2008年5月26日月曜日

ティティカカ湖、水草の上に浮かぶ島

08/05/02

6時頃目が覚める。外はだいぶ明るい。部屋の寒さはクスコほどではない。

7時半前に宿を出て、船着き場に向かう。歩いていると山林自転車のおじさんがクラクションを鳴らしてくるので、値段を聞いて乗る。値段は3ソーレス(約180円)。これまで乗ったタクシーなどの代金とくらベると、距離の割には高い。たぶん現地の相場ではせいぜい1.5ソルくらいだと思うが、タクシーよりも運転手の身体への負担は大きいし、またエコロジカルでもあるので、言い値で乗る。

乗ってみると、これは身体への負担はかなり少ないと感じる。キューバで乗ったチャリタクシーよりもこちらの方が車輪の周り方がかなりスムーズだ。坂もないし、スピードもそこそこ出る。

湖沿いの道を走る。気温は15度くらいか。風にあたると寒い。10分程度で船着き場に到着。船着き場は観光客ばかり。

チャリのおじさんに20ソーレス札を渡すと釣りがないらしく、どこかに両替しにいく。待っている間に、別のおじさんが話しかけてきて島に行くのかと聞いてくる。そうだと伝えると舟代などを説明してくる。どこかの旅行会社の人かと思い、聞き流しつつ聞く。

おじさんが戻ってくる。足し算方式で、額面の違うコインをぼくに手渡しながら、これで15、17、20と言う。ぼくとしては慣れていないから足し算の方がわかりにくい。

船着き場の桟橋入り口にいくつかプレハブのような建物があって、声をかけてきたおじさんにその一つのところに案内される。ウロス島とタキーレ島の2つの島を回る往復チケットの値段は20ソーレス(約1500円)。

7時45分発の舟らしいが、すでに8時近くになっている。桟橋には似たような舟がいくつも接岸しているので、どの舟に乗ったらいいか迷ったが、チケットを持って歩いていたら手招きするおじさんがいたので、そちらに行き、乗り込む。

島に帰るらしい人たちが20人ほど乗っていて、床はその人たちの荷物でいっぱい。その他に外国人観光客が10人ほど。ドイツ語を話す4人組(男1人、女3人)とフランス語を話す女2人組、オランダ人カップル1組、ぼく以外の日本人が1人(30代後半男)など。

船は中型のモーターボートで屋根の上と、屋根のある室内と、後部甲板(?)に座席がある。乗員可能人数は40人くらいか。

ぼくが乗り込むと外国人を優先的に屋根のある室内に座らせようと、数人の地元の人が船長に言われ、船の後部、簡単に言えば外に出る。

ぼくは風にあたっている方が気分がいいので、外でいいと言うが、中に入れと言われる。

ぼくは島への定期船に乗ったつもりでいたのだが、船が発車すると、乗組員の一人の人が英語とスペイン語で挨拶を始める。そして、英語はうまくできないからスペイン語で話をさせてくれと言って、これから船が向かう島について、ティティカカ湖について話をする。

ティティカカ湖の島に住む人々は、地域によってケチュア語とアイマラ語を話す。いろいろ説明をしてくれている男性はタキーレ島の出身らしく、自分のFirst language(母語)は、ケチュア語だと言っていた。彼は20代半ばくらいで、中学の時にか試合をした相手のチームにいた奴に似ている。話し方も客と目を合わせることはあまりなく、視線は上に行ったり下に行ったりと、人前で話すことに慣れていない日本人と似ている。

乗組員らしき人は操縦士も含め、全部で6人ほどいてすべて男。そのうち60代に見える(実際は50代かもしれない)しわの多い細身の人が船長で、他に30~40代の操縦士と20代くらいの人が2人乗っていた。どの人も島のいわゆる民族服と帽子をつけている。

15分ほどすると、船は水草の生えている一帯に入る。この水草はトトラ(実際に聞くとトゥルトゥーラと聞こえる)と呼ばれる草で背丈は2m近くある。日本で言えば葦のようなもので、この湖に住む人たちは、これを建築資材として使って家や船を作ったり、島を作ったりしている。また、これらがティティカカ湖の観光のメインともなっている。

そのトトラの群生の間にできた水路を船はゆき、しばらくすると、日本人の感覚で言えば、全面藁でできた家がいくつも並ぶ島が現れる。ここがいわゆるウロス島という名で知られているところらしい。

