2011年3月4日金曜日

[diary]オシュからビシュケクへ

オシュからビシュケクへ

2009/02/01(日) 曇り
[Osh→Bishkek:Kyrgzstan]
※レート:1米ドル=40.2(両替屋にて)

・朝食はポロ
・乗り合いタクシーでビシュケクへ
・2度の山越え、チェーンの着脱
・真夜中にビシュケク着

ハチチャの家で4回目の朝を迎える。6時過ぎに目が覚め、さっそく出発の準備。今日はビシュケクに行くのである。バザール近くの乗り合いタクシー乗り場で聞いた話ではビシュケクまで10~15時間かかるという。そのため今日中に着くにはなるだけ早く宿を出ないといけない。

前日にハチチャのお母さんに7時前に家を出るから朝食はいらないと伝えていた。外は暗いもののさすがに家の人は起きているようで、隣の部屋から声がする。

出発の準備を済ませ、出ようと家主が出てくるのを待つ。家主のおじさんがこちらの部屋に顔を出したので、これから出ると言うとポロウ(パロウ:中央アジア風炊き込みご飯)を作っているから待てと言う。早く出たいぼくとしては、余計なお世話なのだが、3回ほど”いやもう出るのだから”と伝えるもまったく折れない。しょうがないので、こちらが折れ、朝飯ができるのを待つ。

ここが旅行者の対応に慣れている宿であれば、少しでも早く朝飯を準備して旅行者のスケジュールに合わせるようするのだろうが、まったくそんな雰囲気はなく、結局、朝ご飯が出てきたのは8時前だった。

初日と同じように直径が70cmほどもある平皿に山盛りになって出てくる。中華料理のようにそれぞれに小皿が用意されるわけでもなく、それぞれがその大皿から直接スプーンですくい取り、自分の口に運ぶ。緑大根の千切りが別の小皿に用意されているので、それをご飯にかけながら食べる。この家のポロウは食堂でよくあるような油ぎったポロウではないし、味付けもちょうどよい具合で美味い。米の炊き具合もベスト。

家主のおじさんは、ビシュケクには明日着くだろうと言う。ぼくもこの時点で既に今日中に着くのは諦めてしまった。

朝食を済ませると4歳のムスリマがぼくの元にやってきて、遊ぼうとねだる。なので、しばしお相手。昨日、一昨日と同じように手をつないで部屋の中でぼくを軸にしてぐるぐる回ってから、ぱちっと止まり、ウルトラマンセブンがなんとか光線を出すときの構えと同じような構えをして「ウトカ、ウトカ、ウトカ」(ウズベク語?意味不明)と言うのを2回繰り返した後、ムスリマは一人で両腕を横に広げ一回転する。

そしてぼくを部屋の端に行くよう押し、自分はドアの陰に隠れ、ちょっとした隠れん坊状態を数秒間続ける。そして、適当なタイミングで「ワー!」と大声を上げながらぼくの前に現れる。そして楽しそうに笑う。これら一連の流れを彼女は繰り返す。ぼくはそれに付き合う。

昨日までならしばらく彼女の遊びにつき合えたのだが、さすがに今日はそんなにつき合えない。3サイクルほど付き合ってからもう出るからと仕草で伝える。母親がムスリマに強い調子で何をか言い、彼女の動きは止まる。

ぼくはリュックを背負い、イランで買ったブーツを履き、外に出る。家主夫婦に見送られて家を出る。次男が国境のマルシュートカ乗り場まで送ってくれるというので、彼と一緒に水たまりばかりの未舗装の道を歩く。今日はわりと天気がいい。

10分足らずでハチチャがお菓子屋をしている国境に到着。マルシュートカに乗り込む。乗り込んだところへハチチャが来て、「ダスビダーニャ(さようなら)」と笑顔で言って、自分の店に戻っていく。

オシュの中心部まではマルシュートカで20分ほど。運賃7ソム(約20円)。

ビシュケク行きの乗り合いタクシーが出ている駐車場近くでマルシュートカから降り、駐車場に向かう。駐車場の入り口には運転手が数人客引きしていて、声をかけてくる。ビシュケクに行くと言うと、一人のおじさん(と言っても40歳前後)がこっちに来いと言うので後をついていく。おじさん車には既に客が乗り込んでいたし、運賃も1000ソム(約2500円)と地元料金だったので、促されるまま乗り込む。

トランクにリュックを乗せようとあけてみると、すでに荷物でいっぱい。大きな袋の一つを取り出し、代わりにぼくのリュックをトランクに詰め、その袋は後部座席に乗せる。

駐車場にあった有料トイレ(3ソム)で用を済ませ、車に乗り込むとすぐに車は発車した。乗客は助手席に1人と後部に2人。通常なら後部座席に3人だが、例の荷物がぼくの隣にあり、一人分の席を占めている。これで出発するとは意外だ。車はベンツだが、古いタイプのよう。

