08/06/26(木) くもり
今朝も7時過ぎに起床。いつものように旨いご飯をごちそうになる。
その後、荷造り。バスは10時発だったため9時半くらいに着くよう車で送ってもらう。この間まちを案内してくれた彼も一緒。
バスに乗車するまで待っててくれ、バスが入ってきたところで握手をしてお別れ。のんびりできたフロリアノポリスを離れる。
バスは大型のバス。チリとアルゼンチンと比べるとやや見劣りする。
車窓から見える景色は、クリチバーフロリアノポリス間で見た景色と同じ感じ。低い山が続き、沿道にぽつぽつ民家が見え、農地以外は草が生い茂る雑草地。
例のごとく、バスに乗ると就寝。なんでこうバスに乗ると寝てしまうのか不思議だ。
昼はJAPONと看板に入ったレストラン。バスを降りると同じバスに乗っているブラジル人の客が、看板を指さしながらぼくの方を見て”JAPON”とにこにこしながら言う。
日本食のレストランかと思いきやそうではなかった。ポルキロ(por kg)と呼ばれている量り売りのレストランで、メニューはブラジルで一般的なものばかり。ここ数日は、ぜいたくばかりして、かつ腹もまだけっこう膨れていたので、ぼくはパス。アルゼンチンなどのようにバスの乗車券代に食事代込みだったら食ったんだけどな。
30分ほど休憩して、またバスは走り出す。外は曇っていて景色に冴えがない。ぼくは暇つぶしに数独をする。
17時、ポルトアレグレのバスターミナルに到着。なかなか賑やかで整理されたターミナルだった。作りもそうだが、白人が多いからヨーロッパっぽい。15分ほど停車した後、再発車。
21時にはまたレストランで晩飯休憩。ぼくはクッキーでしんぐ。
夜はたいして寒くなく、ゆっくり眠ることができる。
2008年8月7日木曜日
2008年8月2日土曜日
フロリアノポリスの高級住宅街、etc
08/06/25(水)くもり
7時前に起床。
今朝は近くの浜に魚の水揚げ現場を見に行くことになっていたが、この天気では魚はあがっていないだろうと予定より遅れて8時すぎに車に乗せてもらい、家を出る。
Ingeleses(イングレーゼス)という地域にある浜辺に行く。この地の名前はイギリス軍がたどり着いたことに由来するらしい。浜から200mあたりのところに小さな漁船(ボート)が浮かんでいたが、魚を水揚げしている様子は見えなかった。魚がある日は、漁船は浜に乗りあげられないために海の中に停泊したまま、小さな手漕ぎのボートに魚を移してから、浜まで魚を運んでくるらしい。そして、その魚を求めて地元の人が浜に集まってくるという。いろんな魚が見られるかもと楽しみにしていたが、お天道さまが相手じゃしょうがない。
それからF1レーサーも遊びに来るというゴーカート場を見に行く。ここに住む日系人の人がやっているというアイスクリーム屋のところからあがった高台から眺める。この時間だから当然、何も走っていない。あのアイルトン・セナがブラジル人だったなんて、この旅行でガイドブックにあったのを読んで初めて知ったし、現在のF1界のトップレーサーにブラジル人がけっこういるということはKさんの話で初めて知った。
サーキット場を眺めながら、ブラジルという国はまったく不思議な国だと改めて思う。アマゾンでは、昔ながらの狩猟採集の生活を続けている人がいる一方で、F1という自動車技術のある面での先端を集めたスポーツ(?)のトッププロがいる。この人らはお互い同じ国の人間だと思っているのだろうか。もっとも、アマゾンの人たちの中にはブラジルという国の一員にされることを迷惑に思っている人もいるだろうし、ブラジル国民だなんて呼ばれたくもないかもしれない。ただ、国という単位で見たときにはそんな疑問を抱いてしまう。
この後、フロリアノポリスでも高級住宅が並ぶ地域に連れていってもらう。バカみたいにどでかい屋敷などはなかったが、それでも、いやはやご立派なお宅が多いこと。数億円はするらしい。不思議なのは外壁がなく、あまり警備がきつそうではないこと。まあ、ここでなら怪しい人は着ている服や乗っている車でわかるかもしれないけど。
こうした豪邸の中にはコロンビアの麻薬王の家もあったらしい。ちょっと前に捕まったために、その家は接収さが住んでいたたらしいが、その際には壁から札束が出てきたというニュースが流れたらしい。
その後、高級住宅街近くにある要塞へ。大陸側と向かい合う形で要塞は作られており、ここの他にも向かいあっている大陸側や間に浮かぶ島にも要塞はあるらしい。スペイン軍などが侵入するとあらばここから砲撃することになっていたよう。要塞は今は博物館となっていて入場料を払わないと中を見ることはできない。なぜか表の看板にある開館時間を過ぎているのに門は開いておらず、そのため中をみることはできず外から外壁を眺めただけで、そこを去る。
家に帰る途中、バスのチケットを売っている代理店でブエノスアイレス行きのチケットを購入。パスポートの提示を求められ、さらに独身かどうかも聞かれる。バスに乗るのになぜそんな質問が必要なのか謎だ。
バス代は156ヘアル(約11000円)。10時15分発でだいたい27時間の移動らしい。
帰りに魚屋に寄る。牡蠣とボラの砂肝(?)を購入。
家に戻ってお昼ご飯。フェジョン(黒豆と豚肉?の煮込み)は、マンジオカ(キャッサバ)の粉をお湯で溶いたもの(できたてのカライモ餅のようにやわい。葛湯のような感じ)にかけて食べる。なかなかうまい。フェジョンは塩味。牡蠣は生でリモンを絞っていただく。日本で食べる牡蠣よりもなんだか甘みが濃いように感じる。これも美味。
ボラの砂肝は串刺しにして炭火で焼く(ぼくは見ているだけ)。いい具合に焼けたものを食ってみたが、かなり生くさい。歯ごたえは鶏の砂肝に似ていてシャクシャクしている。においを消せればもっといい。夕方に冷えたものを食ったがこっちの方がうまかった。薫製にするといいように思う。
午後は昼寝などでのんびり。
夜は鶏肉のお粥。これもまた美味なり。昼に焼いたボラの砂肝は冷えて一段とよし。食後、南米のサッカークラブのナンバーワンを決める試合を見る。ブラジルのチームは前半で4点も取られまったくだめ。全部みることなく寝る。
Fin
7時前に起床。
今朝は近くの浜に魚の水揚げ現場を見に行くことになっていたが、この天気では魚はあがっていないだろうと予定より遅れて8時すぎに車に乗せてもらい、家を出る。
Ingeleses(イングレーゼス)という地域にある浜辺に行く。この地の名前はイギリス軍がたどり着いたことに由来するらしい。浜から200mあたりのところに小さな漁船(ボート)が浮かんでいたが、魚を水揚げしている様子は見えなかった。魚がある日は、漁船は浜に乗りあげられないために海の中に停泊したまま、小さな手漕ぎのボートに魚を移してから、浜まで魚を運んでくるらしい。そして、その魚を求めて地元の人が浜に集まってくるという。いろんな魚が見られるかもと楽しみにしていたが、お天道さまが相手じゃしょうがない。
それからF1レーサーも遊びに来るというゴーカート場を見に行く。ここに住む日系人の人がやっているというアイスクリーム屋のところからあがった高台から眺める。この時間だから当然、何も走っていない。あのアイルトン・セナがブラジル人だったなんて、この旅行でガイドブックにあったのを読んで初めて知ったし、現在のF1界のトップレーサーにブラジル人がけっこういるということはKさんの話で初めて知った。
サーキット場を眺めながら、ブラジルという国はまったく不思議な国だと改めて思う。アマゾンでは、昔ながらの狩猟採集の生活を続けている人がいる一方で、F1という自動車技術のある面での先端を集めたスポーツ(?)のトッププロがいる。この人らはお互い同じ国の人間だと思っているのだろうか。もっとも、アマゾンの人たちの中にはブラジルという国の一員にされることを迷惑に思っている人もいるだろうし、ブラジル国民だなんて呼ばれたくもないかもしれない。ただ、国という単位で見たときにはそんな疑問を抱いてしまう。
この後、フロリアノポリスでも高級住宅が並ぶ地域に連れていってもらう。バカみたいにどでかい屋敷などはなかったが、それでも、いやはやご立派なお宅が多いこと。数億円はするらしい。不思議なのは外壁がなく、あまり警備がきつそうではないこと。まあ、ここでなら怪しい人は着ている服や乗っている車でわかるかもしれないけど。
こうした豪邸の中にはコロンビアの麻薬王の家もあったらしい。ちょっと前に捕まったために、その家は接収さが住んでいたたらしいが、その際には壁から札束が出てきたというニュースが流れたらしい。
その後、高級住宅街近くにある要塞へ。大陸側と向かい合う形で要塞は作られており、ここの他にも向かいあっている大陸側や間に浮かぶ島にも要塞はあるらしい。スペイン軍などが侵入するとあらばここから砲撃することになっていたよう。要塞は今は博物館となっていて入場料を払わないと中を見ることはできない。なぜか表の看板にある開館時間を過ぎているのに門は開いておらず、そのため中をみることはできず外から外壁を眺めただけで、そこを去る。
家に帰る途中、バスのチケットを売っている代理店でブエノスアイレス行きのチケットを購入。パスポートの提示を求められ、さらに独身かどうかも聞かれる。バスに乗るのになぜそんな質問が必要なのか謎だ。
バス代は156ヘアル(約11000円)。10時15分発でだいたい27時間の移動らしい。
帰りに魚屋に寄る。牡蠣とボラの砂肝(?)を購入。
家に戻ってお昼ご飯。フェジョン(黒豆と豚肉?の煮込み)は、マンジオカ(キャッサバ)の粉をお湯で溶いたもの(できたてのカライモ餅のようにやわい。葛湯のような感じ)にかけて食べる。なかなかうまい。フェジョンは塩味。牡蠣は生でリモンを絞っていただく。日本で食べる牡蠣よりもなんだか甘みが濃いように感じる。これも美味。
ボラの砂肝は串刺しにして炭火で焼く(ぼくは見ているだけ)。いい具合に焼けたものを食ってみたが、かなり生くさい。歯ごたえは鶏の砂肝に似ていてシャクシャクしている。においを消せればもっといい。夕方に冷えたものを食ったがこっちの方がうまかった。薫製にするといいように思う。
午後は昼寝などでのんびり。
夜は鶏肉のお粥。これもまた美味なり。昼に焼いたボラの砂肝は冷えて一段とよし。食後、南米のサッカークラブのナンバーワンを決める試合を見る。ブラジルのチームは前半で4点も取られまったくだめ。全部みることなく寝る。
Fin
フロリアノポリスで沈没
08/06/24(火) くもり
今日は朝方浜辺を散歩した後、家でのんびり。数独にはまる。
夕方前に朝方行った近くの海岸にあるという動物の岩絵を見に行く。何千年前だったかに書かれたものらしい。それはリゾートホテルのすぐ近くにある。
その他は特に遠出することもなくすごす。
Fin
今日は朝方浜辺を散歩した後、家でのんびり。数独にはまる。
夕方前に朝方行った近くの海岸にあるという動物の岩絵を見に行く。何千年前だったかに書かれたものらしい。それはリゾートホテルのすぐ近くにある。
その他は特に遠出することもなくすごす。
Fin
フロリアーノポリスのまちめぐり
08/06/23(月) 晴れときどきくもり
・湖、湾
・メルカドーボラ、イカ、タコ、牡蠣
・フロリッパショッピング
・ボラの刺身
今朝もうまい朝食をごちそうになり、それからお出かけ。近くに住んでいるという日系の人を紹介してくれ、彼がフロリアノポリスを案内してくれるという。彼の年齢は25歳前後。父親が日系で母親がイタリア系。外見はまったくイタリア系で、一目見たときは今日案内してくれる人だとはわからなかった。Aさんが言うには彼の弟はまったく日本人的な外見をしているらしい。
彼は2年前まで日本で働いていたらしい。最初は滋賀だったかのソニーの工場にいたらしいが、ブラジル人同士の喧嘩が多かったため半年かそこらでそこをやめ、それから島根の太田(だったと思う)の村田製作所の工場に移ったという。ちなみにソニーでは労働時間がかなり長く、けっこう大変だった模様。そのためソニー製品は嫌いになったとか。
島根の生活はずいぶん楽しかったよう。日本人、ブラジル人双方の職場仲間とも楽しくすごせ、サッカーをしたり、小旅行をしたりしたらしい。
彼はここに弟と一緒に住んでいて、車も持っている。その車に乗せてもらい、まちめぐりとなった。
島を1周するような感じでまわる。途中、眺めのいい場所で休憩。
中心部に行き、バスターミナルの駐車場に車を置き、歩いて市街地散策。ターミナルの近くには市場があったので、そこをまず見る。煉瓦づくりの建物2棟の中に店が並んでいて、1棟は靴屋や服屋ばかり、もう1棟は魚や野菜、果物屋ばかりだった。
特に魚屋が多く、イカ、タコ、牡蠣、なまずのような顔をした魚などいろいろ売られている。なかでもボラは大量に売られており、その卵も売られていた。
ここの市場は全長100m程度で一本道の両脇に店がならんでいるだけなので小さい。その店もきれいに整備されているので、市場と言うよりも商店街という感じだ。
そこから陸地川に1本入った通りが歩行者天国になっていたので、そこがメインストリートのよう。基本的にヨーロッパ的。多様な店が立ち並んでいるが、面白味にはかける。見慣れた風景という感じ。
ただ路上で物売りしている人たちはそれなりにいて、靴下やシャツやピーナッツ菓子などを手に持って売り歩いている。5本指ソックスを探すがなし。
中心街はとても小さく商店が集まっている地帯は30分もあれば一通り歩いてまわれる程度。
郵便局で日本人移民100周年の切手を購入。
その後、彼の用事で電気会社と学校に立ち寄る。まちは2時間ほど見ただけで退散。
家に戻る。途中、目に付いたフロリッパショッピングというショッピングモールに行く。吹き抜け2階立てのショッピングでスポーツショップやブランド服の店、本屋、スーパー、携帯電話屋などが入っている。中米各地の首都にあるショッピングモールと比べると小さい。
驚いたのは1階のフロアにアイススケートのリンクがあったこと。ブラジルでアイススケートに出くわすとは思っていなかった。25mプールよりももっと小さいくらいのサイズだが、子どもには十分の広さ。だが、遊んでいるのはそこのスタッフらしき人のみ。そもそもこのショッピングモール自体客が少ない。
それから家に戻る。
戻るとAさんが庭でボラをさばいていた。ボラの刺身が今晩メインらしい。昨日は肉で今日は魚。ボラの刺身の他にも牡蠣が登場。生牡蠣と殻のまま焼いた牡蠣とをたらふく食べる。まさしく至福のひととき。アボガドは醤油で。Bさんはブラジル生まれの人だが、アボガドは砂糖をつけて食べる方が好きらしい。
夜はAさんがブラジルに移住してきてから数年前まで住んでいたという移住地のラーモス移住地の記念誌を読む。ここの人たちも苦労している。やっとものになりそうだったりんご(だったっけ?)が霜害で全滅したりと、厳しい状況に直面しながらも乗り越えつつ、現在まで頑張っているよう。巻末にある名簿を見ると、なんと延岡市山下町出身や北川出身の家族がいた。
Fin
・湖、湾
・メルカドーボラ、イカ、タコ、牡蠣
・フロリッパショッピング
・ボラの刺身
今朝もうまい朝食をごちそうになり、それからお出かけ。近くに住んでいるという日系の人を紹介してくれ、彼がフロリアノポリスを案内してくれるという。彼の年齢は25歳前後。父親が日系で母親がイタリア系。外見はまったくイタリア系で、一目見たときは今日案内してくれる人だとはわからなかった。Aさんが言うには彼の弟はまったく日本人的な外見をしているらしい。
彼は2年前まで日本で働いていたらしい。最初は滋賀だったかのソニーの工場にいたらしいが、ブラジル人同士の喧嘩が多かったため半年かそこらでそこをやめ、それから島根の太田(だったと思う)の村田製作所の工場に移ったという。ちなみにソニーでは労働時間がかなり長く、けっこう大変だった模様。そのためソニー製品は嫌いになったとか。
島根の生活はずいぶん楽しかったよう。日本人、ブラジル人双方の職場仲間とも楽しくすごせ、サッカーをしたり、小旅行をしたりしたらしい。
彼はここに弟と一緒に住んでいて、車も持っている。その車に乗せてもらい、まちめぐりとなった。
島を1周するような感じでまわる。途中、眺めのいい場所で休憩。
中心部に行き、バスターミナルの駐車場に車を置き、歩いて市街地散策。ターミナルの近くには市場があったので、そこをまず見る。煉瓦づくりの建物2棟の中に店が並んでいて、1棟は靴屋や服屋ばかり、もう1棟は魚や野菜、果物屋ばかりだった。
特に魚屋が多く、イカ、タコ、牡蠣、なまずのような顔をした魚などいろいろ売られている。なかでもボラは大量に売られており、その卵も売られていた。
ここの市場は全長100m程度で一本道の両脇に店がならんでいるだけなので小さい。その店もきれいに整備されているので、市場と言うよりも商店街という感じだ。
そこから陸地川に1本入った通りが歩行者天国になっていたので、そこがメインストリートのよう。基本的にヨーロッパ的。多様な店が立ち並んでいるが、面白味にはかける。見慣れた風景という感じ。
ただ路上で物売りしている人たちはそれなりにいて、靴下やシャツやピーナッツ菓子などを手に持って売り歩いている。5本指ソックスを探すがなし。
中心街はとても小さく商店が集まっている地帯は30分もあれば一通り歩いてまわれる程度。
郵便局で日本人移民100周年の切手を購入。
その後、彼の用事で電気会社と学校に立ち寄る。まちは2時間ほど見ただけで退散。
家に戻る。途中、目に付いたフロリッパショッピングというショッピングモールに行く。吹き抜け2階立てのショッピングでスポーツショップやブランド服の店、本屋、スーパー、携帯電話屋などが入っている。中米各地の首都にあるショッピングモールと比べると小さい。
驚いたのは1階のフロアにアイススケートのリンクがあったこと。ブラジルでアイススケートに出くわすとは思っていなかった。25mプールよりももっと小さいくらいのサイズだが、子どもには十分の広さ。だが、遊んでいるのはそこのスタッフらしき人のみ。そもそもこのショッピングモール自体客が少ない。
それから家に戻る。
戻るとAさんが庭でボラをさばいていた。ボラの刺身が今晩メインらしい。昨日は肉で今日は魚。ボラの刺身の他にも牡蠣が登場。生牡蠣と殻のまま焼いた牡蠣とをたらふく食べる。まさしく至福のひととき。アボガドは醤油で。Bさんはブラジル生まれの人だが、アボガドは砂糖をつけて食べる方が好きらしい。
夜はAさんがブラジルに移住してきてから数年前まで住んでいたという移住地のラーモス移住地の記念誌を読む。ここの人たちも苦労している。やっとものになりそうだったりんご(だったっけ?)が霜害で全滅したりと、厳しい状況に直面しながらも乗り越えつつ、現在まで頑張っているよう。巻末にある名簿を見ると、なんと延岡市山下町出身や北川出身の家族がいた。
Fin
2008年7月30日水曜日
フロリアーノポリスで日曜日
08/06/24(日)
・シュハスコ
・ボラの卵の塩から、漬け物
うっすらと外が明るくなってきた頃、目覚める。耳が痛い。どうも一度標高が高いところに上がり、そこから下っているよう。例のごとく道路はまったくの舗装道路で、バスもおそらく80キロくらいだしているから、標高が低くなるのが早い。
耳の痛みで再び寝ることはできず、しばらく外を眺める。民家がときどき現れ、畑も見える。緑が多い。
フロリアノポリスには8時頃到着。サンパウロでは7時くらいに着くと聞いたのに1時間近く遅い。
ここでは、30年ほど前にブラジルに移住してきたというAさんにここでお世話になることになっていた。Aさんがターミナルまで迎えに来てくれていたわけだが、ぼくが昨晩電話で7時頃に着くと伝えていたからだいぶ待ちぼうけを食ったよう。Aさんはここのバス会社に何時に着くかと電話で聞いてもみたらしいがはっきりしなかったよう。
車でAさんの自宅へ移動。大きな橋を渡り、島の方へ行く。
商店がぽつぽつある通りを通る。いったん自宅近くの海まで行く。そこには広く長い浜辺が広がり、近くにはリゾートホテルがあった。このホテルにはサッカーブラジル代表のメンバーやF1レーサー、俳優など有名人も泊まりに来るらしい。
Aさんの自宅近くには現在ホテルのようなマンションのような建物が建設中。その建設現場を囲っている柵には完成予想図と男性テニスプレイヤーの写真が載った看板が張られていた。なんでテニスプレイヤーが看板にあるのだと思っていたら、Aさんがこのテニスプレイヤーが発注主なのだと教えてくれた。ぼくは知らなかったが、世界ランキングでもトップクラスの選手らしい。その建物はAさんの自宅と浜辺の間にあるため、これができると家から見る海の景色が悪くなるとAさんはぼやいていた。
自宅に到着後、シャワーを借りる。それから朝飯をごちそうになる。白米に日本から送られてきたというしそふりかけ、それから自家製の白菜の漬け物。米は日本で食べているのと同じうるち米。どこで作っているのか聞くとパラグアイで作られたものらしい。漬け物も美味。箸がすすむ。F1でも見るかとテレビでF1を見つつ、食事。Aさんから聞いて初めてブラジルではF1の人気が高いということを知る。ぼくはあまり関心がないので、見ていても何が面白いのかわからない。Aさんも初めはそうだったらしいが、知るほどに面白くなったと言う。
その後、Aさんと一緒に暮らしているBさんに促され、家の2階に上がる。ここからの景色がとてもいいんだとバルコニーに案内され、行ってみると確かになかなかの景色だった。
10時過ぎまでゆっくりしてから親類の家でシュハスコ(スペイン語ではシュラスコ=バーベキュー)をするからとまた車に乗って移動。
中心街近くの海岸沿いには遊歩道が整備されており、そこをもくもくと歩いている人たちがいる。それも大勢いる。身なりはみなジャージにスポーツ用のシャツなどそれ用の格好をしている。一人で歩いている人の中にはiPodか何かで音楽(ではないかもしれないが)を聴きながら歩いている人もあり。ブラジルには国内の南北問題があると言われ、南は豊かで北は貧しいらしい。
南は白人が多く、北は黒人多いと聞いていたが、サンパウロと比較しても白人比率はかなり高い。
海岸から幹線道路を挟んで陸地側には高級ホテルや高級マンションが立ち並んでいて、いかにもリゾート地という雰囲気。ぼくが日本にいた頃に持っていたブラジルのイメージにはまったくない光景だった。
車で乗っていて気づいたのが信号のスタイルがユニークなこと。日本で一般的な横に並んでいるのではなく縦にライトが並んでいる。まぁ、それだけならアメリカなどでもよく見たのだが、ここの信号は縦に4つのライトがある。一番上が赤で一番下が青。その間の色は忘れた。赤から青に変わる時は上から順にライトがつき、最後に青いライトが着く。ちょうどF1のスタートのライトと同じ仕組み。
