08/06/07(土)
7時頃起床。しばらく『なんでも見てやろう』を読む。朝飯はなし。昨日の肉がまだ腹にたまっている。
荷造りをして、宿主に頼まれていた宿への一言を書いた紙を提出。また、借りていた自転車の鍵も返す。
その際、ボリビアのサンタクルスにこれから行く旨を伝えると、ラパスやスークレ、オルーロなどに行くバスは軒並み止まっているということを教えてくれる。この宿に昨日着いた人がアルゼンチンのサルタからボリビアに行こうとしたら、そういう状況だったらしい。
ゲゲッと思い、ルート変更を少し考える。だが、サンタクルス行きのバスについては、知らないようだったし、地図上では、アルゼンチンからラパスなどに行くときに通る国境・道路とサンタクルスに行くときに通るそれとは違う。それに、2日前にアスンシオンのバスターミナルで聞いたときは、毎日、バスは出ているということだったので、きっとぼくが行くルートは大丈夫だろうと思い、予定通りのルートで行くことにする。
10時前に宿を出る。宿では、ちょうど味噌汁のにおいがしていて、他の宿泊者たちが朝飯を食っていた。良い旅を!、いってらっしゃい、などと言われながら、宿を出る。
幹線道路沿いに出て、バスを待つ。アスンシオン行きのバスは1時間に1本はあると言っていたが、それが何分頃に来るのかはわからない。なので、1時間待ちも覚悟していたのだが、15分ほど待ったところでバスが来た。
右腕を横に挙げて、止まるよう合図する。止まったバスは2階建ての立派なバスで、これは運賃が高そうだなと思ったが、とにかく乗り込む。
すると座席はすでに満席だったようで、入り口にもおじさんが大きな荷物を持って立っていた。その中にぼくも加わる。
ぼくの後からもう一人、日本人的な顔立ちをした白髪のおじいさんが乗り込んでくる。なので、入り口の踊り場は満杯。
そのおじいさんはさっさとドアを開け、1階の座席があるところへ入っていた。ぼくは入り口のところに立っていたのだが、しばらくして一緒に立っていたおじさんが中に入ったらというので、ぼくも白髪のおじいさんと同じく中に入る。
さっきのおじいさんは通路に立っていて、それに並んでぼくも立つことになった。座席は満杯。
並ぶとおじいさんが話しかけてくる。イグアスに住んでいるのかとか、日本のどこからなのか、など。聞くとそのおじいさんは普段はラパス(パラグアイの移住地の一つ)に住んでいるらしい。鳥取の倉吉出身で、大工をしていたらしい。それで敗戦後、パラグアイに渡ってきたという。最初の頃は、みんな家を建てないといけないから、ずいぶん仕事が多かったらしい。移住してきたときが20歳頃だというから70歳は越えているよう。
おじいさんが立っていたところ、右奥の座席の40歳くらいのおじさんが、そのおじいさんに座るよう自分の席を譲る。その前にもおじいさんが立っていた横に座っていた30代くらいの女性がおじいさんに関を譲ろうとしたのだが、そのときは断っていた。おじいさんは座席に座る。ぼくとの間に、席をゆずったおじさんが立つことになってしまったのでしばらく話は中断。
その間、ぼくの隣に座っていたおじさんが、ぼくにどこから来たのかと聞いてくる。彼はボリビア人かとまず聞いてきて、頭を振ると、今度はコリアンかと聞いてくる。今、おじさんと日本語で話していたのに、ボリビア人か?はないだろうと思ったが、ボリビアに住んでいる日系かと思ったのだろうか。もっともボリビア人のインディヘナ系の人らは一部の日本人と顔立ちがよく似ているが。
窓の外には広大なトウキビ畑や牛の放牧地が見え、民家の中には敷地内にはみかんの木を植えているのが見える。
1時間ほどして着いたまちで何人か客が降りたので、ぼくも席にあり付ける。その際には、空いた席の横に座っていたおじさんが、"Amigo,toma(アミーゴ、座ったら)"と空いた席を指さし教えてくれた。
おじいさんの近くの位置に座ることになったので、またおしゃべりが始まる。
おじいさんは身長は155cmくらいで小さいが、白髪ではあるものの髪はふさふさしている。歯は見る限り右に1本あるだけ。なかなかの饒舌でアスンシオンに着くまでひっきりなしに話をしてくれたのだが、バスのエアコンの音とタイやの音がうるさく、さらにおじいさんの声が小さいのと、言葉が日本語とスペイン語のちゃんぽんになるため、1~2割ぐらいしか聞き取れなかった。無念である。
日本語で話しかけてきたので、聞こえない言葉も日本語だろうと思っていたのだが、時折”No sabe(知らない)"とか"comprar(買う)"とかいう単語が聞こえるし、数字は軒並みスペイン語だったので、途中でスペイン語と日本語が混ぜこぜになっていることに気づく。
以下、聞き取れたことを少し。戦争が終わったとき、おじいさんは中学生だったらしい。これが旧制中学なのか、今でいう中学かはわからない。倉吉からも広島に原爆が落ちたときの光が見えたという。その光が見えてからは、空を飛ぶアメリカの飛行機の数は少なくなったらしい。
パラグアイへの移住の話は、雑誌『家の光』で見たという。なぜ移住をしようと思ったのかについては、聞き取れず。
おじいさんは、なぜかノーベル賞がどうのという話をする。断片的に聞き取れたことをつなぎあわせて考えると、どうも津波を正確に探知するような技術を開発できればノーベル賞ものだと言っているよう。それについてしゃべるときのおじいさんは、手を動かし、体を動かして、これをこうしてこうしたらこうなるなどと言う(言っているよう)。そして、パンと手を叩いて”そうだろう?”と聞いてくる。
そうだろう?、はわかったので、ぼくはハイと答えるが、実際は何を言っているのかほとんどわかっていなかったのだった。
そうこうしているうちに外の景色が変わり、建物ばかりの地帯に入る。改めてアスンシオンに来てみると、確かにパラグアイでは大都市だなと感じる。
おじいさんは、ターミナルに着く前に街角でそそくさと降りる。
ターミナルに着いたのは2時半ごろ。予想よりも早かった。ボリビアのサンタクルス行きのチケットを探す。この間、20米ドルくらいの安いチケットを売っていた窓口に行ったのだが、どうもぼくの聞き間違いだったようで、実際は55米ドル=22万グアラニーだった。
どこも同じ値段だったので、飯などがついているというバス会社のチケットを買う。ここでは最初から米ドルで値段を言ってくるので、米ドルでカネも支払う。55米ドル。なかなか高い。
バスの発車予定時刻は20時。それまでの間、ターミナル内やまわりをうろうろする。ターミナル内では相変わらずチーパを売っているおばさんや民芸品を売ってるグアラニー族らしいおばさんたちが数名いる。
夕方、ターミナル近くの路上にあった屋台でチョリパン(ホットドッグのようなもの)を買う。3500グアラニー(約90円)。チリやアルゼンチンのホットドッグは、ソーセージがあの化学物質がたくさん入っているような偽物ソーセージだったが、ここのは本物っぽい。
道ばたでそれを頬張っていると、ジュース売りのおばさんが近くに寄ってくる。右手にジュースを入れたプラスチック製の容器、左手にプラスチック製のコップを持っている。そして、独り言のように、ピーニャ(パイナップル)とナランハ(夏みかん系の柑橘)を混ぜたうまいジュースだと言う。
ぼくはこれから長距離バスに乗るから、これを飲んで腹を壊すのを警戒し、しばらく無視していたのだが、おばさんがジリジリとさらに近づいてくるので、とりあえず値段を聞いた。1杯1000グアラニー(約30円)というので、まぁ、一杯くらいいいかと飲む。味はいまいち。ピーニャとナランハは混ぜない方が味がしっかりしていていいと思うなぁ、などと考えながら、ゆっくり味わいたいような味ではなかったので一気飲みする。
それでまたパンの方を食べていると、どっかへ行ったはずのジュース売りのおばさんがまた目の前に現れ、これまた独り言を言うようにさらにもう一杯とすすめてくる。これも一旦断るが、それを気にすることなくコップにジュースを注ぎ始める。
しょうがないなぁ、と思いながら、もう一杯一気に飲み干す。やっぱり好みの味ではない。
その後、ターミナルに戻り、余ったグアラニーを米ドルに変える。このときは1米ドル=4100グアラニーだった。
待合い室のテレビでは音楽番組が流れていた。椅子に座り、しばし『逝きし世の面影』を読む。
19時半頃、バスの乗車場に入る。16か17番乗り場にバスが入ってくるということだったが、これがいつになっても現れない。バスは何台か入ってきたが、どれもぼろい国内用のバスのようだったし、フロントガラスにはサンタクルスの文字はなかった。
ついに20時を過ぎてしまった。なので、もしやアルゼンチンのときのように、フロントガラスには別の行き先が書かれていたりするのかもしれないと思い、止まっているバスにとにかくサンタクルスに行くか聞いてみる。
ヨーロピアンらしいリュックを背負った人が乗り込んだ1台のバスの運転手に聞いたところ、違うという。そうしてふらふらしていると、入り口の警備員が声をかけてくる。チケットを見せると、なんだかんだと言う。たぶんグアラニー語が母語なのだろう、彼のスペイン語はほとんど聞き取れず。ただ、出発するというスペイン語は聞こえた。
そこへもう一人バス会社の人なのか、おじさんがやってきて、何事か聞く。警備員のにいちゃんが事情を伝える。するとおじさんは携帯電話でなにやら電話を始めた。そして、電話の後、そこで待つように言う。
待っていたらすぐにチケットを買った窓口にいたおじさんが現れる。そして、"Vamos"と言って、一緒に来るように言う。車に乗ってバスを追いかけるのかとも思ったが、ターミナルを出ると、通りでバスが停まっていた。おじさんはあのバスだと言う。
チリとアルゼンチンでは国境越えのバスというと立派な2階建てのバスなどだったので、ぼくはアルゼンチンから乗ってきたような2階建てのきれいなバスばかりをチェックしていたのだが、このバスの外観はそのチェック網から見事に外れるような外観をしている。
しかも、車体に書いてある会社名とチケットにある会社名が違うし。
まぁ、とにかく乗り込むことができ、一安心。バスに乗り込むと久しぶりに見る人たちが乗っていて、みな晩飯の弁当というか、バス会社がサービスで出している飯を食っている。
ぼくは適当に後ろの席に座る。
バスはアスンシオンのメインストリートを通る。まだ8時過ぎなのに人通りはほとんどない。この間行ったショッピングモールの駐車場だけはほぼ満車だった。
