゃべりして夜更かし。朝の3時過ぎまでしゃべっていた。
よって朝は大幅に寝坊。腕時計が動かなくなったままなのは不便だ。
しばらく書き物をしてから出かける。同室の人に教えてもらった安い食堂に行ってみる。宿から歩いて5分ほど行ったところに小さな小さなバザールがあってその一角にあると聞いていたのだが、いまいちわからず。なので、適当にその一角にあったカフェに入る。先客が2組ほど。
メニューを眺めてこれまで注文したことのない名前を探す。それから値段を見て100円程度の料理かどうかを確認。なんだかわからなかったがアシュリャムフという料理を注文。が、これがないという。じゃあ何があるのだと尋ねたらメニューにあった30ほどの料理のうち10ほどしかないと言う。その中から食べたことがある気がするけどはっきりしないショルポという料理を注文。
しばらく待つ。台所の方を見ていたら自分のものらしい料理が出てきたのだが、ウェイトレスの女性がこっちに持ってこない。他の客としゃべっていて動く気配がないから自分で取りに行く。すると彼女はあわてて「イズヴィニーチェ」と謝る。彼女に声をかけて持ってきてもらう方法もあったのだが、ここも客から代金の他にサービス料を取るようだから、こうして自分で取りに行ったことで彼女はそれを請求しないだろうという読みそうしてみた。
料理は以前にも食べたことのあるものだった。トルクメニスタンでだったかな。肉の出汁が出ている透明のスープに羊のバラ肉の固まりと小さなじゃがいもが丸ごと2個。ただそれだけ。お茶やパンは別料金になるから頼まず。
あっと言う間に食べてしまう。会計を頼むとなんと彼女は恥ずかしげもなくサービス料を請求してくる。料理代40ソム(約90円)とサービス料3ソム(約8円)。額が小さいので素直に払ったが、なんのためのサービス料かわかってないなぁ。
それから写真のデータを整理するためにネット屋に行く。あれこれやってたら2時間ほど経過してしまった。1時間40ソムだから合計80ソム(約180円)。
それから明日のバス代のためのソムがなかったので、オシュバザールに両替に行く。バス(6ソム)に乗って1本。昨日も両替した両替屋で10米ドル札2枚を出し、両替してもらおうとしたところ、一方のお札にちょっとした破れ目(約1cmほど)があり、他にも破れそうな皺(しわ)があるため、こっちは両替できないと言い出す。そのくせしてこちらに渡すソム札はボロボロ。しわくちゃで一部破れているものはいくらでもある。やれやれ。ソムはボロボロでもいいが、米ドルはそうはいかないらしい。
オシュバザールでは通路でナン(円形のパン)を売っていたおばちゃんからナンを3枚買う。
またバスに乗って宿に戻る。
17時過ぎに宿に戻ってしばらくした頃、宿のチャイムが鳴る。また一人旅行者がやってきた。日本人男性。22歳の学生らしい。
ロシア語を勉強している別室の日本人男性(ぼくとほぼ同年代。以下、A君)と今来たばかりの彼(以下、B君)とでしばらくおしゃべり。なぜキルギスに来たのかとB君に聞く。彼はインドからカザフスタンに飛行機で行き、そこから南下してきたらしい。ちなみに中央アジアにはまったく来る気はなく、カザフスタンとかキルギスについてはどこにあるのかさえ知らなかったと言う。
ちなみに彼は日本の下関から韓国の釜山に船でわたり、その後韓国の仁川(インチョン)から中国のどこかだかにやはり船で行き、そこから陸路でラオス、ミャンマーなどに行き、飛行機だったかでインドに飛び、そしてここらしい。特に最終目的地はなく、カネが続くまで旅行すると言う。
ぼくとA君は、二人してキルギス、特にビシュケクのダメな部分についてあれこれ彼に説明する。これはもはやちょっとしたネガティブキャンペーン。一通り聞いた後、B君は「宿から出る気がしなくなったんですけど・・・」と言う。キャンペーン成功!
A君は、たとえばロシア革命時に日本に逃げてきた白系ロシア人のこと(具体的にはプロ野球の巨人軍で活躍したビクトル・スタルヒンのこと)や、チョコレートのモロゾフもその系統であることを知っているなど、ロシアや中央アジアのことについてけっこう詳しいので聞いたら、大学の卒論で中央アジアのことをやったらしい。彼は、ロシア・旧ソ連の歴史をもう一度詳しくやってみたいと言う。その理由として、たとえば、こんなところ(カザフやキルギス)にドイツ人がいたり、チェチェン人がいたり、タタール人がいたりと、わけのわからないことがけっこう多いから、といったことを彼は挙げる。
ぼくも彼同様、特にスターリン時代に何が起こったのかが気になる。滅茶苦茶なことをしたということは知っているが、具体的にどんなことをしたのかまでは知らない。
またソ連崩壊後の出来事についても同様。ぼくもA君もソ連崩壊については覚えているが、その後、たとえばタジキスタンで血で血を洗うような内戦があったことなどは、ぼくは今回ガイドブックで読むまで知らなかった。またアゼルバイジャンでもソ連崩壊後のどたばたの中で虐殺があったらしいことは、バクー市内にあったモニュメントを見て初めて知った。とにかくソ連及びその崩壊後の出来事については知らないことばかりだ。
話している中で面白かったのが、A君の友人のロシア人かキルギス人だかが、母親を連れて日本に行ったときの話。
その母親は日本に来て、日本のあるテレビ番組を見たとき腰を抜かしそうになるくらい驚いたことがあったらしい。何が母親をそれほど驚かせたのか? 母親を驚かせたもの、それは他でもない俳優(?)の岡田真澄だった。母親は岡田真澄を一目見たとき、完全にスターリンだと勘違いし、”生きていたんだ!”と驚いたらしい。
ちなみにぼくは腰を抜かすほどではなかったけれども、同じように驚いたことがある。ぼくの場合はその母親とはまったく逆でテレビで「映像の20世紀」というシリーズものを見ていたとき、その中でスターリンが出てきたときに、”あっ、岡田真澄じゃん!”と思って興奮したことがある。
彼の話を聞いてやはり旧ソ連人でも見間違えるのかと面白かった。ちなみに岡田真澄の父親だかはロシアからやってきた人だったはず。理由はロシア革命だったような気がしたが、うろ覚えで自信がない。
その他もろもろの話をしていたら眠くなる。いつの間にか日付が変わり、時間も1時を過ぎていたので解散。
明日の出発の準備をしてから寝る。
Fin
[diary]ビシュケクでだらだら 再々々
ビシュケクでだらだら 再々々
2009/02/09(月) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
今日も曜日調整のためビシュケク滞在。
午前中は宿にて、書き物。
昼前に宿を出る。カザフスタンのアルマティ行きのバスの下見のため西バグザールに行く。宿近くの大きな通りで132番のマルシュルートカをつかまえ、終点まで行く。地図で見るとそんなに遠くないのだが、途中、渋滞していて結局バグザールに着くまで40分くらいかかる。
バグザールはメインの建物の周りに駐車場兼乗り場があり、各車のフロントには行き先を書いたプラカードが置かれている。すぐにアルマティ行きを発見。マルシュルートカを降りたところから20歩ほど。近いので安心する。客引きもいない。
この時間帯は客は少ないようで、待機している車に乗っている乗客は2~3人くらいしかいない。車の近くにいた運転手らしきおじさんにアルマティまでの運賃を聞く。300ソム(約750円)らしい。これで下見終了。バグザールだからちょっとしたバザールも併設しているかと期待していたが、それらしきものはなかった。あればここで昼飯を食うつもりだったのだが、周りには立派なカフェしかないので、帰り道に通るオシュバザールで昼飯を食うことにする。
またマルシュルートカに乗ってオシュバザールに行く。そこのカフェで昼食。ガンファンという料理を頼む。これは初挑戦。出てきたのは白いご飯(短粒米)にトマトベースの肉野菜炒めスープをかけた料理。ご飯がちょっと乾燥していたが、味は日本的でさらさら食える。あとシャシリクも頼む。適当に頼んだら鶏のシャシリクが出てきた。お代はサービス料のような税金のようなものも取られてしめて95ソム(約230円)。高い!
バザール内の肉売場でキルギス名産らしい腸詰めを買う。いくつか種類があったが、けっこう大きいものが多かったため一人で食べられそうなサイズのものを1本買う。直径3cmほどで長さ20cmの腸詰め。見た目では脂身がだいぶ練りこんでありそうな様子。
それからバザール内の両替屋で両替する。20米ドルほど両替したかったのだが、最初行った両替屋は少額のレートは1米ドル=35ソムだと言うので却下。表の看板には1米ドル=41.5ソムとあるのにぼりすぎだ。他の国でもあったけど、少額だとレートが悪いなんて意味がわからん。
近くの別の両替屋に行っても看板よりはレートが悪かった。が、1米ドル=40ソムというので、それで手を打つ。
それからバスに乗って宿近くのネット屋がある通りへ行く。バス代1回6ソム(約15円)。マルシュルートカより2ソム安いからだろう、バスは超満員。隣の人と身体がくっつくくらいの窮屈さ。
ネット屋でネットをする。1時間40ソム(約90円)。カザフスタンの滞在登録の現状を知りたかったのだが、在カザフスタン日本大使館のホームページを見ても、短期旅行者向けの使える情報がなく、失望。治安情報を見たらカザフスタンも警官がずいぶん活躍しているよう。なんだかんだといちゃもん付けて旅行者からカネを取り上げているのはここと変わらないようだ。
それから宿に戻る。宿でシャワー兼洗濯をした後は中国語を聞いたり、書き物したりなんたり。CNNやEURO NEWSではオーストラリアの大火事と大洪水、パレスチナのガザ、マダガスカルの騒乱?、日本の自動車会社の不振などのニュースが流れる。
この日は以上。
Fin
2009/02/09(月) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
今日も曜日調整のためビシュケク滞在。
午前中は宿にて、書き物。
昼前に宿を出る。カザフスタンのアルマティ行きのバスの下見のため西バグザールに行く。宿近くの大きな通りで132番のマルシュルートカをつかまえ、終点まで行く。地図で見るとそんなに遠くないのだが、途中、渋滞していて結局バグザールに着くまで40分くらいかかる。
バグザールはメインの建物の周りに駐車場兼乗り場があり、各車のフロントには行き先を書いたプラカードが置かれている。すぐにアルマティ行きを発見。マルシュルートカを降りたところから20歩ほど。近いので安心する。客引きもいない。
この時間帯は客は少ないようで、待機している車に乗っている乗客は2~3人くらいしかいない。車の近くにいた運転手らしきおじさんにアルマティまでの運賃を聞く。300ソム(約750円)らしい。これで下見終了。バグザールだからちょっとしたバザールも併設しているかと期待していたが、それらしきものはなかった。あればここで昼飯を食うつもりだったのだが、周りには立派なカフェしかないので、帰り道に通るオシュバザールで昼飯を食うことにする。
またマルシュルートカに乗ってオシュバザールに行く。そこのカフェで昼食。ガンファンという料理を頼む。これは初挑戦。出てきたのは白いご飯(短粒米)にトマトベースの肉野菜炒めスープをかけた料理。ご飯がちょっと乾燥していたが、味は日本的でさらさら食える。あとシャシリクも頼む。適当に頼んだら鶏のシャシリクが出てきた。お代はサービス料のような税金のようなものも取られてしめて95ソム(約230円)。高い!
バザール内の肉売場でキルギス名産らしい腸詰めを買う。いくつか種類があったが、けっこう大きいものが多かったため一人で食べられそうなサイズのものを1本買う。直径3cmほどで長さ20cmの腸詰め。見た目では脂身がだいぶ練りこんでありそうな様子。
それからバザール内の両替屋で両替する。20米ドルほど両替したかったのだが、最初行った両替屋は少額のレートは1米ドル=35ソムだと言うので却下。表の看板には1米ドル=41.5ソムとあるのにぼりすぎだ。他の国でもあったけど、少額だとレートが悪いなんて意味がわからん。
近くの別の両替屋に行っても看板よりはレートが悪かった。が、1米ドル=40ソムというので、それで手を打つ。
それからバスに乗って宿近くのネット屋がある通りへ行く。バス代1回6ソム(約15円)。マルシュルートカより2ソム安いからだろう、バスは超満員。隣の人と身体がくっつくくらいの窮屈さ。
ネット屋でネットをする。1時間40ソム(約90円)。カザフスタンの滞在登録の現状を知りたかったのだが、在カザフスタン日本大使館のホームページを見ても、短期旅行者向けの使える情報がなく、失望。治安情報を見たらカザフスタンも警官がずいぶん活躍しているよう。なんだかんだといちゃもん付けて旅行者からカネを取り上げているのはここと変わらないようだ。
それから宿に戻る。宿でシャワー兼洗濯をした後は中国語を聞いたり、書き物したりなんたり。CNNやEURO NEWSではオーストラリアの大火事と大洪水、パレスチナのガザ、マダガスカルの騒乱?、日本の自動車会社の不振などのニュースが流れる。
この日は以上。
Fin
[diary]ビシュケクでだらだら 再々
ビシュケクでだらだら 再々
2009/02/08(日) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
今日も曜日調整のためビシュケク滞在。
朝から昼過ぎまで書き物をしてから昼飯を食いに外出。同宿の人がウイグル人がやっているうまいカフェがあるバザール内にあると言うので、そこに行く。
マルシュートカ175番で行く。運賃は8ソム(約20円)。そこのバザールは他と違って絨毯や布地を売る店がメインのバザールだった。
いくつかカフェが並んでいたので、適当に入る。入ってまず目に付いたのがテーブルの上に箸があること。麺類を食っている客が多く、一部の人は箸で食っている。中華料理や以外で箸を使ってご飯を食べているのを見たのはこの旅初めてだ。なんか不思議な光景だった。
ラグマン(肉汁うどんみたいなの)を注文。値段を聞くと80ソム(約200円)というから高い!と思ったが、まぁいい。
スープはトマト色で肉の他にセロリやニンニクの芽などが入っている。辛くはない。嬉しかったのが麺にコシがあること。この旅行でこんなにコシがある麺を食べるのは初めて。ウズベキスタンやオシュなどで食べたラグマンは学校給食のうどんみたいに歯ごたえがない麺ばかりだったが、ここのは讃岐うどん並み。麺の太さは一般的なうどんよりも細いがスパゲッティよりはかなり太い。これがもっと安ければ2杯食べたいところだったが、200円もするとなるとそれは無理だ。
警官にからまれるのが面倒なので、バザールはちらっと見ただけ。食料品のバザールはないようだったので、パンだけ買って帰る。
15時頃、宿に戻り、あとは本を読んだり、おしゃべりしたり、書き物したり。
宿主の孫と話す。彼はサッカーが好きらしく、なかでもマンチェスターユナイテッドが好きらしい。テレビではスペインリーグをやっているチャンネル(でも、音声は中国語)があって、それを彼は楽しそうに見ていた。ヨーロッパのサッカーには関心がないので、彼にどのチームが好きかとかどの選手が好きかと聞かれて困る。知らないというしかない。
彼は自分がもしヨーロッパに暮らしていたならサッカーのクラブや学校に入りたかったと言う。キルギスにもサッカークラブはあるが、数は少ないらしい。
こうして外国のテレビが簡単に見れる環境があれば、この国の子どもも自分たちの国と他の国との違いを目の当たりにできる。その違いに気づいたときに彼/彼女らは何を思うのだろうか。
Fin
2009/02/08(日) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
今日も曜日調整のためビシュケク滞在。
朝から昼過ぎまで書き物をしてから昼飯を食いに外出。同宿の人がウイグル人がやっているうまいカフェがあるバザール内にあると言うので、そこに行く。
マルシュートカ175番で行く。運賃は8ソム(約20円)。そこのバザールは他と違って絨毯や布地を売る店がメインのバザールだった。
いくつかカフェが並んでいたので、適当に入る。入ってまず目に付いたのがテーブルの上に箸があること。麺類を食っている客が多く、一部の人は箸で食っている。中華料理や以外で箸を使ってご飯を食べているのを見たのはこの旅初めてだ。なんか不思議な光景だった。
ラグマン(肉汁うどんみたいなの)を注文。値段を聞くと80ソム(約200円)というから高い!と思ったが、まぁいい。
スープはトマト色で肉の他にセロリやニンニクの芽などが入っている。辛くはない。嬉しかったのが麺にコシがあること。この旅行でこんなにコシがある麺を食べるのは初めて。ウズベキスタンやオシュなどで食べたラグマンは学校給食のうどんみたいに歯ごたえがない麺ばかりだったが、ここのは讃岐うどん並み。麺の太さは一般的なうどんよりも細いがスパゲッティよりはかなり太い。これがもっと安ければ2杯食べたいところだったが、200円もするとなるとそれは無理だ。
警官にからまれるのが面倒なので、バザールはちらっと見ただけ。食料品のバザールはないようだったので、パンだけ買って帰る。
15時頃、宿に戻り、あとは本を読んだり、おしゃべりしたり、書き物したり。
宿主の孫と話す。彼はサッカーが好きらしく、なかでもマンチェスターユナイテッドが好きらしい。テレビではスペインリーグをやっているチャンネル(でも、音声は中国語)があって、それを彼は楽しそうに見ていた。ヨーロッパのサッカーには関心がないので、彼にどのチームが好きかとかどの選手が好きかと聞かれて困る。知らないというしかない。
彼は自分がもしヨーロッパに暮らしていたならサッカーのクラブや学校に入りたかったと言う。キルギスにもサッカークラブはあるが、数は少ないらしい。
こうして外国のテレビが簡単に見れる環境があれば、この国の子どもも自分たちの国と他の国との違いを目の当たりにできる。その違いに気づいたときに彼/彼女らは何を思うのだろうか。
Fin
2011年3月4日金曜日
[diary]ビシュケクでだらだら 再び
ビシュケクでだらだら 再び
09/02/07(土) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
・書き物
・近くのバザールへ
・警官につかまる
今日も時間調整というか、カザフでの曜日調整のためにビシュケクに滞在。
朝から外は晴れ渡っていたが、出かける気にならないのが、ここビシュケク。バカな警官が多いのは困ったものだ。
今日は完全に宿こもりしようかと朝から宿にいて書き物をしたり、おしゃべりをしたりで時間を費やす。
夕方前の15時になってちょっと散歩に出る気になる。歩いて10分ほどのところにバザールがあるというので、そこに行く。
先日降り積もった雪はここ3日ほど快晴が続いたおかげでだいぶ消えてしまった。
5~6階建てのアパートが立ち並ぶ地帯の一角にそのバザールはあった。もっと小さいかと思っていたが意外に大きかった。総面積はサッカーコート程度ある。ここもプレハブのようなあるいはまたコンテナのような店舗と屋根のみが整備されている販売コーナーがあり、その他に通路でパンやキムチやサラダやみかんやりんごを売っている人たちがいる。
写真を撮りながら歩いていたら警官3人の近くを通り過ぎる。しまったと思ったら案の定そのうちの1人が来て、パスポートを見せろと来た。もちろん警官はロシア語しかわからない。ぼくのパスポートを見て、ビザはどこだと聞いてくる。日本人は必要ないとロシア語で応えると、なぜだと聞いてくる。自分の国がそう決めているのに旅行者にそんなこと聞くな! またバカな警官かよ、とがっくり来る。だいたいビザが免除されている国の人間なんて限られているだろうに、それくらい覚えろってんだ。
バカには何を言ってもわからないわけで、ビザは不要だというのに詰め所に連れていくと言い出す。日本大使館に電話しろと言っても詰め所に電話があるからと言って聞かない。しょうがないのでついていき、途中通りがかった店で電話を貸してもらおうとしたら、警官が止める。なんでこういうバカな奴にぼくの時間をくれてやらなきゃいけないんだ。
詰め所に行く途中20代前半くらいの若者グループに出会う。警官は彼らにもドキュメントを見せろと言い、少しチェックしてから全員を詰め所に連れていく。こうした展開ならこの間のようなことはないかなと少し警戒を解く。
詰め所に行ったら私服のおじさんと制服のおじさんがいた。えらそうに座っている2人も日本人がビザが必要なのかどうかを知らない。先に若者たちにあれこれと質問を始め、ぼくにはしばらく待つように言う。なぜかわからないが、若者の一人は指紋を採られていた。
しばらく待っていると私服のおじさんがどこかに電話をかけ、ヤポンスキーがどうのと言っている。そうしてからパスポートを返してくれる。日本大使館の話ではパスポートを細かくチェックする権限さえ警官にはないのだが、当然そんなことは知らない。あるいは知っていても関係ないというのが、ここの警官。さらにもう1人20代半ば過ぎくらいの男が別の警官に連れてこられる。いったいここの警察なんなんだ!お前らが一番怪しいだろうが!
