2008年4月30日水曜日

本:『単一民族神話の起源』

小熊英二『単一民族神話の起源ー〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社、1995

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「日露戦争は、1896年から徴兵されはじめたアイヌたちが、初めて日本軍兵士として参加した対外戦争であった。アイヌからは63名が軍人として出征し、戦死3名、病死5名、廃兵2名の反面、金●勲章3名をはじめ叙勲率は85%をこえた。部隊内部の差別にもかかわらず叙勲されたことは、アイヌ史でも差別を克服するために勇敢に戦ったゆえと評価されている。アイヌの現地でも、働き手の息子を徴兵されても「これでやっと和人と対等になったと喜んだ」事例もあるという」
※小川正人「徴兵・軍隊とアイヌ教育」『歴史学研究』649号、1993

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「1910年8月の日韓併合にあたり、多くの新聞・雑誌で混合民族論者たちは、これまで蓄積されてきた論理を用いて併合を賛美した。そのなかで混合民族論は、大日本帝国における民族論の主流の座を確立したのである。日本と朝鮮の歴史や人種論に言及して併合を賛美したもののうち、ほとんどすべては日鮮同祖論ないし混合民族論の範疇に入るものであり、純血論を説いたものは主要新聞・雑誌には存在しなかった。」

345
「多民族帝国たる日本は、同化に応じない国内の異文化・異民族にたいしては、武力という最終手段をもっていた。戦後の日本はそれを失った。だが、武力は簡単に民族の壁をこえるが、文化的権威はそうはいかない。それゆえ、津田や和辻のように武力でなく文化に依拠した天皇を描こうとするならば、日本に異民族がいてはならなかった。彼らの思想は、天皇を多民族に君臨する強大な帝王にしようとした戦前の風潮に抵抗するなかで、あるいは結果的に抵抗になってしまうという背景のもとで生れた。それは同化政策と帝国の膨張にブレーキをかける要素を内包してはいたが、「国民」の内部に異質な者がいることを許さない構想だったのである。」

374
「もし日本が支配した地域が、ヨーロッパの植民地支配と同じほどに遠隔地で、その現住者が見た目からしてまったく異なっていたら、そして混血によって生れる子どもが誰の目にも「日本人」にみえなかったとしたら、ああした混合民族論が発生したかは疑問であろう。ところが、日本が支配した地域の多くは「人種」が同じだったため、生物学的な人種主義も、人種をこえた普遍的理念も多数派とならないまま、混合民族論があいまいな差異の間隙をうめる役割を果たした。」

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「朝鮮人は文化的差異を抹殺すれば「日本人」にできると考えたとしても、南洋諸島の人びとの肌の色まで変えられるとは思っていなかった。・・・朝鮮人の改名が主張されたとき、フィリピン人やインド人、中国人のように見た目のちがう者には改名を適用するなとされていたことは、ひとつのあらわれである。」

「ひとことでいえば、混合民族論は差異をあいまいにする仕掛けである。自他の差異が未分化のまま、他者との対面は回避される。その結果、明確な排除もないが、完全な平等も与えられない。それによってはじめて、同化しながら差別するというほんらいなら矛盾する行為が可能になる。」

380
「少なくとも家族国家論というかたちで論じられる同化政策論に、家族制度が反映されていないはずがない。喜田貞吉や亘理章三郎をはじめ、朝鮮・台湾の家族国家における位置を「養子」と表現することは、当時きわめて広範だった。そして日本の家族制度で育った人間にとって、養子は出自を忘れ名を変え、養家の家風に同化するのは当然のつとめである。逆に日系移民がホスト国に同化するさいには、自分たちは養子であるというアイデンティティがとられたことが知られている。」

386
「同化と差別、服従と「和」、権力を顕在させない支配という、矛盾をおおいかくすのが家族国家論の役割だった。」

395
「戦前の同化政策は放置というような消極的なものではなかったが、それは、帝国内の異民族が放置しておけないほど多数だったからであろう。明確な排除も、権利の平等化を伴うような同化も行われなかった点では、戦前と戦後は通底していた。相手が無視できるほど少数の場合は面倒ごととして関係をさけ、無視できないほど多数になると包含しようとしたにすぎない。」

400ページという大著ながら興味深く読める希有な本。そう読める理由としては、多様な人が登場するからだろう。ああ考えた人もいれば、こう考えた人もいたと、紹介されている人とその考え方の幅が広い。そのことで、当時の考えが俯瞰でき、全体としてどういう感覚だったかがわかってくる気になる。

単一民族神話の起源の簡単なまとめをすると、戦前の帝国日本下には他民族が3割を占めていた。よって、当時主流だったのは多民族国家論で、その論は科学的な人類学の説などに基づき、ヨーロッパと違って上手に同化できる力を持った日本民族などと言われていた。

考えの背景には、権力による他民族の支配ではなく、支配するのが自然であると主張しようという意識があった。

敗戦後、解体された帝国日本には、日本列島に住む人々のみが支配の対象となった。そこには他民族はいないという前提の論が立論される。和辻哲朗は風土という概念をつくりあげ、列島内でも風土は多様であるのに、一つの風土を共有している日本人というイメージを作り出す。そして、在日朝鮮人をはじめとする他民族はほとんど放置される。

著者は結論で、神話からの脱却を言っている。過去のこと、特に大昔のことは推測が混じりやすい。そこへ自分の願望が入り込み、都合の言い歴史像を作り上げる。そして、そうしたものによりかかり自分らの民族の特別さを言い触らす。そうして、自己のアイデンティティを確保しようとする。

著者はあとがきで、この本の裏の狙いは、人が他者と出会ったときにどう反応するかということにあるという。そういう視点からもう一度読み返すのも面白そう。

2008.3.29 グアテマラシティにて

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