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2011年3月4日金曜日

[diary]タシュケントからアンディジャン、オシュへ

タシュケントからアンディジャン、オシュへ

2009/01/28(水) 曇り
[Tashkent:O'zbekiston→Osh:Kyrgyzstan]
※レート:1米ドル=1402スム(タシュケントの銀行で)
1000ウズベキスタンスム=240キルギスソム(オシュ国境で)

・検問所での約束
・警察に拘束
・日暮れ後のキルギス入国
・ウズベク系キルギス人の家に宿泊

タシュケントのおんぼろなハドラホテル。暖房は文句ないが、便所とシャワールームを考えると12000スム(約900円)は高い。

まだ暗い6時頃起床。荷造りをして6時半過ぎに部屋を出る。1階に降りるがフロントには誰もいない。ただ監視役らしいおじいさんが、ぼくの手にあった部屋の鍵を見て、鍵は3階の管理人室に直接行って返すようにロシア語で言ってくる。4階から降りてきたのにまた3階に行かねばならない。面倒なのでおんぼろエレベーターを使う。

管理人室と思って叩いた部屋は、普通の客室だった。しかもなかから出てきたのはヒヴァで会った日本人旅行者。寝ていたところを起こしたよう。謝ってから正しい管理人室に行く。そこで昨晩の宿泊費12000スムを払い、鍵を返す。例のごとく”ありがとうございました"という言葉はない。今回の旅で実感したが、買い物や宿泊をしたときに売り手や宿主が客に向かって”ありがとう”なんて言う習慣を持っている地域はほとんどないように思う。おそらくでかい金額の商談とかになればそういうのはあるのだろうが、日常的な買い物などではないところの方が多いように思う。

7時近くになり、やや明るくなり始めていた。歩いて地下鉄の駅に向かう。昨日21時頃でも開いていた沿道の食堂はもう開店していて、客が5~6人すでに入っている。

地下鉄の駅までは徒歩10分ほど。階段を下り、中途半端に開いているドアを押して、地下道に入る。地下にはいるとすぐがジェトン(切符代わりのプラスチック製の硬貨)売場があるので、そこでジェトンを1枚買う。地下鉄の運賃は1回の乗車に付き400スム(約30円)。

エスカレーターで下ってホームに降りる。エスカレーターはモスクワやトビリシと比べると短い。日本のデパートなどのエスカレーターと同程度の長さ。警官が相変わらずうろうろしている。そして当然のようにぼくの方に来て、一礼をしてからドキュメントを見せるようロシア語で言ってくる。なので、パスポートを見せるとビザの欄などを見て、すぐに返す。

間もなくして電車がホームに入ってきたので乗り込む。まだ朝が早いからか車両はがらがら。リュックを背負ったままドカッと座席に座り込む。

タシュケントの鉄道駅まで行き、地上に出る。地上で路面電車を待つ。10分ほど待ってコイルックバザール行きの13番の路面電車が来たのでそれに乗り込む。乗り込むと運賃回収係のおばちゃんが回ってきたので、その人に運賃400スム(約30円)を渡し、チケットをもらう。

時速で言うと15km程度だろうか、トロトロと路面電車は走る。今日は故障などハプニングなく、無事終点まで何事もなく到着。もうすっかり夜は明け、あたりは明るくなっている。時計を見ると8時前。

歩いてアンディジャン方面行きの乗り合いタクシーが出ている駐車場に行く。朝だともっと人でごった返しているかと思っていたが、意外に人は少ない。

駐車場に行くと運転手が数人寄ってきてどこに行くのかと聞いてくる。マルギランというまちに行こうと思っていたので、その名前を言うと運賃は2万スム(約1400円)と言う。高い。1万5千程度のはずなのだが、言っても下げない。じゃあと思い、もっと手前のコーカンまでと聞いたらこちらは1万5千スム(約1000円)だと言う。またキルギスとの国境に近いアンディジャンまでの運賃を聞いたら1万5千スムだと言う。

正直に言えばタシュケント到着以降、ウズベキスタンに対する関心が急速に薄れたため、各地での宿代や宿探しを思うとマルギランやコーカンに行くのが面倒に思えてきた。また運賃を考えてもどうせ2万スム近く払うならいっそのことキルギスに近いアンディジャンまで一気に行ってしまった方が出費も抑えられていいかと思い、行き先を変更。アンディジャンに行くことにする。

運賃を確認してからタクシーに乗り込む。乗客はまだ他にいない。しばらく客待ち。

9時前になって政府の制服を着た若い男2人とおじさんが乗り込んでくる。これで乗客がそろい、出発。運転手は最初に値段の話をした男とは違う別のおじさん。念のため隣のおじさんに運賃はいくらか聞くと1万6千スムと言う。目的地はナマンガンでアンディジャンより近いのに、ぼくよりも1000スム余計に払っている。

走り出した車はしばらくして給油をする。それから畑の中に続く舗装道をひたすら走る。舗装道はときおりぼこぼこ穴があいていて車もけっこう揺れる。舗装状態のよくない区間がいくつかある。

見える景色は広大な農地。平たい。綿花畑をしばしば見る。

タシュケントを出て2時間ほどたった11時頃、峠の検問に到着。これまで通ったことのある検問よりも立派な施設があり、通過する車両は警察によってすべて止められている。

ぼくが乗っていた車も止められ、パスポートを見せるよう言われる。運転手にぼくのパスポートを渡し、彼が警察に対応する。道路の脇にプレハブの詰め所があって、そこに運転手とともに呼ばれる。そこで警察からいくつか質問を受ける。ウズベキスタンで何をしているのか、これからどこに行くのかなど。

質問された後、しばらく車で待機するよう言われる。車の方に行くとブハラやサマルカンドで一緒だった日本人旅行者と再会。彼は今日中にキルギスのオシュまで行き、そこに住んでいるキルギス人の友達の家に泊まるという。そして、もし良かったら一緒にその友達の家に泊まらないかと誘ってくれる。

こんな機会はなかなかないだろうと思い、誘いに乗る。別々のタクシーに乗っていたので、キルギス側の国境を越えたところで待ち合わせすることにする。そうした話をしていたら今度は彼が詰め所に呼ばれる。同時にぼくのパスポートが戻ってきたので、先に出発。今、思えばこのときどっちかのタクシーに一緒に乗っていれば、あとの面倒なことはなかった。

車はまた走り出す。山々に挟まれた峠はさすがに雪景色だったが、たいして雪の量は多くない。路面にはまったく雪がないので、スリップなどの心配もなかった。

13時頃、沿道の道の駅的なちょっとしたバザール前で車は停車。一時休憩。駐車場の脇にはここのバザールを宣伝する看板あり。売られているのはパンやお菓子が中心。

車から降りるとビニール袋を売っている少年が2人寄ってきて、ビニール袋を買わないかと尋ねてくる。どうもパンを買ったときにそれを入れるためのビニール袋のよう。

30~40人の人がそれぞれ両手を広げたくらいのスペースで物を売っていて、客が来ると声をかけ手招きをして客を呼ぶ。ぼくは何も買うつもりはなかったので、外から眺めるだけ。同乗のおじさんや若い男たちは5枚、10枚とパンを買っていた。

14時過ぎ、ナマンガンのまちに到着。ここで昼ご飯。車は食堂の前に止まり、運転手等に促されるままに食堂に入る。食堂はシャシリク(串焼き屋)。適当に串を一本頼む。パンはさっき買ったパンを同乗のおじさんが提供してきて、それをみなで食べる。

串焼きはつくねだった。ぼくは肉そのものの方が良かったので、1本追加。味は特別な物は何もないが、うまい。

食べ終わってお金を払おうとしたら、パンを提供したおじさんがぼくの分を払うと言う。いやいやそれには及ばないと断るが、運転手がぼくを制止しておじさんにご馳走になるようにぼくに言う。というわけで、ありがたくご馳走になる。

再び車に乗り込む。未舗装の住宅地帯に車は入っていき、ある門の前で停車。ここがおじさんの家だった。ここでおじさんとはお別れ。

後部座席は2人となったので、やっとゆったり座れるようになる。

葉の落ちた木々が立ち並ぶ片道一車線の道を走り、車はアンディジャンに向かう。途中で同乗の若い男1人をおろし、またアンディジャンに入ってしばらくした頃、もう1人の若い男を彼の家の前で降ろす。

こうして客はぼく1人になる。だんだんとコンクリートの建物が増え、市街地に近くなる。おじさんは携帯電話で時折誰かと話をしている。

と、突然おじさんは車を停め、自分の息子(?)だと言って反対車線に止まっていた車を指さす。そして、その車を呼び、ぼくにこっちの車に乗り換えるよう言う。ここで運賃の1万5千スムを払う。おじさんはそのうち2千スムを彼に渡し、自分は家に帰って寝るからというようなことを言って去る。

DAEWOODの軽自動車に乗り換え、アンディジャンの中心部に向かう。10分ほど走って中心部に到着。そこで国境行きの車に乗り換える。車から降りるとタクシーのおじさんたちが一斉に寄ってきて、どこに行くのかと聞いてくる。ドストリックと言うとそのうちの1人のおじさんが来いと言うので、そちらに行く。運賃はいくらなんだと聞くがなかなか答えないので、別の車を探すかなと思っていたとき、制服を着た警官が一人やってくる。

警官はロシア語で何か言ってくるがよくわからない。詰め所かどこかに連れていくというようなことを言うので、拒否する。まわりにはすぐに人だかりができ、ぼくらのやりとりを見ている。その人だかりの中から英語で話しかけてくる青年がいた。10代後半の青年で高校からの帰りらしい。流暢ではないが、十分に理解可能な英語。「Can I help you?」と聞いてきたので、彼に何が問題で、どうしたいのかと警察に聞いてもらう。

警察の答えは、ぼくの荷物のチェックをしたいとのことらしい。なので、彼に英語で彼らはただカネがほしいだけだから、そんなことは不要だし、こっちは国境での待ち合わせがあって急いでいるんだと伝える。彼はぼくが急いでいることを警官に言うが、警官は納得しない。そこへさらに警官が二人やってくる。

ぼくを乗せようとしていたタクシーのおじさんは警官になにやら抗議っぽいようなことをしていたが、そのうち去ってしまう。

青年が警官となにやら話し、自分が通訳に入るからというので、やむなく警察の詰め所へ行くことにする。そこで彼らはぼくのリュックなどをチェック。パスポートなどを眺める。時折質問あり。こっちは急いでいる分いらいらが募る。

青年がいてくれたおかげか、わりとまともな警官だったからかカネの要求はなし。最後は彼らのボスが現れ、ぼくのパスポート情報をなにかのノートに書き写し、それで解放される。

タクシー乗り場に戻りながら英語ができる青年は、警察は何も取ったりしないから心配しなくて良いというようなことを言う。事実を彼にも教えてやろうかと思ったが、やめる。

タクシー乗り場に行くとまた運転手のおじさんらが群がってくる。値段を聞くと一人なら1万スム(約700円)、相乗りタクシーだと4000スム(約300円)と言う。タシュケントから乗ったタクシーの運転手は国境のドストリックまでは2000スムだと言っていたので、どれも却下。彼に聞くとバスがあるというので、多少時間がかかりそうだが、そちらにする。

彼の家はドストリック近くにあるらしく、一緒にバスに乗る。運賃は1500スム(約100円)。彼はぼくにぜひ家に来てほしいと言う。ドストリックには近いからキルギスに行くなら今晩彼の家に泊まって明日の朝に出ればいいとも。

時刻はすでに17時をすぎていた。警察に捕まらなければ16時過ぎには国境に着いていたはずなのに大幅に遅れている。国境まではまだ50kmほどあるからバスだと1時間かかる。つまり、国境に着くのは暗くなってからだ。国境での手続きに時間がかかればキルギス入りは19時をすぎる可能性もある。そうなると国境での待ち合わせを約束した彼はたぶんぼくを待っていないだろう。

そんなことを考え、彼の家に泊まるのもいいかなと思うが、万が一彼が待っていたとしたら申し訳ないので、彼には家には泊まれない旨を伝える。が、何度も家に来てくれると嬉しいんだけどと英語で言ってくる。困ってしまうが、諦めてもらう。

彼は自分が降りる前、出会った記念にと上着の内ポケットに入れていた指輪をくれる。なので、そのお返しにこちらはアイスランドのキーホルダーを渡す。彼の運賃くらいは出そうと思って、彼に言うがそういうことはしないで欲しいと彼ににこっと言われ、やめる。

彼が降りてからさらに20分ほど走った頃、国境に到着。あたりは真っ暗。急いでウズベキスタンのイミグレに行く。入国時にずいぶん時間をくった荷物チェックは特になく、税関申告書を2枚書いて提出し、スタンプをもらって終了。

歩いて100mほど行くとそこがキルギス側のイミグレ。こっちもすんなりと通過。イミグレの建物を出ると警官が3人ほどいて、パスポートを見せろと言う。彼らは入国スタンプを確認してからパスポートを返してくれる。そして、一人の警官が10米ドルくれと言う。「ニェート、ニェート」と言ってさっさと彼らの前を離れる。しつこくはなく、それでおしまい。

両替所が開いていたので、とりあえず10米ドルぶんのスムをキルギスソムに両替。レートは1000ウズベキスム=240キルギスソム。

そうしてキルギスに入ったのだが、やはり彼はいなかった。暗くてどこに誰がいるかもわからなかったが、うるさいタクシーの運転手らをかわしながら、一帯をちょっと歩いてまわり、彼を探す。しかし、やはりいない。

さて、どうするかなぁと悩む。タクシーの運転手は町中まで200ソム(約500円)だと言う。高い。ガイドブックを見ながら宿をどうするか考える。

近くには食堂やお菓子などを売る売店があったので、お菓子を売っている売店の女性に聞いてみる。彼女は20代くらいに見えるが、前歯の数本が金歯になっているし、一番上に羽織っている服もおばちゃんたちがよく着ている臑まであるカーディガン(?)だったため、けっこう年はいっているのかと想像してしまう。

彼女に近くにホテルはあるかとロシア語で尋ねるとあると言う。でもやや遠いらしい。なので、そうかと考えていると店の椅子を持ってきて座って休むように言う。さらに彼女はお茶を出してくれ、加えて店の商品である量り売りのお菓子を2~3個くれる。

約束した日本人旅行者がもしかしたら来るかもしれないと30分ほどそこで待つが、19時を過ぎたのであまり遅くまでここにいると後が面倒になるかと思い、彼女にタクシーで町中に行くわと伝え、お茶代を尋ねる。

しかし、彼女はこの近くの宿に連れていくからタクシーはやめた方がいいと言い、ちょっと待っててとまた椅子をすすめる。また、お茶代はいらないとも。

彼女ともう一人10代後半らしき男の子がその店にはいて、彼女らが店を閉めるのを終わるのを待つ。

20時前に店の片づけが終わり、彼女と10代後半くらいの男と3人で宿に向かう。店の裏側の道を歩く。道は舗装されておらず、あちこちに足を突っ込めば足首までは浸かりそうな大きな水たまりができている。街灯がないため、足下がおぼつかない。ぼくは懐中電灯を取り出し、足下を照らしながら歩く。足下はどろどろ。

彼女は歩きながらロシア語で話しかけてくる。”タクシーはすごくお金がかかるから乗らない方がいい。明日の朝になればマルシュートカ(乗り合いワゴン)があるからそれだったら7ソム(約15円)で町中まで行けるから”などと言う。

暗い道を10分ほど歩き、ある民家らしい家の前で立ち止まる。ここらしい。てっきりホテルだと思っていたのだが、彼女らは一緒に敷地内に入る。おじさんが出迎えしてくれたのだが、そのおじさんは彼女らの父親だった。つまりは彼女らの家に泊めてくれるらしい。