しばらく待っていてもぼくには弁当が出てこない。もしや最初に乗りこんだ人数ぶんしか用意されていないとか。などと考えていたら、バスが停まる。窓からは交差点で車の窓拭きを仕事にしているらしい10代くらいの子どもたちが4~5人見える。
バスが再び走り始めると、添乗員のにいちゃんがこちらに歩いてきた。晩飯についてちょっと聞いてみようかと思っていたら、にいちゃんがこれと言ってあつあつの食い物をくれる。
紙のトレイに半身の鶏肉とマンジオカ(別名キャッサバ)が乗っている。鶏は今まで焼かれていたようで熱いが、マンジオカは冷えている。どうもさっき停車している間に買ったらしい。意外にしっかりしている。
バスの中では例のごとくDVDの映画が上映されるが、後方のテレビは壊れているらしく画面が上から下へと流れる。
乗客は20人ほどで、隣に人はいなかったので2人ぶんの席を使えた。夜の寒さを心配したが、20度前後でちょうどいいくらいだったので、その心配は杞憂だった。
二つの座席に横になり、星空を見ながら寝る。
Fin
2008年7月6日日曜日
シウダデルエステへお出かけ
08/06/06
・電気街
・飛び交うブラジル語
・アサードパーティ
やや出かけるエネルギーが落ちていた感があったが、今日はおでかけ。
イグアス移住地からバスで1時間ほど行ったところにあるブラジルとの国境のまちCiudad del Este(シウダデルエステ:東のまち。以下エステ)に行く。
幹線道路沿いにあるバス乗り場でバスを待つ。エステ行きのバスは1時間に1本あると聞いていたので、気長に待つ。すると15分程度でバスがやってきた。右手を横に挙げてバスに合図し、バスを止めて乗り込む。
エステに近づくほど沿道に建物が増えてくる。工場らしい大きな施設もいくつか見える。
近くまで行っていったんバスを降ろされ、そこで乗り換え、国境近くまで再度移動。
エステのまちはブラジルとの間に流れるパラナ川に架かる橋のたもとに広がり、橋を渡ればそこはブラジルという位置にある。
バスでまちに入ると驚いた。そこそこ高いビルが建ち並び、いろいろな店が立ち並び、人でごったがえしている。電気屋ばかりが入った5階建てくらいのビルがあったりして、ちょうど秋葉原の裏通りの一角のような雰囲気。
道路は舗装されているものの、あちこちに穴があき、路面が油ぎっているようなところもある。
ここで目に付いたのが釣り具屋。店先に釣り竿がずらずらっとつられている。
ブラジルとの国境ということで歩いている人もアスンシオンとは違い、アフリカ系の人が多い。前を歩いていた女の人がコインを落としたから拾って渡すと”Obligada(オブリガーダ:ありがとう)"と言われる。人混みの中で耳を澄ませているとブラジル語(ポルトガル語)が聞こえてくる。
ガイドブックによれば、エステのまちはブラジルからの買い物客によってここ数年でずいぶん大きくなったらしい。
ブラジルとの間に架かる橋は日本語で言うと友情の橋(Puente de la Amiztad)というらしく、勝手に渡ることができる。100mちょっとの橋で、目下のパラナ川はやはりチョコレート色。大きな買い物袋を抱えてブラジルに戻る人もいるし、ブラジル側から歩いて渡って来る人もいる。車の往来も多い。
橋を降りる右手すぐに入国手続きをする施設があって、ブラジルに入るならここで手続きを入らなければいけない。が、ビザがないから法的には入れない。ただ、イグアスの滝に行くときに通過はできるらしい。
パラグアイ側に戻る。ここからバスで行けるところに世界最大級のダム:イタイプーダムがあり、そこにも行ってみようかと思っていたが、なんだか行く気がうせる。
一部の街角の路上には6人ほどでいっぱいというくらいの規模の屋台が並んでおり、どこも人でいっぱい。空いている屋台を探すもあまり見あたらず、かつ鶏肉料理が多いらしいことがわかり、鶏肉は食傷気味なぼくは量り売りの食堂(por kg/ポルキロ)で昼食。
適当にバスを捕まえて帰途につく。これが目的地とは違う別の集落に入っていった。ヨーロッパ系の人が多い集落で、道路の状況などはイグアスと同じ程度。
幹線道路に戻ったところで降り、そこでバスを乗り換え41km地点まで戻る。
夜は宿で来客300人記念と1ヶ月滞在者記念にアサードパーティ。パーティの前にキャッサバ畑で芋掘り。
ドラム缶を縦に半分に切った炭火焼き器に火をおこす。この火のお越し方が一風変わっていて効率的。新聞紙と空(から)のビール瓶を使うやり方で、まずは新聞紙を大きく広げ、それをネジって小さいわっかにする。それを10近く作って、ビール瓶に通していく。
新聞紙で作ったわっかに包まれたビール瓶をそのままドラム缶の真ん中に置き、その周りに炭を集め山にする。そうしてからビール瓶を抜き取る。すると、火山のように真ん中に穴の空いた山ができる。その穴にマッチで付けた火を落とすとあっと言う間に火がつく。
客と宿の人とあわせて約20人に用意された肉は9kg。焼き方がまた豪快で、2cmくらいの厚さで長さが60cm、幅が30cmほどある肉をそのまま網に乗せて焼く。こうやるのがパラグアイ式らしい。
蒸かしたマンジオカや客が協力して作ったサラダなどと一緒にいただく。いいタイミングにこの宿に泊まった。肉は多少残る。
満腹になってあとは寝るだけ。
Fin
・電気街
・飛び交うブラジル語
・アサードパーティ
やや出かけるエネルギーが落ちていた感があったが、今日はおでかけ。
イグアス移住地からバスで1時間ほど行ったところにあるブラジルとの国境のまちCiudad del Este(シウダデルエステ:東のまち。以下エステ)に行く。
幹線道路沿いにあるバス乗り場でバスを待つ。エステ行きのバスは1時間に1本あると聞いていたので、気長に待つ。すると15分程度でバスがやってきた。右手を横に挙げてバスに合図し、バスを止めて乗り込む。
エステに近づくほど沿道に建物が増えてくる。工場らしい大きな施設もいくつか見える。
近くまで行っていったんバスを降ろされ、そこで乗り換え、国境近くまで再度移動。
エステのまちはブラジルとの間に流れるパラナ川に架かる橋のたもとに広がり、橋を渡ればそこはブラジルという位置にある。
バスでまちに入ると驚いた。そこそこ高いビルが建ち並び、いろいろな店が立ち並び、人でごったがえしている。電気屋ばかりが入った5階建てくらいのビルがあったりして、ちょうど秋葉原の裏通りの一角のような雰囲気。
道路は舗装されているものの、あちこちに穴があき、路面が油ぎっているようなところもある。
ここで目に付いたのが釣り具屋。店先に釣り竿がずらずらっとつられている。
ブラジルとの国境ということで歩いている人もアスンシオンとは違い、アフリカ系の人が多い。前を歩いていた女の人がコインを落としたから拾って渡すと”Obligada(オブリガーダ:ありがとう)"と言われる。人混みの中で耳を澄ませているとブラジル語(ポルトガル語)が聞こえてくる。
ガイドブックによれば、エステのまちはブラジルからの買い物客によってここ数年でずいぶん大きくなったらしい。
ブラジルとの間に架かる橋は日本語で言うと友情の橋(Puente de la Amiztad)というらしく、勝手に渡ることができる。100mちょっとの橋で、目下のパラナ川はやはりチョコレート色。大きな買い物袋を抱えてブラジルに戻る人もいるし、ブラジル側から歩いて渡って来る人もいる。車の往来も多い。
橋を降りる右手すぐに入国手続きをする施設があって、ブラジルに入るならここで手続きを入らなければいけない。が、ビザがないから法的には入れない。ただ、イグアスの滝に行くときに通過はできるらしい。
パラグアイ側に戻る。ここからバスで行けるところに世界最大級のダム:イタイプーダムがあり、そこにも行ってみようかと思っていたが、なんだか行く気がうせる。
一部の街角の路上には6人ほどでいっぱいというくらいの規模の屋台が並んでおり、どこも人でいっぱい。空いている屋台を探すもあまり見あたらず、かつ鶏肉料理が多いらしいことがわかり、鶏肉は食傷気味なぼくは量り売りの食堂(por kg/ポルキロ)で昼食。
適当にバスを捕まえて帰途につく。これが目的地とは違う別の集落に入っていった。ヨーロッパ系の人が多い集落で、道路の状況などはイグアスと同じ程度。
幹線道路に戻ったところで降り、そこでバスを乗り換え41km地点まで戻る。
夜は宿で来客300人記念と1ヶ月滞在者記念にアサードパーティ。パーティの前にキャッサバ畑で芋掘り。
ドラム缶を縦に半分に切った炭火焼き器に火をおこす。この火のお越し方が一風変わっていて効率的。新聞紙と空(から)のビール瓶を使うやり方で、まずは新聞紙を大きく広げ、それをネジって小さいわっかにする。それを10近く作って、ビール瓶に通していく。
新聞紙で作ったわっかに包まれたビール瓶をそのままドラム缶の真ん中に置き、その周りに炭を集め山にする。そうしてからビール瓶を抜き取る。すると、火山のように真ん中に穴の空いた山ができる。その穴にマッチで付けた火を落とすとあっと言う間に火がつく。
客と宿の人とあわせて約20人に用意された肉は9kg。焼き方がまた豪快で、2cmくらいの厚さで長さが60cm、幅が30cmほどある肉をそのまま網に乗せて焼く。こうやるのがパラグアイ式らしい。
蒸かしたマンジオカや客が協力して作ったサラダなどと一緒にいただく。いいタイミングにこの宿に泊まった。肉は多少残る。
満腹になってあとは寝るだけ。
Fin
パラグアイにおける大豆不耕起栽培について
関節朗「パラグアイにおける大豆不耕起栽培」『農業及び園芸』第74巻・第10号、11号、1999より
パラグアイでの不耕起栽培の呼称:Siembra directa
1.導入の背景
・大豆への栽培作物の転換
・平均栽培面積200ha
目的:土壌浸食の防止←耕地はテーラロシアという粘土質土壌で、乾くと大型機械でも耕起・砕土できないくらい固くなり、雨が降ると粘着性を増し、流失してしまう。
副次的目的:適期播種、出芽促進、生産費低減
2.可能にした技術など
・播種機の改良
・除草剤の改良
・一人の入植者の実験的導入による成功
3.1999年時点の実績
日系移住地の大豆栽培面積(約5万ha)のうち95%以上、パラグアイ全大豆栽培面積(約95万ha)の40%で導入されている。
