2009年6月28日日曜日

[diary]ダルエスサラームに到着

ダルエスサラームに到着

08/09/15(月) 晴れ 30度以上
[Tanzania:Dar Es Salaam]
レート:1米ドル=1150タンザニアシリング

・18時間遅れの到着
・宿探しにてこずる
・久々の飯
・インド、アラブチックな雰囲気
・ジャンボ! モジャモジャ


ダルエスサラームに向かう列車の中。
寒気を感じ、意識が戻る。そういえば窓を開けたまま寝ていたと思い出す。窓を閉めるかと思い、起きあがって窓の方を向くと向かいの寝台で寝ていたおじさんが窓を開け外を見ていた。閉められない。

時計を見て驚く。昨日、ベッドに横になって寝たのは8時すぎくらいだったからせいぜい2~3時間寝ただけだろうと思っていた。しかし、時計はすでに夜中の2時をまわっていた。結局、到着予定日だった昨日中にもダルエスサラームには着かなかった。というわけで、この車内で3泊目、列車に乗ってから4日目となる。

ブランケットは昨日の朝に回収されたまま戻ってきていない。列車の乗務員も昨日着くものだと思っていたのか? もっとも気温はそれなりに高く、暖かい(ぬるい)からもはやブランケットは必要ないけど。

さてさて、こうなるとどうせなら明るくなってから駅に着いてくれる方がありがたい。今更多少早く着いてくれても未明着だったら宿は開いていないだろうし、開いていたとしても暗くてはあちこち探しまわるのはあまり安全ではない。結局のところ、明るくなるまで駅の待合室で待たなければいけなくなる。昨日の夕方までは早く着けと思っていたが、こうなると遅く着けというふうに願いが変わる。

だが、願いはやはり叶わなかった。

同室(4人いた)の一人の若い男性が携帯電話で話をはじめる。周りを気遣ってか部屋の外にいったん出て、電話が終わってから部屋に戻ってきた。そして、あと15分ほどで駅に着くと言う。

ベッドでまた横になっていたぼくはそれを聞いて身を起こす。車窓から外を見てもまだ都市部に着くような様子はない。平べったい風景。人口的な光は見えないし、ビルのような建物も見えない。多少景色が変わったと言えば沿道に見える民家の数が多くなったことくらい。

こんな夜中なのに、なぜか外は漆黒の闇ではなく、薄明るい。道路の部分と家や木々、地面と空の境ははっきりと区別ができるくらい色のトーンが違う。暗闇に目が慣れた状態ではなく、明らかに全体的に明るい感じがする。だからか、見える星も少ない。

やがて街路灯が見え始める。それから少しするとやたらと電気がついている地帯が見える。何かと思っていたら、向かいに座っているおじさんが教えてくれた。あれは空港らしい。空港が見えたとなれば、ダルエスサラームに間もなく着くというのは本当らしい。

天井裏の物置スペースに置いていたリュックをおろし、自分の横に置く。部屋の住人はみな一番下のベッドに腰掛け、到着を待つ。

やがてスピードが落ち、ガタンと止まる。窓から外をのぞくがダルエスサラームの駅ではなさそう。数分止まってまた発車する。

それからまた20分ほど走ってまたスピードが落ち、窓の外に駅のホームが現れる。ダルエスサラームの駅らしい。時計を見ると3時過ぎ。やれやれこんな時間に着くとは・・・。

列車が完全に止まる。それを待っていたようにバタバタと荷物を担いだ乗客たちが廊下を歩いていく。下車ラッシュが落ち着くのを部屋で待っていると窓越しに「ヘイ、マイフレンド、タクシー?」とタクシーの運転手らしき男たちが数人まわってくる。それらは無視して、しばらく待つ。ザンビアから一緒のおじさんも一緒で、動かずに待っている。

おじさんが行こうと言うので一緒に列車を降りる。ホームには荷車を持ったポーターが何人もいた。何人かは仕事にありつけていたが、多くのポーターは手持ちぶさたの様子で客に声をかけたりしている。

ぼくらはバッグや米袋(中は荷物のよう)を頭に乗せて歩く人々の中に混ざってホームを歩く。あるおばちゃんは、頭に小型のボストンバック、右手に大きな袋、左手に3歳くらいの子どもの手を引いて歩いていた。物を運ぶときは頭を使え!

