2008年4月30日水曜日

雑記:”トモダーチ”のまちナスカで思うーアミーゴ、セニョール、セニョーラをどう訳す?

ナスカに着いたのは、2008年4月24日の夕方。リマから乗ってきたバスを降りて、宿があるまちの中心部に向かって歩き始めたとき、トラベルエージェントやなんともなしにすれ違った人たちからかけられた言葉に、めちゃくくちゃな違和感を感じる。

彼ら(基本的に声をかけてくるのは男ばかり)は、ぼくに向かってなんと言ったか。この旅も3ヶ月目を終わろうとし、その間、各地で”チーノ”だとか”チャイナマン”とか”ミスターチン”とかと声をかけられてきたが、ここでかけられた言葉は、それのどれでもなく初めて聞く言葉だった。

”トモダーチ!”というのがそれである。

例えば、トラベルエージェントの店の前を通れば、”トモダーチ、ココ、ニホンノガイドブック二ノッテル”と地上絵を見るためのチケットを買わそうと声をかけてきたり、路上でアクセサリーを売っているラスタ系の格好をした白人系の人もぼくを見るなり”トモダーチ!”と言ってきたり、車ですれ違いざまに若いあんちゃんがやはり”トモダーチ!”と言ってきたり、さらには子ども(女の子)を自転車のハンドルに乗せて家に帰る途中のお父さんが正面からこちらを見て、”トモダーチ”と言ったり・・・。

ちゃんと数えてはいないが、1日と半日しかナスカにいなかったのに、おそらく10人以上にそうやって声をかけられたのである。こんなに声をかけられるのは、キューバでの”チーノ”以来。

ここでの”トモダーチ”もただ気づいてもらいたい、というか、日本人を見たらつい言いたくなって言ってしまうというキューバと同じタイプのようだが、これが気持ち悪くてしょうがない。よって、無視したこともしばしば(う~ん、心が狭い)。

なぜ”トモダーチ”と言ってくるのか? 単純に考えれば、こちらの人たちが日常的に使っているアミーゴの日本語訳版として、使っているというのが適当な解釈だろう。ただ、なぜナスカでこれほど”トモダーチ”が普及しているかは謎だ。これも妥当なところで言えば、ただ単に日本人観光客が多いからということになるのだろうが、他のスペイン語圏でそんなことを言っているところは、これまでなかったから、もしかしたらナスカには”トモダーチ”の火付け役がいるのかもしれない。

もし、その火付け役がいたとして、それが日本人だとすれば、その人は大いなる間違いを犯したと言うべきだろう。なぜなら、日本では”トモダーチ”なんて呼びかけはしないから。

”トモダーチ”と声をかけられるくらいなら、ぼくは”こんにちは”と言われた方がいい。だって、これならこちらも”こんにちは”と返せるから。

”トモダーチ”と言われて違和感というか、居心地の悪さを感じるのは、そういう言い方をしないということだけでなく、言われてこちらはなんと返していいものか、いちいち思案してしまうから。こっちもそれに習って”トモダーチ”とすぐに返せるほど、ノリがよければいいのだが、あいにくつい、考え込んでしまう質(たち)のぼくは、そこで立ち止まり苦笑いをしてしまう。

そしてふと映画の字幕翻訳や小説等の翻訳では、この問題をどうしているのだろうと思うのです。

ある言葉を別の言語で言い表したいとき、その言葉にまったく対応した言葉が、その別の言語にあるとは限らない。

スペイン語のアミーゴという言葉も、確かに”友達”という意味を持ってはいるが、例えば、こちらの人がバスの運転手に”アミーゴ”と声をかけるときの”アミーゴ”は、日本語で言う”友達”ではまったくない。こうした場合のアミーゴを日本語にするとすれば、”すみません”とか”ちょっといいですか”といった言葉に置き換えた方が、日本語としては適切だろう。

アミーゴと同じく、中南米のスペイン語圏では、呼びかけの言葉としてセニョールやセニョーラ、セニョリータという言葉が使われる。ハイチではムッシュなどと呼びかけたりする。

これらについても、現在日本で使われている言葉の中には、それに相当する適当な言葉はないと言っていいだろう。落語の世界であれば、”旦那”や”奥さん”、”お嬢さん”がそれに相当するのだろうが、今やそういう言葉は、業界用語(例えばテレビショッピングなど)でしか使われなくなっている。

この他にもスペイン語には(まともに勉強したわけではないけれど)、日本語でいう”ない”という言葉がない。それに対応する言葉は”No hay(ノーアイ)”という言葉であり、文字通り”hay(アイ:ある)"という言葉を打ち消す形でしか表現方法がない(よう)。だから、日本語で例えていうと、”ありません”という言葉はあるが、”ないです”という言葉はないのだ(と言い切っていいのかはわからないけど)。

元の話に戻すと、”トモダーチ”と言われても、スペイン語でアミーゴと言われるほどには親近感はもちえない。それどころか、その言い方なんとかしてくれん?、と言いたくなるのです。

要はそれほどまでに言葉は多面体であるということで、それを無視して直訳的に言葉を置き換えると、まったく気持ちの悪いことになるということ。

以下は蛇足だが、英語を勉強し始めたときに、こんなことを知っていれば、もっと英語の言葉と日本語の言葉の違いを楽しめたのに、なんてことも思うのです。

※参考文献
西江雅之『言葉の課外授業』

本:『山猫の夏』

船戸与一『山猫の夏』講談社文庫、1995

モデルらしきもの
ブラジル、ペルナンブコ州のエシュウ。
エシュウ=奴隷として連れてこられたヨルバ族の言葉で「悪霊」の意味。
ここでアレンカール家とサンパイオ家という2家族が30数年間に渡って殺し合いを続けている。

【作品について】
現代史に絡めたさまざまな複線を張っているのがおもしろい。主人公の山猫は、2・26事件の下絵を書きながら説得により実際の事件には加わらなかった皇道派将校の子どもで、父親が事件後にブラジルに渡ったことから、彼はブラジルで育つことになる。敗戦を認めるか認めないかで分裂したブラジルの日系人社会のこと。それからアフリカから連れてこられた奴隷の逃亡と自治の歴史。物語る”俺”の活動家としての歴史。そしてブラジル現代史(英雄的な盗賊、独立運動、アマゾン開発とそこに暮らす人々・・・)、。この1冊でブラジルのいろんな断面を知ることができる。ストーリーの展開ももちろんおもしろい。