結局、何もないままぼくは解放される。連れてこられた若者のうちで早くに解放されていた人の一人が、ロシア語で”警官はなんて言っていた?”と聞いて来るが、当然わからないのでわからないと応えると、ぼくの肩をポンポンと叩き、じゃあまたというような仕草をする。ぜひとも彼らには政権をひっくり返して警察を正してもらいたいものだ。
何かうまそうなものがあったら晩飯用に買って帰ろうかと思っていたが、特に惹かれるものがなく、結局何も買わずに宿に戻る。
宿に戻ってからテレビをつけてみると「(邦題)戦場のピアニスト」のロシア語吹き替え版が放送されていたので見る。2003年に映画館で見て以来2度目。ポーランドのワルシャワが舞台でかつナチス占領下を生き延びたユダヤ人ピアニストがテーマなので、またイスラエルを思い出す。
宿のテレビはロシアの各種チャンネルの他、CNNやEURONEWS、中国の外国向け英語放送局CCTV、さらにドイツやフランス、韓国、インド、トルコのチャンネルも見ることができる。以前はNHKも見れたらしいが、受信料が高いためやめたらしい。ちなみにほとんどのチャンネルでロシア語吹き替えがされているので、ロシア語がわからないとほとんどの番組は見るだけになる。
ニュースを見ているとガザのことが相変わらず報道され、中国については記録的な干ばつのニュースや厳しい就職活動をしいられている学生たちのニュースなどが流れる。
夜は昨日買ったパンと一昨日買ったサラダで夕食。
あとは読み物と書き物をしておしまい。
Fin
09/02/07(土) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
・書き物
・近くのバザールへ
・警官につかまる
今日も時間調整というか、カザフでの曜日調整のためにビシュケクに滞在。
朝から外は晴れ渡っていたが、出かける気にならないのが、ここビシュケク。バカな警官が多いのは困ったものだ。
今日は完全に宿こもりしようかと朝から宿にいて書き物をしたり、おしゃべりをしたりで時間を費やす。
夕方前の15時になってちょっと散歩に出る気になる。歩いて10分ほどのところにバザールがあるというので、そこに行く。
先日降り積もった雪はここ3日ほど快晴が続いたおかげでだいぶ消えてしまった。
5~6階建てのアパートが立ち並ぶ地帯の一角にそのバザールはあった。もっと小さいかと思っていたが意外に大きかった。総面積はサッカーコート程度ある。ここもプレハブのようなあるいはまたコンテナのような店舗と屋根のみが整備されている販売コーナーがあり、その他に通路でパンやキムチやサラダやみかんやりんごを売っている人たちがいる。
写真を撮りながら歩いていたら警官3人の近くを通り過ぎる。しまったと思ったら案の定そのうちの1人が来て、パスポートを見せろと来た。もちろん警官はロシア語しかわからない。ぼくのパスポートを見て、ビザはどこだと聞いてくる。日本人は必要ないとロシア語で応えると、なぜだと聞いてくる。自分の国がそう決めているのに旅行者にそんなこと聞くな! またバカな警官かよ、とがっくり来る。だいたいビザが免除されている国の人間なんて限られているだろうに、それくらい覚えろってんだ。
バカには何を言ってもわからないわけで、ビザは不要だというのに詰め所に連れていくと言い出す。日本大使館に電話しろと言っても詰め所に電話があるからと言って聞かない。しょうがないのでついていき、途中通りがかった店で電話を貸してもらおうとしたら、警官が止める。なんでこういうバカな奴にぼくの時間をくれてやらなきゃいけないんだ。
詰め所に行く途中20代前半くらいの若者グループに出会う。警官は彼らにもドキュメントを見せろと言い、少しチェックしてから全員を詰め所に連れていく。こうした展開ならこの間のようなことはないかなと少し警戒を解く。
詰め所に行ったら私服のおじさんと制服のおじさんがいた。えらそうに座っている2人も日本人がビザが必要なのかどうかを知らない。先に若者たちにあれこれと質問を始め、ぼくにはしばらく待つように言う。なぜかわからないが、若者の一人は指紋を採られていた。
しばらく待っていると私服のおじさんがどこかに電話をかけ、ヤポンスキーがどうのと言っている。そうしてからパスポートを返してくれる。日本大使館の話ではパスポートを細かくチェックする権限さえ警官にはないのだが、当然そんなことは知らない。あるいは知っていても関係ないというのが、ここの警官。さらにもう1人20代半ば過ぎくらいの男が別の警官に連れてこられる。いったいここの警察なんなんだ!お前らが一番怪しいだろうが!
結局、何もないままぼくは解放される。連れてこられた若者のうちで早くに解放されていた人の一人が、ロシア語で”警官はなんて言っていた?”と聞いて来るが、当然わからないのでわからないと応えると、ぼくの肩をポンポンと叩き、じゃあまたというような仕草をする。ぜひとも彼らには政権をひっくり返して警察を正してもらいたいものだ。
何かうまそうなものがあったら晩飯用に買って帰ろうかと思っていたが、特に惹かれるものがなく、結局何も買わずに宿に戻る。
宿に戻ってからテレビをつけてみると「(邦題)戦場のピアニスト」のロシア語吹き替え版が放送されていたので見る。2003年に映画館で見て以来2度目。ポーランドのワルシャワが舞台でかつナチス占領下を生き延びたユダヤ人ピアニストがテーマなので、またイスラエルを思い出す。
宿のテレビはロシアの各種チャンネルの他、CNNやEURONEWS、中国の外国向け英語放送局CCTV、さらにドイツやフランス、韓国、インド、トルコのチャンネルも見ることができる。以前はNHKも見れたらしいが、受信料が高いためやめたらしい。ちなみにほとんどのチャンネルでロシア語吹き替えがされているので、ロシア語がわからないとほとんどの番組は見るだけになる。
ニュースを見ているとガザのことが相変わらず報道され、中国については記録的な干ばつのニュースや厳しい就職活動をしいられている学生たちのニュースなどが流れる。
夜は昨日買ったパンと一昨日買ったサラダで夕食。
あとは読み物と書き物をしておしまい。
Fin
[diary]ビシュケクでだらだら
ビシュケクでだらだら
2009/02/06(金) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
つい2~3日前の予定では今日にでもカザフスタンに移動する予定だったのだが、予定を変更。カザフスタンには2週間くらいいようかと思っていたが、5日以上滞在する場合はレギストラーツィア(滞在許可の手続き)が必要であり、またそれをするとなるとその手続きで1日潰れるらしく、加えてカザフの警察もキルギス同様質(たち)が悪いとのことで、さらに宿代が安くても1500円以上するとのことだったので、5日以内でカザフを抜けることにした。ただ中国行きの列車が月曜と土曜しかないため、来週土曜の列車で中国入りということにして、宿代の安いここにもう少し延泊することにした。ちなみに宿代は1泊ドミトリー130ソム(約300円)。めざせ1日500円生活というわけだ。
そういうわけで午前中はたまりにたまっている書き物をして過ごす。
昼過ぎに宿を出てオシュバザールに行く。そこでベシュバルマックというキルギス料理を食べる。きしめん風の平べったい麺の上に角切りにされた羊の肉がこれでもかと乗っている。味は羊の肉か何かをゆでた塩味のスープでかなり薄目。テーブルにはコチュジャンと塩、胡椒があったので、コチュジャンを添加して食べる。なかなかうまい。55ソム(約130円)。
あと夕食用に直方体のパンを3つ(1斤9ソム)と、蜂蜜が売られていたので180ml程度の小さいのを1瓶25ソム(約60円)を買って帰る。
外出はこれだけ。
宿に帰ってからはしばらく読み物。宿にあった沢木耕太郎の本『不思議の果実 象が空をⅡ』(文春文庫)と江河海『こんなに違う中国人の面子』(祥伝社黄金文庫)を読む。中国人の面子話はなかなかおもしろい。日本の”恥”にも通じるものがあるように思うが、でも完全に重なってはいない。
夜はパンと昨日買った春雨サラダで夕食。その後、同宿の人とちょっとおしゃべりして、また書き物。
Fin
2009/02/06(金) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=91円
つい2~3日前の予定では今日にでもカザフスタンに移動する予定だったのだが、予定を変更。カザフスタンには2週間くらいいようかと思っていたが、5日以上滞在する場合はレギストラーツィア(滞在許可の手続き)が必要であり、またそれをするとなるとその手続きで1日潰れるらしく、加えてカザフの警察もキルギス同様質(たち)が悪いとのことで、さらに宿代が安くても1500円以上するとのことだったので、5日以内でカザフを抜けることにした。ただ中国行きの列車が月曜と土曜しかないため、来週土曜の列車で中国入りということにして、宿代の安いここにもう少し延泊することにした。ちなみに宿代は1泊ドミトリー130ソム(約300円)。めざせ1日500円生活というわけだ。
そういうわけで午前中はたまりにたまっている書き物をして過ごす。
昼過ぎに宿を出てオシュバザールに行く。そこでベシュバルマックというキルギス料理を食べる。きしめん風の平べったい麺の上に角切りにされた羊の肉がこれでもかと乗っている。味は羊の肉か何かをゆでた塩味のスープでかなり薄目。テーブルにはコチュジャンと塩、胡椒があったので、コチュジャンを添加して食べる。なかなかうまい。55ソム(約130円)。
あと夕食用に直方体のパンを3つ(1斤9ソム)と、蜂蜜が売られていたので180ml程度の小さいのを1瓶25ソム(約60円)を買って帰る。
外出はこれだけ。
宿に帰ってからはしばらく読み物。宿にあった沢木耕太郎の本『不思議の果実 象が空をⅡ』(文春文庫)と江河海『こんなに違う中国人の面子』(祥伝社黄金文庫)を読む。中国人の面子話はなかなかおもしろい。日本の”恥”にも通じるものがあるように思うが、でも完全に重なってはいない。
夜はパンと昨日買った春雨サラダで夕食。その後、同宿の人とちょっとおしゃべりして、また書き物。
Fin
[diary]カザフビザ受け取り
カザフビザ受け取り
2009/02/05(木) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=90円
•夕方まで宿
•カザフビザの受け取り
今朝も7時過ぎには起床。今日も例のごとく歩き回る気にはならないので、宿にいることにする。
午前中から夕方近くまで書き物したり、おしゃべりしたり。
同じ部屋の人(以下、Aさん)の話がおもしろい。その人がビシュケクのまちを歩いていたときのこと、なにがきっかけだったか、キルギス人のおじさんとしゃべることになったという。おじさんはAさんに、”キルギスはどうだ?”と聞いてきたと言う。本心は言えないのでAさんは、”ビシュケクいいよ!”と答えたところ、おじさんはこう言ったという。”俺たちって愚かだろ”。この言葉にはさすがに困ったようで、適当に話をずらして、おじさんのその言葉については肯定も否定もしなかったという。
Aさんの話では4~5年前に来たときは、夜のまちにはけっこう人出が多かったらしい。最近では警察がうじゃうじゃいるためすっかり人がいなくなったらしいのだが、その頃は道ばたで殴り合いの喧嘩している人がいたり、女の子同士が喧嘩していて、片方が片方をぶん投げたり、といった光景を見ることがあったらしい。
またAさんが話したことのあるロシア系の女性の話によれば、彼女の旦那は喧嘩でこめかみにパンチを受け、それで命を落としたという。旦那は30歳。子どももいるという。ここでは稼げないため1ヶ月ほどしたらロシアに稼ぎに行くと話していたらしい。
昼過ぎ、この宿の孫が学校から帰ってくる。聞くと年齢は16歳。10年生だという。日本とは教育システムが違うようで、高校は2年間で、彼はその1年目らしい。彼の両親はビシュケクから60kmほど離れたまちに住んでいるが、彼は勉強のために今はおばあちゃんがいるこの家に住んで学校に通っているらしい。
彼は英語がぼくと同程度(あるいはそれ以上)にできたので、英語で会話。高校卒業後のことを聞くと、できれば外国の大学に行きたいと考えているらしい。外国の大学の方が、いろんな経験ができるし、より高い教育を受けられるからというのが、その理由らしい。
外国の大学に行きたいと考えている友達はけっこういるのかと尋ねると”一部(some)”と答える。でも、行けるかどうかは親の収入などに依ると付け加える。なお、高校の授業料は毎月650ソム(約1500円)らしい。
15時を過ぎた頃、カザフビザを受け取りに行くため外出。途中、ネット屋に寄ってカザフ情報を集める。1時間40ソム(約90円)。
また同宿の人から借りたロンプラ中央アジア版のカザフ部分をコピー。コピー代1枚2ソム(約5円)。
17時頃、カザフスタン大使館に到着。18時半に取りに来いと言われていたが、早く行ってももらえるだろうと見込み行ったところ、他にもビザを受け取りに来た人が入り口に並んでおり、しかもタイミングの良いことに今開いたところだった。
すんなりパスポートは受け取ることができ、一応、ビザを確認。
宿近くに行くマルシュートカが走っている通りまで歩いて戻る。途中、道ばたでサラダを売ってたおばちゃんからサラダを買う。今度のおばちゃんは正直者のようで、バザールのサラダ屋のおばちゃんの半値。だいたい200gくらいで20ソム(約50円)。
宿にもどって、サラダとパンで夕食。サラダは人参がふんだんに使われており、というか、人参ばかり。
本を貸してくれた別の部屋に泊まっている日本人男性とおしゃべり。彼はロシア語の勉強にキルギスに来ているようでもう半年くらいここにいるらしい。
彼に聞くと、やはりここではロシア系の人はキルギス人をバカにしているらしい。またキルギス人の方もロシア系に対してはなんらかの敵意を持っているらしい。彼が通っている語学学校には中国人や韓国人、トルコ人などが来ているらしい。また試験のシーズンになるとロシア語の試験対策のためにキルギス人学生も来たりするという。
彼の話でも中央アジアで言うと、キルギスが一番警官の質が悪いらしい。彼の中ではタジキスタンが一番良かったらしい。彼もキルギスで警官に250米ドル取られたりした経験があるという。3年ほど前にトルコからこの一帯を旅行したときは、ウズベキスタンでもタジキスタンでも警官がカネをせびってくるようなことがあったが、最近はそうしたことはなくなったらしい。だが、ここだけはなくなるどころか増える一方じゃないかと言う。
ウズベク人とキルギス人はとりわけ仲が悪いようで、あるウズベク人は”キルギス人は全部殺したいね”とまで言っていたという。また最近ウズベキスタンに行ったときには、キルギスに今住んでいると言ったところ、ウズベクの人から”なんで? なぜウズベキスタンに住まないのか?”と聞かれたらしい。
彼がキルギスでロシア語を勉強しているのは、ビザが不要でかつ物価が低く、衛生状態もそこそこいいからということらしい。ウズベキスタンはビザ面で厳しいし、タジキスタンは水の衛生状態が悪いらしい。またウズベキスタンについて言えば、言論の自由、とりわけ政治的な話は基本的にできない状態。そうしたことからキルギスを選んだらしい。
ソ連時代を懐かしむ人はいるかと尋ねたところ、中年以上の人は「みんな」ソ連時代が良かったと言うらしい。理由はやはり仕事らしい。仕事がみなにあって、生活もそれなりに良かったらしい。アパートももらえたりしたという。それが今は仕事がない。カネがない。以前は年寄りは無料だったバスも今では払わないといけない。そういったことでけっこうきついらしい。グルジアのトビリシのネリ・ダリ(ぼくも泊まった宿の主)もずっと”ソ連時代は良かった”と言っていたらしい。
ロシア語がしゃべれれば、ぼくもあちこち言ってソ連時代の話を聞いて回りたいのだが、そのためにはもっと勉強しなければならない。
互いの旅話になったときぼくがキューバの話をすると、彼はゲバラ関係の本はたいてい読んだがフィデルカストロについてはよく知らないと言う。
キルギスの腐った警官(おそらく政府も十分に腐っているだろう)などの話をさっきしたことから、ぼくが「今もしゲバラが生きていたらきっとキルギスに来るはず」なんて言うと、彼も「絶対に来ますね」と応える。
またここの宿のオーナーの話になったとき、聞いてみたらオーナーはしばらく前からアフガニスタンの米軍基地の売店に出稼ぎに言っているという。そこではキルギス人の他にフィリピン人や中国人、日本人も働いているらしい。給料は3000米ドルほどらしい。アフガニスタンまではここから米軍機に乗って行くという。ただ当然のことながら基地の外にはまったく出られない生活らしい。
そんな話をして23時前に部屋に戻り、あとは寝る。
Fin
2009/02/05(木) 晴れ
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=41ソム(両替屋にて)
1米ドル=90円
•夕方まで宿
•カザフビザの受け取り
今朝も7時過ぎには起床。今日も例のごとく歩き回る気にはならないので、宿にいることにする。
午前中から夕方近くまで書き物したり、おしゃべりしたり。
同じ部屋の人(以下、Aさん)の話がおもしろい。その人がビシュケクのまちを歩いていたときのこと、なにがきっかけだったか、キルギス人のおじさんとしゃべることになったという。おじさんはAさんに、”キルギスはどうだ?”と聞いてきたと言う。本心は言えないのでAさんは、”ビシュケクいいよ!”と答えたところ、おじさんはこう言ったという。”俺たちって愚かだろ”。この言葉にはさすがに困ったようで、適当に話をずらして、おじさんのその言葉については肯定も否定もしなかったという。
Aさんの話では4~5年前に来たときは、夜のまちにはけっこう人出が多かったらしい。最近では警察がうじゃうじゃいるためすっかり人がいなくなったらしいのだが、その頃は道ばたで殴り合いの喧嘩している人がいたり、女の子同士が喧嘩していて、片方が片方をぶん投げたり、といった光景を見ることがあったらしい。
