在キューバ日本大使館でもらったパンフレット「キューバにおける日本のプレゼンス 日本・キューバ交流開始100周年」より
「1868年以降、日本国内の事情により、多くの日本人が国内で仕事を見つけることができず、よりよい暮らしと一攫千金を求めて移民の道を選んだ。彼らは、様々な理由、主に経済的竜から、故郷に錦を飾る事を夢見る出稼ぎ労働者として自国を離れていったのである。
出稼ぎ労働者たちの際しょん定住地は、ハワイや他のアジア諸国、アメリカ合衆国、カナダ等であったが、そのような定住地において成功の見込みがなかった日本人は、帰国する資金さえままならぬ状況であったために周辺諸国に移り住む他に方法がなかった。
主にアメリカ合衆国のタンパ、キーウェスト、ワシントンDC、メキシコのベラクルス及び米州地域の他の国々からキューバへ到着した人々が日本人として初めてキューバに移り住んだ人々である。
1914年、藤代という日本人移民がキューバへ着いたがその時すでにキューバには60名程度の日本人がいた。数ヶ月後彼は67名の日本人を連れてきたが、一団はサンタ・クララ、トリニダなど中部に定住した。その地で彼らは、既に入植の始まっていたシエンフエゴス県のカンポ・デ・カルメリナとして知られる場所での経験を生かし入植を続けた。なおカンポ・デ・カルメリナには翌年、最初の日本生産者組合が設立されることになる。
20年代は日本人移民がキューバへ大挙して押し寄せてきた時期であり、国内各地の移民グループの間では、国内の協力を推進するため新しい組織を構成することと、彼らの活動の財源を獲得するために、政府に対し公的地位を得る必要性が高まった。
こうして1927年には加藤英二氏が代表する”キューバ日本教会”、1933年には吉沢正氏が代表する”松島農業組合”が結成され、その他、松島の小林トメハチ氏が代表する組合やハバナ市内レイリー通りにある大平氏が代表する組合など、政府非公認の組織も結成された。
キューバへの日本人移民は大まかに幾つかの時期に分類されることができる。第1期は移民を開始した19世紀末から1914年、第2期は1915年から1923年、第3期は1924年から1926年。特にこの第3期は日本船籍の船が計382名の日本人を乗せてキューバに到着するなど、移民数から見て非常に重要な時期であった。この時期にやってきた日本人の90%が男性であったが、多くは金を稼いだ後に日本に戻るか、日本から連れてきた女性と結婚したため、ごく少数の者しかキューバ人と結婚しなかった。
1943年から1946年が第4期で、第二次世界大戦で18歳以上の日本人がほとんど松島の刑務所に収容された。最終期は1948年から現在に至る。
キューバへの移民の場合、日本人は特定の場所にとどまることなく、当時の6県46カ所と松島等、島全体に広がって定住し、農業、鉱業、砂糖業、漁業、園芸業、機械工、電気工や様々なサービス業に就いた。
キューバにやってきた日本人移民の数はそれほど多くなかったものの、彼らは非常に規律正しく、献身的で勤勉な美徳を有しており、また日本各地の独自の伝統と習慣等をもたらしたのみならず、彼等の子孫にまでそれらが受け継がれたため、質という面では大いなる足跡を残した。
移民としてキューバに渡った日本人の数は、2000年までに約170名にのぼるが、そのほとんどが第二次世界大戦前に渡ってきた者である。戦時中には
345名の男性と68名の女性が残留したが、この時以来20世紀末までキューバにやってきた日本人は20名にも満たない数であった。
1898年から1943年にかけてキューバに到着した日本人移民の中には、原田モサク、竹内賢治、大家サムロ、内藤ゴロウ、加藤英二等名声ある者がいたが、2000年に生存している者はわずか10名(女性6名、男性4名)に過ぎなかった。
紛れもなく、日本人移民及びキューバ生まれのその子孫達は、過去及び現在において、他国からの移民と同様、キューバの国民性とアイデンティティを豊かにしている。」
2008年3月15日土曜日
ハバナでひきこもり+キューバ最終日
2008.3.11(火)ー12(水)
11日は激しい腹痛にさいなまれ一日ひきこもり。この旅で1日宿にいたのはメキシコのグアダラハラ以来1ヶ月ぶりくらいだが、そのときも腹痛だった。ただ、そのときはたいしてひどくなく、本を読んだりする気力もあったが、この日はひどくずっと寝てる。たまにラスタに関する本を読んだりもするが。ベッドから見える空は、天気がいいこともあってなかなかよろし。
寝ていたら宿主の人が自家製のポカリスウェットのような飲み物(水に塩と何かを入れているよう。味は甘くないポカリスウェット)を作ってくれて、飲む。
昼と夜は、バナナとキャッサバを摺りおろしてお湯で溶かしたどろどろの食事を作ってくれる。味は里芋と小豆を混ぜたような味。キューバ式の病時食(?)を経験できるとは。ありがたや。
翌日(3/12)、全快とはいかないまでもほぼ回復。ただ、日中はほとんど、たまっていたジャマイカでの日記などを整理。夜は同部屋の学生3人とハバナビエハのレストランに飲みに行く。ビールのみ少し飲むが、日本のビールよりも炭酸がきつくなくてよろしい。
彼等とはこの日以外にもキューバの印象について話したり
したが、その際出てきたのは、ぼくの印象も含めて書くと、次のようなこと。
・給料が安く(平均15CUC)生活が大変(物があっても買えない)。
・物がない(絶対的に足りないものもありそう)。
・共産主義の理想を実践しようとしているのは政府関係者のみではないか。
・CASAをやっている人はけっこうな金持ちだから、それ以外のキューバ人がどのような生活をしているかがよくわからない(見えない)。
・本(吉田太郎著)には、キューバの医療についてきれいに書いてあるが、ちょっときれいすぎるのでは。
この日はキューバ最終日だったが、とりあえず今回の旅(通算16日間)は十分という感じ。
おわり。
2008.3.14(金)
サント・ドミンゴよりアップ
11日は激しい腹痛にさいなまれ一日ひきこもり。この旅で1日宿にいたのはメキシコのグアダラハラ以来1ヶ月ぶりくらいだが、そのときも腹痛だった。ただ、そのときはたいしてひどくなく、本を読んだりする気力もあったが、この日はひどくずっと寝てる。たまにラスタに関する本を読んだりもするが。ベッドから見える空は、天気がいいこともあってなかなかよろし。
寝ていたら宿主の人が自家製のポカリスウェットのような飲み物(水に塩と何かを入れているよう。味は甘くないポカリスウェット)を作ってくれて、飲む。
昼と夜は、バナナとキャッサバを摺りおろしてお湯で溶かしたどろどろの食事を作ってくれる。味は里芋と小豆を混ぜたような味。キューバ式の病時食(?)を経験できるとは。ありがたや。
翌日(3/12)、全快とはいかないまでもほぼ回復。ただ、日中はほとんど、たまっていたジャマイカでの日記などを整理。夜は同部屋の学生3人とハバナビエハのレストランに飲みに行く。ビールのみ少し飲むが、日本のビールよりも炭酸がきつくなくてよろしい。
彼等とはこの日以外にもキューバの印象について話したり
したが、その際出てきたのは、ぼくの印象も含めて書くと、次のようなこと。
・給料が安く(平均15CUC)生活が大変(物があっても買えない)。
・物がない(絶対的に足りないものもありそう)。
・共産主義の理想を実践しようとしているのは政府関係者のみではないか。
・CASAをやっている人はけっこうな金持ちだから、それ以外のキューバ人がどのような生活をしているかがよくわからない(見えない)。
・本(吉田太郎著)には、キューバの医療についてきれいに書いてあるが、ちょっときれいすぎるのでは。
この日はキューバ最終日だったが、とりあえず今回の旅(通算16日間)は十分という感じ。
おわり。
2008.3.14(金)
サント・ドミンゴよりアップ
ハバナの高級住宅街、宿でのごちゃごちゃ
080310(月)
昨日はハバナはずいぶん寒かったが、今日はだいぶ天気がいい。
午前中は日本大使館に訪ねごとをするために行く。P1のバスに乗って大使館のあるMiramarという地区に行く。この地区は高級住宅街だそうで、たしかに豪華な一軒家やマンションが目に付く。ホテルがまた豪華で、ハバナにこんなホテルがあったのかと驚く。
メキシコシティと違って、日本大使館が入っているビルには日の丸がぶらさげられており、これでここにあるのだということがわかる。ビルに向かっているときにパスポートをもってこなかったことに気づく。メキシコシティではビルの1階の入り口でIDを求められたので、それと同じだと入れないなと思いながら、とりあえず行く。
ビルに入ると普通のビルのように受付はあったが、検問はない。素通りできそうだったが、受付の人がこっちを見ていたので、念のため日本大使館に行きたいと伝えると”five"と5階にあることを教えてくれる。
エレベーターに乗り、5階へ。エレベーターを降りるとさすがに警備員がいる。けっこう年がいってそうな年輩のおじさんで、一応銃は持っているが弱そう。「こんにちは」と日本語で話しかけてきて、誰に会いたいかと聞いてくる。誰にと言われても誰でもいいので、ツーリストカードについて聞きに来たと日本語で伝えるが、どうもわかっていないよう。
片言スペイン語まじりで伝えるが、やっぱり伝わってなさそう。ここで、やっぱりパスポートの提示を求められたが、持っていないというと、大使館の閉まっているドアの横にあるドアフォン(?)で大使館の職員にスペイン語でそれも含め来客を告げている。
すぐに職員が出てきて用件を聞かれる。用件を伝えると中に入れてくれる。
重たいドアを入るとロビーになっていて、机の上には日本の主要4紙の新聞が積まれている。本棚には日本語の雑誌もある。雑誌は数年前のものばかりで古い。
ツーリストカードについて聞く。ドミニカからカンクンに戻るときにハバナでトランジットで24時間ほど空港内で待とうと思ってるのだが、ツーリストカードはそうした滞在でも必要なのかが知りたかった。事前の情報では24時間以内の滞在ならツーリストカードはいらないというような話もあったが、定かでなかったため。
キューバの入国審査はこれまで2回ともひっかかっているし(最終的に問題はなかったが)、ツーリストカード代も25CUC(約3000円)するし、さらにいったん入国したら今度は出国税としてプラス25CUCがかかるので、できればドミニカからの帰りはキューバには入国せずに済ませたいのだ。
職員は一旦事務室に行き、別の職員に確認してくる。それによるとツーリストカードは入国時に必要なものなので、入国しなければ(入国審査を通らないなら)必要ないとのことだった。
ただ、これまではカンクンでもキングストンでも空港でのチェックイン時にツーリストカードの提示を求められたので、その点について聞くと、説明すれば大丈夫だろうが、厳しいところではその場で買わされるかもしれないとのことだった。
対応は丁寧で、一通り知りたいことを教えてもらう。それでありがとうござましたと伝えると、”新聞などもあるので良かったら読んでいってください”と言われる。
その親切な対応にのっかって、ロビーの壁に貼られていたパンフレットの残部があればもらえないか訪ねる。職員はたぶん大丈夫と事務室に戻り、そのパンフを取ってきてくれ、ありがたくいただいて帰る。
パンフレットは「キューバにおける日本のプレゼンス 日本・キューバ交流開始100周年」というタイトルで、キューバへの日本人移民のことなどを紹介している。
しばらく高級住宅街を徘徊。小さなショッピングモールにはベネトンやアルマーニの店もあるが、ほかと同様店内は暗い。
バスに乗ってホテルハバナリブレの近くにあるクバーナ航空に行く。20分ほど待ってリコンファーム完了。対応は相変わらずそっけない。
それから革命広場にある内務省の壁に描かれている(正確には電飾されているものなので描かれてはいないが)下バラを見に行く。
革命広場に行く道すがら病院の前の路上で古本を売っているおじさんがいた。日本にいる間にみたカストロへのインタビュー番組の本があったので、しばし迷うがその値段にまけ買う。値段は40ペソ(約200円)。スペイン語だからたぶん読むことはなさそうだが、記念に購入。
革命広場には、観光バスが5台ほど停まっており、ヨーロッパ系の観光客がわさわさ歩き、ゲバラの前で写真を撮っている。
さっきの本を買ったことでペソがなくなったので、アストロのバスターミナルに行く。そこで3CUCをペソに両替。今日もレートは1CUC=24ペソだった。