08/04/24
リマで読了

本:『「ことば」の課外授業』

西江雅之『「ことば」の課外授業-”ハダシの学者”の言語学1週間』洋泉社新書、2003

16
現在、世界に存在している言語数は約6700種ほど
そのうち億単位の話者を持つのは10種内外、多くは話者数千人から一人や二人という絶滅寸前の言語。

48
現在、世界で使われている文字は360種類くらい。
「つまり、一つの種類の文字を、実にたくさんの言語が使ってることになります。」

53
ある国の少数民族の人は、自分の言語と同時に、隣の大きな集団の言語も話せる。と同時に、国民として仕事をしたり学校に行ったりするときには、その国の公用語で生活するため、三言語を話して日々を過ごしている。

「二言語どころか、三言語、四言語話すのが常識であって、日常生活はそんなものだと思いこんでいる社会も、世界には意外に多い。」

17-22
異なった言語とは何か?
→言語自体に何か基準があるというよりも、政治や歴史の問題から○○語と呼ばれている場合が多い。
例)朝鮮語と韓国語、英語と米語、ヒンディー語とウルドゥー語、オランダ語とベルギーにおけるフラマン語、フランス語とベルギーにおけるワロン語など

32-33
「何カ国語話せますか?」という間違った質問。
→正確には「何言語話せるか」

35
「現在、数千もの言語の話者は自分の言語、すなわち母語を書くための文字はもっていません。その人々は、その国の公用語なり国語なりで読み書きするからです。」

36
「文字社会というのは、何か事が起きた場合に、文字で書かれたものを参考にして意味づけをしていく傾向が強い」

37
「時間とか空間という非常に重要な二つの要素を見ても、文字社会は書かれた言語資料を基本にして物事を処理していく。ところが文字のない社会では、情動とか価値といったもので序列をつけたり、物を組み立てたりする傾向が強いんです。」

38
「論理的に、文字がないと作ることが不可能だというものが、現在のわたし達のみのまわりにはいっぱいある」

39
「「非識字者」というのは、文字がない社会には存在しない」

「自分の国で使っている文字が読めない非識字者。それとは別に、自分の国で使っている文字は自由に読み書きできるけれども、自分が働いている土地で使われている言語の文字は読めないという非識字者。その二種類の人々がいて、今、世界各地の現場では、そういう人たちがいっぱい働いている」

「東アフリカの沿岸部では、イスラム教徒として育ったのでアラビア文字での読み書きはできるが、その国の公用語である英語やスワヒリ語で使われているローマ字は知らないという老人に、何人も会った」

70
「ある社会で見られる、話題による言語の切り替え」を「ダイグロッシア」という。

ダイグロッシアには社会の価値観、連帯感などのあり方が表れる。

言葉の意味とは?
その1は「価値」
その2は「置き換え」
その3は「世界の創り変え」→「日常生活で「意味を問う」などというのは、現状を疑い、現状を変革すること」

「学問は尻拭いである」「ここの例は多面体である」

123-124
伝え合いの7要素
1.「ことば」:言語、パラ・ランゲージ、脈絡、評価
2.当人たちの身体や性格面での「人物特徴」
3.顔の表情の変化や視線の動きを含む「体の動き」
4.伝え合いをしている人物がいる周辺環境としての「場の問題」
5.直接的な接触によるものや顔色の変化などに見られる「生理的反応」
6.お互いの距離、スペース、そのときの時刻、伝え合いの内容を表現するためにかかる時間などの「空間と時間」
7.当人たちの社会生活上での地位や立場といった「人物の社会的背景」

「この七つの要素での話で大事なことは、一つ一つの要素が互いに溶け合っているということです。溶け合っているわけですから、その要素の中の一つだけを独立させて伝え合いを行うことはありえない」

134
「世界のほとんどの言語は、その言語を話すときに使っている、またはその言語が必要としている音声の種類は、およそ三十数種類」

ヴォーカルコミュニケーション

189
使える単語、知っているつもりの単語、知らない単語

206-207
「言語で額面通りに表現することは、どの言語でも可能です。でも実際の会話では、そうは言わない。・・・」
「外国語を勉強するとき、まずは単語、それから文法の基本的な形も覚えるでしょうが、だんだん理解がすすんでいけば、その言語を母語とする人たちが、自分たちの言いたいことを、どのように表現しているか、ということにも留意する必要が出てくるだろうということです。」

本:『世界を変えた野菜読本』

シルヴィア・ジョンソン(金原瑞人訳)『世界を変えた野菜読本』晶文社、1999
原著:Sylvia A. Jhonson"TOMATOES,POTATOES,CORN,AND BEANSーHow the Foods of the Americans changed Eating around the World"1997

アメリカ大陸原産の野菜・果物
トウモロコシ、ジャガイモ、唐辛子、トマト、インゲン豆、ピーナッツ、カカオ、カボチャ、パイナップル、アボカド、キャッサバ、バニラなど

50
ジャガイモ=パパス(ケチュア語)
現在でもメキシコ、グアテマラではパパスと呼んでいる。

77
唐辛子
=アヒ(カリブ諸島のアラワク族が料理に使っていた作物につけた名前)
=チリ(アステカ族の言葉ナワトル語)

ポルトガルの商人がアフリカ、アジアに伝える。
1500年代前半にはサハラ砂漠以南のアフリカ地域で栽培が始まる。また、中国にも伝わる。
1540年代、インドでも栽培がはじまる。