家は一軒屋で周りの家と同じく、鉄門があり、そこを入ると正面は果物でもなりそうな木が8本ほど植わっている庭というか空き地というかがある。右手の建物が自宅。2階立てのようだが、実際には1階しか使っていないようで、2階には灯りもついていないし人気もない。

促されて自宅内に入る。入り口のドアのところで靴を脱ぎ中に入るとそこは8畳ほどの部屋だった。10人くらいが一緒に食事できるくらいの大きなテーブルがあり、壁にはどこかの滝のポスターが貼られている。床には絨毯が敷かれ、テーブルのまわりには細長い布団のようなクッションが座布団のようにして敷かれている。

角に荷物を下ろすとテーブルに座るようすすめられ、座るとお茶とお菓子を出してくれる。

ここの家族はウズベク語を母語とする人たちで、夫婦と子ども4人で暮らしているらしい。ここに案内してくれた売店の女性が長女のようで、その下に男が二人いて、一番小さいのが4歳の女の子らしい。一番下の女の子は母親の陰に隠れてこちらを見ているだけで、目を合わすと隠れてしまう。なので、持っていた紙で手裏剣と紙飛行機を作って渡すとパッと受け取ってまた隠れる。

夫婦は見た目は50代後半のように見えたが、子ども年齢からすると50歳前後のよう。

まずはいくらで泊めてくれるのか尋ねる。相手はちょっと考え、いくら払うかと聞いてくるので、予定よりも出費が多くなるが、1泊2食(朝晩)付きで10米ドルでと聞いてみる。するとそれでオッケーとのこと。

またおじさんは自分はまちのあちこちを知っているから案内してやると言うが、タダではないだろうと思い、いくらかと尋ねるといくら払うかとまた聞いてくるので、こっちはオカネは払えないから自分で回るということにする。

その他、ロシア語でいろいろ尋ねてくるが、なかなか難しい。手持ちの会話帳などで言いたい言葉を探してもらうが、けっこう載っていない。辞書の必要性を感じる。

尋ねられたのは、どこからどう来たのか、これからどこに行くのか、日本では何をしているのか、結婚しているのか、両親はどこにいるのかといったこと。

23時くらいまで会話帳をまじえ、あれこれとしゃべってから寝る。

寝る前にトイレの場所を聞くと、トイレは外にあった。庭は奥行き30mほどあり、幅が5mほどある。トイレは一番奥にあったのだが、なんだか家畜糞くさいなと思っていたら、牛が4頭いた。トイレの横の建物が牛小屋になっていて、聞くと一番の年寄りは5歳で若いのは1歳くらいの牛だと言う。その他、鶏と犬もいた。

Fin

[diary]タシュケントで一日

タシュケントで一日

2009/01/27(火) 小雨→曇り、晴れ 15℃前後
[Tashkent:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1402スム(タシュケントの銀行で)

・バス探し
・いらつくカフェ
・日本人墓地
・会食

タシュケントのボロホテル、ハドラ。

6時頃、起床。暖房の効きはよし。外はまだ薄暗い。しばらく物書き。

明日の出発を控えて、バスの下見に行く。9時前に部屋がある4階から階段を下って外に出る。

歩いてトラム(路面電車)乗り場に行き、トラムが来るのを待つ。やってきたトラムに乗り込む。どうもすでに通勤時間のようで、乗客が多かった。トラムの運賃は地下鉄などと同じく1回400スム(約30円)。

車両には運転手以外に集金係が同乗していて乗客の間を回って運賃を集める。このトラムの集金が係りは10代後半と見られる男。彼にぼくが行きたいバスターミナルのことを言うと乗り換えしないといけないと言い、その場所は教えてくれるとロシア語で言う(こちらは仕草でそのように解釈しただけだけど)。

彼が合図したところでトラムから降りる。外はしとしと雨が降っている。しばらく乗り換えのトラムが来るのを待つ。

待つこと20分ほど。やっと待っていたトラムが来る。乗り込む。また400スム払う。

トラムはのんびりと時速15km程度のスピードで郊外に向けて走る。古くなってさびたような屋根を持つ家々がある地帯が見えたり、線路を越えたりして40分ほどかかって終点のバスターミナル駅に到着。結局宿を出てから待ち時間を含め1時間30分近くかかった。

トラムを降りればそこにバスターミナルがあるかと思いきややや離れていて、しかも陸橋が邪魔で視界が悪い。そのため近くにいたおじさんにバザールの位置を教えてもらう。

歩いてバザールに行く。陸橋の反対側がそれだった。最寄りの入り口から入ると暗い! 屋根があって中は各がそれぞれのスペースに商品を陳列しているのだが、電球が一つもなく、外も雨で暗いため光がまったくない。これじゃあ商品同士の違いがわからんじゃろというくらい暗い。

屋内の通路にも屋外の通路にも手に服や布地を持って商売をしている女性たち子どもたちがいる。外にいれば当然雨に濡れる。

また通路には水たまりがそこここにできていて、歩くのにも気を使う。一部の店はブルーシートやビニールを屋根代わりにした屋台スタイルだから、上から水が落ちてこないかも気にしなければならない。

ビニール長靴を短く切って作ったような雨靴やブーツを売る店、ビニール袋だけを扱っている店などいろいろあるが、全体の規模は小さめ。くまなく歩いても30分はかからない。

朝飯を食べていなかったのでカフェでラグマンを食べる。味はよし。

それからビニール袋屋で雨対策として小さなリュックを丸ごと包めるくらいの大きさの黒のビニール袋を買う。500スム(約30円)。

そうしてからバスターミナルの方に行く。行き先の書いたボードが掲げられ、乗り場もきちんと整理されたバスターミナルだったのだが、ここはどうも近郊のまちに行くバスターミナルのようで、そこで客引きしている男に聞いたらファルガナなどに行く車はあっちだと道路を挟んだ向こう側の駐車場を指さす。

なので、雨の中早足でそちらへ移動。バスターミナルの建物らしい小さなコンクリート作りの建物がある駐車場にまず行く。そこで聞いたらここでもなく、向かいの駐車場だと教えてくれるので、地下道を通ってそちらに行く。地下道には車いすに座って物乞いをしている人がいた。菓子やたばこを小売りしているおばさんもいる。

駐車場に行くとセダンタイプの車がたくさん停まっていて、そのうちのいくつかには行き先の地名を書いたカードをフロントにおいているものがある。運転手らしきおじさんたちが立ち話をしているのだが、寄ってこない。なので、こっちから近づいていき、ファルガナに行きたいというと客引きが始まる。明日だと言うと一気にその熱は衰えたけど。運賃とかかる時間だけ聞いてそこを後にする。

歩いてトラム乗り場まで行く。だが、トラムがなかなか来そうにないので、適当に中心部に行きそうなバスに乗る。これが間違いだった。

緑色の中国製らしい比較的新しい車体のバス。乗り込んだらなんだか眠くなり、寝てしまう。気づくと終点に来ており、バスはアイドリングしている。このまま乗って戻るという手もあったが、同じルートを行くのはつまらないので、隣に停まっていたバスに乗り換える。バスの運賃は400スム(約30円)。

バスはアパート街や住宅街の中を走る。道は舗装されているものの一部は穴が開いてぼこぼこになっていたりする。住宅の建物もかなり年季が入っているものが多い。トタン屋根であればたいてい錆びているし、壁の色も長年の風雪に耐えてきたのだろう、そのせいでくすんだ色になっているものが多い。

メトロの駅にでも停まればそこで降りようと思っていたのだが、それらしきところに停まることがない。降りるきっかけをなかなかつかめずにいるうちにどこにいるのかわからなくなる。やれやれどうしたものかと思っていたらバスは大きな陸橋を渡る。そうして渡っておりたところは、さっき朝飯などを食ったバザール前だった。結局、元の場所に戻ってきてしまった。

1時間近くかそれ以上、バスに振り回されたため、少し謙虚になって安全策を取ることにする。ここでバスから降りてのろいがトラム(路面電車)に乗り換える。ちょうど停まっていたトラムがあったので、それに乗り込む。回ってきた集金係の女性に運賃を払う。トラムは15分ほどして出発。例のごとく時速15km程度で走る。

これですんなり中心部に戻れるかと思いきや突然トラムが止まる。なんだ?停電か?と思い、前を見てみると前には他のトラムが2台(?)止まっていた。どうも故障したらしい。あるいはただ時刻表通りに動かず路線が過密になったのかも。集金係の女性が乗客に向かってぺらぺらと何か言ったらみな降り始めたので、ぼくも降りる。どうも動かないから乗り換えろということらしい。バスにでも乗り換えるのかと思いきや一番前で止まっているトラムにみな乗り込んで行くのでぼくもそれに倣って乗り込む。改めて運賃を取られたりしないか気になったが、そういうことはなかった。

こちらのトラムは故障しているわけではなかったようで、乗客が乗り込むとすぐに走り出す。順調に中心部に向けて走っていたのだが、15分ほど走るとこれまた突然止まってしまう。前に他のトラムがあるわけでもないので、今度は故障らしい。客の数人が降りていく。ぼくもタシュケントの鉄道駅近くにいることがわかったので、降りて近くの地下鉄の駅に向かう。

タシュケント駅前の地下道に入る。地下道に入った途端、強烈な小便のにおいを嗅ぐ。

中途半端に開いているドアを押し込み、中へはいる。地下鉄の改札を通るためのジェトン(プラスチックのコイン)を窓口で買ってからエスカレーターでさらに地下深くへ降りていく。

地下鉄は10分に1本は走っているからトラムのように待ちぼうけをくらうこともない。唯一地下鉄を使うときに面倒なのは警察のチェック。だが、このときは何もなかった。

順調に地下鉄に乗り、途中で路線を乗り換え、目的地に行く。今日は政治的抑圧者記念館と日本人墓地とその関係の資料館に行こうと思っていたのだが、トロトロしていたおかげですでに時間は14時を過ぎようとしていた。

とりあえず遠いところから先に行こうと日本人墓地近くに行くバスを待つ。アライ・バザール前のバス停留所である番号のバスが来るのを待つ。なかなかこないので、近くの店でアイスを買う。一番安そうなやつを買ったらこれが粉っぽいアイスでまずかった。どうやったらこんなアイスが作れるのか不思議なくらい粉っぽい。

20分ほど待ってようやく狙いのバスが来る。乗り込む。

乗り込んだらすぐに集金係の男性に降りたい停留所名を告げる。愛想良く了解してくれる。バスには眠りを誘うなんらかの空気があるのか、また寝てしまう。

適当に目が覚めたときにはけっこう寝たように思い、もう行きすぎたのではないかと不安になる。だが、目が覚めてから10分ほどした頃、集金係がここだと教えてくれる。無事、目的地に到着。時刻は15時を過ぎようとしていた。

バスから降りてすぐの通りを進行方向右に入る。その通りを歩いて5分足らずで墓地の入り口につく。途中に資料館があることも確認。

墓地に入る。管理人とかがいて入園(?)を監視しているかもしれないと思っていたが、そういうのはなく、ずかずかと入れた。だが、どこに日本人墓地があるかわからない。

17時にホテルで待ち合わせをしていたこともあり、のんびり探すことができないので、もうわからないまま帰ろうとしたら墓地の清掃をしていた人たちが「コンニチワ」とおかしな日本語で声をかけてきて、指さしてその場所を教えてくれる。

教えてくれた方に行くとすぐに日本人墓地は見つかった。時間がなかったのでちらっと見て、写真を撮っただけで後にする。墓石にもっと歴史的なことが書かれているかと思ったが、意外にあっさりしていた。

なお、ここの墓地の一部の墓石には、アルメニアやグルジアなどでも見かけたように、故人の肖像や全身像がリアルに彫り込まれている。どういう技術を使っているのか知らないが、その出来具合は写真並み。2002年にアルメニアに行ったときにこうした墓石を初めて見たのだが、このときはバスに乗っていて車窓から外を眺めていたら道ばたに黒い墓石に若い男の肖像を彫り込まれていたので、その前を通り過ぎた瞬間、一瞬亡霊かと思って目を疑い、振り返ったことがあった。これはこれで故人の顔などがわかりいいように思うが、でも1つの墓石につき一人しか掘っていないからこれからもこうした墓石を作るとなると先人のをどうにかしないと墓石があふれて墓地の敷地内では対応できなくなるだろう。といっても、ここには空いている土地がたくさんあるようだから土地に困ることはないかもしれないけど。

結局墓地を10分足らずで後にして、墓地の近くにある日本人資料館に寄る。しかし閉館中のようで、ドアをたたいても誰も出てこなかった。なので、またバスの停留所に戻り、市街地に戻る。

路面電車に乗り換え、待ち合わせ時間の17時前にホテル着。

17時過ぎに待ち合わせしていた人と会い、食事へ。この人はシニアボランティアとしてタシュケントに来ており、すでに1年半住んでいるとのこと。当地で経験した興味深い出来事などを聞く。

19時過ぎに店を出て、ホテルに戻る。

あとは明日の出発の準備をして、書き物をしたり読み物をしたりしてから寝る。

Fin

[diary]サマルカンドからタシュケントへ

サマルカンドからタシュケントへ

2009/01/26(月) 曇り タシュケントは15℃前後
[Samarqand→Tashkent:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1402スム(タシュケントの銀行で)

・鉄道での移動からタクシーでの移動に
・移動の道にて
・タシュケントの第一印象
・タシュケントの安ホテル
・両替をしに

サマルカンドの宿。暖房良好。

6時頃起床。

鉄道駅に8時に行くことになっていたので、通常8時の朝食を7時にしてもらっていた。荷支度をしてからティールームに行く。まだ誰も来ていない。

朝食はすでに準備されていたので、早速食べ始める。今日、一緒に移動する同宿の日本人女子大生2人がまず起きてきて、それからやはり一緒に移動する日本人男子学生1人が起きてくる。

朝食はパンとチーズとヨーグルト飲料と薄い焼きたてのクレープ。

一足先に食事を済ませ、部屋に戻り、それから精算。2泊分の宿代20米ドルと2食分の晩飯代6000スム(約4米ドル)を払う。

8時前、ここまで移動などで一緒だった台湾人のYさんも一緒にタシケントに行くことにしたということで、5人で宿を出て、近くのマルシュートカ(乗り合いバン)に乗り込み、駅に向かう。ちょうど外は明るくなり始めた頃だった。運賃は400スム(約20円)。

8時20分頃、マルシュートカは駅前に到着。夜行列車が着いたばかりなのか、駅舎からたくさんの人が出てくる。歩いて駅に向かっていたら通りすがりの若いにいちゃんが写真を撮ってくれと言い出す。なので、彼と彼と一緒にいた少女の二人を写真撮影。写した写真を見せたら「スパシーバ」と言って去っていった。

さて、駅舎に入り、チケット売場の窓口に行き、ウズベク語ができるH君がタシケント行きのチケットについて聞く。運賃は11000スム(約800円)。高い。宿の人の話では7000~8000スムだろうとのことだったが、急行列車だからだろうかちと高い。窓口横の紙にタシケント行きの列車の発車時刻などともに運賃みたいなのが書いてあったので、この値段(4500スムほどだった)ではないのかと聞くが、それは荷物の値段だと言う。

出発時刻はやはり11時。意外に高かったこともあり、ちょっと考え込む。乗り合いタクシーは一人2万スム(約1300円)と言っていたから、それを値切ってすぐに出た方が早くタシケントに着くからそっちの方がいいんじゃないと提案。ただ乗用車に5人乗れるかどうかが問題ということになる。