ターミナルはこの間、来たときと同様バスを待っている人がいっぱい。ターミナルの中にある本屋にさっき買った本がいくらで売っているか見に行くが店内にはなし。
歩いて宿に戻る。途中、のどが乾いたので道ばたの店で2ペソのタマリンドのコップジュース1杯、バディード(シェイク)1杯、1ペソのサトウキビコップジュースを飲みながら帰る。キングストンではありえない安さ。経済面だけで言えばジャマイカよりもキューバの方が圧倒的に”発展途上”だなと感じる。
歩いていたらたまたますれ違った日本人に話しかけられる。大きな荷物を持っており、聞くとサンティアゴ・デ・キューバなどに行って戻ってきたところらしい。安い宿を探しているようで、それを知っていれば教えてくれないかという。
ぼくが泊まっている宿は、宿主と仲介者間の取り決めで、メールでの予約なしの人間は泊められないが、宿の近くのCASAマークが出ているところを案内することはできると言うと、それでもいいというので、バスに乗ってカピトリオまで行き、宿の近くのCASAマークがあるところを案内する。
泊まっているすぐ近くのCASAマークを出している建物の人に一泊いくらか聞くと食事なしで25cuc(約3000円)と言う。その人は予算の上限が20CUCだそうで、そこまで値下げできないか聞く。話していた女の人はちょっと待ってと電話する。
電話が終わったので、また安くできないか聞くが、スペイン語なのでなんと行っているのかわからない。ただ、仕草から泊まる部屋はマークを出している建物ではなく、ぼくが泊まっている宿(10階)が入っているビルの9階だというようなことがわかる。
そして、そこのおばさんがここに迎えに来るという。しばらくしてやってきたおばさん(というよりもおばあさんに近い)は、エレベーターで見たことのあるおばさん。”Vamos(バーモ)"
というので、着いていくがなんか嫌な予感。
入り口で宿主のおばさんとすれ違う。ああ、こりゃまずいなと思うが、どうしようもない。
9階の部屋に案内され、その日本人の人はもう一度価格交渉をするが、20cucから下には下がらない。とりあえずそれで数泊することにするが、もっと安い方がいいというので、もしもの可能性を考えてぼくが泊まっている宿にも連れていく。
ちょうど宿を仲介している日本人女性(見た目40代後半:以下、仲介者)が宿にいたので、泊まることはできるか聞くが、やはりメールでの予約なしでは泊まれないと言う。
普通の宿なら部屋が空いている限り大丈夫だから、なぜだめなのか聞くと、その仲介者が言うに、以前は予約なしで受け入れていたときもあったが、家族の方が事前連絡もなしに次から次に来る客にストレスを感じて嫌になったからだという。それで客をコントロールするためにメールでの事前予約のみにしたらしい。
仲介者はひととおり説明した後、彼にどこに泊まっているか聞く。9階だと言うと、う~ん、それはそれでけっこうまずいかも、と仲介者は言う。
なぜか聞くと、ここの宿主と9階のおばさんは以前、客を巡って大喧嘩したらしい。具体的には、当時10階は1泊15CUC(食事つき)でやっており、9階は1部屋20CUC(食事なし)でやっていた。最初に日本人の客がついたのは10階の方だが、9階のおばさんはエレベーターで乗り合わせた日本人に自分の宿の名刺を渡したりして宣伝したら、2人連れの旅行者を中心に9階に客が流れたらしい。キューバでの5CUCはでかいので、無理もない。
それに怒った10階の宿主は、仲介者にメキシコの宿にある情報ノート(旅人が各地の旅行情報を書き込んでいるノート)に書かれている9階の宿の宣伝記事や名刺を消してきてくれと頼んだりし、また仲介者も実際にそれをして、もう9階には日本人が行かないと安心していたところだったらしい。
そこへ意図せざる結果とは言え、結果的にぼくが9階に客を紹介した形になったため、その仲介者は”まずい”と思ったよう。
仲介者は宿主に相談してくると言って宿主のところへ。面倒なことになったと2人で話ながら、仲介者を待つ。最終的には10階の宿主と9階の宿主が話をして、その日本人も2泊目以降は10階の宿泊者と同じく食事つきで15CUCに。この結果もよくわからない。
ぼくが最初にハバナに来たときはスウェーデン人の家族が10階と9階に別れて泊まっていたので、大喧嘩以降、10階と9階の間でなんらかの約束ごとができているのだろう。
その後は、宿にいる。ハバナは通算1週間ほどだが、さすがに飽きてきた。スペイン語がわかればもっと違うだろうが、歩ける範囲は歩き、だいたいの雰囲気はわかった気になってしまった。それからキューバでの予算はほぼ消化してしまったので、博物館などに行くのもちとつらい状態。
明日明後日と西のタバコ生産地などに行くつもりだったが、バス代が厳しいこともあり、ドミニカに行くまでハバナにいることにする。
おわり
2008.3.14(金)
サント•ドミンゴよりアップ
昨日はハバナはずいぶん寒かったが、今日はだいぶ天気がいい。
午前中は日本大使館に訪ねごとをするために行く。P1のバスに乗って大使館のあるMiramarという地区に行く。この地区は高級住宅街だそうで、たしかに豪華な一軒家やマンションが目に付く。ホテルがまた豪華で、ハバナにこんなホテルがあったのかと驚く。
メキシコシティと違って、日本大使館が入っているビルには日の丸がぶらさげられており、これでここにあるのだということがわかる。ビルに向かっているときにパスポートをもってこなかったことに気づく。メキシコシティではビルの1階の入り口でIDを求められたので、それと同じだと入れないなと思いながら、とりあえず行く。
ビルに入ると普通のビルのように受付はあったが、検問はない。素通りできそうだったが、受付の人がこっちを見ていたので、念のため日本大使館に行きたいと伝えると”five"と5階にあることを教えてくれる。
エレベーターに乗り、5階へ。エレベーターを降りるとさすがに警備員がいる。けっこう年がいってそうな年輩のおじさんで、一応銃は持っているが弱そう。「こんにちは」と日本語で話しかけてきて、誰に会いたいかと聞いてくる。誰にと言われても誰でもいいので、ツーリストカードについて聞きに来たと日本語で伝えるが、どうもわかっていないよう。
片言スペイン語まじりで伝えるが、やっぱり伝わってなさそう。ここで、やっぱりパスポートの提示を求められたが、持っていないというと、大使館の閉まっているドアの横にあるドアフォン(?)で大使館の職員にスペイン語でそれも含め来客を告げている。
すぐに職員が出てきて用件を聞かれる。用件を伝えると中に入れてくれる。
重たいドアを入るとロビーになっていて、机の上には日本の主要4紙の新聞が積まれている。本棚には日本語の雑誌もある。雑誌は数年前のものばかりで古い。
ツーリストカードについて聞く。ドミニカからカンクンに戻るときにハバナでトランジットで24時間ほど空港内で待とうと思ってるのだが、ツーリストカードはそうした滞在でも必要なのかが知りたかった。事前の情報では24時間以内の滞在ならツーリストカードはいらないというような話もあったが、定かでなかったため。
キューバの入国審査はこれまで2回ともひっかかっているし(最終的に問題はなかったが)、ツーリストカード代も25CUC(約3000円)するし、さらにいったん入国したら今度は出国税としてプラス25CUCがかかるので、できればドミニカからの帰りはキューバには入国せずに済ませたいのだ。
職員は一旦事務室に行き、別の職員に確認してくる。それによるとツーリストカードは入国時に必要なものなので、入国しなければ(入国審査を通らないなら)必要ないとのことだった。
ただ、これまではカンクンでもキングストンでも空港でのチェックイン時にツーリストカードの提示を求められたので、その点について聞くと、説明すれば大丈夫だろうが、厳しいところではその場で買わされるかもしれないとのことだった。
対応は丁寧で、一通り知りたいことを教えてもらう。それでありがとうござましたと伝えると、”新聞などもあるので良かったら読んでいってください”と言われる。
その親切な対応にのっかって、ロビーの壁に貼られていたパンフレットの残部があればもらえないか訪ねる。職員はたぶん大丈夫と事務室に戻り、そのパンフを取ってきてくれ、ありがたくいただいて帰る。
パンフレットは「キューバにおける日本のプレゼンス 日本・キューバ交流開始100周年」というタイトルで、キューバへの日本人移民のことなどを紹介している。
しばらく高級住宅街を徘徊。小さなショッピングモールにはベネトンやアルマーニの店もあるが、ほかと同様店内は暗い。
バスに乗ってホテルハバナリブレの近くにあるクバーナ航空に行く。20分ほど待ってリコンファーム完了。対応は相変わらずそっけない。
それから革命広場にある内務省の壁に描かれている(正確には電飾されているものなので描かれてはいないが)下バラを見に行く。
革命広場に行く道すがら病院の前の路上で古本を売っているおじさんがいた。日本にいる間にみたカストロへのインタビュー番組の本があったので、しばし迷うがその値段にまけ買う。値段は40ペソ(約200円)。スペイン語だからたぶん読むことはなさそうだが、記念に購入。
革命広場には、観光バスが5台ほど停まっており、ヨーロッパ系の観光客がわさわさ歩き、ゲバラの前で写真を撮っている。
さっきの本を買ったことでペソがなくなったので、アストロのバスターミナルに行く。そこで3CUCをペソに両替。今日もレートは1CUC=24ペソだった。
ターミナルはこの間、来たときと同様バスを待っている人がいっぱい。ターミナルの中にある本屋にさっき買った本がいくらで売っているか見に行くが店内にはなし。
歩いて宿に戻る。途中、のどが乾いたので道ばたの店で2ペソのタマリンドのコップジュース1杯、バディード(シェイク)1杯、1ペソのサトウキビコップジュースを飲みながら帰る。キングストンではありえない安さ。経済面だけで言えばジャマイカよりもキューバの方が圧倒的に”発展途上”だなと感じる。
歩いていたらたまたますれ違った日本人に話しかけられる。大きな荷物を持っており、聞くとサンティアゴ・デ・キューバなどに行って戻ってきたところらしい。安い宿を探しているようで、それを知っていれば教えてくれないかという。
ぼくが泊まっている宿は、宿主と仲介者間の取り決めで、メールでの予約なしの人間は泊められないが、宿の近くのCASAマークが出ているところを案内することはできると言うと、それでもいいというので、バスに乗ってカピトリオまで行き、宿の近くのCASAマークがあるところを案内する。
泊まっているすぐ近くのCASAマークを出している建物の人に一泊いくらか聞くと食事なしで25cuc(約3000円)と言う。その人は予算の上限が20CUCだそうで、そこまで値下げできないか聞く。話していた女の人はちょっと待ってと電話する。
電話が終わったので、また安くできないか聞くが、スペイン語なのでなんと行っているのかわからない。ただ、仕草から泊まる部屋はマークを出している建物ではなく、ぼくが泊まっている宿(10階)が入っているビルの9階だというようなことがわかる。
そして、そこのおばさんがここに迎えに来るという。しばらくしてやってきたおばさん(というよりもおばあさんに近い)は、エレベーターで見たことのあるおばさん。”Vamos(バーモ)"
というので、着いていくがなんか嫌な予感。
入り口で宿主のおばさんとすれ違う。ああ、こりゃまずいなと思うが、どうしようもない。
9階の部屋に案内され、その日本人の人はもう一度価格交渉をするが、20cucから下には下がらない。とりあえずそれで数泊することにするが、もっと安い方がいいというので、もしもの可能性を考えてぼくが泊まっている宿にも連れていく。
ちょうど宿を仲介している日本人女性(見た目40代後半:以下、仲介者)が宿にいたので、泊まることはできるか聞くが、やはりメールでの予約なしでは泊まれないと言う。
普通の宿なら部屋が空いている限り大丈夫だから、なぜだめなのか聞くと、その仲介者が言うに、以前は予約なしで受け入れていたときもあったが、家族の方が事前連絡もなしに次から次に来る客にストレスを感じて嫌になったからだという。それで客をコントロールするためにメールでの事前予約のみにしたらしい。
仲介者はひととおり説明した後、彼にどこに泊まっているか聞く。9階だと言うと、う~ん、それはそれでけっこうまずいかも、と仲介者は言う。
