2009年7月1日水曜日

[diary]ムランビ虐殺記念館へ

ムランビ虐殺記念館へ

08/09/24(水) 晴れのち曇り
[Kigali⇔Murambi:Rwanda]
※レート:1米ドル=550ルワンダフラン

・虐殺記念館へ
・安いパイナップル

7時ごろ起床。外からはバイクが走る音が聞こえる。

昨晩も考えていたのだが、宿代が1泊2000円もするので、ルワンダはなるべく早く抜けることにした。なのでガイドブックなどを見ながら生きたいところを絞り、向こう2~3日の予定を練る。時間ほどあれこれと考えて、支度をしてでかける。今日はギコンゴロというところにある虐殺記念館に行くことにした。

昨晩降っていた雨はあがってはいたが、すっきりとした晴れというほどではない。宿の前でバイクタクシーをつかまえ、バスターミナルに向かう。ルワンダに来て驚いたことのひとつはバイクタクシーの運転手がヘルメットをかぶり、かつそれとわかる統一されたビブスを着ていること。これは珍しいと思う。ちなみにバイクの数はそもそも人口が少ないからか混雑するほどあるわけではない。どちらかと言えば少ない。

下り坂をくだり、右のほうへ行くとバスターミナル。ここでタクシー代400ルワンダフラン(約80円)を払う。昨日とはまた違うターミナルでこちらの方が車も多く、にぎやか。行き先ごとに乗り場が決まっているようだが、どこからどこ行きが出ているのかはわかりにくい。車に行き先が書かれているのでそれを見ながら探す。バスターミナルと書いたけれども、ここにあるバスはほとんどが大型ワゴン。いわゆるバスタイプの車はほとんどない。

歩き回っていても乗るべきバスが見つからないので、客寄せでよってくる男たちに行きたい場所の名前を告げ、どのバスがそれなのかを教えてもらう。聞くとすぐに教えてくれ、バスまで案内してくれる。

バスは先も書いたように12人ほど乗れる大型ワゴン車。時刻表はなく、客が集まったら出発というスタイルのよう。乗り込む前に運転手に運賃を聞くと目的地までは2000ルワンダフラン(約400円)だと言う。すでにほぼ満席状態だったため窓際の良い席はとれず。待っている間には物売りの人たちがやってきて、パンを買わないか、ビスケットを買わないか、服を買わないかと客に物を見せて回る。

幸い20分ほど待っただけで車は発車。時刻は9時だった。車は舗装された片道1車線の道を走る。道は坂が多く、曲がりくねっている。これだけ曲がりくねっている道を走るのはアフリカでは初めてだ。平地がほとんどない。

沿道には畑や田んぼらしき土地が見える。いくつかの丘の斜面には家がいくつも建てられていた。家はもっぱらコンクリート壁にトタン屋根と簡単な作りのものが多い。

13時ごろ、目的地に行くための分岐点に到着。ここで車を乗り換える。ちょうど車が待っていたのだが、すぐには出発せずしばらく待たされる。近くの売店のにいちゃんはぼくを見つけるとビールを買わないかと大きな声で何度も呼びかける。陽気なにいちゃんだったがビールは嫌いなのでパス。そのうちバスの準備も整い発車する。

分岐点から目的地までは1時間弱だった。ギコンゴロのまちのバスターミナルに到着。ここは駐車場やトイレ、売店などが整備されているそこそこ立派なターミナルだった。ここまでの運賃は500フランスフラン(約100円)。ただここで終わりではなく、目的の虐殺記念館へはまだ距離がある。時刻はすでに14時すぎ。結局ここまで来るのに5時間、半日近くかかった。歩いて行けない距離ではないと聞いていたが、時間が時間なのでバイクタクシーに乗ることにする。ターミナルにはたくさんのバイクタクシーが客待ちしていたのでそのうちの1台を選び、値段を聞いたうえで乗る。幹線道路を外れると道は未舗装の土道。自転車や歩いている人が多い。

15分ほどで虐殺記念館に到着。運賃500ルワンダフラン(約100円)を払う。

入り口の看板があり、そこには「MURAMBI GENOCIDE MEMORIAL CENTRE」とある。もともと学校だったか何か建物を改造して作ったようで、そこだけ広々としている。バイクから降りたら中からおじさんが出てくる。身長は180cmくらいあるが頬はこけ、かなり痩せている。年季のはいったスーツ姿でのそのそと歩く。ぼくはそのおじさんを見て、思わずギョッとしてしまう。おじさんのおでこには明らかに銃で撃たれた痕があったのだ。それはどうしたのかと聞く勇気(?)はなく、きっとあのときにやられ、なんとか生き残ったのだろうと想像しながら、おじさんに促されるまま中へ入る。もう1人おばさんも出てきて、2人で案内してくれる。ここは虐殺された人々の死体を保存し公開している記念館ということだが立地が立地なのであまり人は来ていないよう。ぼくが着いたときも客は他にいなかった。

