2008年5月26日月曜日

サンティアゴ到着、まちをぷらぶら

08/05/15(木)

・バスでキセル
・面倒なユースホステル
・タバコ
・靴磨き
・働く子どもは皆無
・道ばたでの商売ー靴磨き、靴下・手袋売り、ピーナッツ、チョコレート菓子、
・消えたスカートと三つ編み

目が覚めたときには、まだ外は暗かった。6時をすぎているというのに、まだ暗い。

7時をすぎて明るくなり始めると、沿道に畑が見える。サンティアゴ周辺の中央部がチリの農業地帯であることは、ガイドブックに書いてあった。青い葉が植わっている畑が多いが、それが何なのかはよくわからない。10人くらいで収穫作業をしている人たちも見える。また、ブドウ園も時折見える。棚を作っているタイプとそうでない縦に蔓をはわせるタイプの2種類。

他の国ではたまに見かけた幹線道路沿いの農産物売場のようなものは見ることがなかった。

8時頃、添乗員が各窓のカーテンを開けてまわる。これもなぜ全部のカーテンを開けるのかよくわからない。それから、長さ20cm、高さ5cmほどのボックスが配られる。これが朝飯代わりらしい。昨日の晩も同じものが出た。中を見ると、あめ玉が1個に小さなケーキ菓子が1個、それに紙パックのオレンジジュース。ペルーと比べると、悲しいくらいにしょぼい。

30秒ほどでそれを食べ尽くす。腹の調子はだいぶよくなってきたよう。

片側1車線だった道路が2車線、3車線になり、車の交通量もグッと増える。沿道に10階建て以上の古いアパートが見え、その壁や沿道の壁にスプレーによる落書きを多数見る。

9時45分、バスは2階建ての建物の2階に上り、そこで停まる。立体駐車場のようなところがバスターミナルだった。規模はこちらの方が小さいが、パナマシティのバスターミナルに似ている。

バスから降り、リュックを受け取り、まずはトイレ休憩。バスの中で行っておけば無料だったのに、と思いながら、150ペソ(約40円)を払いトイレに入る。中は見事に掃除されていて、ピカピカ。トイレットペーパーも備え付けられているし、手洗い所には液体石鹸も備え付けられている。小便器の位置が高いのはちょっと調子に乗っているように思ったが、まぁ、白人比率が高い国だから、そのぶん平均身長も高いということか。

トイレの入り口前には大きなソファがあって、そこにリュックを背負ったまま座り込み、現在地と泊まる予定の宿の位置を確認。

ターミナルの1階に降りる。1階は改装なのか、拡張なのか工事中。その工事部分を抜けると、ショッピング街に出た。服や電化製品、チョコレート、スポーツ用品などあらゆるものがある。まだ開店していないところが多いのも南米の先進国っぽい。これまで通った国の店は8時には店が開いていたのに、平日で9時になっても開いていないとは珍しい。

バスターミナルの横が鉄道駅で、その地下には地下鉄の駅があった。ガイドブックには地下鉄が便利とあったが、それではまちの景色を楽しめないので、市内バスに乗ることにする。

バス乗り場には細かな路線図と各番号ごとの行き先が書かれたボードがあったので、それをしばらく眺め、どの番号に乗るべきかを考える。

ガイドブックによれば個人経営のバスは2007年1月に廃止されたとのこと。そのためだろう、他の中南米各国では当たり前だった客引き兼集金担当の人がバスには乗っていない。バス乗り場と言えば、その人たちが行き先を連呼する声でにぎやかだったのだが、ここはしめやかにバスへの乗り降りがなされている。

周りの人たちは真冬を思わせるようなダウンジャケットなどを着ているが、はっきり言って寒くない。たぶん20度前半くらい。こんなに暖かいのに、そんな格好をして本当の真冬は大丈夫なのかなと勝手に心配してしまう。

15分ほどして乗りたいバスがやってきた。2両つなげた長いバス。1000ペソ札を手に持ち、前のドアから乗るが、運転手がお札を受け取らない。というか、ぜんぜんこちらに見向きもせず他の客としゃべっている。お金を入れる機械もなかったので、後払いなのかと思い、とりあえず乗り込む。