なぜか聞くと、ここの宿主と9階のおばさんは以前、客を巡って大喧嘩したらしい。具体的には、当時10階は1泊15CUC(食事つき)でやっており、9階は1部屋20CUC(食事なし)でやっていた。最初に日本人の客がついたのは10階の方だが、9階のおばさんはエレベーターで乗り合わせた日本人に自分の宿の名刺を渡したりして宣伝したら、2人連れの旅行者を中心に9階に客が流れたらしい。キューバでの5CUCはでかいので、無理もない。
それに怒った10階の宿主は、仲介者にメキシコの宿にある情報ノート(旅人が各地の旅行情報を書き込んでいるノート)に書かれている9階の宿の宣伝記事や名刺を消してきてくれと頼んだりし、また仲介者も実際にそれをして、もう9階には日本人が行かないと安心していたところだったらしい。
そこへ意図せざる結果とは言え、結果的にぼくが9階に客を紹介した形になったため、その仲介者は”まずい”と思ったよう。
仲介者は宿主に相談してくると言って宿主のところへ。面倒なことになったと2人で話ながら、仲介者を待つ。最終的には10階の宿主と9階の宿主が話をして、その日本人も2泊目以降は10階の宿泊者と同じく食事つきで15CUCに。この結果もよくわからない。
ぼくが最初にハバナに来たときはスウェーデン人の家族が10階と9階に別れて泊まっていたので、大喧嘩以降、10階と9階の間でなんらかの約束ごとができているのだろう。
その後は、宿にいる。ハバナは通算1週間ほどだが、さすがに飽きてきた。スペイン語がわかればもっと違うだろうが、歩ける範囲は歩き、だいたいの雰囲気はわかった気になってしまった。それからキューバでの予算はほぼ消化してしまったので、博物館などに行くのもちとつらい状態。
明日明後日と西のタバコ生産地などに行くつもりだったが、バス代が厳しいこともあり、ドミニカに行くまでハバナにいることにする。
おわり
2008.3.14(金)
サント•ドミンゴよりアップ
2008年3月13日木曜日
『ボーン・フィ・デッド』より
読んだ本からの抜粋
原題
"Born Fi' Dead: A Journey Through the Jamaican Posse Underworld" by Laurie Gunst,1995
日本語版
『ボーン•フィ•デッド ジャマイカの裏社会を旅して』森本幸代訳、2006
ボブ・マーリーとも付き合いのあった良心的?ギャングだったトレバー・フィリップス(1997年に殺害される)の言葉
280-281
「丁度中学出たてだったからかな、ムショで最初に読んだのはバートランド・ラッセルだった。それからH・G・ウェルズの『アウトライン・オブ・ヒストリー』。人にもらってネルソン・マンデラの『ノー・イージー・ロード・トゥ・フリーダム』も読んだんだけど、この本は俺の人生にすごく影響を与えたね。マンデラは南アフリカでどんな風にイギリス人がインド人と黒人を戦わせてたかを書いてあってね、ジャマイカと一緒だなって思ったよ。
俺も親父がインド人だったからよくいじめられたもんさ。ラスタなんか俺のこと『インド人』って呼んでてさ、『ようインド人、俺らがみんなアフリカに帰ったらお前はどこに行くんだ? お前は黒人じゃないし、白人でもない。お前の体は二つに裂かれちゃうぜ』って言うんだ。
俺自身そんな経験があったから、マンデラの本読んで植民地支配のもたらすもんはどこでも一緒なんだって分かったんだ。問題も、疑問もひとつにまとまったってゆーかね。それからはまたバカみたいに本読んだ。エルドリッジ・クリーバー言うところの、『自分を救うための読書』さ」
333
同じくトレバーの話。キューバとの関係について
「キューバとのブリガディスタ交換プログラム。それに参加したラスタが、キューバ人ホストに無理矢理豚肉を強要されてベジタリアン暴動を起こした話。(ラスタは肉を口にしない) 彼等は人生四分の1を暴動に捧げたという。
それから1977年にフィデル・カストロがジャマイカを公式訪問をした際、ラスタと握手をするのを避けていたとか、ジャマイカがキューバと親交を深めるとアメリカがヒステリーを起こしたなど・・・」
「「ほら、あんたも知ってると思うけどさ、あれだけ大々的に宣伝しといて、結局カストロはジャマイカ人が嫌いだったんだぜ。ラスタが原因だったかは知らないけどさ、キューバ人にとっちゃ俺らはトラブルメーカー以外の何者でもなかったんだよ。俺らは革命に使えないってね。カストロは俺らに手を貸す気なんかはじめからなかったんだ」
トレバーの話では、PNP党員はキューバから銃を支援してもらえるとずっと信じていたそうだ。しかしそれも結局ただの夢に終わる。1980年の選挙前、シアガがCIAの助けを借りて武装している時も、PNP党員はキューバに銃の手配を要請していたが、あっけなく期待は破られる。カストロはジャマイカを次なるアンゴラにする気などなかった。」
338
トレバーから著者への手紙から
「ーーもしあんたが俺と同じくらいジャマイカの流れをみつめてきたなら。暴力で命を落とした人間を知っているなら。政治抗争していたギャングがアメリカのドラッグポシーに変化する課程で、俺と同じくらいあんたが死んだ人間を見てきたなら。原因は社会が人種差別を乗り越えられなかったことにあるってわかってるなら。特に若いやつらなんか今の事態を予測できたはずだ。
ポシーのほとんどが黒人やスペイン系、ジャマイカ生まれか、そうでなければ行き場のない白人達だ。スーパーキャットが「若い奴らのことを思うと泣けてくる」って歌う気持ちも分かるだろ。
ドンが死んだりムショに入れられたら、若いヤツ、野望をもってる奴、食うために必死な奴は次のドンを狙ってる。もちろんそのリスクはやつらも承知の上。バンドの演奏を続けさせるための、バンドリーダーになるわけだ。
恵まれた人間は暴力を避けて暮らせるけど、俺らは毎日暴力と共に生きなきゃなんない。
俺が確認したいのは、ほんとにあんたが俺らのことを理解しているかということ。あんたが毎日死んだ人間の数を数えながら床に就いたり、目を覚ましたりするようになって初めて俺らの現実を理解するようになるだるお。あんたの友達や家族が殺されて、やっと俺らのことがわかるだろう。
ジャングルやティボリ、クラックハウスさえ知らなければ、その外で生きられたなら、大学に行って学位を取り、殺されずにすんだ奴らもいるんだ。--」
339
「--これだけは覚えておいて欲しい。あんたがどれだけ俺らに同情しても、俺らのことを「調査」しても、この残酷な世界に捕らわれた悲しみは、俺らにしかわからない。この苦しみは、俺らにしかわからない。--」
2008.3.12(水)ハバナよりアップ
原題
"Born Fi' Dead: A Journey Through the Jamaican Posse Underworld" by Laurie Gunst,1995
日本語版
『ボーン•フィ•デッド ジャマイカの裏社会を旅して』森本幸代訳、2006
ボブ・マーリーとも付き合いのあった良心的?ギャングだったトレバー・フィリップス(1997年に殺害される)の言葉
280-281
「丁度中学出たてだったからかな、ムショで最初に読んだのはバートランド・ラッセルだった。それからH・G・ウェルズの『アウトライン・オブ・ヒストリー』。人にもらってネルソン・マンデラの『ノー・イージー・ロード・トゥ・フリーダム』も読んだんだけど、この本は俺の人生にすごく影響を与えたね。マンデラは南アフリカでどんな風にイギリス人がインド人と黒人を戦わせてたかを書いてあってね、ジャマイカと一緒だなって思ったよ。
俺も親父がインド人だったからよくいじめられたもんさ。ラスタなんか俺のこと『インド人』って呼んでてさ、『ようインド人、俺らがみんなアフリカに帰ったらお前はどこに行くんだ? お前は黒人じゃないし、白人でもない。お前の体は二つに裂かれちゃうぜ』って言うんだ。
俺自身そんな経験があったから、マンデラの本読んで植民地支配のもたらすもんはどこでも一緒なんだって分かったんだ。問題も、疑問もひとつにまとまったってゆーかね。それからはまたバカみたいに本読んだ。エルドリッジ・クリーバー言うところの、『自分を救うための読書』さ」
333
同じくトレバーの話。キューバとの関係について
「キューバとのブリガディスタ交換プログラム。それに参加したラスタが、キューバ人ホストに無理矢理豚肉を強要されてベジタリアン暴動を起こした話。(ラスタは肉を口にしない) 彼等は人生四分の1を暴動に捧げたという。
それから1977年にフィデル・カストロがジャマイカを公式訪問をした際、ラスタと握手をするのを避けていたとか、ジャマイカがキューバと親交を深めるとアメリカがヒステリーを起こしたなど・・・」
「「ほら、あんたも知ってると思うけどさ、あれだけ大々的に宣伝しといて、結局カストロはジャマイカ人が嫌いだったんだぜ。ラスタが原因だったかは知らないけどさ、キューバ人にとっちゃ俺らはトラブルメーカー以外の何者でもなかったんだよ。俺らは革命に使えないってね。カストロは俺らに手を貸す気なんかはじめからなかったんだ」
トレバーの話では、PNP党員はキューバから銃を支援してもらえるとずっと信じていたそうだ。しかしそれも結局ただの夢に終わる。1980年の選挙前、シアガがCIAの助けを借りて武装している時も、PNP党員はキューバに銃の手配を要請していたが、あっけなく期待は破られる。カストロはジャマイカを次なるアンゴラにする気などなかった。」
338
トレバーから著者への手紙から
「ーーもしあんたが俺と同じくらいジャマイカの流れをみつめてきたなら。暴力で命を落とした人間を知っているなら。政治抗争していたギャングがアメリカのドラッグポシーに変化する課程で、俺と同じくらいあんたが死んだ人間を見てきたなら。原因は社会が人種差別を乗り越えられなかったことにあるってわかってるなら。特に若いやつらなんか今の事態を予測できたはずだ。
ポシーのほとんどが黒人やスペイン系、ジャマイカ生まれか、そうでなければ行き場のない白人達だ。スーパーキャットが「若い奴らのことを思うと泣けてくる」って歌う気持ちも分かるだろ。
ドンが死んだりムショに入れられたら、若いヤツ、野望をもってる奴、食うために必死な奴は次のドンを狙ってる。もちろんそのリスクはやつらも承知の上。バンドの演奏を続けさせるための、バンドリーダーになるわけだ。
恵まれた人間は暴力を避けて暮らせるけど、俺らは毎日暴力と共に生きなきゃなんない。
俺が確認したいのは、ほんとにあんたが俺らのことを理解しているかということ。あんたが毎日死んだ人間の数を数えながら床に就いたり、目を覚ましたりするようになって初めて俺らの現実を理解するようになるだるお。あんたの友達や家族が殺されて、やっと俺らのことがわかるだろう。
ジャングルやティボリ、クラックハウスさえ知らなければ、その外で生きられたなら、大学に行って学位を取り、殺されずにすんだ奴らもいるんだ。--」
339
「--これだけは覚えておいて欲しい。あんたがどれだけ俺らに同情しても、俺らのことを「調査」しても、この残酷な世界に捕らわれた悲しみは、俺らにしかわからない。この苦しみは、俺らにしかわからない。--」
2008.3.12(水)ハバナよりアップ
パトワ語入門
2008.3.12(水)
ジャマイカは一般に英語が公用語と、日常会話はパトワ語と呼ばれる英語が変形した言葉をしゃべる。
ジャマイカに行ってまず覚えるパトワ語は”Ya-man"と"No-man"だろう。ヤーマンは、yesの意味でも使うし、呼びかけにも使うし、そうだそうだと言うような時にも使う。
それから私を意味する主語が他の英語と違う。ジャマイカでは"I"は使わず”mi"を使う。mi a go a townといった具合に(a は to の意味。to はあまり使われない)。
それからイギリス英語やアメリカ英語と違うのが、いわゆるthの発音。数字のthreeはトゥリーと発音するし、theなど日本語でザと書くような音はダと発音される。
それからぼくが通じなかったのがウォーター(water)で、これはペットボトルにもWATAと書いてあるがウァタ(ワタに限りなく近い。アクセントはWA)と発音する。
それからcome。旅行中にこの単語はけっこう使うが、ジャマイカでは”コム”と発音する。2番目の宿の子が”mi soon come(ミ スーン コム)と言ったように。また、何かを訪ねたときに案内されるときに”コム”と言われる。
以上はジャマイカ人としゃべっていて気づくことだが、他はほとんど聞き取れないので、何がどう違うかよくわからない。
たとえば辞書を見てみるとaskはパトワ語でaksだったりと、単語内の文字というか発音の順番が入れ替わっている言葉も多々あるよう。