パラグアイでの不耕起栽培の呼称:Siembra directa
1.導入の背景
・大豆への栽培作物の転換
・平均栽培面積200ha
目的:土壌浸食の防止←耕地はテーラロシアという粘土質土壌で、乾くと大型機械でも耕起・砕土できないくらい固くなり、雨が降ると粘着性を増し、流失してしまう。
副次的目的:適期播種、出芽促進、生産費低減
2.可能にした技術など
・播種機の改良
・除草剤の改良
・一人の入植者の実験的導入による成功
3.1999年時点の実績
日系移住地の大豆栽培面積(約5万ha)のうち95%以上、パラグアイ全大豆栽培面積(約95万ha)の40%で導入されている。
コロニアイグアスで沈滞
08/06/05
6時過ぎに朝日で目覚める。イグアス移住地の30年記念誌を読みながらバナナの朝食。
午前中は、本読み。
宿にあった日本語学校の文集『はばたき』の13号(1998年度)と18号(2003年度)を読む。中学2年生が書いた「私の願い」という文章は、パラグアイの問題点とパラグアイが今後いい国になっていくためのいくつかの提案をしていた。それによるとパラグアイの失業率は15%。仕事を増やすために工場を造ればいいと思うが、その時に問題になるのが国の税金。工場を造るのに多額のお金が必要で、それがネックになっていると指摘し「パラグアイの政治をする人が、自分のもうけることだけを考えるので、パラグアイの国は全然よくなりません」と言い切っているのがすごい。
もう一つ17歳の子が書いた「もっと政治に関心を」でも、同じように政治が悪いことを指摘している。(以上、18号)
13号で印象に残ったのは、15歳の男の子が書いた「僕について」という文章。文頭に引用している言葉はエヴァンゲリオンのシンジの言葉。「僕って何だろう?」など。特に気になったのが次の部分。友達同士で話をしている時に、「パラグアイだからしょうがないよ。」という言葉をよく使うらしい。「パラグアイで生まれた僕達にとって、この言葉は、ごく当たり前のような口振りで話されています。きっと、頭のどこかであきらめのようなものがあるかもしれません」と彼は書いている。
「パラグアイだからしょうがないよ」という言葉は、明確にパラグアイ以外の国を想定して言っているように思える。’子どもが’日常的にこうした物言いをすると言うことは、パラグアイと他の国々とを比較し、パラグアイの悪い点について日常的に聞かされているからなのではないか。そして、その比較の対象となっているのはおそらく日本なのだろう。日系以外のパラグアイの子等がこうした言葉を使うのかどうかが気になるところだ。
昼前に宿を出て、散歩。昨日とはうってかわって爽快な青空。昨日と同じように長袖シャツを着て外に出たが、歩いていたらすぐに暑くなってしまったので、薄着に着替えに帰る。昨日見てなかった道路の南側をちらっと歩く。食料品店が3軒ほど、やっているのかわからないカジノ、ディスコ、自動車屋、農業機械屋などの他は家と農地のみ。
人通りも少なく、畑仕事はもっと奥地でやっているのか、近くの畑には人気もない。
地面は多少乾いたために、昨日のように靴底に土がへばりつくようなことはない。ただ、土質を考えると乾燥したら乾燥したで、風が吹けば簡単に飛んでいきそうな感じだ。
昼飯をガソリンスタンドに併設されていた食料雑貨店兼レストラン(と看板にあったが、イメージは食堂)でとる。店内に日系1世らしいおじいさんが一人でビールを飲んでいた。こんにちはと挨拶すると、こんにちはと返してくれるが、会話は特にせず。
隣の席の人と同じものを注文。白米、蒸かしたキャッサバ、レタスとトマトのサラダ、目玉焼き、牛のステーキ、炊いた黒豆などが出る。味付けは基本的に塩のみという感じで、さらに塩気がきつい。毎日、汗を流しているわけではない自分のようなものにとっては、ちときつい。
その後、宿に帰る。午前中、移民資料館などの案内を頼んだところ、16時頃すぎになるというので、それまで宿で過ごす。テレビ、マンガ、持ってきた本などで時間が過ぎる。
テレビで見たのは、NHKの社会シミュレーション学とかいうのをやっている学者と爆笑問題がやりとりする番組と”そのとき歴史が動いたー後藤新平編”。
社会シミュレーション学というのは、異なる専門の人たちが一緒に問題を考えられる材料を提供するという役割を目指しているらしい。この番組で例に挙げられていたのは、感染症のシミュレーションで、感染症のデータや都市計画のデータなどをパソコンに覚えさせ、ある政策を取ったときにどういう結果になりえるのかをシミュレーションし、その結果を材料にしてよりよい解決策を考えていく。そういうようなことが主旨だった。
結局、18時になってもお呼びがかからず、資料館行きはなしに。後でわかったが、こちらが宿の受付までいかないといけなかったよう。宿にいれば呼びに来てくれると勝手に思っていたのが、まずかった。
宿には大挙して新たな客が来た。どっかで出会った7人で来たという。男女7人でだいたい20代っぽい。
18時頃、宿のオーナーらしきおじさんが彼らにちょろっと話をしていたのを途中から聞く。入植当時は、蛍を捕まえてその明かりで勉強していたという人もいたらしい。移住資料館についての説明でJICAの名前が出る。話を聞いていた8人ほどの旅行者にJICAを知っているかと聞く。知らなかったのは1~2人のみ。
パラグアイにいる利点としては、パラグアイでは移住した当時は別として食べ物に困ったことがないし、困ることもこれからなさそうとのこと。日本の食料自給率の低さ、また農業従事者の高齢化を考えると、確かにその点では何かあったとき日本よりもパラグアイの方が安心だろう。またパラグアイには石油がやウランが埋まっているという話もあるらしく、これからのエネルギー争奪戦の中にパラグアイが供給国として入る可能性もあるというようなことを言う。
そんな話を最後に、旅行ばかりしてないでもう少しそういった世界の動向にも関心を持った方がいい、というようなことを言う。
話の後、旅行者の間で若干、JICAの噂話になる。マラウイでは会う日本人はほとんどJICAの人らしかったという話やずいぶん無駄なことをしているらしいという話が出る。
夜は昨日と同じレストランで食べる。今日はpor Kgというバイキング形式の量り売りの方を食べる。バイキングのように20種類ほど料理が並び、それを適当に皿に盛りつけ、種類に関わらずとにかく皿に盛った分量×単価という仕組み。
料理は白米、炊いた黒豆、チャーハン、焼きそば、鶏の唐揚げ、牛肉とじゃがいもの炒め物、キュウリの浅漬け、白菜の漬け物、キャッサバ、味噌汁、パンなど。
その後は、宿に帰ってまじめに日記書きなど。
Fin
6時過ぎに朝日で目覚める。イグアス移住地の30年記念誌を読みながらバナナの朝食。
午前中は、本読み。
宿にあった日本語学校の文集『はばたき』の13号(1998年度)と18号(2003年度)を読む。中学2年生が書いた「私の願い」という文章は、パラグアイの問題点とパラグアイが今後いい国になっていくためのいくつかの提案をしていた。それによるとパラグアイの失業率は15%。仕事を増やすために工場を造ればいいと思うが、その時に問題になるのが国の税金。工場を造るのに多額のお金が必要で、それがネックになっていると指摘し「パラグアイの政治をする人が、自分のもうけることだけを考えるので、パラグアイの国は全然よくなりません」と言い切っているのがすごい。
もう一つ17歳の子が書いた「もっと政治に関心を」でも、同じように政治が悪いことを指摘している。(以上、18号)
13号で印象に残ったのは、15歳の男の子が書いた「僕について」という文章。文頭に引用している言葉はエヴァンゲリオンのシンジの言葉。「僕って何だろう?」など。特に気になったのが次の部分。友達同士で話をしている時に、「パラグアイだからしょうがないよ。」という言葉をよく使うらしい。「パラグアイで生まれた僕達にとって、この言葉は、ごく当たり前のような口振りで話されています。きっと、頭のどこかであきらめのようなものがあるかもしれません」と彼は書いている。
「パラグアイだからしょうがないよ」という言葉は、明確にパラグアイ以外の国を想定して言っているように思える。’子どもが’日常的にこうした物言いをすると言うことは、パラグアイと他の国々とを比較し、パラグアイの悪い点について日常的に聞かされているからなのではないか。そして、その比較の対象となっているのはおそらく日本なのだろう。日系以外のパラグアイの子等がこうした言葉を使うのかどうかが気になるところだ。
昼前に宿を出て、散歩。昨日とはうってかわって爽快な青空。昨日と同じように長袖シャツを着て外に出たが、歩いていたらすぐに暑くなってしまったので、薄着に着替えに帰る。昨日見てなかった道路の南側をちらっと歩く。食料品店が3軒ほど、やっているのかわからないカジノ、ディスコ、自動車屋、農業機械屋などの他は家と農地のみ。
人通りも少なく、畑仕事はもっと奥地でやっているのか、近くの畑には人気もない。
地面は多少乾いたために、昨日のように靴底に土がへばりつくようなことはない。ただ、土質を考えると乾燥したら乾燥したで、風が吹けば簡単に飛んでいきそうな感じだ。
昼飯をガソリンスタンドに併設されていた食料雑貨店兼レストラン(と看板にあったが、イメージは食堂)でとる。店内に日系1世らしいおじいさんが一人でビールを飲んでいた。こんにちはと挨拶すると、こんにちはと返してくれるが、会話は特にせず。
隣の席の人と同じものを注文。白米、蒸かしたキャッサバ、レタスとトマトのサラダ、目玉焼き、牛のステーキ、炊いた黒豆などが出る。味付けは基本的に塩のみという感じで、さらに塩気がきつい。毎日、汗を流しているわけではない自分のようなものにとっては、ちときつい。
その後、宿に帰る。午前中、移民資料館などの案内を頼んだところ、16時頃すぎになるというので、それまで宿で過ごす。テレビ、マンガ、持ってきた本などで時間が過ぎる。
テレビで見たのは、NHKの社会シミュレーション学とかいうのをやっている学者と爆笑問題がやりとりする番組と”そのとき歴史が動いたー後藤新平編”。