バスに乗っていて、みんながどうやってカネを払っているか見ていると、カネを払っている人はいなかった。みなICカードを持っていて、それを前の入り口付近にある読み込む機械にあて、ピッピと読ませて乗り込んでくる。降りるのは適当に後ろのドアから降りている。

そういうわけで、ぼくはカネを払うことなく、目的地で下車。きっと個人経営のバスならこんなことはできないだろうが、そうではないぶん運転手もカネの計算は適当なんだろう。と、自分に都合のいいことを考える。

しばし歩く。歩道には黄色い落ち葉がそこここに落ちていて、秋の雰囲気を醸し出している。中心街からは遠いものの建物はヨーロッパ調。ここも目隠しをして連れてこられて、ここがフランスです、とかと言われても、すんなり納得しそうなほど、街並みがヨーロッパ的
だ。

人通りが少ない通りを宿を目指して歩く。バスから降りてから15分ほど歩いて、ようやく目的の宿に到着。ガイドブックによれば、ここは1泊8ドル程度とあった。2m以上ある木製のドアを開け、フロントに行くと、フロントにはガイドブックがずらり。やはり木製のフロントデスクには若い女性が二人いた。

部屋が空いているか聞くと、予約はしたかと聞かれ、していないと言うと、今は空きがないという。そして、近くにユースホステルがあるからと地図に位置を書き込み、教えてくれる。

とぼとぼと歩き、地図に示された場所に行く。Sienfuegos(シエンフエゴス)というキューバでよく聞いた名前の通りに行くと、ユースホステルのマークを発見。代々木のオリンピックセンターの宿舎のような建物。

フロントにはかっこつけた40代くらいの男の人がいて、聞くと部屋は空いているという。値段を聞くとドミトリーで6500ペソ(約1500円)。ユースホステルの会員証を見せてこの値段。割引は500ペソ(約150円)ぶんしかない。世界組織のくせしてケチくさい。5000ペソ(約1100円)が自分で決めた宿代の上限なのだが、これから探すのも面倒なのでここに泊まることにする。

今、代金を払って欲しいと言われるが、あいにくペソがないと言う。すると何を持っているかと聞くので、米ドルと答えるとそれでいいと言う。20米ドル札を渡すと電卓で1米ドル=410ペソで計算をする。両替所では安くても460ペソなんだから、それはやりすぎだろと思っていたら、結局、お札の一部が破れているからダメと言って、その札をぼくに返し、両替してあとで払ってと言われる。こっちとしては為替の差額で損をするところだったからラッキー。

部屋のキーとシーツ類を渡される。3階の305号がぼくの部屋らしい。部屋は2段ベッドが2つ並んでいる4人部屋。金属製のどでかいロッカーがあるのは、えらい。一人誰かいるらしい。

ぼくはロッカーにリュック類を丸ごと詰め込み、一息してから一階に降りる。1階にあったパソコンでネット。無料なのはいいが、これがめちゃくちゃぼろく
4台あるうちの2台は壊れていて使えない。使える2台は使用中だったので、しばらく空くのを待つ。15分ほどして空いたので、ネットでパタゴニアに行く船のことなどを調べる。

11時過ぎに宿を出て、とりあえず市場を目指して歩く。腹はほぼ回復したようだから久しぶりに飯を食いに行く。

地図で見れば中心部まで歩いて行けるようなので、歩きで行くことにする。宿のドアを出て右に曲がり、薄暗いネット屋などの前を通り、また右に曲がる。

大学が近くにあるのか、20代くらいの男女が50~60人歩道などにたまっていて、ぼくが歩いて行っても友達とのおしゃべりに夢中で道をあけようとしない。しょうがないので、その間を縫うように通り抜ける。

すぐに幹線道路をまたぐ橋に出る。左を見ると陸橋があって、そちらから騒がしい声がしてくる。よく見てみるとどうも学生がデモをやっているよう。周辺に警官が振え始める。官庁街が近いからかと思っていたら、大統領府の前の広場でおばさんやおじさんが抗議集会を開いていた。集まっているのは100人ほど。抗議の言葉を書いた横断幕を持っているが、ぼくには何と書いてあるのかわからない。集まっている人は横断幕を持っている他は、ふつうの格好でヘルメットもかぶってなければ、ゼッケンも付けていない。警官たちはそれを遠巻きながら見ている。