またAさんが話したことのあるロシア系の女性の話によれば、彼女の旦那は喧嘩でこめかみにパンチを受け、それで命を落としたという。旦那は30歳。子どももいるという。ここでは稼げないため1ヶ月ほどしたらロシアに稼ぎに行くと話していたらしい。
昼過ぎ、この宿の孫が学校から帰ってくる。聞くと年齢は16歳。10年生だという。日本とは教育システムが違うようで、高校は2年間で、彼はその1年目らしい。彼の両親はビシュケクから60kmほど離れたまちに住んでいるが、彼は勉強のために今はおばあちゃんがいるこの家に住んで学校に通っているらしい。
彼は英語がぼくと同程度(あるいはそれ以上)にできたので、英語で会話。高校卒業後のことを聞くと、できれば外国の大学に行きたいと考えているらしい。外国の大学の方が、いろんな経験ができるし、より高い教育を受けられるからというのが、その理由らしい。
外国の大学に行きたいと考えている友達はけっこういるのかと尋ねると”一部(some)”と答える。でも、行けるかどうかは親の収入などに依ると付け加える。なお、高校の授業料は毎月650ソム(約1500円)らしい。
15時を過ぎた頃、カザフビザを受け取りに行くため外出。途中、ネット屋に寄ってカザフ情報を集める。1時間40ソム(約90円)。
また同宿の人から借りたロンプラ中央アジア版のカザフ部分をコピー。コピー代1枚2ソム(約5円)。
17時頃、カザフスタン大使館に到着。18時半に取りに来いと言われていたが、早く行ってももらえるだろうと見込み行ったところ、他にもビザを受け取りに来た人が入り口に並んでおり、しかもタイミングの良いことに今開いたところだった。
すんなりパスポートは受け取ることができ、一応、ビザを確認。
宿近くに行くマルシュートカが走っている通りまで歩いて戻る。途中、道ばたでサラダを売ってたおばちゃんからサラダを買う。今度のおばちゃんは正直者のようで、バザールのサラダ屋のおばちゃんの半値。だいたい200gくらいで20ソム(約50円)。
宿にもどって、サラダとパンで夕食。サラダは人参がふんだんに使われており、というか、人参ばかり。
本を貸してくれた別の部屋に泊まっている日本人男性とおしゃべり。彼はロシア語の勉強にキルギスに来ているようでもう半年くらいここにいるらしい。
彼に聞くと、やはりここではロシア系の人はキルギス人をバカにしているらしい。またキルギス人の方もロシア系に対してはなんらかの敵意を持っているらしい。彼が通っている語学学校には中国人や韓国人、トルコ人などが来ているらしい。また試験のシーズンになるとロシア語の試験対策のためにキルギス人学生も来たりするという。
彼の話でも中央アジアで言うと、キルギスが一番警官の質が悪いらしい。彼の中ではタジキスタンが一番良かったらしい。彼もキルギスで警官に250米ドル取られたりした経験があるという。3年ほど前にトルコからこの一帯を旅行したときは、ウズベキスタンでもタジキスタンでも警官がカネをせびってくるようなことがあったが、最近はそうしたことはなくなったらしい。だが、ここだけはなくなるどころか増える一方じゃないかと言う。
ウズベク人とキルギス人はとりわけ仲が悪いようで、あるウズベク人は”キルギス人は全部殺したいね”とまで言っていたという。また最近ウズベキスタンに行ったときには、キルギスに今住んでいると言ったところ、ウズベクの人から”なんで? なぜウズベキスタンに住まないのか?”と聞かれたらしい。
彼がキルギスでロシア語を勉強しているのは、ビザが不要でかつ物価が低く、衛生状態もそこそこいいからということらしい。ウズベキスタンはビザ面で厳しいし、タジキスタンは水の衛生状態が悪いらしい。またウズベキスタンについて言えば、言論の自由、とりわけ政治的な話は基本的にできない状態。そうしたことからキルギスを選んだらしい。
ソ連時代を懐かしむ人はいるかと尋ねたところ、中年以上の人は「みんな」ソ連時代が良かったと言うらしい。理由はやはり仕事らしい。仕事がみなにあって、生活もそれなりに良かったらしい。アパートももらえたりしたという。それが今は仕事がない。カネがない。以前は年寄りは無料だったバスも今では払わないといけない。そういったことでけっこうきついらしい。グルジアのトビリシのネリ・ダリ(ぼくも泊まった宿の主)もずっと”ソ連時代は良かった”と言っていたらしい。
ロシア語がしゃべれれば、ぼくもあちこち言ってソ連時代の話を聞いて回りたいのだが、そのためにはもっと勉強しなければならない。
互いの旅話になったときぼくがキューバの話をすると、彼はゲバラ関係の本はたいてい読んだがフィデルカストロについてはよく知らないと言う。
キルギスの腐った警官(おそらく政府も十分に腐っているだろう)などの話をさっきしたことから、ぼくが「今もしゲバラが生きていたらきっとキルギスに来るはず」なんて言うと、彼も「絶対に来ますね」と応える。
またここの宿のオーナーの話になったとき、聞いてみたらオーナーはしばらく前からアフガニスタンの米軍基地の売店に出稼ぎに言っているという。そこではキルギス人の他にフィリピン人や中国人、日本人も働いているらしい。給料は3000米ドルほどらしい。アフガニスタンまではここから米軍機に乗って行くという。ただ当然のことながら基地の外にはまったく出られない生活らしい。
そんな話をして23時前に部屋に戻り、あとは寝る。
Fin
[diary]オシュバザール
オシュバザール
2009/02/04(水) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.8(両替屋にて)
・午前中は宿にて
・オシュバザール
朝方まで同室の人とおしゃべりしていたものの明るくなった8時前には目が覚める。部屋には陽が入ってくるから健康的な朝を迎えることができる。
特に見て回ることもないし、腐れ警官も多いため、午前中は宿で過ごす。書き物をしたり、宿にあった『歩き方』の中国版を眺めて、中国でのルートを考えたり。
昼前に宿を出てビシュケクで一番大きいというオシュバザールにでかける。ビシュケクの町中にはカフェなどはあるが、高そうなのでここで昼食。同宿の話ではキルギスでは1本100円足らずで食べられるシャシリク(串焼き)がカザフスタンでは300円もするというので、食べ納めということで市場内の食堂でシャシリクを2本食べる。牛肉の串2本に小さなパンがついて60ソム(約150円)。でも、食事と言うよりも間食程度にしかならない量なので、店をまた探す。
別の食堂でキルギス独特の料理を食べようとしたが、今はないと言われる。なので、メニューの中から今まで頼んだことがない料理を注文。出てきたのは、半径40cmほどある円形の蒸しもの。餃子と同じ皮で具は千切りのジャガイモとタマネギ、それに挽き肉。円状になっていてなかなかの量。これが40ソム(約90円)。
それからバザール内をうろつく。警官がちょこちょこいるので、視界を広く持ち、すれ違わないようにしながら歩く。
バザール内には他と同じく、店舗がある人とない人がそれぞれいろんな物を売っている。特に珍しい物はなく、ウズベクなどと同じ。キムチやサラダを売っている通りがあったり、春雨や麺をあげたスナックを売っている通りがあったり。野菜もキャベツ、白菜、トマト、人参、じゃがいも、ナス(でかい)、ビート、緑大根などウズベクなどと同じ。
あまりぶらぶらすると警官とはち会いそうなので、晩飯用にサラダを買う。これが1袋50ソム(約110円)という。重さでいうと150gくらいか。そんなの日本並じゃねぇかと思い、やめるかどうか一瞬迷うが、まぁ、いいかと買う。外国人には2倍近くふっかけるようだ。
肉売場には大量の牛肉や羊肉がぶらさがっていて、生肉のにおいがプンプン。裏側の通りを歩いてみると、荷台に牛の頭を7頭ぶん積んで押し歩いているおじさんを見る。時計を直せるところがないか探すが、それらしきところは見つからず。
その後、通りでパンを売っているおばちゃんからパンを買う。1枚10ソム(約25円)なので、3枚買う。
そうしてからバスに乗り、宿に戻る。
宿に戻ってからは読み物、書き物。
Fin
2009/02/04(水) 曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.8(両替屋にて)
・午前中は宿にて
・オシュバザール
朝方まで同室の人とおしゃべりしていたものの明るくなった8時前には目が覚める。部屋には陽が入ってくるから健康的な朝を迎えることができる。
特に見て回ることもないし、腐れ警官も多いため、午前中は宿で過ごす。書き物をしたり、宿にあった『歩き方』の中国版を眺めて、中国でのルートを考えたり。
昼前に宿を出てビシュケクで一番大きいというオシュバザールにでかける。ビシュケクの町中にはカフェなどはあるが、高そうなのでここで昼食。同宿の話ではキルギスでは1本100円足らずで食べられるシャシリク(串焼き)がカザフスタンでは300円もするというので、食べ納めということで市場内の食堂でシャシリクを2本食べる。牛肉の串2本に小さなパンがついて60ソム(約150円)。でも、食事と言うよりも間食程度にしかならない量なので、店をまた探す。
別の食堂でキルギス独特の料理を食べようとしたが、今はないと言われる。なので、メニューの中から今まで頼んだことがない料理を注文。出てきたのは、半径40cmほどある円形の蒸しもの。餃子と同じ皮で具は千切りのジャガイモとタマネギ、それに挽き肉。円状になっていてなかなかの量。これが40ソム(約90円)。
それからバザール内をうろつく。警官がちょこちょこいるので、視界を広く持ち、すれ違わないようにしながら歩く。
バザール内には他と同じく、店舗がある人とない人がそれぞれいろんな物を売っている。特に珍しい物はなく、ウズベクなどと同じ。キムチやサラダを売っている通りがあったり、春雨や麺をあげたスナックを売っている通りがあったり。野菜もキャベツ、白菜、トマト、人参、じゃがいも、ナス(でかい)、ビート、緑大根などウズベクなどと同じ。
あまりぶらぶらすると警官とはち会いそうなので、晩飯用にサラダを買う。これが1袋50ソム(約110円)という。重さでいうと150gくらいか。そんなの日本並じゃねぇかと思い、やめるかどうか一瞬迷うが、まぁ、いいかと買う。外国人には2倍近くふっかけるようだ。
肉売場には大量の牛肉や羊肉がぶらさがっていて、生肉のにおいがプンプン。裏側の通りを歩いてみると、荷台に牛の頭を7頭ぶん積んで押し歩いているおじさんを見る。時計を直せるところがないか探すが、それらしきところは見つからず。
その後、通りでパンを売っているおばちゃんからパンを買う。1枚10ソム(約25円)なので、3枚買う。
そうしてからバスに乗り、宿に戻る。
宿に戻ってからは読み物、書き物。
Fin
[diary]宿変え、日本大使館へ、警察に申し入れ
宿変え、日本大使館へ、警察に申し入れ
2009/02/03(火) 曇りのち大雪
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.5(両替屋にて)
・宿変え
・日本大使館へ
・警察に申し入れ
・宿でおしゃべり
まだ薄暗い7時すぎに起床。夜間は停電しているため暖房が効いていないのだが、部屋内はたいして寒くない。
宿を出る準備をする。
宿の鍵はもらっていなかったので、同室のA君に頼んで玄関の鍵を開けてもらい、宿を出る。
まだ薄暗い中を歩き、最寄りのバス乗り場に行く。10分ほど待つとトロリーバスが来たので、それに乗り込む。
途中で新しい宿近くまで行くルートのトロリーバスに乗り換える。わりと空いているので、でかい荷物を持っていてもなんとか乗れる。
8時半過ぎ、新たな宿に到着。チェックインして、荷物をおろし、宿の情報ノートを眺めながら、一息つく。
そうしてから宿を出て日本大使館に向かう。外に出ると雪がちらちらと降り始めていた。
宿の近くの通りからマルシュルートカに乗り、日本大使館近くで下車。歩いて日本大使館に向かう。雪はだんだんと本降りになり、あっと言う間に路面が真っ白になる。頭や肩に雪が積もる。
10分ほど歩いて日本大使館に到着。ミニ御殿的な造りの建物で敷地は高さ3mほどある鉄格子で囲まれている。
表に警備員らしき男性がいたので、その人に英語で話しかけるが、英語は解さないようで、片言ロシア語で用事がある旨を伝える。名前を聞かれ、伝えると中の人と連絡をとってから中に入れてくれる。
館内に入るとすぐ右手が窓口だった。ここの窓口はテヘランのようにマジックミラーにはなっていない。中に座っている男性を見たときは二人とも日本人かなと思ったが、実際は地元採用の人だった。
窓口で用件を伝えると領事が窓口の一人と一緒に中から出てくる。挨拶を交わしてからテーブルに座って昨日の警察の所業を伝える。
一通りぼくの話を聞いてから、領事はキルギスの警察の現状、被害届けを出した場合の流れなどを説明してくれる。
警察が腐っているのは領事も当然知ってはいるものの、なかなかその対処は難しいらしい。被害届けを出すとすれば、まず受理されるまでに1週間なりの時間がかかり、また受理されたとしても担当の刑事(?)がどれだけ本気でやるかがわからないという問題がある。また担当の刑事がやる気がある人であっても、現場検証や事件当日の再現などのために被害者が彼らに協力しなければならず、しかもいつ警察からお呼びがかかるかわからないため、その間中、ビシュケクにいないといけないらしい。
加えて、そうした調査を経て起訴するまでには平均3ヶ月はかかるという。さらにロシア語がわからなければ、通訳を被害者自身で雇わなければならないので、時間だけでなくオカネもかなりかかるらしい。
こう言われると当然現地に住んでいない人間にとっては、被害届けは出さないという選択肢しかない。1ヶ月程度であれば滞在費も安いからやってもいいかと思ったが、3ヶ月となると無理。どうせ政府側も警察側も外国人旅行者がこうした被害に遭っても法的な手段は取ってこないと見越しているんだろう。
領事が被害届けを出さないなら申し入れに行くという手もあるがどうかと聞いてきたので、申し入れすることにする。大使館の方で警察の方にアポイントを取るから、14時に大使館に電話をくれるようにと言われ、いったん大使館を出る。
14時まで1時間弱あるので、電話屋併設のインターネット屋で時間をつぶす。外は相変わらず雪がずんずんと降り続いている。
14時過ぎに大使館に電話をすると警察署の副署長が会議中だったためまだアポが取れていないという。そのため16時過ぎにまた電話くれるようにと言われる。16時と聞いて申し入れは明日になるかなと思い、いったん宿に帰る。すっかり雪は積もってしまって、景色が朝とは変わってしまった。
宿で本を読んだりしていたら、15時半過ぎに宿の電話が鳴り、それに出た家主がぼくに電話だと教えてくれる。電話は大使館から。アポが取れたからすぐに大使館に来るようにと言われる。
雪が積もったので、ランニングシューズからブーツに履き代え、外に出る。またマルシュートカに乗って日本大使館に向かう。
30分ほどかかって日本大使館に到着。すでに出発の準備はできていて、領事らと一緒に大使館の車に乗り、警察署に向かう。
領事が本当の警察かどうかを確認するため現場を見たいというので、現場に赴く。ゴーインという中国系のスーパーに付属している小屋がその現場なのだが、大使館の人が確認したところ確かに本物の警察の詰め所らしい。スーパーの警備を警察が請け負っているという。
運転をしている大使館職員の話に寄れば同じ場所で2年前にも同じようなことがあったらしい。犯人はもちろん警察。
そこから10分足らずで警察署に到着。3人で警察署に乗り込む。
2階の副署長室に案内され、まずは領事と大使館職員が先に副署長と面会。遅れてぼくが中に呼ばれる。副署長は34歳。腹はパンパンに出ていて、一重瞼で目つきが鋭い。たとえて言えばアニマル浜口系の顔をしている。言葉は相手がキルギス語でこちらは日本語なので大使館職員が間に入って通訳。事情をかなり大ざっぱに話す。副署長はそれを黙って聞いていた。
本当に解決する気があるなら犯人を特定できる細かな部分を聞いてくると思うのだが、そういう質問はなし。服装を聞いてきた程度。
副署長の話ではまちをパトロールしている警官には内務省の軍警察と警察アカデミーの生徒、警察の3つがあるらしい。内務省では最近、こうした外国人に対する犯罪を防ぐために厳しく指導しているという。
被害届けは出さないと言うと、なぜ出さないのかと副署長は聞いてくる。時間がかかるからと言ったが、特に反応はなし。
副署長はこうしたことが起こらないように、今日からでもパトロールを強化するという。そして、犯人探しもできるだけやってみるという。犯人なんて昨日の詰め所の勤務表を見ればすぐにわかるっちゅうに。それにそいつらの写真を持ってこい、写真を!と言いたかったが、どうせ警察も腐ってるんだろうなと思い、神妙に副署長の言葉をありがたくいただく。だいたい警察の犯罪を防ぐために警察によるパトロールを強化するってなんだ?
副署長は内務省に外国人課というような部署があって、そこが主に外国人関係を扱っているので、今度領事にその課長(に相当する人?)を紹介するという。そして金庫の鍵を開けて、中から500mlの「ビシュケク」と書いた未開封のコニャックを取り出し、領事にプレゼントだと言って渡す。
以上で申し入れは終了。
まぁ、腐ってるんだからカネが戻ってくることも犯人が捕まることも期待できないから、警察署を見物できたということをせめてもの収穫と思わないとなんだかバカらしい。きっとこれまでもこうしたことを何度もしているのだろう。正直に言えばこんな国になんか協力隊とかODAとかをつぎ込む必要はないと思う。キルギスの人は飢えているわけではないんだから、援助は止めて早く政府が潰れ、警察が刷新されるのを待った方がよほどこの国の人のためになるのでは。
あるいは被害に遭った外国人でネガティブキャンペーンを張って、キルギスの警察がどれだけひどいかをアピールし、かつ国内で警察に不満を持っている人たちを支援するなんてのもありか?
