2009年7月17日金曜日

[diary]マラリアチェックと日本的な一日

マラリアチェックと日本的な一日

08/09/30(火) 晴れ
[Nailobi:Kenya]
※レート:1米ドル=70~73ケニアシリング

この日、マラリアチェックでお世話になったNPO国際医療協力機構チャイルドドクターのHP
http://child-doctor.org/index.htm
こちらは事務局ブログ
http://ameblo.jp/child-doctor/

・マラリアチェック
・日本人倶楽部
・パーティ
・縁は異なもの

今朝も7時過ぎ頃起床。昨日と同じく朝はひんやりしている。

スタッフが用意してくれたチャイをロビーのソファに座って飲む。今日はこれからマラリアチェック。昨日、電話で待ち合わせをしたので、それにあわせて動く。こうして誰かと時間を決めて何かをするなんて、かなり久しぶりのような気がする。

マラリアチェックにはA君も一緒に行くことになった。彼もこれから北上するので、マラリアのチェックをしておきたいらしい。

待ち合わせはヤヤセンターというショッピングセンターの入口。宿を出てバス乗り場に行く。朝のバス乗り場は通勤の人たちなのか、ずいぶん混んでいた。ワゴンタイプのルートバスに乗る。混雑しているためバスの進み具合はよろしくない。時間に遅れないか心配になったが、一部を抜ければあとはわりとスムースだった。

予定の時間よりやや早くヤヤセンターに到着。ヤヤセンターは4階建てほどの円形タイプのショッピングセンターで、貧乏旅行者にはとても手が出せないようなものばかり売られている。本屋、スポーツショップ、高級スーパー、画廊(?)などなど。店内はとてもきれい。きれいなトイレで用を足す。

待ち合わせしていた入口に戻るとすでにお迎えの車が来ていた。車の中には日本人女性が3人ほど。いずれも20代半ばから後半。みな診療所で働いているという。もっとも働いていると言ってもボランティアに近く、みな同じ家に住んでいるらしい。運転手は診療所で雇っている現地の人で、彼が朝はスタッフを拾って診療所まで運んでいるらしい。

聞くとこの診療所は大阪だったかの病院が始めた診療所で、低所得者向けに非常に安い料金でマラリアのチェックやHIVのチェックをやっているらしい。

ヤヤセンターから20分足らずで診療所に到着。概観はあまり病院という感じではなく、邸宅をちょっと改造して使っているよう。

すでに何人かの患者が来ていて診察を待っている。スタッフは日本人だけでなく、当然ながら現地の人もいた。ぼくらは問診票に名前などを記入し、身長、体重をはかり、あとは呼ばれるのを待つ。20人ほどが座れる待合室はすぐにいっぱいとなる。小さい子どもを連れたおかあさんや年配(といっても50代だろうが)の男性など、みな静かに待っている。

30分ほど待ったところで呼ばれる。2階にあがり、ケニア人の男性の医者(?)に簡単な質問をされ、採血をする。指の腹をパチンと刺すようなスタイルの道具で採血。ホッチキスのような音がした。採血するだけなので作業は1秒でおしまい。あとは結果が出るのを待つ。

待合室に戻り、そこで待つ。患者は切れることなく訪れる。聞いた話では正確な数字を忘れたがけっこうな割合でここに来ている人はHIVに感染しているらしい。どこが悪いわけでもないぼくは待合室のスペースを使っているのが申し訳なくなり、外に出る。

1時間ほど待った頃、結果が通知される。自覚症状がないから当然だが結果はシロ。マラリアにはやられていなかったよう。昼になったら車で送ってくれるというので、しばらく待つ。

待っている間、外でボランティアの日本人の人たちと話す。当然だが、みな日本で看護師をしていたらしい。国際協力に関心があってとか、たまたまここのことを知ってとかという理由でやってきたらしい。昼近くになったが、なかなか運転手が出てこない。中をのぞいてみるとなぜかスタッフがいなくなっている。患者はいるのに。

何が起こったのかと彼女らに尋ねると、明日がスタッフの契約更改の日らしく、所長さんとスタッフらが話し合いをしているらしい。患者をほっといてよくそんなことをするなぁ、とちょっと驚く。聞くとスタッフの中にもさまざまな性格の人がいて、まじめに指示通りやる人もいれば、指示を守らないとか患者への態度が横柄とか問題がある人もいるらしい。一応、注意はするようだが、改善されない人はこうした機会に解雇となるらしい。これを巡っては毎回すったもんだがあるらしい。いやぁ、雇うのは簡単だけど解雇するのは大変そうだなぁ。

スタッフたちの話し合いが終わるまで彼女らも時間があるようで、彼女らに誘われて焼きとうもろこしを買いに行く。診療所の道路を挟んで向こう側の歩道でとうもろこしを焼いている女性がいて、彼女らはよくそこで焼きとうもろこしを買うらしい。ここではとうもろこしのことをマイズと呼ぶらしい。確かスペイン語ではマイスだったような。だいたい南アメリカ原産だからその辺りで呼ばれていた名前がこうして受け継がれているのだろう。

焼きトウモロコシ屋の女性は炭火の上に焼き網を置き、その上に直にとうもろこしを置いて焼く。なので、けっこう表面は焦げてしまっている。ぼくは小さいサイズのものを買う。お値段10ケニアシリング(約15円)。南米とかでもそうだったが、とうもろこしは甘くない。日本のとうもろこしは甘みのある間食用のおやつや料理の付けたしのような存在だが、こちらのはいかにも主食という味。取り立てて甘みがあったり、何か特徴ある味がするわけではなく、もくもくと食べ続けられ、かつ他のものと一緒に食べたくなるような味。

診療所の駐車場で5人ほどでもぐもぐとうもろこしを食べる。

そのうちに会議が終わり、運転手も登場。どこまで送りますかと聞かれ、A君が日本食を食べたいと言っていたから日本食屋まで行ってくださいと頼む。ガイドブックにも載っている日本人倶楽部という日本食屋があって、そこはここから近いからとそこに行くことにする。

車に乗ること10分ほど。住宅街と言えばそうなのだが、なんでこんなところにというようなところに店はあった。別れ際、今晩彼女らが住んでいる家(つまりは診療所のボランティアスタッフらが共同生活している家)でパーティをやるので来ないかと誘われる。うまいものを食えるとなれば行かない手はないわけでして、即座に行きますと回答する。詳しくはまた電話でということになる。

日本人倶楽部の店はなかなか立派な豪邸みたいな建物だった。中に入ると純和風の店内になっている。日本の雑誌や漫画が本棚にあって、座敷もある。まだ開店時間になったばかりということでか、客はいない。スタッフもいない。呼びかけるが人が出てこない。なんだ? やってないのか? などと思っていたら調理人姿のケニア人男性が出てきた。せっかくなので奥の座敷に行く。奥の座敷はテラスのようになっていて、窓がなく庭が広く見渡せるなかなか気持ちのいい空間になっている。こんなに広々とした空間でゆったりするのは久しぶりだとA君は喜ぶ。そう言われると確かにそうだ。だいたい泊まる宿は狭いところが多いし、人が多いし、どこにいても自分の持ち物とか周りの人の動きとかを気にしているので、何も気にせずゆたっとする機会なんてほとんどない。

日本語に写真入のメニューがお茶と一緒に出てくる。スタッフはみな現地の人らしく、日本人はいない。ここに来る前に噂でここはメニューは100近くあるが、そのうち食えるものは5つくらいしかないということだった。要するにほとんどの料理がまずいとのことだった。なので、メニュー選びは慎重に。値段は日本と同程度よりやや高いくらい。まぁ、連れもいるし滅多にすることじゃないからと奮発することを決める。ぼくはちらし寿司ともりそばを注文。彼はカツ丼などを注文する。

料理が来るまでしばし談笑したりしながら待つ。

30分ほど待っただろうか、まずはもりそばが出てくる。さっそくいただく。う~ん、なんだか立ち食いそば屋的な味。そばの味はたいしてしないし、汁もなんだか甘すぎるように感じる。さて、数分後、ちらし寿司到着。見た目はけっこう様(さま)になっていたが、口に入れてびっくり。まったく米が炊けていない。芯のこりまくり。いったいどうしたらこんな米が炊けるんだ!思うにスタッフが男ばかりというのが心もとない。ぜったいあいつら普段米を炊いたりしたことがないはず! とぼくは断定する。結局、噂に違わぬ味で、しかも代金は結局2500円ほど払うことになる。話のネタにはなるけど、二度とこないだろうな。

送信者 kenya


送信者 kenya




食後、近くの通りまで歩き、A君が日本大使館に行きたいというので一緒に行く。彼はなんだか気になることがあったようで、再び医務官にお世話になる。

それからまたワゴンタイプのバスに乗り、まちへ。いったん宿に戻る。ぼくは公衆電話で今日あった人に電話し、夜の件について尋ねる。無事、訪問OKの許可が出たようで夕方6時くらいに来るように言われる。一応、道順も教えてもらい、準備完了。

まだ少し時間があったので、今晩ごちそうになる御礼にと差し入れ品を買いにまちに行く。何がいいだろうかと考えたところ、まちのスーパーに売っていたボンボンというアルゼンチンで有名なチョコ菓子にしようということになる。そういうわけで、近くのスーパーに行ったのだが、夕方という時間帯もあり、店内は人でごった返している。目的の品はあったもののばら売りだけ。箱で売っていないかと尋ねたが在庫がなかった。

それで、また別のスーパーを探しに行く。いくつかのスーパーにはそもそもものがなく、何軒目かに着いたスーパーでようやく箱で売っているのを見つけた。待ち合わせの18時が近くなっていたのであせる。レジに並んでいよいよ購入という段になって問題発生。レジのおにいさんは箱をぐるぐる回してバーコードを探している様子。しかし、どうも箱自体にはバーコードが付いていないようで見つからない。そんなんなら、売り場に1個辺りの単価が書かれてあるんだからそれに個数を乗じて計算すればいいじゃない、と思うのだが、そうできない理由があるのかなんなのか一向に埒が明かない。一度、レジを離れ、おにいさんはどっかに行く。そして戻ってきてレジ再開。で、ようやくレジを通過した。 

と思ったら、今度は警備員のにいちゃんがぼくが買ったチョコ菓子の箱をまるごと持っていく。ハ? なんで持っていかれたかわけがわからずレジのおにいさんを見つめるが次の人に取り掛かっていて、こちらにはまったく気が向いていない。こっちは急いでいるのに、くそっ! と思い、また店内に戻って1箱取ってくる。さっき買ったときのレシートがあったから、それをかるく見せる仕草をしながらレジで並んでいる人の脇を通過。ようやく店の外に出る。

それからちょっと急ぎ足で近くの郵便局前のバス停留所に行く。そしたらまたもや問題発生。なんとバスに乗れない! 外から見る限りではまだまだ乗れそうなのに、目の前を通り過ぎていく。またもや、なんで? と頭の中にクエスションマークがあふれる。何段かバスを見送っているうちにどうも座席が埋まるとあとは客を乗せないらしいことがわかる。つまり、通路などが空いていても人を乗せていないのだった。20分近くバスを待っていたが、一向に乗れそうにないのでバスの出発点になっているバス乗り場まで移動する。急ぎ足で10分ほど。

ここも帰宅ラッシュの人々でごった返していて、バスはすぐにいっぱいになり、ドアを閉めて走り出してしまう。5台ほど見送った頃になって、ようやく乗れそうなバスが来たのでそれに2人して乗り込む。まったくバスに乗るのにどんだけ苦労しないといけないんだ。だいたい待っている乗客がいながら満杯にさせずにバスを走らせるなんてアフリカらしくないぞ! 治安とか窃盗対策とかという面もあるのかもしれないが、これにはほんとにまいった。

結局、バスに乗り込んだ頃には日が暮れてしまっていた。当然、遅刻決定。

さて、なんとか電話で言われたあたりでバスを降りたのだが、あたりは暗く、明かりといえば走り行く車のライトかたまにあるお店の明かりくらいしかない。どっち方面に行けばいいのかよくわからないので、とりあえず公衆電話を探す。が、そもそも商店がないから電話もない。近くにたまたまレストランがあったので、そこに行って電話を借りようとするが拒否される。しょうがないので、レストランの入口で駐車場への案内兼警備をやっている男性に携帯電話を借りる。ありがたや。

電話はつながり、ここまで迎えに来てくれることとなった。昼のちと古めのバンではなく、日本車でのお迎え。日本車は、というか、やっぱ新しい車は乗り心地がいいね。

レストランからパーティ会場の彼らのマンションまでは車で2分ほどだった。エレベーターで何階かにあがり、お宅にお邪魔する。中に入ると同世代くらいの日本人が10人ほどいて、にぎやか。ぼくはこんなにたくさんの日本人をまとめてみるのはかなり久しぶり。