列車のチケットは買えそうなので、とりあえず駅前のタクシーに聞いてみようということになり、また5人でぞろぞろと移動。フロントガラスにタシケントと書いたカードを掲げていたタクシーに近づいていき、運転手らしき人に尋ねる。交渉はウズベク語ができるH君がやる。

一人1万5千スムでどうかと言ったら運転手はあっさりオッケーする。そして、すぐに車に乗るように促す。トランクに5人分の荷物はぴったり入り、助手席にぼくが、後部座席に女性3人とH君が乗り込む。だいぶ後ろはきつそうだが、5人乗ることができる。

そしてすぐに出発。時刻は9時15分。

20分も走ると車は家もまばらな郊外に出る。そしてガソリンスタンドに入る。そして運転手は4万スム(約2500円)くれと言い出す。ガソリン代をぼくらが払う運賃から出すらしい。この際だからみな運賃を払ってしまおうかという話も出るが、先に全部払うとどこで降ろされるかわからないため、とりあえず3人分だけ払い、ガソリン代にあててもらう。運転手もそれ以上は要求せず。

再び走り始めてから1時間近くたった頃、うっすらと雪のある地帯に出る。どういうわけかたいして雪は多くないのに沿道の木々は樹氷の一歩手前の状態になっている。北の方からになるのか、吹き付けられた雪が枝の幅だけ積もり、ちょうど3D文字を書いたときの奥行きの部分になっている。不思議な光景。

その不思議な光景はほんの300mほどだけで、その区間を抜けるとそうした木はもとより雪もまったく消えてしまう。

車内ではH君に中国、中国語話を聞かせてもらう。やはり中国内では言葉でその人の出身地がわかるらしい。特に台湾人の言葉は確実に聞き分けられるらしく、しかもそれをまねしてバカにするような人もいるらしい。また内地の人間は自治区の人たちを見下す傾向は強いらしい。

おもしろかったのが彼がウルムチで中国語を勉強しているとき、最初は彼の中国語は中国南部の人が話すような中国語だと言われ、それからだんだん北上し、最後には上海の人が話す中国語だと言われるようになり、しまいにはなんでウルムチで中国語を勉強しているのに上海の中国語をお前はしゃべるのだと言われたりしたと言う。

また一緒に中国語を勉強している中央アジア出身者からは、ペーパーテストの旅に、”お前はいいよな、漢字があるから”などと羨ましがられたと言う。彼が言うには中央アジア出身者は中国語をぺらぺらしゃべることができても、文章を読ませたり、書かせたりするとまるっきりダメだったりするらしい。そういうことを考えると、文字に苦労しないという点では日本に生まれて良かったと思うと彼は言う。

車は140km/時で走る。

13時前、タシュケントと書いた大きな看板が見え、運転手が日本語で「コンニチワ タシケント」と言う。そして、何か日本の物を「スーベニール」(プレゼント)としてくれないかとねだり始める。女子学生の一人が持ってきていた柿の種を渡すが、運転手は不満のようで他に何かないかとしつこくねだる。日本製のボールペンなどがないかと言われるが、誰も何も持っていない。

13時半前、タシュケントのサービル・ラヒーモフ・ターミナルに到着。これからファルガナに行く台湾人のYさんだけここで降りて、残りは中心街まで乗せてもらおうと運転手にその旨伝えるが、中心部までは別料金だと言い出したので、みなで降りる。

ここでYさんとは別れ、4人で地下鉄の駅に行く。タシュケントの地下鉄は警察が多くて、しばしばパスポートチェックなどをするため面倒だと聞いていたが、さすがに4人でいたからかホームの警察は何も聞いてこなかった。

さすがに地下鉄に乗るとここは確かに首都であり、国内最大の都市なのだなと感じる。旧ソ連らしくホーム内の壁の装飾はなかなか凝っている。グルジアのトビリシの地下鉄と違って車両内の電気はちゃんとついていて明るい。

ぼくはホテルに行くため途中のパフタカル駅で乗り換え。ここで他の3人とお別れ。地下鉄の別の路線に乗り換える。地下鉄に乗っている客は多い。さすがに首都というわけか、西のまちで多かった服装と比べるとより西洋風な格好の人が多い。男について言えば、帽子が野球帽タイプやニット帽が多く、あのロシア的なごつい円柱型の毛がふさふさしている帽子をかぶっている人は少ない。ただ、黒い皮のジャケットに黒のズボンに革靴というのは同じ。髪型もみな短い。女性も基本的に黒い服を着た人が多いが、たまに赤や黄色などの明るい色を着ている人がいる。

あと目に付くのが金髪のロシア系の人。けっこう多いなと感じたのだが、後に知ったところによると5%程度しかいないらしい。また言葉もウズベク語やタジク語ではなく、ロシア語ばかりが聞こえてくる。

ホテル近くの地下鉄駅で降り、地上に歩き、歩いてホテルを探す。ぼろい建物と予想していたのだが、それらしき看板が出ている建物がなかなか見あたらず、またそれらしき物があったものの看板がなく、一度は通り過ぎてしまう。

地図で確認してそれらしいぼろいビルに入ってみると、そこがホテルだった。1階の受付に行くとそこにいたオヤジは、呼んでいた新聞から目を離し、一泊の料金は12000スム(約900円)だと言った後で、パスポートを見せろと言い、ビザのページなどのコピーを同じフロアにある店でコピーしてくるよう言う。なんで客のこっちがコピーしないといけないんだと思い、言うがそれなら泊まらなければいいというような態度。

こんなところ潰れてしまえと思うが、他に安宿がないし、探す気分にもならないんで、しょうがなくコピーをとる。1枚100スム(8円)もした。通常は50スムなのに。

いらいらしながらコピーを渡す。管理人という女性が上から降りてきていて、彼女について3階にあがる。そこに管理人室があり、そこで1泊分のカネを払い、鍵をもらい、部屋に案内される。

部屋は3人部屋で、ベッドがコの字になって並んでいる。暖房の効きはいいが、若干たばこくさい。ここを一人で使うらしい。便所とシャワールームは貧弱で、便所の便器がふらふらしており、シャワールームは湯船はあるがシャワーのノズルはおろか、ホースさえもない。ただ蛇口があるだけ。湯船もあまり掃除されていないようで、だいぶ汚れている。やれやれ。こんな施設なら500円程度の価値しかないのだが。

荷物を部屋に起き、しばらく休憩してから宿を出る。ホテルの近くの大きな通りのバス乗り場に行く。スムが残り少なかったので中心部にある両替屋に行こうと中心部に行くバスを探すが、なかなかない。というかどれがどこに行くかがわからない。待っている人に聞くが、なんだか要領をえない。

バスの他に路面電車があったので、そちらに乗ることにする。こっちの方は路線図がガイドブックにあるので乗りやすい。ただ本数が少ない。

結局トータルで30分ほど待って、路面電車に乗る。運賃は400スム。車両は古くあちこちがきしむ音をたてながら走っている感じ。道路は広く片道3車線。

間もなく右手に電気屋街が並ぶ通りに出る。電気屋街と言ってもビルなどはなく、いずれも小さな商店的な店構え。

中心部近くで路面電車を歩いてアミールティムール広場を越え、メインストリートのサユルガーフ通り、通称ブロードウェイに行く。が、ブロードウェイと聞いて想像していた通りとはまったく違って閑散としており、拍子抜けする。人通りもさることながら店も少ない。これがメインストリートと呼べるのか?と言いたくなるほど。

まぁ、それはともかくとして両替屋を探す。両替屋はすぐに見つかる。レートは1米ドル=1402スム。闇両替と比べれば安いが、闇両替を探すのが面倒なので、ここで両替する。

それから電話をするために電話屋を探す。きれいなホテルがあったので、そこに公衆電話があるかと思い聞くが、ないと言われる。ただ代わりに電話屋の位置を教えてもらう。なので、電話屋に言って電話。

その後、ネット屋による。ネットは1時間1000スム(約70円)。そこそこ早いがUSBが使えず。

そうこうしているうちに夕方17時を過ぎ、だんだんと暗くなる。なので宿に戻る。

宿の周りで食堂をちらっと探すが見あたらないので、宿のビルの1階にあるカフェでラグマンを食べる。丼が小さく不満に思う。味はこれまでのものとたいして変わらない。可もなく不可もなく。店の人はみなロシア系で、店もロシア料理屋だった。

それから近くの売店で水などを買ってから部屋に戻る。

シャワーのノズルがないためシャワーは湯船にしゃがんで蛇口から直接浴びる。なんで1000円近くも払ってこんなことしないといけないんだ!アフリカの宿の方がはるかに良かったわ。

夜は書き物したり読み物したりしてから寝る。

Fin

[diary]やる気のでないサマルカンド

やる気のでないサマルカンド

2009/01/25(日) 曇り 日中10℃前後
[Samarqand:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1540スム(ブハラの闇両替で)

・バザール
・宿で
・チケットを買いに
・夜のおしゃべり再び

7時頃、起床。部屋は暖房が効いていてちょうどいい具合に暖かいが、乾燥しているため朝起きると喉がからからに乾燥している。外はまだ暗い。

8時、宿の朝食。パンとチーズとサラミとヨーグルトなど。同じ宿に泊まっている日本人3人が明日タシュケントに行くということで一緒に移動することを確認。列車のチケットを昼に一緒に買いに行くこととし、午前中は各自で動くことにする。

朝食後、近くのバザールに行く。8時半とまだ早かったが、すでに店は開き、路上も屋内の各コーナーもにぎやかだった。

ここのバザールの建物は新築のようで、とてもきれい。建物と言っても大きな屋根(バスケットコート4つ分程度)にカウンターだけなのだが、各売場の上部には「Vegetable」「Fruit」など売っている物の名前が書かれている。英語でも表記されているところが観光地っぽい。ただ客はここよりも路上の方が多い。きっとあっちの方がやすいのだろう。

ヨーグルト売場はドア付きのプレハブのような小さな建物内にあって30人くらいの人がそれぞれのヨーグルトを売りに来ている。売り方がおもしろくて、ヨーグルトは容器に入れられて売られているのではなく、タイル張りのカウンター(台)に直接ヨーグルトを乗せて売っている。言い換えればカウンターにヨーグルトをわざわざこぼしているのである。ヨーグルトと言っても水分がかなり少ないからどちらかというと見た目はクリームチーズのように半固形状の物のように見える。タイルに接していない部分は、まぁ衛生的に思えるが、タイルに接している部分はどうなんだろうと気になる。毎朝消毒しているのか?

他に野菜コーナー、チムチ(キムチ)&総菜コーナー、米コーナー、パンコーナー、香辛料コーナーがあり、売られているものはヒヴァやブハラと変わりない。野菜はじゃがいも、タマネギ、かぼちゃ、人参(黄色とオレンジ)、辛み大根?(緑色をした大根)、キャベツ、紫色のカブ(?)、かぶなど。チムチや総菜も他で見たものと同じものばかり。パンはブハラなどとは違ってある種のケーキのような形をしている。

ヒヴァやブハラではバザールを歩いていると、盛んに声をかけられたが、ここではたいして声をかけられることはない。また、各店の客引きもほとんどない。

バザール内の一部通路には物乞いの人らが数人いて、路上に座り込んだりしてカネを乞うている。車いすに乗っている女性もいた。またパンコーナーを歩いているときに小さな男の子(1歳くらい?)を抱えた女の人が近づいてきて、カネをくれとしつこく言ってくるので、パンを買って渡したところ、それでも不満のようでさらにしばらく付きまとわれる。

また敷地内の別のところでは、見た目は物乞いにはまったく見えないおばさんが、突然カネをくれと言ってくる。

チムチ&総菜コーナーで牛モツのサラダと春雨サラダを買う。100g程度ずつ買い、それぞれ1000スム(約60円)。

しばらくバザールをふらついてから、この先にあるという廟群に行こうかと思っていたのだが、見に行く気が失せたので宿に戻る。サマルカンドはあまりに道路がだだっ広く、まっすぐきれいに整備されているからなんだか歩く気が失せる。先が見えて退屈になる。イエメンやシリアの一部のまちのようにごちゃごちゃしている方が歩く気が出る。歩く気がしないというのは、トルクメニスタンから入って最初に泊まったまちであるヌクスなどもそう。つまりは旧ソ連的まちで共通して起こる反応。自転車があればまた違うのだろうが。

空は曇天。

11時頃、宿に戻り、ティールームでお茶を飲みながら、さっきの総菜を食べながら読み物をする。

ウズベキスタン在住の人が書いたもので経済の話(ウズベキスタンにはウランや天然ガスがあり、アメリカやロシア、中国が進出してきていること。また天然ガスはロシアには単位あたり100米ドル程度で売っているのだが、ロシアはそれを250米ドルでヨーロッパに売っているといった話。それから計画経済は続いているといった話)や結婚の話題(親が結婚相手を探す話や相当のカネがかかるという話、相続話など)など、ただ通り過ぎるだけのぼくのような旅行ではなかなか知りえないことがいっぱいでおもしろい。

待ち合わせ時間の13時になったが、1人だけ現れなかったため、また夕方に待ち合わせを変更。ぼくは依然として出かける気にならなかったので、宿で書き物。

16時すぎになってようやく全員集合。まちを歩いていたら出会ったという別の宿に泊まっている日本人1人が新たに加わる。

総勢5人でティムールの墓でもあるグーリ・アミール廟まで歩いていって、そこを見学。さらにティムールの巨大なモニュメントの前で記念撮影。なんだか修学旅行みたい、などという反応あり。

そうしてから列車のチケットを買いにサマルカンド駅に行く。マルシュルートカで行こうと思っていたが、乗りたい番号のマルシュルートカは客がいっぱい。数台見送り、空っぽの車が来たので尋ねると運賃1人600スム(約40円)だと言う。400スムが通常の値段だが、タクシーのように他の乗客は乗せないからというような事を運転手は言う。たいした額ではないので5人で乗り込む。

駅には30分足らずで到着。昨日も見た異常に豪勢な駅舎に行き、窓口でチケットについて聞く。聞き役はウイグル語=ウズベク語ができるA君。窓口の男性は愛想も何もなく、机からちょっとひいたところに座ったまま表情を変えることなく面倒くさそうに答える。

ぜんぜん発券する準備をしたりしないので不思議に思っていたらA君が、「今日は切符を売らないと言っています」と言う。加えて明日の8時に来るよう言われたらしい。他の国でもそういうことがたまにあるとガイドブックで読んだが、ブハラでは前日に買えたので、ここでもそうだろうと思っていた。が、やる気がないのか、そういう仕組みになっているのか、とにかく今日は切符を買えないらしい。別の窓口で聞いてみたが、その男性の窓口に行くよう言うだけで埒が明かない。

しょうがないので切符の購入は諦め、宿に戻ることにする。外はすっかり暗くなる。

帰りはマルシュルートカ。各自400スム(約30円)を払う。レギスタン広場前で車から降り、夜のマドラサを見る。ライトアップされているが、光の量はかなりおさえめ。写真を撮ろうと思って絞りを最大に緩くしてもほとんど写らないほど暗い。

そこへどこから制服を着た警官が現れる。一緒に動いていたうちの二人が警官にミナレットに上れないかと交渉している。本来は禁止されているのだが、警備している警官にカネを払えば上れるらしいことはガイドブックに書いてあったので知っていた。

交渉は彼らにまかせる。結局ミナレットに登るなら一人3000スム(約200円)だかを払えというので、それは高いと拒否。ただ、マドラサの中に入るだけなら一人500スム(約30円)でいいというので、マドラサの中に入ることにする。警官はいくつかの日本語を知っていて、それをときおり発する。