大使館の車で宿まで送ってもらい、そこでお別れ。宿に戻ったものの夜食がなかったので、バスで近くの商店まででかけ、人参などの総菜やパンを買って帰る。
夜は同部屋の人と明け方までしゃべる。同部屋の人は旧ソ連地域をほとんど回ったことがあるらしく、ロシア語も堪能。毎晩ビシュケクのまちに出かけているらしいのだが、ときにいたい目にあったこともあるらしい。なので、夜に出かけるのはすすめないと言う。しばらく前には夜、目の前でロシア系の若い女性が車に拉致されていくのを目撃したり、歩いていたら泣いている女の子がいたので聞いたところ、鞄などをひったくられたと言っていた人もいるらしい。
ここでもオカネがある人や勉強ができる人は次々と国から出ていっているらしい。特にロシア系の人はロシアに行く傾向が強いという。
またこのまちにカジノが多い(ぼくが確認しただけで5カ所ほどある)のは、カザフスタンで禁止されたため、それがこちらに流れてきてカザフ系の人が経営し、カザフ人が遊んでいるためだかららしい。ただ、中国人もずいぶん遊んでいるという。一度、見に行ったことがあるらしく、ビールが200ソム(約500円)くらいしたらしい。だから、カジノの中は別世界だと言う。
キルギスに初めて来たのは5~6年前らしく、そのときと比べると物価が物によっては倍以上になったという。以前は15ソムで食べられたラグマン(中央アジア風肉うどん?)が今では安くて40ソムなど。また当時と比べて中国人の数が圧倒的に増えたらしい。キルギス人の中国人に対する評価は悪く、一般的に嫌っているらしい。日本人は少ないためたいてい中国人か韓国人かと尋ねられるのだが、そのときに日本人だというと”へ~”とちょっと驚くような反応が返ってくるらしい。
ソ連時代が良かったと言っている人は、ここにもいるが、ハンガリーなどでも会ったらしい。理由はやっぱり仕事がみんなにあったということが大きいらしい。
また例えば以前なら年寄りは無料だったバスなどの公共交通機関が今では有料になったりと、そうした社会サービスの面での低下が旧ソ連時代を懐かしむ一因になっているらしい。
Fin
2009/02/03(火) 曇りのち大雪
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.5(両替屋にて)
・宿変え
・日本大使館へ
・警察に申し入れ
・宿でおしゃべり
まだ薄暗い7時すぎに起床。夜間は停電しているため暖房が効いていないのだが、部屋内はたいして寒くない。
宿を出る準備をする。
宿の鍵はもらっていなかったので、同室のA君に頼んで玄関の鍵を開けてもらい、宿を出る。
まだ薄暗い中を歩き、最寄りのバス乗り場に行く。10分ほど待つとトロリーバスが来たので、それに乗り込む。
途中で新しい宿近くまで行くルートのトロリーバスに乗り換える。わりと空いているので、でかい荷物を持っていてもなんとか乗れる。
8時半過ぎ、新たな宿に到着。チェックインして、荷物をおろし、宿の情報ノートを眺めながら、一息つく。
そうしてから宿を出て日本大使館に向かう。外に出ると雪がちらちらと降り始めていた。
宿の近くの通りからマルシュルートカに乗り、日本大使館近くで下車。歩いて日本大使館に向かう。雪はだんだんと本降りになり、あっと言う間に路面が真っ白になる。頭や肩に雪が積もる。
10分ほど歩いて日本大使館に到着。ミニ御殿的な造りの建物で敷地は高さ3mほどある鉄格子で囲まれている。
表に警備員らしき男性がいたので、その人に英語で話しかけるが、英語は解さないようで、片言ロシア語で用事がある旨を伝える。名前を聞かれ、伝えると中の人と連絡をとってから中に入れてくれる。
館内に入るとすぐ右手が窓口だった。ここの窓口はテヘランのようにマジックミラーにはなっていない。中に座っている男性を見たときは二人とも日本人かなと思ったが、実際は地元採用の人だった。
窓口で用件を伝えると領事が窓口の一人と一緒に中から出てくる。挨拶を交わしてからテーブルに座って昨日の警察の所業を伝える。
一通りぼくの話を聞いてから、領事はキルギスの警察の現状、被害届けを出した場合の流れなどを説明してくれる。
警察が腐っているのは領事も当然知ってはいるものの、なかなかその対処は難しいらしい。被害届けを出すとすれば、まず受理されるまでに1週間なりの時間がかかり、また受理されたとしても担当の刑事(?)がどれだけ本気でやるかがわからないという問題がある。また担当の刑事がやる気がある人であっても、現場検証や事件当日の再現などのために被害者が彼らに協力しなければならず、しかもいつ警察からお呼びがかかるかわからないため、その間中、ビシュケクにいないといけないらしい。
加えて、そうした調査を経て起訴するまでには平均3ヶ月はかかるという。さらにロシア語がわからなければ、通訳を被害者自身で雇わなければならないので、時間だけでなくオカネもかなりかかるらしい。
こう言われると当然現地に住んでいない人間にとっては、被害届けは出さないという選択肢しかない。1ヶ月程度であれば滞在費も安いからやってもいいかと思ったが、3ヶ月となると無理。どうせ政府側も警察側も外国人旅行者がこうした被害に遭っても法的な手段は取ってこないと見越しているんだろう。
領事が被害届けを出さないなら申し入れに行くという手もあるがどうかと聞いてきたので、申し入れすることにする。大使館の方で警察の方にアポイントを取るから、14時に大使館に電話をくれるようにと言われ、いったん大使館を出る。
14時まで1時間弱あるので、電話屋併設のインターネット屋で時間をつぶす。外は相変わらず雪がずんずんと降り続いている。
14時過ぎに大使館に電話をすると警察署の副署長が会議中だったためまだアポが取れていないという。そのため16時過ぎにまた電話くれるようにと言われる。16時と聞いて申し入れは明日になるかなと思い、いったん宿に帰る。すっかり雪は積もってしまって、景色が朝とは変わってしまった。
宿で本を読んだりしていたら、15時半過ぎに宿の電話が鳴り、それに出た家主がぼくに電話だと教えてくれる。電話は大使館から。アポが取れたからすぐに大使館に来るようにと言われる。
雪が積もったので、ランニングシューズからブーツに履き代え、外に出る。またマルシュートカに乗って日本大使館に向かう。
30分ほどかかって日本大使館に到着。すでに出発の準備はできていて、領事らと一緒に大使館の車に乗り、警察署に向かう。
領事が本当の警察かどうかを確認するため現場を見たいというので、現場に赴く。ゴーインという中国系のスーパーに付属している小屋がその現場なのだが、大使館の人が確認したところ確かに本物の警察の詰め所らしい。スーパーの警備を警察が請け負っているという。
運転をしている大使館職員の話に寄れば同じ場所で2年前にも同じようなことがあったらしい。犯人はもちろん警察。
そこから10分足らずで警察署に到着。3人で警察署に乗り込む。
2階の副署長室に案内され、まずは領事と大使館職員が先に副署長と面会。遅れてぼくが中に呼ばれる。副署長は34歳。腹はパンパンに出ていて、一重瞼で目つきが鋭い。たとえて言えばアニマル浜口系の顔をしている。言葉は相手がキルギス語でこちらは日本語なので大使館職員が間に入って通訳。事情をかなり大ざっぱに話す。副署長はそれを黙って聞いていた。
本当に解決する気があるなら犯人を特定できる細かな部分を聞いてくると思うのだが、そういう質問はなし。服装を聞いてきた程度。
副署長の話ではまちをパトロールしている警官には内務省の軍警察と警察アカデミーの生徒、警察の3つがあるらしい。内務省では最近、こうした外国人に対する犯罪を防ぐために厳しく指導しているという。
被害届けは出さないと言うと、なぜ出さないのかと副署長は聞いてくる。時間がかかるからと言ったが、特に反応はなし。
副署長はこうしたことが起こらないように、今日からでもパトロールを強化するという。そして、犯人探しもできるだけやってみるという。犯人なんて昨日の詰め所の勤務表を見ればすぐにわかるっちゅうに。それにそいつらの写真を持ってこい、写真を!と言いたかったが、どうせ警察も腐ってるんだろうなと思い、神妙に副署長の言葉をありがたくいただく。だいたい警察の犯罪を防ぐために警察によるパトロールを強化するってなんだ?
副署長は内務省に外国人課というような部署があって、そこが主に外国人関係を扱っているので、今度領事にその課長(に相当する人?)を紹介するという。そして金庫の鍵を開けて、中から500mlの「ビシュケク」と書いた未開封のコニャックを取り出し、領事にプレゼントだと言って渡す。
以上で申し入れは終了。
まぁ、腐ってるんだからカネが戻ってくることも犯人が捕まることも期待できないから、警察署を見物できたということをせめてもの収穫と思わないとなんだかバカらしい。きっとこれまでもこうしたことを何度もしているのだろう。正直に言えばこんな国になんか協力隊とかODAとかをつぎ込む必要はないと思う。キルギスの人は飢えているわけではないんだから、援助は止めて早く政府が潰れ、警察が刷新されるのを待った方がよほどこの国の人のためになるのでは。
あるいは被害に遭った外国人でネガティブキャンペーンを張って、キルギスの警察がどれだけひどいかをアピールし、かつ国内で警察に不満を持っている人たちを支援するなんてのもありか?
大使館の車で宿まで送ってもらい、そこでお別れ。宿に戻ったものの夜食がなかったので、バスで近くの商店まででかけ、人参などの総菜やパンを買って帰る。
夜は同部屋の人と明け方までしゃべる。同部屋の人は旧ソ連地域をほとんど回ったことがあるらしく、ロシア語も堪能。毎晩ビシュケクのまちに出かけているらしいのだが、ときにいたい目にあったこともあるらしい。なので、夜に出かけるのはすすめないと言う。しばらく前には夜、目の前でロシア系の若い女性が車に拉致されていくのを目撃したり、歩いていたら泣いている女の子がいたので聞いたところ、鞄などをひったくられたと言っていた人もいるらしい。
ここでもオカネがある人や勉強ができる人は次々と国から出ていっているらしい。特にロシア系の人はロシアに行く傾向が強いという。
またこのまちにカジノが多い(ぼくが確認しただけで5カ所ほどある)のは、カザフスタンで禁止されたため、それがこちらに流れてきてカザフ系の人が経営し、カザフ人が遊んでいるためだかららしい。ただ、中国人もずいぶん遊んでいるという。一度、見に行ったことがあるらしく、ビールが200ソム(約500円)くらいしたらしい。だから、カジノの中は別世界だと言う。
キルギスに初めて来たのは5~6年前らしく、そのときと比べると物価が物によっては倍以上になったという。以前は15ソムで食べられたラグマン(中央アジア風肉うどん?)が今では安くて40ソムなど。また当時と比べて中国人の数が圧倒的に増えたらしい。キルギス人の中国人に対する評価は悪く、一般的に嫌っているらしい。日本人は少ないためたいてい中国人か韓国人かと尋ねられるのだが、そのときに日本人だというと”へ~”とちょっと驚くような反応が返ってくるらしい。
ソ連時代が良かったと言っている人は、ここにもいるが、ハンガリーなどでも会ったらしい。理由はやっぱり仕事がみんなにあったということが大きいらしい。
また例えば以前なら年寄りは無料だったバスなどの公共交通機関が今では有料になったりと、そうした社会サービスの面での低下が旧ソ連時代を懐かしむ一因になっているらしい。
Fin
[diary]ビシュケクで警官にカネを取られる
ビシュケクで警官にカネを取られる
2009/02/02(月) 晴れのち曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.5(両替屋にて)
・宿のおばさんに怒られる
・両替をしに
・カザフビザを申請
・別の宿探し
・郵便局
・警官にやられる
・晩飯をごちになる
2009/02/02(月) 晴れのち曇り
[Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.5(両替屋にて)
・宿のおばさんに怒られる
・両替をしに
・カザフビザを申請
・別の宿探し
・郵便局
・警官にやられる
・晩飯をごちになる
[diary]オシュからビシュケクへ
オシュからビシュケクへ
2009/02/01(日) 曇り
[Osh→Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)
・朝食はポロ
・乗り合いタクシーでビシュケクへ
・2度の山越え、チェーンの着脱
・真夜中にビシュケク着
ハチチャの家で4回目の朝を迎える。6時過ぎに目が覚め、さっそく出発の準備。今日はビシュケクに行くのである。バザール近くの乗り合いタクシー乗り場で聞いた話ではビシュケクまで10~15時間かかるという。そのため今日中に着くにはなるだけ早く宿を出ないといけない。
前日にハチチャのお母さんに7時前に家を出るから朝食はいらないと伝えていた。外は暗いもののさすがに家の人は起きているようで、隣の部屋から声がする。
出発の準備を済ませ、出ようと家主が出てくるのを待つ。家主のおじさんがこちらの部屋に顔を出したので、これから出ると言うとポロウ(パロウ:中央アジア風炊き込みご飯)を作っているから待てと言う。早く出たいぼくとしては、余計なお世話なのだが、3回ほど”いやもう出るのだから”と伝えるもまったく折れない。しょうがないので、こちらが折れ、朝飯ができるのを待つ。
ここが旅行者の対応に慣れている宿であれば、少しでも早く朝飯を準備して旅行者のスケジュールに合わせるようするのだろうが、まったくそんな雰囲気はなく、結局、朝ご飯が出てきたのは8時前だった。
初日と同じように直径が70cmほどもある平皿に山盛りになって出てくる。中華料理のようにそれぞれに小皿が用意されるわけでもなく、それぞれがその大皿から直接スプーンですくい取り、自分の口に運ぶ。緑大根の千切りが別の小皿に用意されているので、それをご飯にかけながら食べる。この家のポロウは食堂でよくあるような油ぎったポロウではないし、味付けもちょうどよい具合で美味い。米の炊き具合もベスト。
家主のおじさんは、ビシュケクには明日着くだろうと言う。ぼくもこの時点で既に今日中に着くのは諦めてしまった。
朝食を済ませると4歳のムスリマがぼくの元にやってきて、遊ぼうとねだる。なので、しばしお相手。昨日、一昨日と同じように手をつないで部屋の中でぼくを軸にしてぐるぐる回ってから、ぱちっと止まり、ウルトラマンセブンがなんとか光線を出すときの構えと同じような構えをして「ウトカ、ウトカ、ウトカ」(ウズベク語?意味不明)と言うのを2回繰り返した後、ムスリマは一人で両腕を横に広げ一回転する。
そしてぼくを部屋の端に行くよう押し、自分はドアの陰に隠れ、ちょっとした隠れん坊状態を数秒間続ける。そして、適当なタイミングで「ワー!」と大声を上げながらぼくの前に現れる。そして楽しそうに笑う。これら一連の流れを彼女は繰り返す。ぼくはそれに付き合う。
昨日までならしばらく彼女の遊びにつき合えたのだが、さすがに今日はそんなにつき合えない。3サイクルほど付き合ってからもう出るからと仕草で伝える。母親がムスリマに強い調子で何をか言い、彼女の動きは止まる。
ぼくはリュックを背負い、イランで買ったブーツを履き、外に出る。家主夫婦に見送られて家を出る。次男が国境のマルシュートカ乗り場まで送ってくれるというので、彼と一緒に水たまりばかりの未舗装の道を歩く。今日はわりと天気がいい。
10分足らずでハチチャがお菓子屋をしている国境に到着。マルシュートカに乗り込む。乗り込んだところへハチチャが来て、「ダスビダーニャ(さようなら)」と笑顔で言って、自分の店に戻っていく。
オシュの中心部まではマルシュートカで20分ほど。運賃7ソム(約20円)。
ビシュケク行きの乗り合いタクシーが出ている駐車場近くでマルシュートカから降り、駐車場に向かう。駐車場の入り口には運転手が数人客引きしていて、声をかけてくる。ビシュケクに行くと言うと、一人のおじさん(と言っても40歳前後)がこっちに来いと言うので後をついていく。おじさん車には既に客が乗り込んでいたし、運賃も1000ソム(約2500円)と地元料金だったので、促されるまま乗り込む。
トランクにリュックを乗せようとあけてみると、すでに荷物でいっぱい。大きな袋の一つを取り出し、代わりにぼくのリュックをトランクに詰め、その袋は後部座席に乗せる。
駐車場にあった有料トイレ(3ソム)で用を済ませ、車に乗り込むとすぐに車は発車した。乗客は助手席に1人と後部に2人。通常なら後部座席に3人だが、例の荷物がぼくの隣にあり、一人分の席を占めている。これで出発するとは意外だ。車はベンツだが、古いタイプのよう。
車内は音楽もかからず、かと言っておしゃべりもなく、とても静か。同乗者もぼくにはどこから来たのかといったことを聞いただけでそれ以上は話しかけて来なかった。
どういうわけかぼくは異常に眠く、というか自分でも眠気を感じなほど眠かったようで、さっさと寝てしまう。目が覚める度に、いやいや起きてまわりの様子を見ねばと思うのだが、またしばらくしたら寝ている、というのを繰り返す。
景色は基本的に単調で、木のない山々に挟まれた道をずっと走るだけ。時折、まちが現れる。
畑が広がっている地域もあり、意外なことにここも雪がない。悠然と馬に乗ってどこかへ移動している人たちも見るし、馬に荷車をひかせている人たちも見る。
民家は基本的に1階建ての平屋。一見する限りでは特に伝統的な造りとは思われないありきたりな造りのものが多い。壁はコンクリートブロックあるいは煉瓦を積み上げた後に、表面をコンクリートで塗り固めたようなものが多い。屋根はトタンとは材質が違うように見えるが、外観はトタンのように波打っているものが多い。日本の古い民家のように、屋根が交わる頂点は破風(はふ)が設けられているように見える。
12時頃、車はある食堂の前で停車。運転手に”食事は?”と聞かれたが、眠かったし、オカネをつかいたくなかったので、そのままぼくは車内で寝続ける。
休憩はその程度で、ひたすら車は走る。
徐々に高度が上がってきているようで、ぼくは耳に違和感を感じる。
そのうち雪山に挟まれた道路になり、路面はアイスバーンにこそなっていないものの、雪が踏み固められた状態のものになる。
路肩でチェーンを装着している車を何台も見る。乗用車同士がぶつかって話し合いらしきことをしている人たちも見る。
ぼくは乗る前にこの車がチェーンを持っているか確認しなかったなとちょっと不安になるが、そのうちこの車も路肩に止まり、チェーンを付け始める。ぼくの隣に座っている40歳というクルグズ人の男性が運転手の作業を手伝う。ぼくは見てるだけ。
改めて車のタイヤを確認すると、やっぱりノーマルのタイヤだった。チェーンの装着は20分ほどで終わる。不思議なことにチェーンを付けたのは左後部のタイヤのみ。そもそもチェーンが1つ分しかないよう。こんなんで大丈夫なのかと思ったが、意外にもこれで十分坂道を上る。
いったん下ると雪がなくなったので、チェーンを外す。
朝から曇っていたので、外の明るさからは何時かわからなかったが、すでに夕方近くになっていた。
しばらく走ると雪道になったので、またチェーンを付ける。
2度目の山越え。こっちはなかなか本格的な雪道だった。そのうち外は真っ暗になり、正面からは雪がヒューヒューと吹き付ける。窓の内側を曇らせていた水分は余すことなく凍ってしまった。
