2011年3月4日金曜日

[diary]ヒヴァからブハラへ

ヒヴァからブハラへ

2009/01/22(木) ホラズム地方は曇り&濃霧、ブハラ近辺は晴れ ブハラは15℃前後
[Xiva→Buhkara:O'zbekiston]
※レート:1米ドル=1500スム(ブハラの闇両替で)

・当てが外れたバス
・シェアタクシーでブハラへ
・日本人、台湾人でおしゃべり
・宿主との話から

7時過ぎに起床。もちろん外は暗い。室内は半袖でもいいくらい暖かい。外に出てみるが、今朝も気温はマイナスにはいっていないよう。

出る準備をしてから8時半に朝食。宿の人が2日前に焼いたというナン(パン。ピザ生地のように円形で平べったい)とジャムとチーズ、お菓子と半熟の目玉焼きと薄味のチャイ。

食事後、宿代を支払う。2泊分10米ドル(朝食付き、ドミ)と昨晩の夕食(パロウ)代5000スム(約3米ドル)。宿主からはこの2日間のレギストラーツィア(滞在証明のようなもの)をもらう。なぜこのタイミングなのかがわからない。

それからすぐに宿主と一緒にタクシー乗り場に行く。同宿の台湾人(以下、Yさん)もブハラに行くというので一緒にいく。

イチャン・カラ(旧市街)を歩いていると、宿主が”あれが自分の2つ目のゲストハウスです”と教えてくれる。ぼくらが泊まっていた建物と同じく土壁でぐるりと囲むようなスタイルの建物が指さした先に見える。

建物に掛かっている看板を見るとぼくらが泊まった宿と同じ名前になっている。同じ名前にしている理由を宿主は、”各種手続きが1回で済むから”と言う。つまり、客のレギストラーツィアなど対役所に必要な書類は、オーナーが同じでも宿の名前が違うとそれぞれで用意しないといけないらしい。その手間を省くために同じ名前にしていると言う。

イチャンカラの北の入り口であるバクチャ門近くまで来たとき、正面から軽乗用車がやってくる。宿主とは知り合いのようで、運転手は宿主にぼくらはどこに行くのだと尋ねる。宿主は運転手とウズベク語(おそらく)でざざっと話をし、ぼくらに英語で”1人3000スム(約220円)でウルゲンチまで行くと言っているがどうだ?”と聞いてくる。トロリーバスは400スム(約35円)だったので、それと比べると10倍近い。ただトロリーバスは時速おそらく20km程度とめちゃくちゃ遅いので使えない。

他に客を乗せずにすぐに出るし、ローカルプライスだというので、二人でこれに乗り込む。宿主とはお別れ。宿主は英語でお別れを言ったのだが、その中で”Big Salam for you and your family(ビッグなサラーム(平和、平安)があなたとあなたの家族にありますように)"と言っていたのが印象的。やっぱりイスラム圏なんだなとこういうところで感じる。

小さな軽乗用車は霧で煙る道をバンバン走る。9時を過ぎたところだったが、走る車は少ない。ときおりロバに荷車をひかせ、一緒に歩いているおじさんを見る。

9時半過ぎ、ヒヴァから30分足らずで乗り換え地点のウルゲンチに到着。運転手に運賃を払い、荷物を受け取り降りる。

バスターミナルはチケットを売っている屋内施設と屋外の駐車場があり、駐車場には数台の大型バスが泊まっていた。その南の通りは乗り合いタクシー乗り場になっていて、ぼくらはそこでタクシーから降りたから、あっと言う間に数人の乗り合いタクシーの運転手に囲まれる。

どこに行くのだと聞くのでブハラと答えると一人30米ドルだとまず言う。「ニェート、ニェート」と答えると25米ドルに落ちる。が、まだ高い。

バスの方が安かろうとバスに聞くとブハラまで25000スム(約1700円)もすると言う。おかしい。そんなにするわけがない。ターミナルの屋内施設内にある切符売り場で聞いたところ、こっちは10000スム(約700円)と言う。まぁ、その程度だろうと思ってこのバスのチケットを買おうと、出発時刻を聞いたら14時だと言う。午前中にはバスはないらしい。ガイドブックには1日数本のバスがあるとあったので、10時ぐらいのバスがあるだろうと踏んでいたが、当てが外れた。さすがに14時まで待っているとブハラ到着が夜の10時近くになるから、これは避けたい。

さっきのバスに戻り聞いてみるとこちらもやはり14時発。なんでそんな中途半端な時間に出るんだ、と思うが、そもそもタシュケント行きのバスで途中下車するかたちになるから、バスの方からすればブハラ到着の時刻はたいして重要でないのだろう。