ホームから駅舎の建物の中に入り、待合い室に行く。待合室というよりも待合い広場といった感じ。ここもカピリムポシの駅同様、不要に天井が高い。きりんも十分入れるくらい。

待合い広場には人がいっぱい。ベンチは既に埋まっていて座れない。なので、おじさんと二人で通路の一画に荷物を置き、そこで外が明るくなるのを待つ。そこの向かいの壁にはタンザン鉄道の路線地図が張られていた。中国製ということだからか、中国語も併記されている。

駅舎の中は電気(蛍光灯)がわずかしかついていないため暗い。なので本を読むこともできず、しばらく周りの様子を見たりしながらボーと待つ。

6時を過ぎるとやっと明るくなる。おじさんが行こうと言うので一緒に駅舎を出る。駅から町中まではタクシーしかない。おじさんが町中までタクシーはいくらかかるかわかるかと聞くので、ガイドブックに載っていた額5000シリング(約500円)くらいらしいと伝える。するとおじさんは寄ってきたタクシー運転手にスワヒリ語でその額を伝える。その額でタクシーの運転手は了解したようで、二人してそのタクシーに乗り込む。

ガイドブックに載っていた宿の名前を運転手に告げ、まずはそこまで行ってもらう。

片道2車線の道路。まだ朝が早いからだろう車も人も少ない。イギリスに支配されていたからだろう、ここも車は左側通行。これは南アフリカやジンバブエ、ザンビアと同じ。

1軒目の宿に着いたが満室で空きなし。同じ系列の宿で少し離れているところにある宿に行ってみると、そこは空きがあった。なので、ぼくだけそこで降り、そこまでの運賃を払い、おじさんとはお別れ。おじさんは晩飯を一緒に食おうと言い、加えて夕方に宿に来るからと言って去る。

さて、一応目的の宿に着いたもののきちんと聞いてみると安い部屋が空いていなかった。空いている部屋は20米ドル近くする。なので、却下。別の宿を探しに行く。

ガイドブックによればYMCAとYWCAが相部屋で10米ドル程度とあったので、そちらに向かう。

ザンビアのルサカと比べると道が入り組んでいて、建物も古い(と言っても40年程度に見える)ものが多い。高層ビルの類は少なく、せいぜい5~6階建て程度の建物が多い。

信号が日本と同じく横に並んでいるのに、なんだか懐かしさを感じる。

それほど迷うことなく、YWCAに到着。行ってみるとまだ受け付けは開いていなかった。職員の人に隣の食堂ででも待っていてと言われ、しばらく受付が開くのを待つ。

待っていたらヨーロッパ系のカップルバックパッカー2名と日本人バックパッカー男子2名もやってくる。

日本人の方と話してみると彼らは今、ザンジバル島から戻ってきたところらしい。夜行便のフェリーに乗って戻ってきたらしいのだが、それがけっこう揺れて、周りではゲーゲー吐く人が続発。おかげで一人の方のバックパック=リュックはゲロまみれになってしまったらしい。幸いなことに防水カバーをしていたからリュック自体はそれほど汚れなかったらしいのだが、カバーがけっこうやられてしまったので、早く洗いたいと言っていた。

8時頃になってようやく窓口の担当者がやってくる。早速窓口で聞いてみると空きはないとの返事。そしてYMCAの方に行ってみろと言う。

なので近くにあるYWCAの方に行ってみる。ちょうど朝食の時間で通りがかった食堂には旅行者らしいヨーロッパ系の人たちでいっぱいだった。

受付の女性も朝飯中らしく、受付に誰もいない。しばらく待っていたら女性がやってくる。聞くとやっぱり満室で空いていないという。

YMCAの建物を出るとさっきYWCAで一緒に受付まちしていた日本人パッカーがYWCAに行こうとしていたので、空きがないと伝える。そこで3人で相談。日本人がよく泊まるらしい宿がちょっと離れたところにあって、そこは3人相部屋で泊まればそこそこ安いとのことだった。宿は安いにこしたことはないので、その話に乗り、一緒にその宿に行く。

無事宿は見つかり、3人部屋も空いていた。シングルだとどこも1500円くらいしていたのが、3人相部屋だと約800円程度(8300シリング)。二人のおかげでだいぶ節約できる。