警官はマドラサの入り口の鍵を開けて、照明をいくつか付ける。夜は夜でなかなか雰囲気がある。また警官は英語を解したので、マドラサの一角には偉人達の銅像が展示されていて、それを指さしながらこれはそれぞれの名前を言う。その銅像のコーナーは昼間は立ち入り禁止でもちろん銅像にも触れないのだが、警官は自らそこに踏み入り、銅像にもたれかかってみせる。一緒にいた女子学生は、「えー、そんなことしていいの?」と苦笑。

というわけで、ここで警官も交えて記念撮影。

そうしてマドラサを出る。さてカネを払おうかとなったとき、警官は一人500スムと言っていたのを突然5000スム(約350円)だと言い出す。みんなでブーイングとなり、一人500スムずつを渡そうとするが、彼は結局何も受け取らず。しかも、これは良くないことだ、などと言い出す。まったくわけがわからん。

歩いて宿に戻り、晩飯。今晩は宿の飯は食べないつもりだったが、ポロウ(炊き込みご飯的なもの)がうまそうだったので、食べる。が、これが失敗。味は良かったがご飯が芯が残っていていまいちだった。付け足しとして緑大根の短冊切り(だっけ?)が出る。ぼくのものは辛みはなかったが、女子学生のものは辛み大根並みに辛かった。「辛い、辛い」と言っていたら同じくティールームにいた台湾人のYさんが不思議そうに見るので、彼女にも食べさせるが、なんともないと言う。そして、きっと私と日本人では味覚が違うのだと言う。が、たまたま彼女が食べた部分が辛くなかったというだけではないかという疑念が消えず、何度か食べてもらうが何ともないという。不思議だ。

フランス人カップルもその場にいて、参加するが大根は不発。

食後はまたおしゃべり。

台湾人のYさんは歴史教師(高校で歴史を教えている)らしく、フランス人カップルにフランスの歴史教育について尋ねる。言葉は英語にて。

ぼくはそれを脇で聞いていたのだが、フランス人カップルによればフランスでは高校までの歴史ではもっぱらフランスの歴史を中心としたヨーロッパの歴史(植民地も含む)を学ぶだけでアジアのことについては、まったくと言っていいほどやらないらしい。これにはYさんもぼくも驚く。

Yさんによれば台湾も日本と同じく、自国(中国を含む)の歴史はもちろん、ヨーロッパなど全世界の歴史を学校で学ぶらしい。細かいことは聞いていないのでおそらくアフリカや中南米はそこまでやらないのではと想像するが、少なくともヨーロッパの歴史については日本と同じようにやるらしい。だから、あまりに範囲が広すぎて嫌になる学生が多いと彼女は付け加える。

フランス人カップルの女性の方は、大学で歴史を専攻していたらしいのだが、彼女が研究していたのはアラブ世界の歴史や労働者の歴史(社会史)など4つのテーマに沿った歴史がメインでアジアの歴史についてはやっていないと言う。

当然、中央アジアのこともやらないので、地理的にも中央アジアにどんな国があるのか知らない人は多いらしい。フランス人の彼の話では、彼が旅に出る前、友人だか知人だかに中央アジアに行ってくると言うと、その人は”じゃあ、タイとかベトナムに行くんだな”といった反応だったらしい。まぁ、これは日本も似たようなものかもしれないけど、でも国名はわからなくてもだいたいの位置はわかりそう。

またYさんはフランスの試験などについて尋ねる。フランス人カップルによれば、歴史の試験では何年に何が起きたかとか、○○年に起きた○○について説明せよ、といった具合の質問が多いらしい。彼女が付け加えて言うには、日本の試験と同じように細かい年代や人物名などを教えるばかりで、例えばその時代をどう思うかとか、当時の人のライフスタイルなどについては一切教わらないらしい。

それを聞いてYさんは、自分はヨーロッパの教育はもっとクリエイティブで自由(free)なものだと思っていたと言う。それを聞いてフランス人の二人は「Why?」と苦笑いしながら聞き返す。まぁ、ヨーロッパと一口で言ってもいろいろだし、フランスはまた独特だし、どちらかと言えば、Yさんのイメージに合うのは北欧の国々の教育の方だろう。

ちなみに台湾の状況についてフランス人が尋ねると、彼女は、今は各種ゲームとかがあって子ども達は勉強よりもそっちに一生懸命で、授業中寝ていたり、落ち着かなかったりして、非常に授業はしにくいと言う。これについてはフランスも同じだと二人は言う。日本とも同じだろう。

また社会福祉の話になり、Yさんはヨーロッパは福祉が充実していると聞いてるがどうか、というようなことを聞く。フランス人カップルは、以前はそうだったが、今は違うという。シラク以後、またサルコジに至っては、いろんな社会福祉策を切りまくって、以前よりも状況は悪くなっているという。二人は厳しくサルコジについて批判し、彼の方は国民はみんな頭にきているから、そのうちフランスではなんらかの行動を起こすだろう(※彼が言った正確な英語を覚えていないので言い回しは違っているかもしれないが、意味合いとしてはこういうことを彼は言った)と言う。

何かが起こるだろうと言う彼の言葉に、ぼくは日本とフランスとの違いを強烈に感じずにはいられなかった。ひどい状況は日本も同じだが、国民の多くが困窮して頭にきているからなんらかの変化を起こす(!)だろう、なんて思っている日本人はほとんどいないのではないか。と、ふと思う。

フランスに留学していた友人からも聞いたが、フランスでは本当にしばしばストライキが起こり、交通機関が麻痺したりするらしい。そうした文化が根付いているからこそ、政治がダメなときには、それに頭に来ている人がいれば、そうした人が立ち上がるだろうと確信を持って言えるのではないか。

フランス人カップルは、”ぼくらはシンプルな暮らしがしたいだけで、そんなに多くの物はいらない。ただ、今の社会はたくさんの物を作り、消費させるために、たくさん働かないといけないような仕組みになっている。地球には限界があるのだし、こんな暮らしは長く続かないだろう(※これも意訳)”というようなことを言う。

ぼくは彼らが「simple life」と言うのを聞いて、その暮らしの様子が想像できたが、Yさんはそれが想像できないようで「simple life」の「simple」はどういうことか尋ねる。彼らの説明はぼくの想像通りのものだった。日本でそういう系統の雑誌が打ち出しているライフスタイルと同じ。

フランス人カップルが日本はどんな状況なんだと話を振ってくるので、同英語で説明しようかと思案した後、でたらめ英語で回答。

自動車を買わない若者達の話とそれに対する自動車会社の反応、また出世を望まない若者たちの例を挙げ、具体的な部分は違うと思うけれども、どちらかと言えばシンプルライフ指向が強くなっているように思うと説明。しかし、政治を変えたり、経済システムを変えたりする取り組みが活発にならない(また功を奏していない)ため、なかなか変わらないというのが現状だろうとも説明する。

だいたい意図は通じたようで、フランスも似たようなところがあるという反応を得る。

まぁ、そんな話をあれこれしているうちに23時を過ぎたのでお開き。

部屋に戻って明日の出発の準備をしてから寝る。

Fin

[diary]ブハラからサマルカンドへ

ブハラからサマルカンドへ

2009/01/24(土) 曇り、晴れ 日中10℃前後
[Buhkara→Samarqand:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1540スム(ブハラの闇両替で)

・鉄道でサマルカンドへ
・車両内で警官から賄賂要求
・歴史博物館で闇商売
・サマルカンドのマドラサ
・バザールで

1時頃に目が覚めたので、そのまま明け方まで書き物。

6時をすぎて宿を出る準備をして、6時半の朝食に備える。

時間通り6時半ちょっと前に宿の人が朝食を持ってぼくの部屋のドアをノックする。今日も一緒に移動する台湾人のYさんと同じ部屋で朝食。彼女は昨晩も部屋が暑すぎて何度も夜中に目が覚め、よく眠れなかったらしい。

7時に宿をでる。宿の人が鉄道駅行きのマルシュールトカ(乗り合いワゴンバス)乗り場まで連れていってくれる。外はまだまだ真っ暗。朝食時にチャイを飲んだおかげでたいして寒くないが、気温は4度程度のよう。

歩いて10分ほどでラビハウズ近くのマルシュールトカ乗り場に到着。予想通りまだこの時間ではマルシュールトカはほとんど走っていなかった。数台のマルシュールトカが止まっているが、すべて違うルート。宿の人に客待ちしているタクシーの運転手が話しかけ、客を自分によこせと言っている。

しばらく待つ。その間に宿の人にタクシーのことを聞く。こちらのタクシーはたいてい運転手が自分で車を購入し、国から許可をもらって営業を始めるらしい。ウズベキスタンでも自動車は生産していて、軽自動車が1500米ドルほどするらしい。自動車会社は韓国との合併企業で東部のアンディジャンあたりに工場があるらしい。

結局、7時20分になってもマルシュールトカが来なかったので、タクシーを使うことにする。マルシュールトカだと500スム(約35円)だか、タクシーでは1人2000スム(約130円)。これはローカルプライスらしい。言い値は二人で5000スム(約350円)ほどだったが、宿の人が交渉して現地料金になった。

タクシーに乗ること20分ほど、駅に到着。駅舎はわりと最近改装されたようで、なかなか立派な建物。ちょっとした宗教建築的雰囲気を醸し出している。

駅舎の構造は単純でトンネルのごとく、入り口から入るとその先がホームにでる出口になっている。ホームに入る前にチケットのチェックがある。

1番手前のホームに止まっていた列車の通路を跨いで、向こう側のホームに出て、その向こうに停まっている列車に乗り込む。車両はシリアで乗った鉄道と同じタイプ。車両の真ん中を境に座席が向き合っていて、その真ん中の天井にはテレビが設置されている。車内は薄暗い。天井の蛍光灯は3本しか点灯していない。通路を挟んだ隣の席にはヌクスで同じ部屋だったカナダ人がいた。

列車は8時過ぎにほぼ予定通りに発車。テレビではドラマが始まる。

外はようやく明るくなるが、霧がかかっていてあまり遠くまでは見渡せない。

寝る。

しばらくして目を覚ます。車窓から民家が見えたので、それを写真に撮ると車両にいた警官に呼ばれる。そして連結部分の一室に連れて行かれる。

警官はパスポートを見せろと言う。素直に見せるとそれを見ながらビザの番号などを紙ぺらに書き写す。それからカメラがどうのというので、ぼくは警官の前でさっき撮った写真のデータを消す。

データを消せばおしまいだろうと思っていたが、おかしなことに警官はなぜか席を外していたYさんも呼ぶ。彼女はぼくの隣に座っていたが、ぼくが窓から写真を撮ったときには席を外していて、その場にはいなかった。にもかかわらず、警官は彼女を呼び、パスポートを見せろと言う。明らかにおかしい。

警官は彼女のビザ番号みたいなものを同じく紙ぺらに書き写す。そしてロシア語でいくつか質問をする。彼女がサマルカンドに行くと伝えると、警官はロシア語と仕草でサマルカンドで降りずにタシュケントまで連れていくと言い出す。彼女はロシア語がまったくできないので、警官がそう言っても、その意味を解さず、「イエス、イエス」と言う。

それから警官は何かを書く仕草をして、”二人で20米ドル”と言ってくる。どうも何かの文書を作成するから20米ドルよこせと言っているらしい。なぜか?と尋ねるが、答えを聞いてもロシア語がわからないので、わからない。Yさんも英語で何が問題なのかと聞いたりする。すると、なぜか警官はYさんにだけパスポートを返し、出ていって良いぞというような仕草をする。

そして彼はぼくに10米ドルよこせと言ってくる。「ニェート、ニェート」と答えると警官は”米ドルを持っていないのか”と聞いてくるので、”そうだ”と答えると彼は笑う。ぼくが加えて”10米ドルは大金だ”と言うと、また彼はにやっと笑って、ようやく諦め、パスポートを返してくる。そうして最後は握手してお別れ。ぼくは昨日買ったクルミとレーズンの入ったビニール袋を手に持っていたので、それを出して彼に勧めると彼はクルミを1粒取る。こうして解放される。所要時間は30分ほどか。

席に戻るとYさんがオカネを払ったのかと尋ねてくるので、「ノーノー」と答え、警官とのやりとりの中で彼女がおそらく理解していなかった部分について解説。その後、サマルカンドに着くまでは何もなかった。

11時。すばらしいことに到着予定時刻通りにサマルカンドに到着。駅のホームに降り、出口の方向をきちんと確認せずにホームを歩いていると、さっきの警官が出口は逆方向だと教えてくれる。良い人なのか悪い人なのかよくわからん。

カナダ人も含めて3人で駅舎を出る。駅を出たところに韓国人っぽい若い女性がいたのだが、その人はカナダ人の友達だった。Yさんが彼女に”あなたはウズベキスタン人に見えないけどどこの人?”と英語で尋ねると”自分はコリアンだ”と答える。

彼女が先導する形で駅舎から歩いてマルシュールトカ乗り場まで行く。そこでコリアンの彼女とカナダ人とはお別れ。軽ワゴンのマルシュールトカに乗り込み、市街地に向かう。

駅前にもちょっとしたバザールがあった。沿道には四角いコンクリートの建物。舗装されている車道は片道2車線あり、歩道を歩く人の多さや沿道の建物群から、けっこう大きなまちであることがわかる。

いかつい造りの大学の建物の前を通り、遊歩道に沿って車は走る。

30分ほどで終着のレギスタン広場に到着。着いた途端にタクシー運転手らしきおじさんたちがホテルの名前を聞いてくるが、ブハラでのことがあるので適当にやりすごし歩き始める。

博物館の脇を通り、レギスタン広場を横切る。ここの最大の見所であるレギスタン広場のマドラサ(神学校)の建物はこれまで見たものよりさらに大きく、デザインも鮮やかだった。

歩いていたら広場でぶらぶらしていた物乞いの少女たちが寄ってくる。口に手をやりながら何か食べ物をちょうだいといった仕草をするので、昨日ブハラのバザールで買ったリンゴなどをやる。13~15歳くらいであろう少女にはりんご1kgを、12歳前後に見える少女にはみかんを2つ、10歳前後に見える少女にはトマトときゅうりのピクルスをあげると、受け取ったらすぐに走り去っていった。なかなか元気がいい。

渡した後歩きながら少し振り返り、彼女らの様子を見ると、彼女らの母親らしい女性の元に集まり、さっそくみんなでリンゴをかじっていた。

そんなことをしながら歩いていたが、どうも地図上で自分が認識している現在地と地図の表記が違っていることを感じる。改めて地図を確認すると方向を間違っていた。戻る。

レギスタン広場にまた戻るとさっきの少女がまたやってきて、困ったような表情をして「ボンボン、ボンボン」と言いながら手を差し出してくる。「シトゥー、ボンボン?」と聞くと、どうも飴玉のことらしい。飴は持っていないのでないよと言うと、諦めて離れていった。

こっちだろうと思っていた道もまたどうも違うように感じ、沿道の店の人に行きたい通りを尋ねると教えてくれる。

そうして30分以上さまよったあげく、目的の宿に到着。目的の宿はマルシュールトカを降りた地点から見える範囲(おそらく200m内)にあった。

部屋代は1泊朝食付きシングルで10米ドル。部屋に荷物を置いた後、ティールームに案内されそこでチャイとクッキーをごちそうになる。その間、宿の人はパスポートをぼくらから預かり、レギストラーツィアを作成。

ティールームには誰かが持ってきたらしい2008年12月25日付の『中日新聞』と『日刊スポーツ』があったので、ぼくはそれらをぺらぺらとめくる。『中日新聞』の大きな記事は麻生内閣の予算内容と派遣切り。また情報ノートもあったので、それをめくる。たいして新しい情報はない。

パスポートとレギストラーツィアの紙をもらってから外に出る。まずはすぐ近くのウズベキスタン文化歴史芸術博物館へ。

いかにもソ連的な造りの建物。屋外には遊牧民が使っていたらしい移動式住居(モンゴルで言うゲル)が展示されている。

館内に入って入場チケットを買う。外国人は4200スム(約250円)。現地の人は500スムほど。高い!

