G.ルフェーヴル(高橋幸八郎ほか訳)『1789年ーフランス革命序論』岩波書店
18
「フランス革命の研究史にいて「農民革命」という範疇が初めて出てきたということは、農業=土地問題こそが市民革命の核心であるという問題意識が初めて歴史家のものになったということであり、ブルジョワ革命史がいわば最高の発展段階に到達した、ということを意味することになろう」
60-61 原因と対策
「当時の人々は、この不健全な財政状態の原因が、大臣と宮廷の恥知らずな浪費や、間接税徴収を請負う金融業者や直接税のあがりを一手に集中している多数の徴税官(これは官職保有者であった)のおそるべき利得にあると考えていた。 ー略ー
しかしながら、いかに巨額とはいえ、この額は予算の6パーセントを超えていなかった。また、他の一般行政経費は予算の19パーセント、陸海軍・外交の経費は26パーセントであった。国王財政を押し潰していたのは、実は、負債の重圧であった。」
62-63 国庫収入の抜け穴
「実のところ、すべてのフランス人が同等に租税を負担していたわけではなかった。 ー略ー
要するに、アンシャン・レジームにおいては、富んでいればいるほど、租税を少ししか払わない機構になっていた。したがって、技術的見地からみれば、危機の解決は容易であった。すなわち全員に租税を支払わせれば事が足りたのである。」
90
「植民地貿易もまた、無視できぬ富の大きな源泉であった。「諸島(イル)」、すなわちフランス領アンティユ諸島、とくにサン・ドマングからは、砂糖・綿花・藍・煙草が運ばれてきた。他方、輸出の大部分も海路を通じて行われていた。さらんまた、「諸島」に対しては、当時「黒檀材」とよばれたもの、すなわちアフリカでの「取引」で入手された黒人奴隷を供給する必要があった。」
91
「一般に、工業は大商業の附随的存在であった」
94-95
「ブルジョワジーはその生活条件において極端な多様性を示しており、この多様性が彼らの生活態度のなかに反映していた。まず金融や大商業に従事する大ブルジョワジーは、パリや地方大都市の新興地域の華麗な館に住んでおり、上層アリストクラートと違う点とえば、出生だけであった。しかし、ブルジョワジーの大部分の者の生活は、これとは非常にかけはなれていた。ー略ー
とくに注目すべきことは、これらのブルジョワが民衆と密接な関係をまだ保っていたことである。」
97
「さまざまな種類のブルジョワの間に、アリストクラシーに対する共通の憎悪という何者も断ち切ることのできない絆がつくられた。」
138
「1789年の革命とは、なによりも、平等の獲得なのである。」
245
「革命的状況をもたらすうえで経済的危機は二重の効果をもっていた。すなわち、一方で、経済的危機は、農民をいらだたせ、その怒りを何よりもまず十分の一税徴収権者と領主とに向けさせた。これらの貢租徴収者が農民からその糧の一部を収奪していたのであるからには、経済的危機に苦しむ農民の怒りがまずそこに向けられたのは当然のことである。他方で、経済的危機は、貧窮民を激増させることによって、社会不安を全般化したのであり、その社会不安は、結局のところ、アリストクラートの陰謀のせいにされたのである。」
296-297
「人権宣言は、本質的に、アンシャン・レジームの死亡証書なのである。」
08/06/17
サンパウロにて
0 件のコメント:
コメントを投稿