ビシュケクに近づくほど車の往来が増える。
雪道になって以降は目が冴える。下り坂になると、耳の痛みが激しくなり、飛行機で着陸するときと同じような状態になる。これで眠るどころではなくなる。ちなみにさっき越えたアラベル峠の標高は3184m。
しばらくして正面にトンネルが見えてくる。入り口近くには武装した警官などがいる。
運転手はトンネルの手前で右に曲がり、駐車スペースで車を止める。そして、チェーンを外す。
そうしてからトンネルに入る。ガイドブックによればこのトンネルは2kmほどあるらしい。
トンネル内は雪などはなく、トンネルを出てしまうとすっかり雪のない世界になってしまった。
オシュを出てすぐに運転手に何時くらいにビシュケクに着くか聞いたとき、2時か3時だろうと言っていたから、まだまだしばらくかかると思っていた。このころになるとようやく耳の痛みもおさまったので、また寝る。
目が覚めるとアパートが並ぶ住宅街にいて、10分ほど走った頃隣のおじさんは降りていった。
運転手はぼくにどこの宿に行くのだと聞くので、ガイドブックを見せながら説明。車の時計を見ると時刻は夜中の12時前。この時間では宿は閉まっているかもしれないと思いつつも、予定していた宿に行ってもらう。
宿はわかりにくい入り組んだ路地にあった。入り口のドアベルを鳴らすが反応なし。ドアを叩いて日本語で呼びかけるが、中からだれも出てこない。時刻は12時20分。
やっぱり寝てしまったかと思い、どうするかなと思っていたところへ、なかから足音がして宿主の人が現れる。現在停電中のようで灯りや何もかもが使えないらしい。
宿は現在改装工事中。ドミということでベッドが2つある部屋に案内される。そこには日本人男性の旅行者が1人。彼も寝ていたようで、そこを起こし、うちから鍵を開けてもらう。
こうして無事宿を確保。しばらく同じ部屋の日本人と話をしてから寝る。ここのところは毎日12時を過ぎると停電するらしい。
Fin
2009/02/01(日) 曇り
[Osh→Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)
・朝食はポロ
・乗り合いタクシーでビシュケクへ
・2度の山越え、チェーンの着脱
・真夜中にビシュケク着
ハチチャの家で4回目の朝を迎える。6時過ぎに目が覚め、さっそく出発の準備。今日はビシュケクに行くのである。バザール近くの乗り合いタクシー乗り場で聞いた話ではビシュケクまで10~15時間かかるという。そのため今日中に着くにはなるだけ早く宿を出ないといけない。
前日にハチチャのお母さんに7時前に家を出るから朝食はいらないと伝えていた。外は暗いもののさすがに家の人は起きているようで、隣の部屋から声がする。
出発の準備を済ませ、出ようと家主が出てくるのを待つ。家主のおじさんがこちらの部屋に顔を出したので、これから出ると言うとポロウ(パロウ:中央アジア風炊き込みご飯)を作っているから待てと言う。早く出たいぼくとしては、余計なお世話なのだが、3回ほど”いやもう出るのだから”と伝えるもまったく折れない。しょうがないので、こちらが折れ、朝飯ができるのを待つ。
ここが旅行者の対応に慣れている宿であれば、少しでも早く朝飯を準備して旅行者のスケジュールに合わせるようするのだろうが、まったくそんな雰囲気はなく、結局、朝ご飯が出てきたのは8時前だった。
初日と同じように直径が70cmほどもある平皿に山盛りになって出てくる。中華料理のようにそれぞれに小皿が用意されるわけでもなく、それぞれがその大皿から直接スプーンですくい取り、自分の口に運ぶ。緑大根の千切りが別の小皿に用意されているので、それをご飯にかけながら食べる。この家のポロウは食堂でよくあるような油ぎったポロウではないし、味付けもちょうどよい具合で美味い。米の炊き具合もベスト。
家主のおじさんは、ビシュケクには明日着くだろうと言う。ぼくもこの時点で既に今日中に着くのは諦めてしまった。
朝食を済ませると4歳のムスリマがぼくの元にやってきて、遊ぼうとねだる。なので、しばしお相手。昨日、一昨日と同じように手をつないで部屋の中でぼくを軸にしてぐるぐる回ってから、ぱちっと止まり、ウルトラマンセブンがなんとか光線を出すときの構えと同じような構えをして「ウトカ、ウトカ、ウトカ」(ウズベク語?意味不明)と言うのを2回繰り返した後、ムスリマは一人で両腕を横に広げ一回転する。
そしてぼくを部屋の端に行くよう押し、自分はドアの陰に隠れ、ちょっとした隠れん坊状態を数秒間続ける。そして、適当なタイミングで「ワー!」と大声を上げながらぼくの前に現れる。そして楽しそうに笑う。これら一連の流れを彼女は繰り返す。ぼくはそれに付き合う。
昨日までならしばらく彼女の遊びにつき合えたのだが、さすがに今日はそんなにつき合えない。3サイクルほど付き合ってからもう出るからと仕草で伝える。母親がムスリマに強い調子で何をか言い、彼女の動きは止まる。
ぼくはリュックを背負い、イランで買ったブーツを履き、外に出る。家主夫婦に見送られて家を出る。次男が国境のマルシュートカ乗り場まで送ってくれるというので、彼と一緒に水たまりばかりの未舗装の道を歩く。今日はわりと天気がいい。
10分足らずでハチチャがお菓子屋をしている国境に到着。マルシュートカに乗り込む。乗り込んだところへハチチャが来て、「ダスビダーニャ(さようなら)」と笑顔で言って、自分の店に戻っていく。
オシュの中心部まではマルシュートカで20分ほど。運賃7ソム(約20円)。
ビシュケク行きの乗り合いタクシーが出ている駐車場近くでマルシュートカから降り、駐車場に向かう。駐車場の入り口には運転手が数人客引きしていて、声をかけてくる。ビシュケクに行くと言うと、一人のおじさん(と言っても40歳前後)がこっちに来いと言うので後をついていく。おじさん車には既に客が乗り込んでいたし、運賃も1000ソム(約2500円)と地元料金だったので、促されるまま乗り込む。
トランクにリュックを乗せようとあけてみると、すでに荷物でいっぱい。大きな袋の一つを取り出し、代わりにぼくのリュックをトランクに詰め、その袋は後部座席に乗せる。
駐車場にあった有料トイレ(3ソム)で用を済ませ、車に乗り込むとすぐに車は発車した。乗客は助手席に1人と後部に2人。通常なら後部座席に3人だが、例の荷物がぼくの隣にあり、一人分の席を占めている。これで出発するとは意外だ。車はベンツだが、古いタイプのよう。
車内は音楽もかからず、かと言っておしゃべりもなく、とても静か。同乗者もぼくにはどこから来たのかといったことを聞いただけでそれ以上は話しかけて来なかった。
どういうわけかぼくは異常に眠く、というか自分でも眠気を感じなほど眠かったようで、さっさと寝てしまう。目が覚める度に、いやいや起きてまわりの様子を見ねばと思うのだが、またしばらくしたら寝ている、というのを繰り返す。
景色は基本的に単調で、木のない山々に挟まれた道をずっと走るだけ。時折、まちが現れる。
畑が広がっている地域もあり、意外なことにここも雪がない。悠然と馬に乗ってどこかへ移動している人たちも見るし、馬に荷車をひかせている人たちも見る。
民家は基本的に1階建ての平屋。一見する限りでは特に伝統的な造りとは思われないありきたりな造りのものが多い。壁はコンクリートブロックあるいは煉瓦を積み上げた後に、表面をコンクリートで塗り固めたようなものが多い。屋根はトタンとは材質が違うように見えるが、外観はトタンのように波打っているものが多い。日本の古い民家のように、屋根が交わる頂点は破風(はふ)が設けられているように見える。
12時頃、車はある食堂の前で停車。運転手に”食事は?”と聞かれたが、眠かったし、オカネをつかいたくなかったので、そのままぼくは車内で寝続ける。
休憩はその程度で、ひたすら車は走る。
徐々に高度が上がってきているようで、ぼくは耳に違和感を感じる。
そのうち雪山に挟まれた道路になり、路面はアイスバーンにこそなっていないものの、雪が踏み固められた状態のものになる。
路肩でチェーンを装着している車を何台も見る。乗用車同士がぶつかって話し合いらしきことをしている人たちも見る。
ぼくは乗る前にこの車がチェーンを持っているか確認しなかったなとちょっと不安になるが、そのうちこの車も路肩に止まり、チェーンを付け始める。ぼくの隣に座っている40歳というクルグズ人の男性が運転手の作業を手伝う。ぼくは見てるだけ。
改めて車のタイヤを確認すると、やっぱりノーマルのタイヤだった。チェーンの装着は20分ほどで終わる。不思議なことにチェーンを付けたのは左後部のタイヤのみ。そもそもチェーンが1つ分しかないよう。こんなんで大丈夫なのかと思ったが、意外にもこれで十分坂道を上る。
いったん下ると雪がなくなったので、チェーンを外す。
朝から曇っていたので、外の明るさからは何時かわからなかったが、すでに夕方近くになっていた。
しばらく走ると雪道になったので、またチェーンを付ける。
2度目の山越え。こっちはなかなか本格的な雪道だった。そのうち外は真っ暗になり、正面からは雪がヒューヒューと吹き付ける。窓の内側を曇らせていた水分は余すことなく凍ってしまった。
ビシュケクに近づくほど車の往来が増える。
雪道になって以降は目が冴える。下り坂になると、耳の痛みが激しくなり、飛行機で着陸するときと同じような状態になる。これで眠るどころではなくなる。ちなみにさっき越えたアラベル峠の標高は3184m。
しばらくして正面にトンネルが見えてくる。入り口近くには武装した警官などがいる。
運転手はトンネルの手前で右に曲がり、駐車スペースで車を止める。そして、チェーンを外す。
そうしてからトンネルに入る。ガイドブックによればこのトンネルは2kmほどあるらしい。
トンネル内は雪などはなく、トンネルを出てしまうとすっかり雪のない世界になってしまった。
オシュを出てすぐに運転手に何時くらいにビシュケクに着くか聞いたとき、2時か3時だろうと言っていたから、まだまだしばらくかかると思っていた。このころになるとようやく耳の痛みもおさまったので、また寝る。
目が覚めるとアパートが並ぶ住宅街にいて、10分ほど走った頃隣のおじさんは降りていった。
運転手はぼくにどこの宿に行くのだと聞くので、ガイドブックを見せながら説明。車の時計を見ると時刻は夜中の12時前。この時間では宿は閉まっているかもしれないと思いつつも、予定していた宿に行ってもらう。
宿はわかりにくい入り組んだ路地にあった。入り口のドアベルを鳴らすが反応なし。ドアを叩いて日本語で呼びかけるが、中からだれも出てこない。時刻は12時20分。
やっぱり寝てしまったかと思い、どうするかなと思っていたところへ、なかから足音がして宿主の人が現れる。現在停電中のようで灯りや何もかもが使えないらしい。
宿は現在改装工事中。ドミということでベッドが2つある部屋に案内される。そこには日本人男性の旅行者が1人。彼も寝ていたようで、そこを起こし、うちから鍵を開けてもらう。
こうして無事宿を確保。しばらく同じ部屋の日本人と話をしてから寝る。ここのところは毎日12時を過ぎると停電するらしい。
Fin
[diary]オシュ3日目
オシュ3日目
2009/01/31(土) 曇りときどき晴れ
[Osh:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)
・カラスーバザール
・オシュバザールでケーキ探し
・バスを間違える
・ハチチャの誕生会
今日もハチチャの家で朝を迎える。いつものように7時半頃、家族は目覚める。
やかんで洗顔。
8時半頃、朝食。しばらくムスリマの遊びの相手をする。
10時頃、中国人や韓国人がいっぱいいるというバザールに向かう。週末限定なのか、週末が特に人出が多いのかよくわからないが、そのバザールに行くバスや乗り合いタクシーが国境のマルシュートカ乗り場から出ているらしい。
ハチチャと一緒にマルシュートカ乗り場まで行く。ウズベキスタンからもそのバザール(カラスーバザール)に行く人たちがいて、その人たちと一緒に乗り合いタクシーに乗る。運賃はウズベキスタンスム払いで1500スム(約100円)。
意外に遠くバザールまでは40分ほどかかった。
バザールの駐車場で車を降りる。朝からチャイをガバガバ飲んでいたので、トイレが近くなる。バザール内の有料公衆便所に行く。料金は3ソムまた200スム(約10円)。便所はウズベキスタンと同じく、ドアなし。隣とを仕切る壁はあるものの個室の入り口のドアはないため、座り込んでいるおじさんたちの姿は丸見え。どうもこれは中央アジアの文化らしい。
ぐるぐるとバザールを歩いて回る。貨物列車で使うようなコンテナが倉庫兼店舗になっているところが多い。洋服屋、靴屋、帽子屋、布地屋、発電機屋、農薬散布機などの農作業機械屋、DVDプレイヤーやテレビなどの家電屋、靴下屋、せっけん・生理用品屋、それから青果品、パン屋、シャシリク屋などなど。地面はほとんどコンクリートで舗装されているが、どろどろしている地帯もある。
おもしろかったのが一角にビリアードコーナーがあったこと。ビリアードの台が8台ほどあって、すべての台が埋まっていた。ビリアードをしているのは男ばかり。20代くらいの若い男から腹の出た中年のおじさんまで年齢層は幅広い。ビリアードの玉は中古品なのか全部白。それも色を付けていたペイントが剥げたようなものばかりだった。
ぼくが近寄ってその様子を見ていると何人かが寄ってきてどこから来たのか、何をしているのかと聞いてくる。
もちろん通路でカゴや手押し車に商品を入れて売り歩いている人もいる。人出は思ったほど多くない。また規模も想像していたほどではなかった。アフリカ各地のバザールと比べれば小さい部類だろう。
服にしても電化製品にしても中国製品が目立つ。一部には中国語の商品ポスターも貼られてあった。また中国語をしゃべっている中国人らしき人の見せもあり。韓国人については、それらしき人は見かけず。
5本指ソックスを探して靴下屋街を歩き回るが、見あたらず。
1時間も歩き回れば一通り見て回れる広さだったので、すぐにあきてしまう。
宿代をソムで払ったことで手持ちのソムがなくなっていたので、バザール内にあった両替屋で両替。
それからここまで来たのでここで飯を食っていこうかと思い、食堂を見て回る。シャシリク屋が多く、あまり変わったものが食べられそうにない。歩道でミニ餃子のようなものを売っているおばさんがいたので、そこで飯を食うことにする。3人ほどが座れる木製のカウンターがあって、ミニ餃子を注文すると炭でわかしているお湯の中に小さめの金属製の洗面器とお湯少々とミニ餃子を入れ、温めてくれる。
ミニ餃子はワンタンのような感じ。ロシアで言うところのペリメニ。具は緑の葉をみじん切りにしたものだけ。肉などは入っていない。これだけじゃなにか物足りなかったので、おばさんが売っていたマンティも1個注文する。こっちはじゃがいもと挽き肉が入っていた。全部で25ソムのはずだったがおばさんがカップに入れて出してくれた白湯(さゆ)もカネを取るらしく、結局30ソム(約75円)払う。白湯はただと思ったのに。
もう飽きてしまったので、ここから直接家に帰ろうかと思ったが、まだ昼過ぎだし、今日はハチチャの誕生日らしいのでケーキでも差し入れするかと思い、またオシュの中心街に向かう。こちらはマルシュートカで40分ほど。運賃20ソム(約50円)。
畑を車窓から眺めながらオシュに向かう。
オシュのバザールをまわりケーキを探して回る。ケーキ屋の中には大手のケーキ屋があるようで同じ看板を出しているケーキ屋を数軒見る。どれも緑やおれんじや茶色など色鮮やか。いまいち買う気をそそられない。ホールのケーキはだいたい200ソム(約500円)以上。100ソム(約250円)くらいでないかと思っていたが、無理っぽい。
結局10軒ほどまわっているうちに夕方4時に近くなってきた。閉店しはじめるところが出てきたので、観念して適当なケーキを買うことにする。見た目がわりとまともで値段が安かった170ソムのホールケーキを160ソムにしてもらう。生クリームを全体的にべたっと塗りくるみが少し添えられている。
また昨日、撮ったムスリマたちの写真を現像。30分ほどで出来上がり、1枚5ソム(約12円)だった。
こうしてから家に戻る。バザールからいつも乗っているマルシュートカに乗る。
これがどうしたことか同じルートでも反対方向に行くマルシュートカだったようで、行きたいところとは違うところが終点だった。運転手に言うと、ここで待っていれば別の車が来るからと言われる。
すでに陽は暮れはじめ、待っている間にすっかり暗くなる。別のマルシュートカは30分待っても来ない。
やっとそれらしき車が来たが、手で合図をしたにもかかわらず素通りされる。なので、さらに待たされる。結局1時間ほど待ってやっと目的のマルシュートカに乗ることができる。
そうして国境のドゥストゥックに着いたのは19時前だった。ハチチャの店に行くと遅いからちょっと心配していたらしく、どこに行っていたのかと聞かれる。店には彼女の母親と弟も来ていて、すでに店じまいを始めていた。
店が片づくのを待って4人で帰る。
誕生日にもかかわらず、今日も晩ご飯はハチチャが作るよう。母親は部屋にいて、ぼくとムスリマが遊んでいる様子を眺めている。ムスリマは今日も元気で走ったり、跳ねたり、踊ったり。
晩飯はひよこ豆丼とでも名付けたくなるようなものだった。文字通り器は丼で、中はゆがいたひよこ豆が9割ほどと肉などが1割ほど。味付けは塩のみっぽい。肉も一緒に湯がいたようで肉の出汁が出ているので、味気ないことはない。
さすがに誕生日ということで、店で売っているお菓子がテーブルを飾る。
食事後、ぼくが買ってきたケーキを食べる。食べてみてがっかり。たいしてうまくない。ハチチャの店にあった小さなケーキの方がまだ味がしっかりしているように感じる。
食後、おじさんが昨日、ハチチャが見せてくれた家族写真をまた見せてくれる。昨日、ハチチャが”これはロシアでの写真”と言っていたのは、ウラジオストクの写真だった。海水浴をしている様子を写した写真で、おじさんはこれは”日本海だ”と説明してくれる。日本海の存在を知っていながら、昨日は中国から鉄道で行けるのかと聞いてきたのかと不思議に思う。
またおじさんは1977~1979年にかけて東ドイツに兵隊として行っていたらしく、世界地図を見ながら自分が行っていたまちの名前を教えてくれる。
Fin
2009/01/31(土) 曇りときどき晴れ
[Osh:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)
・カラスーバザール
・オシュバザールでケーキ探し
・バスを間違える
・ハチチャの誕生会
今日もハチチャの家で朝を迎える。いつものように7時半頃、家族は目覚める。
やかんで洗顔。
8時半頃、朝食。しばらくムスリマの遊びの相手をする。
10時頃、中国人や韓国人がいっぱいいるというバザールに向かう。週末限定なのか、週末が特に人出が多いのかよくわからないが、そのバザールに行くバスや乗り合いタクシーが国境のマルシュートカ乗り場から出ているらしい。
ハチチャと一緒にマルシュートカ乗り場まで行く。ウズベキスタンからもそのバザール(カラスーバザール)に行く人たちがいて、その人たちと一緒に乗り合いタクシーに乗る。運賃はウズベキスタンスム払いで1500スム(約100円)。
意外に遠くバザールまでは40分ほどかかった。