稲藁色の色が立ち並ぶ様は確かに美しい。思っていたよりも島はたくさんあり、一つ一つは小さい。そのうちの一つの島に船は接岸する。島もトトラで作られたものなので、島に一歩踏み入れると5cmくらい足下が沈む。

その島には5軒ほどの家があり、どれも10畳ほどと小さい。その島では、この島がどのようにできているのかという説明や何を生業にしているのかといった説明がある。この島はトトラの群生の上に、刈り取ったトトラを束ねて乗せて作った島らしい。今が流されないように湖底に杭を打っているとも言っていた。説明中、どこからかトトラを刈り取ってきて、実際に見せてくれた。手に持って見てみると肌合いが成長途中の長ネギによく似ている。湖面に出ている部分は緑色だが、根本は白く、しかもこれは食べられると言って説明していた人は皮を剥き、食べて見せた。

その人に促されみな食べてみる。ぼくも食べてみたが、やや歯ごたえのあるスポンジを食っている感じで、味は何もしない。ただ水分を大量に含んでいて、噛んだ端から水が滴り落ちる。2口ほど食ってみたが、それ以上食べる気にならず、床に放置する。

ここ草でできた浮き島だから当然土はない。なので、農業はできない。島の人たちは主に湖の魚を取って、それを陸地のまちに持っていき、そこでトウキビやキヌア、各野菜などと交換して食料を得ているらしい。

説明が終わると買い物タイムみたいになり、さっきまでは布をかぶせていた土産物品がお披露目になり、女性が観光客に声をかける。床?の上に敷物を敷き、陳列された土産物品は、刺繍入りの幅色の布地やトトラで作られた船や家のミニチュア、あとアクセサリーが多い。柄は違うのだろうが、あまり個人の旅行客が買いそうなものではない。案の定、誰一人土産物には手をつけなかった。

一人ぐらい何か買わないとと、半ば義務感のようなもので、インカ時代の刺繍を入った小さな壁掛けを買う。値段は20ソーレス(約900円)。不覚にもソルがすでになくなっていたので、残っていた10ソーレスと5ドル札で買う。

着いてから30分ほどすると、船長が"Vamos(バーモス:行きましょう"と言って、観光客に船に乗るように言う。ここではっきりとこれはただの定期船などではなく、観光客を主体にしたツアー船でもあることに気づく。

ガイドブックのロンプラによれば、ツアー会社を使うよりも自力で行った方が、地元の人への貢献は大きい(つまり、より地元にカネが落ちる)とあった。そういうこともあり、また何より安いからこうして来たのだが、この船はツアー会社のではないものの、島の人がツアー会社に対抗してやっている船のようだった。

実際、湖を走る船の多くは観光客だけを乗せた船が多い。中には日本人が7人くらい乗っているだけで走っている船もある。そういう面から言えば、確かにこの船は地元の人の足ではあるのだが、それと同時に島の人が観光客から直接、いわば外貨を得るための船でもあるようなのだ。だから、乗組員の人は民族服を来ているのではないかとも思う。

小さな浮島をでた後、近くの別の大きな島に行く。そこでは15分ほど滞在時間があった。その島には土産物の露店の他に、立派なレストランやジュースやお菓子を売っている雑貨店があり、また見物用なのか、それとも実際に泊まれるのか、内部を見ることができるトルトラでできた家が10棟ほどあった。ただ、その家の中にはただベッドがあるだけで、他は何もない。

時間になると船長等が、"Vamos"と言って出発を告げる。この間も船に乗っていた島の人は、観光客が見て回るのを船の中で待っていた。

また船に乗る。一帯には40近い小さな浮島があり、それぞれに観光船が停まっていたりする。それを見て、もしかしたらこれらの浮島の中には、観光客をより多く受け入れるために作られたものもあるのではないか、という疑念が浮かぶ。

また、これだけの観光客が押し寄せていれば、当然、売り上げの分配問題があるはずだ。おそらくそれぞれの島へは同じだけ観光船がやってくるように調整されているだろうが、ツアー客を受け入れるのと、ぼくらのような個人客を受け入れるのでは売り上げはだいぶ違うだろう。

また、お金が入ってくれば、トルトラで作った家よりも、一時期日本で流行った言葉で言えば、”文化的な”家で暮らしたいと思う人も大勢出てくるだろう。実際に浮島がある一帯には、トルトラの家だけでなく、トタンで作られた家も相当数あった。