1階の壁にはサマルカンドにある歴史的な建築物それぞれの修復前と修復後の写真がかけられていたので、それを見る。白黒の写真とカラー写真を見比べてみると、やはり修復以前はそうとうガタがきていたことがわかる。とても使えるような状態ではなかった様子だ。

2階が本格的な展示室になっていたので、そちらに行く。石器時代の掘り出し物やアレキサンダー大王、アラブやモンゴルなど各年代にまつわるものが展示されている。具体的には建物のタイルの一部や壁画、コーランの写本やコイン、剣、陶器などなど。

ある展示室では監視の女性たち4人が机を囲んで食事をしていた。食べているものは持参したものばかりのようで、小さな鍋に入ったままのジャガイモ料理や深い大きな丼にトマトを使った料理が盛られていたりする。

その中の一人のおばちゃんがこっちに来いというので、近くに行くと「スーベニール」と言って、手作り刺繍の携帯電話入れケースを見せてくる。そういうものには興味がないのでいらないと断るが、料理の方には興味があったので、それらの料理について聞くと、名前を教えてくれ、さらにそこに座って食べてみろと言う。

聞いてみたらやはりみなおばさんたちが自宅で作って持ってきた料理ばかり。お茶も出してくれ、パンとともにそれぞれの料理をいただく。どれもパンと一緒に食べるのには合う。

食べているとおばちゃんがまたさっきの携帯ケースを取り出して買わないかと言うので、”レーニンはないか?”とぼくが尋ねると、おばさんは机の下からソビエト時代のオカネを取り出して見せる。用意がいい。どうもこうして外国人観光客を捕まえてはここで商売しているらしい。

お札は数種類あった。ぼろぼろの1ルーブル紙幣はくずみたいなものだが、50ルーブル紙幣と100ルーブル紙幣にはレーニンの横顔があり、またソビエト連邦内の各国の名前をそれぞれの文字で書いてあり、かつ印刷された年が1991年とあったので、ほしくなる。聞くと1枚2米ドル。高い。

50も100もどっちもけっこうしわが多かったので、もっときれいなお札はないか尋ねると、おばさんはきれいな新品物の10ルーブル紙幣を見せてくれる。デザインはほとんど一緒でこれにもレーニンの横顔とグルジア文字やアルメニア文字が記載されている。こっちの値段を聞くと1枚1米ドルと言う。おばさんはきれいな10ルーブル紙幣を大量に持っていたので、なぜそんなに持っているのかと聞くと、ソ連時代に10ルーブル紙幣の束を自分の家で保管していた(いわゆるタンス預金だろう)が、ソ連が崩壊してしまったので使えなくなったと仕草混じりで教えてくれる。

米ドルではなくスムで払えるかと聞くと、オッケーだと言う。で、どれくらい買おうかと悩んでいると、おばさんは10ルーブル札の束(50枚以上あった)を数えて見せて、全部で5万スム(約3300円)でどうかと言ってくる。さすがにそんなにいらないから断る。1000円分相当(約15000スム)だけ買おうと札を選ぶ。

50と100ルーブル札、あときれいな10ルーブル札を6枚ほどで1万スム(約800円)でどうかと聞くと、10ルーブル札を10枚と今は使えない古いスムのお札やコインを付けて2万スム(約1300円)でどうかと言ってくる。2万も払う気はないので、首を横に振るとおばさんはきれいな10ルーブル札を2枚、しわの入った同額の札を5枚加えて、これはプレゼントだから、2万スムで、と畳みかけてくる。

結局、2万スムを払い、きれいな10ルーブル札12枚、しわの多い同札5枚、1991年発行の50と100ルーブル札各1枚、ぼろい1ルーブル札1枚、ぼろきれのような1スム札1枚、わりときれいめの5スム札2枚、それからスムのコインとルーブルのコインを10枚程度を買う。

そうしてから見学を再開。展示を見ていたら、札を売ってくれたおばさんが横に来て、”博物館の他の職員や警官に尋ねられても、問題になるからここで買ったということは言わないように”と言ってくる。

歴史の展示を見た後は、各地域の伝統的な服の展示などを見る。どこでもそうだが、やはり近代以前の方が人々の服の色は鮮やかだったよう。

それからレギスタン広場に行く。3つのマドラサ(神学校)などを見ることができる入場券を買う。外国人料金で6500スム(約430円)。後で聞いたが地元の人は500スムらしい。地元の人の10倍なんて、取りすぎだろ!

ちょうど空が晴れてきたので、それぞれの建物がきれいに見える。アラビア的な曲線美が目を引く。遠目にはとてもきれいに見えるけど、近くで見ると一部のタイルは貼がれていたりするし、けっこうぼろくなっているのが見て取れる。

ティッラカーリー・マドラサ内にあるモスクは内装に金箔がふんだんと使われ、天井は万華鏡を覗いたかのような金ぴかのデザイン。とてもきれいなので、これらは修復されたものなのだろう。

小学生くらいの子たちも先生らしき大人に連れられて見学に来ている。男の子二人が一緒に写真に写ってもらえないかとロシア語で聞いてくるので、一緒に写真に写る。

マドラサの内側の中庭に面した小部屋は土産物屋になっていた。1つの土産物屋に入ると絵はがきやガイドブック(日本語もあり)、剣などとともにシークレットボックス(と店の人は言った)と言う、ちょっとした細工がされてある名刺入れや箸箱のようなものが売っていた。この細工がなかなかおもしろい。が、20ドル近くしたので買わず。

レギスタン広場にあるそれらの建物を見た後、新市街の方に行く。いかにもソ連時代に建てましたという一昔前の外観の高層ホテルや政府関係施設があり、道路がまた広い。歩道も広いので歩く分には安全でいいのだが、全体的に閑散としている印象を受ける。

新市街の方にはたぶんここ数年のうちにリニューアルされたらしい商店が建ち並ぶ通りがあったり、デパートがあったりする。しかし、中南米やアフリカにもあったようないわゆるスーパーやショッピングセンター的な店は見あたらない。古い言葉で言えば”西側”の資本が入ってないからだろう。

歩いていたらバザールに行き着いたので寄る。バスケットコート2面分程度の小さなバザールで屋根付きで、タイル張りの陳列台も整備されている。物売りの人はたくさんいるが、客は少ない。数えられる程度。売られている物はヒヴァやブハラのバザールと同じ。食べ物が中心。オレンジと黄色の人参やじゃがいも、かぼちゃ、日本で言う辛み大根に似た緑色の小さな大根、紫色のカブ、じゃがいも色のカブ、ほうれん草などの葉物、トマト、りんご、ぶどう、みかん、米(短粒米)、小麦粉、チムチなど手作りの総菜(サラダ系)、ピクルス、ナッツ類、各種香辛料などなど。

見ていたら声をかけられる。どこから来たのかと尋ねられ、ヤポーニャと答えると「ヤポーニャ」と言いながら、その人は米を売っていた別の若い男を指さす。最初、どういう意味かわからなかったが、彼が日本語で話しかけてきてようやくその意図がわかる。

日本語を話す彼(ニックネームはサシャ)は現在27歳で既婚、子どもが1人いる。聞くとほんの3ヶ月前に日本からウズベキスタンに帰ってきたらしい。彼は日本にいる間に独学で日本語を勉強したとのこと。日本には3年ほどいて群馬県の大泉町で缶コーヒーの缶を作る仕事をしていたらしい。彼の兄2人(だったか)も日本で働いていて、すでに10年暮らしているらしい。彼らは日本人女性と結婚し、子どももいるらしい。大泉町はブラジル人が多いことで知られているが、彼の話ではウズベキスタン人もそれなりにいるらしい。ただ、最近15人ほどのウズベキスタン人がオーバーステイで警察に捕まってしまったという。

ぼくは日本で働けるという話をどこから仕入れたのか知りたかったのだが、うまく言葉が通じず。ビザのことを聞いたらウズベキスタン人にとっては日本のビザの入手は非常に難しいらしい。

彼の隣にやはり市場で働いている同年代くらいの男が2人寄ってきて、彼に何事かを問いかける。彼が通訳するところによれば、ぼくに日本とウズベキスタンとどっちがいいかと聞きたいらしい。

ぼくは日本は忙しすぎると答えると、サシャは「そうですね。」と言ってから「ここ(ウズベキスタン)は毎日が遊びみたい」と言う。

そんな話をしばらくしてからお別れ。バザールにある有料(200スム)のトイレによってから、またプラプラ歩く。ネット屋があったので、ここに寄る。1時間1000スム(約70円)。日本語は読めなかったので、写真のデータのバックアップだけやる。スピードはそこそこ早いが、何かをダウンロードにするは遅い。

絵はがきを書いたかったのだが、売っている店が見あたらなかったため、またレギスタン広場のマドラサに行き、そこの土産物屋に行こうとしたが、マドラサ似着いた17時にはもう閉まっていた。

風がやや強くふくようになり、袖口から手を出しているとすぐに冷たくなる。しかし、気温は5度程度。

17時をすぎるとすっかり店も閉まってきていたので、宿に戻ることにする。途中、近くにある食料雑貨点による。店にはいるとドア近くにきょうだいらしい子どもが3人いた。背丈から判断するに女の子が一番年上らしい。おそらく12歳くらい。他は男の子でいずれも10歳に満たないように見える。彼女らの服はだいぶ着るしているようで、ぼくのウィンドブレーカー同様汚れている。ぼくを見ると3人でこちらを見ながら話を始める。彼女らの前を通ったときに「サラーム」と声をかけるとみな「サラーム」と返してくれる。

そのすぐ後、店の親父が彼女らに強い口調でなにをか言う。すると3人は店から出ていってしまった。おそらく店の人は出て行けと行ったのだろう。服の状態すればおそらく物乞いの子たち。親らしき人はいなかったが、ストリートチルドレンかどうかはわからない。

その店でちょっとした買い物をして外に出たときには、辺りを見回しても彼女らの姿は見えなかった。

18時近くになり、辺りは暗くなってきたので宿に戻る。

宿のティールームで宿の人が出してくれたチャイを飲みながら読み物をしていると、ヒヴァとブハラであった日本人旅行者(大学生)女二人組と、やはりブハラで会った日本人旅行者(大学生)男一人に再会。みなここに泊まっているという。

ぼくは晩飯を宿に頼んでいたので夕食。夕食はラグマン。これで3回目。ここのラグマンは麺の芯の部分が管のように穴が開いて歯ごたえもやわい。パスタか何かを使っているのかと思ったが、宿の人には確認せず。具は四角く切った人参などと角切りの牛肉。スープはあっさりしている。

飯を食いながら、また飯を食った後もそこでおしゃべり。フランス人カップルもいたので、彼らも含め7人(日本人4人、台湾人1人、フランス人2人)でのおしゃべりとなった。めいめい日本語、英語、ロシア語、中国語、仏語でのおしゃべり。

フランス人カップルもまたブハラで食事をしたレストランで見かけていたので、結局、ぼくにとってはすべての人が2度目、3度目だった。

フランス人カップルは1年程度の予定で旅行をしており、現在7ヶ月目。ロシアから始まり、カザフスタン、キルギスと来て、ここらしい。翌日聞いてわかったことだが、中国にも入ろうとしたが彼らが連れている犬2匹の入国を拒否されたためやめたらしい。

言葉の話になり、日本人側の3人がフランス人カップルに簡単なフランス語を学ぶ。日本人側は鼻音がなかなか発音できない。

また台湾人の彼女は、自分がフランスに行ったときの経験も交え、フランス人は英語を話さないと言われているが、本当かと尋ねる。彼はよくそういう質問をされるが、自分としては必ずしもそうではないと思っていると答える。自分のように英語で話しかけられれば英語で答える人はいる。ただ、たまにナショナリスティックな人に出会うとそういうことが起こるといったことを言う。

また彼と旅行に出る前何をしていたのかという話になる。互いに仕事を辞めて旅に出てきたという点は同じ。彼は、なぜ旅をするために仕事を辞めないといけないのか(辞めざるをえないのか)ということを旅行中に会った現地の人(おそらく入管などでのことも含まれていると思われる)に説明するのは難しいと言う。説明してもなかなか理解されないらしい。ぼくは学生で通しているので、彼と同じような経験はしていないが、そうであろうことは容易に想像できるし、そもそもそうした面倒を回避するために学生と称している。

彼はフランスでは高所(建築物の屋根や外壁、塔のような建物)での各種作業をする仕事をしていたらしい。しかし、いつ仕事が入り、どこでその仕事があるのかもわからず、使い回されるのであまりおもしろくなかったよう。彼はその生活を「stupid life」と言っていた。

日本人の女子学生らになぜウズベキスタンに来たのかと尋ねると、1人の方がデザインに関心があって、テレビでブハラやサマルカンドの映像を見て実物を自分の目で見たいとずっと思っていたらしい。そこで相方の彼女に3週間ほど前に一緒に行かないか尋ねたところ行くということになり、2人でやってきたということらしい。

卒業旅行はまた別にあるそうで、一人の方はこのたびから帰国後2日後に今度はフランスとドイツに行くらしい。

日本人男子学生旅行者は、日本の大学を休学して中国の新彊に留学していたのだが、それが終わったので、一緒に勉強していた中央アジア出身の友達などを頼り、こうして旅行していると言う。彼は帰国後就職活動に入るということで、彼女らから就活話を熱心に聞いている。ぼく自身もまともに就活をしたことがないので、彼女らの話は興味深い。基本的にぼくの卒業時と就活のやり方は変わっていないようだが、内定取り消しなどの話はあるが、やっぱり就職率はぼくのときと比べだいぶ良かったよう。

23時頃までそうしておしゃべりをしてから解散。あとは部屋で寝る。シャワーを浴びようと思ったがお湯が出ないので中止。室内は暖房がよく聞いているので、まったく寒くない。

Fin

[diary]ブハラの1日

ブハラの1日

2009/01/23(金) 曇り、晴れ 15℃前後
[Buhkara:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1540スム(ブハラの闇両替で)

・闇両替
・鉄道の切符を求めて
・バザール
・旧市街、宝石バザール
・レーニンバッジ
・日本人と再会
・写真配り
・ダメなコピー
・宿にて夕食

[diary]ヒヴァからブハラへ

ヒヴァからブハラへ

2009/01/22(木) ホラズム地方は曇り&濃霧、ブハラ近辺は晴れ ブハラは15℃前後
[Xiva→Buhkara:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1500スム(ブハラの闇両替で)

・当てが外れたバス
・シェアタクシーでブハラへ
・日本人、台湾人でおしゃべり
・宿主との話から

7時過ぎに起床。もちろん外は暗い。室内は半袖でもいいくらい暖かい。外に出てみるが、今朝も気温はマイナスにはいっていないよう。

出る準備をしてから8時半に朝食。宿の人が2日前に焼いたというナン(パン。ピザ生地のように円形で平べったい)とジャムとチーズ、お菓子と半熟の目玉焼きと薄味のチャイ。

食事後、宿代を支払う。2泊分10米ドル(朝食付き、ドミ)と昨晩の夕食(パロウ)代5000スム(約3米ドル)。宿主からはこの2日間のレギストラーツィア(滞在証明のようなもの)をもらう。なぜこのタイミングなのかがわからない。