おばさんはフランス語を解すらしいが、ぼくができないのでおじさんの方が英語であれこれ話してくれる。しかし、このおじさんの英語はなまりと声質のおかげで聞き取りづらく、ほとんどわからない。ぼくが簡単な質問をしても「OK,OK」と言うばかりでちっともわかっていない。他の国では通じたんだからそこまでぼくの英語はひどくないと思うんだが、おじさんにはまったく通じなかった。

ここの記念館の敷地内には長屋風のレンガ造りの平屋の建物が数棟あるだけで、いわゆる記念館として新たに作られたような建物はない。敷地内に入るとまっすぐにその平屋の建物に案内される。おばさんが鍵を出し、1部屋1部屋の鍵を開け、おじさんがドアを開けて中に入るよう促す。

中に入ってみると薬くさい臭いがした。見ると細長い白い物体がいくつもある。なんだ? と思ってよく見てみたらこれが人体だった。ミイラのように骨と皮だけになった人体が折り重なって置かれている。白いのはどうも保存剤のようで、鼻につく臭いはこれが原因のようだった。おじさんはぼそぼそと何か言うがわからない。

1つの部屋を見たあと、次の部屋を案内される。そこもさっきと同じ。ミイラのようになった人体が置かれている。おじさんはその中から1つを指差し、あれは足を切り落とされた子どもだと教えてくれる。そう教えられてから注意して見ると五体のどこかが欠けているというものが目に入ってくる。その次の部屋もそうで、その次もそう。次から次へと同じような部屋を見せられる。

10部屋近く見せられたが、別の棟の建物の中にも同じように保存されているというからこれだけでもすごい数になる。次に案内されたのはコンクリート製の小型の体育館みたいなところで、そこには殺された人々が身につけていたものが保存されていた。もっとも、保存されているといっても棚にドカッと置かれているだけで、なんらの処置もなされているものではなかった。そこには元の形のまま残っているものもあればあちこちが破れたり、切り裂かれていたりしているものも多い。

それから外を案内され、大きな穴が開いているところまで連れて行かれる。そしてここに埋められていたのが、さっきの人体だと教えてくれる。

見学はこれでおしまい。最後に受付に連れて行かれ、ノートを渡され署名と寄付ができるならその金額を記入して欲しいといわれる。ぼくは記念館に2人も常駐がいるならけっこう財政的に大変だろうと思い、奮発して5000ルワンダフラン(約1000円)を寄付。
2003年にポーランドのオシヴィエンチム(アウシュビッツ)に行ったときは人の髪の毛や靴などが山積みされているのに息を呑んだが、ここもまた当時の悲惨さが思い計られ、なんとも言葉にはできない気分になる。

帰りは歩いて帰ろうとぼちぼち歩く。来たときと同じ風景を見ているのだが、あれを見た後ではなんだか見え方が変わる。もちろん物理的には来るときと何も変わらないのだが、道を歩いている人々や家の前で遊んでいる子どもたちを見ていたら、あのときこの人たちはどうしていたのだろうと気になってくる。現地の言葉やフランス語ができればちょっとした会話もできるのだろうが、あいにくぼくはフランス語は挨拶と数字くらいしか知らないし、現地語にいたっては何もしらない。

などと考えながらとぼとぼ歩いていたら、記念館にいたさっきのおじさんがぼくの後をついてくる。なんで? と思っていたら、おじさんは「自分にチップはないのか」とぼくに尋ねてくる。「さっき寄付したじゃん」と答えると、おじさんは「あれはあの女が全部とってしまうんだ」と言う。そんなこと今頃言われても…、と困る。おじさんは自分の額の左側にある銃痕を指差し、自分は虐殺のとき撃たれたんだとか仕事がないとか言って食い下がる。そんなこと言ったってその辺を歩いている人たちも同じように大変だったろうし、だいたいこっちは予定外に大きな寄付をしたからあまりお金の余裕がない。とは言え、自分が食べる飯代くらいはあるんだけど、たまたまあそこにいたおじさんにだけチップをやるのもなんだか周りの人に悪いし、だいたいおじさんの英語はまったくわからんかったから、はっきり言ってガイドになってなかったんだよなぁ。というわけで、おじさんには断り続け、諦めてもらう。