Aさんに信号のことを聞くと、"そうなんだよ、F1と似ているだろ。今日みたいにテレビでF1があった後なんかは、みんなF1のまねして、ほら、あの車なんか絶対そうだ”と、ウィンカーも出さずにキュッキュッとわりと狭い車間を移動しながら、他の車を追い抜いていく車を指さしながら言う。
20分ほどして幹線道路を脇に入り、未舗装の道を行く。左手にはやや高い山があり、その麓が牧場。右手には細い川が見える。この川はブラジルらしくなく、川底が深くなく水も澄んでいる。
Aさんの親類はこの山の麓の牧場で働いているらしい。オーナーの豪邸の向かいの家に暮らしており、今日はここでシュハスコをするとのことだった。
庭に暖炉のようなシュハスコ用の施設があり、そこで肉を焼くらしい。肉は殺したばかりの子豚。肉は内臓までいろんな部位を食らうらしい。肉は焼く前にリモン(緑色の皮のレモンみたいな柑橘)を絞った汁に浸す。肉は一番長いところで50cmはある肉をそのまま炭火で焼く。
テーブルにはポテトサラダやレタスなどが用意され、焼きながら食べながら、おしゃべりしながら過ごす。ポルトガル語の会話が基本なので何をしゃべっているのかはよくわからなかった。
Aさんに聞くと、こうしたことは毎週末のようにしているという。サンパウロ在住の人にブラジルの人の週末の過ごし方を聞いたときも友達の家に集まってシュハスコというのが定番と言っていたし、同じようなことはどこかの本でも読んだ。ブラジルもチリやアルゼンチンのように週末は店などは開いていないため何をするのかと思っていたのが、実際にこうして過ごしているのを見ると、なるほどこれもなかなかいいなと思う。
サンパウロ在住の人の話では、子どもがいる人は子どもも一緒に来るから子どもたちは子どもたちで遊び、大人は大人で楽しむというかたちになるらしい。
すっかり満腹になったあと、昼寝を進められ、しばらく熟睡。
帰る前には牧場主のみかん畑兼鶏の放し飼い場でみかん狩り。それから牧場主の自宅の敷地内にある屠殺兼解体用の小屋に行く。この小屋は肉を売るために作った施設ではなく、オーナーが自分の楽しみのために作った小屋らしい。そこでぶら下がっていた残りの豚肉を大量にもらって帰る。
夜は軽くご飯とつまみ程度。つまみには自家製のボラの卵の塩辛が登場。ボラの卵と言えば、珍味カラスミ。ちなみにぼくは未だにカラスミは食べたことはない。なのでボラの卵は初めて。これが食べ出すと止まらない一品で、なんともご飯と合う。
Aさんの話ではここらではボラをよく食べるらしく、ボラの卵も簡単に手に入るらしい。
食後、Aさんがここのところはまっているという数独をすすめられ、ぼくも何題か挑戦。日本ではしたことがなかったので、ルールを誤って覚えていたらしく、最初はまったく解けず。そのうち慣れるが難題は厳しかった。
夜は涼しく電気の力を使わずともぐっすり眠れる。
Fin
・シュハスコ
・ボラの卵の塩から、漬け物
うっすらと外が明るくなってきた頃、目覚める。耳が痛い。どうも一度標高が高いところに上がり、そこから下っているよう。例のごとく道路はまったくの舗装道路で、バスもおそらく80キロくらいだしているから、標高が低くなるのが早い。
耳の痛みで再び寝ることはできず、しばらく外を眺める。民家がときどき現れ、畑も見える。緑が多い。
フロリアノポリスには8時頃到着。サンパウロでは7時くらいに着くと聞いたのに1時間近く遅い。
ここでは、30年ほど前にブラジルに移住してきたというAさんにここでお世話になることになっていた。Aさんがターミナルまで迎えに来てくれていたわけだが、ぼくが昨晩電話で7時頃に着くと伝えていたからだいぶ待ちぼうけを食ったよう。Aさんはここのバス会社に何時に着くかと電話で聞いてもみたらしいがはっきりしなかったよう。
車でAさんの自宅へ移動。大きな橋を渡り、島の方へ行く。
商店がぽつぽつある通りを通る。いったん自宅近くの海まで行く。そこには広く長い浜辺が広がり、近くにはリゾートホテルがあった。このホテルにはサッカーブラジル代表のメンバーやF1レーサー、俳優など有名人も泊まりに来るらしい。
Aさんの自宅近くには現在ホテルのようなマンションのような建物が建設中。その建設現場を囲っている柵には完成予想図と男性テニスプレイヤーの写真が載った看板が張られていた。なんでテニスプレイヤーが看板にあるのだと思っていたら、Aさんがこのテニスプレイヤーが発注主なのだと教えてくれた。ぼくは知らなかったが、世界ランキングでもトップクラスの選手らしい。その建物はAさんの自宅と浜辺の間にあるため、これができると家から見る海の景色が悪くなるとAさんはぼやいていた。
自宅に到着後、シャワーを借りる。それから朝飯をごちそうになる。白米に日本から送られてきたというしそふりかけ、それから自家製の白菜の漬け物。米は日本で食べているのと同じうるち米。どこで作っているのか聞くとパラグアイで作られたものらしい。漬け物も美味。箸がすすむ。F1でも見るかとテレビでF1を見つつ、食事。Aさんから聞いて初めてブラジルではF1の人気が高いということを知る。ぼくはあまり関心がないので、見ていても何が面白いのかわからない。Aさんも初めはそうだったらしいが、知るほどに面白くなったと言う。
その後、Aさんと一緒に暮らしているBさんに促され、家の2階に上がる。ここからの景色がとてもいいんだとバルコニーに案内され、行ってみると確かになかなかの景色だった。
10時過ぎまでゆっくりしてから親類の家でシュハスコ(スペイン語ではシュラスコ=バーベキュー)をするからとまた車に乗って移動。
中心街近くの海岸沿いには遊歩道が整備されており、そこをもくもくと歩いている人たちがいる。それも大勢いる。身なりはみなジャージにスポーツ用のシャツなどそれ用の格好をしている。一人で歩いている人の中にはiPodか何かで音楽(ではないかもしれないが)を聴きながら歩いている人もあり。ブラジルには国内の南北問題があると言われ、南は豊かで北は貧しいらしい。
南は白人が多く、北は黒人多いと聞いていたが、サンパウロと比較しても白人比率はかなり高い。
海岸から幹線道路を挟んで陸地側には高級ホテルや高級マンションが立ち並んでいて、いかにもリゾート地という雰囲気。ぼくが日本にいた頃に持っていたブラジルのイメージにはまったくない光景だった。
車で乗っていて気づいたのが信号のスタイルがユニークなこと。日本で一般的な横に並んでいるのではなく縦にライトが並んでいる。まぁ、それだけならアメリカなどでもよく見たのだが、ここの信号は縦に4つのライトがある。一番上が赤で一番下が青。その間の色は忘れた。赤から青に変わる時は上から順にライトがつき、最後に青いライトが着く。ちょうどF1のスタートのライトと同じ仕組み。
Aさんに信号のことを聞くと、"そうなんだよ、F1と似ているだろ。今日みたいにテレビでF1があった後なんかは、みんなF1のまねして、ほら、あの車なんか絶対そうだ”と、ウィンカーも出さずにキュッキュッとわりと狭い車間を移動しながら、他の車を追い抜いていく車を指さしながら言う。
20分ほどして幹線道路を脇に入り、未舗装の道を行く。左手にはやや高い山があり、その麓が牧場。右手には細い川が見える。この川はブラジルらしくなく、川底が深くなく水も澄んでいる。
Aさんの親類はこの山の麓の牧場で働いているらしい。オーナーの豪邸の向かいの家に暮らしており、今日はここでシュハスコをするとのことだった。
庭に暖炉のようなシュハスコ用の施設があり、そこで肉を焼くらしい。肉は殺したばかりの子豚。肉は内臓までいろんな部位を食らうらしい。肉は焼く前にリモン(緑色の皮のレモンみたいな柑橘)を絞った汁に浸す。肉は一番長いところで50cmはある肉をそのまま炭火で焼く。
テーブルにはポテトサラダやレタスなどが用意され、焼きながら食べながら、おしゃべりしながら過ごす。ポルトガル語の会話が基本なので何をしゃべっているのかはよくわからなかった。
Aさんに聞くと、こうしたことは毎週末のようにしているという。サンパウロ在住の人にブラジルの人の週末の過ごし方を聞いたときも友達の家に集まってシュハスコというのが定番と言っていたし、同じようなことはどこかの本でも読んだ。ブラジルもチリやアルゼンチンのように週末は店などは開いていないため何をするのかと思っていたのが、実際にこうして過ごしているのを見ると、なるほどこれもなかなかいいなと思う。
サンパウロ在住の人の話では、子どもがいる人は子どもも一緒に来るから子どもたちは子どもたちで遊び、大人は大人で楽しむというかたちになるらしい。
すっかり満腹になったあと、昼寝を進められ、しばらく熟睡。
帰る前には牧場主のみかん畑兼鶏の放し飼い場でみかん狩り。それから牧場主の自宅の敷地内にある屠殺兼解体用の小屋に行く。この小屋は肉を売るために作った施設ではなく、オーナーが自分の楽しみのために作った小屋らしい。そこでぶら下がっていた残りの豚肉を大量にもらって帰る。
夜は軽くご飯とつまみ程度。つまみには自家製のボラの卵の塩辛が登場。ボラの卵と言えば、珍味カラスミ。ちなみにぼくは未だにカラスミは食べたことはない。なのでボラの卵は初めて。これが食べ出すと止まらない一品で、なんともご飯と合う。
Aさんの話ではここらではボラをよく食べるらしく、ボラの卵も簡単に手に入るらしい。
食後、Aさんがここのところはまっているという数独をすすめられ、ぼくも何題か挑戦。日本ではしたことがなかったので、ルールを誤って覚えていたらしく、最初はまったく解けず。そのうち慣れるが難題は厳しかった。
夜は涼しく電気の力を使わずともぐっすり眠れる。
Fin
サンパウロからフロリアノポリスへ
08/06/21(土)
・フェイジョアーダの日
・ブラジル話
・5か国語をあやつる(?)日系おじさん
今日は移動日。起床後、リビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。すっかりここでの習慣となった。
これから移動する先はサンパウロから南に数時間いったフロリアノポリス。新聞を読んだ後、ベッドを空けるため荷造りをしてリビングの端に置かせてもらう。バスは夜なので、夕方までここで荷物を預かってもらうのだ。
土曜日は近くの路上で市をやっているというので、ふらふらと行ってみる。テントが張られ、野菜や果物を売っている。売っている人は日系の人が多い。朝飯にパステルを食べる。名前の響きとは違って揚げ物。春巻き系統の食べ物で、20cm四方程度の薄い生地の中に鶏肉や牛肉、エビなどの具が入っている。ブラジルではけっこうあちこちで売っているものだが、食べるのは初めてだった。パステルの露店は3店舗ほどあるが、客は一つの店に集中していて、そこには10人ほどいた。
ぼくは客のいない見た目日系の人の店でエビ入りのを頼む。2.5ヘアル(約200円)。それから客の多い店で牛肉のを頼む。値段同じ。店にはレモン汁のようなものやチリソースが用意されているので、それを好みでかけて食べる。味はどれもよし。
昼にサンパウロ在住の人と会えることになったので、その後昼まで宿で待機。
昼過ぎに待ち合わせの場所である近くの交差点に行き、しばらく待つ。今日は雨模様で、ときおり強く雨が降り出し、しばらくしてあがり、また降り出すといったことを繰り返す。
交差点にあるレストランの軒先で雨宿りをしながら待っていたところ、日本語を話すおばさんたちが続々と集まってくる。例の100周年に関係している人たちらしく、みなお揃いのTシャツを着ている。日本語で挨拶を交わしながら、互いに抱き合って相手の頬の近くで”チュッ”と鳴らす。まったくブラジル式(というかメキシコなどでも同様)の挨拶。見た目はみなまったくの日本人だから、こうして見ていると不思議な感じを覚える。
車の故障でしばらく遅れて待ち人はやってきた。相手方は3人。
車に乗せてもらい、ブラジルの料理が食べられる店に連れていってもらう。
着いた店は食べ放題形式の店で、30種類ほど料理が並んでいる。ブラジル料理もあれば揚げ物やスパゲッティもあり。今日、土曜日はフェジョアーダの日ということで、牛(だったと思う)のテールや何やら臓物系の肉と黒豆を煮込んだ料理が3種類ほどあった。
フェジョアーダは、黒人奴隷たちが肉の余った部分を使って作った料理として知られており、ブラジルの代表的な料理らしい。食べたいと思いつつ、今日まで食べていなかったので3種類とも試してみる。どれもなかなか塩気がきつく、味はとろとろするまで煮込んだ黒豆の味がメイン。白米と併せて食べるとなかなかいける。
ある伝があって会うことになったこの人は、2000年にブラジルに移住してきたという。今は日本企業とブラジルとをつなぐような仕事をしているらしい。
食事をしながらおしゃべり。いろいろおもしろい。たとえばブラジルに駐在している日本人が日本に帰るとき、日本にいる家族には会いたいけど、会社には戻りたくないといったことを言う人がけっこういて、ブラジルの方が居心地がいい=気疲れしないと感じる人は多いといった話。リオではカーニバルが終わった後も数日ほど工場が止まってしまう(二日酔いなどを理由に工場に行かないらしい)ことがけっこうあるといった話。また、ブラジル人は叱って奮起するようなことはまずない(怒るとプイと本当に出ていってしまうらしい)ため、誉めて機嫌よく働いてもらったほうがいいという話。
例の地下鉄の乗り方(けっこう空いているのに、ギュウギュウになるまで乗り込むようなことをしない)については、あれは一人一人が詰めないからだと言う。つまり、まだスペースがあっても誰も動こうとしないため、乗り込もうとする人もどうせ詰めてくれないからと乗るのをあきらめると言う。
3時頃、宿まで送ってもらい別れる。雨はあがっている。バスは20時だったため夕方まで宿で過ごす。あいにく宿にはマンガがいくつかあったため、他にやることがあるだろ、と思いつつ、マンガの魅力に負けて夕方まで読書。マンガを読んでいるとあっと言う間に日本にいる感覚になってしまうから不思議だ。
18時頃、宿を出てチエテのバスターミナルに向かう。地下鉄で1本。心配していた雨は降っていなかったので、濡れずに宿から地下鉄の駅まで移動できる。
ターミナル到着後、ソフトクリームを頬張り息抜き。このソフトがなんとも濃厚でなかなかよろし。ただ値段は150円程度と高い。
ターミナル内のベンチに腰掛け、本でも読むかとしていると背中合わせになっている後ろのベンチに座っていた日系らしいおじさんが話しかけてくる。隣に移動。
おじさんは100周年の細長い風船を持っていた。聞いたらやはり100周年の記念祭に参加してきたとのこと。御年68歳。日系2世らしく、日本語はややたどたどしい。おじさんはポルトガル語は当然として、それ以外に英語、ドイツ語、スペイン語も話せるらしく、それらしい旅行者を見るとこうして話しかけおしゃべりしているらしい。ぼくの旅程を聞いてきて、ブラジルは危ないから気をつけるよう言われる。30分ほどであわただしく、自分のバスが来るからと去っていく。その間際、おじさんの住所を書いた紙をぼくに渡し、手紙を書いてくれと言う。ただ、日本語は読めないから英語で書いてくれと言われる。
ぼくのバスは予定よりやや遅れて出発。晩飯は出ないが、昼にだいぶ食ったため晩飯抜き。外はすでに暗い。
寒さ対策のために今回はブランケットを持ち込んだが、今回のバスはそれほど寒くなかった。
Fin
・フェイジョアーダの日
・ブラジル話
・5か国語をあやつる(?)日系おじさん
今日は移動日。起床後、リビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。すっかりここでの習慣となった。
これから移動する先はサンパウロから南に数時間いったフロリアノポリス。新聞を読んだ後、ベッドを空けるため荷造りをしてリビングの端に置かせてもらう。バスは夜なので、夕方までここで荷物を預かってもらうのだ。
土曜日は近くの路上で市をやっているというので、ふらふらと行ってみる。テントが張られ、野菜や果物を売っている。売っている人は日系の人が多い。朝飯にパステルを食べる。名前の響きとは違って揚げ物。春巻き系統の食べ物で、20cm四方程度の薄い生地の中に鶏肉や牛肉、エビなどの具が入っている。ブラジルではけっこうあちこちで売っているものだが、食べるのは初めてだった。パステルの露店は3店舗ほどあるが、客は一つの店に集中していて、そこには10人ほどいた。
ぼくは客のいない見た目日系の人の店でエビ入りのを頼む。2.5ヘアル(約200円)。それから客の多い店で牛肉のを頼む。値段同じ。店にはレモン汁のようなものやチリソースが用意されているので、それを好みでかけて食べる。味はどれもよし。
昼にサンパウロ在住の人と会えることになったので、その後昼まで宿で待機。
昼過ぎに待ち合わせの場所である近くの交差点に行き、しばらく待つ。今日は雨模様で、ときおり強く雨が降り出し、しばらくしてあがり、また降り出すといったことを繰り返す。
交差点にあるレストランの軒先で雨宿りをしながら待っていたところ、日本語を話すおばさんたちが続々と集まってくる。例の100周年に関係している人たちらしく、みなお揃いのTシャツを着ている。日本語で挨拶を交わしながら、互いに抱き合って相手の頬の近くで”チュッ”と鳴らす。まったくブラジル式(というかメキシコなどでも同様)の挨拶。見た目はみなまったくの日本人だから、こうして見ていると不思議な感じを覚える。
車の故障でしばらく遅れて待ち人はやってきた。相手方は3人。
車に乗せてもらい、ブラジルの料理が食べられる店に連れていってもらう。
着いた店は食べ放題形式の店で、30種類ほど料理が並んでいる。ブラジル料理もあれば揚げ物やスパゲッティもあり。今日、土曜日はフェジョアーダの日ということで、牛(だったと思う)のテールや何やら臓物系の肉と黒豆を煮込んだ料理が3種類ほどあった。
フェジョアーダは、黒人奴隷たちが肉の余った部分を使って作った料理として知られており、ブラジルの代表的な料理らしい。食べたいと思いつつ、今日まで食べていなかったので3種類とも試してみる。どれもなかなか塩気がきつく、味はとろとろするまで煮込んだ黒豆の味がメイン。白米と併せて食べるとなかなかいける。
ある伝があって会うことになったこの人は、2000年にブラジルに移住してきたという。今は日本企業とブラジルとをつなぐような仕事をしているらしい。
食事をしながらおしゃべり。いろいろおもしろい。たとえばブラジルに駐在している日本人が日本に帰るとき、日本にいる家族には会いたいけど、会社には戻りたくないといったことを言う人がけっこういて、ブラジルの方が居心地がいい=気疲れしないと感じる人は多いといった話。リオではカーニバルが終わった後も数日ほど工場が止まってしまう(二日酔いなどを理由に工場に行かないらしい)ことがけっこうあるといった話。また、ブラジル人は叱って奮起するようなことはまずない(怒るとプイと本当に出ていってしまうらしい)ため、誉めて機嫌よく働いてもらったほうがいいという話。
例の地下鉄の乗り方(けっこう空いているのに、ギュウギュウになるまで乗り込むようなことをしない)については、あれは一人一人が詰めないからだと言う。つまり、まだスペースがあっても誰も動こうとしないため、乗り込もうとする人もどうせ詰めてくれないからと乗るのをあきらめると言う。
3時頃、宿まで送ってもらい別れる。雨はあがっている。バスは20時だったため夕方まで宿で過ごす。あいにく宿にはマンガがいくつかあったため、他にやることがあるだろ、と思いつつ、マンガの魅力に負けて夕方まで読書。マンガを読んでいるとあっと言う間に日本にいる感覚になってしまうから不思議だ。
18時頃、宿を出てチエテのバスターミナルに向かう。地下鉄で1本。心配していた雨は降っていなかったので、濡れずに宿から地下鉄の駅まで移動できる。
ターミナル到着後、ソフトクリームを頬張り息抜き。このソフトがなんとも濃厚でなかなかよろし。ただ値段は150円程度と高い。
ターミナル内のベンチに腰掛け、本でも読むかとしていると背中合わせになっている後ろのベンチに座っていた日系らしいおじさんが話しかけてくる。隣に移動。
おじさんは100周年の細長い風船を持っていた。聞いたらやはり100周年の記念祭に参加してきたとのこと。御年68歳。日系2世らしく、日本語はややたどたどしい。おじさんはポルトガル語は当然として、それ以外に英語、ドイツ語、スペイン語も話せるらしく、それらしい旅行者を見るとこうして話しかけおしゃべりしているらしい。ぼくの旅程を聞いてきて、ブラジルは危ないから気をつけるよう言われる。30分ほどであわただしく、自分のバスが来るからと去っていく。その間際、おじさんの住所を書いた紙をぼくに渡し、手紙を書いてくれと言う。ただ、日本語は読めないから英語で書いてくれと言われる。
ぼくのバスは予定よりやや遅れて出発。晩飯は出ないが、昼にだいぶ食ったため晩飯抜き。外はすでに暗い。
寒さ対策のために今回はブランケットを持ち込んだが、今回のバスはそれほど寒くなかった。
Fin
2008年7月29日火曜日
皇太子の登場、パウリスタ大通り、金曜会
08/06/20(金) 晴れ 26℃
7時過ぎに起き、1階のリビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。相変わらず100周年関係の記事が多い。国内のニュースとしては、リオで警察が若者4人ほどを麻薬組織に引き渡したことで、その若者らが殺されたことに関するニュースの扱いが大きい。北朝鮮が核計画を考えているというニュースもかなり大きな扱いになっている。
リビングには、同室のおじいさんと韓国人の男女各1名とぼく。
今日の午前10時半頃に、ここリベルダーデにある日系人の移民資料館に皇太子が立ち寄り、その後、ガルバンブエノ通りを通るということで、同じ部屋のおじいさんは皇太子に会いに行くいう。
そこへ宿のおばさんが来て、”早く行かないと場所がなくなるよ”とそのおじいさんに言う。
おじいさんと二人で話していたら、韓国人二人が何を話しているのかと気にしていたようなので、でたらめ英語で解説。皇太子は英語でプリンスになるのか? などと思いながら適当な英語で伝える。状況はわかってもらえたよう。
彼らに韓国では、韓国人の移民について勉強するか尋ねたところ、しないとのこと。これは日本と同じだ。
10時前、ぼくも皇太子を見に来ている人たちを見に行こうと思い、外に出る。通りはもういっぱいだろうと思っていたら、それが予想外にがらがら。人でいっぱいだったのは、移民資料館の入り口付近と、大阪橋からリベルダーデ地下鉄駅にかけての100mの区間のみ。あとはパラパラ。
集まっている人たちはやはり日系が多いが、非日系のブラジル人も多く来ている。全体の割合で言うと日系7割:非日系3割という感じ。
平日の午前中という時間帯もあるのだろうが、日系の人は圧倒的に年輩者が多い。たぶん9割程度。非日系のブラジル人は20~40歳代程度と見られる人が多い。
