・お迎えされて飛行場へ
・酔いながら地上絵を見る
・バスの遅延のおかげ
・子どもたちに囲まれる
6時すぎ、目覚める。気温は20度ちょっとくらいだろうか。気持ちよい温度だ。あちこち隙間がある部屋だが、蚊もいなかった。
あちこちから鶏の声が聞こえてくる。住宅街なのにみんなどこで鶏を飼っているのだろう。
8時過ぎには飛行機のお迎えが来るので、たまっていた日記書きをちょっとして充電が切れたところでやめる。部屋にはコンセントがないから充電できない。なので、荷造りをする。
7時半過ぎに荷物を持ってフロントに行き、リュックなどを預かってもらうよう頼む。
時間通りに迎えが来るかやや疑っていたのだが、8時5分頃に、迎えの車が宿の前に停まった。9人ほど乗れるワゴン車。だいぶ長く乗っているのか、塗装も剥げ気味で、中もだいぶすれている。
客はぼく一人のようで、運転手のおじさんはぼくだけをまちから乗せて、車を走らす。
幹線道路に出て、南(?)に向かって走る。天気は快晴。暑くもなく、ちょうどいい小春日和。天気もひとつの心配要素だったが、この様子だときれいに絵を見ることができそう。
10分ほどで飛行場に到着。車が止まると車道にいた飛行場の人に案内され、中に入る。Aero Nascaと書かれたオフィスで昨日代金を払ったときにもらったバウチャーの紙を渡す。
しばらく待っててくださいと窓口の女性に英語で言われ、ベンチでしばらく待つ。オフィスの壁にはナスカの地上絵のポスターがあり、英語で解説が書かれてある。
それを見たりしながら待っていたところ、白髪頭の年輩の日本人夫婦が来て”あれ、みんなどこにいるんだろう?”と言ってからどこかに去る。
どうもぼくの他に日本人ツアー客がいて、その人たちと同じになったようだ。
15分ほど待ったころに、オフィスの男性がぼくの名前を呼び、"Let's go!"と言って乗り場の方に案内される。すぐに乗り込むのかと思ったら、さっきオフィスの方に迷い込んだ日本人のおじさんたちがいる待合所で、また待たされる。
日本人旅行者は10人ほどいて、2人の30代くらいのカップルを除いて、あとはみな退職後しばらくたったようなご年輩の方々ばかり。久々に日本語を聞く。
日本から同行しているっぽいツアーコンダクターの女性とペルーの旅行会社に勤めているっぽい日本人女性もいる。ちょっと話しかけてみようかと思ったが、あえて黙ってみんなの様子を見ていることにする。
10分ほどすると、その御一行の仲間で先に飛行機に乗ったグループが帰ってくる。待合い所にいた人たちは”お出迎え、お出迎え”と言って手を振る。そして、どうだったか訪ねる。70歳に近いのではないかと思われる男性は、”いやぁ、すばらしかったですよ。”と上機嫌。”(飛行機は)揺れなかったですか?”という質問にも”ぜんぜん揺れない。上手なもんだよ。グッと飛行機を横に倒したりしてくれてね。”とかなりの高評価だった。
御一行の中の次のグループが呼ばれて飛行機に乗り込んでいく。残ったのは、御一行の中の若いカップルとぼく、あとツアーの添乗員の2人の女性だけ。
ペルーの旅行会社に勤めているらしい女性は、残っているカップルに話しかける。”今日は涼しくていいですよ。暑い日は、ものすごいんですよ。まわりは砂漠だし、山にも木がないでしょ。だから熱がこもって、もう・・・”。
地上絵の話になり、彼女は面白いことを言う。”(地上絵は)右脳で見るものなんです。ほら、左脳と右脳ってあるでしょ。それでたまに(上空から)見てもわからないという人がいるんです。この仕事をしていて10数年になりますけど、一人だけですかね、そういう人がいました。戻ってきて、どうでしたかって聞いたら、見えませんでした、って言うから、エーッと思って。”
カップルの男性は”あ~、うまく焦点を合わすことができないと、浮き上がってこないってやつですか”と相づちを入れる。
彼女はうんうんとうなづきながら話を続ける。”それで、その彼女はね、泣きましたよ。悔しいって言って。まだ30代くらいの人だったんですけどね。そういう方もいるんです。”
”それは泣きますよね。ここまで来て見えなかったとなると。”と男性は応える。
そんなことがあるのかとぼくは興味深く、ちょっと離れたところで聞いていた。
そんなことをしているうちに順番がまわってきたようで、カップルの二人の名前が呼ばれる。そして、彼らと同乗するらしく、ぼくの名前も飛行場の人から呼ばれる。
ぼくの名前が呼ばれた瞬間、前にいたカップルは同時に振り向き、ぼくに向かって驚いたように一言いう。”日本人の方なんですか?”