バザールの駐車場で車を降りる。朝からチャイをガバガバ飲んでいたので、トイレが近くなる。バザール内の有料公衆便所に行く。料金は3ソムまた200スム(約10円)。便所はウズベキスタンと同じく、ドアなし。隣とを仕切る壁はあるものの個室の入り口のドアはないため、座り込んでいるおじさんたちの姿は丸見え。どうもこれは中央アジアの文化らしい。
ぐるぐるとバザールを歩いて回る。貨物列車で使うようなコンテナが倉庫兼店舗になっているところが多い。洋服屋、靴屋、帽子屋、布地屋、発電機屋、農薬散布機などの農作業機械屋、DVDプレイヤーやテレビなどの家電屋、靴下屋、せっけん・生理用品屋、それから青果品、パン屋、シャシリク屋などなど。地面はほとんどコンクリートで舗装されているが、どろどろしている地帯もある。
おもしろかったのが一角にビリアードコーナーがあったこと。ビリアードの台が8台ほどあって、すべての台が埋まっていた。ビリアードをしているのは男ばかり。20代くらいの若い男から腹の出た中年のおじさんまで年齢層は幅広い。ビリアードの玉は中古品なのか全部白。それも色を付けていたペイントが剥げたようなものばかりだった。
ぼくが近寄ってその様子を見ていると何人かが寄ってきてどこから来たのか、何をしているのかと聞いてくる。
もちろん通路でカゴや手押し車に商品を入れて売り歩いている人もいる。人出は思ったほど多くない。また規模も想像していたほどではなかった。アフリカ各地のバザールと比べれば小さい部類だろう。
服にしても電化製品にしても中国製品が目立つ。一部には中国語の商品ポスターも貼られてあった。また中国語をしゃべっている中国人らしき人の見せもあり。韓国人については、それらしき人は見かけず。
5本指ソックスを探して靴下屋街を歩き回るが、見あたらず。
1時間も歩き回れば一通り見て回れる広さだったので、すぐにあきてしまう。
宿代をソムで払ったことで手持ちのソムがなくなっていたので、バザール内にあった両替屋で両替。
それからここまで来たのでここで飯を食っていこうかと思い、食堂を見て回る。シャシリク屋が多く、あまり変わったものが食べられそうにない。歩道でミニ餃子のようなものを売っているおばさんがいたので、そこで飯を食うことにする。3人ほどが座れる木製のカウンターがあって、ミニ餃子を注文すると炭でわかしているお湯の中に小さめの金属製の洗面器とお湯少々とミニ餃子を入れ、温めてくれる。
ミニ餃子はワンタンのような感じ。ロシアで言うところのペリメニ。具は緑の葉をみじん切りにしたものだけ。肉などは入っていない。これだけじゃなにか物足りなかったので、おばさんが売っていたマンティも1個注文する。こっちはじゃがいもと挽き肉が入っていた。全部で25ソムのはずだったがおばさんがカップに入れて出してくれた白湯(さゆ)もカネを取るらしく、結局30ソム(約75円)払う。白湯はただと思ったのに。
もう飽きてしまったので、ここから直接家に帰ろうかと思ったが、まだ昼過ぎだし、今日はハチチャの誕生日らしいのでケーキでも差し入れするかと思い、またオシュの中心街に向かう。こちらはマルシュートカで40分ほど。運賃20ソム(約50円)。
畑を車窓から眺めながらオシュに向かう。
オシュのバザールをまわりケーキを探して回る。ケーキ屋の中には大手のケーキ屋があるようで同じ看板を出しているケーキ屋を数軒見る。どれも緑やおれんじや茶色など色鮮やか。いまいち買う気をそそられない。ホールのケーキはだいたい200ソム(約500円)以上。100ソム(約250円)くらいでないかと思っていたが、無理っぽい。
結局10軒ほどまわっているうちに夕方4時に近くなってきた。閉店しはじめるところが出てきたので、観念して適当なケーキを買うことにする。見た目がわりとまともで値段が安かった170ソムのホールケーキを160ソムにしてもらう。生クリームを全体的にべたっと塗りくるみが少し添えられている。
また昨日、撮ったムスリマたちの写真を現像。30分ほどで出来上がり、1枚5ソム(約12円)だった。
こうしてから家に戻る。バザールからいつも乗っているマルシュートカに乗る。
これがどうしたことか同じルートでも反対方向に行くマルシュートカだったようで、行きたいところとは違うところが終点だった。運転手に言うと、ここで待っていれば別の車が来るからと言われる。
すでに陽は暮れはじめ、待っている間にすっかり暗くなる。別のマルシュートカは30分待っても来ない。
やっとそれらしき車が来たが、手で合図をしたにもかかわらず素通りされる。なので、さらに待たされる。結局1時間ほど待ってやっと目的のマルシュートカに乗ることができる。
そうして国境のドゥストゥックに着いたのは19時前だった。ハチチャの店に行くと遅いからちょっと心配していたらしく、どこに行っていたのかと聞かれる。店には彼女の母親と弟も来ていて、すでに店じまいを始めていた。
店が片づくのを待って4人で帰る。
誕生日にもかかわらず、今日も晩ご飯はハチチャが作るよう。母親は部屋にいて、ぼくとムスリマが遊んでいる様子を眺めている。ムスリマは今日も元気で走ったり、跳ねたり、踊ったり。
晩飯はひよこ豆丼とでも名付けたくなるようなものだった。文字通り器は丼で、中はゆがいたひよこ豆が9割ほどと肉などが1割ほど。味付けは塩のみっぽい。肉も一緒に湯がいたようで肉の出汁が出ているので、味気ないことはない。
さすがに誕生日ということで、店で売っているお菓子がテーブルを飾る。
食事後、ぼくが買ってきたケーキを食べる。食べてみてがっかり。たいしてうまくない。ハチチャの店にあった小さなケーキの方がまだ味がしっかりしているように感じる。
食後、おじさんが昨日、ハチチャが見せてくれた家族写真をまた見せてくれる。昨日、ハチチャが”これはロシアでの写真”と言っていたのは、ウラジオストクの写真だった。海水浴をしている様子を写した写真で、おじさんはこれは”日本海だ”と説明してくれる。日本海の存在を知っていながら、昨日は中国から鉄道で行けるのかと聞いてきたのかと不思議に思う。
またおじさんは1977~1979年にかけて東ドイツに兵隊として行っていたらしく、世界地図を見ながら自分が行っていたまちの名前を教えてくれる。
Fin
[diary]オシュ2日目
オシュ2日目
2009/01/30(金) 曇り後雨
[Osh:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)
・ネット屋
・スレイマン山
・雨
・今日も踊るムスリマ
・延泊を頼まれる
今朝も起きたのは7時過ぎ。部屋は暗い。外にあるトイレに行く。
昨日と同じように家主のおじさんにやかんからお湯を注いでもらって洗顔をする。そうしてから朝食。
昨日は朝から麺だったが、今日はパン(ナン)とビートとジャガイモの湯がいたものだけ。ビートとジャガイモのサラダは特に味はなく、塩をめいめいかけて食べるというスタイルだった。カブがすごく甘くなったようなビートの味はなかなか慣れない。
ここでの見所であるバザールは昨日、けっこうくまなく見て回ったので、今朝はとりたてて外出しなきゃと言う気分にあまりならず。なので、部屋にずるずるいる。
朝食後、だいぶぼくに慣れたムスリマがこっちにやってきてぼくの脚に乗ったりする。そのうち”立って”とウズベク語で言い(そう言っていると母親が通訳してくれた)、ぼくの手を取り、ぐるぐる回ったり、ぶらさがったりして遊び出す。同じことを繰り返し繰り返しやるのだが、ずいぶん楽しいようで部屋の中には彼女の笑い声が絶え間なくあふれる。
こうしてムスリマの様子を見ていると、こんなことで楽しめれば世界はもっと平和になるのだろうな、などと思ってしまう。子どもは天才だ、なんて書いているのを前に読んだことがあるような気がするが、確かに楽しむと言うことで言えば年を重ねるごとに人は退化していっているように思える。大人になっても隠れん坊ごっこを楽しめれば、もっと豊かな人生を送ることができるかもしれない。
時計を見ると、なぜか針が止まっていた。さっきムスリマがいじったのが原因なのか、それともただの電池切れか。
10時を過ぎて、だいぶ遊びにも付き合ったので、外に出ることにする。母親はムスリマを呼び、庭に一緒に出ていく。ぼくは一人で国境のマルシュルートカ乗り場に行く。
今日は昨日と違って曇り。昨日はきれいに見えていた雪をかぶった山々が今日はかすんで見えない。
例のごとく水たまりだらけ泥だらけの道を歩き、国境まで行く。そこでマルシュルートカにのり、中心部に向かう。
バザールの近くでおりて、バザールを横切って昨日行こうと思って行けなかったスレイマン山の方へ向かう。まだ12時にもなっていなかったが、山の方に行くとバザールに戻ってくるのは面倒だからと昼飯を食うことにする。
食堂を探していたらサモサ屋の前を通ったので、サモサを1個買う。サモサはウズベキスタンと同じスタイルのもの。昨日の晩、宿のおじさんはこっちのサモサの方がウズベキスタンのものよりおいしいと言っていたからどんなものかと思って食べてみたが、確かに具が挽き肉ではなく、角切りの肉であるのは食べがいがある。ただ脂身も入っているのが、ぼくとしては不要なところ。
食堂はあちこちにあったのだが、適当に通りの角の食堂に入ることにする。台所にスープが2種類ほどあったので、それを頼む。羊の肉の入った大ざっぱなスープで、表面には油がたっぷり浮いている。やや気温が低いからか、机に飛んだ油はあっと言う間に固形化して白くなる。
それから歩いて山の方に向かう。歩いていると昨日は通らなかった通りにADSLと書いた看板を掲げたネット屋を発見。入ってみる。1時間40ソム(約90円)。
たまたま日本語が読めるパソコンをあてがわれたので、メールを見たり書いたり、写真のデータを保存したりなんたり。しかし、1時間近くたとうとした頃に突然停電になる。やれやれ。
すぐに復旧するとは思えなかったので、オカネを払ってでる。店を出てみてわかったのだが、ここの通り沿いの店はどこも自家発電機で電気を得ているらしいことがわかった。どの店の前にも、日本で言えばお祭りの時の屋台などが使っている発電機がおかれていて、それらは微動するとともに低い音を垂れ流している。
外は雨が降っていた。ネット屋にいる間に降り出したらしい。山に登るのがおっくうになったが、明日にはここを離れるし、宿の人もおすすめしていたからと小雨がぱらつく中を登る。あいにく合羽代わりにしていた黄色のウィンドブレーカーは宿においてきてしまったので、雨を避ける道具がない。
スレイマン山は岩山で木や土などはない。一応、観光地というか市民の憩いの場らしく、頂上にある展望台と下界をつなぐ歩道は整備されている。雨に濡れた岩肌をすべらないよう気をつけながら歩く。
20分も登れば展望台につく。が、この天気のおかげでまちは曇っていて遠くまで見渡すことはできない。地元の人等が数人やはり登っていて、展望台にある休憩小屋で休んだりしている。
本格的に雨が降ってきたりしたら面倒なので、展望台に1分ほどいてからまた下山する。だいぶ上着が濡れてしまったので、もう宿に帰ろうかとも思うが、まだ14時過ぎだったので、いったん屋根付きのバス停まで行き、しばらく休憩して、適当にバスに乗ることにする。
2番のバスはマイクロバスだったので、ゆったり座れるかなと思い、乗り込む。運賃は5ソム(約10円)。車体は比較的新しく、車内は運転手の好みらしい音楽が流れている。
だんだんと郊外に出ていく。けっこう5階建てくらいのアパートがたくさん立ち並んでいて、いつまでたっても景色はアパート群ばかり。そのうち終点についてしまう。意外に終点は近かった。
今度は別の番号の車に乗る。けっこうこの辺から乗る車は中心部周辺をぐるぐる回るルートの車のようで、またバザール近くに戻る。
なので、バザールでみかんを2kg100ソム(約200円)で買って国境のドストゥック行きのマルシュルートカに乗り込む。今回は眠ることなく、一発で目的に到着。
昨日と同じようにハチチャの店に行く。同じように駄菓子を売っている店が向かいにあって、そこは10代くらいの女の子が2人でやっている。一人は日本によく似ている。ハチチャはウズベク系であえて言えばサッカーのロナウジーニョ的。
またお茶を入れてくれたのでありがたくいただく。また明日ビシュケクに移動するので、その移動中のおやつにと彼女の店のお菓子を100ソムぶん買う。
お茶を飲んでいたら店をうろついていた男が横に立って、勝手にぼくのカップをとって茶を飲む。なんだこいつと思ったが、ハチチャとしゃべっていたので知り合いかと思い放っておく。
が、そいつは知り合いでもなんでもなかった。ぼくがタダで茶やお菓子をもらっているのを見ていたらしく、そいつはハチチャの店の菓子をいくらかつかんで持っていこうとする。ハチチャが文句を言うと、男はこちらを指さし何か行っているから上記のようなことなのだろうと想像する。ハチチャは男から菓子を取り上げる。そいつはまたぼくの傍らに来て茶を飲もうとぼくのカップをとろうとする。それをハチチャはそいつの手をはたいて止める。
男はぶつくさ彼女に言うが、彼女は言い返す。そのやりとりを見ていた男の連れが、車から降りてきて、菓子代をやるから菓子をくれというようなことをする。男は連れの行動は制止してやっと自分でカネを払う。まったく面倒な奴がいるもんだ。そんな中でハチチャのようにお菓子のばら売りなどように細々とした商売をするのは、けっこう肝がないとできないのかもしれない。
まだ17時くらいだったが、先に家に戻る。家ではおじさんが長男と一緒に牛の世話をしていた。
部屋に入ると昨日と同じくお茶とパンが出てくる。ムスリマがすぐにやってきて、午前中の遊びの続きせがむ。
夕食までムスリマの相手。相変わらずよく動き、よく笑う。
次男は帰ってくるとぼくのカメラを見せろと言って、ぼくが写した写真を眺める。彼だけでなく、おじさんもおばさんもみんなが眺める。こっちの人はレンズなどにはまったく頓着しないから、いつもレンズに指紋が付いて戻ってくる。
晩飯はラグマン。人参や肉がふんだんに入った麺料理で、スープの味は見た目よりさっぱりしていてうまい。麺はさすがに市販品を使っているよう。スパゲッティに近い丸い麺だった。
食事後、おじさんたちとおしゃべり。ムスリマは今日も例のインドらしき音楽が流れてくると途端に踊り出す。
おじさんが日本で車はいくらするのかなどと聞いてくる。具体的にはトヨタのカムリはいくらかなどと聞いてくる。日本の物価についていくつか話すと高いなぁと驚いていた。平均的な給料についても話すと、おじさんは深刻な顔をして、”息子が日本に行ったら助けてくれるか?”と聞いてくる。またビザ代はいくらなのかとも。ビザ代は知らないし、今は日本も景気が悪くてたくさん失業者が出ているということを説明し、今は行かない方がいいと片言ロシア語で辞書を交えながら伝えると、そうかというようなことを言って、それ以上は聞いてこなかった。
おじさんは今後のルートのことについて尋ねてくる。”カザフスタンや中国を通って日本に帰る”と言うと、”日本には中国から飛行機で行くのか、それとも鉄道で行くのか?”と聞かれる。以前にもどこかで日本には中国からバスで行けるのかと聞かれたことがあったけど、おじさんも陸でつながっていると思っているらしい。
なので世界地図を取り出して日本の位置を教える。またキルギスや中国の位置なども教える。おばさんたちも地図をのぞき込み、中国の大きさやロシアの大きさに驚いている。見慣れない地図とは言え、キルギスの位置でさえパッとはわからなかったようなので、あまり世界地図を思い浮かべてものを考えるというようなことはないのかもしれない。
トルクメニスタンでも泊まった宿の人が中国の大きさに驚いていて、ぼくはそれに驚いたのだが、キルギス人の多くも中国と接していながら実は中国がどれだけでかくて、どれだけの人がいるかなんてことは知らないのかもしれない。
22時を過ぎると元気だったムスリマもさすがに疲れたようで、母親の膝の上で寝てしまう。
子どもがうまく部屋からいなくなったとき、宿代を家主夫婦に払う。米ドルの方がいいかと思って30米ドルを渡したのだが、ソムの方がいいと言うので、ソムで払う。ソムはたいして両替していなかったため明日のタクシー代ぶんのソムがこれでなくなってしまう。おばさんは”2米ドル札を持ってたら見せて欲しい”と言う。それを聞いてこうして観光客を家に泊めて生計を立てているわけではないんだということを確信する。
次男は例のごとくぼくの携帯でゲームをしたがる。長男は隣の部屋でテレビを見たりしている。次男から携帯が返ってくるとハチチャも少しいじってみたいようで、ぼくに寄ってきて見せてくれと頼む。
なので、ワードの画面にして入力をしてもらう。さすがにキリル文字は入力できないのでローマ字で、例えば家族の名前や料理の名前を入力してもらう。携帯に付いているスライド式のキーボードで入力するだけだが、初めてなのかずいぶん楽しそう。
一通りあれこれ入力をしてもらった後で、彼女が家族の写真を見せてくれる。買い物の時にもらったビニール袋を逆さにし、中に詰め込まれていた写真を床に出す。
そして、一枚一枚見せながら、これは誰でこれは誰と説明してくれる。日本でなら写真はけっこうきちんと整理されて保存されいるのだろうが、彼女が見せてくれた写真の中には折れ曲がったり、破れていたりする写真がけっこうあった。それにぼくは驚く。
枚数は少なく、全部で100枚もないだろう。ハチチャが生まれた頃の写真からあるからこれで20年ぶんはあると思うのだが、それを考えるとずいぶん少ないように思う。
23時を過ぎた頃、一息ついて、さて寝ようかなと思っていたところ、ハチチャと横に並んで座ってしゃべっていた母親が、もう1泊できないかと尋ねてくる。ぼくは予想外の質問に少しまごつく。気持ちでは予定通りに明日出るつもりだったが、よく考えてみると明後日は日曜なので、明日ビシュケクに着いてもすぐにカザフスタンのビザが申請できるわけではない。ここで1日つぶすかビシュケクでつぶすかの違いしかない。そんなことを考えた上で、「モージナ(可能です)」と答える。
なんでもう1泊してもらいたいのか不思議に思ったが、おばさんが間をおいて”明日はハチチャの誕生日なの”と言ったので、それで理解する。それならなおさらここにいた方が、キルギス式誕生会を見れておもしろいかもしれないと思い、延泊決定。
今日はやや夜更かしで12時半頃、消灯。
Fin
2009/01/30(金) 曇り後雨
[Osh:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)
・ネット屋
・スレイマン山
・雨
・今日も踊るムスリマ
・延泊を頼まれる
今朝も起きたのは7時過ぎ。部屋は暗い。外にあるトイレに行く。
昨日と同じように家主のおじさんにやかんからお湯を注いでもらって洗顔をする。そうしてから朝食。
昨日は朝から麺だったが、今日はパン(ナン)とビートとジャガイモの湯がいたものだけ。ビートとジャガイモのサラダは特に味はなく、塩をめいめいかけて食べるというスタイルだった。カブがすごく甘くなったようなビートの味はなかなか慣れない。
ここでの見所であるバザールは昨日、けっこうくまなく見て回ったので、今朝はとりたてて外出しなきゃと言う気分にあまりならず。なので、部屋にずるずるいる。
朝食後、だいぶぼくに慣れたムスリマがこっちにやってきてぼくの脚に乗ったりする。そのうち”立って”とウズベク語で言い(そう言っていると母親が通訳してくれた)、ぼくの手を取り、ぐるぐる回ったり、ぶらさがったりして遊び出す。同じことを繰り返し繰り返しやるのだが、ずいぶん楽しいようで部屋の中には彼女の笑い声が絶え間なくあふれる。