トマト
ヨーロッパに紹介された1500年代は、人気がなかった。

1600年代にイタリア、スペインで食べられるようになる。

本:『単一民族神話の起源』

小熊英二『単一民族神話の起源ー〈日本人〉の自画像の系譜』新曜社、1995

84
「日露戦争は、1896年から徴兵されはじめたアイヌたちが、初めて日本軍兵士として参加した対外戦争であった。アイヌからは63名が軍人として出征し、戦死3名、病死5名、廃兵2名の反面、金●勲章3名をはじめ叙勲率は85%をこえた。部隊内部の差別にもかかわらず叙勲されたことは、アイヌ史でも差別を克服するために勇敢に戦ったゆえと評価されている。アイヌの現地でも、働き手の息子を徴兵されても「これでやっと和人と対等になったと喜んだ」事例もあるという」
※小川正人「徴兵・軍隊とアイヌ教育」『歴史学研究』649号、1993

104
「1910年8月の日韓併合にあたり、多くの新聞・雑誌で混合民族論者たちは、これまで蓄積されてきた論理を用いて併合を賛美した。そのなかで混合民族論は、大日本帝国における民族論の主流の座を確立したのである。日本と朝鮮の歴史や人種論に言及して併合を賛美したもののうち、ほとんどすべては日鮮同祖論ないし混合民族論の範疇に入るものであり、純血論を説いたものは主要新聞・雑誌には存在しなかった。」

345
「多民族帝国たる日本は、同化に応じない国内の異文化・異民族にたいしては、武力という最終手段をもっていた。戦後の日本はそれを失った。だが、武力は簡単に民族の壁をこえるが、文化的権威はそうはいかない。それゆえ、津田や和辻のように武力でなく文化に依拠した天皇を描こうとするならば、日本に異民族がいてはならなかった。彼らの思想は、天皇を多民族に君臨する強大な帝王にしようとした戦前の風潮に抵抗するなかで、あるいは結果的に抵抗になってしまうという背景のもとで生れた。それは同化政策と帝国の膨張にブレーキをかける要素を内包してはいたが、「国民」の内部に異質な者がいることを許さない構想だったのである。」

374
「もし日本が支配した地域が、ヨーロッパの植民地支配と同じほどに遠隔地で、その現住者が見た目からしてまったく異なっていたら、そして混血によって生れる子どもが誰の目にも「日本人」にみえなかったとしたら、ああした混合民族論が発生したかは疑問であろう。ところが、日本が支配した地域の多くは「人種」が同じだったため、生物学的な人種主義も、人種をこえた普遍的理念も多数派とならないまま、混合民族論があいまいな差異の間隙をうめる役割を果たした。」

376
「朝鮮人は文化的差異を抹殺すれば「日本人」にできると考えたとしても、南洋諸島の人びとの肌の色まで変えられるとは思っていなかった。・・・朝鮮人の改名が主張されたとき、フィリピン人やインド人、中国人のように見た目のちがう者には改名を適用するなとされていたことは、ひとつのあらわれである。」

「ひとことでいえば、混合民族論は差異をあいまいにする仕掛けである。自他の差異が未分化のまま、他者との対面は回避される。その結果、明確な排除もないが、完全な平等も与えられない。それによってはじめて、同化しながら差別するというほんらいなら矛盾する行為が可能になる。」

380
「少なくとも家族国家論というかたちで論じられる同化政策論に、家族制度が反映されていないはずがない。喜田貞吉や亘理章三郎をはじめ、朝鮮・台湾の家族国家における位置を「養子」と表現することは、当時きわめて広範だった。そして日本の家族制度で育った人間にとって、養子は出自を忘れ名を変え、養家の家風に同化するのは当然のつとめである。逆に日系移民がホスト国に同化するさいには、自分たちは養子であるというアイデンティティがとられたことが知られている。」

386
「同化と差別、服従と「和」、権力を顕在させない支配という、矛盾をおおいかくすのが家族国家論の役割だった。」

395
「戦前の同化政策は放置というような消極的なものではなかったが、それは、帝国内の異民族が放置しておけないほど多数だったからであろう。明確な排除も、権利の平等化を伴うような同化も行われなかった点では、戦前と戦後は通底していた。相手が無視できるほど少数の場合は面倒ごととして関係をさけ、無視できないほど多数になると包含しようとしたにすぎない。」

400ページという大著ながら興味深く読める希有な本。そう読める理由としては、多様な人が登場するからだろう。ああ考えた人もいれば、こう考えた人もいたと、紹介されている人とその考え方の幅が広い。そのことで、当時の考えが俯瞰でき、全体としてどういう感覚だったかがわかってくる気になる。

単一民族神話の起源の簡単なまとめをすると、戦前の帝国日本下には他民族が3割を占めていた。よって、当時主流だったのは多民族国家論で、その論は科学的な人類学の説などに基づき、ヨーロッパと違って上手に同化できる力を持った日本民族などと言われていた。

考えの背景には、権力による他民族の支配ではなく、支配するのが自然であると主張しようという意識があった。

敗戦後、解体された帝国日本には、日本列島に住む人々のみが支配の対象となった。そこには他民族はいないという前提の論が立論される。和辻哲朗は風土という概念をつくりあげ、列島内でも風土は多様であるのに、一つの風土を共有している日本人というイメージを作り出す。そして、在日朝鮮人をはじめとする他民族はほとんど放置される。

著者は結論で、神話からの脱却を言っている。過去のこと、特に大昔のことは推測が混じりやすい。そこへ自分の願望が入り込み、都合の言い歴史像を作り上げる。そして、そうしたものによりかかり自分らの民族の特別さを言い触らす。そうして、自己のアイデンティティを確保しようとする。

著者はあとがきで、この本の裏の狙いは、人が他者と出会ったときにどう反応するかということにあるという。そういう視点からもう一度読み返すのも面白そう。

2008.3.29 グアテマラシティにて

本:『ビゴーが見た日本人』

清水勲『ビゴーが見た日本人-諷刺画に描かれた明治』講談社学術文庫、2001

38
「ビゴーが日本にもたらしたものは、銅板による創作版画を画集によって紹介したこと、フランスで流行していた影絵漫画を紹介したこと、ヨーロッパの挿絵のスタイルやコマ漫画の形式を伝えたこと、そして、時事問題にテーマをとった漫画を雑誌というスタイルで発表していく商法などであった。」