日本とブラジルの小旗が沿道の人々に配られる。小学1年生くらいの子どもたちが40人ほど教員らしき人等に連れてこられていて、沿道で旗を振る練習などをしている。浴衣を着た年寄りたちやおそろいのジャージを着たラジオ体操協会(?)の年寄りたちは横断幕を持って立ったまま待っている。
テレビ局らしきカメラも数台。カメラマンは10人くらい。待っている人たちは互いにデジカメや携帯カメラで写真を撮り合ったりしている。
11時前、先導車に続き、皇太子が乗った白い車が通過。車は止まることなく、去って行く。おそらくほとんどの人が皇太子がどこにいたかわからなかっただろうというスピード。それに1世などの年寄りは背が低いから、最前列にいなければ車もまともに確認できなかったのではと思えるくらい。皇太子の車の後に、マスコミ関係者を乗せたバスが通り過ぎるとき沿道の人は旗を振って声を上げて遊んでいた。
その後、パウリスタ通りという映画館や官庁のある地帯を見に行く。
途中、昼飯を食うため町中でみかけるファーストフード的食堂に入る。よくわからないので、適当に頼んだら鳥の唐揚げの定食だった。ブラジルで鶏の唐揚げなんて失敗だ。
定食は白米、豆を煮たもの、生のレタスとトマトとキャベツ、それに唐揚げ。それぞれ別個の皿に盛られている。各テーブルには、1人の客に1枚の平皿が用意されており、その皿にそれぞれから移しとって食べるらしい。一枚の皿にまとめて出せる量のように思うのだが、なぜこういう習慣になっているのかが不思議だ。
豆はご飯にかける。煮豆はけっこう塩気が強いので、ご飯と混ぜるとちょうどいい具合になる。テーブルにはビネガーと塩、オリーブオイルがあるので、生野菜にはそれらを適当にかけて食べる。
また、爪楊枝(こちらのは両端がとがっている)があるので、食後にそれを使っている人もいる。
これでお代は6.5ヘアル(約400円)。
しばらく歩いていくと幹線道路の交差点で自動車のフロントガラス拭きをしている家族(?)がいた。10歳に満たないであろう男の子と女の子、180cm近い身長がある10代半ばくらいの男の子、そして母親らしい中年の女性が2人。
近くのちょっとした広場の端には洗濯物が干されており、そこで暮らしているらしい人が数人でおしゃべりをしていた。
さらに歩いていくと商店が建ち並んでいる地帯に出る。
ここでようやっと見つけたのは焼きそばの屋台。”Yakisoba"と書かれた歩道の屋台では、中国系の夫婦が中華鍋で調理している。若いヨーロッパ系のブラジル人が3人ほど、屋台の周りで焼きそばを頬張っている。値段は3ヘアル(約250円)。
どうも道を間違えたらしく、なかなか目的の通りに出ない。さまよい込んだ住宅地には立派な邸宅が立ち並んでおり、それらを眺めていると漢字が目に飛び込んできた。5階建てくらいのそのビルの壁には栃木県人会館とある。
他にも宮城県人会館や鹿児島県人会館などあるが、こうしたかたちで建物を所有(借用?)しているのは、日系人くらいじゃないのかと疑問に思う。そもそも県別に建物を持つというところがよくわからない。長期的に見れば、世代交代する度にそれぞれの県と具体的・直接的な縁がある人はどんどんいなくなるだろうに。
まあ、いなくなればなったで誰かに貸すなり、売るなり、返すなりすればいいだけのことだが、このような感覚だと出身者が少ない県の人は肩身が狭い思いをしているのではと思ってしまう。
ぐにゃぐにゃ歩いてようやく目的地近くまでたどりつく。かなり遠回りというか、完全に方向が違っていた。道路名がほとんど書いていない簡単な地図しか持たずに、五叉路や三叉路が多いこのまちを歩くのはなかなか難しい。
のどが渇いたので、道ばたの果物売りの人からスイカの切り身を購入。1ヘアル(約65円)。果物売りのおじさんは、ぼくからコインを受け取った後、ギザギザのパン切りナイフ(アルゼンチンではピザを食べるときに使っていたナイフ)を取り出し、ぼくに渡す。これを使って食べるらしい。
スイカで喉の乾きを潤し、また歩行を再開。パウリスタ通りは、片道3車線くらいの広い車道が真ん中を走り、その両脇にビルが建ち並んでいる。歩道も幅3mほどあり広い。車の交通量は多いものの、排気ガスのにおいはほとんどしない。
歩いている人も多い。また、物乞いしている人を2~3人みかける。セントロの方では路上で寝ている人らをたくさん見たが、物乞いをしている人は見なかった。こちらの方が金持ちが多そうだから、それを当てにしているのかもしれない。路上に座り込んで人が通る度に右手を差し出している一人のおばあちゃんに、適当にポケットのコインをつまんで渡すと、驚いたような顔をしていた。ぼくの外見がそうさせたのか、それともそうしたことがあまりないのか。
しばらく歩いていると「いらっしゃいませ」と日本語で書かれたビニール袋を手首からぶら下げている日系らしいおじさんを発見。両手に箱を抱えて歩道に立っているので、何をしているのかと思ったら、その箱にはイヤリングらしき小さなアクセサリーが20個ほど並べられていた。ここでこうして売っているようだが、10分ほど見ていた間では足を止める人はいなかった。
映画館やパスタ屋、電化製品屋、本屋などの他に美術館のような建物がちらほら。退屈なので、地下鉄の駅に着いたところで地下鉄に乗り、明日のバスのチケットを買いにチエテという駅まで行く。
フロリアノポリスまでの夜行バスのチケットは88ヘアル(約5000円)。12時間ほどの移動でこの値段。まぁ、こんなもんか。
それから宿に戻る。
19時頃、前に雑誌で読んだ宮城県人会館で毎週金曜日に金曜会というビアガーデンのようなものをやっているという記事を思い出し、行ってみることにする。
宿のおばさんに会館の場所を聞くと、すぐ近くだった。教えてもらったとおりに歩いていくと4階建ての立派なビルを発見。入り口には3mほどの高さの格子状(?)の門あり。
ちょうど玄関にけっこう年輩の男性がいたので、声をかけ金曜会のことを聞くと、どうぞどうぞと中に入れてくれる。建物に入るとまず左手に家紋の置物を展示しているショーケースがあった。
へぇっと見ていると、そのおじさんが「面白いでしょう?」と話しかけてくる。聞くと宮城県出身の移民の人で家紋が好きな人がいて、その人が作ったものらしい。おじさん言うには、100周年記念ということで、現在特別セールのようなものをしており、希望者があればその人の名前や出身地などから先祖を探り、その人の家紋を特定し、瓦のような材質の材料で家紋を表した置物を作ってくれるらしい。もちろん有料。
ショーケースの上にはその申込書があり、おじさんはもしよければとその紙を一枚ぼくにくれた。
エレベーターで3階(日本式だと4階)にあがる。エレベーターを出たところに受付のおばちゃんがいて、その後ろで別のおばちゃんたちが2~3人でおにぎりなどをにぎっている。
代金は25ヘアル(約1500円)。たぶんこの旅行で飯にかけるお金としては最大。高い。高い理由はビールが飲み放題で、他いくつかの酒も飲めることのよう。
4階は屋上になっており、そこに運動会で使うようなテントが5棟ほど張られ、七夕飾りのような装飾もされている。おそらく100人はゆっくり座れるくらいのスペースがあり、すでに20人くらいの人が飲んでいた。おじさんが多い。
入るとおじさんが、「何、のむ?」とまったく居酒屋的な調子の日本語で聞いてくる。何があるんですかと聞いたら、「じゃあ、まずはビールでいいか」とビールを中ジョッキよりやや小さいコップについでくれる。
適当に座ってと言うので、空いているところに1人で座る。
直径40cmほどの皿に複数のつまみが盛りつけられ運ばれてくる。おつまみは鯛っぽい白身の刺身が5切れほどと、しいたけの佃煮のような煮物、生セロリ、白菜の漬け物、なすの天ぷらなど。あと肉は適当に焼けたら持ってきてくれるらしい。それから最後にはソッパ(味噌汁)が付くという。
運んできてくれたおばさんは、一人じゃつまらないだろうから、みんなの中に入ったらとすでにできていたおじさんたちの輪の一つに案内してくれる。
せっかくなので、お言葉に甘え混ぜてもらうことにする。見た目みな50代後半から60代半ばくらいのおじさん4人と40代くらいの人が1人という輪の中に入る。
それほど盛り上がっていたわけではなく、わりとみなさん静かに飲んでいる。そのうち1人、2人と人が増え、徐々ににぎやかになる。
ブラジル生まれの人は1人ほどで、ほとんどの人が日本で生まれ移住してきた人らしい。そのためおしゃべりは日本語だし、イントネーションなどもまったく日本で聞くものと同じ。
そのうちぼくと同じ名字の人は、12~13歳のときにブラジル丸(だったかな)で家族とともにブラジルに来たという。船に乗ったらすぐに船員に”暇か?”と聞かれ、暇だと答えたところその日から船の食事作りの手伝いをやらされたらしい。それも45日間ずっと。話している様子からすると楽しかったよう。ロサンゼルスに停泊したときには、移民の中ではただ一人だけ下船を許され、そこで食べた大きなアイスが「それはうまかった」らしい。ロスでは観光客と船員だけが下船できたそうで、移民の人は停泊中ずっと船の中だったらしい。なので、移民の人の中にはロスで下船してみたかったと言う人が多かったらしい。
そうしてリオ・デ・ジャネイロに到着。すると今度は盗難の嵐だったらしい。移民の人たちが持ってきた荷物を、港で待っていた地元の人(おじさんは「くろんぼ」と言った)が船に乗り込んできて親切に荷物を船から降ろす手伝いをするふりして、カメラやラジオなどを盗んでいったらしい。
話題は今回の100周年の話から日本の政治家の話(民主党批判、次の首相は麻生がいいといったこと)、相撲話(モンゴル勢の次はロシア勢か?)、市町村合併の話、秋葉原の殺人事件の話、便所掃除の話など。基本的に日本に関わることが中心。みんなよく知っている。
ある人はぼくに、”あちこち旅行しているみたいだけど、ここが一番暮らしやすそうだと思わない?” と聞いてくる。また、日本がもし大変なことになったら受け入れてくれるのはブラジルくらいしかないよ、とも。それからブラジルには何かやろうと思えば、それができる環境があるという。具体的には例えば日本や欧米では資格が必要だったり、あるいはもろもろの煩雑な手続きを経ないとできないことが、ここではそうしたことが少ないためより早くスムースに実現できるということらしい。
また日本のお菓子や食料品の袋に入っている乾燥材などについて、”あれは食べられるのかどうか外国の人にとってはわかりにくい。もっとドクロのマークにバッテン(×)するなどわかりやすくしないと間違って食べてしまうよ。俺はそれがいっつも心配なんだよ”といったことを言う。
そんなもろもろの話を聞かせてもらっているうちに閉店の22時になる。
切り上げるときに、同じ名前のおじさんは、”あなたは今日はいい話を聞いたよ。今日の話はなかなか聞けないことだから。今日聞いたことを自分の子どもたちなどに聞かせたりしてほしい”というようなことを言う。
ブラジル式に握手して解散。
宿に戻る。カイピリーニャというサトウキビで作った強い酒を飲んだせいで頭がイタい。ダチョウのたたきは美味だった。
寝る。
Fin
7時過ぎに起き、1階のリビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。相変わらず100周年関係の記事が多い。国内のニュースとしては、リオで警察が若者4人ほどを麻薬組織に引き渡したことで、その若者らが殺されたことに関するニュースの扱いが大きい。北朝鮮が核計画を考えているというニュースもかなり大きな扱いになっている。
リビングには、同室のおじいさんと韓国人の男女各1名とぼく。
今日の午前10時半頃に、ここリベルダーデにある日系人の移民資料館に皇太子が立ち寄り、その後、ガルバンブエノ通りを通るということで、同じ部屋のおじいさんは皇太子に会いに行くいう。
そこへ宿のおばさんが来て、”早く行かないと場所がなくなるよ”とそのおじいさんに言う。
おじいさんと二人で話していたら、韓国人二人が何を話しているのかと気にしていたようなので、でたらめ英語で解説。皇太子は英語でプリンスになるのか? などと思いながら適当な英語で伝える。状況はわかってもらえたよう。
彼らに韓国では、韓国人の移民について勉強するか尋ねたところ、しないとのこと。これは日本と同じだ。
10時前、ぼくも皇太子を見に来ている人たちを見に行こうと思い、外に出る。通りはもういっぱいだろうと思っていたら、それが予想外にがらがら。人でいっぱいだったのは、移民資料館の入り口付近と、大阪橋からリベルダーデ地下鉄駅にかけての100mの区間のみ。あとはパラパラ。
集まっている人たちはやはり日系が多いが、非日系のブラジル人も多く来ている。全体の割合で言うと日系7割:非日系3割という感じ。
平日の午前中という時間帯もあるのだろうが、日系の人は圧倒的に年輩者が多い。たぶん9割程度。非日系のブラジル人は20~40歳代程度と見られる人が多い。
日本とブラジルの小旗が沿道の人々に配られる。小学1年生くらいの子どもたちが40人ほど教員らしき人等に連れてこられていて、沿道で旗を振る練習などをしている。浴衣を着た年寄りたちやおそろいのジャージを着たラジオ体操協会(?)の年寄りたちは横断幕を持って立ったまま待っている。
テレビ局らしきカメラも数台。カメラマンは10人くらい。待っている人たちは互いにデジカメや携帯カメラで写真を撮り合ったりしている。
11時前、先導車に続き、皇太子が乗った白い車が通過。車は止まることなく、去って行く。おそらくほとんどの人が皇太子がどこにいたかわからなかっただろうというスピード。それに1世などの年寄りは背が低いから、最前列にいなければ車もまともに確認できなかったのではと思えるくらい。皇太子の車の後に、マスコミ関係者を乗せたバスが通り過ぎるとき沿道の人は旗を振って声を上げて遊んでいた。
その後、パウリスタ通りという映画館や官庁のある地帯を見に行く。
途中、昼飯を食うため町中でみかけるファーストフード的食堂に入る。よくわからないので、適当に頼んだら鳥の唐揚げの定食だった。ブラジルで鶏の唐揚げなんて失敗だ。
定食は白米、豆を煮たもの、生のレタスとトマトとキャベツ、それに唐揚げ。それぞれ別個の皿に盛られている。各テーブルには、1人の客に1枚の平皿が用意されており、その皿にそれぞれから移しとって食べるらしい。一枚の皿にまとめて出せる量のように思うのだが、なぜこういう習慣になっているのかが不思議だ。
豆はご飯にかける。煮豆はけっこう塩気が強いので、ご飯と混ぜるとちょうどいい具合になる。テーブルにはビネガーと塩、オリーブオイルがあるので、生野菜にはそれらを適当にかけて食べる。
また、爪楊枝(こちらのは両端がとがっている)があるので、食後にそれを使っている人もいる。
これでお代は6.5ヘアル(約400円)。
しばらく歩いていくと幹線道路の交差点で自動車のフロントガラス拭きをしている家族(?)がいた。10歳に満たないであろう男の子と女の子、180cm近い身長がある10代半ばくらいの男の子、そして母親らしい中年の女性が2人。
近くのちょっとした広場の端には洗濯物が干されており、そこで暮らしているらしい人が数人でおしゃべりをしていた。
さらに歩いていくと商店が建ち並んでいる地帯に出る。
ここでようやっと見つけたのは焼きそばの屋台。”Yakisoba"と書かれた歩道の屋台では、中国系の夫婦が中華鍋で調理している。若いヨーロッパ系のブラジル人が3人ほど、屋台の周りで焼きそばを頬張っている。値段は3ヘアル(約250円)。
どうも道を間違えたらしく、なかなか目的の通りに出ない。さまよい込んだ住宅地には立派な邸宅が立ち並んでおり、それらを眺めていると漢字が目に飛び込んできた。5階建てくらいのそのビルの壁には栃木県人会館とある。
他にも宮城県人会館や鹿児島県人会館などあるが、こうしたかたちで建物を所有(借用?)しているのは、日系人くらいじゃないのかと疑問に思う。そもそも県別に建物を持つというところがよくわからない。長期的に見れば、世代交代する度にそれぞれの県と具体的・直接的な縁がある人はどんどんいなくなるだろうに。
まあ、いなくなればなったで誰かに貸すなり、売るなり、返すなりすればいいだけのことだが、このような感覚だと出身者が少ない県の人は肩身が狭い思いをしているのではと思ってしまう。
ぐにゃぐにゃ歩いてようやく目的地近くまでたどりつく。かなり遠回りというか、完全に方向が違っていた。道路名がほとんど書いていない簡単な地図しか持たずに、五叉路や三叉路が多いこのまちを歩くのはなかなか難しい。
のどが渇いたので、道ばたの果物売りの人からスイカの切り身を購入。1ヘアル(約65円)。果物売りのおじさんは、ぼくからコインを受け取った後、ギザギザのパン切りナイフ(アルゼンチンではピザを食べるときに使っていたナイフ)を取り出し、ぼくに渡す。これを使って食べるらしい。
スイカで喉の乾きを潤し、また歩行を再開。パウリスタ通りは、片道3車線くらいの広い車道が真ん中を走り、その両脇にビルが建ち並んでいる。歩道も幅3mほどあり広い。車の交通量は多いものの、排気ガスのにおいはほとんどしない。
歩いている人も多い。また、物乞いしている人を2~3人みかける。セントロの方では路上で寝ている人らをたくさん見たが、物乞いをしている人は見なかった。こちらの方が金持ちが多そうだから、それを当てにしているのかもしれない。路上に座り込んで人が通る度に右手を差し出している一人のおばあちゃんに、適当にポケットのコインをつまんで渡すと、驚いたような顔をしていた。ぼくの外見がそうさせたのか、それともそうしたことがあまりないのか。
しばらく歩いていると「いらっしゃいませ」と日本語で書かれたビニール袋を手首からぶら下げている日系らしいおじさんを発見。両手に箱を抱えて歩道に立っているので、何をしているのかと思ったら、その箱にはイヤリングらしき小さなアクセサリーが20個ほど並べられていた。ここでこうして売っているようだが、10分ほど見ていた間では足を止める人はいなかった。
映画館やパスタ屋、電化製品屋、本屋などの他に美術館のような建物がちらほら。退屈なので、地下鉄の駅に着いたところで地下鉄に乗り、明日のバスのチケットを買いにチエテという駅まで行く。
フロリアノポリスまでの夜行バスのチケットは88ヘアル(約5000円)。12時間ほどの移動でこの値段。まぁ、こんなもんか。
それから宿に戻る。
19時頃、前に雑誌で読んだ宮城県人会館で毎週金曜日に金曜会というビアガーデンのようなものをやっているという記事を思い出し、行ってみることにする。
宿のおばさんに会館の場所を聞くと、すぐ近くだった。教えてもらったとおりに歩いていくと4階建ての立派なビルを発見。入り口には3mほどの高さの格子状(?)の門あり。
ちょうど玄関にけっこう年輩の男性がいたので、声をかけ金曜会のことを聞くと、どうぞどうぞと中に入れてくれる。建物に入るとまず左手に家紋の置物を展示しているショーケースがあった。
へぇっと見ていると、そのおじさんが「面白いでしょう?」と話しかけてくる。聞くと宮城県出身の移民の人で家紋が好きな人がいて、その人が作ったものらしい。おじさん言うには、100周年記念ということで、現在特別セールのようなものをしており、希望者があればその人の名前や出身地などから先祖を探り、その人の家紋を特定し、瓦のような材質の材料で家紋を表した置物を作ってくれるらしい。もちろん有料。
ショーケースの上にはその申込書があり、おじさんはもしよければとその紙を一枚ぼくにくれた。
エレベーターで3階(日本式だと4階)にあがる。エレベーターを出たところに受付のおばちゃんがいて、その後ろで別のおばちゃんたちが2~3人でおにぎりなどをにぎっている。
代金は25ヘアル(約1500円)。たぶんこの旅行で飯にかけるお金としては最大。高い。高い理由はビールが飲み放題で、他いくつかの酒も飲めることのよう。
4階は屋上になっており、そこに運動会で使うようなテントが5棟ほど張られ、七夕飾りのような装飾もされている。おそらく100人はゆっくり座れるくらいのスペースがあり、すでに20人くらいの人が飲んでいた。おじさんが多い。
入るとおじさんが、「何、のむ?」とまったく居酒屋的な調子の日本語で聞いてくる。何があるんですかと聞いたら、「じゃあ、まずはビールでいいか」とビールを中ジョッキよりやや小さいコップについでくれる。
適当に座ってと言うので、空いているところに1人で座る。
直径40cmほどの皿に複数のつまみが盛りつけられ運ばれてくる。おつまみは鯛っぽい白身の刺身が5切れほどと、しいたけの佃煮のような煮物、生セロリ、白菜の漬け物、なすの天ぷらなど。あと肉は適当に焼けたら持ってきてくれるらしい。それから最後にはソッパ(味噌汁)が付くという。
運んできてくれたおばさんは、一人じゃつまらないだろうから、みんなの中に入ったらとすでにできていたおじさんたちの輪の一つに案内してくれる。
せっかくなので、お言葉に甘え混ぜてもらうことにする。見た目みな50代後半から60代半ばくらいのおじさん4人と40代くらいの人が1人という輪の中に入る。
それほど盛り上がっていたわけではなく、わりとみなさん静かに飲んでいる。そのうち1人、2人と人が増え、徐々ににぎやかになる。
ブラジル生まれの人は1人ほどで、ほとんどの人が日本で生まれ移住してきた人らしい。そのためおしゃべりは日本語だし、イントネーションなどもまったく日本で聞くものと同じ。
そのうちぼくと同じ名字の人は、12~13歳のときにブラジル丸(だったかな)で家族とともにブラジルに来たという。船に乗ったらすぐに船員に”暇か?”と聞かれ、暇だと答えたところその日から船の食事作りの手伝いをやらされたらしい。それも45日間ずっと。話している様子からすると楽しかったよう。ロサンゼルスに停泊したときには、移民の中ではただ一人だけ下船を許され、そこで食べた大きなアイスが「それはうまかった」らしい。ロスでは観光客と船員だけが下船できたそうで、移民の人は停泊中ずっと船の中だったらしい。なので、移民の人の中にはロスで下船してみたかったと言う人が多かったらしい。
そうしてリオ・デ・ジャネイロに到着。すると今度は盗難の嵐だったらしい。移民の人たちが持ってきた荷物を、港で待っていた地元の人(おじさんは「くろんぼ」と言った)が船に乗り込んできて親切に荷物を船から降ろす手伝いをするふりして、カメラやラジオなどを盗んでいったらしい。
話題は今回の100周年の話から日本の政治家の話(民主党批判、次の首相は麻生がいいといったこと)、相撲話(モンゴル勢の次はロシア勢か?)、市町村合併の話、秋葉原の殺人事件の話、便所掃除の話など。基本的に日本に関わることが中心。みんなよく知っている。