ぼくがジャマイカの宿で買った『ボーン・フィ・デッド』というのもパトワ語で書けば"Born fi' Dead"となるそうで、”fi'" は"for"が変形したものらしい。
ジャマイカにも英語の語学研修を受けることができる学校があるが、イギリス英語やアメリカ英語を安く学ぼうと思っていくと、失敗するだろう。
テレビや新聞などでは、いわゆる英語が使われているものの、一般のジャマイカ人と普通に話そうと思うと、相手には自分の英語は伝わっても、相手のパトワ語は聞き取れない。もっとも観光客とわかれば、ジャマイカ人の方が、こちらにわかる英語を話してくれるが、ぼくがブルーマウンテンの村に行ったときに話しかけてきておばあちゃんなどは、パトワ語そのままのようで、まったく聞き取れなかった。
もっともパトワ語に限らず、英語圏と一口にいっても、アメリカ英語とイギリス英語ははっきりと発音の明確さが違うようにそれぞれで特徴があり、違いがある。
メキシコのグアダラハラで同室だったオーストラリア人は、アジアに行ったときには自分の英語がなかなか聞きとってもらえなかったと言っていたし、そのオーストラリア人と英語でしゃべっていた同宿のベルギー人は、やはり同宿のアメリカ人の英語は聞き取れていなかった(結局、2人はスペイン語ではなしていた)。
文字と音が合っていないという点で、ぼくは英語は非合理的な言葉だと思うが、もし英語がもっと世界の共通語として広まっていったとすれば、だんだん文字に発音が一致してくるのではないかと、勝手に想像する。
その点でパトワ語は、英語と思って聞きさえしなければ、音としては聞きやすい言葉のように思う。なまじっか英語をしゃべるだろうという前提で聞くから、まったく何を言っているのかわからなくなるのだろう。もっともわかるようになるためには、パトワ語の語彙を増やさなければ始まらないのだが。
レゲエなどではこのパトワ語が使われているので、日本でパトワ語に接しようと思えば、レゲエのCDを聞きながら歌詞カードを読むのが一番てっとり早いだろう。
2008.3.12(水)ハバナよりアップ
ジャマイカは一般に英語が公用語と、日常会話はパトワ語と呼ばれる英語が変形した言葉をしゃべる。
ジャマイカに行ってまず覚えるパトワ語は”Ya-man"と"No-man"だろう。ヤーマンは、yesの意味でも使うし、呼びかけにも使うし、そうだそうだと言うような時にも使う。
それから私を意味する主語が他の英語と違う。ジャマイカでは"I"は使わず”mi"を使う。mi a go a townといった具合に(a は to の意味。to はあまり使われない)。
それからイギリス英語やアメリカ英語と違うのが、いわゆるthの発音。数字のthreeはトゥリーと発音するし、theなど日本語でザと書くような音はダと発音される。
それからぼくが通じなかったのがウォーター(water)で、これはペットボトルにもWATAと書いてあるがウァタ(ワタに限りなく近い。アクセントはWA)と発音する。
それからcome。旅行中にこの単語はけっこう使うが、ジャマイカでは”コム”と発音する。2番目の宿の子が”mi soon come(ミ スーン コム)と言ったように。また、何かを訪ねたときに案内されるときに”コム”と言われる。
以上はジャマイカ人としゃべっていて気づくことだが、他はほとんど聞き取れないので、何がどう違うかよくわからない。
たとえば辞書を見てみるとaskはパトワ語でaksだったりと、単語内の文字というか発音の順番が入れ替わっている言葉も多々あるよう。
ぼくがジャマイカの宿で買った『ボーン・フィ・デッド』というのもパトワ語で書けば"Born fi' Dead"となるそうで、”fi'" は"for"が変形したものらしい。
ジャマイカにも英語の語学研修を受けることができる学校があるが、イギリス英語やアメリカ英語を安く学ぼうと思っていくと、失敗するだろう。
テレビや新聞などでは、いわゆる英語が使われているものの、一般のジャマイカ人と普通に話そうと思うと、相手には自分の英語は伝わっても、相手のパトワ語は聞き取れない。もっとも観光客とわかれば、ジャマイカ人の方が、こちらにわかる英語を話してくれるが、ぼくがブルーマウンテンの村に行ったときに話しかけてきておばあちゃんなどは、パトワ語そのままのようで、まったく聞き取れなかった。
もっともパトワ語に限らず、英語圏と一口にいっても、アメリカ英語とイギリス英語ははっきりと発音の明確さが違うようにそれぞれで特徴があり、違いがある。
メキシコのグアダラハラで同室だったオーストラリア人は、アジアに行ったときには自分の英語がなかなか聞きとってもらえなかったと言っていたし、そのオーストラリア人と英語でしゃべっていた同宿のベルギー人は、やはり同宿のアメリカ人の英語は聞き取れていなかった(結局、2人はスペイン語ではなしていた)。
文字と音が合っていないという点で、ぼくは英語は非合理的な言葉だと思うが、もし英語がもっと世界の共通語として広まっていったとすれば、だんだん文字に発音が一致してくるのではないかと、勝手に想像する。
その点でパトワ語は、英語と思って聞きさえしなければ、音としては聞きやすい言葉のように思う。なまじっか英語をしゃべるだろうという前提で聞くから、まったく何を言っているのかわからなくなるのだろう。もっともわかるようになるためには、パトワ語の語彙を増やさなければ始まらないのだが。
レゲエなどではこのパトワ語が使われているので、日本でパトワ語に接しようと思えば、レゲエのCDを聞きながら歌詞カードを読むのが一番てっとり早いだろう。
2008.3.12(水)ハバナよりアップ
キングストンからハバナへ
2008.3.9(日)
ハバナへ行くフライトが朝の7時ということで、夜は寝ないまま飛行場に行くことにした。
一昨日、この宿の門番の若い男の人にタクシーを紹介され、その人には3時に宿を出ると伝えていた。空港までは宿から40分ほど。飛行機の出発予定時刻の3時間前に空港入りするように、クバーナ航空の人に言われていたので、こんな真夜中に移動することになった。
ちなみに空港までのタクシー代は、運転手の言い値で40USD。真夜中だし、キングストンだしといういことで、その言い値でOKした。
荷物の準備をしてから、1時からホテルのパソコンを使ってネットに写真をアップ。これまでフリッカーにアップしていたが、200枚を越えると使用料が発生するらしく、その旨の通知が来たのでGoogleのピカサに変更。こっちの方がアップロードが早いし、容量も大きい。
パソコンは受付があるロビーの片隅にあって、パソコンに向かって左手がホテルの受付になっている。ロビーにはコンポが置かれてあって、ずっとレゲエ風の音楽が流れている。受付には若い(?)女の人が1人。パソコンでフリーセル(ゲーム)をしている。
ヨーロッパ系の観光客がこの時間に何人か帰って来る。おそらくダンスかなんかのお店に行っていたのだろう。
3時前にチェックアウトの手続きをする。チェックアウトをするというと、受付の人はこの時間に?と聞き返してくる。夕方、別の人に今晩チェックアウトすると伝えていたのだが、どうも夜番の人には伝わっていなかったよう。
キーデポジットとして初日に払っていた500ジャマイカドルが戻ってきたが、それはそのまま2時間のインターネット代に消える。
荷物を持って表に出る。門番の男の人が、タクシーが必要かと聞いてくるので、予約しているというと門の外に泊まっている車か?と聞かれる。
車内の電気が付いていないので運転手の顔がわからなかったが、たぶんそうだと言うと、鉄柵の門の鍵を開け、車まで一緒に付いてきてくれる。そして、門番の人が運転席の窓をこつこつノックすると仮眠していた運転手が起きてきた。
確かに一昨日予約した人。白い乗用車で、左側のドアには悟空や悟飯のシールが貼られてある。ちなみに悟空のはスーパーサイヤ人状態のもの。
助手席に座るとこれまた悟飯などのシールが貼られている。"You have many Dragonball"とぼくが言うと"Ya-man(ヤーマン)、Ya-man"とジャマイカ式の"yes"を2回言う。
街灯の黄色い明かりの中を車は走り出す。空には星が見えるが、キューバに比べると圧倒的に少ない。
車は途中ガソリンスタンドに寄り、給油する。24時間やっているのか、スタンドには女性の店員がこの時間帯におり、給油作業もする。ちなみにガソリンの値段は、これまでみたところだいたい65ジャマイカドル=1USD。
車はアップタウンの西側のとおりを走る。左手の一段高いところは高級住宅街のビバリーヒルズ。ここからの夜景がきれいだと言われていたので、この時間に寄ってもらうように最初に伝えておけば良かったと思うが後の祭り。
ちなみに別の日本人の人から聞いた話では、その人も夜にビバリーヒルズに行こうかと思っていたらしいが、ジャマイカ人に、ここに住む金持ちを狙っているバットマンたちがいるというからやめたと言っていた。
さすがにこの時間帯だと人通りはない。途中、電信柱にもたれかかって寝ている男の人をみる。また、この時間に路上に止めた車を修理している人もいた。
車は発電所の脇を通り、次の交差点を右に曲がれば空港へ一直線というところまでくる。順調だなと思っていたら、左手に警察が2人立っており、止まれと合図をする。
運転手のおじさんはちゃんとタクシーの免許を持っているのかな、とふいに疑う。許可のないタクシーの取り締まりは厳しく、昨日もバスターミナル付近で無断で人を乗せていた運転手が警察に路上で事情聴取を受けていて、ひたすら運転手は謝っていた。
車は止まり、運転手はゆっくりと降りる。ぼくは車内で待っていればいいかと思っていたら、運転手が助手席のドアを開け、出てというような合図をする。
景観は1人は若くせいぜい20歳前半、もう1人は40歳くらいに見える。長い銃を脇に抱え、腹部には防弾チョッキを付けている。いつでも戦闘可能といういでたちだ。
彼らはジャマイカ英語のパトワ語で、かつ早口でワーっとなにやら聞いてくる。が、よく聞き取れない。
聞き取れたのはマリファナ(発音としてはマリワナ)とイリーガルと、あと少々。マリファナを持っているか、とか、吸ったかなどと聞かれるので”No”と否定する。それから、持っていたウェストバックの中を見せろと言われる。警官の1人が、ぼくのバックの中をごちゃごちゃと手でかき回しながら探る。
外務省の安全情報にも載っていたが、日本人がここで大麻を手に入れ、日本に持っていこうとしたり、またジャマイカ人に頼まれてそれと知らず、預かっていたりするようなことが数多くあるらしい。たぶん、その影響もあるのだろう、警官は執拗にマリファナについて聞いてくる。
さっきからマリファナはやっていないというのに、信じられないと言った具合で、何度も聞かれる。それから日本での仕事を聞かれ、靴屋の店員と答えると、じゃあ、ビジネスで来たのか、と今度は別の路線で疑われる。
そして、いつからジャマイカにいるのかと言うから、3月3日からと伝えると、ちょっとパスポートを見せてと言われる。パスポートを見せると、これから空港に行くのかというので、そうだと伝えると、今度は航空券を見せろと言う。
その間も早口でほかにも聞かれるのだが、よくわからない。すでにID等を見せ、警官からのチェックを済ませた運転手は脇で、”彼は(警官の言葉を)理解できていない”と警官に言う。運転手は落ち着いているふうだったので、まぁ大丈夫かと思っていたが、とにかく警官はしつこい。
ジャマイカにガールフレンドがいるのかなどとまで聞かれる。最後の方になると、なにもないとわかったのか、だんだん向こうもにこにこ笑いながら質問してくるので、半分遊んでいるかのようだった。
時間にしたら10分ほどだったろうか、無事に解放され、車に戻る。
運転手にこうしたチェックはけっこうあるのか聞くと、”Ya-man"と答える。さっきの警官はいい奴だみたいなことも言うので、やはり途中からは遊んでいたようだ。ただ、でかい銃を持って武装しているので、そういうのに慣れてない身としては、それを使って何かされたらと疑ってしまうので、なんとも気分が悪い。
運転手は”ジャマイカはいいところだろ”と言う。そして、次はいつもどってくるのかとも。ぼくは”いいところだろ”と運転手が言ったのを意外に感じた。と言うのも、最初に泊まった宿で買った本には、キングストンのあまりに悲惨な出来事ばかり書かれていたから。それらのことは主に1970~1980年代に起きたことなので、当時からすれば今はずいぶん安定しているようには思う。
