上野英信『出ニッポン記』現代教養文庫(1977=1995)
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「それにしても、いかにも三井鉱山らしい労務政策であるといわなければならない。必要とあれば、手段を選ばず強引に労働力を確保し、いったん不要となれば、また同様にいかなる手段をつくしても廃棄する点、ただすさまじいかぎりである。筑豊の老鉱夫たちはいまも”人買い三井”と呼びならわして、そのあくどさを恐怖している」
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(炭坑離職者専用の農業訓練所に入所式にあたって)「35名の訓練生のいでたちは、なんの申しあわせもなかったが炭鉱時代の慣例どおり、作業衣に脚絆、地下足袋という坑夫スタイルであった。そして首には、これまた慣例にのっとって、ま新しい白色の手拭いを、きりりと襟状に締めていた。
その純白の手拭いは、暗黒の地底で坑夫の心意気を示す、唯一最高のおしゃれであり、贅沢であると同時に、負傷のさいには包帯ともなり、ガス爆発のばあいは水にひたしてマスクともなる。このうえなく大切な救命用携帯品でもあった。そして坑夫たちは、この一本の手拭いをぴーんと張って首に締めると同時に、身も心もひきしぼった弓の弦のように緊張しきるのがつねであった。
人生の新しい門出の儀式と思えばこその身だしなみも、しかし、官僚あがりの謹厳な訓練所長の眼には、このうえない不作法、不謹慎と映った。彼はただちに首からタオルをはずすよう注意したうえで、おごそかに訓示をはじめた。諸君は本日からすでに南米大陸の開拓地に入った気持で行動してほしい、と彼は要望し、「善良なる移民」になるよう、くり返しくり返し強調した。」
106 ある炭鉱出身者の言葉
「「たしかにパトロンの土地で働くほうが気は楽です。ただ私としては、パトロンの考えひとつで、まるで犬か猫のごと追い払わるる生活が辛抱でけんやったとです。戦前に日本から渡ってきたひとたちの中には、何十年も昔の頭のひとが少のうありまっせん。契約書を見てびっくりしたことがあります。パトロンに口答えをしたら即時退去、と書いてあるとですけん。」
107 日本人の旧移民から新移民に対しての要望事項
「一、俺たちより苦労しろ。
二、八時間といわず、日の出から日没まで働け。
三、食物に文句をいうな。
四、寝る所に文句をいうな。
五、労働賃金に文句をいうな。
六、外国人よりも余分に働け。 」
168-169
(農業をやめて商売を始めた人に対し)
「「農業が嫌になったのですか」
そう私が訪ねると、鈴木青年は次のように答えた。
「いいえ、そうではありません。ただ、ひろいブラジルを狭く暮らすのが堪えられなくなったからです。もっとみなで力を合わせて団結すればよいと思いますけれども、たった30軒ばかりの人数でありながら、幾派にも分かれて、いつもごたごた、内輪もめばかりしているでしょう。愛想がつきましたよ」
私は彼の話を聴きながら、サンパウロで会った旧移民の苦渋にみちた言葉を思いださずにはおられなかった。ブラジル在住の諸民族の中で、もっとも子弟の教育に熱心なのは日独両民族であるという説をふまえて、そのひとは私にこう念を押した。
「たしかに10家族集まるとすぐ学校を建てるのも日本人です。が、それと同時に、10家族集まるとすぐ派閥を作って同胞相食み、共倒れするのも日本人です。そのことも見落とさないように」と」
196
「私がブラジルに到着して以来、折りにふれて炭鉱離職者たちから聴かされてきたことの一つは、「沖縄県人は羨ましい。新移民が入ると、彼が早く独立できるよう、先輩たちが力を合わせて援助する」ということであった。」
210-211
「「おなじ集団生活でも、なかなか炭鉱のごと仲良ういかんもんですなあ。お互いに陰口ばっかりいい合うて、しょっちゅう仲間われですけん」 ー略ー
「その点では、インディオたちのほうが遙かに立派ですばい。けっして仲間の陰口をいわんですけん。もちろんそのかわり、面倒なこともあります陰口どころか、かならず伝言せよと命じたことさえ、いっさい伝えませんね。それでなにか一つの仕事を命じる時でも、5人なら5人、10人なら10人、一人ずつ呼んでおなじことを指図せんとなりまっせんもんなあ。ばってんそれでも、日本人のように、いいもせんことが伝わるより、ずっとましですばい」
218
「これはブラジルで聴いた話だが、「日本人を一番信用していないのは、どの民族と追もうか。ほかのどの民族でもない。おなじ日本人の海外移住事業団である」という批判もあった。「彼らは日本人を信用しようとせず支配ばかりしたがる」と。」
230 パラグアイのドイツ人コロニアの言葉
「「一世は死 二世は苦しみ 三世はパン」」
271
「「はるばる地球の裏側までやってきながら、まだしょうこりもなしにおなじ日本人を差別する民族ですよ。他民族を差別しないほうが不思議でしょう。常日頃、親兄弟にも葉書一本出さんやつらが、いったんわが子の結婚話となると、書くか書かんか、夜の目も寝らんずく山ほど手紙を書いて、相手の家が未解放部落の出身ではないかとそれだけを血眼になって調べあげる人種ですから」
こう、私を睨み据え、吐いて棄てるようにどなる者もあった。」
「「船に乗る前から、神戸の収容所に入った日からいやになった」という声を、私はどれほど多くの炭鉱離職者から聴かされたことか。」
285-286
「「炭鉱離職者のみなさんはなかなかよく働かれますが、率直に申し上げて、”宵越しの金は持たん”という性格がわざわいしているように思います。うまい米は売って営農資金にまわし、自分は芋を食うて辛抱するのが百姓というものです」
なるほど、「百姓というもの」はそういうものかもしれないと思う。と同時に、炭鉱で長く働いたひとたちにとっては、かなり無理な注文であろうと思う。なぜなら、きょうあってあすない生命という点において、あるいはまたその日暮らしの不安定な流浪生活である点において坑夫と移民はあまりにも共通した部分が多いからである。
彼らは芋しか食えない仲間に米を食わせるためには、みずからは進んで芋をかじるのは好きであるが、金をためるために芋をかじるのは好きではない。」
417
「「ブラジレイロはほんとうにわたしたちを大事にしてくれますね。おなじ移民でも日本にきた朝鮮人のことを考えると、こんなに大事にされいいのかと思いますよ」」
560 1926年の沖縄移民再開にあたって日本政府が付けた条件
「一、15才以上の者は義務教育を終えた者にかぎる。
二、男女とも40才以下で、普通語を解しかつ女子は手の甲にイレズミなきこと。
三、家長夫婦は3年以上同棲したものであること。
四、家族は家長夫婦いずれかの血縁の者で構成し、養子にあらざること。
ー略ー」
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