236
外国人相手の猛烈商法ー人力車夫
「異人税の歌」
「人力車をば走らせて 海岸通りへ来た時に
相場の倍の料金を払ったら
喜ぶどころか車夫の奴 幾度も幾度も叫ぶには
「もう十セント」くれて当り前 あんたの顔は白いから
ここで税金かかるのは ちぢれた髪と白い肌
文明開化の話をすれば それにも税金かけられる」

238
外国人相手の猛烈商法ー船頭
「錨を下ろした軍艦の上で 私はセンドーにかけあった
相場の三倍で町まで乗せよ 音楽劇を見に行くために
そのセンドーは首をふり おぼれさせてやると言う
それともうねる波間に放り 町まで泳がせてやると言う
日本はかつてよくいわれた あらゆる料金がやたらに安いと
日本はかつてよくいわれた 保護貿易が鼻であしらわれると
日本はかつてよくいわれた 自由貿易がゆきわたっていると
だが、 あのセンドーを思い出すと そのすべてが疑わしい」

240
外国人相手の猛烈商法ー芝居小屋

「芝居小屋に出かけていくと 入場料はたったの四銭
だが異人には請求される あんたは十銭払いなさい、と
土間も立見もすべて十銭 異人の席があるでもなし
たった三銭の立見席も 異人はすべて十銭になる
これがほんとの保護貿易だ」

ふんどしからズボンへ移行するときの違和感などを描いた絵など、興味深い絵が多い。一番印象に残ったのは引用した外国人相手の商法のこと。キューバでのこととだぶって思える。キューバの人たちも資本主義への鳥羽口で、これまでの感覚を捨て、生活のために、自分を変えていっているところなのだろうか。

2008年4月27日日曜日

プーヨからクエンカへ(今日は交通事故)

2008.4.17(木)

・交通事故
・雲海
・レインボー

鶏の声がしたので、5時頃だろうと起きる。外はまだ暗い。時計を確認すると、5時過ぎ。夜中、眠りを邪魔するくらいの音をたてて降っていた雨はやんでいる。腹はまだ全快には至っていない模様。

荷造りをして、6時前に部屋を出る。廊下の電灯は自動式。歩いていると廊下に階段にと明かりが点く。宿の人はすでに起きていたので、鍵とテレビのリモコンを渡してチェックアウト完了。

外はそこそこ涼しいが、キトほどではない。25度くらいだろうか。

ターミナルはすぐそこ。1分もかからずに着く。すでに売店の準備も始まっていて、バス乗り場のところではゆがいたうずらの卵を売っているおじさんがいる。

アマゾン川を北上するつもりだったが、どうもずっとは道がつながってはおらず、またバスも少ないようだったので、またアンデスの道に戻ることにした。まずはAmbato(アンバート)というところへ。

ここに行くバスは1時間に数本あったので、早く出るバス会社のバスに乗ることにする。幸い6時発があったので、そのチケットを買う。2.5米ドル。

エクアドルの長距離バスは、結果的にか、だいたい1時間1ドルという料金体系になっている。この体系からするとプーヨからアンバートまではだいたい2時間半というわけだ。

バスはほぼ予定通りに発車する。乗客はそこそこ多く7~8割の席が埋まっている。空は曇り空で道沿いを流れる川も霞がかかって川面が見えない。

そこへ流れ込む小さな川は、茶色く濁っていて、昨日見たよりも勢いがいい。

工事現場で働く人なのか、長靴を履いたおじさんや若いにいちゃんたちが、ところどころで降りていく。制服を着た子どもが数人乗ってきたりもする。このバスは長距離バスとしてだけではなく、隣のまちやむらをつなぐ路線バスのような役割も果たしているらしい。

川沿いの片側一車線、ときおり未舗装、たまに小さな土砂崩れの曲がりくねった道をバスは走っていく。1時間もするとそれまでの緑の濃い山の風景が一転。てっぺんまで耕し尽くされていている風景になる。

ぼくはしばらく睡眠タイム。目が覚めてみると、眼下に広がる盆地にビニールハウスがあちこちにあるのが見える。沿道には苗屋らしき家があり、そこには何かの作物の苗がポット苗のように、小さなビニール袋に入れてずらっと並べてある。

オタバロに行く途中の花屋と言い、ここといい、ビニールハウスがこんな密度であるなんていうのは想像していなかった。

アンバートには9時に到着。ターミナルではなく、ターミナル前の道路で降ろされる。荷物を背負って、ターミナルに行く。ここも複数のバス会社が窓口を持っていて、窓口の人は行き先を連呼している。声をかけてきた人に、Cuenca(クエンカ)かLoja(ロハ)に行きたいというと、バス会社を教えてくれる。

そこに行き、同じ事を言うと、ロハ行きのバスは午後になるから、クエンカに行ってそこで乗り換えた方がいいと言われる。それならとクエンカ行きのチケットを買う。8米ドル。

出発時間は40分後の9時45分。ターミナルに連れていくからと言われ、バスが並んでいる乗り場にスタスタと向かっていたら、そのおじさんにチーノと呼び止められ、こっちだと合図される。

どうもこの会社のバス乗り場は、このターミナル内にはなく、自前で持っているよう。おじさんは歩きながら、コリアンかと聞いてくる。その他、エクアドルは好きか、ペルーにも行くのかと聞かれる。

この会社のバス乗り場はターミナル正面が面している大通りを渡って、狭い路地に入ったところで、直接ここを探そうとしたら目立たないため、かなりわかりにくいところにあった。

ベンチがあり、そこで待っておけというので、しばしベンチでボーとする。やがてバスが入ってくる。今度のバスはメルセデスベンチ、じゃなくて、メルセデスベンツだ。

さっきチケットを買うときに、おじさんの机の上に時刻表らしきものがあって、行き先とバスの車体のメーカー名を書いた一覧があった。それを見たら、この会社のバスの1割くらいがジャガーかなにかで、残りをメルセデスベンツと日野自動車が占めていた。キトでもそうだったが、エクアドルに来てからは日野のバスが目立つ。

ここの社員らしきおじさんは、入ってきたバスの右後部に移動式の階段を付けて、屋根に登り、ビニールカバーを準備している。まさかこんな大型バスなのに屋根に荷物を乗せるなんてことはないよな、と思ったら、そのまさかだった。