社会シミュレーション学というのは、異なる専門の人たちが一緒に問題を考えられる材料を提供するという役割を目指しているらしい。この番組で例に挙げられていたのは、感染症のシミュレーションで、感染症のデータや都市計画のデータなどをパソコンに覚えさせ、ある政策を取ったときにどういう結果になりえるのかをシミュレーションし、その結果を材料にしてよりよい解決策を考えていく。そういうようなことが主旨だった。
結局、18時になってもお呼びがかからず、資料館行きはなしに。後でわかったが、こちらが宿の受付までいかないといけなかったよう。宿にいれば呼びに来てくれると勝手に思っていたのが、まずかった。
宿には大挙して新たな客が来た。どっかで出会った7人で来たという。男女7人でだいたい20代っぽい。
18時頃、宿のオーナーらしきおじさんが彼らにちょろっと話をしていたのを途中から聞く。入植当時は、蛍を捕まえてその明かりで勉強していたという人もいたらしい。移住資料館についての説明でJICAの名前が出る。話を聞いていた8人ほどの旅行者にJICAを知っているかと聞く。知らなかったのは1~2人のみ。
パラグアイにいる利点としては、パラグアイでは移住した当時は別として食べ物に困ったことがないし、困ることもこれからなさそうとのこと。日本の食料自給率の低さ、また農業従事者の高齢化を考えると、確かにその点では何かあったとき日本よりもパラグアイの方が安心だろう。またパラグアイには石油がやウランが埋まっているという話もあるらしく、これからのエネルギー争奪戦の中にパラグアイが供給国として入る可能性もあるというようなことを言う。
そんな話を最後に、旅行ばかりしてないでもう少しそういった世界の動向にも関心を持った方がいい、というようなことを言う。
話の後、旅行者の間で若干、JICAの噂話になる。マラウイでは会う日本人はほとんどJICAの人らしかったという話やずいぶん無駄なことをしているらしいという話が出る。
夜は昨日と同じレストランで食べる。今日はpor Kgというバイキング形式の量り売りの方を食べる。バイキングのように20種類ほど料理が並び、それを適当に皿に盛りつけ、種類に関わらずとにかく皿に盛った分量×単価という仕組み。
料理は白米、炊いた黒豆、チャーハン、焼きそば、鶏の唐揚げ、牛肉とじゃがいもの炒め物、キュウリの浅漬け、白菜の漬け物、キャッサバ、味噌汁、パンなど。
その後は、宿に帰ってまじめに日記書きなど。
Fin
アスンシオンからイグアス移住地へ
08/06/04
6時起床。7時頃にカーテンを開けると外はすでに明るかった。
一階のレストランで朝食。日本人ばかり、しかもおじさんおばんが多くなんか違和感がある。テレビNHKにあわされていて、涼宮ハルヒの声優をしているという人がゲストに呼ばれ、インタビューを受けていた。
朝食はセルフだが、内容はもろに日本食でジャポニカ米の白米に味噌汁があり、海苔や生卵があった。洋式のメニューも用意されており、おばさま二人組はそれを食べていた。
8時過ぎに宿を出る。近くの通りからバスに乗る。
8時半頃、ターミナル着。バス会社の窓口が並ぶ二階でチケットを買う。40000グアラニー。
一階の両替屋で両替。やはりレートは悪い。街中では1米ドル=4030~4050グアラニーだったが、ターミナルでは一律4000。
警備員にチケットをみせ乗り場に入る。
バスはすぐに来て、乗り込む。バスはマイクロバス程度の大きさ。乗ったらすぐに寝てしまう。
目的の41km地点(というふうに呼ばれている)には約5時間後の14時前に到着。ここにパラグアイ最大の日本人移住地がある。
幹線道路沿いにはレストランとガソリンスタンドなどいくつかの店があり、ガソリンスタンドで今晩泊まる予定をしているペンション園田の位置を聞く。
教えてもらった方向に歩いていたら日本人らしい顔立ちの年輩の男女3人が商店の前でおしゃべりしていた。目があったのでかるく会釈をすると、おじさんが日本語で声をかけてくる。そして"園田さんのところを探してるの?”と日本語で聞かれる。そうです、と答えると、あそこだと行って教えてくれる。行き過ぎていた。
宿の隣には雑貨店があり、そこも日系の人が経営しているよう。ここで念願の耳かきをゲット。1万グアラニー(約250円)。ずっと探していたのだが、日本で使われているような耳かきはこれまでまったく見つからなかった。
3人部屋に案内され、そこで荷物を下ろし、移住地を見て回る。長袖のシャツを羽織って出たが、暑いので一度宿に戻り、半袖になる。半袖は久しぶり。南米と言ってもエクアドル、ペルーやボリビアの高地では長袖をずっと着ていたし、チリとアルゼンチンはやや寒かったし。
移住地内の主要な通りはアスファルトによる舗装ではなく、石畳と似た造りの道路が敷かれている。それ以外は、未舗装。土は赤茶けた粘土質の強い土。雨が降ったあとらしく、地面が湿っており、歩いているうちに靴底に土が張り付き、だんだん底が高くなる。
イグアス移住地内には両翼90mくらいの野球場も整備されている。90年代のヤクルト黄金期に活躍した岡林はここの出身。当時、選手名鑑を見ていて岡林の出身地がパラグアイとなっていたことに、へぇ、と感心した記憶があるが、まさかその彼の出身地に来ることになるとは不思議なものだ。
1kmほどアスンシオン寄りに行くと鳥居のある広場があり、農協がある。農協の前でがっちりした30~40代くらいの男の人がおしゃべりしていたが、使っている言語は日本語だった。
農協の経営するスーパーを見てみると、日本でなじみのある商品があるわあるわ。米からレトルトものからお菓子から日本製の商品がけっこう入っている。こちらで作られている味噌も売られているし、饅頭も売られている。
あんこの味を試したくて饅頭を購入。豆の品種の違いによるものなのか、それとも造り手の腕によるものなのかはわからないが、一般的な日本の饅頭のあんこよりも甘さがやわらかい感じを受ける。
家はコンクリートづくりの家が多い。
農地に続いているらしい緩い坂道を上っていくと見えてきたのは一面の大豆畑。はぁー、と思わず声が漏れる。どこが端なのかまったく見えない。
粘土質の強い土地でここまでの農地を築くのは相当な労力を要しただろうな、と思いつつ、端の見えない農地を歩いてまわろうという気力は起きなかったので、宿に戻ることにする。
晩飯は幹線道路沿いにある日系の人がやっているレストランに行く。19時頃行き、野菜いためを注文。山盛りはすばらしいが薄味好みのぼくには塩気がきつい。15000グアラニー(約400円)。
夜、イグアス日本語学校の子たちが書いた文集『はばたき』を読む。1999年度第14号。小学生低学年の部、高学年の部、中学生の部、青年の部とあり、計30人の文章が載っていた。最後の学校の教頭が書いた文に、”1号から14号までを読み返したところ、最初の頃の作品は生活感のあふれた力強いものが目立っていたが、最近は自分への問いかけ、悩みを訴える作品が多いようだ”とあったのが印象的。
18歳の女の子が書いたものは、自分の拒食症についてであったし、17歳の男の子は高校を決めるに当たって親とぶつかったこと(本人は商業高校に行きたかったが、親は農業高校へ行けと言い、またその通りにしてしまったよう)、そして卒業した今は何に向かって生きていけばいいかわからなくなっているということなどが書かれていた。
どこでも同じような問題が起こりうるのだと、改めて思う。
日中は半袖で十分なほど暑かったが、夕方以降は涼しく、寝苦しくもなく。
Fin
6時起床。7時頃にカーテンを開けると外はすでに明るかった。
一階のレストランで朝食。日本人ばかり、しかもおじさんおばんが多くなんか違和感がある。テレビNHKにあわされていて、涼宮ハルヒの声優をしているという人がゲストに呼ばれ、インタビューを受けていた。
朝食はセルフだが、内容はもろに日本食でジャポニカ米の白米に味噌汁があり、海苔や生卵があった。洋式のメニューも用意されており、おばさま二人組はそれを食べていた。
8時過ぎに宿を出る。近くの通りからバスに乗る。
8時半頃、ターミナル着。バス会社の窓口が並ぶ二階でチケットを買う。40000グアラニー。
一階の両替屋で両替。やはりレートは悪い。街中では1米ドル=4030~4050グアラニーだったが、ターミナルでは一律4000。
警備員にチケットをみせ乗り場に入る。
バスはすぐに来て、乗り込む。バスはマイクロバス程度の大きさ。乗ったらすぐに寝てしまう。
目的の41km地点(というふうに呼ばれている)には約5時間後の14時前に到着。ここにパラグアイ最大の日本人移住地がある。
幹線道路沿いにはレストランとガソリンスタンドなどいくつかの店があり、ガソリンスタンドで今晩泊まる予定をしているペンション園田の位置を聞く。
教えてもらった方向に歩いていたら日本人らしい顔立ちの年輩の男女3人が商店の前でおしゃべりしていた。目があったのでかるく会釈をすると、おじさんが日本語で声をかけてくる。そして"園田さんのところを探してるの?”と日本語で聞かれる。そうです、と答えると、あそこだと行って教えてくれる。行き過ぎていた。
宿の隣には雑貨店があり、そこも日系の人が経営しているよう。ここで念願の耳かきをゲット。1万グアラニー(約250円)。ずっと探していたのだが、日本で使われているような耳かきはこれまでまったく見つからなかった。
3人部屋に案内され、そこで荷物を下ろし、移住地を見て回る。長袖のシャツを羽織って出たが、暑いので一度宿に戻り、半袖になる。半袖は久しぶり。南米と言ってもエクアドル、ペルーやボリビアの高地では長袖をずっと着ていたし、チリとアルゼンチンはやや寒かったし。
移住地内の主要な通りはアスファルトによる舗装ではなく、石畳と似た造りの道路が敷かれている。それ以外は、未舗装。土は赤茶けた粘土質の強い土。雨が降ったあとらしく、地面が湿っており、歩いているうちに靴底に土が張り付き、だんだん底が高くなる。
イグアス移住地内には両翼90mくらいの野球場も整備されている。90年代のヤクルト黄金期に活躍した岡林はここの出身。当時、選手名鑑を見ていて岡林の出身地がパラグアイとなっていたことに、へぇ、と感心した記憶があるが、まさかその彼の出身地に来ることになるとは不思議なものだ。
1kmほどアスンシオン寄りに行くと鳥居のある広場があり、農協がある。農協の前でがっちりした30~40代くらいの男の人がおしゃべりしていたが、使っている言語は日本語だった。
農協の経営するスーパーを見てみると、日本でなじみのある商品があるわあるわ。米からレトルトものからお菓子から日本製の商品がけっこう入っている。こちらで作られている味噌も売られているし、饅頭も売られている。