診療所のスタッフらはここにみんな寝泊りしているらしい。診療所のスタッフでない人もいるようで、ある人はナイロビのスラム街の支援をしているヨーロッパのNGOにインターンしているといい、ある人はナイロビの大学に通っているという。ここは何LDKか正確にはわからないが、けっこう広い。けれども人数分の個室まではないから、ほとんど雑魚寝のような生活をしている人もいる。本棚にはたくさんの日本の本。すばらしい。

ちょうど食事の準備が出来上がりつつあるところで、食器の準備などを手伝う。準備が整ったところで、みな席につき、パーティ開幕。最初に今日のパーティの趣旨の説明がある。それによれば、今日のパーティはヨーロッパかどっかの財団に助成金を申請したところその結果の通知が先日あり、無事に助成金を受けることが決まったことを祝うパーティだった。めでたい。

それから各自自己紹介。そしたらどうも宮崎弁をしゃべっているらしい人が2人いる。で、聞いたらやはり宮崎出身者。しかも一人はぼくの中学の同級生と一時共同生活をしていたと言う。ぼくが宮崎の延岡出身だと言うと「じゃあ○○って知っている?」と同級生の名前を言ったので驚く。一応、そいつの特徴等を確認し、同一人物と判明。いやぁ、こんなことってあるんですねぇ。

ご飯もみなさんの手作りで、純和食ではないけれども、やはり日本的な味。昼の日本料理屋よりもよっぽどうまい。

22時くらいまで飯食ったり、おしゃべりして辞去する。帰りは宿まで送ってもらう。やはり大勢の日本人と一緒にいると、なんだかいつもとは違う感覚の1日になる。言葉がわかるというのはすごいことだ。

FIN

2009年7月16日木曜日

[diary]エチオピアビザをゲット、ナイロビの中心街

エチオピアビザをゲット、ナイロビの中心街

08/09/29(月) 晴れ
[Nailobi:Kenya]
※レート:1米ドル=70~73ケニアシリング

・エチオピアビザをゲット
・日本大使館
・ナイロビの中心街
・マラリアチェックの予約

朝はけっこう涼しかった。半そでではちょっと肌寒いくらい。ここの宿は朝のチャイは無料でつくので、ロビーのソファーに腰をおろし、チャイができるのを待つ。スタッフの男性は、ロビーの角っこにある小さなガスコンロを使ってお湯を沸かし、そのお湯を使ってチャイを用意してくれる。ぼくは昨日買ってきたチャパティとカンパラからの道中で買った蜂蜜を出してきて、それで朝飯とする。蜂蜜は蜂が数匹そのまま入っていた。他の人にも味見をすすめるとみなうまいと言う。

情報ノートでエチオピアのビザ情報を確認。その間にも同宿の日本人旅行者が集まってきて一緒にチャイを飲みながらしばし談笑。一人はすでにエチオピアのビザを入手したというので、そのときの話を聞く。けっこう簡単に取れるらしい。もう一人の人はエチオピアに行ってきたところらしく、エチオピア話を聞かせてもらう。噂ではエチオピアは、もう少し正確に言えばエチオピアの観光地の人は、かなり口が悪いと聞いていた。「Fuck」といった言葉を平気で旅行者に言ってくるらしい。実際その人もエチオピアの観光地でそうしたことを言われたらしい。

エチオピア大使館が開く時間に合わせて宿を出る。歩いてもそう遠くないようだったので歩いて行く。Latema通りを南西に歩き、Moiアベニューを越えて、Kenyattaアベニューを西へと行く。朝の通勤時間ということでバスの行き来が多く、通りを早足で歩いている人も多い。セントラルパークを右に、ウフルパークを左に見ながらきれいに整備された歩道をまっすぐに歩いていく。しばらくすると上り坂になる。ここをちょっとのぼっていったところを右に曲がる。そろそろ大使館を示す看板があってもいい頃なんだけど、とちょっと不安になりながらもきょろきょろしながら歩く。宿で行き方のルートは聞いてきたのだが、若干違っていた。さらにもう1回右に曲がって左のカーブを歩いていったら左手にエチオピア大使館があった。入り口は鉄の頑丈な壁のような扉で仕切られていて、ブザーを押すと警備員の人が歩行者用入口となっているドアを開けてくれる。ビザを取りに来たというとまだちょっと時間があるから待てと言う。

10分ほど待った頃、中からオッケーが出る。まずは入ってすぐ左手にあった警備員の詰め所で訪問者名簿みたいなものに名前、パスポート番号、訪問目的などを記入する。それから促されて大使館の建物の中へ。

早く出てきた甲斐があって、ぼくが一番乗りだった。窓口の男性にビザを取りに来たと伝えると申請用紙をくれる。それをソファなどがコーナーで記入。テーブルにはエチオピアの公用語であるアムハラ語の新聞があって、なるほどエチオピアはこれまでのアフリカの国とはまったく違う文字、言葉を使う国なんだなと改めて感じる。証明写真やパスポートのコピー、パスポート原本などとともに申請書を提出。窓口の男性は記入をざっとチェックしてから、午後の2時ごろにできるからその頃になったらビザ代金を持って取りに来いと言う。

とりあえず申請は終わり。受け取りまで少し時間があるので、日本大使館にマラリアチェックのことを聞きに行く。日本大使館までも徒歩。ガイドブックの地図と住所などを参考に曲がりくねった坂道を歩く。この辺りは病院や事務所の入った近代的なビルなどが集まっていて、宿周辺とはまた違う雰囲気。車は盛んに通るが歩いている人や自転車の人はほとんどいない。

きょろきょろしながら歩いて周る。ビル街に出たところでビルの警備をしている人に日本大使館の位置を尋ねる。こうして何人かに尋ねながらなんとか日本大使館に到着。来て見てびっくり。かなり立派な建物だった。

送信者 kenya


入口にはガラス張りの受付窓口があり、そこでまずどういう用件で来たのかを伝える。スタッフは日本語は解さないので英語でのやりとり。入口は2つあり、ひとつは領事関係や相談事用の入口でこちらはそれ用の建物へと続いている。もうひとつは日本に関する情報を得るためのセンターに入るための入口で、たとえば日本人であれば日本語の新聞や雑誌を閲覧したいとか、現地の人であれば留学情報などを入手したいといった人はこちらの入口を使う。


まずは用件を伝え、警備室に入り、荷物のチェックを受ける。そして、携帯電話やデジカメの類は中に持ち込めないため、係官に預けることになる。預けると番号札をくれる。また訪問者であることを示す名札のようなものをもらってから中に入る。

中に入るとまた受付窓口があり、こちらは日本語での対応となる。マラリアチェックについて相談したいと言うと、大使館にいる医務官が出てきて医務室に連れて行かれる。そこは本当に病院の診察室みたいなところでガラス棚には日本で見慣れた薬などが並んでいる。医務官は見たところ50代後半くらいの男性。マラリアチェックについて相談すると、これまでの旅行の経路などを聞かれ、さらにそういう旅行をして何か本を書いたりするつもりなのか、などと聞かれる。さらにナイロビでどこに滞在しているのかと聞かれたので、泊まっている宿の名前を伝えたが知らなかった。多くの日本人旅行者が泊まっている宿の名前を知らないとはとちょっと驚く。宿の位置も聞かれたので正直に伝えると、「なんだスラム街じゃないか!」と言う。この反応にはもっと驚く。加えて医務官は、自分たちはあんなところには1年に1度も行かないとも言う。ぼくから見れば宿のまわりには商店やホテルやバス乗り場があって、スラム街という言葉で想像するような家々は辺りにはまったくないきっちりとした街なんだから、その言い方はまったく現実と合っていないと思うのだが、きっとここに住んでいる日本人の人はそのような感覚なのかもしれないと思う。

マラリアチェックについては、基本的に自覚症状がなければ検査しても意味がないと言われる。ぼくは検査すればマラリア原虫がいるかどうかわかるのだろうと思っていたが、そうではないらしい。しかし、これからもしばらく旅行が続くし、この先で発症してもらっては困るので念のためチェックしたいと言うと、ナイロビの信頼できる病院の医師を教えてくれる。さらに、いいところを紹介してやろうと、日本人医師らが地元の低所得者向けにやっている診療所を紹介してくれる。加えて時間があるならその診療所まで連れて行こうかとありがたい申し出をいただいたのだが、あいにくエチオピア大使館にビザを取りに行かねばならないため残念ながら断る。

診療所を主宰している日本人医師の連絡先を教えてもらい、医務官と別れる。エチオピア大使館に行く時間まで少し間があったので、大使館に併設されている資料センター(正式な名称は忘れた)にも行ってみる。治安対策なのだろうが、面倒なことに医務室がある建物と文化センターの建物は通路みたいなもので区切られているからほいほいと移動できない。いったん外に出て向こう側に入るための入口から入りなおさなければいけない。そういうわけでいったん預けていたカメラなどを受け取り、外に出て、またもうひとつの入口から入りなおす。

センターは比較的小規模だったが、本棚やインターネットコーナーなどがある。日本の新聞や『AERA』などの雑誌のほか、日本語の本が並ぶ。漫画本もあり。こうして日本の新聞や雑誌などを見ていると、なんだか本当に違う世界なんだなと思う。現地の新聞を読んだりしていないからそういうものと比較して、というわけではないが、新聞などで取り上げられている問題が特殊日本的(あるいは先進国的)なもののように感じる。全世界の人口比率で言えば、そのことで困っている人は極小なのかもしれず、もっと多くの人は別の共通の問題で困っているのだろうと思うのだが、かといって日本的な問題がたいした問題ではないとは言えず、そのことによって究極的に言えば自殺にまで追い込まれたりするのだからこれまた大変な問題であることには変わりない。もしある問題の解決を左右するものが情報の多寡如何だとすれば、少なくとも日本の人たちは他のいわゆる発展途上国と呼ばれる国々に暮らす人々よりもより多くの情報を入手できる環境にあるわけだから、そのぶんさまざまな対応策を考えることができ、いろんな問題もちょっとは解決できそうなものだが、そうできていないように思えるのは、もっと他の要因があるということなのだろう、と当たり前のことをぐるぐる考えたりする。

適当に時間を見計らって、また歩いてエチオピア大使館に向かう。入口の警備員の人は覚えていたようで、顔を見ただけで中にすんなり入れてくれた。

すでにビザは出来上がっており、ビザ代1660ケニアシリング(約2600円)を払う。米ドルでも可だったが、ケニアシリングで払ったほうがレートの関係で若干安くなったのでケニアシリングで払った。

これで一応、ナイロビでしなくてはいけない手続きの類は終了。歩いて中心部に戻る。

まちの中心部を見て回る前に郵便局で切手を購入。日本行きのはがき用切手の値段は1枚95ケニアシリング(約150円)。けっこう高い。この郵便局はヨーロッパの古い建物風でなかなか風格があり、中も広くて立派。ただし若干暗い。

それから中心街を歩いて回る。本屋や道端の雑誌屋があり、ある一角は電化製品屋街になっている。パソコンや携帯電話、デジタルオーディオプレーヤーなど、日本のものからすればちょっと古いタイプのものが多いが、全部あわせればそこそこの品揃えになる。

本屋は見つけた限りで2店舗あった。どちらも個人営業の小中規模の店。基本的に英語の本が多く、スワヒリ語の本もけっこうある。絵葉書を売っていたので、あれこれと物色して絵葉書を購入。あと"Asian Godfather"というタイトルの英語の本があったので買う。輸入物だからしょうがないけど、やっぱり本はそれなりに高く、1200ケニアシリング(約1900円)もした。はてさていつ読むのやら。

送信者 kenya


送信者 kenya


中心部にはシティマーケットがあるとガイドブックの地図にあったので、そこに行ってみる。こちらは屋内型のマーケットで昨日行ったマーケットと比べると店数はもちろん、それぞれの店に陳列されている物の量も少ない。つまりは迫力がない。客も少ない。基本的にはマーケットに併設された安食堂が目当てだったのだが、予想通りの店が併設されていた。お昼時はちょっとずれたけれども、けっこう賑わっている。食堂街はマーケットに隣り合ってはいるが、別個にそれぞれ店舗を構えていて、そこだけは道が悪く、また水溜りや調理くずのようなものがところどころに落ちていてやや汚い。

食堂街といっても食堂は6店舗ほどしかなく、どこにしようか迷う。メニューも似たようなものだった。店の入口横で肉やチャパティを焼いたりしている人が、呼び込みの声をかけてくる。2~3度それぞれの店の前を往復してどうしようかと考えてから、ある店に入り、ビリアニを注文。平皿に長粒米の炒めご飯と湯がいただけらしい野菜サラダ、それに羊の肉をトマトと一緒に炒めたものが乗っかって70ケニアシリング(約110円)。なかなか安い。量はたいして多くない。