ただ、荷物と言ってもリュックなどではなく、花。両手で抱えてさらに足りないくらいの束の花などが、乗り場に持ち込まれ、それが屋根に乗せられ、最後にビニールシートをかぶせられる。

ぼくはリュックを預け、適当に座る。車内にはみかんとブドウを持ったおばちゃんが入ってきて、”タマリンド”などと言いながら、席をまわって売り歩く。それに続いて、白い髭を生やしたおじさんが、ジュースと銀色の小さなビニール袋に入ったスナックを手に乗り込んでくる。物売りの人にしてはえらく身なりがサラリーマンくさいなと思っていたら、そのおじさんはバス会社の人で、手に持っていたジュースと小袋は、乗客へのサービス品だった。

まさかこんなサービスがあるとは思っていなかったので、驚く。今日は、腹のことを考えて、断食の予定だったが、これでは予定を変更せざるをえない。銀の袋を開けるとバナナチップス。これは塩味だった。発車する前になくなる。ナランハ&リモンジュースも同様。

バスはやや遅れて10時前に発車。アンバートのまちを抜け、また山岳地帯というか、牧畜・農村地帯に入る。昨日も見たような風景が続く。山に挟まれたあらゆる土地は耕されたり、放牧場になっている。牛や羊、リャマなどが草を食んでいて、畑では桑を使って耕している人や何かを収穫しているような人がいる。

女性の多くがいわゆる民族服をきて、仕事をしている。牧草地にゴールを立てただけのように見えるサッカー場では、中学生くらいの子たちの試合が行われていて、そこだけ人口密度が異常に高い。

目を奪われたのは水路の美しさ。もちろんU字溝などは入っていない水路で、50cmほどの幅の水路が畑の間を流れている。50年も前の日本の水路もこんなふうにきれいだったのだろうなと思いながら、眺める。

バスは坂道を力を入れて走りあがる。徐々に高度が上がってきたようで、谷間には雲が見える。13時過ぎには雲の中に突入。

雲の中に突入してしばらくするとバスは止まってしまう。これは事故か何かかと窓から顔を出し、前の方を見るがよく見えない。救急車の車体が見えるので、どうも事故っぽい。

窓から顔を出した状態のまま、前を眺めていたら、物売りの声がして、下を見るとバナナチップとピーナッツを持った男の人が売りまわっている。こんなところで商売をするなんて、なんという嗅覚だとたまげる。バスに乗っていた中学生らや子連れの家族が50センターボのそれらのお菓子を買っていく。それにつられて、ぼくもバナナチップを買う。今度のは甘い。甘いバナナを揚げたよう。

バナナチップを食べながら、窓から顔を出し、前の様子を伺う。対向車線は動き出したようで、同じような大型バスとすれ違う。手を伸ばせば届くくらいの距離ですれ違ったのだが、その際、なぜか向かいのバスに乗っている人たちがぼくを見てにこやかに笑っている。前の方から後ろの方へ情報が伝わり、次々とこちらを見る。バナナチップを加えた東洋人が珍しいのか、なんなのか。軽く会釈をすると手を振ってくれたので、バカにして笑っているわけではなさそう。

その渋滞を通り抜け、バスは救急車の後を追うように雲の中を走る。雲のおかげで見通しが悪いうえに、曲がりくねった道。せいぜい30kmくらいしか出ていないだろう。

バナナチップを食べて満足したのか、ちょっと眠くなりうとうとしだす。ちょうど窓の外は白いばかりでほとんど何も見えない。

14時、お昼の休憩のようで、30分ほどまちのレストラン前でバスは停車。降りたらまたその辺のものを食いたくなると思い、車内にいて我慢する。

いつの間にか寝ていて、目が覚めかけたとき急ブレーキを感じ、パッと目を開ける。おっと、どうしたのかなと思った瞬間、グァシャンという音がして女の人の軽い悲鳴を聞くと同時に、前の座席につんのめる。膝を前の座席の下の方に強(したた)かにぶつける。イッテー。

今の衝撃だと完全に何かにぶつかったよう。窓を開け、前を見る。進行方向左側の後ろから2番目に座っていたぼくの場所から見えたのは、対向車線の路肩に斜めになって止まっているこのバスの車体だけ。運転手がドアを開け、降りるのが見える。どうもぶつけたのは、こちら側ではないらし。

右側の窓からは他の乗客が乗り出して外を見ており、騒然している。ぼくも席をたって、右側の窓から前を見る。中型のトラックがこちらを向いて止まっており、その荷台の右側とこのバスの右正面が接触しているのが見える。

右側通行でお互い右側をぶつけるという、どういうふうにぶつかったのかよくわからない状況。

乗っていた中学生くらいの子たちは、これはしばらく動かないと見たのか、次々とバスの窓から飛び降りていく。また、運転席から降りていく者もいる。ぼくはしばらく車内にいて、窓から様子を見る。なんともすばやいことに10分もしないうちに警察が一人来る。そして、路上に集まっている人たちに端に寄ってというようなことを言っている。

また、バスの脇ではトラックの運転手らしい男の人とバスの運転手が口論している。そこへ警察が割り込む。

みな降りていくのでぼくも降りるかと荷物を持って、運転席の方へ向かう。後ろに座っていた男の子が、ぼくと同じように前の方に移動してきて、ぼくに何やら不安そうに言ってくるのだが、何を言っているのかわからない。

見ると車内に残っていた赤子を抱いた女性は、額を切り、その部分を拭ったようで、顔中が血で赤くなっている。持っていたバンドエイドを出し、なんと言って渡せばいいのかわからなかったので、額に張ってという仕草をするが断られる。

バスの乗車口まで来て、どのようになっているのかがわかった。バスの右正面は完全につぶれており、フロントガラスも割れ、乗車口のドアも原型を留めていない。乗車口の部分がトラックと接触していて、ここからは降りるこはできない状況。左側の運転席の方は、それほど損傷はないようで、きれいな状態だった。

この状態ではちょっと再び走り出すのは無理だなと思いながら、乗車口の方から運転席の方へ移動しようとしたとき、トラックのエンジン音が聞こえ、バリバリっという音とともに動き出す。