あんこの味を試したくて饅頭を購入。豆の品種の違いによるものなのか、それとも造り手の腕によるものなのかはわからないが、一般的な日本の饅頭のあんこよりも甘さがやわらかい感じを受ける。
家はコンクリートづくりの家が多い。
農地に続いているらしい緩い坂道を上っていくと見えてきたのは一面の大豆畑。はぁー、と思わず声が漏れる。どこが端なのかまったく見えない。
粘土質の強い土地でここまでの農地を築くのは相当な労力を要しただろうな、と思いつつ、端の見えない農地を歩いてまわろうという気力は起きなかったので、宿に戻ることにする。
晩飯は幹線道路沿いにある日系の人がやっているレストランに行く。19時頃行き、野菜いためを注文。山盛りはすばらしいが薄味好みのぼくには塩気がきつい。15000グアラニー(約400円)。
夜、イグアス日本語学校の子たちが書いた文集『はばたき』を読む。1999年度第14号。小学生低学年の部、高学年の部、中学生の部、青年の部とあり、計30人の文章が載っていた。最後の学校の教頭が書いた文に、”1号から14号までを読み返したところ、最初の頃の作品は生活感のあふれた力強いものが目立っていたが、最近は自分への問いかけ、悩みを訴える作品が多いようだ”とあったのが印象的。
18歳の女の子が書いたものは、自分の拒食症についてであったし、17歳の男の子は高校を決めるに当たって親とぶつかったこと(本人は商業高校に行きたかったが、親は農業高校へ行けと言い、またその通りにしてしまったよう)、そして卒業した今は何に向かって生きていけばいいかわからなくなっているということなどが書かれていた。
どこでも同じような問題が起こりうるのだと、改めて思う。
日中は半袖で十分なほど暑かったが、夕方以降は涼しく、寝苦しくもなく。
Fin
アスンシオンー路上で稼ぐ人たち、マテ、アサードなどなど
08/06/03(火)
日の光に目が覚め、窓から外を眺めてみるとすっかり景色が変わっていた。なんだか熱帯的な風景。無秩序に木々が生い茂っており、人の手は入っていないように見える。アルゼンチンを移動している間、見えるのはただただだだっ広い平原(パンパ)ばかりだったから、とても新鮮に感じる。
パラグアイとの国境に着いたのは朝の7時頃だった。雨上がりのようであちこちに水たまりがある。
ボリビアとチリの国境、またはチリとアルゼンチンの国境と違うのは、手続きする建物の周りに両替商のおじさんおばさんがうろうろしていたり、パンや菓子などを売っている人たちがいるところだ。
あとパラグアイということもあって、マイカップにマイ水筒を持ってマテ茶を飲んでいる人たちが多いのも新鮮。マテ茶はアルゼンチンも飲むらしいが、ぼくが行った先では飲んでいる姿を見ることはほとんどなかった。
出入国の手続きはスムースで特に問題なく通過。荷物検査もほとんどフリーパスのようなもんだった。
パラグアイ側には町の方へ向かうバスが止まっていた。これが廃車寸前、あるいは廃車にすべき車をまだ走らせているようなバス。パラグアイはボリビアに次いで南米で”貧しい”国らしいから、それがこうしたバスにも見て取れる。
道路はボリビアと違ってしっかりしており、舗装の状態もいい。
ときおり民家が見え、トウキビ畑が見える。
1時間ほどすると沿道に建つ建物の密度が高くなり、商店なども現れる。建物やバスなどの色具合と曇天の空模様が調和して、全体がくすんでいる感じを受ける。
しばらく行くと正面に大きな橋が見えてくる。パラグアイ川のよう。水量豊富で川幅も広いが驚嘆するほどではない。色はチョコレート色。フェリーのような船も見え、いかにも深そうだ。
8時半頃にバスターミナルに到着。ボリビアのラパスと比べればだいぶ小さい。アルゼンチンのコルドバよりも小さい。とは言え、発着所は20台くらいが同時にとまれるからそれなりには大きい。
バスを降りてターミナルの建物内に入ると、なんだか久しぶりだな、と感じられる風景が広がっていた。床に敷物を敷いていわゆる民芸品を並べて売っている女性が数人。皆床に座り込んでいる。床に座り込むスタイルはインディヘナスタイル。顔立ちからパラグアイの先住民と呼ばれているグアラニー族の人らしい。
ターミナルには土産物品店やネット屋などもあったが、一番目についたのが両替所。そんなにたくさん必要なのか?と思うくらいある。他ではたいていあっても1つ2つだが、ここには10ほどもある。
ターミナル前のバス乗り場に行き、中心街に行くバスを探す。いろんな番号のバスがあり、どれに乗ればいいかわからないため、とりあえず一服。バス乗り場がある歩道には串焼きやチョリソ(ソーセージ)を売る屋台が並んでいたので、そこでチョリソを1本買う。肉だけかと思ったらパンが付いてくるようで、ホットドッグのようにしてもらった。1本3000グアラニー(約80円)。意外と高かった。
店のおじさんに乗るべきバスの番号を教えてもらい、それを待つ。20分ほど待ってようやくバスをゲット。客が少なかったのが良かった。バスの料金は前払いで運転手に直接渡す。2400グアラニーほどだった。
建物や店が切れ目なく続く道を走る。道路の状態はあまり良くない。舗装はされているもののがたがた揺れる。バスの質も関係しているかもしれないが。
20分ほどすると両脇に屋台や露店がひしめいている地帯に出る。ここが市場らしい。ごみごみしていて物があふれ、あたりは汚れていてなかなかいい感じだ。うまいものがありそう。
そこからさらに10分ほど乗ったところで目安にしていた通りに着いたので降りる。地図を見ながらホテル内山田という日系人が経営しているホテルに向かう。
迷うことなく到着。近くまで行くと宿の前にいた人がそこそこと指を指して教えてくれた。
ガラスの扉を入ると”いらっしゃいませ”と日本語で迎えられる。見た目はこちらの人。日本語はたどたどしいが、用は足せる。
部屋代を聞くと17米ドル相当だったので、ちょっと躊躇する。割引がないか聞いたが、もちろんない。しばらく考え込むが、ここらは安くても10ドルちょっとはするようだし、ここは朝飯がついているから、まぁいいかと予定通りに泊まることにする。
部屋は12畳ほどもあり、ベッドはダブルででかい。2003年頃の週刊ポストやジャンプが合わせて3冊ほどあり。ありがたいのはJICAが協力して作ったパラグアイ国内の旅行ガイドがあったこと。歩き方よりもよほど詳しいし、日本人移住地の場所なども示されている。
風呂場をのぞくと違和感を感じる。何かおかしいと思っていたら原因は風呂桶だった。これまで泊まってきた宿では風呂桶など見たことなかったから、なぜか新鮮に映る。
もっと良い部屋に泊まっている人はでかい風呂にも無料で入れるらしい。
エレベーターなどに貼られている注意書きは日本語併記。
荷物を置いて外に出る。もし簡単にとれるようだったらここでブラジルビザを取ろうと、まずはブラジル領事館に行くことにする。
宿のすぐ前にはチーパ(キャッサバを使ったパン)を売っているおばちゃんが数人いたので、1つ買う。1個1000グアラニー(約20円)。大きなドーナツ型(直径15cmほど)。見た目はベーグルに似ている。食べてみると食感はちょっと発泡スチロール的。キュッキュッとした歯ごたえ。
ブラジル領事館の入っているビルまでは歩いて15分程度。1階の受付の男性にブラジル領事館について聞くと、エレベーターで階を教えてくれる。
領事館に入ると記入台で白髪の年輩男性が日本語で話しながら申請書に記入していた。窓口でビザがほしい旨を伝えると、申請書をくれ、チケットとか写真(5cm×6cm)などを持ってきてと言われる。写真のサイズが手持ちのものより大きいし、やはりチケットが必要。チケットはバスでも良いと言うが、ここからブラジルに入るつもりはないから、ここで取るのはヤメにする。
領事館のある通りから川までの間が繁華街になっていて、洋服屋やレストランなどが並んでいる。しかし、繁華街には人通りは少ない。
両替できるところはいくつもあったので、レートを見比べ両替。だいたいどこも1米ドル=4050グアラニー。それからまちの北東にあたるパラグアイ川沿いに行く。
川沿いには広場が作られているところがあり、そこから川辺までの間がガイドブックなどでスラム街と呼ばれている地帯になっている。外務省の安全情報によれば、去年だったかにはここに迷い込んだ日本人旅行者が射殺される事件があったらしい。
広場よりも一段低い地帯となっているため、上から眺める形でその様子をうかがうことができる。どの家もさびたトタンで屋根をふき、壁もとってつけたようなものが多い。家と家の間の通路の幅は3人並んで歩くのは難しいくらい。文字通り密集している。
ふらふらしていたら道ばたでおしゃべりしていた10歳くらいの女の子2人が声をかけてきて、ぼくが手に提げていたみかんが入っているビニール袋を指さし、1つくれないかと言う。5~6個買っていたので、1人に1個ずつプレゼント。
しばらく行くとスラム街の方へ降りていく道があり、その下り口には3人の警官が立っていた。ぼくを見つけた一人の男の警官が、寄ってきてぼくのポケットを指さし、中のものを見せろと言ってくる。ポケットには財布の他に手帳や懐中電灯、カメラなどを突っ込んでいたから、何かごついものが入っていると思われたらしい。全部取り出して見せると、警官は懐中電灯などをちょっといじくり返してくれる。そして、カメラなどを取られないよう気をつけろと言われる。
川辺を離れ、店が並んでいる通りに行く。英雄広場の近くなどには路上の物売りが多い。絨毯のようなものを売っている人もいる。途中、マテ茶を飲もうと歩道で商売していたおばちゃんから1杯買う。しかし、これがミルクティーのようなもので、マテ茶ではなかったようだった。
昼飯を食おうと例の市場に行く。バスに乗って近くで下車。チリといいアルゼンチンといい市場はさっぱりしていてあまりおもしろくなかったが、ここは違う。歩道にまで店があふれ、なんだかごちゃごちゃだ。市場としての建物があるのかどうかもわからないくらい。
コピーされたCDやDVDが大量に売られており、服や薬局で売られているようなもん(薬意外)も多い。屋内で肉を売っているコーナーに行くと裁かれたばかりらしい肉の他に白色の細長い風船のようなものが売られている。腸管か何か膨らましたものなのか?