それからすぐに宿主と一緒にタクシー乗り場に行く。同宿の台湾人(以下、Yさん)もブハラに行くというので一緒にいく。

イチャン・カラ(旧市街)を歩いていると、宿主が”あれが自分の2つ目のゲストハウスです”と教えてくれる。ぼくらが泊まっていた建物と同じく土壁でぐるりと囲むようなスタイルの建物が指さした先に見える。

建物に掛かっている看板を見るとぼくらが泊まった宿と同じ名前になっている。同じ名前にしている理由を宿主は、”各種手続きが1回で済むから”と言う。つまり、客のレギストラーツィアなど対役所に必要な書類は、オーナーが同じでも宿の名前が違うとそれぞれで用意しないといけないらしい。その手間を省くために同じ名前にしていると言う。

イチャンカラの北の入り口であるバクチャ門近くまで来たとき、正面から軽乗用車がやってくる。宿主とは知り合いのようで、運転手は宿主にぼくらはどこに行くのだと尋ねる。宿主は運転手とウズベク語(おそらく)でざざっと話をし、ぼくらに英語で”1人3000スム(約220円)でウルゲンチまで行くと言っているがどうだ?”と聞いてくる。トロリーバスは400スム(約35円)だったので、それと比べると10倍近い。ただトロリーバスは時速おそらく20km程度とめちゃくちゃ遅いので使えない。

他に客を乗せずにすぐに出るし、ローカルプライスだというので、二人でこれに乗り込む。宿主とはお別れ。宿主は英語でお別れを言ったのだが、その中で”Big Salam for you and your family(ビッグなサラーム(平和、平安)があなたとあなたの家族にありますように)"と言っていたのが印象的。やっぱりイスラム圏なんだなとこういうところで感じる。

小さな軽乗用車は霧で煙る道をバンバン走る。9時を過ぎたところだったが、走る車は少ない。ときおりロバに荷車をひかせ、一緒に歩いているおじさんを見る。

9時半過ぎ、ヒヴァから30分足らずで乗り換え地点のウルゲンチに到着。運転手に運賃を払い、荷物を受け取り降りる。

バスターミナルはチケットを売っている屋内施設と屋外の駐車場があり、駐車場には数台の大型バスが泊まっていた。その南の通りは乗り合いタクシー乗り場になっていて、ぼくらはそこでタクシーから降りたから、あっと言う間に数人の乗り合いタクシーの運転手に囲まれる。

どこに行くのだと聞くのでブハラと答えると一人30米ドルだとまず言う。「ニェート、ニェート」と答えると25米ドルに落ちる。が、まだ高い。

バスの方が安かろうとバスに聞くとブハラまで25000スム(約1700円)もすると言う。おかしい。そんなにするわけがない。ターミナルの屋内施設内にある切符売り場で聞いたところ、こっちは10000スム(約700円)と言う。まぁ、その程度だろうと思ってこのバスのチケットを買おうと、出発時刻を聞いたら14時だと言う。午前中にはバスはないらしい。ガイドブックには1日数本のバスがあるとあったので、10時ぐらいのバスがあるだろうと踏んでいたが、当てが外れた。さすがに14時まで待っているとブハラ到着が夜の10時近くになるから、これは避けたい。

さっきのバスに戻り聞いてみるとこちらもやはり14時発。なんでそんな中途半端な時間に出るんだ、と思うが、そもそもタシュケント行きのバスで途中下車するかたちになるから、バスの方からすればブハラ到着の時刻はたいして重要でないのだろう。

ということで、乗り合いタクシーに乗ろうかと思い、またタクシー乗り場に行く。うち1台が15米ドルまで下がる。が、あーだ、こーだとやりとりしている様子を見ていたYさんはタクシーの運転手が信用できないと言い、やっぱりバスに乗ると言う。

それならば彼女に付き合うしかないなと思い、またバスターミナルに戻る。14時まで待つことにして、ターミナル内のベンチに腰をかけてガイドブックを開く。

しばらくするとタクシーの運転手が1人現れ、1人2万スム(約14000円)でどうだとぼくに言ってくる。ぼくは彼女に夜遅くなるとブハラのバスターミナルから町中に行くバスがなくなる(実際に行ってみるとそもそもそのルートにはバスがなかった)こともあるから、早くに出た方がいいなどと言って半ば説得し、結局、彼女が折れて乗り合いタクシーに乗って行くことにする。

運転手のおじさんに案内されて普通乗用車のタクシーに乗り込む。が、すぐには出ない。おじさんはもう一人客を捕まえるから待てというような仕草をする。

しばらくすると運転手と思っていたこのおじさんとは別のおじさんがやってきて、一人25米ドルですぐに出るってのでどうだと言ってくる。これは却下。さらにさっきのおじさんはもう一人と言っていたのに、このおじさんはもう二人だと言い出す。やれやれ。

それから待つこと1時間足らず。10時半頃になって一人の客が捕まった。見たところ50歳はすぎているおじさん。おじさんが乗り込んできたところで、さっきのおじさんが来て、これで出発するから一人25000スム(約1700円)でどうだと言ってくる。待つのも値切るのも面倒だったので、それで折れる。こうしてようやく出発。運転席に座ったのはさっきのおじさんではなく、まったく別の若い男の人だった。

濃霧の中を車は走る。建設中の橋を右手に見ながら凍結しているアムダリアをがたごとと渡る。向こう岸に着いてからは比較的まっすぐな道になる。路面は舗装されているもののだいぶぼろぼろになっているから、車がけっこう揺れる。運転も荒いので、ときおり前につんのめったり、後に引っ張られたりする。

検問を3つほど越えて、さらに走ると辺りは砂漠になる。トルクメニスタンのアシュガバードからキョーネウルゲンチに通ったカラクム砂漠と同じように平べったく、草がぼさぼさ生えている。

かなりスピードを出しているようだったので、速度メーターを覗いたら20km/hあたりを針がゆらゆらしていた。つまり、壊れていた。

検問所では運転手が身分証明書の提示を求められるばかりで乗客は特に求められることはなかった。

運転手はなぜかよくわからないが頻繁に停まる。わけがわからない。理由を聞こうにも聞いたところでロシア語がわからないから意味がない。

昼になっても昼飯休憩はなく、ちょっとだけたばこ休憩をした以外はひたすら走る。Yさんがナンとチムチ(キムチ)をヒヴァで買ってきていて、それを昼飯に分けてもらう。このチムチも唐辛子が使われているものの辛みはまったくと言っていいほどない。

霧でかすむ砂漠の中の一本道が続くので、いくらか寝てしまう。

気が付いたら霧が晴れ、辺りには農地が広がる景色になっていた。農地は耕されているだけで何も植わっていない。耕す作業は機械でしているらしく、掘り起こされ方が規則的。

沿道に見える家々は平屋の大きな(床面積
7~8m×4mくらいありそう)母屋に小さな小屋が1棟あるというスタイルが多い。小屋の屋根や母屋の軒先には藁(米か麦の藁)や綿花の藁(日本での蕎麦や米の刈り取りの仕方と同じで綿花も根本から刈り取り、実だけ後から取っている様子)がどさっと積まれている。家畜の餌用なのだろうか?

ウルゲンチを出てから5時間半後の16時前。中央分離帯にアラビア科学の偉人らしき人が描かれた看板を見る。古い書物から出てきたような絵柄の人物の後には天体望遠鏡みたいなものが見える。誰なのだろうかと思っていたら、運転手が後を振り返り「ブハラ!」と言う。ウルゲンチからは7~8時間かかると聞いていたので、17時くらいに着くかと予想していたのだが、それよりも1時間早く着いた。

しかし、バスターミナルでぼくらに話をしたおじさん(彼は客引専門だったのか?)はホテルまで連れていくからと言っていたのだが、運転手はバザール前の乗り合いタクシー乗り場に車を停める。運転手に中心部まで連れて行けと片言ロシア語で言っても「ニェート、ニェート」と日本語的に言えば”ハァ?なんで?”と聞き返すような雰囲気で答える。思わず舌打ちが出る。やはりぜんぜん引継ができていない。というか、最初からこういうつもりだったのだろう。

しょうがないので運転手に運賃2万5千スム(約1700円)を払い、タクシーを降りる。降りる手前からすでに別のタクシーの運転手がぼくらに寄ってきて、ブハラの中心部まで5000スム(約300円)と言ってくる。

ミニバスが見えたので、とりあえずタクシーは却下してそちらに行く。ミニバスに乗り込んで出発を待っていた客にロシア語で、このバスが中心部のラビハウズに行くかどうかを尋ねたところ、ここからはそこに行くバスはないと言われる。

しょうがないので、タクシーに乗ることにする。今度の運転手は4000スム(約250円)と言ってくる。1人あたりでは高いなと思い、2000にするよう言うと、彼は2人で4000スムだと言う。これは事前情報からノーマルプライス(と運転手は言う)だったので、これに乗る。

ホテルが集まっているラビハウズは車で行くとすぐ。10分もかからないくらいで着く。運転手に行きたい場所を告げていたのに、彼はそこに行かず、近くの別のところに着いてからその辺りの人に聞いて回る。任せていても時間がかかるばかりなので、ここでタクシーを降り、歩いて宿を探す。

タクシーを降りたら道ばたでお菓子などを売っていた一人のおばちゃんがやってきて、英語でどこのホテルを探しているのか、電話番号を教えてくれれば電話してあげる、と言ったことを言ってくる。無償の親切かと
思って宿名などを告げるが、Yさんが辺りにあった4~5軒の宿の値段をチェックしてみようと言い出したため、おばさんとはすぐにお別れ。後にこのおばさんは問題おばさんだということがわかる。

ラビハウズにすぐ近い宿2軒回ったところ、両方とも現在改装工事中。この時期は客が少ないため、改装工事をしているホテルが多いと聞いたが、その通りだった。2軒だけチェックしたが、どちらもシングル15米ドル(朝食付き)。値切ると朝食なしで10米ドル。部屋を見せてもらったが、なかなかすばらしい。テレビ、エアコン付き。調度品も日本で言うとビジネスホテルよりもこじゃれている。やっぱり観光客が多いところは違う。

それから当初予定していた宿に行く。ここはネットでは1泊5米ドルとあった。宿がある通りに入ると正面でふらふらしていた20代中くらいの細身の男性が英語で”ナンバー18を探しているのか”と尋ねてくる。宿の番地は18番。”そうだ”と答えると、”そこは自分のシスター(姉か妹かはわからない)がやっている宿だ”と言って案内してくれる。

さっきまでの旧市街の道はきれいに整備されていたのに、一歩出たここらはがたがた。両脇に並ぶ家は藁を漉き込んだ壁で囲まれている。通りすがりの10歳程度の男の子が「コンニチハ」と日本語で挨拶してくる。

宿に到着。ここは自宅の一部を改造した宿だった。案内された部屋は最近改装(あるいは増築?)された部分のようで内装がとてもきれい。灰色の絨毯が敷かれた床の上に肩幅くらいしかない細長いカラフルな布団が敷かれている。これが客室らしい。

値段については、シスターと話してくれということだったので、しばらくそのシスターを待つ。情報ノートと『ノンリープラネット』の中央アジア版あり。

しばらくすると女性が2人帰ってくる。一人が宿主の女性で、一人は彼女の妹でアメリカで勉強している学生らしい。2人とも英語はぺらぺらのよう。

値段を聞くと2人(Yさんと)同じ部屋に泊まるなら2泊で一人15米ドル朝食付きだが、別々だと1人10米ドル朝食付きとのこと。朝食抜きだと8米ドルと言う。別々の部屋でということでお願いし、荷物を置いて外に出る。

時刻は17時前。まだ明るい。スムがほとんどなくなってしまったので、両替しようとラビハウズ近くの両替所に行ったらすでに閉店。向かいの路上でガイドブックや靴下など土産物品を売っていた人が、もし必要なら知り合いに頼んで両替してもいいが、どうするかと聞いてくる。レートを聞くと1米ドル=1500スム。これまでの闇両替は銀行とほぼ変わらないところばっかりだったが、ここはきちんと闇らしく銀行よりレートが良い。

なので頼んでみたが、相手の都合がつかないようでまた明日ということになり、結局、両替できず。

連絡を取るべきことがあったので近くのネット屋に行き、メールチェック。写真のデータのバックアップをしようとしたが、USBが反応せずできず。料金は1時間1000スム(約70円)。ヒヴァの半額。

その後、歩いていたらYさんと日本人男子旅行者と遭遇。晩飯のことを尋ねると、じゃあ食べに行きましょうかということになり、食堂へ。つい30分ほど前は開いていた食堂はすでに閉店。まだ19時前なんだけどね、ヒヴァと同じで閉店時刻が早い。

1軒開いているところがあったのでそこへ行く。ここの主のおじさんはなかなかフレンドリーというか陽気な人で、「マントゥ、ラグマン、パロウ・・・」と料理名を言った後で「テヅクリ(手作り。音としてはテジュクリと聞こえる」と日本語で付け足す。

パロウ(ピラフみたいなの)の値段を聞くと”アメリカ人だと5000スムだが、日本人なら3500スムだ"とテンション高く答える。ラグマン(麺料理)が2000(約130円)と安かったのでそれを頼む。

日本人男子の彼は中国の新彊に1年留学していて、それが終わったので今中央アジアを見て回っているらしい。日本の大学は現在休学中で専攻は東洋史。新彊の歴史を研究しているらしい。中国に1年いたということで中国語はぺらぺら。なので、ぼくら3人の会話は次のような状態だった。ぼくと台湾人のYさんは英語で話し、ぼくと彼はもちろん日本語で話し、彼とYさんは中国語で話すという、なかなかよろしい三角関係。彼だけは双方の話がわかるが、ぼくとYさんはどちらかしかわからない。

彼が中央アジアをまわっているのは、新彊の学校で一緒に勉強していた人に中央アジアから来ている人が多かったからというのもあるらしい。特にカザフスタンから来ている人が多かったという。ただ彼らは勉強というよりも仕事で来ており、あまり勉強せずに夜中でも騒いだりするため、ちょっとした問題の種だったりするらしい。これは中国で現在日本語を教えている人から聞いた話と同じ。

そうしたカザフスタンからの留学生は年齢も16歳から20代と若く、中国で物を仕入れて物価の高いカザフスタンで売って儲けているらしい。彼はここに来る前にカザフスタンにいったらしいのが、ホテル代が日本並だったので驚いたという。

また彼はウズベク語もしゃべっていたので、聞いたら留学中にウイグル語も勉強していたらしく、そのウイグル語とウズベク語は近いため、だいたいわかるらしい。

ラグマンはぼくがトルクメニスタンのキョーネウルゲンチで食べたものとは違って、麺が細くなり、スープも澄んでいない濃いめ。でも、なかなかうまい。麺にもっとコシがあるともっと日本の物に近くなる。

彼らとは外国語話(英語は簡単か?、ロシア語の音がいい、etc)や東アジア人を見分けられるか話、台湾・中国と日本の習慣(たとえば中国でも台湾でも「いただきます」も「ごちそうさま」も言わないらしい)についてなどなど話す。

20時を過ぎたところでお開き。会計を頼むとなんとサービス料として代金の1割を追加請求される。まさかウズベキスタンでサービス料とは、と驚く。

店を出ようかとしたら別のテーブルに座っていた10人ほどの地元の男グループに捕まる。どこから来たのかなどと聞かれ、ウォッカを勧められる。名前を聞かれたときに「ジュモンだ」と答えると意外にウケる。驚いたのは彼らのテーブルにあったのが生魚だったこと。食べなかったので本当に生なのか、それとも酢でシメられていたりするのかわからなかったが、見た目は生。しかもイクラ(卵)付き。一緒に飲むよう誘われるが辞去して宿へ。