その音を聞いてさっき話しかけてきた12~13歳くらいの男の子がパニックになり、”Policia!(ポリシア)”と外にいる警察に向かって、ほとんど泣きかけの声で叫ぶ。取り残されると思ったのか、自分をバスから降ろしてというようなことを言っているよう。

そんなに興奮しなくても大丈夫なのに、と思いながら、ぼくはその子の肩をつかみ、こっちと運転席に連れ行く。その子の声を聞いたのか、運転席の外におじさんがやってきて、”Baja,baja(バッハ、バッハ:降りろ、降りろ)”とその子を促す。その子に続いてぼくも降りる。おじさんはまだ中にいるかと聞いてくる。

外に出てみると、想像以上に霧が濃いというか、雲が濃いというか、見通しが悪かった。10m先も見えないほどで、車のライトが見えたと思ったら、すぐそこまで来ている。

応援の警官が車でかけつけ、交通整理をしながら、状況の確認などをしている。

バスが走ってきた方から車が走ってきて、乗客の一人のおじさんが口笛を吹き、ゆっくりゆっくりというような仕草をする。そして、その車が止まった瞬間、急ブレーキの音が聞こえ、後ろから来た車が左に切りながら、その止まった車に衝突する。

ちょうど多くの乗客がたまっていたいた方向にハンドルをきる形で、後続車は来たため、立っていた乗客はそれに驚き、一斉によけようとする。ある女の人は悲鳴を上げながら、路肩の方に足がもつれたように座り込む。その人の両腕の中にはまだ1歳くらいの子どもがいて、女の人はほとんど泣きかけている。

幸か不幸か後続車は、前の車にぶつかったため、こちらまで来ることなく、止まる。右の前輪は完全にパンクして、右側のフロントも深くつぶれている。

乗っていた人は無事のようで、中から同じ服を着た男の人が4人ほど出てくる。肩の文字を見ると、どうもこの事故のことを聞いてかけつけた車の整備士か何かのよう。

すぐに自分たちの車の修理を始める。バスも運転手らが何やら修理のようなことをしている。バスの前に行ってみると、そこにはコンクリートの材料になるような砂がもられていて、それを地元の人らしい山高帽をかぶったおじさんが二人、スコップで路肩の端の方に寄せている。

言葉がわからないので、推測でしかないが、どうも反対車線から来たトラックはこの砂をよけようと左にハンドルを切ったところ、そこにバスが来てぶかったようだ。砂は反対車線の路肩から真ん中近くまで広く盛られており、よけるには対向車線に一旦でるしかない。なんでこんなふうに車が通る部分に砂を盛っていたのかはよくわからない。

それにしても運転手はよくぞ左にハンドルを切ったものだ。右に切れば谷の方にバスは転げ落ちていただろう。谷側には有刺鉄線が張られているもののガードレールのようなものはない。谷の方からは牛の鳴き声がするので、牧場か何かになっているようだが、ここらの牧場の傾斜は尋常でない。

時計を見ると15時過ぎ。雲の中にいるため、みなの髪の毛には水滴がつき、背負っているリュックなども徐々に湿ってくる。キトで3ドルちょっとで買ったポンチョ型の合羽を取り出し、かぶる。

う~ん、これはどうなるんだろうと思っていると、乗客の人たちが集まってなにやら警察の話を聞いている。まったく状況がわからん。でも、みんなの様子を見ていると、なんとかなりそうなので、ぶらぶらと様子を見ながら待つ。

大型バスや乗用車が通り過ぎていく。

しばらくして、空っぽの黄緑色の車体のバスが到着。どうもこれが代わりのバスのよう。みんな押し合いへし合い乗り込んでいく。そんなに慌てなくてもいいだろうにと思いながら、つぶれたバスの修理をしている運転手に荷物を出してもらうよう頼み、預けていたリュックを取り出し、新しいバスに移る。

車内に入ると全席埋まっていて、ぼくが座る席はなかった。みんなが慌てていた理由はこれか、と今頃になって気づく。しょうがないので後ろの方に立つ。どうせ隣のまちまでという人がいるだろうからすぐに座れるだろう。

そう思っていたら座っていた人が突然たち、バスから出ていった。それを見て、その後ろに座っていたおばさんが、ここに座りなと合図してくれる。ありがたや、ありがたや。

出発前につぶれた方のバスの運転手が、なぜかチケットの回収をする。それから新しい運転手が客のチェックをする。ぼくの前の方に座っていたおばさんは、ぼくの方を指さしながら運転手に、”・・・mienbro(ミエンブロ)・・・”と伝えている。どうもその音から英語のmemberと言っているよう。つまり、アンバートから一緒に乗ってきたと伝えてくれているようだった。

何が起こっているのかわからないぼくは、どうもどうも、と繰り返すだけ。

やがてバスは発車。時刻は16時で、予想したよりも対応はずっと早かった。

バスが走り出すとともに、通路を挟んでぼくの右側に座っていた若い男の人と、その前に座っていたおばさんは、十字をきる。

1分も走ると両脇にコンクリート製の家や店が立ち並んでいるのが見える。事故現場はこの集落のほんの手前だったよう。そういえば、さっき窓から降りていった中学生たちがバスには乗っていないので、もしかしたらこの集落の子たちだったのかもしれない。警察署もあって、最初にかけつけた警察はここから来たようだった。

20分も走ると雲から逃れ、あたりがよく見える標高まで下がる。車内ではゴキゲンなメキシコ系の音楽がかかっているが、これを気持ちよく聞いていた人は、おそらく乗客の中にはいなかっただろう。

目的地に迎えが待っているのか、通路を挟んで右側の一つ手前の席に座っているおばさんは、頻繁に携帯で連絡をとっている。ふと声が涙声になり、しゃくりあげる音も聞こえる。親しい人の声を聞いて、さっきまでの緊張が切れたのだろうか。話しながら泣いている。

ぼくの左前に座っていた若い女の人も携帯で、なにやらメールをしている。そして、ふいにぼくの方を向いて、"Por donde estamos(ポル ドンデ エスタモス:どこら辺に私達はいるの)?"と聞いてくる。ぼくに聞かれてもここは初めてですから・・・と思いつつ、わからないと答える。