一角に食堂があったのでそこで昼飯。適当に頼むとふかしたキャッサバと鶏のスープが出てくる。
市場は平行する3本の通りにまたがっており、真ん中の通りは歩行者天国でテント屋台がズラズラと並び、店を持っていない人は肩からさまざまな商品をぶらさげ、歩きながら声をあげ商売をしている。さっき行った中心街はあまり活気を感じなかったが、こっちには人がぎょうさんいて活気がある。
野菜や果物などの品ぞろえはボリビアなどとあまり変わりない。
市場のあたりをぶらぶら歩き回る。すると鉄板焼の屋台を見つけたので、こちらにも立ち寄る。メニューはリブや分厚いチョリソ(ソーセージ)などの肉のみ。暑く油をしいた鉄板で豪快に焼かれている肉を注文。小さなまな板のような板の皿に盛られて渡される。マンジオカ(キャッサバ)は無料のサービスのようで、蒸かしただけの短いマンジオカを数本皿に盛ってくれる。肉は1つあたりだいたい3000グアラニー(約70円)くらいのよう。隣で食べていた兄ちゃんは次々と違う肉を注文しては食い、マンジオカがなくなると、それも追加で頼み、がつがつ食べている。アルゼンチンにもこういうところがあれば、もっと楽しかったろうにと思う。
市場の一帯は裏道のような細い道がごちゃごちゃと伸びていて、適当に歩いているとだんだんどの辺りにいるのかわからなくなるほど。しかしこの市場は見応えはあり。
腹が膨れたところでまたバスターミナルに行く。明日、ブラジル国境に近いイグアスに行くから、そこに行くバスの時刻と値段を聞いて回る。どこも1時間おきくらいに出ていて運賃も50000グアラニー(約1200円)程度。
チケットは明日買うことにしてまたまちに戻る。
今は使われていない鉄道駅跡近くを通って新市街とガイドブックにあった地域に向かう。バスに乗ってそちらに向かっていると高級そうなスーパーや服屋などが車窓から見える。一方で交差点で洗剤水と窓拭き棒(固有名わからず)を持って、自動車のフロントガラスを掃除している親子の姿も見る。その親子の子どもの方はまだ10歳にも満たなそうな女の子で、母親の方はおなかの大きくなった妊婦だった。
ショッピングセンターの前で降りる。
立派なショッピングセンターでぼくでも知っているようなブランド洋品店やスポーツ品店が入っている。英語の本のみを扱っている本屋もあり。
すでに夕方を過ぎ、暗くなったので適当にバスに乗って変えることにする。宿近くに行きそうなバスを適当に見定め乗り込んでみる。が、これが外れ。まっすぐ行くべき所を右に曲がり、どこか違うところへ行こうとするので、あわてて降りる。
それからまたバスに乗るが、これがけっこうな満員バス。なので、この人等がどこまで行くのか興味がわいたのでしばらくのり続けることにする。隣の人と体が触れるくらいにぎゅうぎゅう。
バスが走る幹線道路はなかなかにぎやかな通りでときおり日系人っぽい看板を出した店もある。自動車関係の会社では日本製品であることをうちだしている店もある。
でかいスーパーやショッピングセンターも3カ所くらいにあった。
30分立っても客は降りない。1時間ほどたった頃にはさすがに店並は消える。客も最大事の7割程度まで減る。さすがにこれ以上乗り続けるのは面倒だなと思い、適当に降りる。
降りて気づいたが、走っていたのは一方通行の道だった。バスを降りたら反対側に渡って、そこでまたバスを捕まえればいいと思っていたのだが、それができない。しょうがないので串焼き屋で一本買った序でに店のおばさんにバス乗り場を聞く。
幸い近くにあった。そこまで歩いていき、バスを待つ。7時すぎだったが、まだ中心部に向かうバスは多く10分ほど待っただけでバスをゲット。
市場でまた晩飯を食おうかと思って、その近くでバスを降りたところ、これがもぬけの殻。昼間には、物があふれ、人も多く集まっていたのに人っ子ひとりいない。屋台くらい開いているだろうと思っていたが、それさえもきれいに閉まっていた。宿に戻る途中の道でも開いている店は2軒ほど。昼とはうって変わって静かで寂しくなっていた。こんなに早くに店が閉まるとは、ボリビアとは大違いだ。
宿を目指してあるいていたら、道ばたの段ボールを拾って回っている人とすれ違う。
宿には日本料理店が併設されていたが、さすがにそこで食べるお金はない。なので、近くでまだ開いていたキオスクみたいな店でエンパナーダ(炒め物のパイ包み)を2個買って、それを晩飯代わりにする。
あとは宿で過ごす。
Fin
日の光に目が覚め、窓から外を眺めてみるとすっかり景色が変わっていた。なんだか熱帯的な風景。無秩序に木々が生い茂っており、人の手は入っていないように見える。アルゼンチンを移動している間、見えるのはただただだだっ広い平原(パンパ)ばかりだったから、とても新鮮に感じる。
パラグアイとの国境に着いたのは朝の7時頃だった。雨上がりのようであちこちに水たまりがある。
ボリビアとチリの国境、またはチリとアルゼンチンの国境と違うのは、手続きする建物の周りに両替商のおじさんおばさんがうろうろしていたり、パンや菓子などを売っている人たちがいるところだ。
あとパラグアイということもあって、マイカップにマイ水筒を持ってマテ茶を飲んでいる人たちが多いのも新鮮。マテ茶はアルゼンチンも飲むらしいが、ぼくが行った先では飲んでいる姿を見ることはほとんどなかった。
出入国の手続きはスムースで特に問題なく通過。荷物検査もほとんどフリーパスのようなもんだった。
パラグアイ側には町の方へ向かうバスが止まっていた。これが廃車寸前、あるいは廃車にすべき車をまだ走らせているようなバス。パラグアイはボリビアに次いで南米で”貧しい”国らしいから、それがこうしたバスにも見て取れる。
道路はボリビアと違ってしっかりしており、舗装の状態もいい。
ときおり民家が見え、トウキビ畑が見える。
1時間ほどすると沿道に建つ建物の密度が高くなり、商店なども現れる。建物やバスなどの色具合と曇天の空模様が調和して、全体がくすんでいる感じを受ける。
しばらく行くと正面に大きな橋が見えてくる。パラグアイ川のよう。水量豊富で川幅も広いが驚嘆するほどではない。色はチョコレート色。フェリーのような船も見え、いかにも深そうだ。
8時半頃にバスターミナルに到着。ボリビアのラパスと比べればだいぶ小さい。アルゼンチンのコルドバよりも小さい。とは言え、発着所は20台くらいが同時にとまれるからそれなりには大きい。
バスを降りてターミナルの建物内に入ると、なんだか久しぶりだな、と感じられる風景が広がっていた。床に敷物を敷いていわゆる民芸品を並べて売っている女性が数人。皆床に座り込んでいる。床に座り込むスタイルはインディヘナスタイル。顔立ちからパラグアイの先住民と呼ばれているグアラニー族の人らしい。
ターミナルには土産物品店やネット屋などもあったが、一番目についたのが両替所。そんなにたくさん必要なのか?と思うくらいある。他ではたいていあっても1つ2つだが、ここには10ほどもある。
ターミナル前のバス乗り場に行き、中心街に行くバスを探す。いろんな番号のバスがあり、どれに乗ればいいかわからないため、とりあえず一服。バス乗り場がある歩道には串焼きやチョリソ(ソーセージ)を売る屋台が並んでいたので、そこでチョリソを1本買う。肉だけかと思ったらパンが付いてくるようで、ホットドッグのようにしてもらった。1本3000グアラニー(約80円)。意外と高かった。
店のおじさんに乗るべきバスの番号を教えてもらい、それを待つ。20分ほど待ってようやくバスをゲット。客が少なかったのが良かった。バスの料金は前払いで運転手に直接渡す。2400グアラニーほどだった。
建物や店が切れ目なく続く道を走る。道路の状態はあまり良くない。舗装はされているもののがたがた揺れる。バスの質も関係しているかもしれないが。
20分ほどすると両脇に屋台や露店がひしめいている地帯に出る。ここが市場らしい。ごみごみしていて物があふれ、あたりは汚れていてなかなかいい感じだ。うまいものがありそう。
そこからさらに10分ほど乗ったところで目安にしていた通りに着いたので降りる。地図を見ながらホテル内山田という日系人が経営しているホテルに向かう。
迷うことなく到着。近くまで行くと宿の前にいた人がそこそこと指を指して教えてくれた。
ガラスの扉を入ると”いらっしゃいませ”と日本語で迎えられる。見た目はこちらの人。日本語はたどたどしいが、用は足せる。
部屋代を聞くと17米ドル相当だったので、ちょっと躊躇する。割引がないか聞いたが、もちろんない。しばらく考え込むが、ここらは安くても10ドルちょっとはするようだし、ここは朝飯がついているから、まぁいいかと予定通りに泊まることにする。
部屋は12畳ほどもあり、ベッドはダブルででかい。2003年頃の週刊ポストやジャンプが合わせて3冊ほどあり。ありがたいのはJICAが協力して作ったパラグアイ国内の旅行ガイドがあったこと。歩き方よりもよほど詳しいし、日本人移住地の場所なども示されている。
風呂場をのぞくと違和感を感じる。何かおかしいと思っていたら原因は風呂桶だった。これまで泊まってきた宿では風呂桶など見たことなかったから、なぜか新鮮に映る。