ということで、乗り合いタクシーに乗ろうかと思い、またタクシー乗り場に行く。うち1台が15米ドルまで下がる。が、あーだ、こーだとやりとりしている様子を見ていたYさんはタクシーの運転手が信用できないと言い、やっぱりバスに乗ると言う。

それならば彼女に付き合うしかないなと思い、またバスターミナルに戻る。14時まで待つことにして、ターミナル内のベンチに腰をかけてガイドブックを開く。

しばらくするとタクシーの運転手が1人現れ、1人2万スム(約14000円)でどうだとぼくに言ってくる。ぼくは彼女に夜遅くなるとブハラのバスターミナルから町中に行くバスがなくなる(実際に行ってみるとそもそもそのルートにはバスがなかった)こともあるから、早くに出た方がいいなどと言って半ば説得し、結局、彼女が折れて乗り合いタクシーに乗って行くことにする。

運転手のおじさんに案内されて普通乗用車のタクシーに乗り込む。が、すぐには出ない。おじさんはもう一人客を捕まえるから待てというような仕草をする。

しばらくすると運転手と思っていたこのおじさんとは別のおじさんがやってきて、一人25米ドルですぐに出るってのでどうだと言ってくる。これは却下。さらにさっきのおじさんはもう一人と言っていたのに、このおじさんはもう二人だと言い出す。やれやれ。

それから待つこと1時間足らず。10時半頃になって一人の客が捕まった。見たところ50歳はすぎているおじさん。おじさんが乗り込んできたところで、さっきのおじさんが来て、これで出発するから一人25000スム(約1700円)でどうだと言ってくる。待つのも値切るのも面倒だったので、それで折れる。こうしてようやく出発。運転席に座ったのはさっきのおじさんではなく、まったく別の若い男の人だった。

濃霧の中を車は走る。建設中の橋を右手に見ながら凍結しているアムダリアをがたごとと渡る。向こう岸に着いてからは比較的まっすぐな道になる。路面は舗装されているもののだいぶぼろぼろになっているから、車がけっこう揺れる。運転も荒いので、ときおり前につんのめったり、後に引っ張られたりする。

検問を3つほど越えて、さらに走ると辺りは砂漠になる。トルクメニスタンのアシュガバードからキョーネウルゲンチに通ったカラクム砂漠と同じように平べったく、草がぼさぼさ生えている。

かなりスピードを出しているようだったので、速度メーターを覗いたら20km/hあたりを針がゆらゆらしていた。つまり、壊れていた。

検問所では運転手が身分証明書の提示を求められるばかりで乗客は特に求められることはなかった。

運転手はなぜかよくわからないが頻繁に停まる。わけがわからない。理由を聞こうにも聞いたところでロシア語がわからないから意味がない。

昼になっても昼飯休憩はなく、ちょっとだけたばこ休憩をした以外はひたすら走る。Yさんがナンとチムチ(キムチ)をヒヴァで買ってきていて、それを昼飯に分けてもらう。このチムチも唐辛子が使われているものの辛みはまったくと言っていいほどない。

霧でかすむ砂漠の中の一本道が続くので、いくらか寝てしまう。

気が付いたら霧が晴れ、辺りには農地が広がる景色になっていた。農地は耕されているだけで何も植わっていない。耕す作業は機械でしているらしく、掘り起こされ方が規則的。

沿道に見える家々は平屋の大きな(床面積
7~8m×4mくらいありそう)母屋に小さな小屋が1棟あるというスタイルが多い。小屋の屋根や母屋の軒先には藁(米か麦の藁)や綿花の藁(日本での蕎麦や米の刈り取りの仕方と同じで綿花も根本から刈り取り、実だけ後から取っている様子)がどさっと積まれている。家畜の餌用なのだろうか?

ウルゲンチを出てから5時間半後の16時前。中央分離帯にアラビア科学の偉人らしき人が描かれた看板を見る。古い書物から出てきたような絵柄の人物の後には天体望遠鏡みたいなものが見える。誰なのだろうかと思っていたら、運転手が後を振り返り「ブハラ!」と言う。ウルゲンチからは7~8時間かかると聞いていたので、17時くらいに着くかと予想していたのだが、それよりも1時間早く着いた。

しかし、バスターミナルでぼくらに話をしたおじさん(彼は客引専門だったのか?)はホテルまで連れていくからと言っていたのだが、運転手はバザール前の乗り合いタクシー乗り場に車を停める。運転手に中心部まで連れて行けと片言ロシア語で言っても「ニェート、ニェート」と日本語的に言えば”ハァ?なんで?”と聞き返すような雰囲気で答える。思わず舌打ちが出る。やはりぜんぜん引継ができていない。というか、最初からこういうつもりだったのだろう。

