2008年11月16日日曜日

[diary]ロビン島ツアー、ウォーターフロント

ロビン島ツアー、ウォーターフロント

08/08/27(水) 快晴

[Cape Town:South Africa]

明るくなった7時頃起床。寒い。部屋は15度くらいか。

昨日の変わりやすい天気とは違って、今日は快晴。空泊も一つなく、澄み渡っている。絶好のチャリンコ日和だからできれば今日喜望峡に行きたいものだが、午後にマンデラが収監されていた刑務所跡地があるロビン島のツアーを予約しているから行けない。明日も同じような天気であればと願うばかり。

午前中は部屋で日記書き。

12時に宿をでる。フロントで今晩の宿代80ランド(約1100円)を払い、島に行く船が出ているウォーターフロント地区に行く。今朝はとても天気がよく、テーブルマウンテンが青空に映え、なかなかよろしい。

途中、商店で朝・昼飯用にパンを買う。揚げパンハンバーガーとでも言うべきもので、ハンバーガーに使うような形の揚げパンの間に炒めた挽き肉が挟んである。パンはでかい。ソフトボールよりもでかい。9ランド(約150円)。

ウォーターフロントまでは歩いて15分ほど。よく整備されている通りを歩いていく。途中、学校が終わったのか、制服を着た少年少女等とすれ違う。男の一人はプカプカとたばこを吸いながら歩いていた。

ウォーターフロントには貨物船や漁船が停泊していた。中国の船らしく、船体に漢字が刻まれている船を4隻ほど見る。ドックらしいところを抜け、ウォーターフロントの中心部に行くと、そこは一大商業地だった。レンガ造りの倉庫ふうの建物やガラス張りの近代的な建物にはレストランや土産物屋が並び、3階立てほどのショッピングモールがあり、ちょっとした広場では大道芸人が芸をしたり、音楽の演奏があったり、クルージングしながら食事をするという船があったり、ヘリコプターでの遊覧ツアーがあったりとなかなかすごい。なお、鮨を出しているレストランも数軒あり、うち1軒が日本人が握っている鮨やだった。スーパーでも鮨を売っており、4口ぶんくらいの小さなカリフォルニアロールが400円ほど。おそらく日本でここまでまとまって整備されている港はない。横浜よりも上。

客も多い。地元の人らしい人はもちろん、アラビア系や中国系の人も見る。

ツアーは3時からだったので、それまで一帯をふらつく。ショッピングモールの中にはブランド店がずらりと並ぶ。ナイキの専門ショップなどトレーニングマシンを売るスポーツ店もあり。また、オーガニック専門店や健康食品店もある。

南アフリカに来て登場したのが、ビーフジャーキーの専門店。部位ごとにガラスケースに入っていて量り売りされている。ビーフジャーキーは見慣れていないので、どうしても犬の餌に見えて仕方がない。

本屋も2軒ほどあったので、のぞいてみる。一軒ではディスカウントコーナーでアウサウンスーチーの本やスティグリッツの本が売られていた。ぼくはこれから行く、アラビア半島や中央アジアのガイドブックがないか探して回ったのだが、それだけがなかった。一方の店にはアフリカはもちろんアジアからヨーロッパまでほぼすべての国の『ロンリープラネット』があったのだが、探しているものだけなかった。また、その店の新刊コーナーに行ったところ、"My Life"というタイトルのカストロの自伝が棚の一番上の目立つところに並べられていた。フランスの新聞ル・モンド・ディプロマティークの編集者(だったっけ?)イグナシオ・ラモネがインタビューしたものをまとめたものなので、キューバで売っていた本の英語版かと思い、訳者あとがきを見てみるがスペイン語版のタイトルは違っていた。円換算で約2500円。5cmほどの厚さがある。買うべきか買わざるべきか迷う。

とりあえず本の購入は後回しにしてスーパーに行く。今晩の食料の下見。だちょうの肉を売っていないか探す。ここにはだちょうのいくつかの部位が売られていた。ステーキ用の部位は500g約1000円。もっといいステーキ用の部位は同g約1500円。バーベキュー用の安いのが同じ重さで約500円。帰りに買うことにする。

また、この店内にはTownship(いわゆる黒人居住区)で作製された買い物バッグが売られていた。材料はおそらくジュート(麻)でデザイナーの支援も受けているのだろう、デザインされたタウンシップのロゴも入っており、なかなかセンスのよいバッグに仕上がっている。小さいものから大きなものまであり、小さいのは400円ほど。大きいものは1000円ほどだった。商品のタグにはタウンシップの子どもが笑顔で写っている写真と商品の背景などが書かれていた。これも買うかどうか迷うが、とりあえずパス。