送信者 kenya


そこそこ腹が膨れたが、すぐ近くの店で人がまたずいぶん入っている店があったので、気になり行ってみる。そこはフルーツ専門の店のようで、フルーツの盛り合わせなどを出している。席が空いたところへぼくも座り、他の人のを見ながら適当に注文。すぐにスイカ、パパイヤ、バナナ、バナナ、ビーツ(砂糖大根)?、アボガドが豪快に盛られたお皿が出てくる。これがお値段50ケニアシリング(約80円)。食後のデザートには最適。そんなだから客の回転も早く、次から次へと注文が入っている。

送信者 kenya


それからしばらく街中を歩き回る。モスクがあったり、4階建てほどのショッピングセンターがあったり、10階以上はあるオフィスビルがあったり、とにかくナイロビは都会だ。ビルの壁にはコカコーラのでかい看板があったりする。それからチェーン方式のスーパーマーケットが数軒ある。学校帰りらしい制服を着た中学生くらいの男の子たちがゲームソフトを売っている店の前で立ち止まり、ガラス越しに陳列されているゲームソフトを見てあれこれとしゃべりあっている。

送信者 kenya


送信者 kenya


あちこち見てて思うが、スーパーマーケットがあるかどうかは、その国の経済のあるひとつの性格を物語っているように思う。それは簡単に言えば、例えば外資が入っているとかということになるのだが、もっと大きく言えばその地の社会のあり方の状況を表しているようにも感じる。具体的にはスーパーではぼったくられる心配もないが、値引き交渉もできない。要するに機械的になっている。システマチックになっていて融通が利かない。そうした領域がその社会にある部分を占めているのだということがスーパーの有無によってわかる。そうした点で言えば、日本はスーパー的なものが社会のありとあらゆる部分に浸透していて、そのお陰で省かれている手間も多々あるものの、他の国ではなんでもない当たり前の適当さがだんだんとなくなっており、そのことが人々のアタマから適当である自由を失わせているように思う。

閑話休題。

まちをぶらつきながら、両替屋や銀行を見つけたらレートをチェック。それからネット屋があったのでネットをする。ここもOSがLinuxだった。スピードはそこそこ。それからショッピングセンターに立ち寄る。エスカレーターで一番上まであがる。ファストフード店やスポーツ用品店、電化製品店、洋服屋などがあったが、夕方前という時間帯のせいか客はほとんどいない。でも、建物は立派。

ところで、ぼくはアップルマンゴーが食べたかった。さっき食堂に行く前にぶらついたシティマーケットにアップルマンゴーが売っていたが、季節はずれということもありちと高かったのでパスした。が、こうして歩きながら考えていると、この機会を逃すと一生食わないかもしれないと深刻に思うようになり、ならば今食べようではないかと頭を切り替える。

そういうわけでシティマーケットに戻り、店じまいの準備をしていた果物屋でアップルマンゴーを買う。店のにいちゃんは何kgいるかと聞いてくる。いやぁ1個でいいんだけど、意外と物が小さいし、にいちゃんはkg単位で売りたいようなので、1kgと頼む。1kgで小さいの3玉ほど。お値段200ケニアシリング(約300円)。3食分の予算だからかなり奮発した。

それから商店で5リットル入りの水(約165ケニアシリング≒260円)を買って帰る。宿に戻る途中、今日、日本大使館で紹介してくれた診療所の人に電話してみる。マラリアチェックの件を伝えると、すでに聞いているといってすんなりと話がすすむ。診療所は大使館と同じ方面にあるらしいが、住宅街みたいなところにあるためわかりにくいらしい。そこで近くまで来てくれれば迎えに来てくれるというので、待ち合わせの時間、場所を決めて電話を切る。

ちなみに電話は店先にある公衆電話を使用。日本のような電話ボックスタイプではなく、お菓子などを売っている商店の店先に公衆電話が置かれているので、店主に言って使う。電話を切ったら店主に代金を聞き支払いという手順になる。

宿に帰ると昨日マーケットに一緒に行ったA君がいたのでちょっと早い時間帯だったが、2人で晩飯を食いに行く。彼おすすめの店はすでに閉まっていたので、適当に他の店を選び入る。ぼくが頼んだのは肉のプレート70ケニアシリング(約110円)、それからライス50ケニアシリング(約80円)。肉のプレートは本当に細切れにした肉を炒めたものとキャベツ炒めだけで他に何もない。ご飯は白ご飯でけっこう大盛り。まぁまぁアフリカの他のまちで食べたことのあるような味だった。

送信者 kenya


しかし、なんだかあまりにも簡単な料理過ぎて食べた気にならなかったので、もう一軒行く。ピラウがあったのでそれを頼む。名前から想像がつくようにピラフのような料理。付け合せに黒豆の湯がいたやつやちょっと塩気が足りないスープが出る。

送信者 kenya


さて、宿に帰ったら同じ部屋に泊まっているという日本人おじさんがいた。おじさんはナイロビにはもう半年近くいるそうで、しかも毎晩のように飲み歩いているらしい。おじさんはぬるいけど50円くらいで飲める飲み屋があるから行かないかと誘ってくださる。なので、2人でその話にのる。

歩いて1分くらいのビルの中にその飲み屋はあるらしく。カンカンと金属音をたてながら階段を上っていくと小便くさいにおいがする。それもそのはず階段をあがったところに便所があった。2階は4人がけくらいのテーブルがあちこちに並べられていて、お客もそこそこいる。ぼくは基本的にビールは飲まないのだが、ぬるくて安いというのにつられ頼む。

おじさんが言うには、ここに飲みに来ている人の中には盗人家業をしている人やそうした人の情報を警察に売って稼いでいる人、日本で言う極道みたいな人、それから性稼業の人までいろんな人がいるらしい。なんでそんなことを知っているのかと尋ねると、以前ここで飲んでいたときに声をかけてきた現地の人が、あいつは●○だなどといって教えてくれたかららしい。

店内には音楽が大音量の1つ手前くらいの音量で流れていて、話すには顔を近づけないと声が聞こえない。そんな中、おじさんと一緒に来たA君としばらくおしゃべり。1時間ちょっとくらいいて、引き上げる。

あとは宿で過ごす。

FIN

2009年7月4日土曜日

[diary]ナイロビのマーケット、半日ぶらり

ナイロビのマーケット、半日ぶらり

08/09/28(日) 晴れ
[Nailobi:Kenya]
※レート:1米ドル=70~73ケニアシリング

・エチオピア行きバスを探して
・カリアコー、ブコンバマーケットで買い物

7時過ぎに起床。部屋は空気がこもり、ややぬくい。蚊も多かったが、備え付けの蚊帳のおかげで刺されることはなかった。が、おそらくタンザニアのムワンザからルワンダ国境のルスモに行くとき乗ったバスで虫に刺されたらしく、足首やわき腹あたりがかゆい。噛まれた跡もある。

宿では朝はチャイが用意される。宿の情報ノートを見ながらチャイができるのを待つ。同宿の日本人旅行者と話すと、彼もこれからエチオピアに行くという。ビザは既に取得済みで今日はエチオピア行きのバス乗り場を探しに行くというので、自分も一緒に行くことにする。

出かける前にチャイを2杯ほど飲み、彼とこれまでの旅行話を少し。タンザニアからのルートはぼくとほぼ同じで、モシからムワンザのバスがひどかったという話やルワンダがよかったという話などもろもろする。またナイロビの治安について話をふったら、彼がここに到着する1週間前に宿から100mくらいのスーパーに強盗がはいって警察官と撃ち合いになって泥棒が射殺されたことがあったとか、彼がこの宿に泊まって2日目に宿の隣のイスラム系服屋さんに強盗が入り、発砲して逃走していく事件が発生したらしい。それぞれ起こったのは昼の11時ごろだとか。さすがアフリカ三大危険都市(他は南アフリカのジョハネスバーグ、ナイジェリアのアブジャ)の1つだ。

ちなみに『地球の歩き方 東アフリカ 08~09』のナイロビ欄にはページ上部に次のようなことが書かれている。「2007年、12月末の大統領選挙の結果をめぐり民族対立が激化し、暴動や虐殺事件が起きた。十分注意して行動するようにしてください。(2008年2月現在)」(p188)。さらに「とにかくナイロビでは、用事もないのに出歩くことは絶対避けてほしい。」といったことや「ダウンタウンへは決して行ってはいけない」「ダウンタウンには生活の手段を持たない人も住んでいるため、非常に危険をともなう。特に旅行者は誰ひとり歩いていない。いつ、どこで強盗、殺人事件が起こっても、まったく不思議ではない。」などと書かれてある。そのダウンタウンに宿を取っている我々は、やっぱり何か起きたときには自己責任論で散々非難されるんだろうな、なんて思ったりする。

9時頃、宿を出て、まずはATMでカネをおろす。さすがにナイロビ。ATMで苦労することはない。

それから9番のバスに乗り、情報ノートにあったエチオピア行きのバスが出ているという地区へ移動。バスは紫色など原色の色に有名人らしい人たちのペイントなどがされていてけばけばしい。車内では大音量で音楽がかけられていて、隣の人としゃべるにも声を大きくしないといけない。車体自体はそれほどおんぼろではなかった。運賃は25ケニアシリング(約30円)。運転手は盛んにクラクションをならし、客の呼び込み担当は入り口のステップに立って、行き先を連呼しながら客をつかまえる。

道は渋滞していてなかなか先に進まない。1時間ほどでようやく目的地に到着。混んでいなければ20分くらいの距離だった。

バスを降りてから情報ノートに書いてあった情報を元にエチオピア行きのバス乗り場を探す。バスが走る通り沿いには露店がいろいろ出ていてパイナップルやパパイヤの切り身売りの人から服や靴下を売る人、ネクタイ、ベルトなどを売る人などいろいろ。

辺りをきょろきょろしながら情報に合致する看板を探していたら発見。工事用の壁にやや隠れて、その看板があった。舗装されていない石だらけの道を歩く。この通り沿いにも商店が並んでいる。それらしきものは見当たらない。もうひとつ向こうの通りかと横切る道路をひとつ渡ってまだまっすぐ行くとそれらしきトラックとバスが路上に止まっていた。バス会社のものらしい看板もある。それにしてもなんでこんなところからなのだろう。駐車場も何もなく、路上にバスやトラックを止め、そこから客が乗るようなスタイルになっている。近くで立ち話をしていた男の人らに近づき、エチオピアに行きたいんだけどと聞くと、あっちの人に聞けと教えてくれる。そちらに行って同じ事を言うと、1人の人が携帯電話を取り出し電話をかけ、ここでしばらく待てと言う。

しばらく待っていると携帯電話を手に持った男が現れる。彼にエチオピアとの国境のまちに行きたいのだがと告げ、バスの頻度と運賃を尋ねる。バスは週に3本くらいしかなかったが、トラックは毎日午後発があるという。運賃は2000シリング(約3000円)だと言う。予約をするかと聞かれたが、予約金を払わないといけないようなのでやめ、とりあえずは情報を入手しただけでここを去る。

来た道を戻ってバスが通る通りに出る。朝飯を食っていなかったのでバスを待っている間に道端のキャッサバ焼きとパイナップル4分の1かけを買って歩き食いする。それぞれ値段は20シリング(約30円)。

乗ってきたものと同じバスに乗り込み、市街地を目指す。帰りもやや渋滞。

途中、市場の近くを通りがかったので、予定を変更して市場に行くことにする。A君も一緒にバスをおり、カリアコーマーケットを見て回る。ぼくとしては冬の中央アジアに備えて冬用のジャケットが欲しかった。ナイロビのマーケットにはいわゆる先進国からの援助物資である中古服が出回っており、けっこうしっかりしたジャケットを安く買うことができると聞いていた。なので、こうして市場に来てみたのだが、カリアコーマーケットには革ジャンはいくらでもあるものの、いわゆるスキーや登山でも使えるようなジャケットは売ってなかった。市場内にはなめされた革があり、それを使って縫製作業をしている人たちもいた。

歩いていたら店のおじさんが何を探しているのかと話しかけてくる。なのでジャケットを探していると言うと革のジャケットをあれこれと薦めてくるが、にこやかに却下する。

ここが一番大きなマーケットだと思っていたぼくはけっこうしょぼいのにがっかり。青果物などはなく、もっぱら服や工具の類ばかり売っていて、日曜だからか閉店しているところも多い。しょうがないのでここで買うのはあきらめて、もう1つ大きいらしいギコンバマーケットというところに行くことにする。

持ってきたガイドブックの地図を見てギコンバマーケットの位置を確認。二人で歩いて行く。

15分ほど歩いたところで賑やかな通りに出る。露店が通りに並び、通りから入るとずっと奥まで店が並んでいる。中に入ってみると服が山のように盛られてあったり、所狭しと陳列されてあったり、とにかく量がすごい。服のほかにも靴や道具の類などもあったが、行ったところがたまたまそうだったのか服屋が延々と続いていた。道幅はすれ違うときには肩をよけないと通れないくらいの幅しかなく、路面は土。排水施設がないため水がたまっており、足元を気をつけないとぐちゃぐちゃになってしまう。