横にいた添乗員の女性も、小さな声でぼそっと”日本人だったんだ”と言う。
いやいや、二人同時に振り向かなくてもいいし、そんな驚く事じゃないと思うのですが。というより、二人の反応にぼくが驚いたわ!、と思いつつ、”そうですけど、何人(なにじん)だと思いました?”と聞く。その質問には答えず、バックパッカーでまわっているのですか、何か危険なこととかなかったですか、と再び質問がある。
ぺちゃくちゃしゃべりながら、飛行機に行く。小さなプロペラ機で操縦士も含め4人乗り。ぼくは操縦士の右横の席に座り、カップルは後ろに二人並んで座る。
シートベルトをしたところで、白髪交じりの操縦士のおじさんが”コニチワ”と言いながら乗り込んでくる。そして、ナスカの地上絵が書かれた一枚のパンフをそれぞれに配る。
操縦席の正面には紙が貼られ、チップを歓迎しますとヨーロッパ諸語で書かれている。一番下に日本語でも書かれているが、そのひらがなは最初の3文字くらいは読めるものの、残りは判読不能な象形文字になっている。
操縦席のドアが閉まり、パイロットがヘッドホンをつけ、口元のマイクに向かって何やら通信を始める。
9時に飛行機は動きだし、飛行場の端の方へ移動する。そして滑走路に入り、操縦士はあちこちをいじって飛ぶ準備を始める。
やがてOKが出たようで、プロペラ機はプロペラ音とエンジン音をうならせながら走り出す。離陸はスムース。
離陸すると操縦士のおじさんが、それぞれにヘッドホンを渡す。頭に装着すると、エンジン音が小さくなり、操縦士のおじさんの声が聞こえてくる。
おじさんはさっき配ったパンフを指さしながら、これからどの絵を見に行くかを説明する。
一つ目の絵は鯨。おじさんが右手で指さしながら英語で”Whale(ホエール)、Look,look"と言う。窓から探すがどこだかわからない。
地上には無数の水が流れた跡があり、それに加えて車が通ったのかまっすぐな線も無数にある。さっきの旅行会社の人の話もわかるなと思いながら探す。
やがて飛行機は旋回し、おじさんがまたルックルックと言う。
やっと飛行機の羽の下に鯨を発見。予想していたよりもずっと小さい。こりゃ見落とすかもしれんと思っているうちに、次のがくる。
次のはTrapezoidsというもの。これもわかりにくく、なんとかそれらしいものが見えるが、あまり感動はない。
その後、Astronaut, Monkey,Dog,Condorと見てまわる。この辺はわりとわかりやすい。一度どの程度のサイズがわかれば探しだしやすいが、それでも操縦士のガイドがなければ、ほとんど見落とすだろう。
操縦士は右の窓からも左の窓からも見えるよう、絵の上を旋回する。大きな揺れはないものの波に揺れられているような小さな揺れがあり、ぼくはそれにだんだんやられ、気持ちが悪くなり始める。
操縦士は”ハチドリ”と言って、しばしばナスカの地上絵として紹介される大きな絵を指さす。これもオッケー。
結局、全部で12の地上絵を見たのだが、後半はぼくはほとんど乗り物酔いの状態で静かにゲップを連発。いやいやまいった。
飛行機からは絵の他にも周囲の様子がよく見える。一本だけ走るアスファルトの道沿いにはところどころ緑があり、きれいな畑が広がっている。しかし、そのすぐ外側は急に砂漠というか土漠になり、緑の一片もない土地が広がる。
山々もまったくのベージュ色で、緑は一点もない。中には完全に砂漠化している山もあり、その山は周りと比べると一段と白い。
その土漠にはどこにも水の流れた跡があり、これがどうしてできたのかが気になる。どうせこうした飛行サービスがあるなら、この水跡についても説明があるとより満足するんだけどな。