宿に戻ってからはちょっと宿主とおしゃべり。会話は英語にて。彼女に警官の給料を聞くと月300米ドルらしい。この給料はウズベキスタンではめちゃくちゃいいらしい。教師や医者でも月100米ドルが相場と言う。警官になるには180cm以上の身長があり、警察試験をパスしなければいけないらしいが、身長が170cm程度でもカネを500米ドルほど積めばなれるらしい。

彼女も警官からの賄賂攻撃を目撃したことがあるらしく、タシュケントなどの警官はダメだといったことを言う。そして警官に賄賂を要求されたらボスを呼べと言い、かつ要求してきた本人の名前を聞き、彼の写真を撮ったりすれば、警官は賄賂要求を引っ込めると教えてくれる。

その他、ウズベキスタンの物価は上昇中で、1年半ほど前までと比べると米やガソリンの値段が2倍以上に上がっているという。

しばらくそうしたおしゃべりをして22時頃におひらき。

その後、自分の部屋に行き、今後のルートをどうするか考える。迷う。カザフスタン内や中国内のルート。それぞれにどれくらい滞在するか。持参した世界地図とガイドブックを見ながら考えるが、ここと日本の間にある地域だけでもゆっくり回っていたら半年はかかりそう。中国はでかすぎ、かつ面白そうなところがありすぎだ。

結局のところはいくつかのルート候補を考えただけで結論はでず。もう少し情報を集めないと決められないなぁ。というわけで寝る。

Fin

[diary]ヒヴァでの1日

ヒヴァでの1日

2009/01/21(水) 曇り、霧 日中5℃前後
[Xiva:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1400スム(銀行のレートは①米ドル=1402スム)

・ヒヴァのバザール
・博物館巡り
・シュウト・アシュを食べられず
・写真配り
・日本人観光客との会話
・宿主との会話

[diary]モイナックに行きそびれる。ヒヴァへ。

モイナックに行きそびれる。ヒヴァへ。

2009/01/20(火) 曇り、霧 日中10度近く
[Nukus→Xiva:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1400スム(銀行のレートは1米ドル=1402スム)

・モイナックのバスを逃す
・バスターミナルの親切なおじさん
・バスでビーリーニへ
・ビールーニーからウルゲンチへ
・ウルゲンチからヒヴァへ
・暗い

ヌクスの宿。長袖Tシャツにゆるい長いズボンというラフな格好で寝ていたにも関わらず、暖房が効きすぎているため暑くて夜中に目が覚める。同室のオーストラリア人は上半身裸で寝ていた。

6時過ぎ、目が覚める。同室のオーストラリア人がごそごそと出発の準備をしている。彼は今日モイナックに行くと言っていた。ぼくもモイナックに行くつもりだったが、なぜかもう少しのんびりしたい気分だったため、彼とは一緒に出ずに見送る。

7時過ぎ、のんびりとおきだして、荷造りをして部屋を出る。この宿は朝飯付きだったが、結局食わずじまい。

歩いて大通りのバス乗り場に向かう。そこからアフトバグザール(バスターミナル)と行き先を書いたミニバンのマルシュルートカに乗り込む。

20分ほどで終点のアフトバグザールに到着。リュックを背負って降りてみたが、どうもアフトバグザールというには小さいただの駐車場。確かにそこには数台の大型のバンが止まっていたのだが、それにしても数が少ない。客引きしているおじさんたちにモイナックに行きたいのだがとロシア語で伝えると、ここじゃないと言われる。どうもこことは別にもう一つバスターミナルがあるらしく、モイナック行きのバスはそこから出ているというようなことを言う。

なので、またマルシュルートカに乗る。結局、さっきマルシュルートカに乗った地点、つまり中央バザールまで戻ることになり、その近くから出ているマルシュルートカに乗り換える。
客が集まるまで少し待たされる。こちらはちょっと急いでいるのだが、タクシーを使う気にはなれないので、車内で待つ。

15分ほど待たされた後、ようやく出発。車は郊外の方へ向かって走る。さっきとはぜんぜん違う方向だった。

バスターミナルには20分程度で到着。時刻は8時50分。結局ここまで来るのに1時間くらいかかってしまった。昨日、きちんとバスターミナルの下調べをしていればこんなことはなかったのだろうが、そんなことを思っても後の祭り。

大型のバスが一台止まっていたので、車内にいた運転手らしき人にモイナックに行くか聞くが、このバスは違うと言われる。他の人に聞いてみてわかったが、モイナックのバスはすでに出てしまったらしい。タクシーの運転手が50米ドルでモイナックまで行くがどうだ、と言ってくる。そんなの高すぎるので却下。また別のタクシーの運転手がバスに追いついてやるから乗れと言ってくるが、これも信用できないので却下。

ガイドブックにはモイナック行きのバスは9時発と11時発があるとあったので、11時発でいいかと思いなおす。外はけっこう冷えたので、バスターミナルの建物の中に入る。だだっ広いフロアの端の方にチケット売場の窓口があったので、そこに行ってモイナック行きを確認。すると次のモイナック行きのバスは14時だと言われる。ここからモイナックまでは4時間ほどかかるらしいので、それでは現地着が暗くなってからになってしまう。予定では今日の明るいうちに着いて、ざっとまちやアラル海を見て回り、明日の午前中のバスでヒヴァなどに行くつもりだったが、14時発のバスに乗るとなればそういうふうにはできない。現地に最低2泊はしないといけなくなる。

しばし考え込んでしまう。ガイドブックを見たり、チケット売場の横に貼られている各地へのバスの時刻表と運賃表を見ながらどうするか考える。

結局、しばらく思案した結果、モイナックはやめ、ヒヴァに移動するすることにする。ただヒヴァに直接行くバスはないため、ここからはら途中のまちまで行って乗り換えということになる。

ぼくがターミナル内をうろうろしている様子を見ていたおじさんが話しかけてきて、どこに行くのかと聞いてきたのでヒヴァに行きたいと言うと、ビールーニーというところで乗り換えて行くのがいいと教えてくれる。そして、そのバスは12時発だからそれがターミナルに入ってきたら教えてやるとも。

というわけで乗るバスは決まった。だが、発車の時刻までまだ2時間以上あったので、しばらく建物内のベンチに腰掛け本でも読むことにする。読むのは、イランのテヘランで同じ宿だった日本人にもらった『動乱の中央アジア』(朝日文庫)という本。19世紀後半の中央アジアがテーマでなかなか興味深い。

本を読んでいると通りがかりのおじさんが話しかけてきて、どこから来たのか、どこに行くのだ、この本はどう読むのだ(右から左?左から右?上から下?)などと話しかけてくる。

室内には一応暖房設備があるもののこの容積を温めるには不十分なようで、だんだんと本を持つ手がかじかんでくる。暖房施設はこちらでは一般的なお湯をパイプに通して温めるというもので、そのパイプがベンチのすぐ後ろにあった。手が冷たくなるとパイプに手を乗せ温める。それを交互に繰り返す。

そうして時間をつぶし、ようやく12時前になる。おじさんがぼくを呼びに来て、バスに乗るようにいう。なので、リュックを背負ってバスまで行き、荷台にバスを詰めこみ、座席を確保する。バスはおそらく40年くらいは使われているのではないかと思われるようなおんぼろバス。

すぐには発車しないようだったので、ターミナルの入り口で菓子を売っている屋台に行き、チョコレートを買う。有名なものでたとえばスニッカー(だっけ?)タイプのチョコでお値段500スム(約30円)。食べてみるとこれが歯が折れるかと思えるくらいに固い。キャラメル的な層もあるみたいだったので、それが外でずっと冷やされていたことでキンキンに固まっていたよう。

バスは12時10分頃、発車。運賃は後払いらしく、すぐには徴収されず。運賃は2500スム(約170円)。

トルクメニスタンにはまったくと言っていいほど雪がなかったが、さすがにウズベキスタンにはたくさん積もっているだろうと想像していたのだが、これがまたまったくと言っていいほど雪がない。道路の両脇にはだだっ広い農地や平原ばかりが見える。やっぱり山がないと雪は降らないのだろうか、と素朴なことを思う。

時々沿道に集落が現れる。たいていの家は煉瓦を積み上げ上からコンクリートを塗ったような壁にトタン的な屋根の平屋が多い。またどの家にも納屋のような小さな建物があり、その屋根に大量のわらを積み上げていたりする。また屋根の上でなくとも敷地内の一角に藁を積んでいる家も多い。家畜用なのだろう。

バスの車内は十分に暖かいので、しばし寝ることあり。

14時過ぎ、ビールーニーのバスターミナルに到着。バスが到着したすぐ近くがウルゲンチ行きの乗り合いタクシー乗り場だった。降りる際にバスの添乗員の兄ちゃんに聞いたらそこと教えてくれたので、すぐにわかる。

乗り合いタクシー乗り場に行って、適当に車を決める。客が他にいないため、しばらくここでも待つ羽目になる。車が止まっている通りには食堂やサモサ屋があったので、昼飯がてらサモサを買って食べる。具が少ない。

結局、ここでは1時間ほど待たされる。15時過ぎに車は出発。ちなみに車種は軽ワゴン。途中で何人か客を乗せる。そのうち一人のおばちゃんが、あれこれロシア語で聞いてくる。化粧が濃い。こっちの人にしては年齢のわりに細身。腕をつかんできたり、話しながらぼくの膝を叩いたりするので、そういうのに慣れている人なのかと思いきやおばさんは自分の写真をかばんの取りだして見せてくれる。写真のおばさんは着飾っていて、後ろに座っていたおじさんがその写真を指さしながら、おばさんは歌手だと言い、加えてぼくに「クラシーヴァ(きれいだろ)?」と聞いてくる。「ダー(はいはい)」と答える。ただ、プロかどうかはわからず。

おじさんとおばさん、それに運転手のおじさんらは、ぼくをネタにいろいろと盛り上がっているふうなのだが、当然言葉がわからないので、何を話題にしているのかはわからず。おじさんがおばさんの写真を撮ったらどうかと言うので、記念撮影で1枚撮る。

車は途中、架け代え工事中の橋を渡る。橋の下の川はアムダリア。中学の時だったか地理で習った名前だ。川はほとんど凍っていた。

民家を見ながら走ること20分ほど、だんだんと四角いコンクリートの建物が増えてきてウルゲンチの市街地に入ってきたことがわかる。乗っていた客が一人、二人と降りていく。

運転手にはヒヴァに行くと伝えてあった。彼がトロリーバスで行くのかと言うので、そうだと答える。できれば乗り合いタクシーで行こうかと思っていたが、もうどっちでも良かった。ガイドブックによれば、乗り合いタクシーであればウルゲンチからヒヴァまで30分ほどだが、トロリーバスでは1時間半ほどかかるとあった。暗くなってからの宿探しは面倒だから乗り合いタクシーでと思っていたのだが、トロリーバスの方が安いし、まだ明るかったのでトロリーバスで行くことにする。

運転手はトロリーバス乗り場近くで車を止め、ちょうど停まっていたトロリーバスに乗れと言う。荷物をおろすのにちと手間取ったので間に合わないかと思ったが、運転手がクラクションを鳴らして、トロリーバスに待つよう合図する。

バスに乗り込む。このトロリーバスも他と同様車体はかなり古い。錆が目立つ。車内はなかなかの混雑ぶり。隣の人と触れそうなくらい。リュックを背負い、小型リュックを抱え乗り込んだところ、椅子に座っていた50代くらいの女性が小型リュックを指さし、自分の膝に預かるからよこせというようなことをいう。吊革を握りつつその荷物を持っているのはちょっと面倒だったので、その女性に小型リュックを預かってもらう。

ガイドブックにあったとおりトロリーバスはとろかった。時速15kmも出ていない。絶対自転車の方が早い。

運賃は徴収係がやってきたときに払った。運賃400スム(約30円)。

40分ほどたった頃だろうか、ようやく車内に隙間ができる。なので、リュックを背からおろし、端っこに立てかける。しばらくすると座席も空いたので座る。荷物を持ってくれているおばさんの方を見ると、そのまま座っていればいいからというような仕草をする。

いよいよ客が少なくなったときにおばさんから荷物を返してもらう。おばさんはロシア語でツーリストかと訪ねてくるので、そうだと言うと、どこに泊まるのかと聞いてくる。それでヒヴァのイチャンカラ(城壁内)に泊まると伝えると、その近くに来たときここで降りるように促す。

おばさんは付いて来るよう合図をする。もしかしてどこかのホテルの人かと思ったが、どこの宿に泊まるのかと聞いてきたので、泊まる予定をしていた宿の名前を告げる。

城壁の門をくぐり、イチャンカラ内に入る。道路などはアスファルトで舗装されていたが、それなりの雰囲気がある。城壁外のように道はだだっ広くないし、まっすぐでもない。道はやや入り組んでいてアラブの旧市街的だった。

道ばたで遊んでいた子どもたちがこちらを見ていたので、サラームと声をかけると、子どもたちもサラームと返してくれる。

一人でならばおそらくもっとどちらの道を行けばいいかと躊躇しつつ歩くことになっていたであろうが、おばさんがするすると歩いていくので、簡単に目的のホテルにたどり着く。アフリカならば、ここで道案内料を請求されたりする。もしやおばちゃんもそうしたものを請求するのではないかと予想していたのだが、おばちゃんは宿主を呼びだすとすぐにどっかへ行ってしまった。あまりにあっさりとどっかへ行ってしまったので、逆に驚く。

宿主の男性は英語ができたので、英語でやりとりする。宿泊代は朝食付きで10米ドル。部屋はドミトリー。ただ今、その部屋に泊まっている人が鍵を持って外出しているため、部屋に入れるのはその人が帰ってきてからだと言う。

玄関で靴を脱ぎ、あがる。あがったところが居間のようなスペースになっていて、大きなテーブルの周りに座布団のようなものが敷かれ、くつろげるようになっている。宿主はすぐにお茶を出してくれる。パスポートを彼に渡し、彼はもろもろの情報を書き写す。

そうした手続きをしているときに、同室になるらしい宿泊客が帰ってくる。その人は台湾人の女性で、今日の昼ぐらいにここに着いたらしい。

部屋に荷物を移動させ、ぼくは外に出る。すぐ近くにミナレット(円柱型の塔)があった。城壁の門をくぐり、外に出る。晩飯でも食べようかと思っていたのだが、あたりは真っ暗で食堂らしき店もまったく見あたらなかった。小さな売店があったもののちょっとしたお菓子を売っているだけ。まだ18時を過ぎたばかりだし、観光地だから食堂の1つくらい開いているだろうと思っていたのだが、すっかり見込みは外れた。

しょうがないので通りがかりのおばちゃんに近くに商店はないかと訪ねると案内してくれる。街灯のない暗い未舗装の道をおばさんは慣れた足取りでするする歩く。

5分も歩かないうちに商店に到着。右手に小さなバザールがあり、左手に食料雑貨店があった。食料雑貨店にはお菓子から酒からチーズからいろんなものが売っていた。ウズベキスタン製の白ワインがあったので珍しいので買ってみる。値段は5000スム(約350円)。

それからバザールの方に行き、そこでキムチと人参の総菜を少々買う。

ホテルに戻る。

宿に戻って部屋でワインとキムチなどをくらう。ワインはいまいち。なんか気の抜けたような味だった。

同室の台湾人のYさんとしばしおしゃべり。彼女は台湾で高校の教師をしているらしい。教えているのは歴史。これまで13カ国くらい旅行したことがあるらしい。イランやタンザニアにも行ったことがあるよう。今回は春節の休みということで2週間のウズベキスタンの旅らしい。ちなみに彼女が持っていたガイドブックは『ロンリープラネット』だった。