噂どおりよく見るブランド物の服や靴、ジャケットなどが売られていた。ここにはスキーや登山用品店においてあるようなしっかりした防寒服もあった。二人であれこれ物色。それぞれの目的の品を探す。

送信者 kenya


改めて防寒服を眺めるとやっぱり持ち運ぶには嵩張ることに気がつく。値段を聞いてみるとたいていが20~30米ドル程度。たしかに安いが、ここで買うにはちょっとまだ先が長い。というわけで冬物ジャケットはやめにして、長袖のシャツに目的を変更。持参していた長袖のシャツは袖を引っ掛けて破れたりして、地元の人にも新しいのを買えと言われるような状態になっていた。なのでここで奮発して新しいの(と言っても中古だが)を買うことにする。シャツばかり売っている店をまわり、山盛りになっている中からいいものを探す。これがけっこう大変。片っ端から服を広げ、サイズやポケットの有無などを確認する。30分ほどその作業をしていただろうか、2~3着買ってもいいようなものを発見した。長袖のシャツを2着と半そでシャツ1着、カッパ代わりにもなりそうなウィンドブレイカーを1着購入。シャツは1着20シリング(約30円)、ウィンドブレイカーは50シリング(約80円)だった。

A君もいろいろと発掘したようでいくつか服を買っていた。

マーケットはまだまだ奥深かったが、買い物で疲れたこともあり、もう街のほうへ戻ることにする。
適当に街の方向に向かって歩く。

送信者 kenya


途中、人が多いバスターミナルみたいなところに差し掛かる。バスターミナルの周りには青空食堂がいくつもあったので、そこで昼飯を食べることにする。店先には石炭あるいは木炭を使った七輪が並べられその上に鍋がかけられている。その鍋の中や周りで食べている人の皿をのぞいたりしながらどこにしようかと迷う。で、結局は話しかけてきた店で食べることにする。道端に置かれたケツが落ちそうな細いベンチに座り、ホーロー風の深皿に盛られた豆野菜スープを食す。基本はトマト味で小豆色の豆にたまねぎ、トマトなどが入り、一番上にはアボガドがどかっと盛られている。ご飯も頼んだつもりだったが、ご飯は出てこず。見た目はかなり適当だが、味はそれほど悪くない。2人とも完食。A君は意外にうまかったと言っていた。

送信者 kenya


ちょっと腹が膨れたところで、また歩いてまちへと向かう。そしたら今度は新品の服市場を発見。そしてその近くにチャパティ(厚手のクレープみたいなもの)とチャイ(ミルクティー)を出している屋台をいくつも見つける。さっきの食事だけではいまいち腹が膨れなかったので、2人してチャパティをつまむことにする。チャパティは1枚20シリング(約30円)、チャイは1杯15シリング(約25円)。チャイは例のように甘いがなんとなく落ち着く。

そして再び歩き始めたら今度は果物市場を発見。ぼくはアップルマンゴーが気になっていたのでアップルマンゴーがないか探す。マンゴーは西アフリカにいるときに散々食べたが、アップルマンゴーはまた味がぜんぜん違うと途中であった旅行者に聞いた。それならば食べてみねばならぬと思い、探すのだがあいにく今は旬ではないため市場のどの店にも置いていなかった。

その代わりではないが、ここの市場にはフルーツの屋台があり、地元の客でけっこうにぎわっていた。プラスチック製のお椀のような容器にパパイヤ、スイカ、バナナ、アボガドなどのフルーツが盛られ、1杯30シリング(約50円)。けっこうな値段だが、あれこれフルーツを食べられるということを考えれば安い。A君も気になるというので、ここで食後のデザートとする。やっぱり果物はうまい。

送信者 kenya


そこからまちに戻る途中にも道端に露店があり、あっちにふらりこっちにふらりしながら帰る。途中でぼくは石鹸1個(20シリング≒30円)と南京錠1個(100シリング≒160円)を買う。南京錠は意外に高い。

結局20分ほど歩いたら市街地に戻った。最初は宿の位置と現在地の位置関係がわからなかったが、そのうちわかるようになる。日曜日ということでか商店街は人がいっぱい。スーパーなどにも客がおおぜい詰め掛けている。店舗の数、建物の数、人々の服装からもナイロビはアフリカ有数の都市なのだということがわかる。

ぼくは宿に戻る前にネット屋へ。宿に近い5階建てのビルの中は、そのほとんどの店がネット屋になっていて、店によって多少値段が違う。適当に店に入って使ってみると、まずOSがWindowsでないのに驚く。何を使っているのかと思って確認したらLinuxだった。これにはけっこう感心したが、肝心の日本語の読み書きができなかったため、最初に入った店は30分で出る。店を変えて試してみると2件目の店は日本語の読み書きができた。利用料は1時間35シリング(約55円)。なかなか安い。2件目の店で1時間ほどネットをして、宿に戻る。

宿に戻る前にふと思い出し、あたりをふらつき近くの食堂でチャパティを4枚買ってかえる。チャパティ1枚35シリング(約55円)はけっこう高い。やっぱり街中価格ということだろうか?

チャパティを買って帰ったのは昨日買った蜂蜜を食べるため。さすがに蜂蜜だけをなめるのはきついのでチャパティにつけて食べることにした。蜂蜜を食べるのはかなり久しぶりだが、なかなかいい味をしている。同宿の人らにも味見をしてもらったが、評判よし。

夜は再び情報ノートを読んだり、本を読んだり、日本人旅行者とおしゃべりしたりして過ごす。

FIN

[diary]カンパラからナイロビへ移動

カンパラからナイロビへ移動

08/09/27(土) 晴れ
[Kampala:Uganda→Nailobi:Kenya]

・明朝カンパラ発
・手羽先屋
・道端の蜂蜜屋さん
・赤道を越えて
・出発危機一髪
・20時ごろナイロビ着
・おそるおそるナイロビの夜のまちへ

起きたのは4時過ぎ。携帯電話を目覚まし代わりにしていたのだが、携帯電話よりも早く目覚める。すでに荷造りはしてあったので、こそこそと部屋を出る。こういうときは相部屋だとほかの人に気を使わないといけないので、ちと面倒。

部屋には鍵も何もないから出て行くだけ。階段を下りて裏口のドアから出る。

バス会社の事務所はすぐそこ。あるいて30秒ほど。すでに客が20人くらい集まっていて、バスも通りに止まっていた。10分ほどしたところで乗車開始。荷物は荷台に預け、チケットのチェックを受けてから乗り込む。

バスはほぼ時間通りに5時過ぎに発車。真っ暗なカンパラのまちを走る。

5時30分を過ぎたころ、だんだんと外が明るくなり始める。それから10分もすると日の出が始まる。徐々にまわりの景色が白日の下にさらされ、色を持って立ち現れる。

沿道には家や商店が見え、その向こう側には林が続いている。家の中にはコンクリート作りもあれば板を張り合わせたような家もある。その向こうにはなだらかな丘や山が見える。でも、一面が緑というわけではなく、サバンナほどではないけれど、どちらかといえば薄い。作物の植わった広い畑もあり。たまにミニ市場のようなところがあり、そこでは山盛りにされたバナナやキャッサバ、トマト、パイナップルなどが売られている。

外の景色はころころ変わるが、基本的に緑が切れることはない。

6時半ごろ、沿道にあったミニ市場の前でバスは停まる。朝飯休憩のよう。乗客はそれぞれ降りて野菜や果物、飲み物を売っている店へと行く。バスの周りには乗客を当てにして、バナナや焼きバナナ、鶏の串焼きなどを売りに来た人たちが集まる。まだ先が長いから何も買わずにバスの中で出発を待とうと思っていたのも最初だけで、焼きバナナや鶏モモの串焼きの誘惑に克てず、バスを降りてそれらを買い求める。鶏モモは1本2000ウガンダシリング(約140円)、焼きバナナは3本で500ウガンダシリング(約35円)。バナナは安いなぁ。というわけで、それらを頬張りながらバスの出発を待つ。

送信者 kenya



意外と休憩時間は長く30分近くここにいた。車内にはさまざまな食べ物の匂いが立ち込める。

バスは順調に走り、途中、街中でもないところで中国式建築で造られた中華料理屋を沿道に見る。なんでこんなところに?

畑や田んぼ(?)、湖や林などに挟まれた道をバスは快調に走る。あるところでは若い男たちがサッカーの試合をやっていた。また日干し煉瓦で造られた草葺の家なども見る。

カンパラを5時過ぎに出てから約4時間後の9時すぎ、バスは国境に到着。なぜか国境のいったいは未舗装。貨物列車が積んでいるようなコンテナを積んだトラックが数珠つながりに並んでいて、その脇を人々が通っている。トラックに車、自転車、通過人と物売りの人、牛などがいて国境はなかなかにぎやか。

乗客はいったんバスを降りて、自分の荷物を持って出国手続きに向かう。窓口に多少行列ができたが、すんなりと通る。

100mほど歩いてケニア側のイミグレへ移動。そこで入国カードとビザの申請書を記入して提出。ケニアもビザ代は50米ドルで米ドル払い。けっこう高い。タンザニア以降、ビザ代50米ドル以上が続いている。

送信者 kenya


荷物のチェックはなく、質問もほとんどなく、すんなり判子をもらってケニア入国。で、自分のバスを探すがあたりにない。きょろきょろしていたら、通りすがりの人があっちのほうじゃないかと教えてくれる。一度、そちらに行ってみるがバスは見えない。他にも似たようなバスが何台も止まっていることもあり、どれが自分が乗ってきたバスがすぐに見つけることができない。あっち行ったりこっち行ったりして、ようやく発見。幸いなことにまだ乗客は集まっていなかった。

すべての乗客が集まるまでしばらく待つ。待っている間、残ったタンザニアシリングをケニアシリングに両替。ダンボールの箱に500mlのペットボトル飲料を入れて売り歩いている男の子がいたが、ケニアのお金は少ないので我慢。

同じバスにはもう一人日本人が乗っていた。20代半ばくらいの男子。ぼくはカンパラでバスに乗り込んだときから気づいていたが、相手はまったく気づいていなかったようで、ここで初めてしゃべる。彼もナイロビに行くらしい。しかもナイロビには一度行っていて、これから戻るところらしい。ナイロビの宿の在り処も知っているというので、じゃあナイロビで一緒に動きましょうということになる。正直なところナイロビの治安がどの程度が図りかねていたので、道連れができて少し安心する。どこでもそうだが暗くなってからの到着では宿探しが面倒。その点、知っている人となら少しは安心できる。

結局、国境を通過するのに1時間ほどかかる。バスは再出発。

ケニアに入ったからといって特に景色は変わらない。風に揺れる緑の畑、ツチ壁に草葺の円形の住宅、サッカーに興じる男たち、収穫した米(小麦?)を天日で乾かす人たち。車は休まずに走り続ける。
送信者 kenya


送信者 kenya


何時ごろだったか、沿道に看板を見る。ここが赤道直下、つまり緯度0度だと書いている。エクアドルのようにどでかいモニュメントを造ったりしている様子はない。これで赤道を越えるのは何回目なんだろうとふと思う。一度はエクアドルで超え、それからアルゼンチンからスペインへ行った飛行機で南から北へと行き、西アフリカを南下する過程でもう1度越え、そして今回。こうして数えると4回目ということになる。これ以降は南下する予定はないから赤道をまたぐのはこれが最後となりそう。

ここらに来て、沿道には蜂蜜屋さんが目立つようになる。パラソルを道路わきに立てて、ビン入りの蜂蜜を台に並べて売っている。ジンバブエでもムタレからハラレに行くときに同じようにして蜂蜜を売っている人たちがいたが、バスも止まったりしなかったからそのときは買えなかった。しかし、今回は運転手の友達なのか蜂蜜売りのおばちゃんがバスに乗り込んできて、車内販売を始めた。当然バスは移動し続けているからおばちゃんは帰りはどうするんだろうと不思議に思うのだが、まぁいい。蜂蜜が入っている瓶はウィスキーが入っていたと思われる瓶やジャムなどでよく使われる円筒形の瓶などいろいろ。どれもリユースのようだ。ぼくは運転席のすぐ後ろに座っていたのだが、一度は見送ったものの、やはりアフリカの蜂蜜を試したいという気持ちに克てず、車内を回り終えて前に戻ってきたおばちゃんに蜂蜜を見せてもらう。色具合は日本で見るものと違わない。どのサイズがいいかとしばらく迷い、最終的にはウィスキーの小瓶サイズのものを購入。お値段は100ケニアシリング(約150円)。宿に着いたらレモンを買ってきて蜂蜜レモンジュースでも作ろうかな、とか、ナンとかパンとかを買ってきてぜいたくに蜂蜜をかけて食べてみるかな、などと考えはじめる。楽しみが増える。

