2008年3月15日土曜日

「キューバにおける日本のプレゼンス 日本・キューバ交流開始100周年」より

在キューバ日本大使館でもらったパンフレット「キューバにおける日本のプレゼンス 日本・キューバ交流開始100周年」より

「1868年以降、日本国内の事情により、多くの日本人が国内で仕事を見つけることができず、よりよい暮らしと一攫千金を求めて移民の道を選んだ。彼らは、様々な理由、主に経済的竜から、故郷に錦を飾る事を夢見る出稼ぎ労働者として自国を離れていったのである。

出稼ぎ労働者たちの際しょん定住地は、ハワイや他のアジア諸国、アメリカ合衆国、カナダ等であったが、そのような定住地において成功の見込みがなかった日本人は、帰国する資金さえままならぬ状況であったために周辺諸国に移り住む他に方法がなかった。
主にアメリカ合衆国のタンパ、キーウェスト、ワシントンDC、メキシコのベラクルス及び米州地域の他の国々からキューバへ到着した人々が日本人として初めてキューバに移り住んだ人々である。

1914年、藤代という日本人移民がキューバへ着いたがその時すでにキューバには60名程度の日本人がいた。数ヶ月後彼は67名の日本人を連れてきたが、一団はサンタ・クララ、トリニダなど中部に定住した。その地で彼らは、既に入植の始まっていたシエンフエゴス県のカンポ・デ・カルメリナとして知られる場所での経験を生かし入植を続けた。なおカンポ・デ・カルメリナには翌年、最初の日本生産者組合が設立されることになる。

20年代は日本人移民がキューバへ大挙して押し寄せてきた時期であり、国内各地の移民グループの間では、国内の協力を推進するため新しい組織を構成することと、彼らの活動の財源を獲得するために、政府に対し公的地位を得る必要性が高まった。

こうして1927年には加藤英二氏が代表する”キューバ日本教会”、1933年には吉沢正氏が代表する”松島農業組合”が結成され、その他、松島の小林トメハチ氏が代表する組合やハバナ市内レイリー通りにある大平氏が代表する組合など、政府非公認の組織も結成された。

キューバへの日本人移民は大まかに幾つかの時期に分類されることができる。第1期は移民を開始した19世紀末から1914年、第2期は1915年から1923年、第3期は1924年から1926年。特にこの第3期は日本船籍の船が計382名の日本人を乗せてキューバに到着するなど、移民数から見て非常に重要な時期であった。この時期にやってきた日本人の90%が男性であったが、多くは金を稼いだ後に日本に戻るか、日本から連れてきた女性と結婚したため、ごく少数の者しかキューバ人と結婚しなかった。

1943年から1946年が第4期で、第二次世界大戦で18歳以上の日本人がほとんど松島の刑務所に収容された。最終期は1948年から現在に至る。

キューバへの移民の場合、日本人は特定の場所にとどまることなく、当時の6県46カ所と松島等、島全体に広がって定住し、農業、鉱業、砂糖業、漁業、園芸業、機械工、電気工や様々なサービス業に就いた。

キューバにやってきた日本人移民の数はそれほど多くなかったものの、彼らは非常に規律正しく、献身的で勤勉な美徳を有しており、また日本各地の独自の伝統と習慣等をもたらしたのみならず、彼等の子孫にまでそれらが受け継がれたため、質という面では大いなる足跡を残した。

移民としてキューバに渡った日本人の数は、2000年までに約170名にのぼるが、そのほとんどが第二次世界大戦前に渡ってきた者である。戦時中には
345名の男性と68名の女性が残留したが、この時以来20世紀末までキューバにやってきた日本人は20名にも満たない数であった。

1898年から1943年にかけてキューバに到着した日本人移民の中には、原田モサク、竹内賢治、大家サムロ、内藤ゴロウ、加藤英二等名声ある者がいたが、2000年に生存している者はわずか10名(女性6名、男性4名)に過ぎなかった。

紛れもなく、日本人移民及びキューバ生まれのその子孫達は、過去及び現在において、他国からの移民と同様、キューバの国民性とアイデンティティを豊かにしている。」

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