そんなことをしているうちに15時前になったので、とりあえず買い物は後回しにして、船乗り場のマンデラゲートウェイに行く。船乗り場の建物自体がミニ博物館になっており、ロビン島及び刑務所の歴史を写真とパネルを使って紹介している。残念ながら船の乗船が始まっていたので、これらをまじまじと見る時間はなかった。

船には150人まで乗れる。客はヨーロピアンらしき人たちが多い。半分は白髪の年輩者。アジア系は一人もいなかった。

15時ちょっと前に離岸し、一路島を目指す。港には日本の漁船も1隻見えた。船体に幸栄丸と書かれている。

海から眺めるテーブルマウンテンはまたいい。名前の通り頂上がテーブルのように見事に平たい。途中、アザラシかオットセイのような生き物の頭が海面にちらりと見える。

船は高速船のためけっこう揺れる。30分足らずで島に到着。島の港の壁には1片5mほどにひきのばされた当時の写真が描かれていた。

コンクリートで固められている岸を歩き、ゲートの前で乗客は2台のバスに分乗。それぞれのバスにガイドが付いており、島の中をガイドの話を聞きながらバスで回る。

ぼくが乗ったバスのガイドはインド系の50代くらいの男性。映画のナレーターのように強弱をつけて話す。ぼくはこういう形になるとは予想せずに一番後ろの右奥に座ったため、よく聞こえず。ときおり乗客が声を上げて笑うから、気の利いたジョークもけっこうはさんでいるよう。

バスではここで亡くなった人を葬ったらしい墓やペンギンがいる海岸、マンデラ等が強制労働をしていた石灰の採掘現場などを見て回る。もっと荒れ果てているのかと思ったが、住宅やテニスコートもあり、なかなかきれいだった。

最後に刑務所の見学。ここでガイドが変わる。今度のガイドはヨハネスブルグの黒人居住区ソウェト生まれの人で、実際に政治犯としてここに収容されていた男性。身長160cmほどで体格はよく、丸縁のめがねをしている。最初にベッドのある部屋に案内され、そこで彼自身の自己紹介とその部屋などの説明がなされる。毛布は4人に対し2枚しか配られず、しかも窓ガラスはなかったため冬は相当寒かったらしい。見学者の男性の一人が刑務所内で白人と有色人種で差別的な待遇があったのかと質問したところ、白人はカセットレコーダーなど身の回りのものを比較的自由に差し入れしてもらえたらしいが、有色人種にはそれがなかったらしい。しかし、同じ刑務所にいるということで連帯感が生まれたため、白人の方も特権的な振る舞いはせず、結局お互い同じような環境にいたような感じだったらしい。

また、ここに収容されていたのは南アフリカの人間だけでなく、今のナミビア(当時はまだ独立していなかった)やボツワナ、スワジランド、モザンビークなどの人も収容されていたらしい。

その後、Cellと呼ばれる独房を見学。広さは2畳ほどで床から2mくらいのところに換気用程度の小さな窓があるだけ。廊下に面したドアは鉄格子のドアだったため、その隙間を使って隣から隣へと情報交換をしていたという。具体的には情報を書いた紙などを紐にまきつけ、その紐を隣の独房のドアの鉄格子の隙間を狙って投げたりしていたらしい。

とにかく刑務所内にいるときは元気が出る情報を入手できるかどうかがポイントだったらしい。刑務所側からは悪いニュース(反アパルトヘイト運動が弱体化していっているといった話など)ばかりが知らされるため、そればかりを聞いているとだんだんと落ち込んでしまいそうになるらしい。そこで、面会の時などに例えば家族などの写真のアルバムに細工をして、外部からの情報を伝えるというようなことをしていたという。具体的には、写真を貼る台紙を2枚の紙を貼り合わせて作り、その貼り合わせた間に情報を書いた紙を忍ばせ(つまり袋とじのようなスタイル)、それで外部のニュースを知るという事をしていたらしい。

また、刑務所内では"Each one,Teach one"と言葉を合い言葉にお互いいろんなことを教えあうなど、精神的に参らないためにもいろんな工夫をしたらしい。

彼はいろんなことを話していたのだが、ぼくの英語力では3割ほどしかわからず。

夕方18時前に船に乗り、帰る。海上で日没を見て、対岸に着いたのは日が暮れてからだった。

それからスーパーに肉とパンを買いに行き、宿に戻って食事。肉は焼こうかと思っていたのだが、あいにく油がなかった。そのためスープにしたのだが、味はマトンとほぼ同じ。昨日、インドあるいはパキスタン系の人の店で食べたカレーに入っていた肉と同じ味だった。500g食べきるのはなかなか厳しい。

この宿には10人近く日本人が泊まっており、だいたい20代後半から30代前半。数人で今晩どこかに行くらしく女性陣は共同のキッチンがあるテーブルのところでお化粧をしていた。

食事後はベッドで過ごす。

Fin

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