ふ~ん、という感じで、今度は前の席のおばさんに聞くが、手でわからないという返事。そして、今度はさっき泣いていたおばさんに聞き、そのおばさんはぼくの右となりに座っている若い男の人に聞き、彼はまたその後ろのおじさんに聞き、ようやくわかる。おじさんが言うには、今走っているところはタンボ(El Tambo)というところだった。

すぐに沿道に看板が見え、そこには終点のクエンカまで68kmとあった。もうだいぶ近づいている。あと2時間くらいか。20時前には着きそうだ。

ここらも山のてっぺんまで畑と牧草地。民族服を来たおばあちゃんが、体積はその体の3倍近くはあろうという草(収穫した何かかもしれない)を小さな背に抱え、家に続く斜面を登っている。

谷間にはきれいに雲がかかっているが、その他はきれいな青空。ここらでは雲海なんて日常なんだろうな、と思う。ここらでは雲は見上げるものではない。いつもそばにあり、もしかしたらここらの作物にとっては、貴重な水分を運んできてくれるものかもしれない。

車は一旦下ってまちの中を通った後、また上り坂を走る。左手を見ていると空と谷との間に虹がかかっていた。

また雲の中にバスは入る。ぶつかる前まではうとうとしていたが、あれ以後はまったく眠気はこない。みんなきっとそうなのだろうなと思っていたら、隣の女の人は寝ていた。

雲から抜け、6時頃になるとだんだんあたりが暗くなってくる。やがて、車道が片道3車線になり、中央分離帯には街灯が点っている。沿道には取ってきたまちや村ではあまり見なかったオレンジ色の瓦屋根の立派な家が見え、クエンカにもう入りつつあるのだなということがわかる。

今日、泊まることになるクエンカは人口41万7000人で、南部の中心都市。ガイドブックによれば、議論はあるもののエクアドルで一番きれいなまちとも言われているらしい。

沿道にKIAや三菱ふそう、ホンダなど自動車屋が見え、やがてターミナルらしき大きな建物が左手に見える。バスは左に曲がってターミナルに入っていくと思いきや、ターミナル側の道端に停車。ここでみんな降りる。そこにバス会社の事務所があるわけでもないのに、なんでここで降ろされるのかがよくわからない。

とにかくバスを降りてリュックを背負う。時刻は19時ちょっと前。予想よりも早く着いた。周りを見渡すと2軒、ホテルが見えたので、2軒まわる。一つの宿は1人ものは泊まれないらしく、もう1軒の宿に決める。トイレ・シャワー共同で値段は7.65ドル。目の前がバスターミナルで、とてもきれいなので、探せばもっと安いところがありそうだし、ガイドブックには町中に行けば5ドルくらいの宿がけっこうあるようだったが、この時間だし、町中までは2kmくらいあるというので、この宿にする。

部屋は6畳ほどの縦長でベッドが一つと昔、学校で使われていたような机と椅子のセットが一つ、それからテレビがついている。

キトと同じく涼しいので冷房の類は必要ない。

荷物を置いて、バスターミナルに行き、Loja行きのバスを確認。1時間に1本程度出ているよう。それにしてもこのバスターミナルの立派さには驚いた。さすがエクアドル有数のまち。ターミナル内には食堂やレストランが20軒ほどあり、キオスクも同程度の数がある。CD屋や土産物屋もあって、つくりも整然としている。

警官が巡回しているのも、それだけの都市なんだなと感じる。昨日は静かなところだったのが、一転、暴走族並にエンジンを吹かして走る車がいる。

今日はできるだけ何も食わないようにするという朝の誓いはまたもや崩れ、鶏の串焼きのにおい誘われ、一本買う。そういえば、串焼きというスタイルは珍しい。中米などでは唐揚げはしょっちゅう見たが、串焼きはなかなかなかった。

ここの串焼きは肉の他にてっぺんにゴルフボールくらいのジャガイモが一つ刺さっている。これも南米ならでは? 料金は0.65米ドル。そんなに安いものじゃない。

それから近くにあったネット屋さんで写真のデータのバックアップをとる。1時間0.8米ドル。

宿の周りには20軒近く食堂があり、写真で料理を紹介している店も多い。それを見ると、まだ食べたことのないものがけっこうあったので、強く誘惑されるが、串焼きも食ったから、今日はもう終わりと自分にむち打ち、宿に帰る。

宿に戻ってエクアドル以後のルートを考える。寝る。

Fin

キトからプーヨへ(今日も盗難?)

2008.4.17(木)

・また盗まれそうになる
・トンネルをくぐるとアーマーゾーン
・ツーリスティックなまち プーヨ

6時起床。熱はひいたが、腹の調子はいまいち。

荷仕度をして、フロントで宿代を払う。何泊とまったのか自分では数えていなかったが、結局、5泊もしていた。しかし、宿泊代は5泊で15ドル。ありがたいことだ。

6時40分頃宿を出る。今日も晴天のようで、空は青く晴れ渡っている。空気はほどよく冷たい。通勤・通学の人たちがすでに通りを歩いていて、人通りは多い。

今回はトローリーバスに乗ることなく、バスターミナルに行く。7時頃にバスターミナル着。

オタバロに行ったときとおなじように、チケット売場に行くと、各窓口の人が行き先を連呼している。窓口の上に書かれたバスの行き先を見ながらPuyo(プーヨ)行きのバスを出している会社を探す。

ふらふらしていると、どこかの客引きのおじさんが声をかけてくる。"A donde va(ア ドンデバ:どこの行くのだ)?と聞いてきたので、プーヨと伝えると、そこへ行くバス会社の窓口を指さし教えてくれる。

教えてくれた会社の窓口に行くと、窓口の女性が"8(オチョ)"と言うのが聞こえた。後から考えると"
A las 8(ア ラス オチョ:8時)"と言ったのかもしれないが、ぼくは8しか聞き取れなかったので、8ドルかと思い、高いなと思いつつ、まぁ、しょうがないかぁと思って、出発時刻を聞いた。するとまた女性は”オチョ”と言うので、さっきから出発時刻のことを言っているのだということがわかる。