こうしてムスリマの様子を見ていると、こんなことで楽しめれば世界はもっと平和になるのだろうな、などと思ってしまう。子どもは天才だ、なんて書いているのを前に読んだことがあるような気がするが、確かに楽しむと言うことで言えば年を重ねるごとに人は退化していっているように思える。大人になっても隠れん坊ごっこを楽しめれば、もっと豊かな人生を送ることができるかもしれない。
時計を見ると、なぜか針が止まっていた。さっきムスリマがいじったのが原因なのか、それともただの電池切れか。
10時を過ぎて、だいぶ遊びにも付き合ったので、外に出ることにする。母親はムスリマを呼び、庭に一緒に出ていく。ぼくは一人で国境のマルシュルートカ乗り場に行く。
今日は昨日と違って曇り。昨日はきれいに見えていた雪をかぶった山々が今日はかすんで見えない。
例のごとく水たまりだらけ泥だらけの道を歩き、国境まで行く。そこでマルシュルートカにのり、中心部に向かう。
バザールの近くでおりて、バザールを横切って昨日行こうと思って行けなかったスレイマン山の方へ向かう。まだ12時にもなっていなかったが、山の方に行くとバザールに戻ってくるのは面倒だからと昼飯を食うことにする。
食堂を探していたらサモサ屋の前を通ったので、サモサを1個買う。サモサはウズベキスタンと同じスタイルのもの。昨日の晩、宿のおじさんはこっちのサモサの方がウズベキスタンのものよりおいしいと言っていたからどんなものかと思って食べてみたが、確かに具が挽き肉ではなく、角切りの肉であるのは食べがいがある。ただ脂身も入っているのが、ぼくとしては不要なところ。
食堂はあちこちにあったのだが、適当に通りの角の食堂に入ることにする。台所にスープが2種類ほどあったので、それを頼む。羊の肉の入った大ざっぱなスープで、表面には油がたっぷり浮いている。やや気温が低いからか、机に飛んだ油はあっと言う間に固形化して白くなる。
それから歩いて山の方に向かう。歩いていると昨日は通らなかった通りにADSLと書いた看板を掲げたネット屋を発見。入ってみる。1時間40ソム(約90円)。
たまたま日本語が読めるパソコンをあてがわれたので、メールを見たり書いたり、写真のデータを保存したりなんたり。しかし、1時間近くたとうとした頃に突然停電になる。やれやれ。
すぐに復旧するとは思えなかったので、オカネを払ってでる。店を出てみてわかったのだが、ここの通り沿いの店はどこも自家発電機で電気を得ているらしいことがわかった。どの店の前にも、日本で言えばお祭りの時の屋台などが使っている発電機がおかれていて、それらは微動するとともに低い音を垂れ流している。
外は雨が降っていた。ネット屋にいる間に降り出したらしい。山に登るのがおっくうになったが、明日にはここを離れるし、宿の人もおすすめしていたからと小雨がぱらつく中を登る。あいにく合羽代わりにしていた黄色のウィンドブレーカーは宿においてきてしまったので、雨を避ける道具がない。
スレイマン山は岩山で木や土などはない。一応、観光地というか市民の憩いの場らしく、頂上にある展望台と下界をつなぐ歩道は整備されている。雨に濡れた岩肌をすべらないよう気をつけながら歩く。
20分も登れば展望台につく。が、この天気のおかげでまちは曇っていて遠くまで見渡すことはできない。地元の人等が数人やはり登っていて、展望台にある休憩小屋で休んだりしている。
本格的に雨が降ってきたりしたら面倒なので、展望台に1分ほどいてからまた下山する。だいぶ上着が濡れてしまったので、もう宿に帰ろうかとも思うが、まだ14時過ぎだったので、いったん屋根付きのバス停まで行き、しばらく休憩して、適当にバスに乗ることにする。
2番のバスはマイクロバスだったので、ゆったり座れるかなと思い、乗り込む。運賃は5ソム(約10円)。車体は比較的新しく、車内は運転手の好みらしい音楽が流れている。
だんだんと郊外に出ていく。けっこう5階建てくらいのアパートがたくさん立ち並んでいて、いつまでたっても景色はアパート群ばかり。そのうち終点についてしまう。意外に終点は近かった。
今度は別の番号の車に乗る。けっこうこの辺から乗る車は中心部周辺をぐるぐる回るルートの車のようで、またバザール近くに戻る。
なので、バザールでみかんを2kg100ソム(約200円)で買って国境のドストゥック行きのマルシュルートカに乗り込む。今回は眠ることなく、一発で目的に到着。
昨日と同じようにハチチャの店に行く。同じように駄菓子を売っている店が向かいにあって、そこは10代くらいの女の子が2人でやっている。一人は日本によく似ている。ハチチャはウズベク系であえて言えばサッカーのロナウジーニョ的。
またお茶を入れてくれたのでありがたくいただく。また明日ビシュケクに移動するので、その移動中のおやつにと彼女の店のお菓子を100ソムぶん買う。
お茶を飲んでいたら店をうろついていた男が横に立って、勝手にぼくのカップをとって茶を飲む。なんだこいつと思ったが、ハチチャとしゃべっていたので知り合いかと思い放っておく。
が、そいつは知り合いでもなんでもなかった。ぼくがタダで茶やお菓子をもらっているのを見ていたらしく、そいつはハチチャの店の菓子をいくらかつかんで持っていこうとする。ハチチャが文句を言うと、男はこちらを指さし何か行っているから上記のようなことなのだろうと想像する。ハチチャは男から菓子を取り上げる。そいつはまたぼくの傍らに来て茶を飲もうとぼくのカップをとろうとする。それをハチチャはそいつの手をはたいて止める。
男はぶつくさ彼女に言うが、彼女は言い返す。そのやりとりを見ていた男の連れが、車から降りてきて、菓子代をやるから菓子をくれというようなことをする。男は連れの行動は制止してやっと自分でカネを払う。まったく面倒な奴がいるもんだ。そんな中でハチチャのようにお菓子のばら売りなどように細々とした商売をするのは、けっこう肝がないとできないのかもしれない。
まだ17時くらいだったが、先に家に戻る。家ではおじさんが長男と一緒に牛の世話をしていた。
部屋に入ると昨日と同じくお茶とパンが出てくる。ムスリマがすぐにやってきて、午前中の遊びの続きせがむ。
夕食までムスリマの相手。相変わらずよく動き、よく笑う。
次男は帰ってくるとぼくのカメラを見せろと言って、ぼくが写した写真を眺める。彼だけでなく、おじさんもおばさんもみんなが眺める。こっちの人はレンズなどにはまったく頓着しないから、いつもレンズに指紋が付いて戻ってくる。
晩飯はラグマン。人参や肉がふんだんに入った麺料理で、スープの味は見た目よりさっぱりしていてうまい。麺はさすがに市販品を使っているよう。スパゲッティに近い丸い麺だった。
食事後、おじさんたちとおしゃべり。ムスリマは今日も例のインドらしき音楽が流れてくると途端に踊り出す。
おじさんが日本で車はいくらするのかなどと聞いてくる。具体的にはトヨタのカムリはいくらかなどと聞いてくる。日本の物価についていくつか話すと高いなぁと驚いていた。平均的な給料についても話すと、おじさんは深刻な顔をして、”息子が日本に行ったら助けてくれるか?”と聞いてくる。またビザ代はいくらなのかとも。ビザ代は知らないし、今は日本も景気が悪くてたくさん失業者が出ているということを説明し、今は行かない方がいいと片言ロシア語で辞書を交えながら伝えると、そうかというようなことを言って、それ以上は聞いてこなかった。
おじさんは今後のルートのことについて尋ねてくる。”カザフスタンや中国を通って日本に帰る”と言うと、”日本には中国から飛行機で行くのか、それとも鉄道で行くのか?”と聞かれる。以前にもどこかで日本には中国からバスで行けるのかと聞かれたことがあったけど、おじさんも陸でつながっていると思っているらしい。
なので世界地図を取り出して日本の位置を教える。またキルギスや中国の位置なども教える。おばさんたちも地図をのぞき込み、中国の大きさやロシアの大きさに驚いている。見慣れない地図とは言え、キルギスの位置でさえパッとはわからなかったようなので、あまり世界地図を思い浮かべてものを考えるというようなことはないのかもしれない。
トルクメニスタンでも泊まった宿の人が中国の大きさに驚いていて、ぼくはそれに驚いたのだが、キルギス人の多くも中国と接していながら実は中国がどれだけでかくて、どれだけの人がいるかなんてことは知らないのかもしれない。
22時を過ぎると元気だったムスリマもさすがに疲れたようで、母親の膝の上で寝てしまう。
子どもがうまく部屋からいなくなったとき、宿代を家主夫婦に払う。米ドルの方がいいかと思って30米ドルを渡したのだが、ソムの方がいいと言うので、ソムで払う。ソムはたいして両替していなかったため明日のタクシー代ぶんのソムがこれでなくなってしまう。おばさんは”2米ドル札を持ってたら見せて欲しい”と言う。それを聞いてこうして観光客を家に泊めて生計を立てているわけではないんだということを確信する。
次男は例のごとくぼくの携帯でゲームをしたがる。長男は隣の部屋でテレビを見たりしている。次男から携帯が返ってくるとハチチャも少しいじってみたいようで、ぼくに寄ってきて見せてくれと頼む。
なので、ワードの画面にして入力をしてもらう。さすがにキリル文字は入力できないのでローマ字で、例えば家族の名前や料理の名前を入力してもらう。携帯に付いているスライド式のキーボードで入力するだけだが、初めてなのかずいぶん楽しそう。
一通りあれこれ入力をしてもらった後で、彼女が家族の写真を見せてくれる。買い物の時にもらったビニール袋を逆さにし、中に詰め込まれていた写真を床に出す。
そして、一枚一枚見せながら、これは誰でこれは誰と説明してくれる。日本でなら写真はけっこうきちんと整理されて保存されいるのだろうが、彼女が見せてくれた写真の中には折れ曲がったり、破れていたりする写真がけっこうあった。それにぼくは驚く。
枚数は少なく、全部で100枚もないだろう。ハチチャが生まれた頃の写真からあるからこれで20年ぶんはあると思うのだが、それを考えるとずいぶん少ないように思う。
23時を過ぎた頃、一息ついて、さて寝ようかなと思っていたところ、ハチチャと横に並んで座ってしゃべっていた母親が、もう1泊できないかと尋ねてくる。ぼくは予想外の質問に少しまごつく。気持ちでは予定通りに明日出るつもりだったが、よく考えてみると明後日は日曜なので、明日ビシュケクに着いてもすぐにカザフスタンのビザが申請できるわけではない。ここで1日つぶすかビシュケクでつぶすかの違いしかない。そんなことを考えた上で、「モージナ(可能です)」と答える。
なんでもう1泊してもらいたいのか不思議に思ったが、おばさんが間をおいて”明日はハチチャの誕生日なの”と言ったので、それで理解する。それならなおさらここにいた方が、キルギス式誕生会を見れておもしろいかもしれないと思い、延泊決定。
今日はやや夜更かしで12時半頃、消灯。
Fin
[diary]オシュ1日目
オシュ1日目
2009/01/29(木) 晴れ
[Osh:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)
・朝ご飯はスープマカロニ
・ネット屋、電話(保険延長)
・バザールをふらり
・ロシア語辞書探し
・レーニン像
・晩ご飯はポロ
・踊るムスリマ
7時頃目が覚める。同じ部屋には長男が寝ているのだが、彼はまったく起きる気配がない。窓はあるが小さいため陽もほとんど差してこない。だから部屋の中は暗い。
7時半くらいになってようやく長男が動き始め、隣の部屋から家主夫婦の声が聞こえてくる。
おじさんがこちらの部屋に顔を出し、ロシア語でなんとかと言いながら顔を洗う仕草をするので、「ダー、ダー」と言って顔を洗わせてもらうことにする。台所か洗面所にでも連れていってくれるのかと思いきや、おじさんはやかんとタオルを持って再び現れる。そして、外に出るよう促す。
身体が十分に暖まっているためか外はたいして寒くない。両手をそろえて水を受け取る構えをして、そこにお湯を注いでもらう。3~4回顔を洗い、タオルで拭う。
部屋に戻り壁にもたれて座る。なんだか腹の調子がおかしい。昨日ここで食べたヨーグルト玉(どうやって作ったのか知らないが勝手にこう名付けた。飴玉のように球形で味はヨーグルトの水分を抜き取って凝縮したような感じ。けっこう酸っぱい)があたったのかもしれない。
家主のおじさんはテーブルに湯呑みとお茶の入った急須、それにナン(円形のパン)を並べる。ナンは適当にちぎって適当にテーブルの上に並べる。皿の上には置かない。それで「クーシェ(食べて)」と言う。腹の調子が優れないので、会話帳を指さし腹がおかしいから朝飯はいらないと伝える。するとおじさんは薬は持っているのかと聞いてくる。持ってはいるけど、この程度なら薬を飲まずとも治るので適当に相づちをうって応える。
薬は持っていると言ったのにおばさんが錠剤の薬を持ってきて、一粒飲むよう言う。断ったが聞かないので一粒もらって飲む。それからやはり先ほど伝えたにもかかわらずぼくのぶんの朝食が運ばれてくる。お粥のようなものなら食えないこともないが、出てきたのはジャージャー麺のような赤とオレンジ色のスープにスパゲッティのような麺が入った丼。表面には油がいっぱい浮かんでいる。いらないとまた伝えるが、おじさんは食えというばかりでこちらの言い分を聞かない。やれやれ。
しょうがないので出てきた丼を食べる。味は意外にどぎつくない。
朝食後しばらく様子を見てから出かける。どこに行くのだとおじさんが聞くので適当に行こうかと思っている場所を伝えると紙に地図を書いてくれる。が、ガイドブックの地図の方がわかりやすかった。おじさんはどうも肝臓が悪いらしく、歩くことなど運動や身体を動かすを制限されているらしい。
宿のおばさんは、ぼくの合羽代わりの黄色のウィンドブレーカーを見て、洗濯するからよこすように言う。ケニアのナイロビのギコンバマーケットで50円くらいで買ったこのウィンドブレーカーは売られていたときから若干汚れていたが、グルジア以後、毎日着ていたのでさらに汚れていた。おばさんはその汚れがどうも気になるらしい。お言葉に甘えて洗ってもらうことにする。
長男がこれから出勤するから一緒に行くといいというので、一緒にでる。国境のマルシュートカ乗り場まで歩いていき、そこでマルシュートカに乗る。マルシュートカはベンツの古い型の大型ワゴン。運賃は一律7ソム(約15円)。
長男は途中で降りて職場に向かう。彼はぼくのぶんまで車代を払ってくれた。
オシュの中心部のバザール近くでマルシュートカを降りる。地図を見て想像していたよりもずっと小さな中心街だった。
降りた近くに中国語でどかんと文字が書かれている大型のプレハブ的ショッピングセンターがあったので、中を覗いてみる。まだ工事中なのかなんだか異様に隙間が多い。客引きなどは一切なし。このあたりには看板に中国語を記した店が数軒ある。
歩いていて目立つのかIP電話を使った電話屋。歩道から店の脇とあちこちに看板が出ている。
ネット屋があったので、そこでネットをしてみる。ダイアルアップの早いタイプといった感じ。料金体系がおもしろくて、データ量(2MBで30ソム)に料金を連動させている。こういうタイプは初めて。なお、日本語は読めず。
旅行保険が切れるので、日本に電話してその手続きを依頼。
それからバザールに行き、まずはバザール内の両替所で両替。ここのバザールもプレハブ的な建物を店舗としている店が多く、それに加え道ばたに商品を並べて売っている人たちがたくさんいる。
どの道がどこに出るのかよくわからないような作りになっているため、歩いていてなかなかおもしろい。雪解けのためか足下は泥と水たまりでぐちゃぐちゃ。
服屋、靴屋、本屋、帽子屋、電話屋、散髪屋、板金屋、鍵屋などいろいろな店がある。ある一角は穀物コーナーになっていて、その裏手のほうを歩いていたらパンを焼いている様子を見ることができた。焼き窯に円形にのばしたパン生地を入れていく。あたりはパンの香りが漂っていた。
バザールのある一角は、生きている鶏市と板金屋街になっていた。男たちがとんてんかんてんと金属を打ちならしている。
バザールの中心部は道はどろどろ。もっと寒ければ凍っているのだろうが、たいして寒くないため凍っていたものが解けたのだろう。ブーツを履いてきたので、靴がグシャグシャになることはなかったが、いちいち足下に注意しなければならない。
市場では10歳前後の少年たちも働いていて、例えばパンを売ったり、店番をしていたりする。少女もときおり見かける。
昼前バザール内の食堂で昼食。マンティ(大きなショウロンポウのようなもの)を食べる。1粒10ソム(25円)。けっこう高い。味はまぁまぁ。肉まんと味はにている。具の肉は角切りにした羊肉。歯ごたえがある。
ロシア語の辞書が欲しかったのでバザールをくまなく歩き、本屋を探す。いくつか本屋はあったものの良い作りのオックスフォードの露英・英露辞典は1500円ほどもした。他はロシア製で中を見てもいまいち使いやすそうに見えない。
一通りバザールを見てからレーニン通りを歩き、レーニンのモニュメントを見に行く。その途中、道ばたで物乞いをしている10歳前後の少女4人ほどに出くわす。ぼくの傍に来て、アッラーなんとかとお経みたいなのを唱えながらついてくるので、幾ばくかを寄付。すると彼女は最後にこちらの人がよくする顔を洗う動作(仏教の手を合わせる行為と同じような意味を持っているよう)に似たことをして感謝の意を表す。
歩いていると道ばたで風呂敷を広げ、そこに本を並べているおばあさんがいたので、おいてあった辞書の値段を聞いてみる。けっこうしわくちゃになっているロシア製の辞書だったのだが、それが300円ほどする。たぶんバザールで売っている新品の方が安い。割に合わないと思い、とりあえず見ただけで去る。
そこからしばらく歩くと本屋があったので本屋に立ち寄る。ここにはロシア語の本からアラビア語の本(コーランなど)、英語の本があり、辞書も複数あった。だが、値段と中身とに納得できるものがなく、ここも見ただけで去る。
そこから300mほど歩くと左手前方にレーニン像が見えてきた。トルクメニスタンのアシュガバードにもあったが、あそこのは意外なほどに小さかった。その点こちらはなかなかでかい。体長8mほどか。台座を合わせると20mくらいの高さになる。
そこからスレイマン山の方へ行き、交通量の多い通りを歩く。この通りには写真のプリント屋やインターネット屋、カフェ、病院などが並んでいた。
スレイマン山に上る予定をしていたが、夕方が近くなっていたことと、まだ辞書を買っていなかったので、またバザールに戻る。中央アジアに入って以降、バザールも16時や17時に閉まるのが普通になったので、ちょっと急ぎ足でバザールに戻る。
16時を少し過ぎた頃だったが、既にいくつかの店は店じまいを始めていた。本屋のいくつかも既に閉まっている。開いていた本屋で数種類の辞書を見比べ、一番安い辞書を購入。お値段100ソム(約200円)。後に宿で聞いた話では通常50ソム(約100円)らしい。
とりあえず今日の目的は果たしたので、バザール内の通りを走っているマルシュートカ乗り場に行く。道ばたでリンゴを売っているおじさん、おばさんがたくさんいたので、そのうちの一軒でりんごを買う。
