2009年6月30日火曜日

[diary]ビクトリア湖畔ムワンザの1日

ビクトリア湖畔ムワンザの1日

08/09/22(月) 晴れ
[Mwanza:Tanzania]
※レート:1米ドル=1150タンザニアシリング

ムワンザの朝。部屋には扇風機がついていたが、使わなくてもそう暑くなかった。

8時過ぎに宿を宿を出てまずはルワンダとの国境方面に行くバスの下調べ。昨日の終着点だったバスターミナルに歩いていく。宿からは100mほど。途中、車体に大きく「朝日新聞」と書いたトラックが走っていくのを見送る。

長距離バスは他と同じくいろんなバス会社がめいめいバスを走らせており、窓口もそれぞれ持っている。なのでそれぞれで聞いて回らないとまとまった情報を得ることができない。それぞれバス会社の看板が一応出ているのだが、ルワンダ行きを示すような文字は見つからない。しょうがないので適当に聞いてみる。すると人が人を呼び、目的の情報も手に入る。それによるとルワンダ国境方面行きのバスは明日の明朝5時ごろ発らしい。しかも乗り場はここでなく、別の場所だと言う。時間通りに出るかわからないので、明朝発なら今晩バスの中で寝れないかと尋ねる。すると夕方19時にここに来れば乗り場まで連れて行ってくれると言う。なかなか親切だ。これでバス探しは終了。

ターミナルの隣が市場だったのでそこを見に行く。服屋や布地屋、工業製品店、八百屋、食堂、魚屋などが並ぶ。食堂ばかりが集まっているところに行くとえらく客が入っている店があったので、そこで朝食にすることにする。メニュー表はないので人が食べているのを見ながら何を食うか考える。大きく言えば肉と魚があったのだが、せっかくビクトリア湖畔に来ているのだからと魚のスープを頼む。魚はナイルパーチのよう。ウガリかナンかがつくのかと思いきや本当にスープだけ。スープも魚とスライスされた芋が数枚入っているだけのむちゃくちゃシンプルなものだった。味は塩味。ひどくはないがうまくもない。魚の身はやっぱり泥臭い。お値段は1500シリング(約150円)。

食後、市場を一通り見て回ってから街中の方へと歩く。タンザニアシリングがやや足りなくなってきたので、少しばかり両替するために銀行を探す。ムワンザのまちはそこそこ近代化されていて通りを走っている車はトヨタが多いし、建物も高さはないものの近代的なものがちらほらある。高いものでだいたい10階建て。多くは2~3階建てがおおい。アフリカらしくとでも言うのか建物の色は黄緑だったり、青だったり、マンゴー色だったり、なかなかカラフル。他にもイギリスあたりが植民地時代に作ったらしいヨーロッパ調の白亜の建物も目に付く。そうした建物には「1948」など建築年らしい数字が刻み込まれている。またモスクもあり。

人々の格好は男はもっぱらスラックスみたいなズボンあるいはジーパンに半そでのワイシャツ。ワイシャツは柄入り、柄なしいろいろ。女性はオフィスワーカーは別として市場などで働いている人は、Tシャツに足首近くまである布地を腰に巻いているスタイルの人をよく見る。布地の柄はさまざま。加えて頭にもバンダナ(と言っていいのか?)を巻いている女性も多いので、その柄と腰巻式スカートの柄があることでずいぶん景色に彩があるように感じる。

タンザニアシリングが少し足りなくなりそうだったので通りがかった銀行で米ドルからタンザニアシリングへと両替する。他と同じくここの銀行の入り口にも武装した警備員がいた。

適当にあちこち通りをふらついていたらインターネットカフェを発見。立ち寄る。1時間 1500シリング(約150円)。

そうこうしているうちにお昼になったので昼飯を食いに行く。昨晩行った店にまた行く。昨日行ったときにはビリアニはもう終わったと言って食えなかったが、今日の昼ならあるとのことだった。店の男の子の愛想も良かったし、また行ってみるかという気になったのだが・・・。

店に入ると昨日の今日ということで店の子はぼくのことを覚えていたようで、にこっと微笑み席をすすめる。席に座り、ビリアニを注文。しばらく待つ。

待っている間、近くの席に座った男が話しかけてくる。見た目は30代後半から40代。どこから来たのか、何しに来たのかなどと英語で聞いてくる。それに答えるところで料理が到着。が、それを見て驚く。出てきた料理は昨日と同じ魚にご飯、カレースープのようなもののセット。さっき確かにビリアニを注文したし、昨日だってまずはビリアニがあるかどうかを尋ねたのだからビリアニが食いたくて来ていることくらいわかるだろうになぜか違うメニュー。料理を持ってきた男の子に尋ねると、ビリアニはないと言う。“えっ? なんで? ないならないで、ないと教えた上で何を食べるか聞くじゃろうが!” う~ん、わけがわからん。どうしようかと思っていたら今話していたおじさんが、ビリアニが食べれる店を知っているから連れて行ってやると言い出す。おじさんはすでに自分の食事は終えていて、さらに何かを注文していたようだがそれはキャンセルして一緒に店を出るよう促す。

というわけで試しについていってみようとおじさんと一緒に店を出る。

おじさんとおしゃべりしながら歩く。おじさんはここには仕事がないとかなんとかと言う。

到着したのはこじゃれたレストランだった。お客も多い。しかもオフィスワーカーのような格好をした男が多い。店に入るとすぐにウェイターの女性が来て人数などを尋ねる。50~100人くらいは収容できそうなくらい広い敷地に4人がけくらいのテーブル席があちこちにレイアウトされている。おじさんと2人で適当なところに座る。メニューを見るといろんな料理があったのだが、1食100円予算のぼくにとってはほとんどが予算オーバー。ビリアニはなかったもののピラウ(ピラフ)がそれと一緒だと言われ、ピラウを頼むことにする。おじさんはすでに食事済みということで何も頼まず。しかし、それではなんか気まずいのでおじさんにご馳走するから何か飲まないか聞くとおじさんは速やかにビールを注文する。ピラウは2000シリング(約200円)。ビールは一本1200シリング(約120円)。

どういう流れからだったか言葉の話になる。おじさんは英語は難しいと言う。なぜ難しいかと言うと文字と発音があっていないからと言う。その点スワヒリ語は簡単。英語と同じアルファベットを使っていて、さらにローマ字読みすればそのまま通じる。文字と発音が一致している。おじさんはそういうわけでおそらくスワヒリ語は世界で一番簡単な言葉だと言う。しかしぼくの知っている範囲では文字と発音が一致していない言葉のほうが少ないと思うんだけど、あまりそこは突っ込まず。

おじさんは銀行に用事があるらしいし、この後ずっと一緒にいるのも気疲れするので食事後に別れる。

まずはビクトリア湖畔まで歩き、湖畔に沿って伸びる道をてくてく歩く。目指すはガイドブックの地図に載っている湖畔の魚市場。

アスファルトで舗装された歩道を歩いていくのだが、日差しもけっこう強く思いのほか暑い。気温は30度はいっているだろう。トヨタのハイエース(大型ワゴン)を改造したミニバスが脇を走っていくのを見て、乗ってしまいたい誘惑に駆られる。が、節約節約。歩く。

途中、湖畔の船着場の前を通り過ぎる。ザンジバルに行ったときと同じような小型フェリーが止まっていて、船着場周辺では乗船客を狙って物売りをしている人たちがいた。そこから歩いて15分ほどで湖畔の魚市場に到着。これが不似合いなくらいに施設が立派。見た目のきれいさからするとここ数年のうちに造られたよう。市場の隣には食堂市場とでも言うべき施設があって奥行き30mくらいはありそうな屋根つきのコンクリート製の建物の中にいろんな食堂が集まって入っている。

魚市場の方はコンクリート化された床の上に屋根だけという簡単なものだった。しかしなかなかでかい。敷地は50m×20mくらいはある。ただ魚市場というよりも飼料市場のようなところだった。飼料袋が積まれ、魚の干し物なども山のように積まれている。客は少ない。禿げサギとでも名づけられそうな鳥が辺りをうろうろし、人々が仕分けした魚を狙っている。市場の奥隣を見に行ってみるとこちらはでは木製の台に開いた魚を並べて干す作業をしている人たちがいた。

ちょろちょろっと見ただけで市場を後にする。帰り道の途中、お店でジュースを1本買って水分補給。またてくてく歩いて中心部に戻る。中心部近くにも船着き場があってそのあたりは人口密度が高い。

まだ歩いていない通りを歩いて宿近くまで戻る。宿近くの市場の服屋通りに出たら店先で足踏みミシンを使って服を作っている人たちがいた。その人たちの足元には布地の切れ端が落ちている。ちょうどズボンの太もも辺りが破れてしまったので、適当な大きさの切れ端を探し、落ちていたやつを拾ってもらえないかとあるミシンのお兄さんに尋ねる。するとお兄さんは事態がよくわからなかったようでちょっと考えていたが、ただ布切れが欲しいだけというのがわかると笑って持ってけという仕草をする。なのでありがたくいただく。ついでに針と糸もくれないかなと思い、指差しながら一応値段を聞いてみると300シリング(約30円)で売ってくれる。

いったん宿に帰って荷物の準備をして、まだ早かったが宿を出る。そしてバスターミナルに行ってそこのベンチで縫い物をしながら時間を潰すことにする。ズボンは相変わらず1着しかないので履いたまま縫う。西日が射す中の作業となり、まぶしくて目が疲れる。

ターミナルには路上生活をしているらしい母子がいた。子どもはまだ3歳くらい。小鳥を捕まえようと無邪気に走り回ったり、落ちているものを拾って遊び始めたり、うんこしたり。母親は子どもをおとなしくさせようとしているが、あまり気が入っていない。疲れているように見える。母親はバス待ちをしている人たちに近づいて物を乞う。たいていの人はあげられるものを持っていないようで首を横に振っている。その母親はぼくのところにも来たので、ぼくは1食分程度のオカネを手渡す。

ズボンの縫い方が終わったところでベンチを離れ、バス会社の窓口に行く。ルワンダの国境近くまでのチケットを購入。チケット代は22000シリング(約2200円)。けっこうする。窓口を閉めるまでちょっと待ってろと言われ、しばらく待つ。今夜バスに泊まるのはぼくだけではないようで、2人の子どもを連れた女性も一緒に待っている。

暗くなった19時半ごろ、バス会社の男に案内されて車に乗り込む。子ども連れの母親も一緒。

車に乗って15分ほど。市街地からはだいぶ離れた通りにやってくる。運転手は舗装された幅広の道路の脇に車を止める。車から降りるよう言われ、街灯がぽつんぽつんとしかない暗い道を歩く。案内されて着いたのがバス乗り場だった。会社ごとにバスターミナルを持っているようで、この会社のターミナルがここらしい。バスターミナルの入り口には簡単な食事ができる屋台があった。他にもバスを待っているらしい人々はいたので、その中にいる限りではそこそこ賑やか。暗いから本を読むわけにもいかず、辺りの様子を眺めたりして時間を潰す。

1時間か2時間待たされた頃、ようやくバスが到着。バスの中に乗り込んでいいと言うので、バスに乗り込み、適当な座席に座る。荷物は手元に置き、貴重品が入っているウェストバックは枕代わりにする。しばらく横になっていると蚊の羽音が聞こえる。長袖長ズボンに靴だから指される心配はあまりないのだが、念のため蚊帳を布団代わりに使う。昼間は暑かったが、夜になるとそこそこ涼しい。客も少ないので横になって寝ることができた。

FIN

[diary]モシからムワンザへ(2日目)

モシからムワンザへ(2日目)

08/09/21(日) 晴れ、ちょろっと雨
[Arusha→Mwanza:Tanzania]
※レート:1米ドル=1150タンザニアシリング

・明朝の出発
・舗装道ときどきサファリ
・平たい風景
・ムワンザ着

結局、バス会社の言いなりとなり、昨晩はバスで夜を明かした。明かしたと言っても、バス自体は夜が空ける前に突然発車。まぁ、なにがなんだかよくわからん。何を基準に発車時刻を決めてんだ?