絵は、まぁまぁ、こんなもんでしょという感じであまり感動はないが、それよりも上空から見たまちや畑の様子の方が印象的だった。緑とベージュ色の境がはっきりしていること、無数の水の流れた跡があること。これらを見ることができたことも含めれば、40米ドルはまぁ、適当かな。もっとも今はオフシーズンでピーク時より10数ドル安くなっていることもあるけど。
飛行機から降りた後は、酔ってむかむかしてあまり気分はよろしくない。同乗した人が降りた後、操縦士のおじさんも含め記念写真を撮るというので、ぼくも写る。きっとこの人たちは日本に帰ったら、この写真を使ってクイズをするんだろうなぁ、この人は何人(なにじん)でしょうか、なんて言って。
オフィスに行き、まちまでの帰り方を聞く。迎えの車が来るから、それまで道を挟んで向かいにあるホテルで休んでいてとのこと。
昨日、飛行機のチケットを買うときに、このホテルのことを言われ、待ち時間にこのホテルのプールとかインターネットとかを無料で使えると言われていたが、その待ち時間が、終わった後の待ち時間とは思っていなかった。
ホテルの方に行くと、さっきの日本人旅行者を乗せた豪華なバスがちょうどこれから出ようとしているところだった。カップルの男性に聞いたところツアーは10日間とのこと。飛行機に乗っている時間を考えれば実質1週間もないツアーだろう。う~ん、なんとも忙しい。
そのホテルには20mほどのプールの他、数台だがトレーニングマシンを置いた部屋もあり、なぜかネットが使えるパソコンもそこにあった。ぼくは今晩向かうクスコの宿をネットで調べる。幸い日本語が読めるので助かる。
30分ほどして表に出ると、朝の車のおじさんが来ていた。車に行くと、10分待ってと言われ、加えてあそこにアルパカとリャマがいるから、写真を撮ったらと言われる。
これも観光用なのだろう、ホテルの敷地内の端っこにアルパカとリャマが1頭ずつ飼われていた。思ってたよりもでかいし、横幅がある。暑そうな毛を全身にまとっている。
近くには子ども用のシーソー(だったっけ?)と人力飛行大会に出てきそうな飛行機のモデルが置かれてある。
アルパカ等を眺めていると、クラクションが鳴り迎えが来る。
車に乗って市街地に戻る。
各バス会社のターミナルが集まっているロータリーのところで降ろしてもらい、クスコ行きのバスの運賃を調べる。一番やすいのが70ソル(約3000円)で、高いのは130ソル(5000円)。時間はいずれも夜発で20時発や21時発が多い。どれにしようか迷う。高いバスは朝食付きらしい。朝食と言ってもな、タマーレとかゆでトウキビ、うずらの卵とかじゃがいもが出るわけじゃなくて、どうせサンドイッチとか気取ったものだろうからな。悩む。
それからまちの近辺をぷらぷら。ロータリーのちょっと南に行った右側には、3m四方くらいの簡単な作りの家がぼこぼこ固まって建っている。洗濯物が見えるから誰か住んでいるのだろうが、台風がくれば(来ないだろうけど)簡単に吹っ飛ぶような粗末な家。どういう人が住んでいるのか気になるが、外を歩いている人は見えない。
それから、ロータリー近くの道ばたで料理を出しているところでブランチ。適当にうんうんうなづいて料理を出してもらうと出てきたものは、チキンライスみたいなものにトマトソースのスパゲッティ。炭水化物ばかり。期待外れだが、味はまずまず。客はぼくの他にいなく、ここの店の女の子と小さい子どもを抱えたお母さんがいるだけ。
店のおばさんは仕事をしながら、こちらに質問をしてくる。カスティーリャ語を話せるのか、どこから来たのか、恋人はいるのか、ペルー人の女性はきれいだろ、などなど。スペイン語のことをカスティーリャ語と言うのは、直接には初めて聞いた気がする。他の国ではエスパニョールはしゃべれるかと聞かれていたのだが。
なぜペルーの人は、スペイン語と言わず、カスティーリャ語と呼び続けるのか。そういう言い方をする習慣が残っているというだけかもしれないが、もしそうだとしたら、逆にスペイン語と呼んでいる国々ではいつ、どういうきっかけでカスティーリャ語ではなく、スペイン語と呼ぶようになったのか。