でも、未だにキングストンでは殺人事件は多いし、アップタウンとダウンタウンは見事に隔てられているように見えた。そんなだから、他のまちに住んでいるならまだしもキングストンにいて、いいところだろ、と言ったのがぼくには意外に思えたのだ。
本心から言えば、いろいろ問題(特に暴力の問題)が多いな、というのがこの国の印象だったが、運転手からの質問には”もちろん”と答え、飯もうまいし、人は親切だし、なんたって音楽がいい(ほとんど聞いたことがないのに)と、ありきたりなことを言う。
運転手は”Ya-man!"を繰り返す。3時45分頃空港にタクシーは到着。40USDを払い、ジャマイカ式の握手(握手をした後に、握った拳を軽くコツンとぶつけ、さらにお互いの親指を合わせ互いに右方向に向けて1回強く擦る)をして運転手と別れる。
空港は夜は完全に閉まってしまうと聞いていたが、確かにそのとおりで中に入れない。路上に車を停めて開くのを待っている人もいる。
対岸にはキングストンのまちの明かりが見え、耳をすませば波の音が聞こえる。風が眠るにはちょうどいい具合にぬるく、一気に眠気がきてあくびが次々とでる。
空港の職員が次々とやってきて、職員用の入り口から入っていく。その職員の1人にいつドアが開くか聞いたら、もう開いていると言って客用の自動ドアの前に立ってみせるのだが開かず、やはり職員用のドアから入っていった。
ロータリーに次々と車が入ってきて、ドアが開くのを待っている。
結局、空港のドアが開いたのは4時20分すぎ。30分以上も入り口で待っていた。
空港内の椅子にはヨーロッパ系の女性が1人寝ていた。夜中には完全に閉まると聞いていたので、前日から空港で寝るのは無理かと思っていたが、前日でも早く着ていれば眠ることができそう。
電光掲示板に出発便の時刻等が映り、チェックインカウンターが開く。電光掲示板でぼくのフライトを探すが、それらしきものが見あたらない。フライトはクバーナ航空だったのだが、行きと同じくエアジャマイカと共同便なのかと思い、エアジャマイカのチェックインカウンターに行く。
準備をしているところにそのチケットを持っていくと、すぐにそこで受け付けてくれる。やはりエアジャマイカのよう。チケットとパスポート、そしてツーリストカードの提示を求められる。それから、リュックの中から壊れやすいものなど手荷物で持ち込むものを取り出し、リュックを預けてチェックイン。
次に手荷物検査場に行くが、まだ準備ができていないと言われ、10分ほど待つ。持っていたペットボトルの水を没収された以外は何もなく、通過。
出国審査も1つの質問もなく通過。待合いロビーに出る。てっきりモンテゴベイのように豪華に店が立ち並んでいるだろうと思っていたら、お土産屋など6店舗ほどがあるだけ。やはり首都よりもリゾートがある空港の方が豪華だった。もちろん、店はまだ閉まっている。
搭乗時刻の6時20分まで2時間近くあるので、椅子に座って寝ることにする。天井から吊られているテレビでは、ボディビルの大会の映像が流れている。どうもカリブ海一帯の大会のよう。やっている人には悪いが、なかなか気持ち悪い。
しばらくして目が覚める。気づいたら閉まっていた店は開き、待合室には多くの白人があふれていた。時刻も6時をまわっている。1人だけ若い女の人がマックのノートパソコンでネットをやっていた。
そろそろ搭乗の時間だなと思い、搭乗ゲートの入り口(搭乗ゲートに入るための入り口が1つあり、そこから各搭乗ゲートに行く作りになっている)に行き、入り口に立っている女性の担当者にチケットを見せて、入れるか聞くが”まだダメ”と言われる。
しばらくして搭乗の案内が館内に流れる。何を言っているのかよくわからなかったが、人がその入り口に並び始めたので、ぼくも並ぶことにする。入り口に立っている女性の担当者が1人1人のチケットとパスポートをチェックする。チェックするのはその人1人なので、すぐに50人くらいの列になる。
ぼくがチケットを見せると、ぼくのフライトではないと言われる。それで、列から離れ、椅子に座っていると5分もしないうちにまた案内放送があった。今度は、ハバナという言葉が聞き取れたので間違いなさそう。
列に並び、チケットとパスポートを見せる。担当者はチケットの名前とパスポートの名前を見比べ確認し、すぐに返してくれる。
搭乗ゲートは1番。19Aの窓側の席。チェックインするときに窓側を希望していたが、席は翼の付け根。これでは海を眺めることができないなと思うが、しょうがない。
機内はがらがら。来たときよりももっと少ない。各列(横6席)に1人程度しか座っていない。ぼくはさっさと寝てしまい、気づいたら着陸体勢に入っていた。
行きと同じくモンテゴベイ経由。モンテゴベイの空港に8時頃到着。ここでまた乗り換えるのかと思っていたが、機内の放送でハバナ行きの人はそのまま乗っておくよう案内が流れる。
ほどなくして、乗務員がハバナ行きの人たちのチケットをチェックしに来る。チェックはチケットを見るだけ。その人に続いて今度は空港の職員らしき男性がまわってきて荷物の確認がある。天井下の荷物棚にある荷物の持ち主を確認したいので、自分のものかどうかを教えてくれと言う。もし、持ち主がいない荷物があれば忘れ物として機外に持っていくらしい。
しばらくしたらモンテゴベイからの乗客が乗ってくる。席ががらがらだったし、他の人もしていたので、ぼくは外がよく見えそうな座席に移動する。
モンテゴベイに着いてから30分後の8時50分ごろ、機体は離陸する。機内ではすぐに朝食の準備が始まる。女性の添乗員がまわってきてエッグとなんとかのどっちにするか聞いてくる。”なんとか”の方が聞き取れなかったので、エッグにすると卵焼きに葉っぱの炒め物が入った機内食を持ってくる。味はまぁまぁ。まずくはない。
眼下は雲だらけ。行きに見えたきれいな海は見ることができない。なので、ジャマイカで買った本の続きを読む。『ボーン フィ デッド』は、なかなかの力作だ。1970~1980年代のキングストンのギャングと政治家の関係や、ゲットーの人々がどういう環境で生きていたかががよくわかる。
モンテゴベイを出てから2時間たらずでハバナに着陸。曇っている。
前回の経験から若い審査官よりも年輩の審査官の方がいろいろ知っていてすんなり入れそうだったので、入国審査では、少し年輩の女性のところに入る。
パスポートとツーリストカードを見せると、何日間滞在するかを聞かれ、答えるとハバナを出るチケットを見せろと言うので、チケットを見せる。すると、やや考え込み、ハバナに住んでいるのかと聞かれる。日本に住んでいるというと、ちょっとそこで待っててと言われ、またもや止められる。女性の審査官は別の職員を呼ぶ。
男性の職員が来て、2人でなにやら相談。その男性の職員がぼくのところに来て、英語はできるかと聞くので、とりあえずハイと答える。そしたら日本での職業を聞かれる。オフィスワーカーだと言うと、バケーションかと聞くので、そうだと言う。そしたら、女性の審査官の方を向いて、OKというような仕草をする。
それで女性の審査官にまた呼ばれる。今度は、ツーリストカードの入国の部分にスタンプが押され、"Welcom to cuba"と言って、通してくれる。
荷物をピックアップし、外に出る。またタクシーの強引な客引きがいるだろうなと想像していたら、今度は誰もいない。客引きに1人も会わなかった。
今回はバスで市内に行こうと思い、道路沿いに歩き出す。外は寒い。1週間前はハバナは天気がよく30℃近くあったのに、今日は20℃台前半くらいに感じる。途中、通りがかりのタクシーが声をかけてくるが、断る。
しばらく歩いたところで、すれ違う人に乗り場を聞く。するとここからは出ていなく、乗り場はもっと向こうと指し示す。グラシアスと言って、しばらく歩き、またおばちゃんに聞く。すると隣がガソリンスタンドで、そこにタクシーが止まっていた。
それで乗っていけという。値段は15CUC。最初の日は25CUCだったので、ずいぶん安くなったが、それでもキューバの予算が厳しくなっているので、断るとさかんに引き留める。そしたら、タクシーの横にいたクバーナ航空の車の人が10CUCでというので、それで妥協する。
タクシーではないので、もちろんクバーナ航空の人は裏仕事になる。乗ったらすぐにお金を払ってくれというので、10CUCを渡す。車は新品のプジョーの小型車。静かで速い。
運転手はキューバは初めてかと聞いてくるので、2回目と答える。それからキューバに彼女がいるのかと聞いてくるので、NOと言う。
久しぶりのハバナは落ち着いているように見える。キングストンで感じていた緊張がすっかり解ける。キングストンに比べると歩いている人が多い。人が安心して出歩けるまちという点ではキングストンよりもハバナの方が上だ。
すんなり宿近くのカピトリオ(旧国会議事堂)に着き、宿に行く。チェックインし、昼飯を食べに外に出る。
5ペソ(15円程度)のタマーレ(トウモロコシの粉で作ったあくまきのようなもの)を食べ、やはり5ペソのパンを買う。
カピトリオ近くの路上では野菜の市をやっていて多くの人であふれていた。サルサのようなレゲエのような音楽が流れ、野菜を売っている人の中には踊りながら売っている人もいる。買いに来ている人の中にも踊っている人がいる。さすがキューバだ。
その市でワイン(22.8ペソ=約110円)とバナナ(8ペソ)、見た目はようかんのようなお菓子(3ペソ)などを買う。
両替をしに行き、しばらく中華街などを歩く。相変わらず路地やちょっと広場では野球をしている。そう言えばキングストンではまったく野球は見なかった。寒いこともあり、みんな長袖を着てる。
昼過ぎに宿に戻り、昼寝。夕方にちょっとまた散歩して、6時前に宿に戻る。
今日もこの宿は日本人がいっぱい。8人くらい泊まっている。夜は同部屋の学生が持ってきていたキューバの医療に関する本を借りて読む。
夕食時に買ってきたワインを飲んだが、どうもアルコール発酵というよりも酢酸発酵しているようで、味は黒酢に近い。ワインという感じではなかった。
おわり
2008.3.12(水)ハバナよりアップ
ハバナへ行くフライトが朝の7時ということで、夜は寝ないまま飛行場に行くことにした。
一昨日、この宿の門番の若い男の人にタクシーを紹介され、その人には3時に宿を出ると伝えていた。空港までは宿から40分ほど。飛行機の出発予定時刻の3時間前に空港入りするように、クバーナ航空の人に言われていたので、こんな真夜中に移動することになった。
ちなみに空港までのタクシー代は、運転手の言い値で40USD。真夜中だし、キングストンだしといういことで、その言い値でOKした。
荷物の準備をしてから、1時からホテルのパソコンを使ってネットに写真をアップ。これまでフリッカーにアップしていたが、200枚を越えると使用料が発生するらしく、その旨の通知が来たのでGoogleのピカサに変更。こっちの方がアップロードが早いし、容量も大きい。
パソコンは受付があるロビーの片隅にあって、パソコンに向かって左手がホテルの受付になっている。ロビーにはコンポが置かれてあって、ずっとレゲエ風の音楽が流れている。受付には若い(?)女の人が1人。パソコンでフリーセル(ゲーム)をしている。
ヨーロッパ系の観光客がこの時間に何人か帰って来る。おそらくダンスかなんかのお店に行っていたのだろう。
3時前にチェックアウトの手続きをする。チェックアウトをするというと、受付の人はこの時間に?と聞き返してくる。夕方、別の人に今晩チェックアウトすると伝えていたのだが、どうも夜番の人には伝わっていなかったよう。
キーデポジットとして初日に払っていた500ジャマイカドルが戻ってきたが、それはそのまま2時間のインターネット代に消える。
荷物を持って表に出る。門番の男の人が、タクシーが必要かと聞いてくるので、予約しているというと門の外に泊まっている車か?と聞かれる。
車内の電気が付いていないので運転手の顔がわからなかったが、たぶんそうだと言うと、鉄柵の門の鍵を開け、車まで一緒に付いてきてくれる。そして、門番の人が運転席の窓をこつこつノックすると仮眠していた運転手が起きてきた。
確かに一昨日予約した人。白い乗用車で、左側のドアには悟空や悟飯のシールが貼られてある。ちなみに悟空のはスーパーサイヤ人状態のもの。
助手席に座るとこれまた悟飯などのシールが貼られている。"You have many Dragonball"とぼくが言うと"Ya-man(ヤーマン)、Ya-man"とジャマイカ式の"yes"を2回言う。
街灯の黄色い明かりの中を車は走り出す。空には星が見えるが、キューバに比べると圧倒的に少ない。