当然のことながら昨晩もたいして眠れなかったからバスの中で眠ることになる。ゆったりと眠れればいいのだが、あいにくそのようにもいかない。道は舗装されているものの運転が荒い。もっとも道の舗装も一度舗装されたきりでその後はほったらかしのようで、ときおりでこぼこあり。

車窓から見えるのはパラパラと生えている木々と砂、土。沿道に人を見ることもあまりないし、人家もほとんど見ない。平坦な地形だから遠くを見渡せないし、景色に変化が乏しい。

はじめの3時間ほどは舗装道を走っていたのだが、そのうち砂道に入る。写真でよくあるようなさらさらした砂漠的な砂道。こんな砂道を走ったらタイヤがとられるだろうと心配になったが、そこは慣れているのか、一度嵌りかけた以外はわりとすんなり進んだ。タンザニアからルワンダに陸路で行くルートは道が悪いと聞いていたが、たしかにこれは悪い。これまでアフリカで通ってきた道の中ではワーストだ。

雨が降っていないから車はこんな砂道を走れるけど、これが雨降りだったらどろどろ(になるのか?)でぜんぜん駄目だろう。一方、湿りがないから砂の粉がバスを包むように舞い上がる。窓は閉めているけれども、完全に閉まらず隙間があったりするからバスの車内もうっすらと黄土色になる。みなハンカチで口をふさいだりして我慢している。いやいやこれはたまらん。

運転手は勇猛果敢あるいは猪突猛進的な性格の持ち主のようで、砂の中を容赦なくブンブン飛ばす。路面に少々の窪みがあったりしてもスピードを緩めない。当然、バスは縦に激しく揺れる。だから車内は大変。客がトランポリンで遊んでいるかのように、あるいはまた暴れ馬に乗っているかのようにピョンピョン跳ねる。まさかこんな運転をするとは思っていなかったからさすがにぼくも驚く。窪みがあるたびにいちいち腰が座席から浮く。そして打ち付けられるように座席に落ちる。こんなの腰に悪い。

ご当地の人にしてみればいつものことで何も驚くことではないのだろう、と思ってもみたが、さすがにそれは違った。バスが跳ねるたびに運転席に向けて乗客から文句が飛ぶ。運転席のすぐ後ろの座席に座っているおばちゃんも文句を言っていたが、運転手の若い男は耳を貸そうというそぶりさえ見せず相変わらずロデオスキップさせている。なんじゃ、あの運転手は!

1時間か2時間かけっこう長い時間バスの中で跳ねていた。落ち着いたのは舗装道に出てから。さっきまでのピョンピョンがなくなり、落ち着いて座ることができるようになる。こうしてゆったり座ると舗装道がどれだけ快適なものかを実感する。なお、さっきまでの砂道走行のおかげで持ち込んでいたリュックなどにはうっすらと砂が積もっていた。

と、思っていたのも束の間。またもやバスはジャンプ。気を抜いたところへのジャンプだったから体に響く。なんじゃ、いったい! と思って体を乗り出して見ると、どうもさっきのは道路上に設けられているバウンド(?正式名称がわからない。スピードを落とさせるための障害物。中南米やヨーロッパでよく見る。とりあえず以下もこの名称を使う。)だった。運転手はこれまた無視。まったくスピードを落とさずにバウンドに突っ込んでいく。当然われら乗客は飛ぶ。そしてまた乗客が文句らしきことを運転手に言うのだが、まったく聞かない。アフリカではいつも思うけど、長距離移動のときはバスの持ち主や運転手の都合(気分?)にほんとに乗客は振り回される。別に客を神様のように扱えとは言わないけど、もう少し自分の家族なり友人なりを乗せているような感覚で運転してくれないものか。

景色は相変わらずで、土漠的なところに木々が少し生えているだけ。平坦。バオバブの木を見る。ときおり牛を連れて歩いている人たちを見る。またマサイ族らしい服装をしている人たちの集落も見る。

沿道に見る家は土壁で藁・草葺きの屋根だったり、藁・草壁に藁・草葺きの屋根だったりする。舗装されている道路の沿道にはコンクリート作りの平屋などもときおり見る。集落のまわりは畑があるのだが、あまり作物が植わっているのを見ない。今は農閑期なのか?

バスはほんのたまに途中の集落のバスターミナル(と言ってもただの未舗装の駐車場)で止まり、乗客を下ろしたり乗せたりする。そういうところにはいつも食べ物を売ったり、お菓子を売ったり、ペットボトル入りのジュースや水を売ったりしている人がいるから、そういう人から昼飯や水などは買う。ただ当然バスにはトイレが付いていないし、休憩もいつになるかわからないから移動中はほとんど飲まず食わず。と言ってもたいして我慢しているわけではないんだけど。

砂地を抜けた後は、ほとんどが舗装道だった。あとは快適。外を眺めたり、寝込んだりする。窓から風が入ってくるからわりと涼しい。

時間はだんだんと夕方にかかりはじめる。だが、まだ目的地には着かない。夜に着くと面倒なんだけどなぁと思いながら、外を眺める。

17時頃になると沿道に建物が増え始める。目的地のムワンザに入ったらしい。バスは郊外っぽいところにバスターミナルでいったん停車。そこで客がけっこう降りる。ぼくはここが終点なのかと思い、周りの人に聞くがまだだとのこと。

そこから建物が並ぶ片道一車線のやや狭い道を走っていくと前方に湖が見えた。あれがビクトリア湖らしい。映画『ダーウィンの悪夢』の舞台となったところだ。バスは街中に向かって下り坂を下る途中のガソリンスタンドで停車。ここが終点という。

降りるとコンクリートで塗られた地面のあちこちに黒くなった油がべたついている。荷台に預けていたリュックを取りに行く。地面に落とされると油で汚れるので、自分で荷台から下ろそうと急ぐ。

バスが止まったガソリンスタンドにはタクシーの運転手らが客引きに来ていた。スタンドに面している通りには大型ワゴン(トヨタのハイエース)のルートバスが走っている。外はもう日が暮れ、あたりは暗くなっていた。

ガイドブックを取り出し、宿の位置を確認。だが、いまいち自分のいる場所がわからない。なのでとりあえずホテルがありそうなところを見定め、ぶらぶら歩く。幸いなことにガソリンスタンドの近くに宿屋街があった。確認しただけで5軒ほど。値段を聞いて回ってみると意外と高い。1000円はする。300円くらいの安いところもあったが満室。ビジネスホテルふうのきれいなホテルは2000円以上したので断念。結局、7000シリング(約700円)の宿にする。シングルで水シャワー、トイレあり。扇風機はあったが動かない。部屋は8畳ほどあり、ベッドも大きめ。床はコンクリートそのままに近いから見た目はあまりよろしくない。けど、寝るには十分。

部屋に荷物を置いて夜食も兼ねて外をふらつく。ホテルがある並びには同じようなホテルのほか商店や飲み屋などが並んでいた。歩道にはアルコールランプのような小さな火を灯して果物やビスケットなどを売っている人がいる。

ぶらぶら歩いていったらミニ市場みたいな通りを発見。ここも小さな灯の元で商売している。通りの脇にずらっと露店が並ぶ。露店と言っても屋根もないただ商品をビニールシートの上に並べて売っているだけの簡単な露店。湖で取れたものらしい魚や魚の卵のフライ、バナナ、みかん、パイナップル、靴下、靴などなどそれぞれが日常に必要なものをあれこれと売っている。

店を見ながらその通りを抜け、交差点を右へ。こちらの通りは店舗が並んでいたが、もう日が暮れたからかほとんどが閉まっていた。食堂がないかとぶらぶらする。食料雑貨店は開いていた。100mほど歩いたところで右に折れる。そこに1軒安そうな食堂があった。入ってみる。もうそろそろ閉店の時間なのか客は少ないし、店主らしい人たちがテレビ近くのテーブルに座ってテレビを見ている。

適当に空いている4人がけのテーブルに座る。そこへ10代半ばくらいに見える男の子が注文を取りに来た。ぼくはザンジバルで結局食べることができなかったビリアニを食べようとそれがあるか尋ねたがもう終わったとのこと。何があるか聞くとライス&フィッシュかライス&ミートかというところだった。せっかくビクトリア湖近くにいるのでとライス&フィッシュを注文。アルミの平皿に白いご飯とカレー汁のようなものがかかった煮魚が出てきた。多少泥臭いがそこそこいける。お値段1500シリング(約150円)。

食後、食料雑貨店でアイスを買う。1000シリング(約100円)。高い。食堂での食事とアイスがほとんど同じ値段。

帰りがけさっきの露店通りに行って、そこで夜食用にたらこを焼いたような魚の卵揚げとバナナを買って帰る。あとペットボトルの水1.5リットル800シリング(約80円)を買ってから部屋に戻る。

部屋に戻ってからシャワーを浴び、移動中に浴びた砂を洗い流す。

それからガイドブックなどを見て、今後のルートなどを考えながらそのうち寝る。

FIN

2009年6月29日月曜日

[diary]モシからムワンザへ(1日目)

モシからムワンザへ(1日目)

08/09/20(土) 晴れ
[Moshi→Arusha:Tanzania]
※レート
1米ドル=1150タンザニアシリング

・嘘つきバス会社
・アルーシャ止まり
・読書の半日
・バス泊

キリマンジャロ山が見えるまち、モシ。昨夜はユースホステルに宿を取ったのだが、これがなかなか快適だった。トイレは共同だが、部屋はきれいだし、ベッドの状態もよい。

7時すぎくらいに目覚め、3階のカフェで朝食。朝食付きで6米ドル(約600円)はお得だ。もっとも朝食と言ってもパンとコーヒーといくらかの生野菜にスイカという程度。カフェで朝食をとっているのは白人旅行者ばかり。そこへ日本人が入り込む。

通りに面した座席からはキリマンジャロの山がかろうじて見える。似たような高さの建物が並んでいるから全体的な景観はあまりよろしくないのだが、建物の間から雪を少しだけかぶったキリマンジャロが見える。昨日は夕方に着いたので見ることができなかった。だからキリマンジャロを見るのはこれが初めて。無意識に富士山みたいな形なのかなと想像していたのだが、まったく違った。どこにでもあるようなボコッとした山。形の悪い台形。その姿からはあまり威厳が感じられない。標高は5895mというからかなり高いのだが、あいにくここから見るぶんにはなんだか凡庸な山にしか見えない。

キリマンジャロが見える座席に座り、同室のA君と一緒に飯を食べる。ザンジバルに向かう船で再会してから5日間、一緒に動いてきたけど彼ともここでお別れとなる。彼はここからケニアへと北に向かい、ぼくはルワンダ目指して西に向かう。

今後の予定などを話しながら朝食をとっていると、日本人女性一人がやはり朝食をとりにやって来た。見た目は大学生っぽい。近くの座席が空いていたので、席をすすめ3人でちょいとしゃべってみる。ぼくらの格好を見て彼女はずいぶん長く旅行しているのではないですかと聞いてくる。この間まではまだ半年だと答えていたが、すでにアフリカに入って2ヶ月目に入っていた。

聞くと彼女は大学生で一人でアフリカにやってきたらしい。まずはケニアから入り、ウガンダ、タンザニアとまわってきたらしい。ウガンダでは日本人のおじさんがやっているエイズ孤児(だったかな?)の施設でしばらくボランティアをしていたらしい。そこのことは最初から知っていたわけではなく、ケニアで日本人旅行者から聞いたらしい。行ってみると電気や水道も通っていないところだったらしい。しかし、水汲みしたりろうそくの光で生活したりするのはなかなか面白かったと言う。

モシにはキリマンジャロに登るために来たのかと聞くと、山に登るつもりはなかったのが、誘われて結局登ってきたらしい。誘ったのは日本人旅行者2人だったらしい。2人とも短期の旅行者で、1人はリーマンパッカー(サラリーマンバックパッカーの略)で1人は学生だかなんからしい。それで3人でガイドを雇って登ったのだが、彼女は標高4000mくらいを超えたあたりで高山病になってしまったらしい。3000mあたりまではなんともなかったのに、4000mあたりを過ぎると頭がガンガンしてきて気分が悪くなったらしい。それで2人にここでもう引き返すと言ったらしいのだが、麗しい友情物語よろしく、“ここまで3人で来たんだから頂上まで一緒に行こう”と説得され、それでしぶしぶ一緒に頂上まで登って来たという。「死ぬかと思いましたよ」と本人は言う。いやいや危ない話だ。無事で帰ってきたから良かったものの。一緒に行った男2人は馬鹿じゃないかと思う。