荷物を置いてまずは腹ごしらえに行く。改めてゆっくり町を見てみるとザンビアとはすっかり変わってインドチックやアラブチックな顔立ちを人たちが多く、食堂もサモサ屋などこれまで見ることのなかった種類の料理屋がちらほらある。

せっかくなのでサモサ屋の1つに入ってみる。番台にいたおじさんが笑顔で迎えてくれる。どうせたいした値段ではないだろうと決め込み、適当にガラスケースに並んでいるいろんな種類の揚げ物を指さし注文する。

頼んだのは3角形の豆入りサモサと魚の唐揚げ、丸い団子状のものが大小1個ずつと揚げ春巻きみたいなもの。それにチャイ。大きな団子状のものは鶏の卵だった。これらに浸けダレみたいなものとして、ココナッツの繊維が入った液状のヨーグルトが平皿に盛られて出てくる。チャイはいわゆるミルクティーで甘い。シナモンが効いている。

それぞれ大して量はないので、あっと言う間に食べてしまい、早々に支払いとなる。値段を聞いてみるとなんと合計4800タンザニアシリング(約450円)。せいぜい200円くらいだろうと見込んでいたのに、まったく勘が外れてしまった。しぶしぶ大金を払う。おじさんはにこやかに昼はカレーをやっているからまた来るようにと英語で言う。

それからATMを探しがてらまちをぶらぶら。両替をする必要もあってまちをぶらぶら。歩いてみると市街地は想像していたよりも小さい。一部の通りにはガラス張りなどの近代的な建物はあるが、ちょっと外れれば年季の入った建物ばかりになる。両替所はあちこちにあって、それぞれ両替レートを表に表示しているので比較しやすい。米ドルの買いと売りの値段を見るとたいした違いはない。米ドルが少なくなっていたので、ここで米ドルを作ることにする。

両替屋探し回って、ドルの売りレートがいいところを見つけた上で、ATMに行き、それなりのカネを引き出す。カネはタンザニアシリングが出てくるので、それを持って両替屋に行き、米ドルに両替。

そうしてから次に船乗り場の下見。船乗り場にはいくつか船会社のチケット売場があって、それぞれで船を出している。料金も各会社ごとに違う。料金を見てみようとチケット売場に行こうとすると道ばたでぶらぶらしていた男が声をかけてきて、どのチケットを買うのだと聞いてくる。これにまともに答えるとチケット売場まで案内したからなどと言って手数料を要求してくるなんて情報を聞いていたので無視。

ザンジバル島までの一番安いチケットは20米ドル(米ドル払い)だった。とりあえずそれだけ確認してうっとおしい男がついてきていたので、いったんチケット売場を離れる。チケット売場周辺にはカシューナッツ売りの人やバナナ売りの人など多数。

港沿いを歩いていたらローカル食堂が並ぶところについた。道路よりも一段下がった海側に簡単な椅子とテーブルとを並べ、炭を燃料に調理をしているのが見える。

昼をやや過ぎていたので、ここで昼飯にする。スワヒリ語で話しかけられたため、いまいちよくわからなかったが、料理が入っている鍋を指さし、「ベイ ガーニ?」と値段を聞いてから「モジャ(1つ)」と注文。それにしても「1」を「モジャ」と発音するなんてスワヒリ語もなかなかいけてる。

さて、出てきたのはウガリ(トウモロコシの粉?をお湯で練ったもの)と牛肉が入ったカレー風味のスープ。これで1500タンザニアシリング(約120円)。例のごとくウガリの体積と比較するとスープの量が少ない。ウガリはわりとさっぱりしていて素っ気ない味。スープはカレー的。手でウガリを握ってスープに浸けながら食べる。料理を運んできた女性が片言英語でどこから来たのかなどと興味深げに聞いてくる。英語がわからないとスワヒリ語になって、スワヒリ語で何かと言われるのだがわからないので、首を振ったりしてわからないそぶりをすると、ちょっと離れているところで作業している人たちに何やらと言って笑ったりして楽しんでいる。

オカネを払って店を後にしようとすると、また明日来るかと聞かれる。明日はザンジバルに行くから来れないと答えると、明後日はと聞いてくるのでザンジバルから戻ってきたら来るかもなどと言ってお別れ。