ある人はぼくに、”あちこち旅行しているみたいだけど、ここが一番暮らしやすそうだと思わない?” と聞いてくる。また、日本がもし大変なことになったら受け入れてくれるのはブラジルくらいしかないよ、とも。それからブラジルには何かやろうと思えば、それができる環境があるという。具体的には例えば日本や欧米では資格が必要だったり、あるいはもろもろの煩雑な手続きを経ないとできないことが、ここではそうしたことが少ないためより早くスムースに実現できるということらしい。
また日本のお菓子や食料品の袋に入っている乾燥材などについて、”あれは食べられるのかどうか外国の人にとってはわかりにくい。もっとドクロのマークにバッテン(×)するなどわかりやすくしないと間違って食べてしまうよ。俺はそれがいっつも心配なんだよ”といったことを言う。
そんなもろもろの話を聞かせてもらっているうちに閉店の22時になる。
切り上げるときに、同じ名前のおじさんは、”あなたは今日はいい話を聞いたよ。今日の話はなかなか聞けないことだから。今日聞いたことを自分の子どもたちなどに聞かせたりしてほしい”というようなことを言う。
ブラジル式に握手して解散。
宿に戻る。カイピリーニャというサトウキビで作った強い酒を飲んだせいで頭がイタい。ダチョウのたたきは美味だった。
寝る。
Fin
移民博物館、日系資料館、図書館
08/06/19(木)
今朝も7時すぎに起きてリビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。昨日の慰霊祭やサントス港であった式典についての記事が大きい。
10時すぎに宿を出てこの間道を間違えて行けなかったブラジルの移民博物館に行く。
地下鉄を乗り継ぎ、最寄りの駅に行き、この間とは反対方向に行く。
線路にまたがる陸橋の階段を上る。この階段が汚く小便くさい。
反対側に降りると道に線路があった。もう使われていない道に埋もれつつある線路。右手には目的の博物館があった。
入り口で入場券を買って、回転バーを押して入る。正面にはレンガ色の建物があった。
それが博物館の本館だった。促されて二階あがる。上がってすぐの踊り場には、幼稚園の演劇にでも出てきそうな布地で作られた人形が数十体あった。思わずビクっとする。どうもこれらの人形はブラジルに移民としてやってきた各国の人を表しているらしい。
廊下の椅子に座っていた女性が、右の部屋から見るよう促す。そこにはブラジル移民に関する総論的な展示がされていた。
奥に進むと特別展をやっていた。テーマは日本人移民100周年。当時のパスポートや持参品、乗船名簿などが展示されている。これ以外も含め展示の説明はすべてポルトガル語だったため、内容はよくわからず。ぼくとしては日本人移民については別に立派な資料館があるため、それ以外の移民について知りたかったのだが、来た時期が悪かった。
一階にも展示あり。移民してきたばかりの人たちを各国別に撮った集団写真があり、それぞれがそれぞれの地域で一般的だった服を着ているのを見て、この100年で本当に世界は大きく変わったんだなと大袈裟にも思ってしまう。今やどこに行ったって、たいがいみな同じような服を着ている。
そうでない人たちの服は民族服や民族衣装、伝統的な“衣装”と呼ばれ、ただ“服”と言ったときに想像する範囲外のものとして扱われる(ように思える)。日本語では洋服と和服という言葉があるが、他の国々の言葉ではどのような表現がされているのか、気になるところ。
などとくだらないことを思いながら、展示を見ていくと、壁にタッチパネルが埋め込まれたコーナーに出る。それはこれまで移民として渡ってきた人たちの名前とブラジルに来た年、そのときの船の名前など検索できるコンピューターだった。
使い方がいまいちわからないので、隣で検索していた日系らしいおじいさんに日本語で聞いてみるが、日本語が通じず、自力で適当にいじってみる。
名簿的なことの他に、各国別に数人の人へのインタビューを見ることができるようになっていた。言葉がわかればなかなか面白そうなのに、残念ながらひとつもわからん。
1時間ほどいて出る。まだ見ていなかった日系人の資料館を見るため歩いてリベルダージに戻る。
1時間ほど歩いて宿近くの資料館に到着。同じ建物の中には集会所や図書館などもあり。
先に図書館に行く。日本の小さなまちの図書室並の図書館で、専門分野別の棚が所狭しと並んでいる。ほんの冊数自体はなかなか充実しているようだったが、本自体はけっこう古いものが多い。
図書館内をみまわしてみると、週刊少年マガジンとジャンプを発見。1年分くらいがずらっと並んでいる。なんとすばらしいと思いながら近寄ってみると、それぞれ2007年の1年分でさすがに2008年のものはなかった。読書用の机ではマガジンを10冊ほど重ねて読みふけっているおじさんがいた。
古くなった本やあまり読まれない本は、入り口近くの本棚に並べられ、格安で販売されている。眺めてみたが、買いたいと思うまでの本はなし。
その後、同じビルの7階だかにある資料館を見学。入場料は意外と高かった。資料館を維持するために日本からの旅行者は一律同じ料金を払ってくれるよう、お願い文が書かれてある。展示は2つのフロア(階)にまたがって展示されている。
展示物は日系人がブラジルに定着させたさまざまな農産物(30種類近くあった)についてや移民当時の暮らしの様子を再現したものなどかなり充実している。さっき行ったブラジル全体の移民博物館の特別展示よりもはるかに詳しい。ま、当たり前だけど。目を引いたのが動物の剥製。アマゾン地帯に入植した人たちは、入植当時、森に住む生き物たちとときに対決しないといけなかったらしい。
ここのフリーペーパー『ピンドラーマ』を読んだときに、日本語-ポーランド語の辞典を作った大武なにがしという人のことを書いた冊子がここで配布されているとあったので、それについてスタッフの人に聞くと、有料だった。が、記念に購入。
あとは宿で本を読んだりなんたり。
Fin
今朝も7時すぎに起きてリビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。昨日の慰霊祭やサントス港であった式典についての記事が大きい。
10時すぎに宿を出てこの間道を間違えて行けなかったブラジルの移民博物館に行く。
地下鉄を乗り継ぎ、最寄りの駅に行き、この間とは反対方向に行く。
線路にまたがる陸橋の階段を上る。この階段が汚く小便くさい。
反対側に降りると道に線路があった。もう使われていない道に埋もれつつある線路。右手には目的の博物館があった。
入り口で入場券を買って、回転バーを押して入る。正面にはレンガ色の建物があった。
それが博物館の本館だった。促されて二階あがる。上がってすぐの踊り場には、幼稚園の演劇にでも出てきそうな布地で作られた人形が数十体あった。思わずビクっとする。どうもこれらの人形はブラジルに移民としてやってきた各国の人を表しているらしい。
廊下の椅子に座っていた女性が、右の部屋から見るよう促す。そこにはブラジル移民に関する総論的な展示がされていた。
奥に進むと特別展をやっていた。テーマは日本人移民100周年。当時のパスポートや持参品、乗船名簿などが展示されている。これ以外も含め展示の説明はすべてポルトガル語だったため、内容はよくわからず。ぼくとしては日本人移民については別に立派な資料館があるため、それ以外の移民について知りたかったのだが、来た時期が悪かった。
一階にも展示あり。移民してきたばかりの人たちを各国別に撮った集団写真があり、それぞれがそれぞれの地域で一般的だった服を着ているのを見て、この100年で本当に世界は大きく変わったんだなと大袈裟にも思ってしまう。今やどこに行ったって、たいがいみな同じような服を着ている。
そうでない人たちの服は民族服や民族衣装、伝統的な“衣装”と呼ばれ、ただ“服”と言ったときに想像する範囲外のものとして扱われる(ように思える)。日本語では洋服と和服という言葉があるが、他の国々の言葉ではどのような表現がされているのか、気になるところ。
などとくだらないことを思いながら、展示を見ていくと、壁にタッチパネルが埋め込まれたコーナーに出る。それはこれまで移民として渡ってきた人たちの名前とブラジルに来た年、そのときの船の名前など検索できるコンピューターだった。
使い方がいまいちわからないので、隣で検索していた日系らしいおじいさんに日本語で聞いてみるが、日本語が通じず、自力で適当にいじってみる。
名簿的なことの他に、各国別に数人の人へのインタビューを見ることができるようになっていた。言葉がわかればなかなか面白そうなのに、残念ながらひとつもわからん。
1時間ほどいて出る。まだ見ていなかった日系人の資料館を見るため歩いてリベルダージに戻る。
1時間ほど歩いて宿近くの資料館に到着。同じ建物の中には集会所や図書館などもあり。
先に図書館に行く。日本の小さなまちの図書室並の図書館で、専門分野別の棚が所狭しと並んでいる。ほんの冊数自体はなかなか充実しているようだったが、本自体はけっこう古いものが多い。
図書館内をみまわしてみると、週刊少年マガジンとジャンプを発見。1年分くらいがずらっと並んでいる。なんとすばらしいと思いながら近寄ってみると、それぞれ2007年の1年分でさすがに2008年のものはなかった。読書用の机ではマガジンを10冊ほど重ねて読みふけっているおじさんがいた。
古くなった本やあまり読まれない本は、入り口近くの本棚に並べられ、格安で販売されている。眺めてみたが、買いたいと思うまでの本はなし。
その後、同じビルの7階だかにある資料館を見学。入場料は意外と高かった。資料館を維持するために日本からの旅行者は一律同じ料金を払ってくれるよう、お願い文が書かれてある。展示は2つのフロア(階)にまたがって展示されている。
展示物は日系人がブラジルに定着させたさまざまな農産物(30種類近くあった)についてや移民当時の暮らしの様子を再現したものなどかなり充実している。さっき行ったブラジル全体の移民博物館の特別展示よりもはるかに詳しい。ま、当たり前だけど。目を引いたのが動物の剥製。アマゾン地帯に入植した人たちは、入植当時、森に住む生き物たちとときに対決しないといけなかったらしい。
ここのフリーペーパー『ピンドラーマ』を読んだときに、日本語-ポーランド語の辞典を作った大武なにがしという人のことを書いた冊子がここで配布されているとあったので、それについてスタッフの人に聞くと、有料だった。が、記念に購入。
あとは宿で本を読んだりなんたり。
Fin
2008年7月16日水曜日
移民の日、慰霊祭、ぶらぶら
08/06/18(水)
7時過ぎに起床。ちと寒い。1階のリビングでニッケイ新聞、サンパウロ新聞を読む。
今日は移民の日、また100周年の日ということでそういう記事が多い。
10時頃宿を出る。日本週間ということで、いろいろな催し物が行われているアニャンビーという国際展示場などがあるところに行く。
地下鉄に乗り、昨日同日のおじいさんから聞いた乗り換え駅で降りたが、間違って記憶していたことが判明。乗り直しチエテという駅まで行く。
そこから無料のバスが出ていると言っていたのだが、あたりをみてもそれらしきバスがない。行けばわかるかと思っていたが外れ。細かいことを聞いていなかったため探すこともできず。近くの交番で警察に聞く。流ちょうなポルトガル語で教えてくれたが言葉はまったく聞き取れず。幸いジェスチャー付きだったので、それから読みとれたことを元にバス乗り場まで移動。
無料ではないが有料のバス停を発見。日系らしいおじさんとおばさんが1人ずつバスを待っていた。
バスはキングストンで乗ったバスの作りに似ていた。料金を集める人が中におり、その人にカネを払わないと回転バーが回らず降りたりすることができない。料金は2.2ヘアル。
10分ほどすると、体育館のような建物の屋根が見え、その奥に鯉のぼりが見える。
バスは展示場の入り口で停車。降りるとすぐが入り口になっていた。中に入ると若い日系の男女が受付をしていた。はじめポルトガル語で何か言われ、分からない様子をしているとつたない日本語で説明してくれる。プログラムのパンフを販売しているらしく1ヘアルだという。日本語のはないか聞いたところ日本語のものはないとのこと。記念に1冊購入。
入場者を数えるためらしい回転バーを押して中に入る。中は白と赤を基調にした空間になっており、なかなかしゃれた設営がなされている。
ある部屋では折り紙教室が開かれ、ある部屋ではコスプレの衣装が展示されていたり、マンガの人物を描く教室が開かれている。また、音楽に合わせてステップするゲーム機や介護ロボット(?)の展示、キティちゃんのコーナーなどもある。天井にはマンガのページをやぶいて魚の鱗のようにぶら下げられていたり、アニメのポスターなどもあり。
食事コーナーには寿司もあった。基本的に日系人が圧倒的に多く、ゲームやマンガなどに関するところには非日系人の子ども(10代くらい)たちが多かった。
13時からあった慰霊祭をぼくも見学。なんとか会長といった人たちが追悼の文を日本語で読み上げる。坊さんたちによる読経もあった。こういう場合はどの宗派のお経をあげることになっているのだろうか気になる。
夕方、アニャンビーを出てチエテのバスターミナルでフロリアーノポリス行きのバスの値段と時間を調べる。ブラジル最大のターミナルということでどれだけでかいのか期待していたのだが、確かにでかいが想像以上ではなかった。
それから移民博物館に行こうとするが、最寄り駅からの道を間違え、また閉館時間も近かったためそのままセントロまで歩く。
地下鉄駅入り口の広場やいくつもの道路が交差しているところにある緑地帯などにはホームレスらしき人らが多い。
セントロの店でX-Saladaというハンバーガーとアサイのジュースを夕食代わりに食べる。合計5ヘアル(約400円)。
ハンバーガーはなかなかでかく、すばらしい。日本と違うのは会計の仕組みで、カウンターにいる人に適当に注文すると支払う合計金額を書いた紙を渡される。その紙を持って食後なりにレジに行ってお金を払う。入り口も広いからなんだか食い逃げがしやすい仕組みのように思うが、こうしたやり方が定着しているよう。
日がくれて以降は宿で過ごす。
Fin
7時過ぎに起床。ちと寒い。1階のリビングでニッケイ新聞、サンパウロ新聞を読む。
今日は移民の日、また100周年の日ということでそういう記事が多い。
10時頃宿を出る。日本週間ということで、いろいろな催し物が行われているアニャンビーという国際展示場などがあるところに行く。
地下鉄に乗り、昨日同日のおじいさんから聞いた乗り換え駅で降りたが、間違って記憶していたことが判明。乗り直しチエテという駅まで行く。
そこから無料のバスが出ていると言っていたのだが、あたりをみてもそれらしきバスがない。行けばわかるかと思っていたが外れ。細かいことを聞いていなかったため探すこともできず。近くの交番で警察に聞く。流ちょうなポルトガル語で教えてくれたが言葉はまったく聞き取れず。幸いジェスチャー付きだったので、それから読みとれたことを元にバス乗り場まで移動。
無料ではないが有料のバス停を発見。日系らしいおじさんとおばさんが1人ずつバスを待っていた。
バスはキングストンで乗ったバスの作りに似ていた。料金を集める人が中におり、その人にカネを払わないと回転バーが回らず降りたりすることができない。料金は2.2ヘアル。
10分ほどすると、体育館のような建物の屋根が見え、その奥に鯉のぼりが見える。
バスは展示場の入り口で停車。降りるとすぐが入り口になっていた。中に入ると若い日系の男女が受付をしていた。はじめポルトガル語で何か言われ、分からない様子をしているとつたない日本語で説明してくれる。プログラムのパンフを販売しているらしく1ヘアルだという。日本語のはないか聞いたところ日本語のものはないとのこと。記念に1冊購入。
入場者を数えるためらしい回転バーを押して中に入る。中は白と赤を基調にした空間になっており、なかなかしゃれた設営がなされている。
ある部屋では折り紙教室が開かれ、ある部屋ではコスプレの衣装が展示されていたり、マンガの人物を描く教室が開かれている。また、音楽に合わせてステップするゲーム機や介護ロボット(?)の展示、キティちゃんのコーナーなどもある。天井にはマンガのページをやぶいて魚の鱗のようにぶら下げられていたり、アニメのポスターなどもあり。
食事コーナーには寿司もあった。基本的に日系人が圧倒的に多く、ゲームやマンガなどに関するところには非日系人の子ども(10代くらい)たちが多かった。
13時からあった慰霊祭をぼくも見学。なんとか会長といった人たちが追悼の文を日本語で読み上げる。坊さんたちによる読経もあった。こういう場合はどの宗派のお経をあげることになっているのだろうか気になる。
夕方、アニャンビーを出てチエテのバスターミナルでフロリアーノポリス行きのバスの値段と時間を調べる。ブラジル最大のターミナルということでどれだけでかいのか期待していたのだが、確かにでかいが想像以上ではなかった。
それから移民博物館に行こうとするが、最寄り駅からの道を間違え、また閉館時間も近かったためそのままセントロまで歩く。
地下鉄駅入り口の広場やいくつもの道路が交差しているところにある緑地帯などにはホームレスらしき人らが多い。
セントロの店でX-Saladaというハンバーガーとアサイのジュースを夕食代わりに食べる。合計5ヘアル(約400円)。
ハンバーガーはなかなかでかく、すばらしい。日本と違うのは会計の仕組みで、カウンターにいる人に適当に注文すると支払う合計金額を書いた紙を渡される。その紙を持って食後なりにレジに行ってお金を払う。入り口も広いからなんだか食い逃げがしやすい仕組みのように思うが、こうしたやり方が定着しているよう。
日がくれて以降は宿で過ごす。
Fin
サントスのまちへ
08/06/17(火)くもり
・あんぱん、ミルクパン
・日本語の本屋
・サントス
7時過ぎに起床。おじいさんはすでに出かけたよう。昨日買ったパンを朝飯代わりに食う。また、やはり昨日かったピーナッツを頬張る。が、これが生だった。やれやれ。
1階に降りてテーブルにあった日本語の新聞2紙を読む。面白かったのが100周年のイベントに関わる記事。
9時過ぎに宿を出て、近くの日本人移民資料館に行く。が、資料館は午後1時過ぎからだと入り口の受付にいた無愛想なおじいさんに言われる。そのおじいさんに100周年のイベントについてまとめたスケジュールパンフのようなものはないか聞くと”さぁ、ここにはないですね”とそっけなく言われる。どこに行けば手に入るかと聞くと、これもやはり”サァ”との返事。この対応! 一大イベントだろうに、この要領と関係団体との連携の悪さ! まさしく日本的。う~ん、素晴らしい。日本的なものがしっかり根付いている。
アホかと思いながら、資料館をあとにし、ネット屋でメールチェック。
今日は昨日行っていないサンパウロ市内をふらつこうかと思っていたが予定を変更。日本人移民が最初に着いたというサントスのまちに行くことにする。
地下鉄に乗って(2.4ヘアル)、終点まで行き、そこからサントス行きのバスに乗る。運賃15ヘアル(約1000円)。
9時45分のバスに乗り、サントスのバスターミナルに着いたが10時前。寝ていたのであっと言う間だった。
バスを降りて、ターミナル内のインフォメーションに行く。地図をもらう。インフォメーションのおじさんは、いわゆる小人病(だっけ?)の人だった。親切なことにポルトガル語と英語とどちらがいいか聞いてくる。てっきり地図のことか思ったが、そうではなくしゃべる方のことを聞いているのだった。
”英語で”とお願いすると、どこに行きたいのかと聞いてくるので、日本人移民の像があるところに行きたいと言うと、地図上に位置を示し、何番のバスに乗れば行けると教えてくれる。さらに明日サントスで日本人移民に関するセレモニーがあると言って、セレモニーの会場の位置と時間を教えてくれ、さらにここに行けばもっと詳しいことがわかるだろうと日本人がやっているらしい店の名前を教えてくれる。その店の人は、おじさん柔道(柔術?)の先生だという。
ここまで情報を持っていることに驚くとともに感謝。そういうわけでバスに乗ってまちの中に入る。
バスは2.2ヘアル。ターミナルから乗るときは、電車の改札のように窓口でチケットを買って改札機を通ってからバスに乗り込む。まちから乗り込むときは前のドアから乗り、運転手に運賃を払うなり、切符を持っていればそれを改札機に通し、回転バー(実際はバーではないのだが)を押して中に入る。
バスはまちの中を通る。想像していた以上に大きいまちで何よりよく整備されている。自転車道が敷かれ、そこをチャリに乗った人らが走っていく。高層マンションの間に古い教会があったりする。
目的地にたどり着く前に銀行があったので、そこで両替。米ドルのトラベラーズチェックを現金化したら1米ドル=1.54ヘアルというレートでがっくり。ため息が出る。ちなみにボリビアとの国境では米ドル現金が1.8ヘアル。
またバスに乗って目的地に向かう。バスは浜辺(ビーチ)に沿って走り、車窓からは砂浜に設置されている遊具で遊ぶ子やサーフィンをしている人たちが見えた。気温15℃程度で、かつ曇りだからさすがにサーフィン意外は海の中で遊んでいる人はいない。天気のせいか海はあまり美しくない。ウグイス色に濁っている。
このビーチ沿いは、公園が整備され、その中にモニュメントがいくつかぽつぽつと建てられている。日本人移民のブラジル上陸記念碑もその中にあった。道路を挟んでビーチと反対側には高層ビル(マンション)が立ち並び、いかにもリゾート地という雰囲気が漂っている。
ビーチを通り越したら、今度はヨットやボート、漁船などが停まっている湾沿いにバスは走る。適当に降りたが、目的地が見あたらず、近くの船着き場の人に聞く。
現在地を教えてもらい、目的地に向かう。インフォメーションの人は、Estrela de Ouroというところに行けば、明日の情報は得られるとのことだった。バスを降りてから15分ほどで、その文字が入った建物を発見。建物の横は魚市場になっていて、10軒ほどの魚屋がいろんな魚を並べて売っている。たこやいか、冷凍もののエビなどもあり。
建物の入り口に行くと、日系人らしい白髪のおじいさんがいたので、日本語で声をかけるとポルトガル語で日本語はわからないというようなことを言われる。
なので、適当に建物の中に入る。なんの建物かと思っていたら日本料理を出すレストランだった。100人以上が入れるくらいの広さで、内装はビアガーデン的。
次に声をかけた人は、見た目60歳くらいのおじさんで、ぼくがしゃべる日本語は解した。ただ、おじさんがしゃべる日本語は、助詞が抜けたりする日本語。明日のことを聞いたら、迷惑そうな顔をすることもなく対応してくれる。が、どこで何時にあるかということは知らなかった。ただ、食事はこの店で食べるということだけは確実な情報らしい。