途中まで歩いたが、けっこうバスターミナルは遠いということがわかり、近くを走っていたチャリタクシーを捕まえ、乗せてもらう。坂道が多いのに大変な仕事だ。いくらかは乗せてもらったが、上り坂になると結局歩いたほうが早いこともあり、ゆるい下りだけチャリタクシーに乗って上りは歩く。チャリタクシー数百メートルの運賃は100ルワンダフラン(約20円)。

こうしてバスターミナルに到着。幸いなことにキガリ方面行きのバスはまだあった。まだ客が集まっておらず、しばらく出ないようなので、ここで朝飯兼昼飯兼夕食を食べることにする。ターミナル内にあったこぎれいな食堂に入る。メニューはいくつかあったが、内容がわからないので適当に頼むがどうも通じていない。そこへ店内にいた若い男の子が英語で通訳してくれる。彼を通じて注文。米にポテトフライ、茹でキャッサバ、肉、緑の葉炒めが1枚の皿に山盛りにされたものが出てくる。料理の写真を撮っているとさっきの彼がカメラを見せてくれないかと言うので貸す。すると画面を見ながらあちこちにカメラを向け、最後にはぼくの写真を撮る。彼らの写真を撮ろうかと聞いたが断られる。食事は700ルワンダフラン(約140円) 。キガリではこんな安い料理は見かけなかったからやっぱり田舎と首都ではだいぶ物価が違うのかと感じる。

食後、駐車場のバス近くでバスが出るのを待っていたら、物売りしていた女の子が商品を載せたお盆を見せながら何か買わないかと薦めてくる。野菜が多かったのでいまいち買えるものがなかったのだが、その中にレモンがあったのでレモンを買うことにする。レモン5個で250ルワンダフラン(約50円)。

夕方、16時半ごろバスは発車。また分岐点まで行き、そこで乗り換え。運賃はそこまでが500ルワンダフラン(約100円)。乗換えがうまくいくか心配だったが、幸いちょうどいい車があった。ワゴン車のバスに乗り換えキガリを目指す。運賃は行きと同じ2000ルワンダフラン(約400円)。

走り出して1時間もすると外は暗くなり、そのうち真っ暗になる。沿道には街路灯はないから車のフロントライトのみが頼り。途中、何箇所かで客を降ろしたり、乗せたりする。そうやって止まった場所では、果物やクッキーなどのお菓子を抱えたおばちゃんたちがバスにやってきて営業を始める。ぼくは、今日は寄付でだいぶお金を使ったから何も買うまいと思っていたのだが、乗客のがパイナップルを買っているのを見てたらそれがずいぶん安いことがわかったため、朝令暮改、パイナップルを買うことにした。小玉だが、2個で500ルワンダフラン(約100円)はやっぱり安い。

暗くなると沿道にはときたま家の明かりが見えるくらいで暗くて何も見えなくなる。時折うとうと寝る。

キガリのバスターミナルに着いたのは22時前だった。やっぱり遠かったなぁ。ターミナル前からバイクタクシーに乗り、宿に帰る。バイクタクシーの運賃は500ルワンダフラン(約100円)。部屋に戻る前にまだ開いていた商店でペットボトルの水1.5リットル(600ルワンダフラン ≒120円)などを買って帰る。

部屋に戻ってからは今後のルートを考えたりなんたりをして、就寝。

FIN

2 件のコメント:

アンネのバラ友 さんのコメント...

アンネのバラ友です。
ムランビ虐殺記念館を見学したのですね。5時間、半日近くかかって到着とは、頑張りましたね。入り口の看板「MURAMBI GENOCIDE MEMORIAL CENTRE」ここは虐殺された人々の死体を保存し公開している記念館、あまり人は来ていないようとのこと。

ミイラのようになった人体が置かれている。次から次へと同じような部屋を見せられる。10 部屋近く見せられたが、別の棟の建物の中にも同じように保存されているという。次に案内されたのはコンクリート製の小型の体育館みたいなところで、殺された人々が身につけていたものが保存されていた。

最後に受付で、署名と寄付。奮発して5000ルワンダフラン(約1000円)を寄付。流石!ですね。

2003年にポーランドのオシヴィエンチム(アウシュビッツ)に行ったときは、寄付されましたか?

ぶらぷらびと さんのコメント...

アンネのバラ友さま

オシヴィエンチムに行ったときは確か入場料が必要だったのでそれを払った以外は寄付はしなかったように思いますが、はっきり言って思い出せませんね。