しょうがないので運転手に運賃2万5千スム(約1700円)を払い、タクシーを降りる。降りる手前からすでに別のタクシーの運転手がぼくらに寄ってきて、ブハラの中心部まで5000スム(約300円)と言ってくる。

ミニバスが見えたので、とりあえずタクシーは却下してそちらに行く。ミニバスに乗り込んで出発を待っていた客にロシア語で、このバスが中心部のラビハウズに行くかどうかを尋ねたところ、ここからはそこに行くバスはないと言われる。

しょうがないので、タクシーに乗ることにする。今度の運転手は4000スム(約250円)と言ってくる。1人あたりでは高いなと思い、2000にするよう言うと、彼は2人で4000スムだと言う。これは事前情報からノーマルプライス(と運転手は言う)だったので、これに乗る。

ホテルが集まっているラビハウズは車で行くとすぐ。10分もかからないくらいで着く。運転手に行きたい場所を告げていたのに、彼はそこに行かず、近くの別のところに着いてからその辺りの人に聞いて回る。任せていても時間がかかるばかりなので、ここでタクシーを降り、歩いて宿を探す。

タクシーを降りたら道ばたでお菓子などを売っていた一人のおばちゃんがやってきて、英語でどこのホテルを探しているのか、電話番号を教えてくれれば電話してあげる、と言ったことを言ってくる。無償の親切かと
思って宿名などを告げるが、Yさんが辺りにあった4~5軒の宿の値段をチェックしてみようと言い出したため、おばさんとはすぐにお別れ。後にこのおばさんは問題おばさんだということがわかる。

ラビハウズにすぐ近い宿2軒回ったところ、両方とも現在改装工事中。この時期は客が少ないため、改装工事をしているホテルが多いと聞いたが、その通りだった。2軒だけチェックしたが、どちらもシングル15米ドル(朝食付き)。値切ると朝食なしで10米ドル。部屋を見せてもらったが、なかなかすばらしい。テレビ、エアコン付き。調度品も日本で言うとビジネスホテルよりもこじゃれている。やっぱり観光客が多いところは違う。

それから当初予定していた宿に行く。ここはネットでは1泊5米ドルとあった。宿がある通りに入ると正面でふらふらしていた20代中くらいの細身の男性が英語で”ナンバー18を探しているのか”と尋ねてくる。宿の番地は18番。”そうだ”と答えると、”そこは自分のシスター(姉か妹かはわからない)がやっている宿だ”と言って案内してくれる。

さっきまでの旧市街の道はきれいに整備されていたのに、一歩出たここらはがたがた。両脇に並ぶ家は藁を漉き込んだ壁で囲まれている。通りすがりの10歳程度の男の子が「コンニチハ」と日本語で挨拶してくる。

宿に到着。ここは自宅の一部を改造した宿だった。案内された部屋は最近改装(あるいは増築?)された部分のようで内装がとてもきれい。灰色の絨毯が敷かれた床の上に肩幅くらいしかない細長いカラフルな布団が敷かれている。これが客室らしい。

値段については、シスターと話してくれということだったので、しばらくそのシスターを待つ。情報ノートと『ノンリープラネット』の中央アジア版あり。

しばらくすると女性が2人帰ってくる。一人が宿主の女性で、一人は彼女の妹でアメリカで勉強している学生らしい。2人とも英語はぺらぺらのよう。

値段を聞くと2人(Yさんと)同じ部屋に泊まるなら2泊で一人15米ドル朝食付きだが、別々だと1人10米ドル朝食付きとのこと。朝食抜きだと8米ドルと言う。別々の部屋でということでお願いし、荷物を置いて外に出る。

時刻は17時前。まだ明るい。スムがほとんどなくなってしまったので、両替しようとラビハウズ近くの両替所に行ったらすでに閉店。向かいの路上でガイドブックや靴下など土産物品を売っていた人が、もし必要なら知り合いに頼んで両替してもいいが、どうするかと聞いてくる。レートを聞くと1米ドル=1500スム。これまでの闇両替は銀行とほぼ変わらないところばっかりだったが、ここはきちんと闇らしく銀行よりレートが良い。

なので頼んでみたが、相手の都合がつかないようでまた明日ということになり、結局、両替できず。

連絡を取るべきことがあったので近くのネット屋に行き、メールチェック。写真のデータのバックアップをしようとしたが、USBが反応せずできず。料金は1時間1000スム(約70円)。ヒヴァの半額。

その後、歩いていたらYさんと日本人男子旅行者と遭遇。晩飯のことを尋ねると、じゃあ食べに行きましょうかということになり、食堂へ。つい30分ほど前は開いていた食堂はすでに閉店。まだ19時前なんだけどね、ヒヴァと同じで閉店時刻が早い。