しばらくは都市部のようなところはまったく通らなかった。

16時を過ぎたころ、ちょっとした町に入り、そこのある小さな食堂前でバスは停車。昼食休憩はなかったので久しぶりの休憩となる。乗客の中には食堂で食事をはじめる。一緒に乗っていた日本人男子も「どれくらいここで止まっているのかなぁ」などと不安げにしながら食堂に入って食事を始める。ぼくは噂でここいらのバスの運転手は気まぐれで、休憩といっても自分の都合でバスをすぐ走らせたりすると聞いていたので、置いていかれるかもという疑念から外には出てもバスが見える範囲でうろうろする。

そして案の定、そのとおりとなり、バスのクラクションがなったのを聞きつけて慌てて口をもぐもぐさせながら日本人男子は食堂から出てくる。「まったくあいつら・・・」などと彼は文句を言いながらバスに乗り込んでくる。

明るいうちにナイロビに着いたらな、と淡い期待を持っていたのだが、やがて日が暮れ、19時をまわる。19時を過ぎたころから道路が込み合いだす。大きな湖がある町にバスは入って行き、そこの町のターミナルで停車。客を何人か降ろす。

再び走り始め30分ほどたったころ、いよいよ建物が立て込んできて、ビル街が遠くに見えるようになる。やっとナイロビに入った模様。

ビルが並び立ち、よく整備された通りを走る。街中に入ってからは地図を取り出し、地図と辺りの様子を見比べながら現在地確認に励む。宿の名前を頭でリフレインしながら“どこだ、どこだ?”と探していたら、やや狭い込み入った通りに入ってバスは停車。ここが終点だった。

バスを降り、荷物を受け取って、同じバスに乗ってきた日本人旅行者と一緒に宿に向かう。幸いすぐに見つかった。バスを降りたところから100mも離れていないようなところ。階段を上って宿に入る。中には数組の日本人旅行者がいた。

カップルで旅行しているらしい日本人カップルの女のほうは、ぼくを見るなり「なんや乞食みたいな格好してるな。よう似合っとるわ」とのたまう。旅行をしているとほんのたまにだが、こういう異常になれなれしいというか無礼な奴に出くわすことがある。日本人同士だからという気安さからなのか、それとも誰にでもこうした態度をとっているのかどうか知らんが、まったくもってなっていない。というわけで、そういう人は無視するに限るので無視。やれやれしょうもない日本人だ。

相部屋が空いていたのでそこにベッドをとり、荷物を置いて2人で飯を食いに行く。宿の周辺は商店が集まっていて、飲み屋もあったが、食堂は20時をまわっているからかどこも閉店しかけるところだった。そんなわけで選択肢は少なく、しかも入った食堂はメニューはもう2種類ほどしか残っておらず、結局ビーフシチュー&ウガリを食べる。量は少なめ。お値段120ケニアシリング(約200円)。ちょっと高い。

宿に戻ってから宿にある情報ノートを借り出し、情報収集。さっきのカップルはもう宿を出たようだったが、他に4人ほどこの宿には日本人が泊まっているよう。ほとんどが20代半ばから後半で、1人は60代くらいのおじさん。ロビーの共用スペースにあるソファに座って情報ノートを見ながら、他の日本人旅行者などとしゃべったりして夜を過ごす。

ナイロビはカンパラよりも涼しいのだが、なぜか部屋には蚊がおり、羽音がうっとおしかった。なので肌を出さないようにシーツをかぶって就寝。

FIN

2009年7月2日木曜日

[diary]カンパラ到着

カンパラ到着、

08/09/26(金) 晴れ
[ Kabare→Kanpala:Uganda]
※レート:1米ドル=1600ウガンダシリング

・カンパラへ
・朝方カンパラ着
・ひどい宿
・あふれる市場
・近代的な街並み、ショッピングセンター
・バイクタクシー

昨日、ルワンダからウガンダに入国し、カバレというカンパラ行きのバスが出ている町まで来たが、昨日はすでにカンパラ行きのバスは終わっていて乗ることができなかった。次のバスは明日の3時だというからバスターミナルでずっとバスが来るのを待っていた。

3時と聞いていたが、バスが来たのは予定より早かった。それがどこ行きなのかわからないからバスがターミナルに入ってくるたびにバスまで行き、カンパラ行きかと尋ねていた。その調子で3時にはなっていなかったけれども、ターミナルにバスが入って来たので行ってみると、それがぼくが乗るバスだった。座席も無事確保でき、一安心。あとは着くまで待つのみ。

夜中では歩けれど、夜道をぷらぷら歩いている人をぽつぽつ見る。バスは静まりかえっている町の中を轟音をたてながら走る。

乗ってしばらくしたら寝てしまう。睡眠。

気がついたら外は明るくなっていた。時刻は6時過ぎ。バスは舗装された片道一車線の道をまっすぐ走っている。車窓からはレンガ造りの平屋の民家やバナナ畑、それから果樹なのかただの木なのか樹木がごそごそと延々と連なっているのが見える。開いた窓からはひんやりとした風が吹き込んでくる。

しかし、1時間もすると沿道に自動車修理屋やタイヤ屋、その他の商店が並ぶようになり、交通量も増える。通勤しているのか、250cc程度のバイクに大人が2人またがり、カンパラ方面を目指している。「株式会社タシロ」とドアに書いた4トン車くらいのトラックが緑色のバナナを満載して走っている。

しばらくするとバスはやや細い道に入る。下り坂にかかるとそんなに遠くないところにビルが立ち並んでいるのが見える。そのうちバスの速度が落ち、渋滞にはまってしまう。このことでカンパラがもう近いことを確信する。歩道には3歳くらいの女の子が一人地べたに座り込んでいるのが見えた。

渋滞にもまれること30分ほど、ようやくカンパラの街中に入る。時刻は8時ちょうど。カバレからはだいたい5時間かかった。これはガイドブックどおり。

さて、バスが入ったのは巨大な市場が向き合っている地点。歩いて通勤している人々に、バイクタクシー、それに普通のタクシーにバスが入り乱れ、なかなか進まない。乗客たちはバスが立ち往生している間に三々五々降りて行く。

ぼくはガイドブックを取り出し、宿の位置を確認。どうもこの辺りらしいというのがわかったので、ぼくもバスが立ち往生している間にバスから降り、歩いて目的の宿に向かう。

目的の宿は『歩き方』にも載っている安宿。行ってみるとけっこうぼろい。便所は水が流れないし。ただ情報ノートは、ここにあるらしいからそれは見たい。値段も1万ウガンダシリング(約700円)に値上がりしていた。さっき歩いてきたところ辺りには同じように安そうな宿がいくつかあったのだが、探すのは面倒だし、どうせ1泊しかしないしと思ってここに泊まることにする。

部屋に荷物を置いてフロントで情報ノートを借りてしばらく読む。

9時になってから出かける。あたりは交通の要所でもあり、買い物の要所でもあるので人と乗り物がごったがえしている。ルワンダのキガリは静かだったし、人口密度が低かったが、ここはうるさいし、人が多い。

とりあえず両替をしに行かないといけないので、街中の方へ両替屋を探しに行く。

歩き出してすぐにパン屋兼ケーキ屋を発見。昨日からまともに飯を食っていないのでちょっとここで軽く腹ごしらえをする。いろいろあるものからそれほど甘くなさそうな小さなマーブルケーキみたいものを買い、牛乳と一緒に店内で食す。牛乳は500mlのビニール袋入りで600ウガンダシリング(約40円)。ケーキは3倍近く高く1かけらで1700ウガンダシリング(約110円)。

腹が少し膨れたところで本題の続き。また歩き始める。カンパラのまちは坂道が多い。建物が多いし、店も多い。そして人が多い。ジンバブエのハラレもけっこう店は多かったけど、こっちのほうが高層化されているからカンパラの方が店が多いように思う。つまりは今まで行ったアフリカの首都の中でも有数の都市という感じ。一方で歩道の端で本を並べて売っている女の人や歩きながら物売りしている男の人、女の人をしょっちゅう見る。

送信者 uganda


送信者 uganda


いくつかの両替屋や銀行を見て回ってからその中でレートの良かった銀行で両替をする。

銀行の近くの歩道で道に幾種類もの雑誌を並べて売っている女性がいたので、ちょっと雑誌を物色する。ウガンダはルワンダと違って英語が公用語のため、雑誌も英語のものが多い。『African Woman』という女性誌があったのでそれを買ってみる。袋に入っていたため中身は確認できず、いわゆるジャケ買い(表紙買い)。1冊の値段は5000ウガンダシリング(約350円)だからけっこういい値段。

近くに郵便局があったのでそこで絵葉書と切手を買う。絵葉書は1枚1000ウガンダシリング(約60円)、切手は日本まではがき用が1枚1400ウガンダシリング(約90円)。郵便局に入ったときに明らかに周りから浮いた格好をしている人たちがいた。グレーの上下のスーツ。一発で日本人とわかる。仕事なのか協力隊なのか5~6人で何かやっている。

郵便局を出た後、途中で見つけたネット屋でネットをする。ADSL並みに速い。お値段は1時間1500ウガンダシリング(約100円)。

昼が近くなってきたので宿近くの市場に昼飯を食いに行く。

市場は人と物でごったがえしていた。いろんな店が屋根をつけ合わせ品物を積み上げ、狭い通路を人々が歩く。歩いている人の中には肩に手に商品を持って売り歩いている人もいる。服や布地、文房具、石鹸・洗剤の類などなど日常に必要なものが何でもある。それも山盛り。いやいやなかなか豪快。

市場の中には食堂街もあって、木炭を燃料にしたウガンダ風竈(かまど?)の上には大きな鍋がかけられており、中のスープがぐつぐつ言っている。歩いているとそこここの店から声がかかる。鍋を見てまわりしながらどれを食べようかとふらふら考える。結局、そこそこうまそうで客が入っている店に落ち着く。ご飯と肉のぶつ切りが入ったスープ、それにオレンジジュースで4500ウガンダシリング(約300円)。けっこう高い。こんな高いのは南アフリカ以来かもしれない。味は可ではなく不可ではでもなく。

食事後、市場の中で懐中電灯用の乾電池を買う。

その後、宿近くのバス会社に行き、ナイロビ行きのバスのチケットを買う。ナイロビ行きのバスは比較的本数があった。また夜行バスで行こうかと思ったりもしたが、夜中に国境が開いてなかったら面倒だなと思い、明日の朝の便にする。またも朝が早く5時発。このバスに乗れば夜7時くらいには着くという。バス会社は他にも数社あったが、ここのバスはナイロビで泊まる予定をしている宿のすぐ近くが終点だというので、そういう利点もあり、ここのバスを使うことに決める。バス代は45000ウガンダシリング(約3000円)。けっこう高い。

とりあえず今日、すべきことはこれでおしまい。また、街を歩き回る。バイクタクシーやワゴン車のルートバスなど交通量が多い。

ガイドブックを見ていたらショッピングモールが中心部からちょっと離れたところにあるとあったので、そこにバイクタクシーに乗って行ってみる。アフリカではよく見る食品スーパーやスポーツ店、ファーストフード店、服屋、電化製品屋などが入っているが、市場と比べると人の出入りはたいして多くない。ここにやってくる人は車を持っている人が多いようで、駐車場は車でいっぱい。ATMがあったのでそこでちょっとお金をおろす。

帰りはてくてく歩いて帰る。薄暗くなってきた。

帰り道、歩道で物乞いをしていた少女がいたので少々カンパ。

宿に着くころにはすっかり日が暮れていたが、あたりは食堂や屋台が出てにぎやか。明日も長距離移動だからあまり食べるとバスのチケットも買ってあるし、もしものときが怖いのだが、あまりに賑やかなので釣られて辺りをぶらぶらする。湖で採れたらしい小さい魚の揚げ物や肉の串焼き、ご飯ものやチャパティを焼いている屋台など種類も多い。どの屋台も人が入っていて繁盛している。ぼくは魚の揚げ物や串焼き、茹でバナナとジャガイモとトマトのスープなどを食す。最後はチャイとチャパティで仕上げる。チャイは1杯700ウガンダシリング(約50円)、チャパティは1枚200ウガンダシリング(約13円)。これは安い。市場の昼飯はけっこう高かったなぁと改めて感じる。

今夜の宿は4人部屋。明日も早いのでさっさと寝ることにする。ベッドごとに蚊帳はついているのだが、穴があいたりしていて効果があまりありそうにない。なので持ち歩いているガムテープで穴をふさいだりしてから寝る。夜は意外と涼しかった。