例えば10年後や20年後にまたここに来て、どうなっているのかを見るのも面白そうだ。その頃にはもしかするとプーノのまちにみな住んで、朝早くトルトラの島に出勤するといったスタイルになっているかもしれないし、あるいは変わらず同じような暮らしをしているかもしれない。

船はその大きな島を出ると、すぐにトルトラの群生も抜ける。真っ青な空に真っ青な湖。波もない。船はおそらく時速10kmくらいで進んでいる。右手には陸地が見え、左手前方にはボリビア領土にある雪をかぶった山々が見える。

途中、養殖のためらしい生け簀(?)の横を通り過ぎる。漁をしている舟はあまり見かけない。

1時間たっても船は次の島に着く気配はなく、乗客も多くが寝てしまっている。ただ、民族服をかぶったやはり60代くらいに見えるおじさんは、黙々と編み物をしている。首に網糸をかけ、金属製の網帽を忙しく動かす。隣にも同じように編み物をしているおじさんがいたが、そのおじさんの指はあまり動いていない。

ぼくもしばらくおネンネ。

それからさらに1時間ほどたったものの、まだ船は着かない。

結局、タキーレ島に着いたのは、12時すぎ。8時にプーノを出たから実に4時間近くかかっている。

ぼくは帰りは適当に船に乗って帰れるのだろうと思ったら、そうではなかった。帰りまで同じメンツで同じ船で帰るらしい。こうなるともう完全なツアーだ。

帰りの船は着いた場所からではなく、島の反対側の船着き場から出るらしい。島への入島料5ソーレスを払い、船の中でいろいろ説明していたガイド役のにいちゃんの後を着いて島に入る。

乗っけから坂道なので、あっと言う間に息が切れる。なんといっても、ティティカカ湖の標高は富士山並みの3700mなのだ。当然、息も切れる。

石造りの道を歩いていくと両脇には段々畑が現れる。トウキビや空豆、キヌアらしい植物、それにジャガイモなどが植わっている。

息を切らしながら15分ほど登ると島の中央広場に出る。ここには教会や小さな商店、レストラン、織物の共同売場などがあり、広場には観光客がいっぱい。圧倒的にヨーロピアン系の白人が多い。

そこでしばし自由行動。レストランの一つで食事をする。スープとメイン料理、飲み物がついて12ソーレス(約500円)。ペルーの普通のレストランは高くてもせいぜい一桁なので、かなり高い。昨日、食べた店ではスープにメインにマテ茶がついて2ソーレスだったから実に6倍の価格だ。

スープはキヌアのスープでキヌア以外にも野菜が入っている。さすがに観光客が多いからか、スープの量はペルーの普通の量の4分の1程度。つまりは日本では普通の量。

魚は2種類合ったが、ぼくはTrucha(トゥルーチャ)というのを頼む。ものの本によればマスらしい。湖の魚らしく、揚げてはあるが土くさい。他にパンと白米。飲み物はマテ茶。

食後、島をちょっとふらついてみるとレストランは他にもあり、全部で10軒はあるようだった。家は日干し煉瓦で作られているのが多い。道幅は狭く、登り下りの道が多い。

広場に戻ると、地元の女の人たちが、4人くらいで湯がいたチョクロッ(トウキビ)などを食べていた。そのうちの一つが、気になって何かと訪ねると、食べてみてと一つくれた。名前を忘れてしまったが、それは見た目も大きさも赤みを帯びたショウガのようなのだが、食べてみるとサツマイモと同じ味のものだった。市場ではジャガイモなどと並べて売られていたので、そういうわけでジャガイモと一緒に売られていたのかと気づく。

他にも彼女らはゆがいた空豆も食べていた。それも一つくれたので、いただく。どちらかというと編んだ物よりも、こういうものを売ってくれている方がぼくとしてはオカネの使い道があるのだが、彼女らにこれらは売っているか聞いてみたところ、ないとのことだった。

広場にいたら船で同じだった男の人に声をかけられる。食事も同じレストランでしたので、ちょっとだけしゃべったが、彼はリマから来たというペルー人だった。外見はヨーロピアンと変わらないのだが、携帯電話を盛んに使っていたし、CDプレイヤーで音楽を聴いていたので、もしやと思ったが案の上ペルーの人だった。