もっと良い部屋に泊まっている人はでかい風呂にも無料で入れるらしい。
エレベーターなどに貼られている注意書きは日本語併記。
荷物を置いて外に出る。もし簡単にとれるようだったらここでブラジルビザを取ろうと、まずはブラジル領事館に行くことにする。
宿のすぐ前にはチーパ(キャッサバを使ったパン)を売っているおばちゃんが数人いたので、1つ買う。1個1000グアラニー(約20円)。大きなドーナツ型(直径15cmほど)。見た目はベーグルに似ている。食べてみると食感はちょっと発泡スチロール的。キュッキュッとした歯ごたえ。
ブラジル領事館の入っているビルまでは歩いて15分程度。1階の受付の男性にブラジル領事館について聞くと、エレベーターで階を教えてくれる。
領事館に入ると記入台で白髪の年輩男性が日本語で話しながら申請書に記入していた。窓口でビザがほしい旨を伝えると、申請書をくれ、チケットとか写真(5cm×6cm)などを持ってきてと言われる。写真のサイズが手持ちのものより大きいし、やはりチケットが必要。チケットはバスでも良いと言うが、ここからブラジルに入るつもりはないから、ここで取るのはヤメにする。
領事館のある通りから川までの間が繁華街になっていて、洋服屋やレストランなどが並んでいる。しかし、繁華街には人通りは少ない。
両替できるところはいくつもあったので、レートを見比べ両替。だいたいどこも1米ドル=4050グアラニー。それからまちの北東にあたるパラグアイ川沿いに行く。
川沿いには広場が作られているところがあり、そこから川辺までの間がガイドブックなどでスラム街と呼ばれている地帯になっている。外務省の安全情報によれば、去年だったかにはここに迷い込んだ日本人旅行者が射殺される事件があったらしい。
広場よりも一段低い地帯となっているため、上から眺める形でその様子をうかがうことができる。どの家もさびたトタンで屋根をふき、壁もとってつけたようなものが多い。家と家の間の通路の幅は3人並んで歩くのは難しいくらい。文字通り密集している。
ふらふらしていたら道ばたでおしゃべりしていた10歳くらいの女の子2人が声をかけてきて、ぼくが手に提げていたみかんが入っているビニール袋を指さし、1つくれないかと言う。5~6個買っていたので、1人に1個ずつプレゼント。
しばらく行くとスラム街の方へ降りていく道があり、その下り口には3人の警官が立っていた。ぼくを見つけた一人の男の警官が、寄ってきてぼくのポケットを指さし、中のものを見せろと言ってくる。ポケットには財布の他に手帳や懐中電灯、カメラなどを突っ込んでいたから、何かごついものが入っていると思われたらしい。全部取り出して見せると、警官は懐中電灯などをちょっといじくり返してくれる。そして、カメラなどを取られないよう気をつけろと言われる。
川辺を離れ、店が並んでいる通りに行く。英雄広場の近くなどには路上の物売りが多い。絨毯のようなものを売っている人もいる。途中、マテ茶を飲もうと歩道で商売していたおばちゃんから1杯買う。しかし、これがミルクティーのようなもので、マテ茶ではなかったようだった。
昼飯を食おうと例の市場に行く。バスに乗って近くで下車。チリといいアルゼンチンといい市場はさっぱりしていてあまりおもしろくなかったが、ここは違う。歩道にまで店があふれ、なんだかごちゃごちゃだ。市場としての建物があるのかどうかもわからないくらい。
コピーされたCDやDVDが大量に売られており、服や薬局で売られているようなもん(薬意外)も多い。屋内で肉を売っているコーナーに行くと裁かれたばかりらしい肉の他に白色の細長い風船のようなものが売られている。腸管か何か膨らましたものなのか?
一角に食堂があったのでそこで昼飯。適当に頼むとふかしたキャッサバと鶏のスープが出てくる。
市場は平行する3本の通りにまたがっており、真ん中の通りは歩行者天国でテント屋台がズラズラと並び、店を持っていない人は肩からさまざまな商品をぶらさげ、歩きながら声をあげ商売をしている。さっき行った中心街はあまり活気を感じなかったが、こっちには人がぎょうさんいて活気がある。
野菜や果物などの品ぞろえはボリビアなどとあまり変わりない。
市場のあたりをぶらぶら歩き回る。すると鉄板焼の屋台を見つけたので、こちらにも立ち寄る。メニューはリブや分厚いチョリソ(ソーセージ)などの肉のみ。暑く油をしいた鉄板で豪快に焼かれている肉を注文。小さなまな板のような板の皿に盛られて渡される。マンジオカ(キャッサバ)は無料のサービスのようで、蒸かしただけの短いマンジオカを数本皿に盛ってくれる。肉は1つあたりだいたい3000グアラニー(約70円)くらいのよう。隣で食べていた兄ちゃんは次々と違う肉を注文しては食い、マンジオカがなくなると、それも追加で頼み、がつがつ食べている。アルゼンチンにもこういうところがあれば、もっと楽しかったろうにと思う。
市場の一帯は裏道のような細い道がごちゃごちゃと伸びていて、適当に歩いているとだんだんどの辺りにいるのかわからなくなるほど。しかしこの市場は見応えはあり。
腹が膨れたところでまたバスターミナルに行く。明日、ブラジル国境に近いイグアスに行くから、そこに行くバスの時刻と値段を聞いて回る。どこも1時間おきくらいに出ていて運賃も50000グアラニー(約1200円)程度。
チケットは明日買うことにしてまたまちに戻る。
今は使われていない鉄道駅跡近くを通って新市街とガイドブックにあった地域に向かう。バスに乗ってそちらに向かっていると高級そうなスーパーや服屋などが車窓から見える。一方で交差点で洗剤水と窓拭き棒(固有名わからず)を持って、自動車のフロントガラスを掃除している親子の姿も見る。その親子の子どもの方はまだ10歳にも満たなそうな女の子で、母親の方はおなかの大きくなった妊婦だった。
ショッピングセンターの前で降りる。
立派なショッピングセンターでぼくでも知っているようなブランド洋品店やスポーツ品店が入っている。英語の本のみを扱っている本屋もあり。
すでに夕方を過ぎ、暗くなったので適当にバスに乗って変えることにする。宿近くに行きそうなバスを適当に見定め乗り込んでみる。が、これが外れ。まっすぐ行くべき所を右に曲がり、どこか違うところへ行こうとするので、あわてて降りる。
それからまたバスに乗るが、これがけっこうな満員バス。なので、この人等がどこまで行くのか興味がわいたのでしばらくのり続けることにする。隣の人と体が触れるくらいにぎゅうぎゅう。
バスが走る幹線道路はなかなかにぎやかな通りでときおり日系人っぽい看板を出した店もある。自動車関係の会社では日本製品であることをうちだしている店もある。
でかいスーパーやショッピングセンターも3カ所くらいにあった。
30分立っても客は降りない。1時間ほどたった頃にはさすがに店並は消える。客も最大事の7割程度まで減る。さすがにこれ以上乗り続けるのは面倒だなと思い、適当に降りる。
降りて気づいたが、走っていたのは一方通行の道だった。バスを降りたら反対側に渡って、そこでまたバスを捕まえればいいと思っていたのだが、それができない。しょうがないので串焼き屋で一本買った序でに店のおばさんにバス乗り場を聞く。
幸い近くにあった。そこまで歩いていき、バスを待つ。7時すぎだったが、まだ中心部に向かうバスは多く10分ほど待っただけでバスをゲット。
市場でまた晩飯を食おうかと思って、その近くでバスを降りたところ、これがもぬけの殻。昼間には、物があふれ、人も多く集まっていたのに人っ子ひとりいない。屋台くらい開いているだろうと思っていたが、それさえもきれいに閉まっていた。宿に戻る途中の道でも開いている店は2軒ほど。昼とはうって変わって静かで寂しくなっていた。こんなに早くに店が閉まるとは、ボリビアとは大違いだ。
宿を目指してあるいていたら、道ばたの段ボールを拾って回っている人とすれ違う。
宿には日本料理店が併設されていたが、さすがにそこで食べるお金はない。なので、近くでまだ開いていたキオスクみたいな店でエンパナーダ(炒め物のパイ包み)を2個買って、それを晩飯代わりにする。
あとは宿で過ごす。
Fin
2008年6月4日水曜日
アスンシオン入り
パラグアイはアスンシオンに今朝着きました。コルドバからはバスで約19時間。わりと近かったですね。
南米ではボリビアについで貧しいと言われている国ですが、確かにチリやアルゼンチンと較べると、まったく雰囲気が違い、ボリビアやペルーなどに雰囲気は似ています。ただ、民族服を着た人はほとんど見ない点はチリやアルゼンチンと同じですが。
ここはスペイン語とグアラニー語の2言語が公用語となっている国ということで、まちを歩いているとこれまで聞いたことない言葉が聞こえてきます。ちょっとだけ聞いた限りでは中国語っぽく聞こえるのですが、たぶん正確には似てはいないでしょう。
ボリビアと違って宿代が軒並み10ドル前後と高いため、明日にはブラジル国境の日本人移民の入植地に行き、するすると移動して、今週末にはボリビアのサンタクルスに移動予定です。これからしばらくは日本人移民の多い地域を回ります。