20階建てくらいの高層ビル(高層ビルが何階以上の建物の事を言うか知らないけれど)が、立ち並ぶ通りを歩く。ビルのおかげで一帯は日陰になっていて暗い。

中心部は碁盤状になっているから地図を見ながら歩くのはわりかし簡単。問題があるとすれば地図の方で、特に日本語のガイドブックや地図には通りの名前がきちんと書かれていないので、現在地を把握しようにも地図に自分がいる通りの名前が載っていなかったする。通りには標識がいちいちついているので、その名前を知るのはたやすいのだが。

なんの看板なのかわからないが、日本語で書かれている看板を発見。”デジタル””技術工学”などの文字が書かれている。まともな日本語を使っている看板を見たのは、ロサンゼルスの日本人街を除き初めてだ。

道ばたはここも整然としていて、ぶらぶらと物売りしている人はいない。固定されたキオスクがあるだけ。

両替屋が並ぶ通りで両替をする。レートは1米ドル=462~465ペソ、1ユーロ=710~720ペソ。

それから歩行者天国になっている通りに出る。道幅が10mほどもあり、とても広い。そこではギターなどを持った5人組くらいのおじさんが演奏しながら歌っていたり、靴磨きの人がいたり、靴下などを売っている人がいたりする。

靴磨きは、それほど客が入っていないよう。ボリビアやペルーの靴磨きは、小さな木箱ひとつで移動しながら仕事をしている人たちもいたが、ここはメキシコのグアダラハラなどと同じように客が座るためのそれなりの椅子があって、そこで客を待っているスタイル。

歩行者天国の通りは1つの空きもなく店が続いている。靴屋から服屋、CD屋、電化製品屋、Haitiと名の付いた喫茶店、ファーストフード店などなど。歩行者天国からはずれても各ビルの1階が店になっていて、細いビルの間の通りやビルの通路も商店街になっている。どの店も新品同様の店構えをしていて、これまで行った南米諸国の商店街とはまったく雰囲気が違う。アメリカやヨーロッパとほぼ同じ。

それからこれまで行った中南米各国と決定的に違うのがタバコの喫煙率。これまで行った国では、誰かが吸っているタバコの副流煙を吸わされることは、一日歩いていてもまずなかった。たいていタバコのにおいがするのは、外国人の多い場所(つまりは宿)や現地の大学生らが多い場所で、メキシコで泊まった日本人宿でなど9割方吸っていることもあった。

もっとも、それらの国ではタバコ自体も高いようで、道売りではたいてい1本ずつ売っていた。それがチリに来たら、それもサンティアゴではちょっと歩くと誰かのタバコの臭いが鼻につく。喫茶店を除いてみても、もうもうと煙が立っていたりする。

吸っているのはおばちゃんだったりおじさんだったり、若い男女だったりと年齢性別に関わりない。

正直言ってチリがここまでとは思っていなかった。あまり事前にチリのことを調べていたわけでもなかったし、前から関心があったわけでもなかったから、チリと言えば安いワインとピノチェト元大統領くらいしか知らなかった。

チリも80年代まではピノチェトの軍政でそれほどまともな政治がなされていたとは思えないのに、なぜチリはこれほどまでに”発展”したのか。

『ラテン・アメリカを知る事典』によれば、チリは早くから比較的政治は安定していたらしい。ピノチェトらによるクーデタでつぶされたアジェンデ政権も、世界で初めて”議会制民主主義に基づく”社会主義への移行を試みた政権であったらしい。ちなみにこのアジェンデ政権時代にはアメリカがこれをつぶそうとチリ国内の反対勢力に資金援助をしていたのは、CIA自身も認めていることらしい。

また、これは推測でしかないが、インディヘナの人口がそもそもこの地域に少なかったことも、チリの発展の背景にあったのではないか。チリにはマプチェ(アラウカノ)族などが住んでいたものの、エクアドルやペルー、ボリビアと比べれば”先住民”の人口は少なかった。メキシコやグアテマラも含め、先住民の多い地域は差別的な政策が長くとられていたようで、白人とインディヘナでは大ざっぱに言えばまったく住む世界が違っていた。そうした差別問題が、たまたまチリでは他の国と比べれば小さかったということも、この経済発展の背景にあるのでは。