138番のマルシュートカを待っていたら、昼間パン焼き窯を見せてくれた男の子がパンを売っていたので、彼からパン(ナン)を買う。1枚10ソム。同じ年頃(12歳くらい)の少年が3人並んでパンを売っていたので、記念撮影。彼は笑顔で写ってくれる。
マルシュートカに乗り込んだらなんだか眠くなり、寝てしまう。しばらくして目が覚めると目が開いている間に一度見た景色がまた見える。不思議に思ったが、また寝る。
そのうちようやく眠気が取れ、眠りから覚めると目的地の国境の近くだった。終点の駐車場に着き、7ソムを運転手に渡すと14ソム(約30円)だと言う。なんでか聞いたら2回往復したからだと言う。さっき同じ景色が見えたのはそういうことだったらしい。カネを払って降りる。
駐車場に隣接しているハチチャ(宿の長女)がやっている駄菓子屋に顔を出す。彼女は笑顔で迎えてくれ、お茶をいれてくれる。それにお菓子もつけてくれる。どこに行ってきたのかと聞くので、行ったところの名前を挙げて教える。
お茶を飲んでから家に戻る。家に戻るとちょうど家の長男等が車の修理をしていた。
部屋に入るとおじさんがすぐにお茶とパンを持ってやってくる。そして、どこに行ってきたのかと聞いてくる。買ってきた辞書をさっそく使い、わからない言葉があるとそれをひきひき話す。言葉がわからなくても気持ちは通じるなんて言うが、気持ちは通じても伝えたい事実(内容)は通じない。言葉を知っていなければ、会話はなりたたない。
おじさんは今日はテレビを見たり、寝ていたりして過ごしたという。おじさんは右のわき腹に手を当てて、そこが悪く、以前は点滴もしていたというようなことを動作混じりで言う。具体的にどこが悪いのかわからなかったが、辞書で調べてみたら肝臓が悪いとのことらしい。そのため、今は歩いたりする運動さえけっこう制限されていて働くのも無理らしい。
部屋にムスリマ(4歳女児)とおばさん(つまりは母親)も来て、おしゃべりをしたりムスリマが一人でワーワーキャーキャーやるのを眺めたりして時間を過ごす。
暗くなってからハチチャが戻ってくる。どうも彼女が夕食も作るようで、母親は部屋にずっと座ったまま。長男も帰ってくるが、すぐに牛小屋の方へ作業をしにいった。
20時頃、ようやく夕食がでる。隣の部屋(家主等の寝室)にはテレビがあって、ずっと付けっぱなしにされている。ただ音だけが聞こえてくる。
夕食はこの地域の常食と言っていいポロ(パロウ)。これを食べるのは中央アジアに入って5回目くらいか。直径70cmほどある平たい大皿に山盛りにされて出てきた。中華料理のように小皿に取って食べるのかと思ったが、小皿はない。おじさんたちはスプーンで直接その皿をつつき、そこからそのまま自分の口に運んでいる。なので、それに習う。
おもしろいのが千切りにした緑大根をかけて食べるところ。これはこれで大根のさっぱりした味がやや油っぽいご飯を中和してうまい。味付けもちょうどよく、飯の炊き具合もよい。米は日本と同じ短粒米。だが、粘度は日本の米ほどではない。
食事をしている間も隣の部屋からテレビの音が聞こえてくる。インドの映画をやっているのか、ときおりあの独特のインド音楽が聞こえてくる。その音楽が聞こえてきたとき、4歳のムスリマは隣の部屋にバタバタと駆け出し、少しテレビをのぞいてからまた部屋に戻ってくる。そして、音楽に合わせて踊り出す。踊り方はシリアなどでも見たアラブ圏では定番の型。両手を横に広げ、型をくねらしたり、腰に手を当て腰を振ったり、とても4歳の子とは思えないくらい動きがなめらか。
音楽が流れている間中ムスリマは踊り続け、それを母親などもにこにこ笑いながら見ていた。音楽が終わるとストッと踊りは収まる。
食事が終わったとき長男が母親に、ぼくがミニコンピューターを持っているということを告げる。朝方暗い中ちょっと使っていたのを見られていたよう。しまったなあと思ったところで後の祭り。案の定見せてくれと言い出す。しぶしぶ取り出して見せると次男がゲームはついているのかと家の携帯電話を見せながら言う。付いていると言ったのがまたそれに拍車をかけ、使わせろということになり、ぼくの携帯はしばらく次男にとられた状態になる。壊されるとかなわないので、使わせたくなかったのだが・・・。
ちょろちょとおしゃべりをしたり、ぼくの買ってきたりんごを向いてくれみんなで食べたりしているうちに時間が過ぎ、夜中近くになった頃、解散。ハチチャがシーツと上布団を持ってきてテーブルの脇に寝床を作ってくれる。今日も長男と同じ部屋で寝る。
Fin
2009/01/29(木) 晴れ
[Osh:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)
・朝ご飯はスープマカロニ
・ネット屋、電話(保険延長)
・バザールをふらり
・ロシア語辞書探し
・レーニン像
・晩ご飯はポロ
・踊るムスリマ
7時頃目が覚める。同じ部屋には長男が寝ているのだが、彼はまったく起きる気配がない。窓はあるが小さいため陽もほとんど差してこない。だから部屋の中は暗い。
7時半くらいになってようやく長男が動き始め、隣の部屋から家主夫婦の声が聞こえてくる。
おじさんがこちらの部屋に顔を出し、ロシア語でなんとかと言いながら顔を洗う仕草をするので、「ダー、ダー」と言って顔を洗わせてもらうことにする。台所か洗面所にでも連れていってくれるのかと思いきや、おじさんはやかんとタオルを持って再び現れる。そして、外に出るよう促す。
身体が十分に暖まっているためか外はたいして寒くない。両手をそろえて水を受け取る構えをして、そこにお湯を注いでもらう。3~4回顔を洗い、タオルで拭う。
部屋に戻り壁にもたれて座る。なんだか腹の調子がおかしい。昨日ここで食べたヨーグルト玉(どうやって作ったのか知らないが勝手にこう名付けた。飴玉のように球形で味はヨーグルトの水分を抜き取って凝縮したような感じ。けっこう酸っぱい)があたったのかもしれない。
家主のおじさんはテーブルに湯呑みとお茶の入った急須、それにナン(円形のパン)を並べる。ナンは適当にちぎって適当にテーブルの上に並べる。皿の上には置かない。それで「クーシェ(食べて)」と言う。腹の調子が優れないので、会話帳を指さし腹がおかしいから朝飯はいらないと伝える。するとおじさんは薬は持っているのかと聞いてくる。持ってはいるけど、この程度なら薬を飲まずとも治るので適当に相づちをうって応える。
薬は持っていると言ったのにおばさんが錠剤の薬を持ってきて、一粒飲むよう言う。断ったが聞かないので一粒もらって飲む。それからやはり先ほど伝えたにもかかわらずぼくのぶんの朝食が運ばれてくる。お粥のようなものなら食えないこともないが、出てきたのはジャージャー麺のような赤とオレンジ色のスープにスパゲッティのような麺が入った丼。表面には油がいっぱい浮かんでいる。いらないとまた伝えるが、おじさんは食えというばかりでこちらの言い分を聞かない。やれやれ。
しょうがないので出てきた丼を食べる。味は意外にどぎつくない。
朝食後しばらく様子を見てから出かける。どこに行くのだとおじさんが聞くので適当に行こうかと思っている場所を伝えると紙に地図を書いてくれる。が、ガイドブックの地図の方がわかりやすかった。おじさんはどうも肝臓が悪いらしく、歩くことなど運動や身体を動かすを制限されているらしい。
宿のおばさんは、ぼくの合羽代わりの黄色のウィンドブレーカーを見て、洗濯するからよこすように言う。ケニアのナイロビのギコンバマーケットで50円くらいで買ったこのウィンドブレーカーは売られていたときから若干汚れていたが、グルジア以後、毎日着ていたのでさらに汚れていた。おばさんはその汚れがどうも気になるらしい。お言葉に甘えて洗ってもらうことにする。
長男がこれから出勤するから一緒に行くといいというので、一緒にでる。国境のマルシュートカ乗り場まで歩いていき、そこでマルシュートカに乗る。マルシュートカはベンツの古い型の大型ワゴン。運賃は一律7ソム(約15円)。
長男は途中で降りて職場に向かう。彼はぼくのぶんまで車代を払ってくれた。
オシュの中心部のバザール近くでマルシュートカを降りる。地図を見て想像していたよりもずっと小さな中心街だった。
降りた近くに中国語でどかんと文字が書かれている大型のプレハブ的ショッピングセンターがあったので、中を覗いてみる。まだ工事中なのかなんだか異様に隙間が多い。客引きなどは一切なし。このあたりには看板に中国語を記した店が数軒ある。
歩いていて目立つのかIP電話を使った電話屋。歩道から店の脇とあちこちに看板が出ている。
ネット屋があったので、そこでネットをしてみる。ダイアルアップの早いタイプといった感じ。料金体系がおもしろくて、データ量(2MBで30ソム)に料金を連動させている。こういうタイプは初めて。なお、日本語は読めず。
旅行保険が切れるので、日本に電話してその手続きを依頼。
それからバザールに行き、まずはバザール内の両替所で両替。ここのバザールもプレハブ的な建物を店舗としている店が多く、それに加え道ばたに商品を並べて売っている人たちがたくさんいる。
どの道がどこに出るのかよくわからないような作りになっているため、歩いていてなかなかおもしろい。雪解けのためか足下は泥と水たまりでぐちゃぐちゃ。
服屋、靴屋、本屋、帽子屋、電話屋、散髪屋、板金屋、鍵屋などいろいろな店がある。ある一角は穀物コーナーになっていて、その裏手のほうを歩いていたらパンを焼いている様子を見ることができた。焼き窯に円形にのばしたパン生地を入れていく。あたりはパンの香りが漂っていた。
バザールのある一角は、生きている鶏市と板金屋街になっていた。男たちがとんてんかんてんと金属を打ちならしている。
バザールの中心部は道はどろどろ。もっと寒ければ凍っているのだろうが、たいして寒くないため凍っていたものが解けたのだろう。ブーツを履いてきたので、靴がグシャグシャになることはなかったが、いちいち足下に注意しなければならない。
市場では10歳前後の少年たちも働いていて、例えばパンを売ったり、店番をしていたりする。少女もときおり見かける。
昼前バザール内の食堂で昼食。マンティ(大きなショウロンポウのようなもの)を食べる。1粒10ソム(25円)。けっこう高い。味はまぁまぁ。肉まんと味はにている。具の肉は角切りにした羊肉。歯ごたえがある。
ロシア語の辞書が欲しかったのでバザールをくまなく歩き、本屋を探す。いくつか本屋はあったものの良い作りのオックスフォードの露英・英露辞典は1500円ほどもした。他はロシア製で中を見てもいまいち使いやすそうに見えない。
一通りバザールを見てからレーニン通りを歩き、レーニンのモニュメントを見に行く。その途中、道ばたで物乞いをしている10歳前後の少女4人ほどに出くわす。ぼくの傍に来て、アッラーなんとかとお経みたいなのを唱えながらついてくるので、幾ばくかを寄付。すると彼女は最後にこちらの人がよくする顔を洗う動作(仏教の手を合わせる行為と同じような意味を持っているよう)に似たことをして感謝の意を表す。
歩いていると道ばたで風呂敷を広げ、そこに本を並べているおばあさんがいたので、おいてあった辞書の値段を聞いてみる。けっこうしわくちゃになっているロシア製の辞書だったのだが、それが300円ほどする。たぶんバザールで売っている新品の方が安い。割に合わないと思い、とりあえず見ただけで去る。
そこからしばらく歩くと本屋があったので本屋に立ち寄る。ここにはロシア語の本からアラビア語の本(コーランなど)、英語の本があり、辞書も複数あった。だが、値段と中身とに納得できるものがなく、ここも見ただけで去る。
そこから300mほど歩くと左手前方にレーニン像が見えてきた。トルクメニスタンのアシュガバードにもあったが、あそこのは意外なほどに小さかった。その点こちらはなかなかでかい。体長8mほどか。台座を合わせると20mくらいの高さになる。
そこからスレイマン山の方へ行き、交通量の多い通りを歩く。この通りには写真のプリント屋やインターネット屋、カフェ、病院などが並んでいた。
スレイマン山に上る予定をしていたが、夕方が近くなっていたことと、まだ辞書を買っていなかったので、またバザールに戻る。中央アジアに入って以降、バザールも16時や17時に閉まるのが普通になったので、ちょっと急ぎ足でバザールに戻る。
16時を少し過ぎた頃だったが、既にいくつかの店は店じまいを始めていた。本屋のいくつかも既に閉まっている。開いていた本屋で数種類の辞書を見比べ、一番安い辞書を購入。お値段100ソム(約200円)。後に宿で聞いた話では通常50ソム(約100円)らしい。
とりあえず今日の目的は果たしたので、バザール内の通りを走っているマルシュートカ乗り場に行く。道ばたでリンゴを売っているおじさん、おばさんがたくさんいたので、そのうちの一軒でりんごを買う。
138番のマルシュートカを待っていたら、昼間パン焼き窯を見せてくれた男の子がパンを売っていたので、彼からパン(ナン)を買う。1枚10ソム。同じ年頃(12歳くらい)の少年が3人並んでパンを売っていたので、記念撮影。彼は笑顔で写ってくれる。
マルシュートカに乗り込んだらなんだか眠くなり、寝てしまう。しばらくして目が覚めると目が開いている間に一度見た景色がまた見える。不思議に思ったが、また寝る。
そのうちようやく眠気が取れ、眠りから覚めると目的地の国境の近くだった。終点の駐車場に着き、7ソムを運転手に渡すと14ソム(約30円)だと言う。なんでか聞いたら2回往復したからだと言う。さっき同じ景色が見えたのはそういうことだったらしい。カネを払って降りる。
駐車場に隣接しているハチチャ(宿の長女)がやっている駄菓子屋に顔を出す。彼女は笑顔で迎えてくれ、お茶をいれてくれる。それにお菓子もつけてくれる。どこに行ってきたのかと聞くので、行ったところの名前を挙げて教える。
お茶を飲んでから家に戻る。家に戻るとちょうど家の長男等が車の修理をしていた。
部屋に入るとおじさんがすぐにお茶とパンを持ってやってくる。そして、どこに行ってきたのかと聞いてくる。買ってきた辞書をさっそく使い、わからない言葉があるとそれをひきひき話す。言葉がわからなくても気持ちは通じるなんて言うが、気持ちは通じても伝えたい事実(内容)は通じない。言葉を知っていなければ、会話はなりたたない。
おじさんは今日はテレビを見たり、寝ていたりして過ごしたという。おじさんは右のわき腹に手を当てて、そこが悪く、以前は点滴もしていたというようなことを動作混じりで言う。具体的にどこが悪いのかわからなかったが、辞書で調べてみたら肝臓が悪いとのことらしい。そのため、今は歩いたりする運動さえけっこう制限されていて働くのも無理らしい。
部屋にムスリマ(4歳女児)とおばさん(つまりは母親)も来て、おしゃべりをしたりムスリマが一人でワーワーキャーキャーやるのを眺めたりして時間を過ごす。
暗くなってからハチチャが戻ってくる。どうも彼女が夕食も作るようで、母親は部屋にずっと座ったまま。長男も帰ってくるが、すぐに牛小屋の方へ作業をしにいった。
20時頃、ようやく夕食がでる。隣の部屋(家主等の寝室)にはテレビがあって、ずっと付けっぱなしにされている。ただ音だけが聞こえてくる。
夕食はこの地域の常食と言っていいポロ(パロウ)。これを食べるのは中央アジアに入って5回目くらいか。直径70cmほどある平たい大皿に山盛りにされて出てきた。中華料理のように小皿に取って食べるのかと思ったが、小皿はない。おじさんたちはスプーンで直接その皿をつつき、そこからそのまま自分の口に運んでいる。なので、それに習う。
おもしろいのが千切りにした緑大根をかけて食べるところ。これはこれで大根のさっぱりした味がやや油っぽいご飯を中和してうまい。味付けもちょうどよく、飯の炊き具合もよい。米は日本と同じ短粒米。だが、粘度は日本の米ほどではない。
食事をしている間も隣の部屋からテレビの音が聞こえてくる。インドの映画をやっているのか、ときおりあの独特のインド音楽が聞こえてくる。その音楽が聞こえてきたとき、4歳のムスリマは隣の部屋にバタバタと駆け出し、少しテレビをのぞいてからまた部屋に戻ってくる。そして、音楽に合わせて踊り出す。踊り方はシリアなどでも見たアラブ圏では定番の型。両手を横に広げ、型をくねらしたり、腰に手を当て腰を振ったり、とても4歳の子とは思えないくらい動きがなめらか。
音楽が流れている間中ムスリマは踊り続け、それを母親などもにこにこ笑いながら見ていた。音楽が終わるとストッと踊りは収まる。
食事が終わったとき長男が母親に、ぼくがミニコンピューターを持っているということを告げる。朝方暗い中ちょっと使っていたのを見られていたよう。しまったなあと思ったところで後の祭り。案の定見せてくれと言い出す。しぶしぶ取り出して見せると次男がゲームはついているのかと家の携帯電話を見せながら言う。付いていると言ったのがまたそれに拍車をかけ、使わせろということになり、ぼくの携帯はしばらく次男にとられた状態になる。壊されるとかなわないので、使わせたくなかったのだが・・・。
ちょろちょとおしゃべりをしたり、ぼくの買ってきたりんごを向いてくれみんなで食べたりしているうちに時間が過ぎ、夜中近くになった頃、解散。ハチチャがシーツと上布団を持ってきてテーブルの脇に寝床を作ってくれる。今日も長男と同じ部屋で寝る。
Fin
2009年2月3日火曜日
[速報]ビシュケク(キルギスタン)入り
1月28日にタシケントから車を乗り継ぎ、キルギスのオシュに入り、一昨日オシュから首都のビシュケクに来ました。
物盗りが多いということだけでなく、その警察の腐敗ぶりから中央アジアでもっとも注意すべきまちと聞いていたのですが、まったくその通りで昨日、警察にイチャモンをつけられ、カネを抜き取られました。
今回の旅では各地で警察に尋問されましたが、これまで実害なく来ていました。ですが、ここは本当に腐っていますね。そういうわけで今日は先程日本大使館に相談しにいき、これからあるいは明日警察に申し入れに行く予定です。
被害届を出すという方法もあるのですが、被害者が捜査に付き合わなくてはならず、しかもその捜査も長時間(起訴まで平均3カ月)かかるらしいので、それはやめ、大使館の人と一緒に申し入れに行くことになった次第。さて、どうなることやら。
またカザフスタンのビザを現在申請中で木曜日にもらえるらしいので、金曜あたりにはカザフスタンに移動する予定です。いよいよ中国が近くなってきましたね。
以上。
2009.2.3
Bishkek,Kurgstan
物盗りが多いということだけでなく、その警察の腐敗ぶりから中央アジアでもっとも注意すべきまちと聞いていたのですが、まったくその通りで昨日、警察にイチャモンをつけられ、カネを抜き取られました。
今回の旅では各地で警察に尋問されましたが、これまで実害なく来ていました。ですが、ここは本当に腐っていますね。そういうわけで今日は先程日本大使館に相談しにいき、これからあるいは明日警察に申し入れに行く予定です。
被害届を出すという方法もあるのですが、被害者が捜査に付き合わなくてはならず、しかもその捜査も長時間(起訴まで平均3カ月)かかるらしいので、それはやめ、大使館の人と一緒に申し入れに行くことになった次第。さて、どうなることやら。
またカザフスタンのビザを現在申請中で木曜日にもらえるらしいので、金曜あたりにはカザフスタンに移動する予定です。いよいよ中国が近くなってきましたね。
以上。
2009.2.3
Bishkek,Kurgstan
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