FIN

[diary]キガリ虐殺記念館、ウガンダへ

キガリ虐殺記念館、ウガンダへ

08/09/25(木) 曇りのち雨 20℃程度
[Kigali:Rwanda→:Uganda]
※レート:1米ドル=550ルワンダフラン

・キガリの虐殺記念館
・人をはねる
・ウガンダ入国
・カンパラ行きのバスなし
・バスで夜を明かす

朝は7時前に起床。それから昨日は食わなかった朝食を食いに本館に行く。朝食付きだなんて昨日は忘れていた。朝食はロールパンと卵いためと生野菜とコーヒーのみ。なんだか寂しい。

本館にはインターネットコーナーがあったので、そこのネットで30分ほどネットをする。ネット代は30分で300ルワンダフラン(約60円)。

宿代が高いので、60米ドルものビザ代を払いながら、今日ルワンダを出てしまうことにした。今日、宿を出る旨をフロントに伝え、チェックアウト時間を聞く。朝のうちに宿代2泊分を払ってしまいたかったのだが、あいにく両替しないと持ち金がない。というわけで、まずはフロントの人に、近くに両替屋がないか尋ねる。歩いていけるところにあるというので、教えてもらった方へ行ってみると、あるにはあったが、まだ準備中だった。

今日のキガリも昨日に引き続きパッとしない天気。空には雲がドヨドヨしている。半袖で歩くには肌寒く、長袖のシャツやカーディガンを着ているも目立つ。

両替屋の開店は1時間後の9時だというので、しばらくプラプラ散歩することにする。通りをフルフェイスのヘルメットにビブスをまとったバイクタクシーが走り回る。まだ8時過ぎということでか、車はそこそこ走っているものの通りを歩いている人は少ない。中心部のほうに向かって歩いていくとショッピングセンターみたいな建物を発見。見学するために入ってみる。入り口付近に警備員がいたが、何も言われず。

その建物は3階建て程度の横長の白い建物。中に入ると広い廊下があって両脇に店が並んでいる。まだオープンして間がないのか床も壁もピカピカ。天井のライトが床に反射して輝いている。だが、こちらもまだ開店時間がきていないようで開いている店はほとんどない。開いていたのは24時間営業の食品スーパーのみ。ここの入り口にも武装した警備員がいた。全体で言うと店の数も少ない。適当にぶらぶら見て回ってからこの建物を出る。

改めてキガリのまちを見ていると面的には小さいけれどもけっこう近代的なビルが多いなぁと感じる。それもわりと新しい建物があるし、建築途中のビルも何棟かある。きっとこれらは大虐殺が終わって後に造られたものなのだろう。基本的には2階建てのコンクリート作りのアパートのような建物があちこちにあって、そこが店だったり事務所になっていたりする。街路樹が多く、道にごみもほとんど落ちておらずなかなかきれいだ。

歩いていたらKIGALI A-Z BOOK CENTREという本屋を発見。ここはすでに開いていたので中をのぞいてみる。フランス語や英語で書かれた本に加えて地元の言葉で書かれているものもあり。だが、値段はけっこう高い。

さらにぶらぶらしていると両替屋を発見。こっちの方が宿近くの両替屋よりも若干レートが良かったので、ここで両替する。1米ドルが550ルワンダフラン。ちなみに1ユーロは760ルワンダフランだった。

お金ができたのでちょいと買い物。さっきの本屋に行って絵はがきを2枚購入。1枚500ルワンダフラン(約100円)。パイナップル1個よりも高い。

それから郵便局に行って切手を買う。葉書用の切手は日本まで450ルワンダフラン(約90円)。それから映画「ホテルルワンダ」のモデルとなったホテルに歩いて向かう。キガリの道はまっすぐになっておらず、上から見ればちょっと入り組んだ放射線状にでもなっているのではないかと思えるような造りなので、方向感覚だけで歩いているとなかなかたどりつけない。しかも坂道が多いから道を間違うと面倒。

迷っている時間もないので、ちゃんと地図を見てホテル近くの目印になる建物にまず行くことにする。キガリの路上には食べ物の屋台がほとんどないので、こうして歩いていてもつまみ食いすることができない。そうやって真面目に歩いていたらなんとかホテルに到着。ホテルは10階建てくらいで薄い落ち着いたベージュ色をしている。敷地の入り口には警備員の詰め所があって、その前を高級車っぽい車が颯爽と入っていく。中を見学させてもらおうかとも思ったが、今日はまだ行きたいところがあったので、外観を眺めるだけでここを離れる。

ホテルの前を離れて歩いていたら道端で雑誌を売っているおじさんがいた。見ると英語の雑誌も売っていたので値段を聞くと4000ルワンダフラン(約700円)などと言う。高すぎる。なので無視して去ろうかとしたらいくらだと食いついてくるので、1500ルワンダフラン(約300円)とふっかけると安すぎると言ってひかない。何度か繰り返して結局2500ルワンダフラン(約500円)で買うことにする。どうせどこかで拾って来たものなのだろうが、まぁおじさんの生活の足しになればと思い妥協する。

その近くでバイクタクシーをつかまえ、キガリにある虐殺記念館に連れて行ってくれるよう頼む。そこまでいくらかかるか尋ねると400ルワンダフラン(約80円)というので後ろにまたがる。キガリの虐殺記念館(Kigali Memorial Centre)は中心部から東(たぶん)のほうに外れたちょっと小高いところにあった。ここはそのために建てられたらしいきれいで立派な建物だった。外見は瀟洒な豪邸という感じ。

記念館の敷地の入り口前でバイクから降り、運賃を支払う。その入り口には警官らしい制服を着た男が2人ほどいて検問をしていた。ここで荷物のチェックがあり、たまたま持っていたアーミーナイフを預けることになる。

記念館の入場料は無料。中に入ると昨日行った記念館とはまったく違っていて、内装もレイアウトも凝っている。大虐殺までの歴史的流れから当時の様子、生き残った人たちへのインタビュー、あるいはツチ族をかばったフツ族の人の話などを文章と写真、映像などで紹介し、さらに虐殺後発掘された白骨遺体の頭部や殺された人々の所持品なども展示している。さらに世界各地で起きた虐殺のコーナーもあった。そこではナチス支配下でのユダヤ人虐殺やオスマントルコ帝国下でのアルメニア人大虐殺、カンボジアのポルポト政権下での大虐殺などなどについての簡単な展示がなされていた。

この大虐殺が起こったのは1994年。当時、ぼくは高校生で新聞はスポーツ欄しか見ないという人間だったから新聞などで詳しく追っかけるようなことはしなかったが、それでもなんだかすごい虐殺が起きているというようなニュースは入ってきていたように思う。ツチ族とフツ族という名前はそのときに聞いて覚えたように思う。

ルワンダの大虐殺を改めて知ることになったのは、映画「ホテルルワンダ」の日本での上映運動だった。時は2005年だったか、たまたま家でラジオを聞いていたら運動を立ち上げた人が招かれて話をしていた。同世代の人が運動をやっていたということもあるが、他の国々ではすでに上映されているのに日本では映画界の判断で上映される予定がまったくないという話に引かれ、上映運動について調べてみることにした。結局、ぼくがしたのは署名だけだったけど、この後、日本でも上映が決まり、各地で上映されることになる。上映運動が映画界の見込みを覆したのは、なかなか良かった。が、ぼく自身はどういう事情だったか映画館で見ることなく、この旅行の前にレンタルDVDで見たところだった。

こうして展示を見ていたら、新たに知ることも多い。説明文はフランス語と英語と地元語なので、読んでいると疲れるのだけれど、たとえばツチとフツという分け方自体が、ベルギーが侵出して来る前にこの地に侵出したドイツ人が適当にやった名残でたいしてはっきりとした根拠があるものではなかったという事実は、この虐殺の悲惨さをより強く感じさせる。すらすらと説明文を読めるわけではないので、本当なら1日くらいかけてゆっくり見たいのだが、高い宿に泊まり続ける気にならないので、2時間ほど見て記念館を出る。入場料無料なので、寄付を少々。

Kigali Genocide Memorial Centre
http://www.kigalimemorialcentre.org/old/genocide/index.html

記念館に隣り合って売店があったので、そこで冊子を購入。これがまた高い。20 米ドル(約2200)もした。買うかどうか迷ったが奮発する。

バイクタクシーに乗って宿に戻り、荷物を整理してチェックアウトする。

宿前からまたバイクタクシーに乗ってバスターミナルへ。

バスターミナルをふらつき、ウガンダとの国境に行くバスを探す。当然ながら車が多すぎてどれかわからないので、適当に人に聞いて教えてもらう。

そんなに手間取ることなく目当てのバスを発見。昼飯を食っていなかったので出発を待っている間にビスケットを買う。ダンボールやお盆にそうしたお菓子を載せて売って回っているおばさんから買う。買ったビスケットはビスコサイズで、なぜか袋には貴乃花が写っている。

バスにはいろんな物売りの人がやってくる。シャツを買わないかとかジャンパーを買わないかとか靴を買わないかとか、なかなか対応も忙しい。

結局、出発まで1時間ほど待ち、バスは14時ごろ発車。国境まででバス代は2000ルワンダフラン(約400円)。

しばらく走っていたらぽつぽつと雨が降り始め、そのうち土砂降りのようになる。例のごとく山あり谷ありの曲がりくねった道。道がそういう状態だから当然見通しもきかない。それに加えて車のワイパーは片方しか動いていないからさらに見通しが悪い。それでも順調に走っていたのだが、右に曲がるカーブに差し掛かったとき、前方で一人の男が道路を横断する。雨にできるだけ濡れまいと首をすくめて駆け抜ける。“おいおい、あぶねぇなぁ”と思っていたら、彼に続いてまた別の男が路上に走り出してくる。しかも彼は車の往来をまったく確認せずにいきなり飛び出してきた。一応、彼は駆け足だが、目に入った瞬間“ぶつかるんじゃん?”というタイミングだった。運転手も驚いてブレーキをかける。だけど、ブレーキを踏んでいないのじゃないかと思うくらい車はたいしてスピードを落とすことなくスルスルと走っていく。おいおい、と思わずぼくは運転手を見る。でも、顔は驚いているから止めようとしている様子。でも、実際にはブレーキがきいていない。“アァ、こりゃぶつかるよ”と思っていたら、フロントガラスに走っていた男がぶつかる。カエルが仰向けになったような感じで、腕は万歳状態で、足はパーって状態でフロントガラスに一瞬張り付く。車は男の後ろからぶつかったので、男はフロントガラスに張り付いた後、道路にうつ伏せになって倒れる。その瞬間、沿道で雨宿りしていた彼の友人らしき男たちが、ワーッと騒ぎ出す。運転手は目を見開いてフーフーと激しく呼吸をしている。

“あいや~”と思いながら、男を見たら彼はうつ伏せになって倒れた次の瞬間、スタッと立ち上がり、道路の端の方へまた走っていく。そして、道路の脇の安全なところまで行って驚いて興奮した様子でこちらを見ている。幸いなことに血は流れていない。もっともくねくね道で上り坂だからたいしてスピードは出ていなかったんだけど、でも打ち所が悪くなくてよかった。

沿道にいた男たちからワーワーと何か言われるが、運転手はなんとかと言い返し、またアクセルを踏んで車を先へと進める。これで一件落着(?)。死ななかったから良かったけど、しかしあの人はあとであちこちが痛むだろうなぁ。

それから1時間足らずでウガンダ国境に到着。タクシーはここでおしまい。リュックをかつぎ、運賃を払う。

あいにく雨は降り続いていた。でも、かなり小降りになっていたのでラッキーだった。またリュックにカバーをして、イミグレに向かう。ルワンダの出国手続きはすんなり終わり、そこからちょっと歩いてウガンダ側に移動。ウガンダ側のイミグレでビザの申請書と入国カードを書いて提出。ビザ代は50米ドル。高いなぁ。でも問題なく、入国できる。入国後、国境の両替屋で両替。1米ドルは1500ウガンダシリング。

さて入国はしたものの、この先がどうなるのかよくわからない。あちこちにタクシーがあるだけでまちらしき雰囲気はない。適当にまわりにいるタクシーの運転手ではない人に、首都のカンパラに行きたいんだけどどうすればいいと尋ね、行き方を教えてもらう。それによるとカバレという町までタクシーで行けば、そこからカンパラ行きのバスに乗れるとのことだった。入国してくる人たちもタクシーに乗って移動していたので、ぼくも乗り合いタクシーに乗ることにする。タクシー代は3000ウガンダシリング(約200円)。

カバレのまちには30分ほどで到着。

しかし、運転手は不親切なことにバスターミナルではなく、適当な道端でぼくをおろす。余計にカネを取られるのも嫌だからしょうがなくそこで降り、タクシー代を払う。そして、バスターミナルはどこか教えてもらい、そちらに向けて歩き始める。