平日の昼間なのに、歩行者天国を歩く人は多い。それもストリートミュージシャンの音楽を聞き入っている人が20人ほどいたりする。

中心の広場であるアルマス広場に行ったら画家らしい人たちが30人ほど青空アトリエとも言うべき空間を作っていて、販売用の自分の絵を飾っているとともに、その脇でキャンバスや画用紙に絵を描いている。

中央市場に行ってみると、ここの市場もサンホセ(コスタリカ)と同じく、きれいに観光地化されていた。多種類の魚や貝を売っているコーナーの他にレストラン街があって、そちらに行くと次々と客引きが声をかけてくる。他と違うのは自分の店の名刺を手渡してくること。中には”ウニ、アワビ、アル、タカクナイ”などと日本語で話しかけて来る人もいる。また、”トモダーチ”と、ナスカの時のように声をかけてくる人もわずかだがいた。

値段を見てみると、ほとんどが3000ペソ(約700円)以上。なかなか高い。

ガイドブックによれば、この先、川の向こうにもベガという市場があるとあったので、そちらにも行ってみる。

ベガ市場の手前に小さなやはり市場風のところがあって、そこでは花や洋服、日用雑貨などが売られていた。こちらは中央市場と違ってボロボロのトタンづくり。中にはコインゲーム機もあり。そこにもジュース屋と食堂があったが、ここも素通りして、道を挟んで向こう側のベガ市場に行く。

こちらはいかにも市場という雰囲気で、狭い通路(すれ違うときには半身にならないといけない)を挟んでこれでもかと店が並んでいる。食堂街もあって、こちらはどこも客がたくさん入っている。どでかい魚のフライや肉の塊を食べているのは、他の国々と変わらない。

端の店でSopa de mariscosを食べる。具は貝がいくつか入っているだけで、他の肉料理と比べると迫力がかける。が、味はまずまず。料金も1000ペソ(約300円)と安かった。

ベガ市場は文字通り奥が深く、食堂街を出たら、また卸市場があった。そこに入ってみると、チーズ屋やピクルス屋、香辛料屋、野菜屋、果物屋が豪快に商売をしている。ちなみにこちらにも食堂はあった。

ただ、商売のピークは過ぎたようで、わりとのんびりしている。野菜屋が集まっているコーナーに行くと、通路にはセロリの切れっぱしがボタボタ落ちていて、セロリのあの香りが一面に漂っている。

カボチャはバカでかく、中には両手で抱えても持ち上げられないのではというようなものもある。当然、そんなでかいかぼちゃなので、売り方は切り売り。ギザギザしたノコギリのような包丁(?)、いやノコギリそのものがカボチャには刺さっていて、それで客の好みに合わせて切り売りしているようだった。

さすがにバナナやマンゴーは輸入されているようで、それらしい段ボールに入っている。じゃがいもは相変わらず5~6種類ほどあるが、ペルーやボリビアのように白や黒のじゃがいも(チューニョ)はない。

青リンゴ、赤リンゴ、ぶどう、洋なし、みかんなどに混ざり、初めて見たのが栗と柿。柿はどこかにもあった気がしないでもないが、初めての感がする。栗は初めて。いかにも秋という感じだ。

それから目に付いたのが、ゴムチューブのようなもの。輪ゴムのような色をしていて、中は空洞になっているぐにゃぐにゃした細長いものが、多くの店で売られている。名前を聞くとコチャユーヨというらしく、ガイドブックによれば海草の1種らしい。

売られている肉は豚、牛、鶏が中心。もちろん内臓も売られているが、ペルーやボリビアの市場のように、頭がどすんとあったりはしない。肉のみ。1店だけうさぎらしい肉を売っている店があった。

それからぶらりと歩き回る。安い宿に移ろうと日本宿を探していったのだが、この時期はやっていないと言われ断念。ここは1泊10ドルとのことだったから、こちらに移ることができれば4ドル浮かすことができたのに。

結局17時くらいまで歩き続け、宿に帰る。

午後いっぱい歩き回ったわけだが、あまりにボリビア、ペルー、エクアドルなどと雰囲気が違ったので驚いた。物乞いの人も歩行者天国で膝から先がない人がうつ伏せになっていた他には見ることがなかったし、何より子どもが働いているところを見ることがなかった。これだけ見事に子どもが働いていないのは南米では初めて。物価高もなかなかのもんだし。

夜は今後のルートについて考えたりする。調子に乗って買ってきた白ワインとチーズを食べながら。

Fin

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