結局、インフォメーションで聞いた以上の情報はわからず。ビーチの方に向かって歩く。高層マンションが建ち並ぶ住宅街の中を歩く。ゴミ置き場はアルゼンチンと同じように、地上から1mくらいの高さに鉄枠があり、そこに置くスタイル。道ばたにはゴミはほとんど落ちていない。
英会話スクールや英語とスペイン語の会話教室の看板も見える。また、日本の高級スーパーに似た作りのスーパーや、ぼくには一生縁のなさそうな高級そうなレストランも並ぶ。総じて高級住宅街っぽい。
浜辺に出る。さっき通り過ぎた日系人の碑に向けて、公園を歩く。車道沿いには片道1車線の自転車道が伸び、そこをマウンテンバイクやロードレーサー、こちらではママチャリにあたりそうな自転車が走る。また、アルバイトなのか、企業の広告を貼り付けた自転車を漕いでいる人たちもいる。
浜辺をサッカーらしきユニフォームを着た女子(高校生くらい?)がランニングしている。レガッタよりももっと大きなボートをこれから海に出そうとしている男子(大学生?)もいる。
椰子の実ジュースやポップコーンなどを売っている露店や屋台があるが、少ない。面白いなと思ったが、浜辺に図書館があったこと。小さな図書館で、10~20畳のワンフロアのみ。自動ドアを入ってすぐが閲覧席になっており、10人近くの人が本を読んでいた。
日本人移民の上陸を記念したモニュメントにたどり着く。写真を1枚撮る。すぐ近くで日系らしい白髪のおじいさんがポップコーンやチュロスを売る屋台をやっていたので、買いに行ってみる。
日本語で声をかけようかポルトガル語で声をかけようかと迷っていると、おじいさんと目が合い、ポルトガル語でなにやらあれこれと言われる。当然、わからないので、首をひねっていると、”日本人ですか?”と日本語で聞かれる。
”そうです”と応えると、”今、向こうに行っているからちょっと待って”と言われる。意味がわからなかったが、とりあえず待つ。しばらくして浅黒い肌のおばちゃんがやってくる。おじいさんは、おばさんの代わりに店番をしていたらしい。
そのおばちゃんにおじいさんは、何とかとポルトガル語で言い、おばちゃんは、どれがほしいのかとポルトガル語で聞いてくる。ポップコーンをポルトガル語でなんと言うのかわからなかったので、指さしで注文。2ヘアル(約140円)。
立ったまま食べ始めるとおじいさんが、”まぁ、かけてください”と椅子をすすめてくれる。促されるままに座る。おじいさんとおばさんは、ポルトガル語であれこれとしゃべっている。
おばさんとの話が一通り終わってから、おじいさんもチュロスを頬張る。横に座ってしばらくおしゃべり。
おじいさんは、移民の碑を指さし、”明日で1回目の移民が来て100周年になるね”と言う。そして、”あれは橋本(龍太郎元総理)さんが送ってくれたのよ”と続ける。”橋本龍太郎も死んじゃいましたね”と言うと、”ああ、あの人死んじゃったの?”と知らなかったようだった。
それからしばらくおじいさんの移民の話や東京に働きに行ってたときの話などを聞く。
おじいさん(以下、Oさん)は、ブラジルのサンパウロ州生まれで現在73歳。Oさんのおじいさんの代にブラジルに渡ってきたという。Oさんのおじいさんは、”戦争の後、すぐに”ブラジルに来たという。ときは1908年6月18日。つまり、笠戸丸に乗ってやってきた第1回移民だったらしい。
Oさんは、”おじいさんは戦争の後すぐにブラジルに来たと言ってたなぁ。そして、その戦争で何かの勲章をもらってたようだった”と言い、ぼくに”日本はアメリカと戦争したんですよね”と聞いてくる。ぼくは、日本が19世紀末から20世紀半ばまで戦争に明け暮れた歴史をOさんも知っていると思っていたので、この質問にちょっと驚く。質問から察するに、どうもOさんはおじいさんがアメリカとの戦争に従軍したと思っているようだった。
なので、日清戦争からアジア太平洋戦争までの流れを年表形式で少し説明すると、”そんなに日本は戦争してたのかぁ”と驚いたふうだった。
戦争のすぐ後に笠戸丸に乗って来たというなら、Oさんのおじいさんは日露戦争後にブラジルに来たということだろう。
Oさんのお父さんはその頃、まだ1歳くらいだったとか。Oさんのお母さんは熊本の八代出身で1934年頃、ブラジルに来たらしい。Oさんは八代のことを”やっちろ”と言う。この呼び方は本物だ。
現在73歳というので、Oさんの生まれは1935年あたりになる。Oさんの家族は百姓をしていたらしい。何を作っていたのかは聞きそびれる。
第1回の移民船で来た人は、10年くらいブラジルで働いてお金がたまったら日本に帰ろうと考えていた人が多かったらしい。しかし、コーヒーを作ったら、これでずいぶん儲けることができたらしく、”だんだんと日本のことを忘れていった”という。Oさんは、”だから田舎に行くとお金持ちがいっぱいいる”と言う。
”戦争の頃は大変だったよ”と言って話し始めたのは、アジア太平洋戦争時のこと。サントス港近辺にいた日本人やドイツ人は内陸部に送られ、そこで働かされたという。しかし、Oさんの話では賃金も何もない強制労働ではなく、賃金をもらっての仕事だったそうで、しかもこれでけっこうカネを貯めた人がいたらしい。
ぼくは”ブラジルにいて良かったですね”と言うと、”うん、あのころはブラジルの方が良かった。でも、今は日本の方がいいね。”と言う。
Oさんは1945年の日本の敗戦をめぐって、ブラジルの日系社会で繰り広げられた勝ち組・負け組の抗争ことも、小さかったから細かいことはわからないものの、今でもしっかり覚えているという。
1955年にはOさんはブラジルの軍隊に入り(たぶん兵役)、大型のトラックを運転したりしていたという。それを聞いたOさんのおじいさんは、自分の孫が軍隊に入りそのような仕事(?)をしていることを聞き、たいそう喜んだらしい。
ただ軍隊生活は、上下関係から何から厳しくて大変だったらしい。
軍隊にいた期間は1年。父親が亡くなってしまったため、家に帰らねばならないと説明し、辞めたらしい。
軍隊を辞めたOさんは、家業の農業を継いだが、これが余り面白くなく仕事を変える。新たな仕事はトラックでの運送業で、野菜などを内陸の農業地帯から運び出し、都市部に届ける仕事をしていたという。
特に運んだのがスイカで、1玉10kgも20kgもあるスイカを多いときには10トンも積んで走ったらしい。しかも、当時はアスファルトなどなかった。今はサンパウロからバスで40時間足らずで行けるリオ・デ・ジャネイロは、2週間もかかったらしい。
それでも小さい頃からトラックが好きだったらしく30年ほど運送業をして、今はもう引退して年金暮らしらしい。
日本へは1993年に初めて行ったらしい。新幹線ひかりの関係をしていたらしく、5年ほど東京の池尻に住んでいた。日本に行ってなにか変だなと思ったりしたことはなかったかと聞いたところ、そういうのはなかったと言う。
ただ、思い出したように、”新宿に行ったとき、あの紙をこうやって束ねるのは日本語でなんて言うんだっけ。その中で寝たりして”と言うので、”段ボールハウスですか?”と言うと、”そう、あれを新宿に行ったとき見たね”と言う。
それから出たのが川のこと。”ブラジルの川はどこも濁っているけど、日本の川はきれいなんだよね”、”ぶどう狩りに行ったとき、川の中にいる魚まで見えた”と言う。
Oさんは2重国籍取得者で、”ブラジルにいれば日系ブラジル人3世になり、日本に行けば日本人になる”と言う。日本に行ったときは、日本のパスポートを取得してから行ったらしい。ブラジルを出るときはブラジルの”パサポルテ”を出し、日本に入るときは日本の”パサポルテ”を出して入ったという。
二重国籍を持っている人は多いのかと聞いたところ、今はもう100人くらいしかいないらしい。基本的に70歳以上の人ばかり。
孫たちが日本に行きたいと言っているものの、日本に行くにはビザを取得せねばならず、その取得がまた大変らしい。そのためちょっと日本に遊びに行くということは、大変むずかしくなっているという。この扱いは日系人も非日系人も同じ。厳しい理由を”日本でブラジル人が悪いことをしたから、それで厳しくなった”とOさんは説明する。
ちなみに今朝のサンパウロ新聞(日本語)には、投書欄にこのビザの取得の厳しさについて批判する意見が載っていた。投書した人の記事によれば、日本政府は日系人から日本国籍を剥奪した上、日系人が日本に行くときにもビザの取得を義務づけ、かつその手続きは、ほとんど日本に来るなと言っているようなものらしい。記事を読むだけでも投稿者がかなり怒っていることがわかる。
ぼくにブラジルの料理はどうと聞いてくるので、ちょっと塩気がきついですねと応えると、そうなんだよねと言って、日本人の口には合わなかったりすると言う。ぼくが自宅では日本食を食べているのかと聞くと、家ではブラジルの料理を基本的に食べているという。その理由として、”娘たちが、日本の料理をしきらんから”と九州的な言葉で言う。
サントスのまちについては、40年前頃からこんな立派なビルが立ちだしたらしい。また、ブラジルの治安について、ブラジルではピストルを持っている人が多いのが危ないという。聞くとパラグアイやアルゼンチンで買って持ち込むらしい。鈴国との行き来はチェックがかなり甘いから簡単にピストルを手に入れることができるらしい。
すっかり日が暮れたので、おいとまする。サンパウロに戻ることを言うと、そこの道を15分ほど歩いていった通りでサンパウロにダイレクトで行くバスに乗れると教えてくれる。
店の時計をのぞいてみると時間は19時を過ぎていた。店はまだ開いているし、人通りもわりかしある。バス待ちをしている人も多い。
おじいさんの15分とぼくの15分はだいぶ違うと思うんだけど、と思いながら適当に歩いて、適当に待つ。なかなかバスは来ない。30分ほど待ってバスにありつける。
バスはセントロを通ってバスターミナルに入る。ターミナルに入ると乗客のほとんどが降りる。ダイレクトで行くと言っていたからぼくは乗ったまま発車を待っていたのだが、発車前にチケットのチェックがあり、持ってなかったぼくは降りるよう言われる。これで1本逃す。
ターミナルの窓口でチケットを買って、別のバスに乗り込む。また寝る。バスに乗るとどうも寝てしまう。
気がついたらサンパウロの地下鉄駅のターミナル。乗客の少ない地下鉄に乗ってリベルダーデに行く。21時を過ぎていたが、日本食のレストランや居酒屋などは開いていて、客もけっこう入っていた。
ぼくはネット屋でメールをした後、宿に直行。
22時過ぎに同室のおじいさんが帰ってくる。スーツにネクタイ姿。今日はアンニェンビーという日本人移民100周年を記念したイベントが行われている文化施設に行ってきたらしい。昼過ぎに行ってからこの時間までいたという。今日は沖縄の太鼓団の演奏やなんとかという女の演歌歌手か何かのコンサートなどがずっとあっていて、途中で抜けようにも抜けられず、この時間になってしまったという。
今日も新たな客なし。部屋には2人のみ。
Fin
・あんぱん、ミルクパン
・日本語の本屋
・サントス
7時過ぎに起床。おじいさんはすでに出かけたよう。昨日買ったパンを朝飯代わりに食う。また、やはり昨日かったピーナッツを頬張る。が、これが生だった。やれやれ。
1階に降りてテーブルにあった日本語の新聞2紙を読む。面白かったのが100周年のイベントに関わる記事。
9時過ぎに宿を出て、近くの日本人移民資料館に行く。が、資料館は午後1時過ぎからだと入り口の受付にいた無愛想なおじいさんに言われる。そのおじいさんに100周年のイベントについてまとめたスケジュールパンフのようなものはないか聞くと”さぁ、ここにはないですね”とそっけなく言われる。どこに行けば手に入るかと聞くと、これもやはり”サァ”との返事。この対応! 一大イベントだろうに、この要領と関係団体との連携の悪さ! まさしく日本的。う~ん、素晴らしい。日本的なものがしっかり根付いている。
アホかと思いながら、資料館をあとにし、ネット屋でメールチェック。
今日は昨日行っていないサンパウロ市内をふらつこうかと思っていたが予定を変更。日本人移民が最初に着いたというサントスのまちに行くことにする。
地下鉄に乗って(2.4ヘアル)、終点まで行き、そこからサントス行きのバスに乗る。運賃15ヘアル(約1000円)。
9時45分のバスに乗り、サントスのバスターミナルに着いたが10時前。寝ていたのであっと言う間だった。
バスを降りて、ターミナル内のインフォメーションに行く。地図をもらう。インフォメーションのおじさんは、いわゆる小人病(だっけ?)の人だった。親切なことにポルトガル語と英語とどちらがいいか聞いてくる。てっきり地図のことか思ったが、そうではなくしゃべる方のことを聞いているのだった。
”英語で”とお願いすると、どこに行きたいのかと聞いてくるので、日本人移民の像があるところに行きたいと言うと、地図上に位置を示し、何番のバスに乗れば行けると教えてくれる。さらに明日サントスで日本人移民に関するセレモニーがあると言って、セレモニーの会場の位置と時間を教えてくれ、さらにここに行けばもっと詳しいことがわかるだろうと日本人がやっているらしい店の名前を教えてくれる。その店の人は、おじさん柔道(柔術?)の先生だという。
ここまで情報を持っていることに驚くとともに感謝。そういうわけでバスに乗ってまちの中に入る。
バスは2.2ヘアル。ターミナルから乗るときは、電車の改札のように窓口でチケットを買って改札機を通ってからバスに乗り込む。まちから乗り込むときは前のドアから乗り、運転手に運賃を払うなり、切符を持っていればそれを改札機に通し、回転バー(実際はバーではないのだが)を押して中に入る。
バスはまちの中を通る。想像していた以上に大きいまちで何よりよく整備されている。自転車道が敷かれ、そこをチャリに乗った人らが走っていく。高層マンションの間に古い教会があったりする。
目的地にたどり着く前に銀行があったので、そこで両替。米ドルのトラベラーズチェックを現金化したら1米ドル=1.54ヘアルというレートでがっくり。ため息が出る。ちなみにボリビアとの国境では米ドル現金が1.8ヘアル。
またバスに乗って目的地に向かう。バスは浜辺(ビーチ)に沿って走り、車窓からは砂浜に設置されている遊具で遊ぶ子やサーフィンをしている人たちが見えた。気温15℃程度で、かつ曇りだからさすがにサーフィン意外は海の中で遊んでいる人はいない。天気のせいか海はあまり美しくない。ウグイス色に濁っている。
このビーチ沿いは、公園が整備され、その中にモニュメントがいくつかぽつぽつと建てられている。日本人移民のブラジル上陸記念碑もその中にあった。道路を挟んでビーチと反対側には高層ビル(マンション)が立ち並び、いかにもリゾート地という雰囲気が漂っている。
ビーチを通り越したら、今度はヨットやボート、漁船などが停まっている湾沿いにバスは走る。適当に降りたが、目的地が見あたらず、近くの船着き場の人に聞く。
現在地を教えてもらい、目的地に向かう。インフォメーションの人は、Estrela de Ouroというところに行けば、明日の情報は得られるとのことだった。バスを降りてから15分ほどで、その文字が入った建物を発見。建物の横は魚市場になっていて、10軒ほどの魚屋がいろんな魚を並べて売っている。たこやいか、冷凍もののエビなどもあり。
建物の入り口に行くと、日系人らしい白髪のおじいさんがいたので、日本語で声をかけるとポルトガル語で日本語はわからないというようなことを言われる。
なので、適当に建物の中に入る。なんの建物かと思っていたら日本料理を出すレストランだった。100人以上が入れるくらいの広さで、内装はビアガーデン的。
次に声をかけた人は、見た目60歳くらいのおじさんで、ぼくがしゃべる日本語は解した。ただ、おじさんがしゃべる日本語は、助詞が抜けたりする日本語。明日のことを聞いたら、迷惑そうな顔をすることもなく対応してくれる。が、どこで何時にあるかということは知らなかった。ただ、食事はこの店で食べるということだけは確実な情報らしい。
結局、インフォメーションで聞いた以上の情報はわからず。ビーチの方に向かって歩く。高層マンションが建ち並ぶ住宅街の中を歩く。ゴミ置き場はアルゼンチンと同じように、地上から1mくらいの高さに鉄枠があり、そこに置くスタイル。道ばたにはゴミはほとんど落ちていない。
英会話スクールや英語とスペイン語の会話教室の看板も見える。また、日本の高級スーパーに似た作りのスーパーや、ぼくには一生縁のなさそうな高級そうなレストランも並ぶ。総じて高級住宅街っぽい。
浜辺に出る。さっき通り過ぎた日系人の碑に向けて、公園を歩く。車道沿いには片道1車線の自転車道が伸び、そこをマウンテンバイクやロードレーサー、こちらではママチャリにあたりそうな自転車が走る。また、アルバイトなのか、企業の広告を貼り付けた自転車を漕いでいる人たちもいる。
浜辺をサッカーらしきユニフォームを着た女子(高校生くらい?)がランニングしている。レガッタよりももっと大きなボートをこれから海に出そうとしている男子(大学生?)もいる。
椰子の実ジュースやポップコーンなどを売っている露店や屋台があるが、少ない。面白いなと思ったが、浜辺に図書館があったこと。小さな図書館で、10~20畳のワンフロアのみ。自動ドアを入ってすぐが閲覧席になっており、10人近くの人が本を読んでいた。
日本人移民の上陸を記念したモニュメントにたどり着く。写真を1枚撮る。すぐ近くで日系らしい白髪のおじいさんがポップコーンやチュロスを売る屋台をやっていたので、買いに行ってみる。
日本語で声をかけようかポルトガル語で声をかけようかと迷っていると、おじいさんと目が合い、ポルトガル語でなにやらあれこれと言われる。当然、わからないので、首をひねっていると、”日本人ですか?”と日本語で聞かれる。
”そうです”と応えると、”今、向こうに行っているからちょっと待って”と言われる。意味がわからなかったが、とりあえず待つ。しばらくして浅黒い肌のおばちゃんがやってくる。おじいさんは、おばさんの代わりに店番をしていたらしい。
そのおばちゃんにおじいさんは、何とかとポルトガル語で言い、おばちゃんは、どれがほしいのかとポルトガル語で聞いてくる。ポップコーンをポルトガル語でなんと言うのかわからなかったので、指さしで注文。2ヘアル(約140円)。
立ったまま食べ始めるとおじいさんが、”まぁ、かけてください”と椅子をすすめてくれる。促されるままに座る。おじいさんとおばさんは、ポルトガル語であれこれとしゃべっている。
おばさんとの話が一通り終わってから、おじいさんもチュロスを頬張る。横に座ってしばらくおしゃべり。
おじいさんは、移民の碑を指さし、”明日で1回目の移民が来て100周年になるね”と言う。そして、”あれは橋本(龍太郎元総理)さんが送ってくれたのよ”と続ける。”橋本龍太郎も死んじゃいましたね”と言うと、”ああ、あの人死んじゃったの?”と知らなかったようだった。
それからしばらくおじいさんの移民の話や東京に働きに行ってたときの話などを聞く。
おじいさん(以下、Oさん)は、ブラジルのサンパウロ州生まれで現在73歳。Oさんのおじいさんの代にブラジルに渡ってきたという。Oさんのおじいさんは、”戦争の後、すぐに”ブラジルに来たという。ときは1908年6月18日。つまり、笠戸丸に乗ってやってきた第1回移民だったらしい。
Oさんは、”おじいさんは戦争の後すぐにブラジルに来たと言ってたなぁ。そして、その戦争で何かの勲章をもらってたようだった”と言い、ぼくに”日本はアメリカと戦争したんですよね”と聞いてくる。ぼくは、日本が19世紀末から20世紀半ばまで戦争に明け暮れた歴史をOさんも知っていると思っていたので、この質問にちょっと驚く。質問から察するに、どうもOさんはおじいさんがアメリカとの戦争に従軍したと思っているようだった。
なので、日清戦争からアジア太平洋戦争までの流れを年表形式で少し説明すると、”そんなに日本は戦争してたのかぁ”と驚いたふうだった。
戦争のすぐ後に笠戸丸に乗って来たというなら、Oさんのおじいさんは日露戦争後にブラジルに来たということだろう。
Oさんのお父さんはその頃、まだ1歳くらいだったとか。Oさんのお母さんは熊本の八代出身で1934年頃、ブラジルに来たらしい。Oさんは八代のことを”やっちろ”と言う。この呼び方は本物だ。
現在73歳というので、Oさんの生まれは1935年あたりになる。Oさんの家族は百姓をしていたらしい。何を作っていたのかは聞きそびれる。
第1回の移民船で来た人は、10年くらいブラジルで働いてお金がたまったら日本に帰ろうと考えていた人が多かったらしい。しかし、コーヒーを作ったら、これでずいぶん儲けることができたらしく、”だんだんと日本のことを忘れていった”という。Oさんは、”だから田舎に行くとお金持ちがいっぱいいる”と言う。
”戦争の頃は大変だったよ”と言って話し始めたのは、アジア太平洋戦争時のこと。サントス港近辺にいた日本人やドイツ人は内陸部に送られ、そこで働かされたという。しかし、Oさんの話では賃金も何もない強制労働ではなく、賃金をもらっての仕事だったそうで、しかもこれでけっこうカネを貯めた人がいたらしい。
ぼくは”ブラジルにいて良かったですね”と言うと、”うん、あのころはブラジルの方が良かった。でも、今は日本の方がいいね。”と言う。
Oさんは1945年の日本の敗戦をめぐって、ブラジルの日系社会で繰り広げられた勝ち組・負け組の抗争ことも、小さかったから細かいことはわからないものの、今でもしっかり覚えているという。
1955年にはOさんはブラジルの軍隊に入り(たぶん兵役)、大型のトラックを運転したりしていたという。それを聞いたOさんのおじいさんは、自分の孫が軍隊に入りそのような仕事(?)をしていることを聞き、たいそう喜んだらしい。
ただ軍隊生活は、上下関係から何から厳しくて大変だったらしい。
軍隊にいた期間は1年。父親が亡くなってしまったため、家に帰らねばならないと説明し、辞めたらしい。
軍隊を辞めたOさんは、家業の農業を継いだが、これが余り面白くなく仕事を変える。新たな仕事はトラックでの運送業で、野菜などを内陸の農業地帯から運び出し、都市部に届ける仕事をしていたという。
特に運んだのがスイカで、1玉10kgも20kgもあるスイカを多いときには10トンも積んで走ったらしい。しかも、当時はアスファルトなどなかった。今はサンパウロからバスで40時間足らずで行けるリオ・デ・ジャネイロは、2週間もかかったらしい。
それでも小さい頃からトラックが好きだったらしく30年ほど運送業をして、今はもう引退して年金暮らしらしい。
日本へは1993年に初めて行ったらしい。新幹線ひかりの関係をしていたらしく、5年ほど東京の池尻に住んでいた。日本に行ってなにか変だなと思ったりしたことはなかったかと聞いたところ、そういうのはなかったと言う。