部屋は8畳ほどの広さで床には絨毯が敷かれてある。四隅にベッドが1つずつ置かれているので最大4人が寝れるようだが、今晩の客はぼくら2人だけのよう。暖房はガスヒーターのよう。半袖でもいいくらい室内は暖かい。

適当な時間に寝る。

Fin

[diary]キョーネウルゲンチからウズベキスタン入国

キョーネウルゲンチからウズベキスタン入国

2009/01/19(月) 晴れ 日中10度近く
[キョーネウルゲンチ:Turkmenistan→Nukus:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1400スム(ホジャイリとヌクスのバザールの闇両替にて)

・キョーネウルゲンチからウズベキスタン国境へ
・英語を話す職員、長い荷物チェック
・乗り合いタクシーで国境からホジャイリへ
・ホジャイリのバザール兼バスターミナルにて
・ホジャイリからヌクスへ移動
・ヌクスの宿、バザール

トルクメニスタンのキョーネウルゲンチ。バスターミナル近くのボロ宿。ぼったくり宿にて。

なぜか3時頃に目が覚める。なので、しばらく書き物。

9時になってようやく出発の準備。9時20分頃部屋を出る。鍵は壊れたままだったが、修理代などを請求されることはなかった。

歩いてすぐ近くのバスターミナルへ。そこから国境に行く乗り合いタクシーに乗れるとガイドブックにあったのだが、いざ聞いてみるとここからは車はないと言われる。どうもバザール近くから車はでているらしい。教えてくれた人がバザール行きのマルシュルートカを捕まえてくれ、さらに運転手にぼくのことを伝える。

車に乗り込む。運賃2000モナト(約15円)。

舗装状態の悪い道をがたごと走り、15分ほどでバザール近辺に到着。運転手は車を止め、ぼくに国境行きのタクシーはあれだと指さし教えてくれる。

マルシュルートカを降りて、通りを渡り、タクシーのそばに行く。運転手がすぐに「タモージニャ(国境)?」と聞いてくるのでうなづき、運賃を聞いてから荷物をトランクに詰める。運賃15000モナト(約100円)。

客が4人集まったところで出発。

予想していたよりも国境はずっと近かった。バザールをでて5分ほどで国境に到着。荷物を受け取ってから運賃を払う。時刻は10時過ぎ。

歩いてトルクメ側のイミグレへ。入国時と同じく、ここでも税関申告書を書かされる。また入国時にもらった入国カードをここで回収される。荷物のチェックはなし。わりとすんなりと出国できる。

そこから20mほど向こうにウズベキスタンのイミグレがあった。歩いてそちらに行く。イミグレの建物に入る。入国スタンプは簡単に押してもらえたのだが、荷物チェックが長かった。

片言の日本語を知っている係官が英語で話しかけてくる。なぜ日本語ができるのか尋ねると6年ほど前に日本に行ったことがあると言う。ならばさっさと通してくれるかと思ったのだが、そうはいかなかった。彼は荷物の中身を見たいから全部中身を出せと言う。たいていは荷物の中身は入れたままでチャックを開けてちらちらとのぞき込む程度で終わるのだが、彼はそうではなく全部出せと言う。しょうがないので、机の上にリュックの中身を全部出す。

彼はいちいちそれをチェックする。特に本やパンフレットなどはいちいちめくったりしてチェックしている。後から来た客は先に行ってしまうので、ぼくだけがそのようなチェックの対象になっているようだった。彼はのんびりとチェックをする。

その作業が終わるのを待っていたら、彼のボスらしい人が現れ、カメラを持っているかと聞いてくる。カメラを見せるとちょっと貸してくれというふうにぼくの手から取り、パソコンで作業をしている女性の写真を撮ったりする。まったくのんきなもんだ。

結局、荷物のチェックに30分以上費やす。特に何もなく、また荷物をリュックの中に詰め直す。ちなみに大きめのウエストバックをウィンドブレーカーの下に隠していたのだが、驚くことにそれには気づかず、チェックされなかった。

やっとのことでウズベキスタン入国。イミグレを出たところに乗り合いタクシーが待っていたので、それに乗る。もちろん乗る前に運賃を確認。乗客が4人集まったところで出発。

国境から延びるまっすぐな道を行くと正面に小高い丘が見えた。そこには無数の建築物があり、一目でそれが遺跡であることがわかる。これだけの密度でそれなりの形を留めている遺跡は珍しい。ガイドブックによればこの遺跡は古代都市ミズダル・ハーンの遺跡らしい。ティムールに滅ぼされたと言われ、残っている建築物は12~14世紀に建てられたものらしい。建物は霊廟やモスクなど。またその隣の城塞跡は紀元前4~3世紀に作られたものらしい。車から降りてゆっくり見てみたい気分になるほど、ここの遺跡は充実していた。

国境から最寄りのまちホジャイリまでは20分ほどだった。タクシーはホジャイリのバスターミナル兼バザールの駐車場に止まる。運賃を払おうと運転手に10000モナト札を2枚渡すと、彼は釣りをくれない。15000モナトだろうがと言ったが、札を握ったままこれでいいなどと言う。乗る前に確認したのにバカじゃないかと思ったが、バカな奴を相手にするのも疲れるので、カネモチの太っ腹なところを見せつけてやろうと5000モナト(約30円)はあきらめる。やれやれ、こういう奴がいるから移動は疲れる。

さて、まずはウズベキスタンのオカネがないので両替屋を探してバザール内を歩く。でかいリュックを背負っていることもあり、店の人や若い男たちがこちらを見て、何かごちゃごちゃと噂している。

適当にぶらついても見つからないので、その辺のお店のおばちゃんに両替屋の場所を教えてもらう。言葉ではよくわからなかったので、指さした方向に向けて歩く。

バザールはごちゃごちゃしていてなかなかよろしい。人出も多く活気がある。道はキョーネウルゲンチのバザールと同じくぐちゃぐちゃ。もっと寒ければ凍っていてちょうどいいのだろうが、暖かいから雪が溶けてべちょべちょになったのだろう。イランで買ったブーツが役立つ。

おばちゃんに教えてもらった方に行くが見あたらない。なので、近くのばら売りのお菓子屋のおばちゃんに聞くと、そこの旦那が出てきていくら両替したいのかと聞いてくる。20米ドルと言うと、携帯電話で誰かと話し始める。したら2階からでっぷりとしたおじさんが降りて来る。この人が両替してくれるらしい。1米ドル=14000モナトで両替。

菓子屋のおばちゃんにロシア語でありがとうと言って去ろうとしたら、なぜかおばちゃんは店で売っていたナン(円形のパン)を2枚ビニール袋に入れ、くれる。買い物をしたわけでもなく、こちらからお願い事をしたのにパンをくれるなんて、と感激する。ありがたくいただく。ここのバザールの人はわりとフレンドリーで歩いていたらたまにどこから来たのかと尋ねる人あり。

バザールの一角にもうもうと炭火の煙が立っている地帯があったのでそこに言ってみる。シャシリク屋が並ぶ一帯で通路でパタパタと串を焼いている。

朝飯も食っていなかったので、ここで飯を食うことにする。適当に指さして牛肉らしき串を注文。テーブルには透明の液体が入っている瓶があり、その液体には唐辛子やニンニク、胡椒の実(?)、セロリなどが浸けられていた。周りでシャシリク(串焼き)を食べている人を見てみると、この透明の液体を串にかけて食べている。なので、ぼくもそれを味見をしてみると透明の液体は酢だった。

まもなくして肉片が5つほどついている串2本が小さなパン切れと一緒に運ばれてくる。焼きたてということもあり、うまい。肉もうまい。酢をかけて食べるといっそう美味い。チャイもただでこれで2300スム(約150円)ほど。安いことは安いが、2本食べたくらいでは腹はたいして膨れないのがネック。

とりあえず満足したので、バスターミナルの方に行き、ヌクス行きのバスを探す。適当に尋ねるとすぐに見つかる。

車内にはすでに乗客が乗り込んでいたので、ぼくも乗り込み、席を確保。出発を待っていたら車内にサモサ売りのおばちゃんがやってきたので、サモサを1つ買う。お値段200スム。

12時40分にバスは発車。運賃400スム(約30円)は距離を考えると安い。

腹にものが入ったからかしばらくしたら眠くなり、寝てしまう。

14時前にヌクスに入る。近くに座っていたおばちゃんにヌクスホテルはどこにあるのかと尋ねると、降りる場所を教えてくれ、そこから別のマルシュルートカに乗るよう言われる。降りたところから別のマルシュルートカに乗ると、バザールで終点となり、そこでおろされた。

歩いていたら闇両替のおじさんたちが声をかけてくる。バザール用に立派な建物が建てられているが、その外側(つまり道ばた)にもいろんな物を売る人が集まってきていてなかなか活気がある。

まずは宿探しと地図を見ながらホテルヌクスに向かう。安宿などでおんぼろな小さい建物を想像していたのだが、これがまったく反対の様相をしていた。ホテルはこのまち一の高さではないかというくらいの高層ビルだった。これは高いんじゃないかと受付に行ってみると案の定外国人は一番安くて25米ドルとあった。安くならないか聞いたが、受付の女性はにこりともせず首を振るだけ。安いところはないかと尋ねたらホテルタシュケントが安いというので、そちらに行ってみる。

そこから歩くこと15分ほど。こちらもそこそこ立派な近代的な建物だった。受付の若い女性はモンゴル系東アジア人的な顔立ち。英語を話すのに驚く。宿代を聞くと3人の相部屋で1泊10米ドル朝食付きだと言う。なので、ここに泊まることにする。パスポートを見せ、レギストラーツィアの髪をもらう。

そして階段を上り、3階の部屋へ。

部屋には2人の男がいた。一人は金髪のオーストラリア人、一人はウズベキスタン人のおじさん。おじさんは部屋の中でもたばこを吸っている。

おじさんがロシア語で話しかけてくる。どこから来たのか、ロシア語はわかるかなど。おじさんはそこにいるオーストラリア人はぜんぜんロシア語がわからないとやや不満げにぼくに言う。当の彼は寝ている。

荷物をベッドの横に置くとおじさんは自分のペットボトルの水をプラスチックのコップについでぼくに差し出す。ちょうどのどが渇いていたのでありがたくいただく。

一息ついたところで部屋を出る。まずは両替をしなければいけない。バザールに向かう。その途中、インターネットと書いた看板を出している店があったので寄ってみるが、今はつながっていないとのことでネットできず。

バザールに行き、路上の闇両替で両替。彼の言い値は1米ドル=1400スム。こちらは1米ドル=1500スムでと言ったが、相手は飲まず1450だと言ってくる。面倒なのでそれでおれると、結局くれたのは1400スムで計算した額。またもや最初に確認した合意は無視される。なんなんだ。こっちも突っ込めばいいのだが、相手にするだけ疲れるし、そこまで損しているわけでもないので、気づかぬ振りしてカネを受け取る。最後に彼は握手を求めてくる。わけがわからんが握手してやる。

それからバザール見学。バスなどが走る広い通りから見るとバザールは体育館のような建物だけのように見えるのだが、実際にはそこだけではなく、その裏のスペースもバザールになっていた。テントスタイルの店もあればプレハブスタイルの店もある。もちろん屋根なしの台だけという店もあるし、荷車や乳母車に品物を並べて売っている人もいる。バザールの規模はそこそこ大きい。

屋内の店舗はとてもきれいだが、電気が少なく暗い。屋外の店舗はごちゃごちゃしていていいのだが、道がべちゃべちょで気をつけていないと足下が危ない。

大型の電化製品以外はたいていのものがそろっていた。絨毯や皮のコート、長靴、革靴、子どものおもちゃ、靴下、下着、薬、携帯電話などなど。食べ物もサモサ屋の他、食堂がいくつかあったので、そのうちの一軒で飯を食う。ラグマンを注文。すいとんのような、ほうとうのような太めでやや平たい麺に油が浮かんだ肉汁スープ。麺は歯ごたえがなく物足りないが、味はなかなかよい。

青果売場ではじゃがいも、人参、ひょうたん系の形をしたかぼちゃ、緑大根、キャベツ、白菜(悪くなった外側の葉を剥ぐ作業をしながら売っているおばちゃんたち多数)、干し魚(でかい魚から鮭のような魚、それからアジ程度の大きさの魚までさまざま。香りがよい)、みかん、メロン、赤りんご、青リンゴ、牛乳(ペットボトルをリユースしている。ビニールカバンに牛乳の入った1.5リットルなどのペットボトルを何本も入れて売っているおばさんが多い)、チーズ(数種類ある)などなど多数。

メロンを売っているあるおじさんは切り身にして売っていたのでひとかけら買って食べる。腐ってとろけている部分をさけ、良さそうなところを選んで食べる。これが甘くてうまかった。ひとかけら500スム(約30円)。

それから夜食用に干し魚を1尾買う。体長25cmくらいの中くらいの魚が2500スム(約150円)だったので、それを買う。それから総菜コーナーで春雨サラダと牛モツがメインのサラダを買う。それぞれ200g程度で600スム(約40円)、1500スム(約100円)。総菜売場にいるおばちゃんの中には韓国人のように見えるおばちゃんが数人いた。もちろんここでもチムチ(キムチ)は売られていた。

それからリンゴを1kg1500スム(約100円)、牛乳500ml500スム(約30円)、水1.5リットル600スム(約40円)などを買って帰る。

バザールをぷらぷらしていて思ったのが、けっこうモンゴル系の顔立ちをした人が多いな、ということ。トルクメは日本人や中国人に多少似てはいるものの、モンゴル系ほど丸っこい顔ではなかった。こちらは丸く平べったい顔をした人がよく目に付く。

部屋はたばこ臭いので廊下にあったソファに座り、早いけど買ってきた総菜を食べる。春雨サラダは日本のそれと同じ味。久しぶりの味になごむ。牛乳は牛乳の味だった。

しばらくして部屋に戻る。部屋の暖房は強烈に効いていて暑い。窓を開けて調整しないといけないくらい。相部屋ということもあり、書き物をするのは気が引けたのでガイドブックを見たりして過ごす。

おじさんはテレビを見ている。

ちょっと居眠りをして目が覚めたとき、テレビで映画が始まった。タイトルが「Little Tokyo」だったのでおじさんと一緒に見ることにする。舞台はロサンゼルスのリトルトウキョウ。ちょうど1年前に行ったところなのでなんか懐かしく思う。映画は80年代くらいに作られたのか、登場人物の服装などが古くさい。

ストーリーはリトルトウキョウに根を張っているヤクザとそのヤクザに親を殺されたアメリカ人警官との対決話。アメリカ人警官が二人でヤクザのグループに乗り込み、やっつけてしまうまでを描いている。指詰めのシーンや日本刀を振り回したり、手裏剣を投げたり、相撲取りがやくざの一員だったりとよくあるパターンが映し出される。ある意味おもしろい。

結局最後まで見て、ようやく眠りにつく。

Fin

2009年1月21日水曜日

[速報]ヒヴァ(ウズベキスタン)いり

現在、ウズベキスタンのヒヴァ、11時20分です。

19日にウズベキスタンに入り、ヌクスというまちで一泊した後、昨日ヒヴァに入りました。このあたりは雪はたいして降らないらしく、まったくと言っていいほど雪はありません。昨日などは気温が15度くらいあって小春日和でした。今日は霧が出ていて、多少寒いものの10度近くはあります。宿の主人の話では昨年はマイナス30度くらいまで落ちたらしいのですが、今年の冬はなぜか暖かいようです。

ここにはもう一泊して明日ブハラに向かいます。ウズベキスタンのビザが30日で切れるため、ここもけっこう駆け足での旅になりますね。

では。

2009.1.20
Xiva,Uzbekistan