食堂の近くでは数十kgはありそうな炭が入った袋をトラックから背中に抱えて荷下ろししている男たちがいた。

それからぶらぶらと歩いて市場がある方面へ歩いていく。服屋ばかりが並ぶ通りを抜けて行くとコンクリートづくりの2階建て程度の市場の建物に到着。周辺の通りにも野菜や果物を売りに来た人が並んでいる。

市場の建物の中を見てみると1階では野菜や肉や香辛料など食べ物を売っていたが、2階では農機具や農薬などを売っていた。

さらさらと見てからぶらぶらとまた違う道を歩く。道ばたで椰子の実を売ってる男性がいたので、久しぶりに椰子の実を頂くことにする。値段は1玉400タンザニアシリング(約30円)。鉈でパンパンと切れ目を入れ、その場で飲み口を作ってくれる。椰子のジュースを飲んだ後は半分に割って中の果肉を食べる。ここでも椰子の実の皮を適当に箆(へら)状に切ったものを匙代わりにして果肉をすくって食べるスタイル。うまいし、安いので続けざまに2玉食べる。

それからは果物のハシゴ。これまた道ばたでパインの切り身を売っていたにいちゃんから1切れ買って食べる。パイン1切れが100タンザニアシリング(約10円)。それからスイカの切り身を売っているにいちゃんもいたのでスイカをひとかけら買って食べる。こちらは一かけ200タンザニアシリング(約20円)。歩いていたら野菜や果物だけのミニ市場があったので、そこを見て回る。使い込んでいる年季の入った木製の台に野菜や果物、香辛料が山積みにされている。そこで八朔のような大きな柑橘を2玉買う。2玉で1000タンザニアシリング(約100円)。

歩いて市街地に戻り、再度港に行く。今回はつきまとわれることなく、チケット販売所に到達。そこで明日のザンジバル行きのチケットを買う。片道20米ドル(約2000円)。

それから宿近くのネット屋でネット。1時間1000シリング(約100円)。スピードはADSL並みでなかなか速い。写真のデータのアップロードなどをする。

その後、宿に戻り同室の2人が戻るのを待つ。

2人が戻ってきたところで近くの中華料理屋に食事をしにいく。すでに外は薄暗くなりはじめていた。通りを歩いている人は多くもなく、少なくもなく。

彼らはザンジバルに行く前に一度この中華料理屋に行ったらしい。どれもうまかったので、再度行きたいということのようだった。僕自身は中華料理を食べるのは久しぶり。マリの首都バマコでやはり同室になった日本人旅行者と近くの中華料理に食べに行って以来。だから約2ヶ月ぶりになる。

目的の中華料理屋は宿が面している同じ通り沿いにあり、歩いて3分ほどで着いた。店構えはちょっと高級そうなつくりで、テーブルなども含めた内装も日本のちょっとした中華レストランと同じ程度。メニューをもらい、料理を眺める。料理名は英語と漢字(中国語)で書かれてある。漢字のほうがわかりやすいかと思って文字を追っていったがいまいちピンと来ない。逆に英語の方がわかりやすい。

海鮮麺や鶏の酢豚などそれぞれ1種類ずつの料理と白飯、茶を注文。3人でつつく。確かに味はいい。量は多くはない。屋台で食べるウガリなどと比べれば値段は4~5倍。にもかかわらず、なかなかお店は盛況でそのうち席は7割ほどは埋まってしまう。話題はやはり互いの旅話。彼らは北からやってきたのでぼくは彼らからケニアやエチオピアの話を聞き、彼らにはぼくが西や南アフリカの話をする。片方の人の話に寄ればパキスタンでしばしば爆弾テロが起こっているため彼はパキスタンに行くつもりだったのを変更して飛行機で飛び越えたらしい。

あれこれしゃべり食べてからお会計。一人当たり11300シリング(約1000円)。1回の食事に1000円も使うなんてブエノスアイレス以来? とにかく久々に食事としてはでかい出費だった。

宿に戻ってからは明日の出発の準備等。彼らからもう使わないという『地球の歩き方 タンザニア(略)』をもらう。お返しにこちらからは西アフリカで余ったお金などをプレゼントする。

適当な時間に消灯。寝る。

Fin

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