車は途中ガソリンスタンドに寄り、給油する。24時間やっているのか、スタンドには女性の店員がこの時間帯におり、給油作業もする。ちなみにガソリンの値段は、これまでみたところだいたい65ジャマイカドル=1USD。
車はアップタウンの西側のとおりを走る。左手の一段高いところは高級住宅街のビバリーヒルズ。ここからの夜景がきれいだと言われていたので、この時間に寄ってもらうように最初に伝えておけば良かったと思うが後の祭り。
ちなみに別の日本人の人から聞いた話では、その人も夜にビバリーヒルズに行こうかと思っていたらしいが、ジャマイカ人に、ここに住む金持ちを狙っているバットマンたちがいるというからやめたと言っていた。
さすがにこの時間帯だと人通りはない。途中、電信柱にもたれかかって寝ている男の人をみる。また、この時間に路上に止めた車を修理している人もいた。
車は発電所の脇を通り、次の交差点を右に曲がれば空港へ一直線というところまでくる。順調だなと思っていたら、左手に警察が2人立っており、止まれと合図をする。
運転手のおじさんはちゃんとタクシーの免許を持っているのかな、とふいに疑う。許可のないタクシーの取り締まりは厳しく、昨日もバスターミナル付近で無断で人を乗せていた運転手が警察に路上で事情聴取を受けていて、ひたすら運転手は謝っていた。
車は止まり、運転手はゆっくりと降りる。ぼくは車内で待っていればいいかと思っていたら、運転手が助手席のドアを開け、出てというような合図をする。
景観は1人は若くせいぜい20歳前半、もう1人は40歳くらいに見える。長い銃を脇に抱え、腹部には防弾チョッキを付けている。いつでも戦闘可能といういでたちだ。
彼らはジャマイカ英語のパトワ語で、かつ早口でワーっとなにやら聞いてくる。が、よく聞き取れない。
聞き取れたのはマリファナ(発音としてはマリワナ)とイリーガルと、あと少々。マリファナを持っているか、とか、吸ったかなどと聞かれるので”No”と否定する。それから、持っていたウェストバックの中を見せろと言われる。警官の1人が、ぼくのバックの中をごちゃごちゃと手でかき回しながら探る。
外務省の安全情報にも載っていたが、日本人がここで大麻を手に入れ、日本に持っていこうとしたり、またジャマイカ人に頼まれてそれと知らず、預かっていたりするようなことが数多くあるらしい。たぶん、その影響もあるのだろう、警官は執拗にマリファナについて聞いてくる。
さっきからマリファナはやっていないというのに、信じられないと言った具合で、何度も聞かれる。それから日本での仕事を聞かれ、靴屋の店員と答えると、じゃあ、ビジネスで来たのか、と今度は別の路線で疑われる。
そして、いつからジャマイカにいるのかと言うから、3月3日からと伝えると、ちょっとパスポートを見せてと言われる。パスポートを見せると、これから空港に行くのかというので、そうだと伝えると、今度は航空券を見せろと言う。
その間も早口でほかにも聞かれるのだが、よくわからない。すでにID等を見せ、警官からのチェックを済ませた運転手は脇で、”彼は(警官の言葉を)理解できていない”と警官に言う。運転手は落ち着いているふうだったので、まぁ大丈夫かと思っていたが、とにかく警官はしつこい。
ジャマイカにガールフレンドがいるのかなどとまで聞かれる。最後の方になると、なにもないとわかったのか、だんだん向こうもにこにこ笑いながら質問してくるので、半分遊んでいるかのようだった。
時間にしたら10分ほどだったろうか、無事に解放され、車に戻る。
運転手にこうしたチェックはけっこうあるのか聞くと、”Ya-man"と答える。さっきの警官はいい奴だみたいなことも言うので、やはり途中からは遊んでいたようだ。ただ、でかい銃を持って武装しているので、そういうのに慣れてない身としては、それを使って何かされたらと疑ってしまうので、なんとも気分が悪い。
運転手は”ジャマイカはいいところだろ”と言う。そして、次はいつもどってくるのかとも。ぼくは”いいところだろ”と運転手が言ったのを意外に感じた。と言うのも、最初に泊まった宿で買った本には、キングストンのあまりに悲惨な出来事ばかり書かれていたから。それらのことは主に1970~1980年代に起きたことなので、当時からすれば今はずいぶん安定しているようには思う。
でも、未だにキングストンでは殺人事件は多いし、アップタウンとダウンタウンは見事に隔てられているように見えた。そんなだから、他のまちに住んでいるならまだしもキングストンにいて、いいところだろ、と言ったのがぼくには意外に思えたのだ。
本心から言えば、いろいろ問題(特に暴力の問題)が多いな、というのがこの国の印象だったが、運転手からの質問には”もちろん”と答え、飯もうまいし、人は親切だし、なんたって音楽がいい(ほとんど聞いたことがないのに)と、ありきたりなことを言う。
運転手は”Ya-man!"を繰り返す。3時45分頃空港にタクシーは到着。40USDを払い、ジャマイカ式の握手(握手をした後に、握った拳を軽くコツンとぶつけ、さらにお互いの親指を合わせ互いに右方向に向けて1回強く擦る)をして運転手と別れる。
空港は夜は完全に閉まってしまうと聞いていたが、確かにそのとおりで中に入れない。路上に車を停めて開くのを待っている人もいる。
対岸にはキングストンのまちの明かりが見え、耳をすませば波の音が聞こえる。風が眠るにはちょうどいい具合にぬるく、一気に眠気がきてあくびが次々とでる。
空港の職員が次々とやってきて、職員用の入り口から入っていく。その職員の1人にいつドアが開くか聞いたら、もう開いていると言って客用の自動ドアの前に立ってみせるのだが開かず、やはり職員用のドアから入っていった。
ロータリーに次々と車が入ってきて、ドアが開くのを待っている。
結局、空港のドアが開いたのは4時20分すぎ。30分以上も入り口で待っていた。
空港内の椅子にはヨーロッパ系の女性が1人寝ていた。夜中には完全に閉まると聞いていたので、前日から空港で寝るのは無理かと思っていたが、前日でも早く着ていれば眠ることができそう。
電光掲示板に出発便の時刻等が映り、チェックインカウンターが開く。電光掲示板でぼくのフライトを探すが、それらしきものが見あたらない。フライトはクバーナ航空だったのだが、行きと同じくエアジャマイカと共同便なのかと思い、エアジャマイカのチェックインカウンターに行く。
準備をしているところにそのチケットを持っていくと、すぐにそこで受け付けてくれる。やはりエアジャマイカのよう。チケットとパスポート、そしてツーリストカードの提示を求められる。それから、リュックの中から壊れやすいものなど手荷物で持ち込むものを取り出し、リュックを預けてチェックイン。
次に手荷物検査場に行くが、まだ準備ができていないと言われ、10分ほど待つ。持っていたペットボトルの水を没収された以外は何もなく、通過。
出国審査も1つの質問もなく通過。待合いロビーに出る。てっきりモンテゴベイのように豪華に店が立ち並んでいるだろうと思っていたら、お土産屋など6店舗ほどがあるだけ。やはり首都よりもリゾートがある空港の方が豪華だった。もちろん、店はまだ閉まっている。
搭乗時刻の6時20分まで2時間近くあるので、椅子に座って寝ることにする。天井から吊られているテレビでは、ボディビルの大会の映像が流れている。どうもカリブ海一帯の大会のよう。やっている人には悪いが、なかなか気持ち悪い。
しばらくして目が覚める。気づいたら閉まっていた店は開き、待合室には多くの白人があふれていた。時刻も6時をまわっている。1人だけ若い女の人がマックのノートパソコンでネットをやっていた。
そろそろ搭乗の時間だなと思い、搭乗ゲートの入り口(搭乗ゲートに入るための入り口が1つあり、そこから各搭乗ゲートに行く作りになっている)に行き、入り口に立っている女性の担当者にチケットを見せて、入れるか聞くが”まだダメ”と言われる。
しばらくして搭乗の案内が館内に流れる。何を言っているのかよくわからなかったが、人がその入り口に並び始めたので、ぼくも並ぶことにする。入り口に立っている女性の担当者が1人1人のチケットとパスポートをチェックする。チェックするのはその人1人なので、すぐに50人くらいの列になる。
ぼくがチケットを見せると、ぼくのフライトではないと言われる。それで、列から離れ、椅子に座っていると5分もしないうちにまた案内放送があった。今度は、ハバナという言葉が聞き取れたので間違いなさそう。
列に並び、チケットとパスポートを見せる。担当者はチケットの名前とパスポートの名前を見比べ確認し、すぐに返してくれる。
搭乗ゲートは1番。19Aの窓側の席。チェックインするときに窓側を希望していたが、席は翼の付け根。これでは海を眺めることができないなと思うが、しょうがない。
機内はがらがら。来たときよりももっと少ない。各列(横6席)に1人程度しか座っていない。ぼくはさっさと寝てしまい、気づいたら着陸体勢に入っていた。
行きと同じくモンテゴベイ経由。モンテゴベイの空港に8時頃到着。ここでまた乗り換えるのかと思っていたが、機内の放送でハバナ行きの人はそのまま乗っておくよう案内が流れる。
ほどなくして、乗務員がハバナ行きの人たちのチケットをチェックしに来る。チェックはチケットを見るだけ。その人に続いて今度は空港の職員らしき男性がまわってきて荷物の確認がある。天井下の荷物棚にある荷物の持ち主を確認したいので、自分のものかどうかを教えてくれと言う。もし、持ち主がいない荷物があれば忘れ物として機外に持っていくらしい。
しばらくしたらモンテゴベイからの乗客が乗ってくる。席ががらがらだったし、他の人もしていたので、ぼくは外がよく見えそうな座席に移動する。
モンテゴベイに着いてから30分後の8時50分ごろ、機体は離陸する。機内ではすぐに朝食の準備が始まる。女性の添乗員がまわってきてエッグとなんとかのどっちにするか聞いてくる。”なんとか”の方が聞き取れなかったので、エッグにすると卵焼きに葉っぱの炒め物が入った機内食を持ってくる。味はまぁまぁ。まずくはない。
眼下は雲だらけ。行きに見えたきれいな海は見ることができない。なので、ジャマイカで買った本の続きを読む。『ボーン フィ デッド』は、なかなかの力作だ。1970~1980年代のキングストンのギャングと政治家の関係や、ゲットーの人々がどういう環境で生きていたかががよくわかる。
モンテゴベイを出てから2時間たらずでハバナに着陸。曇っている。
前回の経験から若い審査官よりも年輩の審査官の方がいろいろ知っていてすんなり入れそうだったので、入国審査では、少し年輩の女性のところに入る。
パスポートとツーリストカードを見せると、何日間滞在するかを聞かれ、答えるとハバナを出るチケットを見せろと言うので、チケットを見せる。すると、やや考え込み、ハバナに住んでいるのかと聞かれる。日本に住んでいるというと、ちょっとそこで待っててと言われ、またもや止められる。女性の審査官は別の職員を呼ぶ。
男性の職員が来て、2人でなにやら相談。その男性の職員がぼくのところに来て、英語はできるかと聞くので、とりあえずハイと答える。そしたら日本での職業を聞かれる。オフィスワーカーだと言うと、バケーションかと聞くので、そうだと言う。そしたら、女性の審査官の方を向いて、OKというような仕草をする。
それで女性の審査官にまた呼ばれる。今度は、ツーリストカードの入国の部分にスタンプが押され、"Welcom to cuba"と言って、通してくれる。
荷物をピックアップし、外に出る。またタクシーの強引な客引きがいるだろうなと想像していたら、今度は誰もいない。客引きに1人も会わなかった。
今回はバスで市内に行こうと思い、道路沿いに歩き出す。外は寒い。1週間前はハバナは天気がよく30℃近くあったのに、今日は20℃台前半くらいに感じる。途中、通りがかりのタクシーが声をかけてくるが、断る。
しばらく歩いたところで、すれ違う人に乗り場を聞く。するとここからは出ていなく、乗り場はもっと向こうと指し示す。グラシアスと言って、しばらく歩き、またおばちゃんに聞く。すると隣がガソリンスタンドで、そこにタクシーが止まっていた。
それで乗っていけという。値段は15CUC。最初の日は25CUCだったので、ずいぶん安くなったが、それでもキューバの予算が厳しくなっているので、断るとさかんに引き留める。そしたら、タクシーの横にいたクバーナ航空の車の人が10CUCでというので、それで妥協する。
タクシーではないので、もちろんクバーナ航空の人は裏仕事になる。乗ったらすぐにお金を払ってくれというので、10CUCを渡す。車は新品のプジョーの小型車。静かで速い。