ただ、思い出したように、”新宿に行ったとき、あの紙をこうやって束ねるのは日本語でなんて言うんだっけ。その中で寝たりして”と言うので、”段ボールハウスですか?”と言うと、”そう、あれを新宿に行ったとき見たね”と言う。
それから出たのが川のこと。”ブラジルの川はどこも濁っているけど、日本の川はきれいなんだよね”、”ぶどう狩りに行ったとき、川の中にいる魚まで見えた”と言う。
Oさんは2重国籍取得者で、”ブラジルにいれば日系ブラジル人3世になり、日本に行けば日本人になる”と言う。日本に行ったときは、日本のパスポートを取得してから行ったらしい。ブラジルを出るときはブラジルの”パサポルテ”を出し、日本に入るときは日本の”パサポルテ”を出して入ったという。
二重国籍を持っている人は多いのかと聞いたところ、今はもう100人くらいしかいないらしい。基本的に70歳以上の人ばかり。
孫たちが日本に行きたいと言っているものの、日本に行くにはビザを取得せねばならず、その取得がまた大変らしい。そのためちょっと日本に遊びに行くということは、大変むずかしくなっているという。この扱いは日系人も非日系人も同じ。厳しい理由を”日本でブラジル人が悪いことをしたから、それで厳しくなった”とOさんは説明する。
ちなみに今朝のサンパウロ新聞(日本語)には、投書欄にこのビザの取得の厳しさについて批判する意見が載っていた。投書した人の記事によれば、日本政府は日系人から日本国籍を剥奪した上、日系人が日本に行くときにもビザの取得を義務づけ、かつその手続きは、ほとんど日本に来るなと言っているようなものらしい。記事を読むだけでも投稿者がかなり怒っていることがわかる。
ぼくにブラジルの料理はどうと聞いてくるので、ちょっと塩気がきついですねと応えると、そうなんだよねと言って、日本人の口には合わなかったりすると言う。ぼくが自宅では日本食を食べているのかと聞くと、家ではブラジルの料理を基本的に食べているという。その理由として、”娘たちが、日本の料理をしきらんから”と九州的な言葉で言う。
サントスのまちについては、40年前頃からこんな立派なビルが立ちだしたらしい。また、ブラジルの治安について、ブラジルではピストルを持っている人が多いのが危ないという。聞くとパラグアイやアルゼンチンで買って持ち込むらしい。鈴国との行き来はチェックがかなり甘いから簡単にピストルを手に入れることができるらしい。
すっかり日が暮れたので、おいとまする。サンパウロに戻ることを言うと、そこの道を15分ほど歩いていった通りでサンパウロにダイレクトで行くバスに乗れると教えてくれる。
店の時計をのぞいてみると時間は19時を過ぎていた。店はまだ開いているし、人通りもわりかしある。バス待ちをしている人も多い。
おじいさんの15分とぼくの15分はだいぶ違うと思うんだけど、と思いながら適当に歩いて、適当に待つ。なかなかバスは来ない。30分ほど待ってバスにありつける。
バスはセントロを通ってバスターミナルに入る。ターミナルに入ると乗客のほとんどが降りる。ダイレクトで行くと言っていたからぼくは乗ったまま発車を待っていたのだが、発車前にチケットのチェックがあり、持ってなかったぼくは降りるよう言われる。これで1本逃す。
ターミナルの窓口でチケットを買って、別のバスに乗り込む。また寝る。バスに乗るとどうも寝てしまう。
気がついたらサンパウロの地下鉄駅のターミナル。乗客の少ない地下鉄に乗ってリベルダーデに行く。21時を過ぎていたが、日本食のレストランや居酒屋などは開いていて、客もけっこう入っていた。
ぼくはネット屋でメールをした後、宿に直行。
22時過ぎに同室のおじいさんが帰ってくる。スーツにネクタイ姿。今日はアンニェンビーという日本人移民100周年を記念したイベントが行われている文化施設に行ってきたらしい。昼過ぎに行ってからこの時間までいたという。今日は沖縄の太鼓団の演奏やなんとかという女の演歌歌手か何かのコンサートなどがずっとあっていて、途中で抜けようにも抜けられず、この時間になってしまったという。
今日も新たな客なし。部屋には2人のみ。
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| sao paulo |
サンパウロに到着、日本人街などをぶらり
08/06/16(月)
・寒いバス
・地下鉄の乗り方
・路上の人々
・ブラジルの物価
夜中の12時、どこかのターミナルに到着。客が数人おり、数人乗り込んでくる。バスに乗ってからあっと言う間に寝込んでいたぼくは添乗員の声などで目が覚める。
15分ほどで出発。先ほどまで寝ていたため、今度は寝られない。外を眺めても星は少ないし、月に照らされて見えるのは、木々の影だけ。
2時頃、また別のターミナルに着き、そこでも新たな客が乗り込んでくる。しかし、それでも車内はがらがらでみな2人ぶんの座席に横になったりしている。
車内は冷房をかけているのかと思うくらい寒い。正面の壁に電光掲示板があり、そこに外気温と車内の気温、現在の時刻がずっと映し出されている。外の気温は9度、車内は16度。時計は8時頃になってり、まったくあっていない。
客の数が少ないせいか、車内は寒い。ブラジルの長距離バスはみた範囲ではどれもアルゼンチンやチリ、メキシコと遜色なかったため、寒ければ暖房がつくだろうし、暑ければれぼうがつくだろうと思い、毛布の類は持ち込んでいなかった。上着を着ている上半身は寒くないが、脚の方が冷える。
ちょっと寝ては起きというのを繰り返す。
いつの間にか寝ていて、6時30分ころ目覚める。外はすでに明るい。足はすっかり冷えている。外からの光で車内の様子が見え、それでみな毛布を持参していたことに気づく。
道端の標識にサンパウロまで50数kmと見える。もうだいぶ近くまで来ている。
道沿いには林が広がり、ときおり民家が見える。しばらくすると工場らしき建物が次々に現れる。
やがてレンガ色の一帯=まちが現れ、乗客のひとりがそこで降りる。道路のすぐ脇には小さいバラック街。壁は板の張り合わせ、屋根はトタン。一見するだけで、その一帯が貧しいことがわかる。
畑などは見えない。
さらに行くと正面奥に高層ビルが見えてくる。あれがサンパウロらしい。車の交通量が増え、道は混雑しだし、バスはスピードを落とす。橋桁や川の堤、敷地を区切っている壁、おんぼろなビルの外壁など、あらゆるところにスプレーで落書きがされてある。
外を歩いている人たちは皆コートを羽織っている。なかにはニットの帽子を深くかぶった女の人も見える。
工場や高層ビルの多さといい、道路の舗装率の高さ、またといくつもの道路が交わるジャンクションの作られ方や、緩衝帯の緑化のされ方などを見ているとさすがに大都市の雰囲気がある。
高層ビルの中にバスは入っていくのだろうと思っていたが、そこまでは行かず、鉄道に接したターミナルでバスは止まった。念のためまわりの人に、サンパウロか訪ねる。
バスを降り、リュックを背負って出口とポルトガル語で書かれている看板を当てにして歩く。ターミナルは1階部分がバスの乗り場や電車の乗り場になっていて、2階がチケット売場になっている。電車の乗り場はバスの乗り場とは金網で仕切られているので、2階を経由しないと行けない。
目的の宿は地下鉄(Metro)の駅近く。階段を上り、ターミナルの建物内に入る。小さなお店がたくさん並んでおり、人通りも多い。チリのサンティアゴの駅と似たような雰囲気だ。バス会社の窓口がずらっとあったので、後日乗ることになるバスを探したが、見あたらなかった。
Metroのチケット売場と書いた看板が天井から釣り下げられていて、その下を見ると蛇行している行列があった。50人以上並んでいる。チケット販売は機械化されていないらしい。これもチリと同じ。
15分ほど並んでチケットを買う。1回券が2.4ヘアル(約200円)。ガイドブックにあった値段より1ヘアルも上がっている。高い。チリよりも高い。
改札の仕組みはサンティアゴと同じで、チケットを機械に通すと回転バーのロックが外れるから、あとは自分でそれを押しながら通る。
改札機の近くに制服を着たおじさんがいたので、行きたい駅を伝え、行き方を聞くが”次の”という言葉がわかったくらいで、ほとんど聞き取れない。どうもポルトガル語の発音は耳にあわないらしい。とりあえずおじさんが指さしていた方の階段から下に降りる。
けっこうな人がいて、やや混雑している。壁などには路線図が書かれているのだが、肝心の現在地がどこなのか、その図からはわからない。
それでまたホームにいたごつい係員の男の人に聞く。親切に教えてくれるが、いまいち聞き取れない。オブリガードと言って、電車を待っていたらその係員が再び声をかけてきて全体の路線図が載っているパンフレットを見せ、今、ここにいるから、これに乗ってここで乗り換えて、こう行くとあなたの目的地に着くと教えてくれる。そうやって説明してくれてようやく現在地がわかった。
電車はそれなりに込んでいるが、ギュウギュウとまではいかない。リュックを背負ったまま乗り込んだが、他の人にぶつかることなく乗り込める程度。
車内を見渡すと14インチくらいのわりと大きな液晶テレビが4カ所ほどにあり、コマーシャルをずっと流している。携帯電話で話している人はいない。
乗り換え駅で降り、階段を上り下りして別の路線のホームに行く。こちらのホームに下るエスカレーターには行列ができていたが、階段はわりと空いていたためそこを下る。ちなみにエスカレーターは故障しているのか動いていなかった。なぜ動いていないエスカレーターに行列を作るのかがわからない。
こちらのホームは、さっきよりも混雑していてどの乗り口にも20人以上の人が並んでいた。乗り換えの中心駅だからか、ホームの乗り口には行列を誘導するためらしい金属の柵であり、それに沿って人が並んでいる。
すぐに電車は来る。降りる人が降りてから乗り込むのは、日本と同じ。わりと空(す)いていたので、この電車に乗れるかなと思っていたら、前に並んでいた人がほどほどに満員になったところで乗り込むのをやめる。隣の人とは充分に隙間があるから、東京で言えばまだまだいけるというくらいの込み具合なのに。それもぼくが並んでいた列だけでなく、他の列もみなある程度までいっぱいになったら乗り込むのを止めているのだった。もちろんドアが閉まるところに走りこんで来る人などいない。
こういう習慣を持っている人たちが東京のあのドアに自らはまりにいく人たちを見たら、何かのジョークかと思うだろう。
次の電車の到着時刻を示す電光掲示板はなかったが、次の電車は5分と待たずに来る。停車位置も正確。
日本人街があるというLiberdade(リベルダージ)という駅で降りる。駅構内のエスカレーター上部の壁には、日系の子どもたちがモデルとなったポスターが貼られ、ポルトガル語で100周年を祝う言葉が書かれている。
地上に上がるといきなりカタカナや漢字が目に飛び込んでくる。適当に宿があると思われる方角へ歩く。道の両脇には刀や漆器など日本の土産物を売る店や布団屋(ローマ字でそのまま書いている)、格子戸の日本食屋などが並んでいる。久しぶりに木製の格子戸を見たが、かなり周りの雰囲気から浮いているように感じる。街並み自体は、日本と大して変わらないから、外国にいるという前提がそう感じさせるのだろうか。
道を歩いている人も日本人っぽい人、韓国系、中国系が多い。日系の人は、時間帯の問題もあるのだろうが、年寄りを多く見る。
ネットで見た情報を思い浮かべながら、この辺にあるはずなのだがと宿を探すが、見あたらない。手帳を取り出し、確認すると一つ前の駅で降りていたのが判明。また駅に戻り、高い電車賃を払って一駅ぶん移動する。
こちらの駅の周りは商店はほとんどなく、アパートのような建物ばかり。今度はすんなりと宿を発見できる。
ブザーを押すと、”はい、いらっしゃい”と中から日系のおばちゃんが出てくる 。日本語はときおり違和感のあるしゃべり方をするが、基本的に問題ない程度。
宿帳に名前を書き、宿のルールを書いた紙を読む。バナナ1本とコーヒーをさっそくいただく。本棚には日本語の本が何冊か並んでいる。
部屋に案内してもらう。今はほとんど人がいないらしい。2段ベッドが2つある部屋に入る。
荷物を起き、日本語のガイドブックを借りて、まちに出る。
リベルダージのまちには、赤提灯のぶら下がった居酒屋もあれば、日本語の本を売る本屋、マンガの貸本屋、寿司や天ぷらなどの弁当も売る食料品店、仏壇屋、風呂桶屋、宝石屋、たこ焼き屋など多種多様。はっきり言って予想外だった。ここまで日本のものがそろっているとは。
さらに驚いたのが日本語の本の値段。どれも一律日本円の価格の2倍以上になっている。こっちで売っているアメリカの本はそんなことないのになんで日本の本が倍もの値段になるのかが不思議。
リベルダージを抜けて、サンパウロの中心部に行く。中心部の広場には路上生活者とおぼしき人たちが植え込みの縁に座り込んでおしゃべりしていたりする。その後も歩いていて感じたが、路上生活者の数がかなり多い。広場という広場にいる。
また歩道などで商売している人の数も多い。串焼きや椰子の実ジュース、ジャックフルーツ、ピーナッツやカシューナッツなどナッツ類、それから靴下とか凧とかほんとに多種多様。なかなかおもしろい。
しかし、一部の歩道などでは商売は認められていないようで、警察が車に乗ってやってくると、みな一斉に屋台を転がし、あるいは荷物を黒ビニールで隠し持って走って逃げる。その逃げ足の早さは見事。今、そこで商売していたのに、あっという間にいなくなる。
それから目に付くのがフルーツジュース屋兼ハンバーガー等のファーストフード店。カウンターの周りに網に入れられたさまざまな果物が天井からぶら下げられ、それらを使ってその場でミキサーで砕き新鮮なジュースを作ってくれる店が、これでもかというくらいにある。日本でも最近話題になったアマゾンの果物アサイもポスターを使ってよく宣伝されている。こうした店はどこも同じような店構えをしている。
また中心部はよく掃除が行き届いており、落ちているごみが少ない。
交通機関としては路面電車はないもののトローリーバスはあり。バイクタクシーなどはなし。
ぼくはもっとアジアチックな雑多な感じのまちかと思っていたが、意外と整理されていたのでなんだか気が抜けた感じだった。
ブラジルに来て気持ちがいいのは、拳を握った形で親指を立ててグー(絵文字を入れたいところだがない)というジェスチャーをいろんな場面でされること。例えばお金を払うと親指でグーとやったり、ぶつかりそうになったときにこっちがうまい具合によけると親指でグーとやったり、なかには目があっただけで親指でグーっとやる。
また例えばぶつかったりして謝るときに軽く相手の背に手をおいて謝る仕草もなんだかやさしい。
カンポグランデで話をした日系の人は、サンパウロは危ない(というよりもブラジルはどこも危ない)と言っていたが、ごく狭い範囲だが、中心街を歩いた感じではそれほど危ないという感覚はなかった。警官の武装の程度もジャマイカのキングストンに比べれば軽装だし。
とはいえ、夜は宿ですごす。
Fin
・寒いバス
・地下鉄の乗り方
・路上の人々
・ブラジルの物価
夜中の12時、どこかのターミナルに到着。客が数人おり、数人乗り込んでくる。バスに乗ってからあっと言う間に寝込んでいたぼくは添乗員の声などで目が覚める。
15分ほどで出発。先ほどまで寝ていたため、今度は寝られない。外を眺めても星は少ないし、月に照らされて見えるのは、木々の影だけ。
2時頃、また別のターミナルに着き、そこでも新たな客が乗り込んでくる。しかし、それでも車内はがらがらでみな2人ぶんの座席に横になったりしている。
車内は冷房をかけているのかと思うくらい寒い。正面の壁に電光掲示板があり、そこに外気温と車内の気温、現在の時刻がずっと映し出されている。外の気温は9度、車内は16度。時計は8時頃になってり、まったくあっていない。
客の数が少ないせいか、車内は寒い。ブラジルの長距離バスはみた範囲ではどれもアルゼンチンやチリ、メキシコと遜色なかったため、寒ければ暖房がつくだろうし、暑ければれぼうがつくだろうと思い、毛布の類は持ち込んでいなかった。上着を着ている上半身は寒くないが、脚の方が冷える。
ちょっと寝ては起きというのを繰り返す。
いつの間にか寝ていて、6時30分ころ目覚める。外はすでに明るい。足はすっかり冷えている。外からの光で車内の様子が見え、それでみな毛布を持参していたことに気づく。
道端の標識にサンパウロまで50数kmと見える。もうだいぶ近くまで来ている。
道沿いには林が広がり、ときおり民家が見える。しばらくすると工場らしき建物が次々に現れる。
やがてレンガ色の一帯=まちが現れ、乗客のひとりがそこで降りる。道路のすぐ脇には小さいバラック街。壁は板の張り合わせ、屋根はトタン。一見するだけで、その一帯が貧しいことがわかる。
畑などは見えない。
さらに行くと正面奥に高層ビルが見えてくる。あれがサンパウロらしい。車の交通量が増え、道は混雑しだし、バスはスピードを落とす。橋桁や川の堤、敷地を区切っている壁、おんぼろなビルの外壁など、あらゆるところにスプレーで落書きがされてある。
外を歩いている人たちは皆コートを羽織っている。なかにはニットの帽子を深くかぶった女の人も見える。
工場や高層ビルの多さといい、道路の舗装率の高さ、またといくつもの道路が交わるジャンクションの作られ方や、緩衝帯の緑化のされ方などを見ているとさすがに大都市の雰囲気がある。
高層ビルの中にバスは入っていくのだろうと思っていたが、そこまでは行かず、鉄道に接したターミナルでバスは止まった。念のためまわりの人に、サンパウロか訪ねる。
バスを降り、リュックを背負って出口とポルトガル語で書かれている看板を当てにして歩く。ターミナルは1階部分がバスの乗り場や電車の乗り場になっていて、2階がチケット売場になっている。電車の乗り場はバスの乗り場とは金網で仕切られているので、2階を経由しないと行けない。
目的の宿は地下鉄(Metro)の駅近く。階段を上り、ターミナルの建物内に入る。小さなお店がたくさん並んでおり、人通りも多い。チリのサンティアゴの駅と似たような雰囲気だ。バス会社の窓口がずらっとあったので、後日乗ることになるバスを探したが、見あたらなかった。
Metroのチケット売場と書いた看板が天井から釣り下げられていて、その下を見ると蛇行している行列があった。50人以上並んでいる。チケット販売は機械化されていないらしい。これもチリと同じ。
15分ほど並んでチケットを買う。1回券が2.4ヘアル(約200円)。ガイドブックにあった値段より1ヘアルも上がっている。高い。チリよりも高い。
改札の仕組みはサンティアゴと同じで、チケットを機械に通すと回転バーのロックが外れるから、あとは自分でそれを押しながら通る。
改札機の近くに制服を着たおじさんがいたので、行きたい駅を伝え、行き方を聞くが”次の”という言葉がわかったくらいで、ほとんど聞き取れない。どうもポルトガル語の発音は耳にあわないらしい。とりあえずおじさんが指さしていた方の階段から下に降りる。
けっこうな人がいて、やや混雑している。壁などには路線図が書かれているのだが、肝心の現在地がどこなのか、その図からはわからない。
それでまたホームにいたごつい係員の男の人に聞く。親切に教えてくれるが、いまいち聞き取れない。オブリガードと言って、電車を待っていたらその係員が再び声をかけてきて全体の路線図が載っているパンフレットを見せ、今、ここにいるから、これに乗ってここで乗り換えて、こう行くとあなたの目的地に着くと教えてくれる。そうやって説明してくれてようやく現在地がわかった。
電車はそれなりに込んでいるが、ギュウギュウとまではいかない。リュックを背負ったまま乗り込んだが、他の人にぶつかることなく乗り込める程度。
車内を見渡すと14インチくらいのわりと大きな液晶テレビが4カ所ほどにあり、コマーシャルをずっと流している。携帯電話で話している人はいない。
乗り換え駅で降り、階段を上り下りして別の路線のホームに行く。こちらのホームに下るエスカレーターには行列ができていたが、階段はわりと空いていたためそこを下る。ちなみにエスカレーターは故障しているのか動いていなかった。なぜ動いていないエスカレーターに行列を作るのかがわからない。
こちらのホームは、さっきよりも混雑していてどの乗り口にも20人以上の人が並んでいた。乗り換えの中心駅だからか、ホームの乗り口には行列を誘導するためらしい金属の柵であり、それに沿って人が並んでいる。
すぐに電車は来る。降りる人が降りてから乗り込むのは、日本と同じ。わりと空(す)いていたので、この電車に乗れるかなと思っていたら、前に並んでいた人がほどほどに満員になったところで乗り込むのをやめる。隣の人とは充分に隙間があるから、東京で言えばまだまだいけるというくらいの込み具合なのに。それもぼくが並んでいた列だけでなく、他の列もみなある程度までいっぱいになったら乗り込むのを止めているのだった。もちろんドアが閉まるところに走りこんで来る人などいない。
こういう習慣を持っている人たちが東京のあのドアに自らはまりにいく人たちを見たら、何かのジョークかと思うだろう。
次の電車の到着時刻を示す電光掲示板はなかったが、次の電車は5分と待たずに来る。停車位置も正確。
日本人街があるというLiberdade(リベルダージ)という駅で降りる。駅構内のエスカレーター上部の壁には、日系の子どもたちがモデルとなったポスターが貼られ、ポルトガル語で100周年を祝う言葉が書かれている。
地上に上がるといきなりカタカナや漢字が目に飛び込んでくる。適当に宿があると思われる方角へ歩く。道の両脇には刀や漆器など日本の土産物を売る店や布団屋(ローマ字でそのまま書いている)、格子戸の日本食屋などが並んでいる。久しぶりに木製の格子戸を見たが、かなり周りの雰囲気から浮いているように感じる。街並み自体は、日本と大して変わらないから、外国にいるという前提がそう感じさせるのだろうか。
道を歩いている人も日本人っぽい人、韓国系、中国系が多い。日系の人は、時間帯の問題もあるのだろうが、年寄りを多く見る。
ネットで見た情報を思い浮かべながら、この辺にあるはずなのだがと宿を探すが、見あたらない。手帳を取り出し、確認すると一つ前の駅で降りていたのが判明。また駅に戻り、高い電車賃を払って一駅ぶん移動する。
こちらの駅の周りは商店はほとんどなく、アパートのような建物ばかり。今度はすんなりと宿を発見できる。
ブザーを押すと、”はい、いらっしゃい”と中から日系のおばちゃんが出てくる 。日本語はときおり違和感のあるしゃべり方をするが、基本的に問題ない程度。
宿帳に名前を書き、宿のルールを書いた紙を読む。バナナ1本とコーヒーをさっそくいただく。本棚には日本語の本が何冊か並んでいる。
部屋に案内してもらう。今はほとんど人がいないらしい。2段ベッドが2つある部屋に入る。
荷物を起き、日本語のガイドブックを借りて、まちに出る。