カバレの町は商店や露店も多く、意外ににぎやかだった。バスターミナルに着くまで何人かに確認し、ようやくターミナル到着。サーカー場の半分くらいの敷地を取り囲むように商店やバス会社の事務所があり、真ん中は駐車場になっていた。

バスの絵が表に書かれてあるところを探し、バス会社の事務所に行く。ドアのないフルオープンの事務所だった。そこでカンパラに行きたいんだがと言うと、今日はもうカンパラ行きのバスはないと言う。ぼくの皮算用では夕方発の夜行バスに乗って、明日の朝にはカンパラに着くというものだったが、それがあえなく壊れる。他にバス会社がないか探すがない。

しょうがないので今日バスに乗ることはあきらめる。それで明日は何時発なのかと尋ねると朝の3時だとか言う。バス会社の人はホテルを紹介するからそこに今晩は泊まって明日の朝ホテルの前までバスが行くからそこで乗ればいいというようなことを言うが、3時だったら眠らずに起きておかないと逃す可能性がある。だいたい口で何時だと言っても容易には信じがたい。できるだけ早くバスに乗り込み、自分の席を確保しなければ椅子に座れない可能性もある。そんなふうに考えていたら当然ホテルに泊まるなんてもったいないので、タンザニアであったようにバスの中で寝られないかと尋ねる。が、これを許してくれない。

夜中までは時間があるので、ここからカンパラに少しでも近い町まで行って、そこでバスを乗り換えるという方法で行こうかとも思うが、だいたいこうした乗り継ぎ法を採用すると結局高くつくことが多いので悩む。

しばらくの間、あれはどうだ、これはどうだとあれこれ考える。そして、結局はここで夜中まで待つということにする。夜中にバスがあるならここも人がいなくなるということはないだろう。バスのチケットは買って、それで持ってバス会社の事務所が開いている間はずっと事務所にいて、追い出されたらその辺でバスを待とう。そういうふうにすることにした。バス代はカンパラまでが18000ウガンダシリング(約1200円)。

雨はあがり、外はまだ明るい。町を見て回りたい気分なのだが、なんせ荷物が多い。リュックを背負い、小型リュックを片手に持ってぶらぶら歩きにはなれない。というわけで、事務所の入り口の段差のところに座って、メモ書きをしたり、本を読んだりして時間を潰すことにする。今日はビスケットしか食べていないし、新しい国に入ったから何か食いたいところだが、バスにはトイレがついていないだろうし、実際のところカンパラまでどれくらいかかるかわからないので我慢する。

暗くなったらぽちぽち電気がついたが、本を読むには厳しかった。なので、あたりを眺めたり、蚊と格闘したりしながら何をするでもなく時間が過ぎるのを待つ。

こうして夜は更けていったのであった。

FIN

2009年7月1日水曜日

[diary]ムランビ虐殺記念館へ

ムランビ虐殺記念館へ

08/09/24(水) 晴れのち曇り
[Kigali⇔Murambi:Rwanda]
※レート:1米ドル=550ルワンダフラン

・虐殺記念館へ
・安いパイナップル

7時ごろ起床。外からはバイクが走る音が聞こえる。

昨晩も考えていたのだが、宿代が1泊2000円もするので、ルワンダはなるべく早く抜けることにした。なのでガイドブックなどを見ながら生きたいところを絞り、向こう2~3日の予定を練る。時間ほどあれこれと考えて、支度をしてでかける。今日はギコンゴロというところにある虐殺記念館に行くことにした。

昨晩降っていた雨はあがってはいたが、すっきりとした晴れというほどではない。宿の前でバイクタクシーをつかまえ、バスターミナルに向かう。ルワンダに来て驚いたことのひとつはバイクタクシーの運転手がヘルメットをかぶり、かつそれとわかる統一されたビブスを着ていること。これは珍しいと思う。ちなみにバイクの数はそもそも人口が少ないからか混雑するほどあるわけではない。どちらかと言えば少ない。

下り坂をくだり、右のほうへ行くとバスターミナル。ここでタクシー代400ルワンダフラン(約80円)を払う。昨日とはまた違うターミナルでこちらの方が車も多く、にぎやか。行き先ごとに乗り場が決まっているようだが、どこからどこ行きが出ているのかはわかりにくい。車に行き先が書かれているのでそれを見ながら探す。バスターミナルと書いたけれども、ここにあるバスはほとんどが大型ワゴン。いわゆるバスタイプの車はほとんどない。

歩き回っていても乗るべきバスが見つからないので、客寄せでよってくる男たちに行きたい場所の名前を告げ、どのバスがそれなのかを教えてもらう。聞くとすぐに教えてくれ、バスまで案内してくれる。

バスは先も書いたように12人ほど乗れる大型ワゴン車。時刻表はなく、客が集まったら出発というスタイルのよう。乗り込む前に運転手に運賃を聞くと目的地までは2000ルワンダフラン(約400円)だと言う。すでにほぼ満席状態だったため窓際の良い席はとれず。待っている間には物売りの人たちがやってきて、パンを買わないか、ビスケットを買わないか、服を買わないかと客に物を見せて回る。

幸い20分ほど待っただけで車は発車。時刻は9時だった。車は舗装された片道1車線の道を走る。道は坂が多く、曲がりくねっている。これだけ曲がりくねっている道を走るのはアフリカでは初めてだ。平地がほとんどない。

沿道には畑や田んぼらしき土地が見える。いくつかの丘の斜面には家がいくつも建てられていた。家はもっぱらコンクリート壁にトタン屋根と簡単な作りのものが多い。

13時ごろ、目的地に行くための分岐点に到着。ここで車を乗り換える。ちょうど車が待っていたのだが、すぐには出発せずしばらく待たされる。近くの売店のにいちゃんはぼくを見つけるとビールを買わないかと大きな声で何度も呼びかける。陽気なにいちゃんだったがビールは嫌いなのでパス。そのうちバスの準備も整い発車する。

分岐点から目的地までは1時間弱だった。ギコンゴロのまちのバスターミナルに到着。ここは駐車場やトイレ、売店などが整備されているそこそこ立派なターミナルだった。ここまでの運賃は500フランスフラン(約100円)。ただここで終わりではなく、目的の虐殺記念館へはまだ距離がある。時刻はすでに14時すぎ。結局ここまで来るのに5時間、半日近くかかった。歩いて行けない距離ではないと聞いていたが、時間が時間なのでバイクタクシーに乗ることにする。ターミナルにはたくさんのバイクタクシーが客待ちしていたのでそのうちの1台を選び、値段を聞いたうえで乗る。幹線道路を外れると道は未舗装の土道。自転車や歩いている人が多い。

15分ほどで虐殺記念館に到着。運賃500ルワンダフラン(約100円)を払う。

入り口の看板があり、そこには「MURAMBI GENOCIDE MEMORIAL CENTRE」とある。もともと学校だったか何か建物を改造して作ったようで、そこだけ広々としている。バイクから降りたら中からおじさんが出てくる。身長は180cmくらいあるが頬はこけ、かなり痩せている。年季のはいったスーツ姿でのそのそと歩く。ぼくはそのおじさんを見て、思わずギョッとしてしまう。おじさんのおでこには明らかに銃で撃たれた痕があったのだ。それはどうしたのかと聞く勇気(?)はなく、きっとあのときにやられ、なんとか生き残ったのだろうと想像しながら、おじさんに促されるまま中へ入る。もう1人おばさんも出てきて、2人で案内してくれる。ここは虐殺された人々の死体を保存し公開している記念館ということだが立地が立地なのであまり人は来ていないよう。ぼくが着いたときも客は他にいなかった。

おばさんはフランス語を解すらしいが、ぼくができないのでおじさんの方が英語であれこれ話してくれる。しかし、このおじさんの英語はなまりと声質のおかげで聞き取りづらく、ほとんどわからない。ぼくが簡単な質問をしても「OK,OK」と言うばかりでちっともわかっていない。他の国では通じたんだからそこまでぼくの英語はひどくないと思うんだが、おじさんにはまったく通じなかった。

ここの記念館の敷地内には長屋風のレンガ造りの平屋の建物が数棟あるだけで、いわゆる記念館として新たに作られたような建物はない。敷地内に入るとまっすぐにその平屋の建物に案内される。おばさんが鍵を出し、1部屋1部屋の鍵を開け、おじさんがドアを開けて中に入るよう促す。

中に入ってみると薬くさい臭いがした。見ると細長い白い物体がいくつもある。なんだ? と思ってよく見てみたらこれが人体だった。ミイラのように骨と皮だけになった人体が折り重なって置かれている。白いのはどうも保存剤のようで、鼻につく臭いはこれが原因のようだった。おじさんはぼそぼそと何か言うがわからない。

1つの部屋を見たあと、次の部屋を案内される。そこもさっきと同じ。ミイラのようになった人体が置かれている。おじさんはその中から1つを指差し、あれは足を切り落とされた子どもだと教えてくれる。そう教えられてから注意して見ると五体のどこかが欠けているというものが目に入ってくる。その次の部屋もそうで、その次もそう。次から次へと同じような部屋を見せられる。

10部屋近く見せられたが、別の棟の建物の中にも同じように保存されているというからこれだけでもすごい数になる。次に案内されたのはコンクリート製の小型の体育館みたいなところで、そこには殺された人々が身につけていたものが保存されていた。もっとも、保存されているといっても棚にドカッと置かれているだけで、なんらの処置もなされているものではなかった。そこには元の形のまま残っているものもあればあちこちが破れたり、切り裂かれていたりしているものも多い。

それから外を案内され、大きな穴が開いているところまで連れて行かれる。そしてここに埋められていたのが、さっきの人体だと教えてくれる。

見学はこれでおしまい。最後に受付に連れて行かれ、ノートを渡され署名と寄付ができるならその金額を記入して欲しいといわれる。ぼくは記念館に2人も常駐がいるならけっこう財政的に大変だろうと思い、奮発して5000ルワンダフラン(約1000円)を寄付。
2003年にポーランドのオシヴィエンチム(アウシュビッツ)に行ったときは人の髪の毛や靴などが山積みされているのに息を呑んだが、ここもまた当時の悲惨さが思い計られ、なんとも言葉にはできない気分になる。

帰りは歩いて帰ろうとぼちぼち歩く。来たときと同じ風景を見ているのだが、あれを見た後ではなんだか見え方が変わる。もちろん物理的には来るときと何も変わらないのだが、道を歩いている人々や家の前で遊んでいる子どもたちを見ていたら、あのときこの人たちはどうしていたのだろうと気になってくる。現地の言葉やフランス語ができればちょっとした会話もできるのだろうが、あいにくぼくはフランス語は挨拶と数字くらいしか知らないし、現地語にいたっては何もしらない。

などと考えながらとぼとぼ歩いていたら、記念館にいたさっきのおじさんがぼくの後をついてくる。なんで? と思っていたら、おじさんは「自分にチップはないのか」とぼくに尋ねてくる。「さっき寄付したじゃん」と答えると、おじさんは「あれはあの女が全部とってしまうんだ」と言う。そんなこと今頃言われても…、と困る。おじさんは自分の額の左側にある銃痕を指差し、自分は虐殺のとき撃たれたんだとか仕事がないとか言って食い下がる。そんなこと言ったってその辺を歩いている人たちも同じように大変だったろうし、だいたいこっちは予定外に大きな寄付をしたからあまりお金の余裕がない。とは言え、自分が食べる飯代くらいはあるんだけど、たまたまあそこにいたおじさんにだけチップをやるのもなんだか周りの人に悪いし、だいたいおじさんの英語はまったくわからんかったから、はっきり言ってガイドになってなかったんだよなぁ。というわけで、おじさんには断り続け、諦めてもらう。

途中まで歩いたが、けっこうバスターミナルは遠いということがわかり、近くを走っていたチャリタクシーを捕まえ、乗せてもらう。坂道が多いのに大変な仕事だ。いくらかは乗せてもらったが、上り坂になると結局歩いたほうが早いこともあり、ゆるい下りだけチャリタクシーに乗って上りは歩く。チャリタクシー数百メートルの運賃は100ルワンダフラン(約20円)。

こうしてバスターミナルに到着。幸いなことにキガリ方面行きのバスはまだあった。まだ客が集まっておらず、しばらく出ないようなので、ここで朝飯兼昼飯兼夕食を食べることにする。ターミナル内にあったこぎれいな食堂に入る。メニューはいくつかあったが、内容がわからないので適当に頼むがどうも通じていない。そこへ店内にいた若い男の子が英語で通訳してくれる。彼を通じて注文。米にポテトフライ、茹でキャッサバ、肉、緑の葉炒めが1枚の皿に山盛りにされたものが出てくる。料理の写真を撮っているとさっきの彼がカメラを見せてくれないかと言うので貸す。すると画面を見ながらあちこちにカメラを向け、最後にはぼくの写真を撮る。彼らの写真を撮ろうかと聞いたが断られる。食事は700ルワンダフラン(約140円) 。キガリではこんな安い料理は見かけなかったからやっぱり田舎と首都ではだいぶ物価が違うのかと感じる。