カスティーリャ語は、クリストバル・コロン(ラテン語ではコロンブス)がジパング発見のための航海をするために支援を求めたカスティリャ王国で話されていた言葉。カスティリャ王国は、現在のスペインにあった一王国で、そこのイザベル嬢王がコロンの航海を支援したことが、いわゆる”新大陸の発見”につながることになった。コロンはカスティリャ王国に相談する以前に、ヨーロッパの他の王国などに支援を求めていたが、相手にされず、やっと話に乗ってくれたのがカスティリャ王国だった。
そのため、新大陸へのヨーロッパからの移民もまずはカスティリャ王国に住んでいた人間から始まった。
よって、カスティーリャ語は、当時の侵略してきた人々が話していた言葉を指すものだが、それが500年たった今でも、また国名がスペインになった今でも、使われているというのが、なんとも興味深い。しかも、インカ帝国の中心地だったペルーでのみ(かどうかははっきりとは言えないが)使われているのが、面白い。
これは確認してみないと何とも言えないが、おそらく学校で歴史を教えるときや政府が自国の公用語を言うときには、エスパニョール(スペイン語)と呼んでいるだろうから、もしそうだとすれば、カスティーリャ語はそういうものとは切れた普通の人々の間で使われ続けてきた単語であると言えるかもしれない。
あるいは、近年まで政府もカスティーリャ語と呼び続けてきたのかもしれない。もし、そうだとしても政府がそのように呼び続けてきたこともまた興味深いことだ。
その後、切手を売っている土産物屋で切手を買い、ハガキを投函。ペルーは切手代が高い。1枚当たり5ソーレス(約250円)もする。ハガキは1ソル(約40円)くらいなのに。
それからちょっとまちをぶらぶら。小さいまちだから昨日の夕方の1時間で中心街はたいてい見たが、明るい時間帯のまちを見てまわることに。
広場があるところは一部工事中なのか、コンクリートの破片などが積まれてあって、四方の一片に庁舎がある。日本の感覚からすれば小さい。2階建てではあるが、公民館程度だ。
昨日の夕方開いていた鶏の唐揚げ屋などは閉まっていて、他にも夜は出ていた屋台などは見えない。広場にはぶらぶらしながら”ヤ(ジャ/リャ)ーマダス”と声を出しながら、テレホンカードを手に売り歩いている女の人たちがいる。
広場から一本南に行ったリマという名の通りには、服屋や食堂、銀行、電化製品店が並んでおり、路上にはぶどうやりんご、アボカドを売っている人やパンなどを売っている人がいる。
昨日来たときはは閉まりかけていたメルカド(市場)は開いていて、野菜、果物、肉、魚が売られている。面積は小さくバレーコート程度。店も20店舗ほどあるだけ。客はそれほど多くはない。
もう一軒、食堂に行き、タンパク質などを補給。ここもスープがまず出て、それからメイン、ジュースが出る。ご飯の量が多い。値段は4ソーレス(約200円)。
することもなく、プラプラする。ちょうど小学校などは午前の部が終わったようで、学校前には迎えに来ている親や帰りの子どもを狙ったアイス屋さん、それから家まで子どもを乗せていくタクシーなどが校門前にずらりと並んでいる。
帰る子どもたちと入れ替わりに、午後の部の子どもたちが通学してくる。
タクシーには子どもが我先に乗り込む。タクシーはミニの軽自動車。助手席に2~3人、後部座席に4~5人、後部座席の後ろのわずかな荷台スペースに3人、計10人ほど乗せているタクシーもある。もっとも乗っている子どもたちも低学年の6歳くらいの子たちばかりだから、これだけ乗っていても多少は隙間はある。が、なかなかすごい。
ちょっと中心街から外れたところを歩いていると、学校からの帰りだろう、自転車のハンドル(ハンドルに乗せる!)に子どもを乗せたおじさんが正面からやってくる。そして、目が合うと”トモダーチ”と言ってくる。ぼくはハハッと苦笑いしながら、手を振る。