リベルダージのまちには、赤提灯のぶら下がった居酒屋もあれば、日本語の本を売る本屋、マンガの貸本屋、寿司や天ぷらなどの弁当も売る食料品店、仏壇屋、風呂桶屋、宝石屋、たこ焼き屋など多種多様。はっきり言って予想外だった。ここまで日本のものがそろっているとは。
さらに驚いたのが日本語の本の値段。どれも一律日本円の価格の2倍以上になっている。こっちで売っているアメリカの本はそんなことないのになんで日本の本が倍もの値段になるのかが不思議。
リベルダージを抜けて、サンパウロの中心部に行く。中心部の広場には路上生活者とおぼしき人たちが植え込みの縁に座り込んでおしゃべりしていたりする。その後も歩いていて感じたが、路上生活者の数がかなり多い。広場という広場にいる。
また歩道などで商売している人の数も多い。串焼きや椰子の実ジュース、ジャックフルーツ、ピーナッツやカシューナッツなどナッツ類、それから靴下とか凧とかほんとに多種多様。なかなかおもしろい。
しかし、一部の歩道などでは商売は認められていないようで、警察が車に乗ってやってくると、みな一斉に屋台を転がし、あるいは荷物を黒ビニールで隠し持って走って逃げる。その逃げ足の早さは見事。今、そこで商売していたのに、あっという間にいなくなる。
それから目に付くのがフルーツジュース屋兼ハンバーガー等のファーストフード店。カウンターの周りに網に入れられたさまざまな果物が天井からぶら下げられ、それらを使ってその場でミキサーで砕き新鮮なジュースを作ってくれる店が、これでもかというくらいにある。日本でも最近話題になったアマゾンの果物アサイもポスターを使ってよく宣伝されている。こうした店はどこも同じような店構えをしている。
また中心部はよく掃除が行き届いており、落ちているごみが少ない。
交通機関としては路面電車はないもののトローリーバスはあり。バイクタクシーなどはなし。
ぼくはもっとアジアチックな雑多な感じのまちかと思っていたが、意外と整理されていたのでなんだか気が抜けた感じだった。
ブラジルに来て気持ちがいいのは、拳を握った形で親指を立ててグー(絵文字を入れたいところだがない)というジェスチャーをいろんな場面でされること。例えばお金を払うと親指でグーとやったり、ぶつかりそうになったときにこっちがうまい具合によけると親指でグーとやったり、なかには目があっただけで親指でグーっとやる。
また例えばぶつかったりして謝るときに軽く相手の背に手をおいて謝る仕草もなんだかやさしい。
カンポグランデで話をした日系の人は、サンパウロは危ない(というよりもブラジルはどこも危ない)と言っていたが、ごく狭い範囲だが、中心街を歩いた感じではそれほど危ないという感覚はなかった。警官の武装の程度もジャマイカのキングストンに比べれば軽装だし。
とはいえ、夜は宿ですごす。
Fin
カンポグランデの郷土料理を食べにいく
08/06/15(日)
・人がいない休日
・柔術大会
・豊富な雑誌
・市場
・そば、やきそばーフェイラ・セントラ
・日系の人とおしゃべり
・サンパウロへバスで移動
すっかり熟睡。寝苦しいかと思いきやそんなこともなかった。洗濯物があまり乾いていなかったのが予定外。
朝飯付きだったので、8時過ぎに1階に降りて朝食。パンやコーンフレーク、すいかなどなかなか豪華。
10時頃、宿を出て、宿とターミナルの間にあるインフォメーションで当地の郷土料理について聞く。スペイン語が通じたのでスペイン語まじりで”SOBA"について聞く。すると、"Feira centra(?)"というところがあって、そこで食べられるということだった。
レアル(ブラジル語ではヘアルと発音する)がなかったため、ATMを探しにまちなかに行く。あるいて10分ほどいったところが中心部だった。商店が並んでいていくつか開いている店もあるが、ほとんど閉まっている。本屋が開いていたのでのぞいてみたら、雑誌の種類の多さに驚く。ファッションものからITものまである。しかも『Made in Japan 日本製』という日本を専門に紹介する雑誌もあった。やはり大国だ。
その通りをまっすぐ歩いていくと、マイクを通した人の声が聞こえてきたので、そちらの方に行ってみると道路脇の半地下の建物の中で柔術の大会が開かれていた。フットサルのコートにマットを敷いて、その上で試合をしている。
観客も多い。試合をしているのは小学生くらいの子から高校生くらいの子までの男ばかり。中には誰でも入れたので、しばらく見学。柔術は初めて見たが、なんだかレスリングぽい印象を受ける。
それからATMを発見したのでそこでカネをおろす。
宿のチェックアウトが12時だったので、いったん宿に戻るする事にする。来た道とは違う道を通っていたらたまたま市場を発見。それほど大きくない建物の中に民芸品から野菜から香辛料からいろんなもんの小さな店が入っている。
12時が近かったためほとんど素通り。沖縄系の名前のついた八百屋があったが来客中だったためしゃべれず。
まずは宿に戻り、荷造り。洗濯物も乾いていた。荷物は宿に預け、バスのチケットを買いに行く。20時発のサンパウロ行きの夜行バスは134ヘアル(約7000円)。
それから昼飯も兼ねてさっきの市場に再度行く。すると市場は入り口にシャッターが降りていて、すでに閉まっていた。どうも午前中だけの営業だったよう。
しょうがないのであたりをふらつき、開いていたスーパーを見学。チーズの種類が豊富。あとピクルスっぽいものも多種類ある。客は多く、レジは長蛇の列。
その後、ソバを食べにフェイラに向かう。途中、中心街を通ったが、見事に店は閉まっていて、人通りもほとんどない。
フェイラは鉄道駅の駅舎か何かを改造したらしい建物の中に飲食店が並んでおり、壁にはYakimeshi,Sobaといったメニューがかかっている。
どうもここの飲食店はすべて日系の人がやっているよう。従業員もハッピを着ている。昼飯がまだだったので、ここでそばを食べる。ソバは沖縄ソバだが、沖縄で食べたことのある沖縄ソバとはまた違っていた。
一目見た感じでは三食丼のような感じで、スープも麺もまったく見えない。味も異なっており、初めての味だがまぁまぁいける。これがここのスタイルのソバらしい。
ここの店の店員3人ほどは日系人だったが、料理の注文などすべてブラジル語だった。
その後、もう一軒寄ってみようと別の店に入る。そちらの店では店主らしい日系の男性がメニューを持って迎えてくれる。見た目40代前半くらいの人で、メニューを手渡しながら、日本人ですかと聞いてくる。そうです、と伝えると、テーブルを案内してくれ、そこに一緒に座り、おしゃべりが始まる。
玉城さんというらしく、ブラジル生まれのブラジル育ち。日本には1995年前後の数年間出稼ぎで住んでいたらしい。そのときはずいぶん稼がせてもらったとのこと。大阪に住んでいたらしく、阪神大震災も経験したらしい。日本語は普段使わないらしく、ちょっとたどたどしい。語尾に”○○な?”とつくのが、大阪っぽい。
ぼくが持っていた会話帳を見せると面白がって見てくれる。ただ、日本語は読む方はほとんどできなくなっているらしい。
ここの店は週休3日でやっていて、今日は夕方6時くらいまで営業しているという。
二人で話していたところへ日系のおばちゃんがやってくる。農産物をここで売っている人だそうで、玉城さんとも取引があるらしい。その取引の関係でノートでなにやらやりとりしているが、すべてブラジル語の筆記体のためまったく読めず。おばさんが書く字も豪快というか雑というか、こちらの人が書くような字と同じような字体。
おばさんもこちらで生まれ育ったらしく、二人のやりとりはもちろんブラジル語。日本語はだいぶ忘れてしまったようで、玉城さんはぼくと何か話すとそのやりとりを彼女にブラジル語で伝えている。
おばさんはぼくに、今、自分は64歳だが、日本に行ったら仕事はあるか、と聞いてくる。その質問には意表を突かれた。白髪交じりだからけっこう年齢は高いだろうと思い、まさかこれから出稼ぎに行こうなんて考えているとは思わなかった。もちろん本気で思っているわけではなさそうだったが、ほんとに条件が良ければ行きそうな迫力はあった。
焼きそばとアセロラジュースを頼んだら焼きめしをサービスしてくれた。焼きそばは中華系のどろっとした感じの焼きそばで具も多く、食べごたえあり。ジュースは500mlほどのビーカーのようなプラスチック容器に入って出てきた。玉城さんがふとした表紙にカップをひっかけ倒してしまう。焼きめしはちょっと不思議な味で、これまで食べたことのないものだった。塩気が足りないのもあるし、何か全体的にしまりがない感じ。
客はけっこう入っていて、どの店も賑やかだった。
まちを見て回っても人もいないし、店も開いていないので、腹が膨れたところで宿に戻る。バスがもっと早いのがあればそちらに変更しようと、バス会社に行くとちょうど17時台のバスがあったので、それに変更。
宿に預けていた荷物を受け取り、ターミナルに行く。ターミナルのカフェのテレビではサッカーブラジル代表とパラグアイ代表の試合をしていたので、店の端の方からテレビをのぞき見。ブラジル人も何人か同じようにして見ている。ドゥンガが監督をしていたのだが、これがパラグアイに2点も取られてしまいずっと劣勢だった。
試合の終了を見届ける前にバスが入ってきたので、結果を見ることなく乗車。
ブラジルのバスもご飯が出るのかと思っていたら、なかった。後予想外だったのが車内の寒さ。エアコンもきいて炒るみたいだったが、えらく冷える。
Fin
・人がいない休日
・柔術大会
・豊富な雑誌
・市場
・そば、やきそばーフェイラ・セントラ
・日系の人とおしゃべり
・サンパウロへバスで移動
すっかり熟睡。寝苦しいかと思いきやそんなこともなかった。洗濯物があまり乾いていなかったのが予定外。
朝飯付きだったので、8時過ぎに1階に降りて朝食。パンやコーンフレーク、すいかなどなかなか豪華。
10時頃、宿を出て、宿とターミナルの間にあるインフォメーションで当地の郷土料理について聞く。スペイン語が通じたのでスペイン語まじりで”SOBA"について聞く。すると、"Feira centra(?)"というところがあって、そこで食べられるということだった。
レアル(ブラジル語ではヘアルと発音する)がなかったため、ATMを探しにまちなかに行く。あるいて10分ほどいったところが中心部だった。商店が並んでいていくつか開いている店もあるが、ほとんど閉まっている。本屋が開いていたのでのぞいてみたら、雑誌の種類の多さに驚く。ファッションものからITものまである。しかも『Made in Japan 日本製』という日本を専門に紹介する雑誌もあった。やはり大国だ。
その通りをまっすぐ歩いていくと、マイクを通した人の声が聞こえてきたので、そちらの方に行ってみると道路脇の半地下の建物の中で柔術の大会が開かれていた。フットサルのコートにマットを敷いて、その上で試合をしている。
観客も多い。試合をしているのは小学生くらいの子から高校生くらいの子までの男ばかり。中には誰でも入れたので、しばらく見学。柔術は初めて見たが、なんだかレスリングぽい印象を受ける。
それからATMを発見したのでそこでカネをおろす。
宿のチェックアウトが12時だったので、いったん宿に戻るする事にする。来た道とは違う道を通っていたらたまたま市場を発見。それほど大きくない建物の中に民芸品から野菜から香辛料からいろんなもんの小さな店が入っている。
12時が近かったためほとんど素通り。沖縄系の名前のついた八百屋があったが来客中だったためしゃべれず。
まずは宿に戻り、荷造り。洗濯物も乾いていた。荷物は宿に預け、バスのチケットを買いに行く。20時発のサンパウロ行きの夜行バスは134ヘアル(約7000円)。
それから昼飯も兼ねてさっきの市場に再度行く。すると市場は入り口にシャッターが降りていて、すでに閉まっていた。どうも午前中だけの営業だったよう。
しょうがないのであたりをふらつき、開いていたスーパーを見学。チーズの種類が豊富。あとピクルスっぽいものも多種類ある。客は多く、レジは長蛇の列。
その後、ソバを食べにフェイラに向かう。途中、中心街を通ったが、見事に店は閉まっていて、人通りもほとんどない。
フェイラは鉄道駅の駅舎か何かを改造したらしい建物の中に飲食店が並んでおり、壁にはYakimeshi,Sobaといったメニューがかかっている。
どうもここの飲食店はすべて日系の人がやっているよう。従業員もハッピを着ている。昼飯がまだだったので、ここでそばを食べる。ソバは沖縄ソバだが、沖縄で食べたことのある沖縄ソバとはまた違っていた。
一目見た感じでは三食丼のような感じで、スープも麺もまったく見えない。味も異なっており、初めての味だがまぁまぁいける。これがここのスタイルのソバらしい。
ここの店の店員3人ほどは日系人だったが、料理の注文などすべてブラジル語だった。
その後、もう一軒寄ってみようと別の店に入る。そちらの店では店主らしい日系の男性がメニューを持って迎えてくれる。見た目40代前半くらいの人で、メニューを手渡しながら、日本人ですかと聞いてくる。そうです、と伝えると、テーブルを案内してくれ、そこに一緒に座り、おしゃべりが始まる。
玉城さんというらしく、ブラジル生まれのブラジル育ち。日本には1995年前後の数年間出稼ぎで住んでいたらしい。そのときはずいぶん稼がせてもらったとのこと。大阪に住んでいたらしく、阪神大震災も経験したらしい。日本語は普段使わないらしく、ちょっとたどたどしい。語尾に”○○な?”とつくのが、大阪っぽい。
ぼくが持っていた会話帳を見せると面白がって見てくれる。ただ、日本語は読む方はほとんどできなくなっているらしい。
ここの店は週休3日でやっていて、今日は夕方6時くらいまで営業しているという。
二人で話していたところへ日系のおばちゃんがやってくる。農産物をここで売っている人だそうで、玉城さんとも取引があるらしい。その取引の関係でノートでなにやらやりとりしているが、すべてブラジル語の筆記体のためまったく読めず。おばさんが書く字も豪快というか雑というか、こちらの人が書くような字と同じような字体。
おばさんもこちらで生まれ育ったらしく、二人のやりとりはもちろんブラジル語。日本語はだいぶ忘れてしまったようで、玉城さんはぼくと何か話すとそのやりとりを彼女にブラジル語で伝えている。
おばさんはぼくに、今、自分は64歳だが、日本に行ったら仕事はあるか、と聞いてくる。その質問には意表を突かれた。白髪交じりだからけっこう年齢は高いだろうと思い、まさかこれから出稼ぎに行こうなんて考えているとは思わなかった。もちろん本気で思っているわけではなさそうだったが、ほんとに条件が良ければ行きそうな迫力はあった。
焼きそばとアセロラジュースを頼んだら焼きめしをサービスしてくれた。焼きそばは中華系のどろっとした感じの焼きそばで具も多く、食べごたえあり。ジュースは500mlほどのビーカーのようなプラスチック容器に入って出てきた。玉城さんがふとした表紙にカップをひっかけ倒してしまう。焼きめしはちょっと不思議な味で、これまで食べたことのないものだった。塩気が足りないのもあるし、何か全体的にしまりがない感じ。
客はけっこう入っていて、どの店も賑やかだった。
まちを見て回っても人もいないし、店も開いていないので、腹が膨れたところで宿に戻る。バスがもっと早いのがあればそちらに変更しようと、バス会社に行くとちょうど17時台のバスがあったので、それに変更。
宿に預けていた荷物を受け取り、ターミナルに行く。ターミナルのカフェのテレビではサッカーブラジル代表とパラグアイ代表の試合をしていたので、店の端の方からテレビをのぞき見。ブラジル人も何人か同じようにして見ている。ドゥンガが監督をしていたのだが、これがパラグアイに2点も取られてしまいずっと劣勢だった。
試合の終了を見届ける前にバスが入ってきたので、結果を見ることなく乗車。
ブラジルのバスもご飯が出るのかと思っていたら、なかった。後予想外だったのが車内の寒さ。エアコンもきいて炒るみたいだったが、えらく冷える。
Fin
サンタクルスからカンポグランデへ その2
08/06/14(土)
・真夜中のトイレ休憩
・たてゆれ、よこゆれの悪路続き
・乗り換え、また乗り換え
バスが止まる。それまでのリズムが変わったことに気づき、目が覚める。時計を見ると真夜中の12時。窓から外を見下ろすと店があり、添乗員がなにやら言っている。客がぼちぼち降りる。どうもトイレ休憩らしい。バスには便所がないから、夜が明ける前の最後のトイレタイムなのだろう。
20分ほどしてバスは走り始める。道は相変わらずの悪路。縦に細かく揺れ、ときおり横にゆらりゆらりと大きく揺れる。これじゃ運転も大変だ。速度はわりと平らな道で、やっと時速40km程度だろう。だから、地図で見た距離感よりもずっと時間がかかる。もちろん沿道に外灯などはなく、ただバスのライトのみが道を照らしている。
2人ぶんの座席が使えていることがせめてもの救いで、これが隣に人が座っていたら、かなり窮屈だ。加えてそれほど寒くもないから、なんとか眠ることはできる。
次に目が覚めたのは、7時すぎ。集落や畑などはいっさい見えず、ただ低い草木が道路脇からずっと奥まで生い茂っているのが見えるだけ。
しばらくするとがたがたの道の横に広い道が見える。現在、整備中の道路のようできれいにローラーで整地されている。サンタクルスまでのこの道路が完成するのはいつのことやら。
整地されている道路は走れないらしく、相変わらずバスがガタゴト揺れながら走る。道自体はだいたいまっすぐに伸びているからいいものの、これが曲がりくねった道だったら酔っていたかもしれない。
8時頃、ようやく人が住んでいる集落に到着。そこで、何人か客が降りる。さらにそこで子ども連れの10人近くが乗ってくる。5歳前後の小さな子はバスを見ると嬉しそうな顔をしてバスに走りより、一番で乗り込もうとする。
集落の家々はコンクリートづくりもあれば、細長い板を縦に並べて、屋根は椰子の葉か何かで葺いているものもある。敷地と敷地は有刺鉄線で区切られ、バスから見える限りではどこの家も20m四方程度の敷地の中に家を建て、数本の木を植えている。いずれの木も大きく、その下にテーブルと椅子を並べのんびりしていたり、また洗濯物をかけるロープを張り、物干し場として使っている家もある。また、一部の家ではバナナも植えられていた。
その集落を出て、また30分ほどすると別の集落に到着。ここでまた客が降りる。あるおばちゃんは商売人なのか、サンタクルスで買い込んだらしいお菓子やみかんなど大荷物と一緒に降りていった。
ボリビア側の国境の町Puerto Quijaroに着いたのは9時半頃。さすがに国境のまちらしく、商店が立ち並び、タクシーがあちらこちらと走り回っている。
駅舎の近くのバスターミナルにバスは停まる。荷物を降ろし、サンタクルスから一緒だったサンパウロに行くおじさんと一緒に行動する。
ターミナルの建物は使っているかどうかもわからないほどおんぼろで、ブラジルに行くバス会社の窓口さえもない。つまりはただの駐車場。
サンタクルスのバス会社のねえちゃんは、ここに着いたらこの会社に行ってとブラジル行きのバスを出している会社名を教えてくれたのだが、それらしきバスはまわりには一切見えないし、バス会社さえも見えない。
おじさんが地元の人にいろいろ聞いたところ、バス会社はどうもここから離れているらしい。おじさんはぼくにタクシーに乗っていくとあっさり言うが、当然、そのタクシー代は別に払わないといけないわけで、ボリビア以外の国の常識から言ってもまったくありえない話だ。なんでバスを乗り換えるためにタクシー代を払わねばならないのだ、とイライラ。
しかも、タクシーの若い運転手は一人10ボリビアーノと言う。1人10ボリビアーノなんてバカに高い値段なのに、おじさんは、ハイハイと乗り込んでしまう。まぁ、10ボリというには相当遠いのだろうなと思っていが、10分足らずでバス会社に着いた。やれやれ。
バス会社のオフィスはなかなかきれいで、同じ通り沿いには食堂や洋服屋、電話兼ネット屋があった。
バス会社のオフィスに入り、窓口のおじさんにチケットを見せると、パスポートの提示を求められる。それで、名前を確認し、パソコンになにやら入力してから返してくれる。
返すときに、そこにボリビアのイミグレがあるからそこで出国のスタンプを押してもらってくるよう言われる。オフィスにでかいリュックは置いて、イミグレに行く。出国税として10ボリビアーノ払う。手続きはスムース1分もかからずに済む。
バス会社に戻ってチケットをもらう。バスは13時だと言われる。時計はまだ11時前。3時間もあると思い、近くのネット屋でメールチェック。
メールを見ていたら後ろから声がして振り向くと、バス会社のおじさんがいた。それで来いというので、店をでると、あのバスだと言って、会社の前に停まっていたバスを指さし乗るように言う。
13時発って言ってたのに、とわけがわからなかったが、バスに乗り込む。
バスはかなり立派。だが、2階立てではない。窓もボリビアのようには開かない。
ボリビアの出国ポイントを抜けると、すぐに舗装されたまちが現れる。国境の向こうは舗装された道なんてほとんどなかったのに。ブラジルでは端っこのまちだろうに、これだけ整備されている点にブラジルの大国ぶりが出ているように感じる。
まちの整備のされ方のみならず、人もがらりと変わる。ボリビアでは基本的にインディヘナ系が多数だったが、こちらに来るとアフリカ系の人がおり、ヨーロッパ系も多い。
バスは1時間もせずにCorumbaのターミナルに着く。ここでまた乗り換えらしい。
ブラジルの入国審査をまだ通ってなかったので、どこでやるのかと不思議に思い、運転手にイミグレの場所を聞くと、指さしてあっちの方と言う。
ターミナルの待合い所に上がると、行列ができている場所があったので、なにをしているのか覗いてみると、そこがイミグレだった。
一緒に来たおじさんは、椅子に座ってのんびりしていたので、おじさんに単語を並べてあそこで入国手続きをしなくてはいけない旨を伝える。
窓口のおじさんは、英語で入国カードのようなものをもらい、それを記入してからまた来るようにと説明してくれる。パスポートは窓口で回収されたまま。
英語が併記されていたその紙を記入し、窓口に行くと名前を呼ばれる。紙を提出し、そこにハンコが押されパスポートと一緒に戻される。質問もなにもなし。
今日は天気がよい。そして、暑い。20℃台半ばくらいか。ボリビアではずっと曇りや雨だったから久しぶりに青空を見た。
13時発というのは、ここを13時に出るということのようだった。まだ1時間近くあったため、待合い所でポルトガル語の会話帳を眺める。周りからポルトガル語の会話が聞こえてくるが、まずどこで言葉が切れているのかがわからない。スペイン語であれば、発音が日本語とほぼ同じであるため、意味はわからずとも言葉の切れ目はわかったが、ポルトガル語はこれがわからない。