運転手はキューバは初めてかと聞いてくるので、2回目と答える。それからキューバに彼女がいるのかと聞いてくるので、NOと言う。
久しぶりのハバナは落ち着いているように見える。キングストンで感じていた緊張がすっかり解ける。キングストンに比べると歩いている人が多い。人が安心して出歩けるまちという点ではキングストンよりもハバナの方が上だ。
すんなり宿近くのカピトリオ(旧国会議事堂)に着き、宿に行く。チェックインし、昼飯を食べに外に出る。
5ペソ(15円程度)のタマーレ(トウモロコシの粉で作ったあくまきのようなもの)を食べ、やはり5ペソのパンを買う。
カピトリオ近くの路上では野菜の市をやっていて多くの人であふれていた。サルサのようなレゲエのような音楽が流れ、野菜を売っている人の中には踊りながら売っている人もいる。買いに来ている人の中にも踊っている人がいる。さすがキューバだ。
その市でワイン(22.8ペソ=約110円)とバナナ(8ペソ)、見た目はようかんのようなお菓子(3ペソ)などを買う。
両替をしに行き、しばらく中華街などを歩く。相変わらず路地やちょっと広場では野球をしている。そう言えばキングストンではまったく野球は見なかった。寒いこともあり、みんな長袖を着てる。
昼過ぎに宿に戻り、昼寝。夕方にちょっとまた散歩して、6時前に宿に戻る。
今日もこの宿は日本人がいっぱい。8人くらい泊まっている。夜は同部屋の学生が持ってきていたキューバの医療に関する本を借りて読む。
夕食時に買ってきたワインを飲んだが、どうもアルコール発酵というよりも酢酸発酵しているようで、味は黒酢に近い。ワインという感じではなかった。
おわり
2008.3.12(水)ハバナよりアップ
2008年3月9日日曜日
トレンチタウン、ポートロイヤル
2008.3.7(土)
ジャマイカ最終日。ずっと行くか迷っていたがトレンチタウンに行くことにする。
トレンチタウンはゲットーと呼ばれている地域の1画でボブ・マーリーをはじめレゲエのトップミュージシャンなどが生まれ育ったところ。地球の歩き方には迷い込まないように、などと書かれている「危険地帯」。
昨日も3日前に行ったスパニッシュタウンで白昼に銃による殺人事件があり、そうしたものに偶然遭遇しないかと迷っていた。最初にここで泊まっていた宿の人は、タクシーを使ってトレンチタウンを通ったらしいが、その運転手からこっちの方は写真を撮ったりしたらダメとか、ここからは危ない通りだからと窓とドアを完全に閉めて急いで通りすぎたりしたと聞いていた。
また、その人はジャマイカ人から、日本人がさっき銃を突きつけられていたよと言われたこともあったらしい。
そんなこともあって、どうしようかと思っていたのだが、ホテルの前に止まっていたタクシーのおじさんが話しかけてきた( cheap taxiなんて言ってきたが、最終的には高くついた)のをきっかけにタクシーを使っていくことにした。
カネがなくなっていたので、9時頃両替をしに行く。両替後、アフリカのフランス語圏にそなえて英語・仏語辞典を買う(567ジャマイカドル)。あと記念にパトワ語辞典も買う(190ジャマイカドル)。英語関係の辞書はオックスフォードばかり。両替にはパスポートが必要なので、一度、宿に戻りパスポートをおいてから行くことにする。
11時頃、タクシーに乗ってトレンチタウンに向かう。そのおじさんは日本人の友達がいるといい、DJのパパUGTを知っているかと聞いてくる。もちろん、ぼくは知らない。
CITIグループのビルや銀行のビルがあるニューキングストンを通り、車はトレンチタウンに入る。武装した女性警官2人が、通りに立ってパトロールらしきことをしている。そこを通るときに、運転手はここは"Bad place"だと言う。
宿を出てから30分ちょっとでトレンチタウンにあるCulture Yardに到着。ここはボブ・マーリーの代表曲”No woman No cry"に出てくる”goverment yard"と呼ばれていたところ。
Culture Yardはただ広場だった。リングはないがバスケットコートのラインが引かれており、その他は何があるというわけでもない。広場の入り口の壁は竹を横に並べて作られていた。竹でこうしたものが作られているのを見たのは初めて。ポートアントニオに行く道沿いは竹がぎょうさんあったが、あまり竹を使ったものを見ることはない。
入り口に向かって左側の大きいとおりに面した壁にはボブ・マーリー基金によって、トレンチタウンから生まれたミューシャン等の肖像画が描かれている。
広場の中に入り、写真を撮っていると180cmは越えているラスタの格好をしたおじさん(おじいさんに近い)に、声をかけられる。何を言っているかわからなかったので、近い付いていって聞くと、なんで写真を撮っているのかと言っているのだった。
ボブ・マーリーの歌に出てくるからというと、詳しいツアーをやっているからと広場の向かいにあった建物に案内された。
そこには他にもラスタの格好をした男の人が、3人ほど表におり、タクシーの運転手はその人達と雑談をしていた。入り口近くの建物が受付になっており、そのおじさんに促されるままに入っていく。そして、ツアーの参加名簿を渡され、名前などを書くように言われる。料金を聞くと700ジャマイカドル(約1200円)。高いなと思いつつも、ここのお金はトレンチタウンをよくするために使われているとどっかで読んでいたし、ここまで来たのでツアーを利用することにする。
客はぼくの他にはなし。おじさんがマンツーマンで案内してくれる。受付の建物の裏側に口の字のように小さな建物が並んでおり、まずは左手の部屋に案内する。
そこにはボブ・マーリーが入っていたバンドのウェーラーズのメンバーの写真やトレンチタウン出身のレゲエミュージシャン等がここで小さなコンサートをしたときの写真、またここを訪れたドイツ政府の人の写真などが壁に貼られていた。
次に案内されたのが、ボブ・マーリーが使っていたアコースティックギターが展示されている部屋。ギターはそうとう使い込まれたようで、黒の塗装が擦れて木目が見えている。
次の部屋はボブ・マーリーが曲を作ったりしていた部屋で、彼がよく座っていた椅子などがおかれている。壁にはいろんんな言葉が書かれている。また、壁にかけられた写真を指さし、おじさんはこれは自分だという。ボブ・マーリーの方が6歳年上らしく、当時のおじさんはボブ・マーリーと同じくらい痩せていた。
それから次に案内された部屋がベッドのある部屋で、おじさんはボブ・マーリーの歌を口ずさみ、その歌の歌詞に出て来る"bed"がこのベッドだと言う(なんの歌か忘れた)。
部屋から出ると中庭にあるボブ・マーリー像のところに行き、ちょっと待ってとおじさんに言われる。おじさんはカップに水を入れてきて、像の下に植えられている植物に水をやっている。そして、"Herb"を育てているんだ、と言う。"Herb"と言って指さした植物は他でもない大麻。日本でもよく麻製の財布などに大麻の葉っぱがデザインされているが、ほんとにそのままの形だった。
それから案内された敷地内のグッズショップの入り口の会談したにもやはりハーブがあった。`
店内には毛糸で編んだバッグやセイレ・ハラシエのTシャツ、ラスタが使っているような帽子、ボブ・マーリーの絵が入っているハンカチなどが売られていた。どれもなんだかいまいちなのだが、他に客もいないし、おばさんたちはあれこれすすめてくるから、ここまで来たら買わなければ。
そんで携帯電話を入れる小さな毛糸のバックとボブ・マーリーのハンカチを買う。2つ併せて700ジャマイカドル(約1200円)。高い!ハンカチには大きくMade in Thailandとあるのに。
そこを後にし、その右手向かいにあった建物を見に行く。入り口にはVIN LAWRENCE PARKと書かており、入り口右手の壁には”TRENCH TOWN READING CENTRE”、左手の壁には”KNOWLEDGE IS THE KEY TO SUCCESS”と書かれてある。
タクシーの運転手はすでに車に乗って待っていたので、車に乗り、ダウンタウンのマーケットに行く。途中、トレンチタウンの道ばたでは大勢の人が集まってサッカーをやっていた。わりと人通りはあるので、1人で来ても大丈夫そうに思える。トレンチタウン一帯の多くの家はトタン板をつぎはぎしたような家が多く、確かにアップタウンとはぜんぜん違う。
マーケットまでは車で5分ほど。運転手は最初500ジャマイカドルと言っていたのに、500ジャマイカドルはトレンチタウンまででそこからマーケットまでは300ジャマイカドルだという。おいおい、話が違うぞと思いつつ、言い値で払う。
マーケットは土曜日ということもあってか前回来たときよりも人出が多かった。屋根代わりのブルーシートが風にはためく。その下を歩いていると店の人から”チャイナマン”とか”ミスターチン”とか”ジャパニ”とかと声をかけられ、キャベツを買っていけなどと言われる。
マーケットの野菜はキューバよりも豊富。2種類のジャガイモ、人参、キャベツ、半径40センチはありそうなカボチャ、楕円形のスイカ、レタス、ココナッツ、夏みかんに似た柑橘系の果物、空芯菜に似た葉っぱなどなど。キューバではいっさい見なかった魚も売っている。
ダウンタウンのバスターミナルからPort Royalに行くことにする。Port Royalは空港近くにある1200人の小さなまち。このまちには1656年にイギリス人が入植したが、1692年に大規模な地震があり、まちは壊滅的な被害を受けた。そのときにそこから逃げ出した人たちが移り住み作ったのが今のキングストンらしい。
まずはPort Royal行きのバスを探す。ここのターミナルはハーフウェイツリーのそれと違って広場にバス停があるだけ。行き先を書いた看板があるわけでもないので、人に聞くしかない。適当にバスの添乗員の人に聞く。が、発音が悪く
”Royal”が伝わらない。で、紙に書くと理解してくれ、乗り場を指さしながら98番のバスに乗れと言われる。
乗り場の方へ歩いていく。途中、果物屋さんでパパイヤを買う。量り売りでぼくが買ったのは1個70ジャマイカドル(約120円)。川を剥くかというような仕草をするので、お願いする。鉈(なた)のような包丁で皮をむき、食べやすい大きさに切ってビニール袋に入れてくれる。早速食べるてみたが、これがうまい。
98番のバスを発見。まだ出発まで時間がありそうだったので、近くで売っていたジャークチキンを買う。舞の上に円柱形の肉があったので、内蔵かと思ったがよく見ると鶏の首の部分だった。50ジャマイカドルぶん買う。さすがに首の部分だから肉が少ない。味付けは辛いケチャップのようなもの。
バスはスマートカードが使えるバス。料金は50ジャマイカドル。バスは途中から初日に空港から宿まで行くのに通った道を通る。途中、空港にも停まる。このバスを使えば、37ドルも払わずに500円程度で宿に行けたのかと今更ながら気づく。ガイドブックにはバスは危険だと書いていたが、まったく危険な雰囲気はないし、座席もそこそこ広いので荷物を持っていても大丈夫そう。
空港から10分ほどでPort Royalに到着。キングストンとはまったく雰囲気が違う。さびれた港町という雰囲気。バス停からは店ひとつ見えない。
波の音がする方に行く。低木の生い茂る合間にできている道を通っていくと海岸に出る。水はにごっており、ゴミも多い。地元の人が泳いでいるが、見渡したところ3人ほどだけ。これだけ海が近いなら子どもが遊んでいてもいいようなものだが、子どもの姿はない。
海辺から大きな広場に移動。広場では古い建物の解体が行われていた。壁をハンマーのようなものでぶち壊し、建物の柱とトラックをワイヤーでつなぎ、トラックで引っ張って建物を倒す。周りでは男の子達が、建物の端材とトンカチを使い釘を打ったりして遊んでいる。
それからしばらくまちのなかをふらふら。あるのは住宅ばかりで、食事ができるところが2カ所ほど。キングトン側の岸沿いには釣り屋などがあるが、客はいない。海岸につながれている船の上で釣りをしている地元の子どもたちが数人いる。
魚の唐揚げを売っている屋台があったので、そこで魚を1尾と練り物系の天ぷらを1枚買う。
まちには1時間ほど滞在して、帰る。ダウンタウンでバスを乗り換える際に、またパパイヤを同じ屋台で買う。屋台に行くと屋台のおじさんはうまかっただろというようなことを言う。今回も70ジャマイカドル。