彼女はその疲れもあり、2日ほどここでのんびりしてからケニアに戻り、それから日本に帰るらしい。A君と方角は同じだからナイロビで会うかもなどといった話になる。

朝食後、散歩がてらにバスターミナルに向かう。昨日、宿のスタッフに探ってもらったルワンダ方面行きのバスはケニア経由でかつ料金が高かったからパスした。なので散歩ついでに他に移動手段がないかバスターミナルに情報を集めに行く。行ってみて適当にチケットを売っているような人に聞いてみると西に行くバスはあると言う。ただここから直通でビクトリア湖畔のまちムワンザに行くバスはなく、アルーシャというまちまで行ってそこで乗り換えになると言う。何時ここを出ればいいのかと尋ねると14時半頃にバスターミナルに来いと言う。

というわけで出発まではしばらく時間があるので、しばらくまちをぶらつく。2~3階建ての建物が並ぶメインの通りには銀行や両替屋、食料品店や服屋などが並ぶ他、道端で時計の修理や足踏みミシンを使っての服の縫製をしている人なども見る。もちろんお菓子やペットボトルに入った飲み物などを売っている人、果物屋さんも道端に見る。

ぶらぶら歩いていたら市場を発見。入ってみる。一辺が10mくらいの通気性のいい建物が中心にあり、その中では肉や魚、野菜、香辛料、服などが売られていた。その周りを取り囲むように小さな商店群もあり、そっちでは工具や各種部品、農業機械などが売られていた。全体では街中にある公園程度の大きさ。つまりは15~20m四方程度の広さしかなく、かなり小さい。あまり写真をパチパチ撮れないので一通り見学してから後にする。

あとは当てもなくあちこちをぶらぶら。観光客はわずかだがいた。キリマンジャロコーヒーなどを売っているカフェがあったので、そこで休憩したりする。

A君が壊れた時計を修理したいというのでまた通りを巡り、時計の修理屋を探す。すると文字通りの街角の路上で時計修理をやっているおじさんを発見。A君が時計を見せ修理できないかと尋ねるとできると言う。おじさんはちょっと見せろと言って時計を手に取り、分解を試みるがこのタイプの時計は初めてらしく、電池が入っている部分を開けることもなかなかできない。その様子を見ている限りでは修理ができそうにはない。数分かけて電池が入っている部分を開け、なかをあれこれと観察し始める。いくらかかるか尋ねたら日本円で600円くらいするという。高い。宿代並み。ぼくがアルゼンチンで時計のガラスを交換したときは300円くらいだったからそれよりもはるかに高い。そういうわけでどうするかA君は考え込む。しばらくああだこうだと考えてから400円くらいでできないかとおじさんと交渉。そしたら電池を買ってこないといけないから高いんだと言う。それでも何度か交渉しているとA君の希望価格を受け入れてくれる。

おじさんは電池を買わないといけないからと前金を要求してくる。なのでお金を渡し、しばらく戻ってくるのを待つ。戻ってきてからおじさんは仕事を始める。20分ほどおじさんの作業を眺めて待つ。本当に修理できるのか半信半疑だったが修理は無事終了し、時計も動き始めた。ただA君いわく、どこかの国で電池の交換をしたのだが、数日ほどしたら止まってしまったので、また今回も同じことになるのでは、とのことだった。

宿のチェックアウトが12時なのでいったん宿に戻り、荷物をまとめてチェックアウトする。長距離移動前にはぼくは断食するため昼飯は食べず。

14時前、ちょっと早かったがバスターミナルに向かう。宿前でA君とはお別れ。

バスターミナルまでは宿から歩いて5分ほど。着いてまずチケットを購入。ムワンザまで35000シリング(約3500円)もした。高いなぁ。バスは15時前と言われていたのだが、乗り場をふらふらしていたら来いと呼ばれ、バスターミナル内に止まっていたバスに乗るよういわれる。リュックは荷台に預けてバスに乗り込む。予定より遅く動くことはあっても早くに動くなんてことはこれまでなかったので、なんだか奇妙だなぁとこのとき感じる。

バスはアルーシャ行き。終点のアルーシャまで行ってそこでバスを乗り換える。

アルーシャまでは1時間ほど。30年は使われているようなかなり年季の入ったバスだが、きちんと走る。道は舗装されていて幅6mほどある。沿道には畑。しばらく寝る。

アルーシャはモシよりも大きな町だった。バスは市場の近くらしい中心街を通る。道には物売りと買い物客がうじゃうじゃいるので街中に入ってから急に進まなくなる。回りにはホテルなどの建物あり。

しばらくしてバスターミナルに到着。ターミナルには大量のバスが止まっていて、かつバスチケットを売っている会社もいくつもあったので、はてどれに乗り換えればいいのかとわからなくなる。モシでは、チケットに会社名が書いてあるからそこを探せと言われたのだが、それがどこにあるのかわからない。しょうがないので乗ってきたバスの運転手にチケットを見せて、この会社のバスはどれと尋ねてみる。彼はわからないようで、別の人を呼ぶ。その人は知っていて、バス会社の窓口まで案内してくれた。感謝。

その窓口は、窓口と言うよりも屋台のようなところで、テントの下に机と椅子、ラジオがあるだけのところだった。20代後半から30代に見える男が2人いたので、彼らにチケットを見せムワンザに行くのだがバスはどれかと訪ねる。するとバスは明日の朝に出ると言う。だからここに荷物を預けろ。ついては荷物預かり代5000シリング(約5米ドル)だとのたまふ。はぁ? 訳がわからん。バスが明日の朝だというのも聞いていないし、さらに荷物代で5000シリングもとるなんてぼったくりもいいところじゃないか。そういうわけで荷物代は拒否し、しばらくテント内で時間を潰すことにする。ガイドブックを取り出し、今後のルートなどを考えていたのだが、男は5000シリング払えとうるさい。ずっと無視していたらそのうちバスに乗せないなどと言い出す。こんなことになるならアルーシャまで自分で来て、ここでバスを探すべきだった。すでにムワンザまでのバスチケットは買っている。これで本当に乗車拒否となったら大金(バス代)がパーになる。とぐだぐだ考え、結局はいらいらしながら5000シリング払う。むかつく。タンザニアのバスは性質(たち)が悪いと聞いていたが、このことかと今更思い知る。

カネを払ってしばらくしたら男たちがバスが来たから行けと言い出す。なんだよ、明日じゃないのか? と思いながら、座っていた椅子から腰を上げ荷物を持って移動を始める。リュックはバスの運転手か何かの男が持ってくれ、バスまで案内してくれる。バスは大型バス。客はまだ1人もいない。そこへ1人だけ乗り込む。リュックを運んでくれた男に礼を言うと、男はさっきの5000シリングは払ったのかと聞いてくる。払ったと答えると、じゃあ俺にも、と言うように右手を差し出し、カネを要求する。「なんで?」と聞くと「荷物を運んでやったからだ」と言うが、ぼくが頼んだわけではなく、あんたがあの男の指示で運んだだけだろうが! ぼくは5000シリング(約500円)も払ったんだからそこからもらえと彼に伝えると、意外に素直にひっこむ。これでさっきの5000シリングがただのぼったくりだったということが明らかになる。やれやれ、いちいち頭に来る奴らだ。

朝までこのバスの中で待つのかと思っていたら、たいして客が乗っていないのにバスは動き出す。どこへ行くかと思っていたら町外れの住宅街のある通りまで行き、その道端で止まる。どうもその通りにこのバスの会社の事務所があるみたいで、その事務所前にバスを止め、運転手らはその事務所に入っていった。どうもここで朝まで待つらしい。外は暗くなり始め、しばらくすると完全に暗くなる。

ぼくは通りの適当なところに腰をかけ、本を読んで時間を潰す。一度、バスの中を見に行ったらすでに何人かは座席に横になり寝ていた。

1冊本を読み終えると暇になる。まったく予想外の展開に、また5000シリングとられたことにまだいらついていたので、あたりをふらふらしてみる。食料雑貨屋や食堂、露店などあり。食堂で飯でもと思ったが、明日が本番なので我慢。その代わりではないが、少しだけ腹の足しにしようとビスケット(約100円)を買い、露店でチャパティとチャイをくらふ。ビスケットよりもそこで焼いているチャパティの方が安い。

バスが止まっている辺りにはバス待ちの客を目当てにムシカキ屋(串焼き屋)がやってきて商売していた。まだ食べていなかったので牛肉か何かの串焼きを一本かって食べる。1000シリング(約100円)。なかなか高い。

夜はバスの中に戻って蚊帳を布団代わりにかぶって座席に横になって寝る。蚊の音がしたりしてあまり眠れず。

FIN

[diary]ダルエスサラームからモシへ移動

ダルエスサラームからモシへ移動

08/09/19(金) 晴れ
[Dar es Salaam→Moshi:Tanzania]
※レート:1米ドル=1150タンザニアシリング

・朝のスープ
・豪華バスースカンジナビア
・嘘つき客引きおじさん
・日本人に遭遇

ザンジバルからダルエスサラームに向かう船の中。天気が良かったのか、聞いていたよりも揺れはなかった。夜中に目が覚めたときに、船が動いているような音がしなかったのは朝にダルエスサラームに着くよう時間を調整しているのかもしれなかった。

6時前、ダルエスサラームが近くに見える。みな降りる支度をはじめ、早い人は船の降り口にもう並んでいる。

6時半ごろ船はダルエスサラームの港に接岸。下船する。ちょうど日が昇ろうとして、東の空をオレンジ色に染めていた。

当初の予定ではダルエスサラームに1泊する予定だったが、一緒に動いているA君はすぐに移動するというし、また宿が開くのをしばらく待つのも面倒だし、宿代もここは高かったのでぼくも一気に移動する。移動先はモシというキリマンジャロ山に近いまち。A君も同じところへ行くというのでまた一緒に移動することにする。

ガイドブックの地図を見ながらモシへ行くバスが出ているバスターミナルまで歩く。さすがに早い時間帯だからか人通りは少ない。

途中、テント式の屋台が並んでいる傍を通りがかる。昨日の晩は船で酔うことを案じてあまり飯を食っていなかったので、ここで朝飯を食っていくことにする。5軒ほど並ぶ屋台はどこも同じようなものを出しているようで、それぞれ店の前や裏で肉の塊やジャガイモが入った鍋を煮立たせていたり、フライパンでチャパティを焼いていたりする。適当に店を選び、狭い店内に入る。肉の塊のスープ(1000シリング≒100円)とチャパティ2枚(計400シリング≒40円)、チャイ(100シリング≒10円)を注文。スープはほんとに肉だけという感じで味も塩で味付けしただけのシンプルなスープだった。気温が肌寒い程度だったのでスープのおかげでずいぶん温まる。店の人にバスターミナルの位置を教えてもらい、またバスターミナルに向けて歩く。

10分ほど歩いたところでバスターミナルを発見。なぜかスカンジナビアという名のバス会社のバスターミナルで、これがかなりきれい。待合室もきちんとあり、チケットの窓口もちゃんとしている。そこでモシ行きのバスのチケットを買う。値段は24000シリング(約2400円)。思っていたよりもかなり高い。1500円くらいであるかと思っていたが、これが一番安いやつらしい。バスは9時発。まだ1時間ほど時間がある。時間があるので、まだ見ていなかったダルエスサラームの魚市場に行こうとバスターミナルの人に聞いてみたが、1時間で往復するのは厳しいと諭されあきらめる。本をちらちら見たり、売店をふらついたりして時間を潰す。

9時前、バスがターミナルに入ってくる。荷物を持ってバスまで行き、荷台にリュックを預ける。車内はエアコンが効いていて、座席もきれい。もっとぼろいバスかと予想していたので、これは意外だった。ちなみにバス車両はMarcopolo。