音としてはスペイン語よりもフランス語に似ている。ただ、会話帳を眺めると、スペイン語とほぼ同じ言葉を多々見かける。数字なんかは改めて覚えなくても、ほぼわかる。
面白いのが、曜日の呼び方で、これはスペイン語とまったく違う。土曜日(サバド)と日曜日(ドミンゴ)は一緒だが、月曜から金曜は日本語で言えば、2番目(セグンダ)、3番目(テルサ)、4番目(クアルタ)という呼び方をしている。あまり風流ではないなと思いながら、ページをめくる。
日本式に、どちらが標準でどちらが方言か言えないが、見ている限りでは、スペイン語とポルトガル語はそのような関係だ。文字がけっこう違う部分があるが、これは発音にあわせて開発されたのだろう。
日本語でも例えば置賜弁の「い」と「え」、「お」と「う」が混ざった音など、各地の方言の音を文字にしようとすると平仮名では不十分だと感じたりする。それらの音を表す文字がない。
山口仲美という学者によれば、古くは日本語も50音以上の音があり、またそれを表す文字もあった(漢字などで使い分けていた)らしいが、もし、そういう習慣ありそれぞれの地域に定着し、受け継がれていれば、今のスペイン語とポルトガル語のような関係の言語が日本国内に生まれていたかもしれない。
などと、時間つぶしをしていたら、13時前にきっちりバスが入ってきた。ぼくは離れて座っていたおじさんにあれに乗るからととジェスチャーで知らせる。するとおじさんは一緒に乗り込もうとする。
バスはカンポグランデ行きであって、サンパウロ行きではないということを伝えようとするが、おじさんはいまいちわかってくれない。そこへ近くでそれを聞いていたらしいおばさんがやってきて、おじさんに説明してくれる。
チケットに書いてあった番号の席に座ると、イギリスなまりの英語を話す女性2人組が、ぼくの方を見てなんだか嫌な顔をする。ぼくは自分が座席を間違ったかと思い、確認するが間違いはない。彼女らは隣の空いている席に座ったので、こちらは間違っていなかったかと思ったが、さらに乗り込んで来た別の男が、彼女らの席に行き、そこは自分の席だと言う。連鎖して彼女らはぼくに、そこは私らの席だと英語で言ってくる。
聞くとぼくと同じ番号。やれやれ、ボリビアのバス会社ってやつはろくでもないなと思いつつ、争う気もないので、ぼくは空いている席に移る。
そしたら、そこにまた別のカップルが来て、そこは自分らの席だという。この調子じゃ、どうせ全席が埋まるなんてことはないんだから、どこでも適当に座ればいいじゃないかと思うが、そうはいかないらしい。ペルーとか、チリとか、アルゼンチンは番号があってもけっこう適当だったんだけどなぁ。
バスはまちを抜けると、細い一本道に入る。道の両側には湖のような、川のようなところが広がる。あとで確認したところ、これがパンタナール湿原の南端の方を通ったようだった。
水の中から木々が伸び、見たことのない鳥が元気に飛び回っている。一際目を引いたのが、ペリカンに似た格好をした鳥。羽など胴体は白いものの首もとが赤く、そこからくちばしの先までは黒い。あとでガイドブックを見たところ、地元ではトゥユユと呼ばれており、コウノトリの仲間で、パンタナールの象徴的な鳥らしい。
一本道沿いには小さなホテルがあり、そこでヨーロッパ系バックパッカーたちは降りていく。
他の国ではたいてい車内で映画が流されていたりしたが、このバスではテレビはあるものの、そのようなものはなかった。車内は静粛だった。
ずいぶん長い間、湿原の中を走り、ようやく陸地らしいところに入る。
日が落ち、すっかり暗くなる。
19時を過ぎて、遠くにたくさんの明かりが見え、ようやくカンポグランデに入った。空港で1人、乗客が降りる。
道路沿いには開いている店などなく、すっかり夜中のような雰囲気だ。
ターミナルに着いたのが20時すぎ。バスから降りるとタクシーの運転手のおじさんが、サンパウロに行くのかと聞いてくるので、そうだと伝えるとバス会社のオフィスに連れていかれる。そこで片言の日本語がわかる人がサンパウロ行きのバスを照会してくれるが、手持ちのヘアルではまったく払えない金額だったのでヤメにする。
ターミナルのすぐ前に宿が数軒並んでいて、うち1軒がユースホステルだったので、そこに泊まることにする。片言もおぼつかないポルトガル語で泊まりたい旨を伝えると、鍵をくれ、英語で部屋の説明をしてくれる。
ドミトリーの安い部屋をとお願いしたら、ここにはドミトリーはないと言われる。部屋はベッドがひとつと、トイレ、シャワー、洗面所、天井備え付けの扇風機があり、とてもいい。これが一番安い部屋らしい。値段は35ヘアル(約2500円)。ボリビアで泊まっていた宿の5倍。ただ、YHの会員証を持っていると言ったら30ヘアルに割引となった。1割以上も割引するなんて素晴らしい。チリもアルゼンチンも見習ってほしいものだ。
ターミナルのまわりには宿だけでなく、軽食屋や食堂があり、また路上で串焼きを売っていた。たいして腹は減ってなかったため串焼き1本だけ食べる。1.5ヘアル。数分だけ外をふらつき部屋に戻る。
シャワーはお湯が出る。すばらしい。扇風機があったので、サンタクルスでたまった洗濯物を洗い、部屋中に干す。
小さな窓の外からは花火の音が聞こえてくる。小さな窓はガラスの外側に雨戸のような金属製の扉が付いていた。3階で足場もなさそうだから、ここから侵入するにはけっこう大変なようだが、これも防犯に必要なのだろう。
Fin
・真夜中のトイレ休憩
・たてゆれ、よこゆれの悪路続き
・乗り換え、また乗り換え
バスが止まる。それまでのリズムが変わったことに気づき、目が覚める。時計を見ると真夜中の12時。窓から外を見下ろすと店があり、添乗員がなにやら言っている。客がぼちぼち降りる。どうもトイレ休憩らしい。バスには便所がないから、夜が明ける前の最後のトイレタイムなのだろう。
20分ほどしてバスは走り始める。道は相変わらずの悪路。縦に細かく揺れ、ときおり横にゆらりゆらりと大きく揺れる。これじゃ運転も大変だ。速度はわりと平らな道で、やっと時速40km程度だろう。だから、地図で見た距離感よりもずっと時間がかかる。もちろん沿道に外灯などはなく、ただバスのライトのみが道を照らしている。
2人ぶんの座席が使えていることがせめてもの救いで、これが隣に人が座っていたら、かなり窮屈だ。加えてそれほど寒くもないから、なんとか眠ることはできる。
次に目が覚めたのは、7時すぎ。集落や畑などはいっさい見えず、ただ低い草木が道路脇からずっと奥まで生い茂っているのが見えるだけ。
しばらくするとがたがたの道の横に広い道が見える。現在、整備中の道路のようできれいにローラーで整地されている。サンタクルスまでのこの道路が完成するのはいつのことやら。
整地されている道路は走れないらしく、相変わらずバスがガタゴト揺れながら走る。道自体はだいたいまっすぐに伸びているからいいものの、これが曲がりくねった道だったら酔っていたかもしれない。
8時頃、ようやく人が住んでいる集落に到着。そこで、何人か客が降りる。さらにそこで子ども連れの10人近くが乗ってくる。5歳前後の小さな子はバスを見ると嬉しそうな顔をしてバスに走りより、一番で乗り込もうとする。
集落の家々はコンクリートづくりもあれば、細長い板を縦に並べて、屋根は椰子の葉か何かで葺いているものもある。敷地と敷地は有刺鉄線で区切られ、バスから見える限りではどこの家も20m四方程度の敷地の中に家を建て、数本の木を植えている。いずれの木も大きく、その下にテーブルと椅子を並べのんびりしていたり、また洗濯物をかけるロープを張り、物干し場として使っている家もある。また、一部の家ではバナナも植えられていた。
その集落を出て、また30分ほどすると別の集落に到着。ここでまた客が降りる。あるおばちゃんは商売人なのか、サンタクルスで買い込んだらしいお菓子やみかんなど大荷物と一緒に降りていった。
ボリビア側の国境の町Puerto Quijaroに着いたのは9時半頃。さすがに国境のまちらしく、商店が立ち並び、タクシーがあちらこちらと走り回っている。
駅舎の近くのバスターミナルにバスは停まる。荷物を降ろし、サンタクルスから一緒だったサンパウロに行くおじさんと一緒に行動する。
ターミナルの建物は使っているかどうかもわからないほどおんぼろで、ブラジルに行くバス会社の窓口さえもない。つまりはただの駐車場。
サンタクルスのバス会社のねえちゃんは、ここに着いたらこの会社に行ってとブラジル行きのバスを出している会社名を教えてくれたのだが、それらしきバスはまわりには一切見えないし、バス会社さえも見えない。
おじさんが地元の人にいろいろ聞いたところ、バス会社はどうもここから離れているらしい。おじさんはぼくにタクシーに乗っていくとあっさり言うが、当然、そのタクシー代は別に払わないといけないわけで、ボリビア以外の国の常識から言ってもまったくありえない話だ。なんでバスを乗り換えるためにタクシー代を払わねばならないのだ、とイライラ。
しかも、タクシーの若い運転手は一人10ボリビアーノと言う。1人10ボリビアーノなんてバカに高い値段なのに、おじさんは、ハイハイと乗り込んでしまう。まぁ、10ボリというには相当遠いのだろうなと思っていが、10分足らずでバス会社に着いた。やれやれ。
バス会社のオフィスはなかなかきれいで、同じ通り沿いには食堂や洋服屋、電話兼ネット屋があった。
バス会社のオフィスに入り、窓口のおじさんにチケットを見せると、パスポートの提示を求められる。それで、名前を確認し、パソコンになにやら入力してから返してくれる。
返すときに、そこにボリビアのイミグレがあるからそこで出国のスタンプを押してもらってくるよう言われる。オフィスにでかいリュックは置いて、イミグレに行く。出国税として10ボリビアーノ払う。手続きはスムース1分もかからずに済む。
バス会社に戻ってチケットをもらう。バスは13時だと言われる。時計はまだ11時前。3時間もあると思い、近くのネット屋でメールチェック。
メールを見ていたら後ろから声がして振り向くと、バス会社のおじさんがいた。それで来いというので、店をでると、あのバスだと言って、会社の前に停まっていたバスを指さし乗るように言う。
13時発って言ってたのに、とわけがわからなかったが、バスに乗り込む。
バスはかなり立派。だが、2階立てではない。窓もボリビアのようには開かない。
ボリビアの出国ポイントを抜けると、すぐに舗装されたまちが現れる。国境の向こうは舗装された道なんてほとんどなかったのに。ブラジルでは端っこのまちだろうに、これだけ整備されている点にブラジルの大国ぶりが出ているように感じる。
まちの整備のされ方のみならず、人もがらりと変わる。ボリビアでは基本的にインディヘナ系が多数だったが、こちらに来るとアフリカ系の人がおり、ヨーロッパ系も多い。
バスは1時間もせずにCorumbaのターミナルに着く。ここでまた乗り換えらしい。
ブラジルの入国審査をまだ通ってなかったので、どこでやるのかと不思議に思い、運転手にイミグレの場所を聞くと、指さしてあっちの方と言う。
ターミナルの待合い所に上がると、行列ができている場所があったので、なにをしているのか覗いてみると、そこがイミグレだった。
一緒に来たおじさんは、椅子に座ってのんびりしていたので、おじさんに単語を並べてあそこで入国手続きをしなくてはいけない旨を伝える。
窓口のおじさんは、英語で入国カードのようなものをもらい、それを記入してからまた来るようにと説明してくれる。パスポートは窓口で回収されたまま。
英語が併記されていたその紙を記入し、窓口に行くと名前を呼ばれる。紙を提出し、そこにハンコが押されパスポートと一緒に戻される。質問もなにもなし。
今日は天気がよい。そして、暑い。20℃台半ばくらいか。ボリビアではずっと曇りや雨だったから久しぶりに青空を見た。
13時発というのは、ここを13時に出るということのようだった。まだ1時間近くあったため、待合い所でポルトガル語の会話帳を眺める。周りからポルトガル語の会話が聞こえてくるが、まずどこで言葉が切れているのかがわからない。スペイン語であれば、発音が日本語とほぼ同じであるため、意味はわからずとも言葉の切れ目はわかったが、ポルトガル語はこれがわからない。
音としてはスペイン語よりもフランス語に似ている。ただ、会話帳を眺めると、スペイン語とほぼ同じ言葉を多々見かける。数字なんかは改めて覚えなくても、ほぼわかる。
面白いのが、曜日の呼び方で、これはスペイン語とまったく違う。土曜日(サバド)と日曜日(ドミンゴ)は一緒だが、月曜から金曜は日本語で言えば、2番目(セグンダ)、3番目(テルサ)、4番目(クアルタ)という呼び方をしている。あまり風流ではないなと思いながら、ページをめくる。
日本式に、どちらが標準でどちらが方言か言えないが、見ている限りでは、スペイン語とポルトガル語はそのような関係だ。文字がけっこう違う部分があるが、これは発音にあわせて開発されたのだろう。
日本語でも例えば置賜弁の「い」と「え」、「お」と「う」が混ざった音など、各地の方言の音を文字にしようとすると平仮名では不十分だと感じたりする。それらの音を表す文字がない。
山口仲美という学者によれば、古くは日本語も50音以上の音があり、またそれを表す文字もあった(漢字などで使い分けていた)らしいが、もし、そういう習慣ありそれぞれの地域に定着し、受け継がれていれば、今のスペイン語とポルトガル語のような関係の言語が日本国内に生まれていたかもしれない。
などと、時間つぶしをしていたら、13時前にきっちりバスが入ってきた。ぼくは離れて座っていたおじさんにあれに乗るからととジェスチャーで知らせる。するとおじさんは一緒に乗り込もうとする。
バスはカンポグランデ行きであって、サンパウロ行きではないということを伝えようとするが、おじさんはいまいちわかってくれない。そこへ近くでそれを聞いていたらしいおばさんがやってきて、おじさんに説明してくれる。
チケットに書いてあった番号の席に座ると、イギリスなまりの英語を話す女性2人組が、ぼくの方を見てなんだか嫌な顔をする。ぼくは自分が座席を間違ったかと思い、確認するが間違いはない。彼女らは隣の空いている席に座ったので、こちらは間違っていなかったかと思ったが、さらに乗り込んで来た別の男が、彼女らの席に行き、そこは自分の席だと言う。連鎖して彼女らはぼくに、そこは私らの席だと英語で言ってくる。
聞くとぼくと同じ番号。やれやれ、ボリビアのバス会社ってやつはろくでもないなと思いつつ、争う気もないので、ぼくは空いている席に移る。
そしたら、そこにまた別のカップルが来て、そこは自分らの席だという。この調子じゃ、どうせ全席が埋まるなんてことはないんだから、どこでも適当に座ればいいじゃないかと思うが、そうはいかないらしい。ペルーとか、チリとか、アルゼンチンは番号があってもけっこう適当だったんだけどなぁ。
バスはまちを抜けると、細い一本道に入る。道の両側には湖のような、川のようなところが広がる。あとで確認したところ、これがパンタナール湿原の南端の方を通ったようだった。
水の中から木々が伸び、見たことのない鳥が元気に飛び回っている。一際目を引いたのが、ペリカンに似た格好をした鳥。羽など胴体は白いものの首もとが赤く、そこからくちばしの先までは黒い。あとでガイドブックを見たところ、地元ではトゥユユと呼ばれており、コウノトリの仲間で、パンタナールの象徴的な鳥らしい。
一本道沿いには小さなホテルがあり、そこでヨーロッパ系バックパッカーたちは降りていく。
他の国ではたいてい車内で映画が流されていたりしたが、このバスではテレビはあるものの、そのようなものはなかった。車内は静粛だった。
ずいぶん長い間、湿原の中を走り、ようやく陸地らしいところに入る。
日が落ち、すっかり暗くなる。
19時を過ぎて、遠くにたくさんの明かりが見え、ようやくカンポグランデに入った。空港で1人、乗客が降りる。
道路沿いには開いている店などなく、すっかり夜中のような雰囲気だ。
ターミナルに着いたのが20時すぎ。バスから降りるとタクシーの運転手のおじさんが、サンパウロに行くのかと聞いてくるので、そうだと伝えるとバス会社のオフィスに連れていかれる。そこで片言の日本語がわかる人がサンパウロ行きのバスを照会してくれるが、手持ちのヘアルではまったく払えない金額だったのでヤメにする。
ターミナルのすぐ前に宿が数軒並んでいて、うち1軒がユースホステルだったので、そこに泊まることにする。片言もおぼつかないポルトガル語で泊まりたい旨を伝えると、鍵をくれ、英語で部屋の説明をしてくれる。
ドミトリーの安い部屋をとお願いしたら、ここにはドミトリーはないと言われる。部屋はベッドがひとつと、トイレ、シャワー、洗面所、天井備え付けの扇風機があり、とてもいい。これが一番安い部屋らしい。値段は35ヘアル(約2500円)。ボリビアで泊まっていた宿の5倍。ただ、YHの会員証を持っていると言ったら30ヘアルに割引となった。1割以上も割引するなんて素晴らしい。チリもアルゼンチンも見習ってほしいものだ。
ターミナルのまわりには宿だけでなく、軽食屋や食堂があり、また路上で串焼きを売っていた。たいして腹は減ってなかったため串焼き1本だけ食べる。1.5ヘアル。数分だけ外をふらつき部屋に戻る。
シャワーはお湯が出る。すばらしい。扇風機があったので、サンタクルスでたまった洗濯物を洗い、部屋中に干す。
小さな窓の外からは花火の音が聞こえてくる。小さな窓はガラスの外側に雨戸のような金属製の扉が付いていた。3階で足場もなさそうだから、ここから侵入するにはけっこう大変なようだが、これも防犯に必要なのだろう。
Fin
2008年6月16日月曜日
サンパウロいり
今日、16日(月)朝の8時半すぎにサンパウロに着きました。昨晩、カンポグランデを出たのですが、バスの中が寒く、なかなか眠れなかったのは予想外でしたね。ブラジルのバスは立派だったので、アルゼンチンやチリ同様、寒ければ暖房が入ると思っていたのですが、見事に期待を裏切られました。エアコンが壊れているのか、使えるけど使わない主義なのかよくわかりません。
それにしてもサンパウロはさすがにでかいですね。地下鉄もそこそこのラッシュだし。
地下鉄に乗ってみて面白いなと思ったのが、行列を作って待っているのに、そこそこ車両が埋まったら無理に乗り込まないというところです。東京の感覚からすれば、まだまだ入る(乗車率で言えば8~9割。隣の人ととの間には十分隙間がある)と思えるのですが、みなある程度になると乗り込むのを辞めてしまう。電車は2~3分置きにくるので、見逃してもたいして待たないのですが、それは東京なども同じ。この辺の習慣の違いがなかなか興味深いですね。
ところで、リベルダーデという地区が東洋人の多い地区のなのですが、そこにバックパッカーに有名な宿があり、そこに泊まることにしました。レアル高のせいか1泊20ドル近くとかなり高いのがネックですが、ここに来たのもこのあたりを見るのがひとつの目的なので、試しに泊まることにしたわけです。
いま、ちらっとまちを歩いてみたのですが、ロサンゼルスのリトル東京と比べても規模がでかいですね。スーパーではすしやおにぎりを売っているし、たこ焼き屋もあるし、焼き芋も道端で売っているし。なかなかすごいです。
ここには3~4日ほどいて、また南に向かう予定です。
では。
2008.6.16.11時25分
Sao Paulo,Brazil
それにしてもサンパウロはさすがにでかいですね。地下鉄もそこそこのラッシュだし。
地下鉄に乗ってみて面白いなと思ったのが、行列を作って待っているのに、そこそこ車両が埋まったら無理に乗り込まないというところです。東京の感覚からすれば、まだまだ入る(乗車率で言えば8~9割。隣の人ととの間には十分隙間がある)と思えるのですが、みなある程度になると乗り込むのを辞めてしまう。電車は2~3分置きにくるので、見逃してもたいして待たないのですが、それは東京なども同じ。この辺の習慣の違いがなかなか興味深いですね。
ところで、リベルダーデという地区が東洋人の多い地区のなのですが、そこにバックパッカーに有名な宿があり、そこに泊まることにしました。レアル高のせいか1泊20ドル近くとかなり高いのがネックですが、ここに来たのもこのあたりを見るのがひとつの目的なので、試しに泊まることにしたわけです。
いま、ちらっとまちを歩いてみたのですが、ロサンゼルスのリトル東京と比べても規模がでかいですね。スーパーではすしやおにぎりを売っているし、たこ焼き屋もあるし、焼き芋も道端で売っているし。なかなかすごいです。
ここには3~4日ほどいて、また南に向かう予定です。
では。
2008.6.16.11時25分
Sao Paulo,Brazil
2008年6月15日日曜日
カンポグランデ(ブラジル)いり
今ほど、ブラジルのカンポグランデに着きましたに。ボリビアのサンタクルスから約30時間ほどかかりましたかね。ダイレクトだと思っていたバスは4回も乗り継ぎがあり、かなりの金を払っていたので、どうもだまされたようでした。
さて、ブラジルは日本人移民が入ってから100周年ということで明後日16日にはブラジル政府主催のセレモニーがブラジリアであるようです。そのほかサンパウロでも今週は100執念を記念したイベントがもりだくさんのようです。
明日か明後日にはサンパウロに移動します。
では。
参考
ニッケイ新聞
http://www.nikkeyshimbun.com.br/
みんなでつくる移民百年祭
http://www.100nen.com.br/ja/
100周年委員会
http://www.centenario2008.org.br/index.php?option=com_content&task=blogsection&id=6&Itemid=152&lang=ja
2008,6,14 21:40
Campo Grande,Brazil
さて、ブラジルは日本人移民が入ってから100周年ということで明後日16日にはブラジル政府主催のセレモニーがブラジリアであるようです。そのほかサンパウロでも今週は100執念を記念したイベントがもりだくさんのようです。
明日か明後日にはサンパウロに移動します。
では。
参考
ニッケイ新聞
http://www.nikkeyshimbun.com.br/
みんなでつくる移民百年祭
http://www.100nen.com.br/ja/
100周年委員会
http://www.centenario2008.org.br/index.php?option=com_content&task=blogsection&id=6&Itemid=152&lang=ja
2008,6,14 21:40
Campo Grande,Brazil
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