彼がプーノに戻るんじゃないかと言うので、そうだと言うと、帰りの船着き場に行こうと言われる。ふらふらしている間に、一緒に乗ってきた人はすでに広場から消えていて、もう船着き場に行ってしまったようだった。

広場に残っていたのは、ぼくの他に彼とフランス語を話す女二人組だけ。ガイドの人の案内で島の反対側の船着き場に行く。

途中、道に座り込んだおじさんが物乞いをしていた。3歳くらいの小さな男の子が、お菓子が欲しいのかやはり掌を上にして、何か言ってくる。また、ミサンガを売っている10歳くらいの女の子もいて、僕らを見ると寄ってきてそれらを差し出し買わないかと言ってくる。

船着き場への道も石造り。最後は急傾斜の斜面に作られた階段を降りる。傾斜と階段となっている石が不揃いであることから、年輩のおばさんや体格のいいおばさんは、なかなか足が進まない。

帰りは地元の人がいなくなった分、船は空いていた。他にもプーノに戻る船はあり、観光客だけではまだまだ空いていたのだが、それぞれ乗せてきた来た客を乗せて、14時半頃船は出る。

帰りは屋根の上の席に座る。スピードが遅いから寒くもないし、髪もなびかない。だが、屋根のあるところにいるよりも景色がいいぶん、なんだか速く感じる。

正面右からの太陽の光がなかなか強烈。

しばらくすると、船長が紙を持ってくる。それはスペイン語表記のアンケートで、タキーラ島に来た理由や船の乗り心地やガイド、食事などに対する5段階評価とその理由を書く欄がもうけられていた。

まさかこういうものがあるとは思っていなかったので、ちょっとびっくり。観光客のニーズを把握しようというものだろうが、これが逆にありきたりな観光地になっていくきっかけになってしまうのではないかとも思う。

ぼくはスペイン語では(英語でも)文章はかけないので、5段階評価の部分だけチェックを入れて返す。

船着き場に着く直前に船長は、屋根に乗っていたぼくらに下に降りるよう言い、さらに警察がいるからと救命用具を身につけるよう言う。

3時間の航海(航湖?)の後、プーノに到着。時間は夕方の5時をすぎていた。辺りはすでに暗くなり始めていて、朝には船着き場にいたお菓子売りの人たちもいなくなっていた。

ぼくは歩いてプーノの町中を見に行く。

500mほど歩くと大きいとおりに出る。その通りは露店市場となっており、右も左もずっと露店が並んでいるのだった。

通りの名はAvenida El Sol(太陽通り?)。直線距離にすれば1km以上も露店が並んでいる。ぼくが最初についたところは服屋と靴屋ばかりだったが、歩いていくとお祭りなのか羊や鶏、クイの炭火焼きを売っている屋台があった。

羊はここでは初めてなので、それを食べる。適当に切ってもられた肉は骨も付いているが500gくらいある。付け合わせはジャガイモをゆがいたものとレタスとトマトのサラダ。こえれで12ソーレス。普通の料理からすればかなり高い。

その後、ふらついているとジャガイモと牛の腸のようなもの炒めた料理を売っている人がいたので、そこでまた食事。隣ではほとんど揚げ物のような卵焼きを売っていたので、それもいただく。食べていたら卵焼きのお店の子どもが、生卵を手に持っていじっていたらしく、割れた生卵を持って調理していたお母さんのところに寄ってきた。手は卵でべしょべしょ。それを見た母親はその子をしかり、調理で使った卵の
殻をその子に投げつける。

まだ2歳くらいの子だが、殻を投げつけられて、うっうっと泣き始める。母親は変わらずに調理を続ける。子どもは本泣きするまではいたらず、またケロッとして辺りをうろちょろし出す。

その後、灯りがついているところをとにかくふらふら歩く。肉やチーズ、果物などを路上で売っている人たちがまだいて、ぼくはみかんとポン菓子、ヨーグルトを買う。

ぼくが通った通りではなぜか羊肉を売っているおばさんが多かった。毛のふさふさついた羊の頭も売られている。

暗くもなったので、また三輪自転車に乗って帰る。10代後半くらいのにいちゃんの運転で宿まで行く。料金は1.5ソル。

宿にもどってからいったんネット屋さんに写真のデータのバックアップ等をしにいき、あとは宿にもどって寝る。

Fin

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