車内は満席。予定通り発車する。走り出すと添乗員が客の間をまわり、飲み物とちょっとしたお菓子を配って回る。こうしたサービスはアフリカでは初めて。なかなか豪華だ。

バスは舗装された道を快調に走る。片道1車線程度の幅がある道路だが、路面には車線などはない。辺りはぽこぽこと裾野の広い小高い山が見えるが全体としては平たいサバンナ的な風景が続く。ただサバンナにしては林が多いように思う。

車窓から見える家々はコンクリートづくりのものもあれば、壁だけコンクリートで屋根は草葺きとか、土壁に草葺きとかいろいろ。外を眺めながら寝る。

14時過ぎ、バスはドライブインのようなところで停車。ここで昼飯休憩らしい。添乗員らしい人が大きな声で何かを告げるがよく聞こえず。ドライブインの駐車場には同じような大型バスが10台ほど停まっていた。レストランは開けっ広げでなかなか広いが、客が多いから混雑している。これまで食べたことないものを食べようとなじみのない料理名をメニューから探し出し注文するがないとのこと。結局あるのはどこにでもあるライス&ビーフなどだけ。しょうがないのでそれを注文。休憩時間は30分くらいはあるだろうと思い、のんびり食った後レストランの周りで野菜を売っている人たちにところに行き野菜を見てたらA君が“もうバスが出るみたい“と教えてくれる。バスの方を見ると、さっきまで止まっていた場所に車両がない。A君に促されてバスを探しているとすぐに発見。添乗員の男は怒った顔をしていて、英語でなんとかとまくしたける。遅いのを咎めているらしい。バスに乗り込んでみると確かにぼくら以外の客は全員そろっていた。みんなきっちりしているなぁ。とりあえずは取り残されなくて良かった。

車窓からはアロエのようなものが一面に植わっている広大な畑が見えたりする。

モシにはまだ明るい17時過ぎに到着。スカンジナビア専用のバスターミナルのようでとても小さい。まぁ、ターミナルと言ってもバスが1台止まることができる程度のスペースがあるだけのもの。あたりには民家が並ぶ。バスターミナルには怪しげなおじさんが来ていてホテルを案内するというようなことを英語で言ってくる。行きたい宿の名前を伝えると、そのホテルはなくなったと言うのでとりあえず無視。ガイドブックの地図を参考に目的の宿に向かう。

しかし、これが道を間違えたようで見つからない。地図で確認しようとしても小さな通りの名前が地図上には書かれていないから確認できない。しょうがないので、通りがかった女性に尋ねてみる。

だいたいの方角を教えてもらったので、それを信じて歩いてみる。そしたらさっきの怪しげなおじさんとまた会う。そしてホテルを案内するからと言い始める。もう30分近く歩いていることだし、まぁ、試しについていってみるかと思いついていってみる。最初に案内されたホテルは1階が飲み屋兼食堂で2階から上が宿。部屋はきれいではないが、めちゃくちゃひどいってこともない。ただ値段が10米ドル近くと高い。なので、ここは却下。その次に連れて行かれたホテルは見るからに高そうなところだった。ガイドブックにも載っている宿でそこに書かれている通りであればそんなに高くないようだったが、やはり値段があがっているようでさっきよりも高い。あいにく適当な部屋の空きもなく、却下。

そういうわけでおじさんはあまり使えなかったので、ここで別れる。二人で最初に予定していた宿を探して歩く。すると日本人らしい女性が1人で歩いているのを発見。荷物も何も持っていないから旅行者ではなく、ここに暮らしている人っぽい。話しかけて宿について聞くと、目的の宿はリニューアルして名前が変わったらしい。さっきのおじさんは“なくなった”と言っていたが、まぁ、完全な嘘ではなかったよう。場所は変わっていないらしく、そこまで案内してくれると言う。お言葉に甘えて彼女の後をついていく。

無事、宿を発見。フロントで値段を聞くとドミトリー(相部屋)だと5米ドル、2人部屋は1人6米ドルだった。荷物の管理のこともあるので1米ドル高いが、2人部屋に泊まることにする。部屋を見せてもらったらきれいでなかなかいい。支払いは米ドル払いが基本でシリング払いもできると言ったが、シリング払いではあまり計算レートが良くないので米ドルで払う。それからフロントの男性にルワンダ行きのバスについて何か知っているかと尋ねると、知り合いがバスの手配をやっているらしく、その人に連絡取るからちょっと待っててと言われる。

荷物を部屋に置いた後、案内してくれた女性(以下Bさん)と3人でちょっとおしゃべりする。Bさんはここで麻薬などいわゆる問題行為を起こす若者の更生を支援する活動をしているらしい。その活動の話をあれこれ聞かせてもらう。そこへフロントの男性から連絡が入り、例の知り合いがやってきたと言う。なのでぼくだけ話から外れ、フロントに行ってみると20代半ばくらいの男性が来ていた。彼がバス会社の人間らしい。彼にルワンダ行きのバスについて聞いてみるとルワンダ直行のバスはやはりないようで、西のビクトリア湖畔のまちムワンザまで行ってそこで乗り換えになるらしい。そのムワンザ行きのバスは週に3本程度しかないらしく、明日はあるがそれを逃すともう3日ほど待たねばならないらしい。ケニアを経由して行くバスは早くて快適らしいが、ちょっと高いし、ケニアのビザの問題もある。結局、即決できるような条件がそろわず、結論は持ち越すことにした。一応、彼の事務所の場所だけ教えてもらってわかれる。

宿に戻ると2人はまだ話を続けていた。だが、Bさんは用事があるらしくもう帰るらしい。外は暗くなり始めていたので、Bさんに夕食にいい場所を教えてもらい、そのレストラン前でお別れ。レストラン前でカネをくれと言って寄ってきた男がいたがBさんが説いて諭し、あきらめさせる。なかなか肝が据わっている人だ。

そのレストランで昼と同じようなビーフシチューとしろご飯のセットものを注文。お値段1500シリング(約150円)。2人で食べながらしゃべっていたら店に来た地元の女の子が話しかけてくる。定番のいくつかの質問を受けた後、彼女が自分のお姉さんはとてもきれいで、すぐ近くで店をやっているから見に来ないかと言う。なので食事後、彼女についていったら本当に近くだった。レストランの2軒隣。女性向けの服を売っている店で土産品になりそうなものも売っていた。ここでお茶をいただき、ちょっとおしゃべり。なんかいいものがあれば買ってもいいかと思っていたが、どれも決定力不足。お姉さんも売りつけるような態度はまったくなく、気持ちのいい雰囲気だった。とは言え長居はできないので適当なところで切り上げる。

まっすぐ宿には戻らず、ちょっと辺りをぶらぶら。ダルエスサラームでも見たが、ここでもマサイの男性がホテルなどの警備をしている。いわゆる警備員のような格好はしておらず伝統的な彼ら独自の格好をして、ホテルの前に立っていたり、椅子を持ってきて座っていたりする。聞くとマサイの人は勇敢だということでこういう仕事を任されているらしい。

さっきの夕食では腹がたいして膨れなかったので、まだ空いていた食堂による。ピザとチャイを注文。ピザはいわゆるイタリア式のピザではなく、独特のピザ。新しい! ただ食べてみると腐っているような味がする。それでA君が取り替えてくれるよう交渉するが、どうもこちらの言っていることが通じない。言葉の問題というよりもそういうことがあることを想定していないかのようで、うまく話が通じない。最後にはなんとかわかったようだったが、店主はちょっと不機嫌そうだった。

21時半ともなると街の光は街灯のみになり、人通りもほとんど絶えてしまう。ピザを食べたらまっすぐ宿へ。宿で温かいシャワーを浴びてから就寝。

FIN

[diary]スパイスツアー、ダルエスサラームへ移動

スパイスツアー、ダルエスサラームへ移動

08/09/18(木) 晴れ曇りちょろっと雨
[Zanzibar→Dar es Salaam:Tanzania]
※レート
1米ドル=1150タンザニアシリング

・充実したスパイスツアー
・夜行船でザンジバルへ

ザンジバルで2回目の朝。明るくなった7時過ぎに起床。

8時前に宿を出て2人でスパイスツアーの事務所に向かう。事務所でツアー代12米ドルを払う。8時半発なのでしばらく事務所で待つ。ぼくらの他には中国系アメリカ人の女の子(20代前半)、それから40代くらいの白人夫婦などが参加する模様。

8時半過ぎ12人乗りくらいのトヨタのワゴン車がやってくる。それに乗り込み出発。昨日も通った北へと続く道を走る。もちろん道は舗装路。

15分くらい走ったところで右へと曲がる。民家や畑、それから人の手が入っているような林を見ながらしばらく走る。スパイスツアーの受け入れをしている農園(?)はいろいろあるらしく沿道にはそれと示す看板が出ている。

ゆるい起伏のある道を5分ほど走ったところで左に入るとそこが農園だった。入り口には「WELCOME TO BUTTERFLY SPICE FARM」と英語で書かれた看板があった。未舗装の道を500mほど行ったところで車は停車。あたりは明るい林となっている。

客を乗せたワゴン車が他にも2台ほど農園に入ってくる。客はヨーロピアン系ばかり。これらの人も同じツアー客のようでツアーガイドの男がみなに声をかけ、農園の一画へと案内する。客は総勢20名ほど。農園のスタッフらしい若い男性が紹介され、彼が農園の説明を始める。言葉は英語。説明されてわかったが、この周りに生えている木々などが香辛料の原料となる実(だけじゃないけど)がなる植物だった。1種類だけでなく、何種類もの香辛料をここで栽培しているという。彼は農園を移動しながらいろいろな香辛料植物(とここでは呼ぶことにする)を紹介する。木々だけでなく、畝を作って植えられている植物もあり。

送信者 tamzania



ガイドの男性は木になっているものであれば実をちぎって、草であれば葉をちぎり、根っこであればそれを掘り出し、実物を見せ客にその香り、味などを確かめさせる。10種類以上の香辛料の原料を説明されたが、名前が英語のため日本語でなんと言うのかわからないものあり。わかったのは胡椒、丁子、カカオ、シナモン程度。他はなんなのかよくわからず。しかし、面白い。植物のこういう部分を使っているのか!という発見がいろいろあった。

ぼくら観光客のまわりには10代くらいの男の子たちが数名寄ってきて、一緒に行動する。彼らはぼくらの傍で笹のような葉で小箱みたいなものを作ったり、花や草をつないで首飾りを作ったりして、それを観光客の女性にプレゼントする。ぼくはてっきり本当にプレゼントしているのだろうと思っていたが、それは見当違いで彼らはそれらをプレゼントすることでお小遣いを手に入れるのが目的のようだった。はじめは小銭を渡していた観光客もいたが、彼らは次から次へといろんなものを作ってあげようとするから、そのうちそれをもらうのを拒否するようになる。ぼくらはカネを出さない奴らだろうと見られたのかプレゼント攻撃を受けることはなかった。その代わりではないが、彼らに対抗して(?)胸ポケットに入っていた紙切れで手裏剣を作って一人の男の子にプレゼントするとこれがけっこう珍しかったようで、“ぼくにも、私にも”といった勢いで押しかけてくる。一緒にいたA君も手裏剣を作って彼らにプレゼント。その様子を他の観光客が写真に収める。

香辛料の林、畑を見た後はちょっと歩いて近くにあるハマム(浴場)の遺跡を案内される。この建物はまだザンジバルがスルタンの支配下にあり、貿易立国であった時代に支配者が自分用の浴場として建てたものらしい。この白亜の建物自体は比較的きれいに残っており、中も見学可能。日本人の感覚からすれば風呂場であったとはわかりにくい作りで、お湯が通る水路などを説明されるとなるほどなとわかる程度だった。

また歩いて農園に戻る。農園の敷地内にはいくつか家が建っていて、外で煮炊きをしている様子などを見る。家は支柱は木で壁は土壁で屋根は椰子の葉(?)葺き。

それからぼくらは木製の簡単なベンチがあるところに集められ、そこでいろいろな果物の味見をする。ガイド役の男性がジャックフルーツやあまり見慣れないりんご系の果物などを一かけらずつ切り取りながらお客に配って回る。香辛料農園やハマムの見学に果物の味見、さらに昼飯つきで12米ドルというのは安い。