食後、駐車場のバス近くでバスが出るのを待っていたら、物売りしていた女の子が商品を載せたお盆を見せながら何か買わないかと薦めてくる。野菜が多かったのでいまいち買えるものがなかったのだが、その中にレモンがあったのでレモンを買うことにする。レモン5個で250ルワンダフラン(約50円)。

夕方、16時半ごろバスは発車。また分岐点まで行き、そこで乗り換え。運賃はそこまでが500ルワンダフラン(約100円)。乗換えがうまくいくか心配だったが、幸いちょうどいい車があった。ワゴン車のバスに乗り換えキガリを目指す。運賃は行きと同じ2000ルワンダフラン(約400円)。

走り出して1時間もすると外は暗くなり、そのうち真っ暗になる。沿道には街路灯はないから車のフロントライトのみが頼り。途中、何箇所かで客を降ろしたり、乗せたりする。そうやって止まった場所では、果物やクッキーなどのお菓子を抱えたおばちゃんたちがバスにやってきて営業を始める。ぼくは、今日は寄付でだいぶお金を使ったから何も買うまいと思っていたのだが、乗客のがパイナップルを買っているのを見てたらそれがずいぶん安いことがわかったため、朝令暮改、パイナップルを買うことにした。小玉だが、2個で500ルワンダフラン(約100円)はやっぱり安い。

暗くなると沿道にはときたま家の明かりが見えるくらいで暗くて何も見えなくなる。時折うとうと寝る。

キガリのバスターミナルに着いたのは22時前だった。やっぱり遠かったなぁ。ターミナル前からバイクタクシーに乗り、宿に帰る。バイクタクシーの運賃は500ルワンダフラン(約100円)。部屋に戻る前にまだ開いていた商店でペットボトルの水1.5リットル(600ルワンダフラン ≒120円)などを買って帰る。

部屋に戻ってからは今後のルートを考えたりなんたりをして、就寝。

FIN

[diary]ムワンザからルワンダ、雨のキガリへ

ムワンザからルワンダ、雨のキガリへ

08/09/23(火) 晴れのち曇り、雨
[Mwanza:Tanzania→Kigali:Rwanda]
※レート:1米ドル=1150タンザニアシリング
※レート:1米ドル=550ルワンダフラン

・明朝に出発
・ビクトリア湖を越えて
・窮屈なバス
・ルワンダ入国
・懐かしい風景、千の丘の国
・雨のキガリ、宿探し

ルワンダ国境方面行きのバスは朝が早いからと前日からバスに乗り込み、バスの中で夜を明かす。車内はたいして暑くはなかったのだが、蚊がうるさく、何度か目を覚ます。刺されもした。

まだ日が昇っていない5時ごろ、まわりがバタバタとうるさくなる。座席に横たえていた体を起こし、状況確認。どうやら客がどんどん乗り込んできているようだった。座席はすでに取っているから座れない心配はないんだけど、リュックも持ち込んでいたからそれが邪魔だった。なので運転手らしき男に声をかけ、荷物はどうしたらいいか聞くとそのまま持っていろと言う。ぼくのリュックは小学3年生くらいの子と同じくらいの丈と重さがあるからそれを置いているだけで1人分の座席を占領してしまうことになる。網棚にでも上げることができればいいのだが、あいにく幅がありすぎて網棚に乗らない。車内がガラガラならば隣の座席においていてもいいのだろうが、次から次へと人が大きな荷物とともに乗り込んでくるからそうするわけにもいかない。しょうがないから前に抱えて座ってみたが、これは脚に負担がかかっていまいち。なのでリュックを背負ったままのスタイルで座席に座ってみると、こちらのほうが楽。だが当然リュックが座席の面積のほとんどを占めてしまうので、尻を乗せられるのは前部の10cmほどしかないためバランスが悪い。幸いなことにとでも言うのだろうか、このバスの座席の間隔は狭く、リュックを背負った状態で椅子に座ると膝小僧が前の座席の背中にあたってしまう。おかげで前にズルズルずれるのを膝で止めることができる。傍(はた)から見れば前の座席にピタッとくっついているように見えるだろうが、リュックに背中を押されながら膝で後方へと押し返すことでバランスが取れるというような状態で座ることができた。

バスは客を満載したところで発車。外はまだ暗い。どうもバスの荷台は使えないようで乗客はみな荷物を車内に持ち込んでいる。当然大きな荷物は置くところがないから通路にあふれ、さらに人も座席以上に乗せるから荷物同様通路にあふれ、荷物の上に座ることになる。

バスは舗装された道を走る。そのうちだんだんと外が明るくなる。

1時間ほど走ったところでバスはスピードを落とす。休憩かと思って前方を見たらフロントガラスの向こうには湖。道は途切れている。その代わりフェリーが泊まっていて、どうもそれに乗り込むらしい。アルゼンチンのマゼラン海峡のようにバスごと乗り込むのではなく、人はひとまずバスから降りるが同じフェリーに人もバスも乗って湖を渡るという手順になっていた。湖手前で乗客はみなバスから降りて、歩いてフェリーに乗り込む。時刻は6時半過ぎ。乗船が完了すると船は離岸。客のほとんどは船前方の甲板にあるベンチに腰をかけて外を眺めたり、ビスケットなどをつまんだり、おしゃべりしたりしている。ちょうど湖面から陽が昇ったばかりで朝の日を浴びるのが心地よかった。

この湖は広い。端がどこなのか見えない。湖には丸木舟で移動している人や網を使って魚を取っている人たちを少しだが見る。30分ほど船でのゆったりした移動を楽しむ。

着岸してバスに乗り込むと窮屈な時間が再び始まる。けっこうきつい体勢で座っているにもかかわらず、眠ることはできてときどきうとうとと眠くなり、寝込んでしまう。今回は舗装された道ばかりを走っているからこの間みたいに砂が車内に舞い込んでくるということがない。

バスは休憩なしでがんがん走る。昼を過ぎるとお客が降りることがときどきあり、そのときは集落のバスターミナルなどで止まる。

そろそろルワンダ国境に近いんじゃないかと思いながらもどこで降りればいいかは自分で判断つかない。あたりは林や畑ばかり。

14時半ごろ、沿道に平屋の商店などが10軒ほど並んでいるところに差しかかる。同じバスに乗っていた白人カップルが降りる準備を始めたからもしかしたらここがルワンダ国境に近い村かと思い、周りの人に尋ねる。すると隣のおばちゃんがここだと教えてくれる。通路も荷物や人でいっぱいだからバスから降りるのに一苦労。なんとか降りるとすぐにタクシーが待ち構えていて、国境に行くのかと尋ねてくる。ちょうどバスから降りた人が数人おり、その人たちも国境に向かうふうだったのでその人らと一緒にタクシーに乗る。運賃は事前に尋ねたところ3000シリング(約300円)。けっこう高いけど、まぁいいかと思い乗り込む。

タクシーは舗装されている道をかっとばす。あたりはこんもりとした山と林。

国境までは30分ほどかかった。予想よりも遠かったので3000シリングもありかと考え直す。国境についてタクシーを降りたところで支払いをし、国境のイミグレに向かう。あたりは山ばかり。人気のあまりない国境で今一緒に乗ってきた人以外でこの国境を通っている人はいない。車やトラックも見ない。

まずはタンザニアの出国手続き。出国カードを書き込んでパスポートと一緒に提出。数分で終わる。

そこから大きくカーブしている道を歩き、ルワンダ側のイミグレに向かう。途中、短い橋があり、左手奥には幅はないが水量たっぷりの迫力ある滝があった。滝の底は水しぶきに煙って見えない。

カーブを左に曲がって上り坂を歩いていくと上りきったところにルワンダのイミグレがあった。ルワンダもビザが必要なので、ここでビザを買う。ビザ代がなかなか高く60米ドル(約6000円)もする。ちなみに米ドル払い。6日間の宿代相当だから旅行者によってはビザ代を理由にルワンダを避けたという人もいた。ビザを取得するための用紙を記入し、入国カードも書いてパスポートと一緒に提出。こちらもすんなりと手続きは済む。ここから首都のキガリに行くバスはないかと係官に聞いたら、その先でバスに乗れると教えてくれる。

係官が言ったとおりイミグレの建物から50mほど向こうに歩いたところに大型ワゴンのバスが止まっていた。運賃を聞くとキガリまで2000ルワンダフラン(約400円)と言う。バスを降りてから国境まで300円もしたのに、こっちはずいぶん安い。それに車体も車内もきれいで乗り心地が良さそう。ルワンダフランは持っていなかったので、とりあえず座席だけ確保して、出発までにはまだ間があるというので両替しに行く。国境の両替屋でタンザニアシリングを両替。両替したお金で運賃を払う。こちらは前払い。

ルワンダフランも手に入ったし、朝から何も食べていないので何か食い物がないかと辺りを見渡すが、物売りが一人もいない。珍しい。まぁ、移動の途中でどっかに止まればそのときに物売りの人が来て何か買えるだろうと思い、とりあえず辛抱する。

16時前にバスは出発。どれくらい標高があるのかわからないが、窓からの景色はなかなかいい。千の丘の国とルワンダは呼ばれたりするようだが、まったくその通りでこんもり低い山や丘がいくつも連なっている。さらに目を引いたのが、それぞれの丘にきれいに畑が作られていること。どの畑も一枚一枚の面積は小さい。しかし、よく手入れされている。日本の山間部の景色によく似ているのに驚く。

車は快調に舗装道を走る。沿道には土壁にトタン屋根の家やコンクリート壁にトタン屋根、レンガ壁にトタン屋根の家などが見える。また一部ではテントを見る。難民か何かなのだろうか?

途中、乗客を乗せたり下ろしたりするためにいくつかのまちでバスは止まったのだが、不思議なことにバスの乗客を狙った物売りがいない。おかげでこちらは食べ物を何か買いたかったのだが買えず。

地図で見る限りではこの国はとても小さい国だから国境からキガリまでもそうたいして時間はかからないだろうと見ていた。明るいうちにキガリに着けるのではと期待していたのだが、18時を過ぎても着く気配がない。車は何度も上り下りを繰り返す。

淡い期待もむなしく日は暮れてしまい、しばらくすると前方にビルなどが建て込み明かりがついている地帯が見えてくる。フロントガラスには雨粒が落ちてくるようになり、そのうち強い雨になる。

坂を下ったらキガリの中心部だった。近代的なビルがちょこちょこ見える。雨合羽を着たバイクタクシーがバンバン走り、道を走る乗用車の数も格段に増える。

バスは中心部に入り、また坂道を登って縦横に走っている道をちょこまかと走り、終点のバスターミナルにようやく着く。移動日に雨なんて最悪だと思いながら、リュックに雨よけカバーをかけ、とりあえず辺りをふらつく。どこに着いたのかよくわからないので、バスが通ってきた道と人の流れを見ながら商店が集まっている中心部にいく。もう20時近くだから中心部の店は閉まっているのではないかと思っていたが、意外にどの店も開いていて買い物客も多い。ルワンダには安宿はないと聞いていて、実際ガイドブックに載っているのものも1500円以上するところばかり。地元の人は安いところを知っているかもしれないと適当に店で聞いたりするが、意外とみな知らない。しょうがないのでタクシーに聞いてみると安いところはあるという。なので乗せていってもらったら20米ドル以上もしたので却下。時間も時間だし、雨も降っているので安宿探しはあきらめガイドブックに載っている中で一番安い宿に向かう。

中心部からタクシーで5分ほど。あたりにはあまり店がない。ホテルのフロントを見る限りではちょっと高級そうだったが、とりあえず1泊だけでもと思い、ここに宿を取ることにする。タクシーから荷物をおろし、タクシー代を払う。タクシー代は2箇所回ったからと3500ルワンダフラン(約700円)もとられる。

フロントで一番安い部屋に泊まりたいというと、別館に連れて行かれる。別館は本館から30mほど離れていてまったく別のところにあった。こちらはモーテルのような作りの宿で、駐車場に面して部屋が数部屋あるだけ。部屋の内部は10畳ほどあり、けっこう広い。トイレ・シャワーつき。だが建物自体はちょっと古くなっていて、フロントも何もないのでセキュリティ面ではちょっと不安な点あり。

部屋に荷物を置いて、まずは食料を買いに行く。近くには安食堂がなかったので、食料品店でパンや牛乳などを買って部屋で食べる。買い物に行った店の店主は中国人で、どこから来たのかなどと英語で尋ねてきた。さびしい夕食をとった後、シャワーを浴び、濡れたカバーや靴などを早く乾くように部屋の中に干してから就寝。静かな夜だった。

FIN