朝はわりかし涼しかったものの、日中になるとだんだん暑くなってくる。ただ、乾燥しているからかそれほど嫌にはならない暑さ。気温計を見ると温度は32度だった。
ぼくはPlaza Bolognesiという広場のベンチでしばらくお休み。横になり、昼寝。
時間は4時過ぎになり、もう一度バスのターミナルをふらつく。1社だけ直接確認していなかった会社があったので、そこに行き、バスの時間と値段を聞く。値段を聞くと60ソーレス(約2500円)。これまで聞いた中では最安値だった。バスの発車時間を聞くと4時半と言う。
夜までバスを待っているよりも早く出て、車窓から見える眺めを楽しんだほうが得だな、と思い、このバスに乗りたいと思ったものの、4時半まであと15分しかない。
宿に荷物を預けたままだから、一度取りに行かないといけないのだが、往復すると20分はかかる。それで、う~ん、と決めかねていたら、窓口の女性は携帯を取り出し、電話を始める。聞き取れた単語から、乗ろうとしているバスが、何時にここを出るか確認しているようだった。
電話が終わって彼女は、バスは17時発になるようだから、荷物を取ってきたらというようなことを言う。それで急いで宿に戻り、預けていたリュックなどを背負ってターミナルに戻る。ちなみにこの宿では3ソーレス(約150円)で荷物を預かってくれた。
ターミナルに着いたのがちょうど16時半。もちろん、バスはまだ来ていない。チケットを買い、しばらくオフィスの椅子に座って待つ。
ここのオフィスには対応してくれている女性が一人とその人の子どもらしいまだ1歳にも満たないような子が、床に敷物を敷いて寝ているだけ。壁に設置されているテレビではポケットポンスターをやっていた。
17時ちょっと前にバスはターミナルに入ってくる。ここから乗る客はぼくだけのよう。リュックを預け、一番奥の席に座る。乗っている人の中に観光客らしき人はいない。
バスは砂漠の中を走り、30分もしないうちに山岳地帯に入る。緑のない山の一本道をバスはくねくね走る。時折向かいからトレーラーやトラックが来るが、片道1車線は確保されているので、止まることもなく走る。
ひたすらバスは登り続け、出発から2時間たった6時過ぎにはだんだんと暗くなり始める。夕日がみれるかと思ったが、曇っており、あまりきれいに見ることはできず。
暗くなってもひたすらバスは登り続ける。
外が暗くなり、車内も真っ暗なため、いつの間にか寝てしまう。目が覚めるとバスは下りに入っていて、眼下にオレンジの灯りが碁盤状に並んでいるのが見える。どこかのまちに着いたようだ。
バスはそのまちのターミナルらしきところに止まる。ぼくはどうせすぐに発車するだろうと車内にいたが、バスが止まったところには食堂があり、客の何人かがそこで食事を始めたのを見て、夕食休みだということに気づく。
それならとぼくは手荷物を持って、バスを降りる。しかし、バスの乗車口が開かない。どうも安全のために鍵がかけられているらしい。ドアの外にいるおじさんがスペイン語で閉まっていると教えてくれる。
しょうがないので、運転席の方から出る。こちらは内側からは開き、無事外に出ることができた。外は寒い。20度は確実に切っている。
かなり熟睡していたので、てっきり夜中かと思っていたが、時間はまだ20時をすぎたばかりだった。昼飯が多かったため腹は減っていないが、ノリでパパスフリート(フライドポテト)を買って食べる。
バスの乗客を目当てに物売りの子どもやおばちゃん、おばあちゃんがあたりに押し掛けていて、あれはいらないかこれはいらないかと勧めてくる。
売っているのは、Choclo con quezo(チョクロコンケーソ:チョクロは粒の大きいトウキビ、ケーソはチーズ)とQuezo(チーズ)とマテ茶!