木造の高床式の家屋に案内され、そこでお昼ご飯。お昼ごはんはカレー。長粒米のご飯、黄色のカレー、葉物の炒め物がそれぞれ直径30cmほどのプラスチックの洗面器にもられ、そこから各々自分の皿にとって食べる。さすがに香辛料農園のカレー。なかなかうまい。

送信者 tamzania


昼食後、車に乗って移動。昨日も通った道を北へと向かう。ツアープログラムでは昼食後は海岸に行き、行きたい人は入場料を払って近くにある奴隷が身を隠していたという洞窟に行くことができるとなっていた。昨日とまったく同じパターン。昨日もガイドブックを見てそういうことが書いてあったので、ここに来たのだった。

海岸近くで車から下ろされ、草ぼうぼうの中に通っている小道を歩き、砂浜に出る。天気が悪いから海があまりきれいではない。泳ぐには気温も低いし、日差しもない。そういうわけで適当なところに座って時間を潰す。砂浜を小さなカニたちがちょこまかと走っている。

砂浜に着いて20分もしないうちに空から雨粒が落ちてきた。というわけでみな車に退散。車に乗り込み、ストーンタウン近くの事務所まで戻る。

一度宿に戻って荷物を整理し、フロントのおじさんに頼んで夜まで預かってもらう。それから船乗り場に行って、今晩乗る船のチケット探し。船会社はいくつかあるので、それぞれ値段と船の様子を写した写真などを見て船をチェックする。結局は12米ドルの夜行船を選ぶ。出航は夜の9時頃らしい。

まだ夕方前なので時間はある。ストーンタウン内をふらつき、ネット屋でしばらくネット。代金は1時間1500シリング(約150円)。本土よりもちと高い。スピードはまずまず速い。

夕方、夕食としてピザ(350シリング≒35円)、ポテトフライ(500シリング≒50円)、チャイ(200シリング≒20円)を食す。

20時ごろ、荷物を持って二人で港へ。出国ならぬ出島手続きをして船乗り場へ行くと、すでに乗客は乗り込み始めていた。船の後部には「東海汽船」の文字あり。これも日本の中古品を持ってきたもののよう。

ダルエスサラームで会った日本人旅行者の話では外国人用の部屋があり、そこに案内されると聞いていたのだが、乗り込んでみるとそういう場所はなく、スタッフに聞いてもそれらしいところはないとのことだった。外の空気に当たっているほうが酔わないだろうと思い、甲板の席(マットレスが敷かれていて横になることができるコーナーがある)を探したがすでにいっぱい。しょうがないので椅子が並ぶ室内に席をとる。室内の前方や端など横になれるスペースがあるところはすでに他の乗客が荷物を置いたりして占有していたため横になれるような場所は取れず仕舞い。しょうがないので空いている椅子を探し、そこに座る。

ちなみに船内には「シーガル2」と書かれた船内の案内図や御神火レインボー線の運賃表などが貼られていた。

21時すぎ、船はゆっくりと動き出す。ぼくは椅子に座って本を読んだりしながら眠くなるのを待つ。眠くなってきたら隣の椅子に置いたリュックなどにもたれて寝る。しかし、ケツが痛くて夜中目覚める。言われていたような揺れはまったくと言っていいほどなく、揺れで気分が悪くなるということはなかった。ただ地元の客の中には、船に慣れていないのか、見るからに調子が悪そうな人はいた。

FIN

2009年6月28日日曜日

[diary]中華街を探して、からゆきさんの家、奴隷市場

中華街を探して、からゆきさんの家、奴隷市場

08/09/17(水) 曇り晴れ
[Zanzibar:Tanzania]
※レート:1米ドル=1150タンザニアシリング

・港の魚市場
・中国人街を探して
・強いられる断食
・からゆきさんの家
・奴隷市場
・北の海辺へ

扇風機を回して寝ていたら意外と寒かった。蚊に刺されることもなし。

7時半ごろおき、ぼくはしばらく書きもの。同室の彼が起きたところで今日の打ち合わせ。一緒に行動するか別行動にするかを適当に話し合う。結果、だいたい見に行きたい場所は似たようなものだったり、僕自身相手がどういうところを見るのかに関心があることもあり、一緒に行動することにする。

9時ごろ宿を出て、まずは近くの港に向かう。目的は魚。ガイドブックの地図によれば、昨日フェリーが着いた港の北側が魚市場のよう。がたがたした細い道を歩く。すぐに魚市場らしきところに到着。ただ市場というよりも道端の露店といったほうが妥当。屋根も何もない道端にかつおのような魚や頴娃(だと思うんだけど・・・)、あるいは見たことのない魚、たこなどを並べて売る人が10人ほどいただけだった。大きな掘っ立て小屋といった様相の市場らしき建物もあったのだが、台などは片付けられていて、すでに営業は終わったかまだ始まっていないかというような様子。

建物の向こうは船着場になっているのだが、この時間は潮が完全に引いていて水がない。そのため木造の帆船らしき船たちがあらわになった岸辺に横たわっている。

市場らしき建物内で2人でぶらぶらしていると、あたりをたむろしていた男たちの中の何人かがどこから来たのかと言ったことを聞いてくる。それに答えていると、どこからともなく4~5歳くらいの男の子が現れ、“遊ぼう!”というような仕草をする。なので、抱き上げたり、持ち上げたりして遊んでやると、まだまだとさらにくっついてくる。周りの人はその子を知っているらしく、その様子を見て面白がっている。こうしていきなりなついてくる子どもも珍しい。そのうち若い母親が現れ、ごめんなさいというようなことを言いながら、子どもをぼくから引き剥がし何やら叱っている。その隙にぼくらは市場を離れる。

予想外に市場が小さかったのは残念。もっといろんな魚などが見れるかと思ったが、そうでもなかった。イカでも飼おうかと思ったりもしたが、1パイが100円ほどしたので辞めた。

それからここには中華街があるというので、それを探しに行く。天気はよろし。

適当に歩いていると道端に漁具を作っているらしい作業小屋のようなものを発見。小屋の入り口には完成した漁具が山積みにされていた。

さらにしばらく歩くとやはり道端で麺を干しているのを発見。木製のケース(日本語の固有名を忘れた)の上にくるくると一定の大きさに巻かれた麺が規則正しく並んでいる。ちょうどラーメン屋などで見るようなスタイルと同じ。ちなみに麺はラーメンのような色をしているが、ソーメンのように細い。麺を作っているところを見たかったが、どうも機械を使って小さな工場のようなところで作っているようだったので踏み込まず。

それからまた中華街を探して歩くのだが、これが見つからない。途中、通りがかった運動場のような広場には漁のときに使う網が広げられ、網を繕っている男の人たちがいた。

さて、ガイドブックの情報を元に中華街を探して歩くのだが、まったくそれらしきところがない。なので通りがかった人に聞いてみるのだが、知らなかったり答えがバラバラだったりと当てにならない。最後に聞いた人があっちだと言うのでそっちのほうに行ってみたのだが、それらしき一帯はなかった。ただその一帯は商店が並ぶ賑やかな通りだったのでぶらぶらと見て回る。工業用の部品や工具などから服などいろんなものが売っている。

そんなこんなで歩いているうちに昼近くになる。ぼくは知り合いの人からタンザニアのザンジバルに行ったらぜひ行くようにと言われていた店があったので、そこに2人で行ってみる。するともう昼も近いのに店は開いていない。まだ開店時間じゃないのかと思い、しばらくあたりをふらついて待つ。しかし、昼になっても開かない。すると店の中から店主らしいおじさんが出てきたので、おじさんに聞いてみると今はラマダン中で休業中と言う。夜はやっているのかと聞いたが、夜もやっていないらしい。いつまで休業するのだと聞いたらラマダンの月すべて、つまりは向こうほぼ1ヶ月は休業するらしい。日本からわざわざここのビニヤニを食べに来たんだと言っても、みんなが断食をしているか店は開けないとの返事で、あえなく退散。楽しみにしていたのになんともタイミングが悪かった。

さて、じゃあ別の店を探すかとなるも、あたりの食堂は開いていない。でも、果物を売っている人はいたので、その人から果物を買ってストーンタウンの人通りの少ない駐車場で食べる。するとそこへ通りがかかった若い男が“食べるのを止めろ”というようなことを怒った顔して言ってくる。いやぁ、ぼくらイスラム教徒ではないんですけど・・・、と思いつつも、まぁ、みんながそうしているからそれに合わせるのがここの流儀なのかと思ったりして、いったんは食べるのを止めるが人がいなくなったところを見計らってまた食べる。そこへ今度はおじさんと若い女性が2人でやってくる。彼らはぼくらが食べているのは気に介していない様子で、まずはどこから来たのかと英語で聞いてくる。それで日本からと答えると日本語を少し教えてほしいと言い出す。なので、いいですよと答えて、どんな言葉を知りたいのかと待っていると、女性のほうから“モンキーは日本語でなんと言うのか?”と聞かれる。意外な質問。サルだと答える。彼女は何度か“サル、さる、さる”と繰り返し、ほかにも2~3の言葉を日本語でなんと言うのかと聞いてくる。なぜそんな言葉を知りたいのかと聞くと、どうも彼女らはツアー会社か何かをしているようで、日本人客を集めるために少しでも日本語を知りたいということのようだった。

彼女らとやりとりしているときも通りがかりの若い男などが、ぼくらが手に持っていた食い物を見てなんだかんだと文句を言ってくる。が、そういう人には彼女らがスワヒリ語でなんだかと言って応酬していた。

さてさて、それにしても飯を食うところがない。しょうがないので地元の飯はあきらめ、中国人なら店をやっているだろうとストーンタウンの中の観光客が多く集まる地域にある中華料理屋に行く。はたして予想通り中華料理屋は開いていた。だが、この一帯には他にも少しだけだが開いている店はあった。不本意ながらも中華料理で昼飯。やはり地元の屋台などと比べると値段は倍以上になる。

このあたりには洒落たカフェやレストランのほかに土産物屋やネット屋、郵便局、ホテルなどが密集していた。道は車がやっと通るくらいの幅しかないのだが、けっこう交通量は多い。

『歩き方』にストーンタウンの一角にからゆきさんが住んでいたところがあるとあったので、そこを探す。地図を見ながら歩くのだが、これがなかなか見つからない。ガイドブックにその一角の写真が載っていたのでそれと一致する場所を探して、あっちかいやこっちかなどとあちこちをぐるぐる回りながら探す。そして、ようやくたどり着く。ガイドブックの写真と比較して確認。確かにここのようだが、それらしき看板などは何もない。そこは3階建ての横長のアパートのようなところで、ガイドブックによればつい40年ほど前(1959年)までからゆきさんとして日本から連れてこられた女性がここに住んでいたらしい。からゆきさんの話は東南アジアなどに連れて行かれたということは知っていたが、アフリカまで連れて来られていたとは知らなかった。こんなところまで連れてこられた彼女らは当時この地をどういうふうに見、感じていたのだろうか。

それから奴隷市場だったという現協会に向かう。これもストーンタウン内にある。途中、道端でクレープみたいなものを焼いて売っているおばさんがいたので買ってみる。

ぶらぶら歩いて元奴隷市場に到着。入り口には「WELCOME TO THE ANGLICAN CHRIST CHURCH CATHEDRAL(THE FORMER SLAVE MARKET SITE)」と書かれた説明板があり、この地の歴史を簡単に紹介している。中に入ろうかと思ったら入場料が必要とのことだったので、外から眺めるだけにする。近くでは椰子の実を売っているおじさんがいたので、おじさんから椰子の実を買う。一緒に動いている彼はこれまで椰子ジュースを飲んだことないというので、やや強引におごりという形でチャレンジしてもらう。椰子ジュースは1個約100円ほど。ジュースに加え、内側の果肉も食べられるのでけっこうお得。