車内は音楽もかからず、かと言っておしゃべりもなく、とても静か。同乗者もぼくにはどこから来たのかといったことを聞いただけでそれ以上は話しかけて来なかった。

どういうわけかぼくは異常に眠く、というか自分でも眠気を感じなほど眠かったようで、さっさと寝てしまう。目が覚める度に、いやいや起きてまわりの様子を見ねばと思うのだが、またしばらくしたら寝ている、というのを繰り返す。

景色は基本的に単調で、木のない山々に挟まれた道をずっと走るだけ。時折、まちが現れる。

畑が広がっている地域もあり、意外なことにここも雪がない。悠然と馬に乗ってどこかへ移動している人たちも見るし、馬に荷車をひかせている人たちも見る。

民家は基本的に1階建ての平屋。一見する限りでは特に伝統的な造りとは思われないありきたりな造りのものが多い。壁はコンクリートブロックあるいは煉瓦を積み上げた後に、表面をコンクリートで塗り固めたようなものが多い。屋根はトタンとは材質が違うように見えるが、外観はトタンのように波打っているものが多い。日本の古い民家のように、屋根が交わる頂点は破風(はふ)が設けられているように見える。

12時頃、車はある食堂の前で停車。運転手に”食事は?”と聞かれたが、眠かったし、オカネをつかいたくなかったので、そのままぼくは車内で寝続ける。

休憩はその程度で、ひたすら車は走る。

徐々に高度が上がってきているようで、ぼくは耳に違和感を感じる。

そのうち雪山に挟まれた道路になり、路面はアイスバーンにこそなっていないものの、雪が踏み固められた状態のものになる。

路肩でチェーンを装着している車を何台も見る。乗用車同士がぶつかって話し合いらしきことをしている人たちも見る。

ぼくは乗る前にこの車がチェーンを持っているか確認しなかったなとちょっと不安になるが、そのうちこの車も路肩に止まり、チェーンを付け始める。ぼくの隣に座っている40歳というクルグズ人の男性が運転手の作業を手伝う。ぼくは見てるだけ。

改めて車のタイヤを確認すると、やっぱりノーマルのタイヤだった。チェーンの装着は20分ほどで終わる。不思議なことにチェーンを付けたのは左後部のタイヤのみ。そもそもチェーンが1つ分しかないよう。こんなんで大丈夫なのかと思ったが、意外にもこれで十分坂道を上る。

いったん下ると雪がなくなったので、チェーンを外す。

朝から曇っていたので、外の明るさからは何時かわからなかったが、すでに夕方近くになっていた。

しばらく走ると雪道になったので、またチェーンを付ける。
2度目の山越え。こっちはなかなか本格的な雪道だった。そのうち外は真っ暗になり、正面からは雪がヒューヒューと吹き付ける。窓の内側を曇らせていた水分は余すことなく凍ってしまった。

ビシュケクに近づくほど車の往来が増える。

雪道になって以降は目が冴える。下り坂になると、耳の痛みが激しくなり、飛行機で着陸するときと同じような状態になる。これで眠るどころではなくなる。ちなみにさっき越えたアラベル峠の標高は3184m。

しばらくして正面にトンネルが見えてくる。入り口近くには武装した警官などがいる。

運転手はトンネルの手前で右に曲がり、駐車スペースで車を止める。そして、チェーンを外す。

そうしてからトンネルに入る。ガイドブックによればこのトンネルは2kmほどあるらしい。

トンネル内は雪などはなく、トンネルを出てしまうとすっかり雪のない世界になってしまった。

オシュを出てすぐに運転手に何時くらいにビシュケクに着くか聞いたとき、2時か3時だろうと言っていたから、まだまだしばらくかかると思っていた。このころになるとようやく耳の痛みもおさまったので、また寝る。

目が覚めるとアパートが並ぶ住宅街にいて、10分ほど走った頃隣のおじさんは降りていった。

運転手はぼくにどこの宿に行くのだと聞くので、ガイドブックを見せながら説明。車の時計を見ると時刻は夜中の12時前。この時間では宿は閉まっているかもしれないと思いつつも、予定していた宿に行ってもらう。

宿はわかりにくい入り組んだ路地にあった。入り口のドアベルを鳴らすが反応なし。ドアを叩いて日本語で呼びかけるが、中からだれも出てこない。時刻は12時20分。

やっぱり寝てしまったかと思い、どうするかなと思っていたところへ、なかから足音がして宿主の人が現れる。現在停電中のようで灯りや何もかもが使えないらしい。

宿は現在改装工事中。ドミということでベッドが2つある部屋に案内される。そこには日本人男性の旅行者が1人。彼も寝ていたようで、そこを起こし、うちから鍵を開けてもらう。

こうして無事宿を確保。しばらく同じ部屋の日本人と話をしてから寝る。ここのところは毎日12時を過ぎると停電するらしい。

Fin

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