チョクロは例の干したか煎ったかしたもので、あまり消化に良くなさそう。一度、10歳くらいの男の子に買わないかと言われるが、断る。
そこに別のバスが同じように入ってくる。乗客が降りてきて、あたりはけっこうな人口密度になる。
そちらのバスに乗っていた40代くらいの夫婦が話しかけてくる。やはりカスティーリャ語はわかるかとか、どこから来たのかとか、ペルーのどこに行くのか、なぜペルーに来たのかと言ったことを聞かれる。
話していると物売りのおばさん、子どもも気になるらしく、ぼくのまわりに数人集まってくる。
話している間もペットボトルに入ったマテ茶を買わないかとおばさんが勧めてくる。ぼくは断ろうとするが、話して夫婦が"Es rico(おいしいよ)"と言うので、1本買う。
これまでバスの停車場でペットボトル(たいてい500ml)の水やジュースを売っているのはいくらでも見てきたが、マテ茶は初めて。
ペットボトルを再利用しているらしく、ボトルと蓋の色が不釣り合いなのもある。最初、バスから降りたときに見たときは紅茶かと思ったのだが、売っている人が”マーテー、マテ、マテ~”と言っているので、マテ茶らしいと気づいた。売っている人はたいてい数本しか持っておらず、しかも冷えないように懐の中に入れて客を探している。
ぼくは買うことにして、おばさんに一本くださいと言う。ぼくに差し出されたペットボトルは、ラベルも何もなく、紅茶の色に似た色の液体の中に、バニラに似た草が茎ごと入っている。受け取るとペットボトルは温かく、空気が膨張しているためだろう蓋がなかなか開かない。値段は1ソル(約60円)。
ぼくはここがどこだか知りたかったので、すぐ近くで話を聞いていた子どもにスペイン語でどこかと聞く。すると、なんとかという地名を言うので、南米の地図を取り出し、指さしてもらう。
地図を取り出そうとすると子どもたちが我先にとよっかかってくる。聞くとここはPuquio(プキーオ)というところだった。女の子がどこに行くのかと聞いてくるので、クスコだと言うと、ここからは11時間かかるという。
何人かと聞くので、ハポネスと答えると、チーノ、チーノと言って、ぼくの目の前にいた子をおばあさんも一緒に指さす。その男の子に聞くと、父親が中国人らしい。彼は旨に手を当てて、自分の名前を名乗る。一回言われただけでは正確に覚えられなかったが、確かに中国式の名前だった。聞き返すと”ジンジャン”と自分の名を言う。
覚えといてと言うような口振りなので、手帳を取り出しカタカナでメモする。するとジンジャンは自分の手のひらにその文字を写し書こうとする。周りにいた男の子や女の子も、文字に興味を持ったらしく、口々に自分の名前を言う。
それで、エリックやイェーニ、アウグスティンといった各人の名前をカタカナで書き、書いた一枚の紙を渡す。それを受け取った子は、自分のところだけ破りとろうとするが、スペースを空けて書いてなかったので苦戦する。もっとスペースを空けて書き直そうかと思ったところで、バスへの乗車が始まり、ジンジャンが急いでと言うようにバスを指さすので、バスに乗り込む。
ここはバスの経由地にはなっているようだが、子どもたちの反応を見るとあまり外国人、特に日本人は来ていないような感じがする。もっとも一番安いバスだからここに止まるのであって、外国人が一般に乗る値段の高いバスは夜食付きやもっと遅い出発だから、あまり外国人を見ないのではないか。
余裕があるなら、そのままこのまちに泊まってみるのも面白そうだったが、この時間でも開いている店は一軒しかなく、ホテルらしき建物は見えなかった。
バスはまた高度を上げながら走る。空には星が満天に輝いている。
バスの中では映画が始まる。またも派手な銃撃戦などがあるハリウッド系の映画。バスの中はだんだんと冷えてきて、みな用意していた毛布を取り出し、かぶっている。しかし、ぼくにすれば毛布をかぶるほどではない。たぶんまだ20度はある感じだったので、長袖シャツにジャンバーで十分だった。
Fin
nasca-cusc |
3 件のコメント:
ナスカの地上絵、ハチドリは有名ですね。
高度がないと、巨大な地上絵は
見れないんだろうな~
40米ドルなら乗ってみたいな。
hiroさま
どうもどうも、コメントありがとう。バスが地上への横を通っていたはずなのですが、さすがに高度0だとわからないね。まぁ、一度見るとなんだこの程度かと思ってしまうのですが、機会があればぜひ。地上絵よりもくし焼きのほうがぼくとしてはよかったですがね。
ふうさん、アンネのバラ友です。
ナスカの地上絵をご覧になったのですね。
写真で見るののに比べて、実体験は
いいですね。飛行機の揺れも記憶に
残りますね。
ツアーの日本人グループとであったとのこと、アナウンスで名前を呼ばれるまでは
ふうさんが日本語で話しかけなかったのは
面白いですね。
二人同時に振り返った日本人はふうさんを
どこの国の人だと思ったのでしょうね。
ふうさんは、どのように思われたと考えますか。
追伸:ペルーは切手代が高いとのこと、
いつも絵はがきで出費がかさんで
申し訳ありません。そのうちに
補填を!
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