それからぶらぶら歩いていると大きな青果市場前を通りがかる。野菜や果物、山型パンなどいろんな食材、食品が売っていた。市場は建物の中だけでなく、建物の前の道端まであふれていた。そのあふれ出したところで白い液体をペットボトルに入れて売っている人たちがいたので、これは何だと尋ねると牛乳だというので試しに飲んでみることにする。絞りたてだからかまだ温かい。ペットボトルはもちろん使いまわしのもの。1.5Lサイズと500MLサイズがあったので500MLを買ってみる。さっそく飲んでみるとこれがなかなかうまかった。ザンビアで飲んだ牛乳もうまかったが、ここの牛乳もなかなかいける。

それから北のほうにある海岸に行こうとバスを探す。と言っても日本で一般的に走っているようなバスではなく、軽トラの荷台を客席に改造したような元トラックが住民の足となっている。市場近くのバスターミナルで目的地に向かうバスを探す。なかなか目的のバスが来ないため20分ほど待つ。そうしてようやくバスをゲット。

荷台を改造した客席にはだいたい20人ほど乗れる。屋根が付いているから雨に濡れる心配はないが、壁や窓ガラスのようなものはないから横殴りの雨となれば屋根もあまり意味がないものとなってしまう。幸い雨の気配はない。満杯になったところで発車。

30分ほど走ると木々の多い通りに入る。沿道に見える家は土壁に藁屋根。野菜畑なども見える。運転手に行きたいところを伝えていたので、適当なところで声がかかり降りることになる。降りたところには英語で書かれた看板があり、そこに目的地の名前が書かれてあった。ここからさらに少し歩いたところにあるらしい。未舗装の道を歩く。沿道は木と畑と住宅があるだけ。なんだかストーンタウンとは空気が違う。

歩いていたら後ろからロバ車がやってくる。操縦しているのは10歳くらいの男の子で、きょうだいらしき男の子と女の子も一緒に乗っている。男の子らに目的地の場所を英語で聞いたらまだ先だと教えてくれた。男の子のロバの操縦方法がなかなか器用で、クィクィクィと昆虫の鳴き声のような音で進めと止まれの合図をしている。最初はぼくはそれに気づかず、一緒に動いている彼が「なんか面白い音を出してますね」と言ったのでそれで気づいた。ばった系の昆虫が出すような音にも似た、あるいは啄木鳥(きつつき)が木をつつくときの音にも似たような音を男の子は出している。音を出す様子を見ている奥歯をこすり合わせて音を出しているように見えたのだが、本当のところはよくわからなった。

歩いていっているとコテージ風のホテルが見えてきた。小さなホテル。この裏手の海岸が目的地のよう。海岸に出るための踏み固められた道があり、それに従って歩く。そのホテルからは1分足らずで海に出た。小さな白い砂浜で人はいない。水は澄んでいて水の中もよく見えるほど。あいにく空が薄く曇っているからいまいち青さがない。ガイドブックによれば、ここらも以前は奴隷の積み出しかなんかで使われていた海岸らしい。

暗くなるとバスがなくなると思い、20分足らずで来た道を戻る。するとホテル前にバスが止まっていた。運転手に聞くとストーンタウンのほうに行くというので乗せてもらう。来たときと比べれば乗客は少ない。ゆったりと座ることができる。

ぼくらはこのバスはてっきり来るときに乗ったバスと同じくルートバスだと思っていたのだが、道端で手を上げて乗る合図をしている人がいても乗せようとしないので不思議に思う。それで判明したのだが、どうもこの車はホテルの従業員を送り迎えしているバスのようだった。そのためか行きよりも帰りのほうがなぜか運賃を余計に取られる。来たときと同じだろうと乗るときに運賃を確認しなかったのがいけなかった。しかもやや郊外で下ろされてしまう。やれやれ。

ストーンタウンに着く頃にはだいぶ薄暗くなっていた。いったん宿に戻る。そして宿の人に明日スパイスツアーに行きたいんだけどと相談し、ツアーを紹介してもらう。夕方だったので予約が取れるかわからなかったが、ラマダンの時期で観光客が少ないということもあるのだろう、問題なく明日のツアーを予約することができた。

夜は昨日と同じく屋台街で食事。屋台街に行ってみるとまだ暗くなって間もないと言うのに、食堂や屋台の椅子はほぼすべて埋まっている。しかも不思議なことに食べにきているのは男ばかり。店をやっているのが女性だったりするが、ご飯を食べに来ている女性の姿は見当たらない。いくつもある屋台をまたぐるぐるまわって食べたことのないようなものを出している屋台を探す。けっこう味が予想できるようなものが多く、迷ってしまうが最後は適当に決めて椅子に座る。今晩も食べたのはぶっかけ飯のようなもので豆やらスパゲッティやらが白いご飯にのっかっているのを食べる。まぁ、味はうまくもなくまずくもなくというところか。

帰りには揚げだこを買って帰る。これがけっこう高いのだけど、もうしばらくはたこにありつけないだろうと思い、奮発。

宿に戻ってからは同室の彼と明日の予定やこれまでの旅話などをし、適当な時間に消灯。寝る。

FIN

[diary]ザンジバルへ、再会

ザンジバルへ、再会

08/09/16(火) 曇り晴れ
[Dar es Salaam→Zanzibar:Tanzania]
※レート:1米ドル=1150タンザニアシリング

・再会
・ストーンタウンで迷う
・屋台街
・たこ

6時過ぎに起床。天井備え付きの扇風機のおかげで心地よく眠れる。

部屋にコンセントがなかったので廊下で充電しながらしばらく日記書き。

9時前には、同室の2人も起きる。すでに宿代は払ったというので、ここでぼくのぶんの精算をする。トリプルの部屋に3人で泊まったことで一人8300シリング(約900円)なり。だいたいどこもシングルは10000シリング以上するので1食分が浮いた計算になる。

一人の人がいらないというので、『地球の歩き方 エジプト』をもらう。ぼくは彼に意図せず残ってしまった西アフリカで使える通貨CFAをプレゼント。また、もう一人の人には酔い止めの薬を分けてもらう。彼がザンジバルからダルエスに戻るときは船がめちゃくちゃ揺れ、乗船者の多くが嘔吐していたという。その話を聞いたので念のため。

10時ちょっと前にチェックアウト。彼ら二人は夕方発のタンザン鉄道でルサカに行く予定をしていたため、夕方まで宿で荷物を預かってもらえないかと交渉していたが、あっさり断られていた。

宿の入り口で記念撮影をしてから彼らと別れ、ぼくは船着き場に向かう。

船着き場近くになると昨日もそうであったように、うっとおしいおじさらんらが声をかけてきてチケットを買うならこっちだというようなことを言って案内しようとする。彼らの”仕事”はザンジバル行きの船に乗ろうとしている外国人旅行者に勝手に付いていって勝手にチケットを頼んで、それで手伝ってやったからと5ドル程度を巻き上げるというもの。あんたなんか必要ないと言ってもそれを無視してついてこようとするから、質が悪い。昨日行ったYMCAには彼らを相手しないよう張り紙がされてあったほど。

昨日、チケットを買った会社Flying Horseの窓口に行き、どこから船に乗れるのか聞く。乗船は11時からと言い、すぐ脇に警備員がいる入り口があって、そこから入って中で待っておけと彼女は付け加える。

ゲートでチケットの確認があり、中に入ると荷物のチェックがある。これはほとんど形だけ。あまり意味のあるチェック体制にはなっていない。待合い所があり、そこで座って待つことができるが、ぼくが行ったときにはすでに満席。

通路で待つ。カシューナッツを売っている人がいたのでカシューナッツの小さな袋を2袋買う。20~30粒ほどが1000シリング(約100円)。モザンビークでは同じ値段で倍くらいの量が買えたのだが。しかも食べてみたら黴くさいのがあった。湿気で柔くなっていて歯ごたえも味もいまいち。

11時になると船に向かう通路に行列ができる。ぼくもその列に並ぶが、皆が持っているチケットはぼくのと違い高い会社のもの。おかしいなと思い、チケットをチェックしている人に聞いたらさっさと通してくれ、左側の方を指さし、あっちの船だという。

目の前にはもう1隻船が停泊していて、塗装もしっかりされており、きれいだったのだが、これに乗るのではなかった。

左の方に通路を歩いていき、桟橋の先に止まっていた船は塗装があちこちはがれ、さびて古くなっているのが一目でわかるような船。チケットを見せ、2階の客室にあがるとすでにほとんどの席が埋まっていた。11時から乗船と言われ、1時間ほど外で待っていたのに、これでは早く来た意味がない。さすがアフリカ。適当だ。

客室は3人掛けほどの椅子が3列あり、その間を細い通路が通っている。外がよく見える壁際の席に座りたかったのだが、空いていない。しょうがないので船の先の方に近いところの座席に座る。椅子は固定されておらず、後からとってつけたような椅子だった。

船は12時発。しばらく待つ。同じ宿だった人からもらった『地球の歩き方 タンザニア等』を読みながら待つ。

客はちょろちょろとやってくるが、ぼくが乗って以降はそれほど増えなかった。12時前に日本人らしきバックパッカーが一人乗り込んできて、ぼくの隣に座る。話してみると聞きおぼえのある声。でも容姿からはどこで会ったかが思い出せない。

ちょっと話した後、彼の方から前に会ったことがあるようなと切り出してくる。どこで会ったかと尋ねると南米の南の端アルゼンチンのウシュアイアで同じ宿だったという。それで思い出す。

彼とは1泊だけ同じ宿で同じ部屋だった。ぼくがウシュアイアを出る朝、彼もウシュアイアのまちなかに行くというので、宿から町中まで一緒にバスで行ったのだった。薄暗い中、雪の降りつもったバス停で、いつ来るかもわからない町中行きのバスを二人で待っていて、そのとき多少話をした。思い出せば確かにそのとき聞いた声だった。

なんだかそのときとは出で立ちが違ったから、ぼくは彼となかなか気づけなかった。彼の方はぼくを見て一瞬そうじゃないかと思ったらしいが、ちょっと雰囲気が違って見えたので最初にいくつか質問をしてみたという。

旅行中に会った人と再会するのは、これで3ケース目。他のケースは南米内での出会いと再会だったが(具体的にはパラグアイの日本人移住地の宿で一緒だった人とブエノスと宿で再会。またチリの船で一緒だった人とやはりブエノスで再会)、今回は大陸を越えての再会。しかも船の上というのに巡り会いの不思議さを感じる。

彼はあれから南米を北にあがり、中米を通ってニューヨーク、スペインを経由してから南アフリカに入り、そこから北上して今朝の3時にダルエスサラームに到着
したという。

船は12時半過ぎに発車。港を離れ、北東に向かう。湾内では網を引き上げている漁船や白い帆を張って走るダウ船、釣りをしているらしい丸木舟などを見る。

ダウ船は50人以上乗れそうなわりと大きな船も走っていた。風を受けて走る様はなかなかかっこいい。特に三角形の帆の形がなかなかよろしい。帆かけ舟自体は西アフリカでも見ることがあった。ベニンの湖の集落でも四角い布を帆にして走ったりしていたが、こちらの方が、断然本格的という印象を受ける。

湾内はたいして揺れがなかったものの、湾を出ると大きく揺れるようになる。外を見てれば酔いはしない程度だったが、外が見えない場所にいればたぶん酔うであろうというくらいだった。

船に乗っているのは地元の人かアフリカ人の観光客か(?)という人がほとんど。日本人はぼくらの他にもう一人おじさんがいた。その人は日本語の文庫本をずっと読んでいた。周りの人ともしゃべっていたからここに住んでいる人なのだろう。

客室にはテレビが備え付けられていたものの、使われることなく、また移動につきものの音楽もなく、ただ船のエンジン音と波をかき分ける音、そして吹き込む風の音が聞こえるばかり。

久しぶりの再会ということで、彼とはお互いのこれまでの旅話などをする。

ダルエスサラームを出てから3時間ほどたったころザンジバルの島が前方に見えてくる。後ろからやってきた東海汽船と船体に書かれてある高速船がわきを颯爽と追い抜いていく。高速船では1時間半ほどでここまで来る。つまり2倍程度のスピードが出るらしいのだが、こうして近くで見ると呆然とするほどまったくスピードが違う。