1軒開いているところがあったのでそこへ行く。ここの主のおじさんはなかなかフレンドリーというか陽気な人で、「マントゥ、ラグマン、パロウ・・・」と料理名を言った後で「テヅクリ(手作り。音としてはテジュクリと聞こえる」と日本語で付け足す。

パロウ(ピラフみたいなの)の値段を聞くと”アメリカ人だと5000スムだが、日本人なら3500スムだ"とテンション高く答える。ラグマン(麺料理)が2000(約130円)と安かったのでそれを頼む。

日本人男子の彼は中国の新彊に1年留学していて、それが終わったので今中央アジアを見て回っているらしい。日本の大学は現在休学中で専攻は東洋史。新彊の歴史を研究しているらしい。中国に1年いたということで中国語はぺらぺら。なので、ぼくら3人の会話は次のような状態だった。ぼくと台湾人のYさんは英語で話し、ぼくと彼はもちろん日本語で話し、彼とYさんは中国語で話すという、なかなかよろしい三角関係。彼だけは双方の話がわかるが、ぼくとYさんはどちらかしかわからない。

彼が中央アジアをまわっているのは、新彊の学校で一緒に勉強していた人に中央アジアから来ている人が多かったからというのもあるらしい。特にカザフスタンから来ている人が多かったという。ただ彼らは勉強というよりも仕事で来ており、あまり勉強せずに夜中でも騒いだりするため、ちょっとした問題の種だったりするらしい。これは中国で現在日本語を教えている人から聞いた話と同じ。

そうしたカザフスタンからの留学生は年齢も16歳から20代と若く、中国で物を仕入れて物価の高いカザフスタンで売って儲けているらしい。彼はここに来る前にカザフスタンにいったらしいのが、ホテル代が日本並だったので驚いたという。

また彼はウズベク語もしゃべっていたので、聞いたら留学中にウイグル語も勉強していたらしく、そのウイグル語とウズベク語は近いため、だいたいわかるらしい。

ラグマンはぼくがトルクメニスタンのキョーネウルゲンチで食べたものとは違って、麺が細くなり、スープも澄んでいない濃いめ。でも、なかなかうまい。麺にもっとコシがあるともっと日本の物に近くなる。

彼らとは外国語話(英語は簡単か?、ロシア語の音がいい、etc)や東アジア人を見分けられるか話、台湾・中国と日本の習慣(たとえば中国でも台湾でも「いただきます」も「ごちそうさま」も言わないらしい)についてなどなど話す。

20時を過ぎたところでお開き。会計を頼むとなんとサービス料として代金の1割を追加請求される。まさかウズベキスタンでサービス料とは、と驚く。

店を出ようかとしたら別のテーブルに座っていた10人ほどの地元の男グループに捕まる。どこから来たのかなどと聞かれ、ウォッカを勧められる。名前を聞かれたときに「ジュモンだ」と答えると意外にウケる。驚いたのは彼らのテーブルにあったのが生魚だったこと。食べなかったので本当に生なのか、それとも酢でシメられていたりするのかわからなかったが、見た目は生。しかもイクラ(卵)付き。一緒に飲むよう誘われるが辞去して宿へ。

宿に戻ってからはちょっと宿主とおしゃべり。会話は英語にて。彼女に警官の給料を聞くと月300米ドルらしい。この給料はウズベキスタンではめちゃくちゃいいらしい。教師や医者でも月100米ドルが相場と言う。警官になるには180cm以上の身長があり、警察試験をパスしなければいけないらしいが、身長が170cm程度でもカネを500米ドルほど積めばなれるらしい。

彼女も警官からの賄賂攻撃を目撃したことがあるらしく、タシュケントなどの警官はダメだといったことを言う。そして警官に賄賂を要求されたらボスを呼べと言い、かつ要求してきた本人の名前を聞き、彼の写真を撮ったりすれば、警官は賄賂要求を引っ込めると教えてくれる。

その他、ウズベキスタンの物価は上昇中で、1年半ほど前までと比べると米やガソリンの値段が2倍以上に上がっているという。

しばらくそうしたおしゃべりをして22時頃におひらき。

その後、自分の部屋に行き、今後のルートをどうするか考える。迷う。カザフスタン内や中国内のルート。それぞれにどれくらい滞在するか。持参した世界地図とガイドブックを見ながら考えるが、ここと日本の間にある地域だけでもゆっくり回っていたら半年はかかりそう。中国はでかすぎ、かつ面白そうなところがありすぎだ。

結局のところはいくつかのルート候補を考えただけで結論はでず。もう少し情報を集めないと決められないなぁ。というわけで寝る。

Fin

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