バスに乗ってハーフウェイツリーに向かう。バスターミナルの近くにアイタルフード(ラスタファリアンが好むベジタリアン料理)のレストランがあったので、そこで夕食をたべることにする。2階にあるそのレストランに入るとマリファナのにおいが立ちこめている。店内にいる人もラスタの格好をした人が多い。
近くの店が大音量でレゲエを流している。
150ジャマイカドルの料理を頼むとすぐに発泡スチロールの弁当箱に入って料理が出てきた。
店の外の廊下にある椅子に座って、レゲエを聴きながら、また奥の人が吸っているマリファナの煙が流れてくる中、飯を食う。タバコの副流煙はのどが痛くなることもあって嫌いなのだが、マリファナの副流煙(?)はタバコの煙に感じるような嫌な感じがしない。
午前中に両替した40ドルも予定外の出費(トレンチタウンのツアーと買い物、タクシー代)でほとんどなくなる。
宿に戻り、明日の出発の準備をし、仮眠をする。
おわり
ジャマイカ最終日。ずっと行くか迷っていたがトレンチタウンに行くことにする。
トレンチタウンはゲットーと呼ばれている地域の1画でボブ・マーリーをはじめレゲエのトップミュージシャンなどが生まれ育ったところ。地球の歩き方には迷い込まないように、などと書かれている「危険地帯」。
昨日も3日前に行ったスパニッシュタウンで白昼に銃による殺人事件があり、そうしたものに偶然遭遇しないかと迷っていた。最初にここで泊まっていた宿の人は、タクシーを使ってトレンチタウンを通ったらしいが、その運転手からこっちの方は写真を撮ったりしたらダメとか、ここからは危ない通りだからと窓とドアを完全に閉めて急いで通りすぎたりしたと聞いていた。
また、その人はジャマイカ人から、日本人がさっき銃を突きつけられていたよと言われたこともあったらしい。
そんなこともあって、どうしようかと思っていたのだが、ホテルの前に止まっていたタクシーのおじさんが話しかけてきた( cheap taxiなんて言ってきたが、最終的には高くついた)のをきっかけにタクシーを使っていくことにした。
カネがなくなっていたので、9時頃両替をしに行く。両替後、アフリカのフランス語圏にそなえて英語・仏語辞典を買う(567ジャマイカドル)。あと記念にパトワ語辞典も買う(190ジャマイカドル)。英語関係の辞書はオックスフォードばかり。両替にはパスポートが必要なので、一度、宿に戻りパスポートをおいてから行くことにする。
11時頃、タクシーに乗ってトレンチタウンに向かう。そのおじさんは日本人の友達がいるといい、DJのパパUGTを知っているかと聞いてくる。もちろん、ぼくは知らない。
CITIグループのビルや銀行のビルがあるニューキングストンを通り、車はトレンチタウンに入る。武装した女性警官2人が、通りに立ってパトロールらしきことをしている。そこを通るときに、運転手はここは"Bad place"だと言う。
宿を出てから30分ちょっとでトレンチタウンにあるCulture Yardに到着。ここはボブ・マーリーの代表曲”No woman No cry"に出てくる”goverment yard"と呼ばれていたところ。
Culture Yardはただ広場だった。リングはないがバスケットコートのラインが引かれており、その他は何があるというわけでもない。広場の入り口の壁は竹を横に並べて作られていた。竹でこうしたものが作られているのを見たのは初めて。ポートアントニオに行く道沿いは竹がぎょうさんあったが、あまり竹を使ったものを見ることはない。
入り口に向かって左側の大きいとおりに面した壁にはボブ・マーリー基金によって、トレンチタウンから生まれたミューシャン等の肖像画が描かれている。
広場の中に入り、写真を撮っていると180cmは越えているラスタの格好をしたおじさん(おじいさんに近い)に、声をかけられる。何を言っているかわからなかったので、近い付いていって聞くと、なんで写真を撮っているのかと言っているのだった。
ボブ・マーリーの歌に出てくるからというと、詳しいツアーをやっているからと広場の向かいにあった建物に案内された。
そこには他にもラスタの格好をした男の人が、3人ほど表におり、タクシーの運転手はその人達と雑談をしていた。入り口近くの建物が受付になっており、そのおじさんに促されるままに入っていく。そして、ツアーの参加名簿を渡され、名前などを書くように言われる。料金を聞くと700ジャマイカドル(約1200円)。高いなと思いつつも、ここのお金はトレンチタウンをよくするために使われているとどっかで読んでいたし、ここまで来たのでツアーを利用することにする。
客はぼくの他にはなし。おじさんがマンツーマンで案内してくれる。受付の建物の裏側に口の字のように小さな建物が並んでおり、まずは左手の部屋に案内する。
そこにはボブ・マーリーが入っていたバンドのウェーラーズのメンバーの写真やトレンチタウン出身のレゲエミュージシャン等がここで小さなコンサートをしたときの写真、またここを訪れたドイツ政府の人の写真などが壁に貼られていた。
次に案内されたのが、ボブ・マーリーが使っていたアコースティックギターが展示されている部屋。ギターはそうとう使い込まれたようで、黒の塗装が擦れて木目が見えている。
次の部屋はボブ・マーリーが曲を作ったりしていた部屋で、彼がよく座っていた椅子などがおかれている。壁にはいろんんな言葉が書かれている。また、壁にかけられた写真を指さし、おじさんはこれは自分だという。ボブ・マーリーの方が6歳年上らしく、当時のおじさんはボブ・マーリーと同じくらい痩せていた。
それから次に案内された部屋がベッドのある部屋で、おじさんはボブ・マーリーの歌を口ずさみ、その歌の歌詞に出て来る"bed"がこのベッドだと言う(なんの歌か忘れた)。
部屋から出ると中庭にあるボブ・マーリー像のところに行き、ちょっと待ってとおじさんに言われる。おじさんはカップに水を入れてきて、像の下に植えられている植物に水をやっている。そして、"Herb"を育てているんだ、と言う。"Herb"と言って指さした植物は他でもない大麻。日本でもよく麻製の財布などに大麻の葉っぱがデザインされているが、ほんとにそのままの形だった。
それから案内された敷地内のグッズショップの入り口の会談したにもやはりハーブがあった。`
店内には毛糸で編んだバッグやセイレ・ハラシエのTシャツ、ラスタが使っているような帽子、ボブ・マーリーの絵が入っているハンカチなどが売られていた。どれもなんだかいまいちなのだが、他に客もいないし、おばさんたちはあれこれすすめてくるから、ここまで来たら買わなければ。
そんで携帯電話を入れる小さな毛糸のバックとボブ・マーリーのハンカチを買う。2つ併せて700ジャマイカドル(約1200円)。高い!ハンカチには大きくMade in Thailandとあるのに。
そこを後にし、その右手向かいにあった建物を見に行く。入り口にはVIN LAWRENCE PARKと書かており、入り口右手の壁には”TRENCH TOWN READING CENTRE”、左手の壁には”KNOWLEDGE IS THE KEY TO SUCCESS”と書かれてある。
タクシーの運転手はすでに車に乗って待っていたので、車に乗り、ダウンタウンのマーケットに行く。途中、トレンチタウンの道ばたでは大勢の人が集まってサッカーをやっていた。わりと人通りはあるので、1人で来ても大丈夫そうに思える。トレンチタウン一帯の多くの家はトタン板をつぎはぎしたような家が多く、確かにアップタウンとはぜんぜん違う。
マーケットまでは車で5分ほど。運転手は最初500ジャマイカドルと言っていたのに、500ジャマイカドルはトレンチタウンまででそこからマーケットまでは300ジャマイカドルだという。おいおい、話が違うぞと思いつつ、言い値で払う。
マーケットは土曜日ということもあってか前回来たときよりも人出が多かった。屋根代わりのブルーシートが風にはためく。その下を歩いていると店の人から”チャイナマン”とか”ミスターチン”とか”ジャパニ”とかと声をかけられ、キャベツを買っていけなどと言われる。
マーケットの野菜はキューバよりも豊富。2種類のジャガイモ、人参、キャベツ、半径40センチはありそうなカボチャ、楕円形のスイカ、レタス、ココナッツ、夏みかんに似た柑橘系の果物、空芯菜に似た葉っぱなどなど。キューバではいっさい見なかった魚も売っている。
ダウンタウンのバスターミナルからPort Royalに行くことにする。Port Royalは空港近くにある1200人の小さなまち。このまちには1656年にイギリス人が入植したが、1692年に大規模な地震があり、まちは壊滅的な被害を受けた。そのときにそこから逃げ出した人たちが移り住み作ったのが今のキングストンらしい。
まずはPort Royal行きのバスを探す。ここのターミナルはハーフウェイツリーのそれと違って広場にバス停があるだけ。行き先を書いた看板があるわけでもないので、人に聞くしかない。適当にバスの添乗員の人に聞く。が、発音が悪く
”Royal”が伝わらない。で、紙に書くと理解してくれ、乗り場を指さしながら98番のバスに乗れと言われる。
乗り場の方へ歩いていく。途中、果物屋さんでパパイヤを買う。量り売りでぼくが買ったのは1個70ジャマイカドル(約120円)。川を剥くかというような仕草をするので、お願いする。鉈(なた)のような包丁で皮をむき、食べやすい大きさに切ってビニール袋に入れてくれる。早速食べるてみたが、これがうまい。
98番のバスを発見。まだ出発まで時間がありそうだったので、近くで売っていたジャークチキンを買う。舞の上に円柱形の肉があったので、内蔵かと思ったがよく見ると鶏の首の部分だった。50ジャマイカドルぶん買う。さすがに首の部分だから肉が少ない。味付けは辛いケチャップのようなもの。
バスはスマートカードが使えるバス。料金は50ジャマイカドル。バスは途中から初日に空港から宿まで行くのに通った道を通る。途中、空港にも停まる。このバスを使えば、37ドルも払わずに500円程度で宿に行けたのかと今更ながら気づく。ガイドブックにはバスは危険だと書いていたが、まったく危険な雰囲気はないし、座席もそこそこ広いので荷物を持っていても大丈夫そう。
空港から10分ほどでPort Royalに到着。キングストンとはまったく雰囲気が違う。さびれた港町という雰囲気。バス停からは店ひとつ見えない。
波の音がする方に行く。低木の生い茂る合間にできている道を通っていくと海岸に出る。水はにごっており、ゴミも多い。地元の人が泳いでいるが、見渡したところ3人ほどだけ。これだけ海が近いなら子どもが遊んでいてもいいようなものだが、子どもの姿はない。
海辺から大きな広場に移動。広場では古い建物の解体が行われていた。壁をハンマーのようなものでぶち壊し、建物の柱とトラックをワイヤーでつなぎ、トラックで引っ張って建物を倒す。周りでは男の子達が、建物の端材とトンカチを使い釘を打ったりして遊んでいる。
それからしばらくまちのなかをふらふら。あるのは住宅ばかりで、食事ができるところが2カ所ほど。キングトン側の岸沿いには釣り屋などがあるが、客はいない。海岸につながれている船の上で釣りをしている地元の子どもたちが数人いる。
魚の唐揚げを売っている屋台があったので、そこで魚を1尾と練り物系の天ぷらを1枚買う。
まちには1時間ほど滞在して、帰る。ダウンタウンでバスを乗り換える際に、またパパイヤを同じ屋台で買う。屋台に行くと屋台のおじさんはうまかっただろというようなことを言う。今回も70ジャマイカドル。
バスに乗ってハーフウェイツリーに向かう。バスターミナルの近くにアイタルフード(ラスタファリアンが好むベジタリアン料理)のレストランがあったので、そこで夕食をたべることにする。2階にあるそのレストランに入るとマリファナのにおいが立ちこめている。店内にいる人もラスタの格好をした人が多い。
近くの店が大音量でレゲエを流している。
150ジャマイカドルの料理を頼むとすぐに発泡スチロールの弁当箱に入って料理が出てきた。
店の外の廊下にある椅子に座って、レゲエを聴きながら、また奥の人が吸っているマリファナの煙が流れてくる中、飯を食う。タバコの副流煙はのどが痛くなることもあって嫌いなのだが、マリファナの副流煙(?)はタバコの煙に感じるような嫌な感じがしない。
午前中に両替した40ドルも予定外の出費(トレンチタウンのツアーと買い物、タクシー代)でほとんどなくなる。
宿に戻り、明日の出発の準備をし、仮眠をする。
おわり
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