ザンジバルの港の桟橋には2艇の高速船がすでに停泊していて、客や荷物を下ろしているところだった。そこにおんぼろ船が加わる。

急な階段を下りて桟橋を歩き、Welcomes to Zanzibarと書いた看板を右に見ながら上陸する。通路に沿って歩くとすぐにイミグレがあり、そこで係りの人から入国カードをもらいカードを記入。様式はタンザニア入国時に書いたものとまったく同じ。

この島は1964年までは独立したザンジバル共和国として存在していたのだが、その年に併合されタンザニアの一部となった。そのころの名残なのか同じ国内なのにイミグレがあるのは珍しい。

てっきり観光的な手続きかと思っていたが、パスポートと入国カードを渡すと係官は機械でパスポート情報のページを読みとったりしていてなかなか本格的。窓口には小型カメラもある。ただ質問等はまったくなしで、パスポートにスタンプが押されて戻ってくる。

二人の手続きが終わり、さて、島に入るかとしたところ「Hello my friend」とやや年輩のおじさんが声をかけてくる。なんかの商売人かと思って適当にあしらっていたら、自分はHealth Officeの者だとイミグレの隣にあった窓口を指さす。そして、黄熱病の接種証明書が見たいと言う。それならそうともっと官僚的な言葉遣いをしてくれればさっさと対応したのに、呼びかけの言葉が路上の怪しいおっさんたちと同じだから勘違いしてしまった。

それでそのオフィスに行き、中にいた女性に黄熱病の証明書を見せようとすると、その仕草だけでOKと言って解放してくれる。まったく意味がわからん。

港の入り口前で迷路のようだというストーンタウンの地図を見て、今晩泊まる予定の宿の位置を再確認。

港の入り口には警備員がいて、人の出入りを一応チェックしているが、出入りする人や物が多く、あまり厳格にはなされていない。

その入り口を出ると、外にはホテルの客引きやタクシーの運転手らが待ちかまえていて、なんだかんだと声がかかる。そして例のように話の通じないおっさんが、ザンジバルの話などを英語でぶつぶつ言いながら宿はこっちだなどと案内を始める。ノーマネーなどと言うが、とても信じられない。

無視しながら二人で歩く。ストーンタウンは、モロッコのメディナを思い起こさせるような造りになっていた。ひしめき合うように立ち並んでいる3階立て程度のアパート(?)群はバルコニー作りやその格子の形、窓枠がアラブ的なデザインになっていて、それがまたモロッコを思い起こさせる。

いざ入ってみると地図で見た感覚とまったく違う。どちらに目的の宿があるかわからなくなる。地図を確認しても地図自体が不正確に見える。

3人が横になればいっぱいという細い石造りの道を歩き、なんどか行ったり来たりするが、どうもわからないのでインド系の人がやっている化粧品屋で道を尋ねる。尋ねていたら通りすがりのおじさんが間に入ってきて、連れていくから後をついてこいと言う。

彼もカネはいらないというので、半信半疑ながら彼についていく。

途中、2階の窓から買い物かごを紐で吊して、なすの受け渡しをしている人を見る。

そこから5分程度で宿に着いた。そこまでの道もちょっとくねっていて慣れぬ人では迷いそうな道筋だった。宿まで行ったらおじさんは本当にカネを要求することもなく、去っていった。

宿の受付の太いおじさんに部屋があるかと英語で尋ねるとあるという。値段を聞くと10米ドル。部屋を見せてもらい、それから彼と打ち合わせして値引き交渉。彼は英語がよくできるので彼がおじさんと話し合って、タンザニアシリング払いで安飯1食ぶん程度下がる。3泊するなら1米ドル程度ディスカウントすると言ったが、3泊するかはまだ未定だし、もっと安い他の宿を探すのはぼくが面倒なので、それで手を打つ。

部屋に荷物を置いてから受付で名前とパスポートナンバーを記入し、2泊分前払い。

腹が減っていたが、イスラム教徒が多いザンジバルはラマダン中ということもあって、日暮れまで屋台などは出ないというから、しばし部屋で休息。

夕暮れが始まった18時前に宿を出る。まずは港の通りまでの道を確認し、ストーンタウン内での宿の位置を再確認。

それからうまいというフォロダニ公園の屋台街を目刺し、海沿いの道を歩いていく。300mほど歩くとオールドアラブ砦あたりに来て、その脇の通りが屋台街になっていた。が、屋台は10軒ほどと少ない。屋台は炭火焼きの屋台がほとんどで、たこやいかや魚やロブスターなど串刺しにした海産物を選んで焼いてもらうスタイルのよう。値段を聞くと1000、2000、3000シリングと物によって別れている。1本の量は大したことないからちょっと高い。2000シリングも出せばウガリ(トウモロコシの粉をお湯でついたもの)と肉スープのセットが食えたり、中華料理屋で一品食えたりすることを考えると、値段的に割があわない。また、地図で見た位置とも違っているように思える。

なので、目的の公園にある屋台街はここではないのだろうと思い、歩き続けるがそれらしきものはない。

通りすがりの若い男性に彼が聞くとまだ先だという。彼はキリマンジャロに近い観光地アルーシャからこの島に仕事で来ているという。

町中を抜け、くらい通りをしばらく歩いてここだと彼が案内してくれたのは飲み物などを売っている雑貨屋だった。どうもこちらの意図がうまく伝わっていなかったよう。しょうがないので、そこでぼくは水と麺を揚げたベビースターのようなスナックを買う。水は1.5リットルが600シリング(約60円)、スナックは40gほどの小袋が200シリング(約20円)。

その店でしばらく休憩。

それから地元食が安く食べられるところを彼に案内してもらう。町中を経由して、宿の前を通り出たのは、屋台街。こちらの方がごみごみしていて、雰囲気がいい。木製の机と簡単な長いすだけの青空食堂(すでに暗かったのだが)や屋台が30軒程度ある。

切り身にしたスイカを売っている屋台もあれば、サトウキビジュースを絞りながら売っている店もある。また、15cmほどの小さな揚げた魚を売る人、それから揚げダコ屋も多い。街灯はなく、あたりは暗い。魚を売っている人たちはろうそくのようなものを灯しており、やっと魚の判別ができる程度には明るい。食堂の方は、客が食べているものの大まかな形はわかるが、具に何が入っているかはわからないくらい暗い。

ぐるぐると店をまわってご飯を食べている彼おすすめの屋台に座る。同室の彼はウガリとチキンスープを別の店で買ってきて同じ屋台のテーブルで食べる。

おばさんに頼んで出てきたのは、平皿に大盛りのご飯の上に葉ものを炒めたものとスープをかけたぶっかけご飯のようなもの。暗くてよくわからなかったが、具にはじゃがいもや小魚も入っていた。ご飯は黒豆の豆ご飯で木屑のように細かく削ったココヤシの堅い果肉も一緒に炊いているようで、ココヤシの味もする。スープは辛みのまったくないカレースープのような味。味にあまりインパクトがないが、初めて食べるのでよしとする。

食後、ぼくの希望でその屋台街をふらふら。同室の彼は案内してくれたタンザニア人とあれこれしゃべっている。

屋台はだいたい似たようなものばかりで、ご飯やウガリを出す店のほかに、フライドポテトとチキンなどを売っている店も多い。ここで安くロブスターや貝類、あるいは見たこともないようなものが食べられるかと期待して見て回ったが、期待に応えてくれるようなものはなかった。

宿に買える前に揚げダコを買う。足を2本と体の部分とで2500シリング(約250円)。なかなか高い。

宿に帰ってタコをつまみながら、しばらくアフリカ話。

その後、水シャワーを浴びて就寝。

Fin

[diary]ダルエスサラームに到着

ダルエスサラームに到着

08/09/15(月) 晴れ 30度以上
[Tanzania:Dar Es Salaam]
レート:1米ドル=1150タンザニアシリング

・18時間遅れの到着
・宿探しにてこずる
・久々の飯
・インド、アラブチックな雰囲気
・ジャンボ! モジャモジャ


ダルエスサラームに向かう列車の中。
寒気を感じ、意識が戻る。そういえば窓を開けたまま寝ていたと思い出す。窓を閉めるかと思い、起きあがって窓の方を向くと向かいの寝台で寝ていたおじさんが窓を開け外を見ていた。閉められない。

時計を見て驚く。昨日、ベッドに横になって寝たのは8時すぎくらいだったからせいぜい2~3時間寝ただけだろうと思っていた。しかし、時計はすでに夜中の2時をまわっていた。結局、到着予定日だった昨日中にもダルエスサラームには着かなかった。というわけで、この車内で3泊目、列車に乗ってから4日目となる。

ブランケットは昨日の朝に回収されたまま戻ってきていない。列車の乗務員も昨日着くものだと思っていたのか? もっとも気温はそれなりに高く、暖かい(ぬるい)からもはやブランケットは必要ないけど。

さてさて、こうなるとどうせなら明るくなってから駅に着いてくれる方がありがたい。今更多少早く着いてくれても未明着だったら宿は開いていないだろうし、開いていたとしても暗くてはあちこち探しまわるのはあまり安全ではない。結局のところ、明るくなるまで駅の待合室で待たなければいけなくなる。昨日の夕方までは早く着けと思っていたが、こうなると遅く着けというふうに願いが変わる。

だが、願いはやはり叶わなかった。

同室(4人いた)の一人の若い男性が携帯電話で話をはじめる。周りを気遣ってか部屋の外にいったん出て、電話が終わってから部屋に戻ってきた。そして、あと15分ほどで駅に着くと言う。

ベッドでまた横になっていたぼくはそれを聞いて身を起こす。車窓から外を見てもまだ都市部に着くような様子はない。平べったい風景。人口的な光は見えないし、ビルのような建物も見えない。多少景色が変わったと言えば沿道に見える民家の数が多くなったことくらい。

こんな夜中なのに、なぜか外は漆黒の闇ではなく、薄明るい。道路の部分と家や木々、地面と空の境ははっきりと区別ができるくらい色のトーンが違う。暗闇に目が慣れた状態ではなく、明らかに全体的に明るい感じがする。だからか、見える星も少ない。

やがて街路灯が見え始める。それから少しするとやたらと電気がついている地帯が見える。何かと思っていたら、向かいに座っているおじさんが教えてくれた。あれは空港らしい。空港が見えたとなれば、ダルエスサラームに間もなく着くというのは本当らしい。

天井裏の物置スペースに置いていたリュックをおろし、自分の横に置く。部屋の住人はみな一番下のベッドに腰掛け、到着を待つ。

やがてスピードが落ち、ガタンと止まる。窓から外をのぞくがダルエスサラームの駅ではなさそう。数分止まってまた発車する。

それからまた20分ほど走ってまたスピードが落ち、窓の外に駅のホームが現れる。ダルエスサラームの駅らしい。時計を見ると3時過ぎ。やれやれこんな時間に着くとは・・・。

列車が完全に止まる。それを待っていたようにバタバタと荷物を担いだ乗客たちが廊下を歩いていく。下車ラッシュが落ち着くのを部屋で待っていると窓越しに「ヘイ、マイフレンド、タクシー?」とタクシーの運転手らしき男たちが数人まわってくる。それらは無視して、しばらく待つ。ザンビアから一緒のおじさんも一緒で、動かずに待っている。

おじさんが行こうと言うので一緒に列車を降りる。ホームには荷車を持ったポーターが何人もいた。何人かは仕事にありつけていたが、多くのポーターは手持ちぶさたの様子で客に声をかけたりしている。

ぼくらはバッグや米袋(中は荷物のよう)を頭に乗せて歩く人々の中に混ざってホームを歩く。あるおばちゃんは、頭に小型のボストンバック、右手に大きな袋、左手に3歳くらいの子どもの手を引いて歩いていた。物を運ぶときは頭を使え!