では。
2008.6.3. 20:40
Asuncion,Paraguay
大きな地図で見る
------------------------------
日系パラグアイ移民略史
http://www.discovernikkei.org/wiki/index.php/Migration_Historical_Overview_Paraguay_JA
パラグアイにおける日本人移住の歴史
http://federacion.hp.infoseek.co.jp/inmigracion/inmigracion.html
------------------------------
パラグアイに対する渡航情報(危険情報)の発出(2008/02/27)
首都アスンシオン市及びその周辺都市、イタプア県エンカルナシオン市
及びアマンバイ県ペドロ・フアン・カバジェロ市
:「十分注意してください。」(継続)
(4)アスンシオン市及び周辺都市(フェルナンド・デラ・モラ市、サン・
ロレンソ市、ルケ市、カピアタ市、ニェエンブ市、ランバレ市、ビジャ
・エリサ市)
:「十分注意してください。」
同地域の治安は、経済の低迷により地方の貧困層が流入したことか
ら、急激に悪化の一途をたどっています。
アスンシオン市及びその周辺では、2001年以降、政治家、農業主等の
富裕層の子女を対象とした営利目的の誘拐事件が発生しています。特
に、アスンシオン市のパラグアイ川沿岸のリカルド・ブルガータ地区
(通称チャカリータと呼ばれる地域)は、貧困層や犯罪者が多く暮らす
危険地域で、2007年2月5日、同地区に迷い込んだ邦人観光客が強盗に射
殺される事件が発生しています。
また、2004年に発生した元大統領の子女の誘拐殺人事件では、その背
後にコロンビアのゲリラ組織の関与が明らかとなり、周辺国同様、誘拐
のビジネス化が懸念されています。誘拐の手口は、拳銃等で武装した5、
6人の犯人グループに拉致されるケースがほとんどです。誘拐の被害を
未然に防ぐため、「目立たない」、「用心を怠らない」、「行動を予知
されない」の3原則を守るようにしてください。(詳細は外務省ホーム
ページ: http://www.anzen.mofa.go.jp/pamph/pamph_04.html を参照
してください)。また、「短時間誘拐」も発生していますので、派手な
服装を避ける等の対策を講じ、被害を防止してください。
最近起きている犯罪としては、路上での携帯電話をねらった強盗、夜
間に青少年グループが酒代欲しさに街灯の少ない場所で通行料(ペアヘ
ロ)を要求する一種の脅迫、「トルトレロ」と称する物売りによるひっ
たくり等があり、パラグアイ人を始めとして日系人や日本人にも被害者
が出ています。また、路線バスでは、スリのほかに婦女暴行事件も散見
されます。(「トルトレロ」の特徴としては、自家用車やタクシーが信
号待ちをしていたり、自宅車庫に車を入れようと一時停止しているとこ
ろをねらって、物売りを装った犯人が、車の窓ガラスを割り、車内に置
かれたカバン等をひったくるというものです。)
つきましては、これらの地域では貴金属を身につけない、貴重品やカ
バンを持ち歩かないよう心掛けるとともに、夜間、暗い道での一人歩き
や、乗客が少ないバスには乗車しないようお勧めします。
特に注意を要する地区
バニャード・タクンブ地区、サンタ・アナ地区、カテウラ地区、サン
・ブラス地区、サン・カジェタノ地区、サン・ヘラルド地区、ビリャ・
コラダ地区、ミクロ・セントロ地区、クワトロ・ホモネス地区、メルカ
ード・クワトロ地区、テルミナル地区、テンベタル地区、リカルド・ブ
ルガーダ地区(通称チャカリータ)、サン・アントニオ地区、タクンブ
地区、旧市街
上記の地域は、アルコール中毒者や窃盗、スリ、婦女暴行等多くの犯
罪者の隠れ家となっている地域であり、また、ストリート・チルドレ
ン、売春婦、麻薬中毒患者等も数多くたむろしており、夜間は特に危険
です。
南米ではボリビアについで貧しいと言われている国ですが、確かにチリやアルゼンチンと較べると、まったく雰囲気が違い、ボリビアやペルーなどに雰囲気は似ています。ただ、民族服を着た人はほとんど見ない点はチリやアルゼンチンと同じですが。
ここはスペイン語とグアラニー語の2言語が公用語となっている国ということで、まちを歩いているとこれまで聞いたことない言葉が聞こえてきます。ちょっとだけ聞いた限りでは中国語っぽく聞こえるのですが、たぶん正確には似てはいないでしょう。
ボリビアと違って宿代が軒並み10ドル前後と高いため、明日にはブラジル国境の日本人移民の入植地に行き、するすると移動して、今週末にはボリビアのサンタクルスに移動予定です。これからしばらくは日本人移民の多い地域を回ります。
では。
2008.6.3. 20:40
Asuncion,Paraguay
大きな地図で見る
------------------------------
日系パラグアイ移民略史
http://www.discovernikkei.org/wiki/index.php/Migration_Historical_Overview_Paraguay_JA
パラグアイにおける日本人移住の歴史
http://federacion.hp.infoseek.co.jp/inmigracion/inmigracion.html
------------------------------
パラグアイに対する渡航情報(危険情報)の発出(2008/02/27)
首都アスンシオン市及びその周辺都市、イタプア県エンカルナシオン市
及びアマンバイ県ペドロ・フアン・カバジェロ市
:「十分注意してください。」(継続)
(4)アスンシオン市及び周辺都市(フェルナンド・デラ・モラ市、サン・
ロレンソ市、ルケ市、カピアタ市、ニェエンブ市、ランバレ市、ビジャ
・エリサ市)
:「十分注意してください。」
同地域の治安は、経済の低迷により地方の貧困層が流入したことか
ら、急激に悪化の一途をたどっています。
アスンシオン市及びその周辺では、2001年以降、政治家、農業主等の
富裕層の子女を対象とした営利目的の誘拐事件が発生しています。特
に、アスンシオン市のパラグアイ川沿岸のリカルド・ブルガータ地区
(通称チャカリータと呼ばれる地域)は、貧困層や犯罪者が多く暮らす
危険地域で、2007年2月5日、同地区に迷い込んだ邦人観光客が強盗に射
殺される事件が発生しています。
また、2004年に発生した元大統領の子女の誘拐殺人事件では、その背
後にコロンビアのゲリラ組織の関与が明らかとなり、周辺国同様、誘拐
のビジネス化が懸念されています。誘拐の手口は、拳銃等で武装した5、
6人の犯人グループに拉致されるケースがほとんどです。誘拐の被害を
未然に防ぐため、「目立たない」、「用心を怠らない」、「行動を予知
されない」の3原則を守るようにしてください。(詳細は外務省ホーム
ページ: http://www.anzen.mofa.go.jp/pamph/pamph_04.html を参照
してください)。また、「短時間誘拐」も発生していますので、派手な
服装を避ける等の対策を講じ、被害を防止してください。
最近起きている犯罪としては、路上での携帯電話をねらった強盗、夜
間に青少年グループが酒代欲しさに街灯の少ない場所で通行料(ペアヘ
ロ)を要求する一種の脅迫、「トルトレロ」と称する物売りによるひっ
たくり等があり、パラグアイ人を始めとして日系人や日本人にも被害者
が出ています。また、路線バスでは、スリのほかに婦女暴行事件も散見
されます。(「トルトレロ」の特徴としては、自家用車やタクシーが信
号待ちをしていたり、自宅車庫に車を入れようと一時停止しているとこ
ろをねらって、物売りを装った犯人が、車の窓ガラスを割り、車内に置
かれたカバン等をひったくるというものです。)
つきましては、これらの地域では貴金属を身につけない、貴重品やカ
バンを持ち歩かないよう心掛けるとともに、夜間、暗い道での一人歩き
や、乗客が少ないバスには乗車しないようお勧めします。
特に注意を要する地区
バニャード・タクンブ地区、サンタ・アナ地区、カテウラ地区、サン
・ブラス地区、サン・カジェタノ地区、サン・ヘラルド地区、ビリャ・
コラダ地区、ミクロ・セントロ地区、クワトロ・ホモネス地区、メルカ
ード・クワトロ地区、テルミナル地区、テンベタル地区、リカルド・ブ
ルガーダ地区(通称チャカリータ)、サン・アントニオ地区、タクンブ
地区、旧市街
上記の地域は、アルコール中毒者や窃盗、スリ、婦女暴行等多くの犯
罪者の隠れ家となっている地域であり、また、ストリート・チルドレ
ン、売春婦、麻薬中毒患者等も数多くたむろしており、夜間は特に危険
です。
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