ホームから駅舎の建物の中に入り、待合い室に行く。待合室というよりも待合い広場といった感じ。ここもカピリムポシの駅同様、不要に天井が高い。きりんも十分入れるくらい。

待合い広場には人がいっぱい。ベンチは既に埋まっていて座れない。なので、おじさんと二人で通路の一画に荷物を置き、そこで外が明るくなるのを待つ。そこの向かいの壁にはタンザン鉄道の路線地図が張られていた。中国製ということだからか、中国語も併記されている。

駅舎の中は電気(蛍光灯)がわずかしかついていないため暗い。なので本を読むこともできず、しばらく周りの様子を見たりしながらボーと待つ。

6時を過ぎるとやっと明るくなる。おじさんが行こうと言うので一緒に駅舎を出る。駅から町中まではタクシーしかない。おじさんが町中までタクシーはいくらかかるかわかるかと聞くので、ガイドブックに載っていた額5000シリング(約500円)くらいらしいと伝える。するとおじさんは寄ってきたタクシー運転手にスワヒリ語でその額を伝える。その額でタクシーの運転手は了解したようで、二人してそのタクシーに乗り込む。

ガイドブックに載っていた宿の名前を運転手に告げ、まずはそこまで行ってもらう。

片道2車線の道路。まだ朝が早いからだろう車も人も少ない。イギリスに支配されていたからだろう、ここも車は左側通行。これは南アフリカやジンバブエ、ザンビアと同じ。

1軒目の宿に着いたが満室で空きなし。同じ系列の宿で少し離れているところにある宿に行ってみると、そこは空きがあった。なので、ぼくだけそこで降り、そこまでの運賃を払い、おじさんとはお別れ。おじさんは晩飯を一緒に食おうと言い、加えて夕方に宿に来るからと言って去る。

さて、一応目的の宿に着いたもののきちんと聞いてみると安い部屋が空いていなかった。空いている部屋は20米ドル近くする。なので、却下。別の宿を探しに行く。

ガイドブックによればYMCAとYWCAが相部屋で10米ドル程度とあったので、そちらに向かう。

ザンビアのルサカと比べると道が入り組んでいて、建物も古い(と言っても40年程度に見える)ものが多い。高層ビルの類は少なく、せいぜい5~6階建て程度の建物が多い。

信号が日本と同じく横に並んでいるのに、なんだか懐かしさを感じる。

それほど迷うことなく、YWCAに到着。行ってみるとまだ受け付けは開いていなかった。職員の人に隣の食堂ででも待っていてと言われ、しばらく受付が開くのを待つ。

待っていたらヨーロッパ系のカップルバックパッカー2名と日本人バックパッカー男子2名もやってくる。

日本人の方と話してみると彼らは今、ザンジバル島から戻ってきたところらしい。夜行便のフェリーに乗って戻ってきたらしいのだが、それがけっこう揺れて、周りではゲーゲー吐く人が続発。おかげで一人の方のバックパック=リュックはゲロまみれになってしまったらしい。幸いなことに防水カバーをしていたからリュック自体はそれほど汚れなかったらしいのだが、カバーがけっこうやられてしまったので、早く洗いたいと言っていた。

8時頃になってようやく窓口の担当者がやってくる。早速窓口で聞いてみると空きはないとの返事。そしてYMCAの方に行ってみろと言う。

なので近くにあるYWCAの方に行ってみる。ちょうど朝食の時間で通りがかった食堂には旅行者らしいヨーロッパ系の人たちでいっぱいだった。

受付の女性も朝飯中らしく、受付に誰もいない。しばらく待っていたら女性がやってくる。聞くとやっぱり満室で空いていないという。

YMCAの建物を出るとさっきYWCAで一緒に受付まちしていた日本人パッカーがYWCAに行こうとしていたので、空きがないと伝える。そこで3人で相談。日本人がよく泊まるらしい宿がちょっと離れたところにあって、そこは3人相部屋で泊まればそこそこ安いとのことだった。宿は安いにこしたことはないので、その話に乗り、一緒にその宿に行く。

無事宿は見つかり、3人部屋も空いていた。シングルだとどこも1500円くらいしていたのが、3人相部屋だと約800円程度(8300シリング)。二人のおかげでだいぶ節約できる。

荷物を置いてまずは腹ごしらえに行く。改めてゆっくり町を見てみるとザンビアとはすっかり変わってインドチックやアラブチックな顔立ちを人たちが多く、食堂もサモサ屋などこれまで見ることのなかった種類の料理屋がちらほらある。

せっかくなのでサモサ屋の1つに入ってみる。番台にいたおじさんが笑顔で迎えてくれる。どうせたいした値段ではないだろうと決め込み、適当にガラスケースに並んでいるいろんな種類の揚げ物を指さし注文する。

頼んだのは3角形の豆入りサモサと魚の唐揚げ、丸い団子状のものが大小1個ずつと揚げ春巻きみたいなもの。それにチャイ。大きな団子状のものは鶏の卵だった。これらに浸けダレみたいなものとして、ココナッツの繊維が入った液状のヨーグルトが平皿に盛られて出てくる。チャイはいわゆるミルクティーで甘い。シナモンが効いている。

それぞれ大して量はないので、あっと言う間に食べてしまい、早々に支払いとなる。値段を聞いてみるとなんと合計4800タンザニアシリング(約450円)。せいぜい200円くらいだろうと見込んでいたのに、まったく勘が外れてしまった。しぶしぶ大金を払う。おじさんはにこやかに昼はカレーをやっているからまた来るようにと英語で言う。

それからATMを探しがてらまちをぶらぶら。両替をする必要もあってまちをぶらぶら。歩いてみると市街地は想像していたよりも小さい。一部の通りにはガラス張りなどの近代的な建物はあるが、ちょっと外れれば年季の入った建物ばかりになる。両替所はあちこちにあって、それぞれ両替レートを表に表示しているので比較しやすい。米ドルの買いと売りの値段を見るとたいした違いはない。米ドルが少なくなっていたので、ここで米ドルを作ることにする。

両替屋探し回って、ドルの売りレートがいいところを見つけた上で、ATMに行き、それなりのカネを引き出す。カネはタンザニアシリングが出てくるので、それを持って両替屋に行き、米ドルに両替。

そうしてから次に船乗り場の下見。船乗り場にはいくつか船会社のチケット売場があって、それぞれで船を出している。料金も各会社ごとに違う。料金を見てみようとチケット売場に行こうとすると道ばたでぶらぶらしていた男が声をかけてきて、どのチケットを買うのだと聞いてくる。これにまともに答えるとチケット売場まで案内したからなどと言って手数料を要求してくるなんて情報を聞いていたので無視。

ザンジバル島までの一番安いチケットは20米ドル(米ドル払い)だった。とりあえずそれだけ確認してうっとおしい男がついてきていたので、いったんチケット売場を離れる。チケット売場周辺にはカシューナッツ売りの人やバナナ売りの人など多数。

港沿いを歩いていたらローカル食堂が並ぶところについた。道路よりも一段下がった海側に簡単な椅子とテーブルとを並べ、炭を燃料に調理をしているのが見える。

昼をやや過ぎていたので、ここで昼飯にする。スワヒリ語で話しかけられたため、いまいちよくわからなかったが、料理が入っている鍋を指さし、「ベイ ガーニ?」と値段を聞いてから「モジャ(1つ)」と注文。それにしても「1」を「モジャ」と発音するなんてスワヒリ語もなかなかいけてる。

さて、出てきたのはウガリ(トウモロコシの粉?をお湯で練ったもの)と牛肉が入ったカレー風味のスープ。これで1500タンザニアシリング(約120円)。例のごとくウガリの体積と比較するとスープの量が少ない。ウガリはわりとさっぱりしていて素っ気ない味。スープはカレー的。手でウガリを握ってスープに浸けながら食べる。料理を運んできた女性が片言英語でどこから来たのかなどと興味深げに聞いてくる。英語がわからないとスワヒリ語になって、スワヒリ語で何かと言われるのだがわからないので、首を振ったりしてわからないそぶりをすると、ちょっと離れているところで作業している人たちに何やらと言って笑ったりして楽しんでいる。

オカネを払って店を後にしようとすると、また明日来るかと聞かれる。明日はザンジバルに行くから来れないと答えると、明後日はと聞いてくるのでザンジバルから戻ってきたら来るかもなどと言ってお別れ。

食堂の近くでは数十kgはありそうな炭が入った袋をトラックから背中に抱えて荷下ろししている男たちがいた。

それからぶらぶらと歩いて市場がある方面へ歩いていく。服屋ばかりが並ぶ通りを抜けて行くとコンクリートづくりの2階建て程度の市場の建物に到着。周辺の通りにも野菜や果物を売りに来た人が並んでいる。

市場の建物の中を見てみると1階では野菜や肉や香辛料など食べ物を売っていたが、2階では農機具や農薬などを売っていた。

さらさらと見てからぶらぶらとまた違う道を歩く。道ばたで椰子の実を売ってる男性がいたので、久しぶりに椰子の実を頂くことにする。値段は1玉400タンザニアシリング(約30円)。鉈でパンパンと切れ目を入れ、その場で飲み口を作ってくれる。椰子のジュースを飲んだ後は半分に割って中の果肉を食べる。ここでも椰子の実の皮を適当に箆(へら)状に切ったものを匙代わりにして果肉をすくって食べるスタイル。うまいし、安いので続けざまに2玉食べる。

それからは果物のハシゴ。これまた道ばたでパインの切り身を売っていたにいちゃんから1切れ買って食べる。パイン1切れが100タンザニアシリング(約10円)。それからスイカの切り身を売っているにいちゃんもいたのでスイカをひとかけら買って食べる。こちらは一かけ200タンザニアシリング(約20円)。歩いていたら野菜や果物だけのミニ市場があったので、そこを見て回る。使い込んでいる年季の入った木製の台に野菜や果物、香辛料が山積みにされている。そこで八朔のような大きな柑橘を2玉買う。2玉で1000タンザニアシリング(約100円)。

歩いて市街地に戻り、再度港に行く。今回はつきまとわれることなく、チケット販売所に到達。そこで明日のザンジバル行きのチケットを買う。片道20米ドル(約2000円)。

それから宿近くのネット屋でネット。1時間1000シリング(約100円)。スピードはADSL並みでなかなか速い。写真のデータのアップロードなどをする。

その後、宿に戻り同室の2人が戻るのを待つ。

2人が戻ってきたところで近くの中華料理屋に食事をしにいく。すでに外は薄暗くなりはじめていた。通りを歩いている人は多くもなく、少なくもなく。

彼らはザンジバルに行く前に一度この中華料理屋に行ったらしい。どれもうまかったので、再度行きたいということのようだった。僕自身は中華料理を食べるのは久しぶり。マリの首都バマコでやはり同室になった日本人旅行者と近くの中華料理に食べに行って以来。だから約2ヶ月ぶりになる。

目的の中華料理屋は宿が面している同じ通り沿いにあり、歩いて3分ほどで着いた。店構えはちょっと高級そうなつくりで、テーブルなども含めた内装も日本のちょっとした中華レストランと同じ程度。メニューをもらい、料理を眺める。料理名は英語と漢字(中国語)で書かれてある。漢字のほうがわかりやすいかと思って文字を追っていったがいまいちピンと来ない。逆に英語の方がわかりやすい。

海鮮麺や鶏の酢豚などそれぞれ1種類ずつの料理と白飯、茶を注文。3人でつつく。確かに味はいい。量は多くはない。屋台で食べるウガリなどと比べれば値段は4~5倍。にもかかわらず、なかなかお店は盛況でそのうち席は7割ほどは埋まってしまう。話題はやはり互いの旅話。彼らは北からやってきたのでぼくは彼らからケニアやエチオピアの話を聞き、彼らにはぼくが西や南アフリカの話をする。片方の人の話に寄ればパキスタンでしばしば爆弾テロが起こっているため彼はパキスタンに行くつもりだったのを変更して飛行機で飛び越えたらしい。

あれこれしゃべり食べてからお会計。一人当たり11300シリング(約1000円)。1回の食事に1000円も使うなんてブエノスアイレス以来? とにかく久々に食事としてはでかい出費だった。

宿に戻ってからは明日の出発の準備等。彼らからもう使わないという『地球の歩き方 タンザニア(略)』をもらう。お返しにこちらからは西アフリカで余ったお金などをプレゼントする。

適当な時間に消灯。寝る。

Fin