それで8時かぁ、まだ1時間近くあるなぁと思い、どうしようかと思っていたら、横で見ていた男の人が、7時半発のどこどこ会社のバスがあると教えてくれる。その男の人は、そのバス会社の人ではなく、別のバス会社の人のようだった。教えてもらった会社の窓口に行くと、確かに7時半のバスがあった。運賃は5米ドル。

20米ドル札を渡すと、窓口のおばちゃんは釣り銭がないととりあえず5ドルぶんだけつりをくれる。そして、とにかく乗車場に入れと言う。例のごとく、乗車場に入るには、入場料のようなものを取られる。0.3米ドル。入り口の人に50センターボのコインを渡すと細かいコインに両替してくれるので、その中から30センタターボ(0.3米ドル)ぶん取り出し、コイン投入口に入れる。回転バーを押して中に入る。

さっきの窓口の裏手に行き、おばちゃんにここでいいかと仕草をする。すると、そこにバスが入ってくるからとバスが停車するところを指さす。日本でも駐車場内の各枠に番号があるように、ここでバスが入ってくるところに番号札が立てられていて、その番号がバス乗り場の番号になる。

24番の番号がついた駐車枠の前にあるベンチでしばらく待つ。まだバスは入ってこない。予定時刻の10分前をすぎた頃にバスが入ってくる。なかなか豪華なバスだ。

まだつりをもらっていなかったので、さっきの窓口の裏手に行き、中にいるおばさんを見ると、ちょうど目が合い、今、思い出したとばかりに、にこにこしながら釣り銭の残りの10米ドルを持って出てくる。

10分くらいしかたってないのに、忘れるなよな、と思いつつ、笑顔で受け取る。

バスの停車場の前には小さな屋台的キオスクがあって、そこのおばあちゃんがりんごだのを進めてくる。ぼくは朝飯代わりにパンだという茶色い紙袋に入ったものを購入。1米ドル。

それらを持ってバスに乗り込む。

バスに乗り込むと、おじさんが中にいて、ここに座れとすすめる。そして、ぼくの荷物を手に取り、網棚の上に乗せる。上に置くのはちょっとよろしくないんだけどなぁ、と思いつつ、おじさんが親切にそうするので、それに任せる。

てっきりバスの添乗員かと思っていたが、おじさんはなぜかぼくの後ろに座る。なんかおかしい。

まぁ、何か用事があってそうしているのだろうと、ぼくはさっき買ったパンを食べ始める。食べてみるとパンには違いないが、揚げたのかバリバリのスカスカのパンであまりうまくない。くそぉ、失敗したなと思いながら、それでも頬張る。

しばらくして巡回しているらしい警官が二人バスの中に入ってくる。そして車内をじろじろ見て歩く。若い方の警官が何か後ろのおじさんに質問していて、年輩の警官が、その若い警官を警棒でこづき、連れていけとあごで指示する。

おじさんは、とりたてて抵抗もせずに、警官二人に挟まれてバスを降りていった。う~ん、これはおかしい。バスの添乗員ならこんなことはありえないし、乗客でチケットを買っているなら、降りるわけがない。

これは何かある。素直に降りていくという事は、すでに降ろされても良い状態にあるということで、つまりはすでに目的を達しているということだろう。だとすれば、その目的は盗みしかない。

と、例のごとくあれこれ考えて、パンを加えたまま網棚(実際は網ではないが)に置いてたリュックの中を見る。すると、ない!このリュックの中に入れていた外付けの折り畳み式キーボードやカメラの充電器などがごっそりなくなっている。

あのおやじ!と思って、動きだそうとしていたバスを止める。パンを加えたまま運転手に”Un momento, un momento"と連呼する。バスは停まるが、ぼくはなんと言って説明すればいいかわからず、ただスペイン語で自分の荷物と言って、乗車場を警官二人に挟まれて歩いていたおじさんを指さす。運転手は何が言いたいのかわからぬようで、眉をしかめて何か言う。

が、ぼくにはそれがまたわからないので、とにかく”Un momento, un momento"を連発し、バスを飛び降りる。

そんで警官のところに走っていき、またスペイン語で”自分の荷物”と繰り返しながらおじさんを指さす。年輩の方の警官は、それを聞いておじさんの方を見る。
するとおじさんは、あっさりと自分のリュックを開け、中を見せる。

するとそこには、ぼくの荷物がどっさり入っていた。そして、なぜか一番そこには中学校などで使う体育館シューズ(と言っても各学校で違うだろうが)のような靴が2足ある。わりと新しいので、これも盗んだものかもしれない。おじさんはどちらかというと、見た目には金持ちそうではないし、どちらかと言えばカネに困ってそうな感じだ。でも、同じような様相の人はそこら中にいるので、とりたてて貧相というわけではない。

ぼくはリュックに入っていた物を自分の手で取りだし、警官に再度、それらを見せながら、自分の荷物だと言う。

年輩の警官は"Su maleta(あなたの荷物)?"と聞いてくるので、"Si"と言いながら、充電地の箱を見せながらこれは日本語だと伝える。

それで警官の方も確信したらしく、おじさんの方を見て、次の瞬間警棒でぶっ叩く。

ってことになるかと思いきや、年輩の警官はおじさんを、こやつめ、って感じで苦笑いしながら見ただけ。いやいや、もうちょっと厳しくしましょうよ、せめて時代劇で大岡越前が”ひったてぃ!”と言って小役人が悪人を連れていくように、おじさんの首根っこでもつかんで、ほら!、と心の中では思うも、それを言葉にすることができない。

バスの添乗員も降りてきていて、早く乗って、みたいなことを言うので、盗られていたものを持ってバスにそそくさと戻る。

バスの席に座ると、年輩の方の警官も乗り込んで来て、ぼくの横に来て"Todo bien(トドビエン:全部大丈夫か)?”と聞いてくる。"Si,si"と答えると、警官は通路の前方に行き、乗客に荷物を網棚の上に置かないようになどと身振り・手振りを交えながら話をする。乗客は4人ほど。みんな窓の外を見ていてあまり聞いてはいない。

バスがターミナルを出たところで、警官は降りていく。

ぼくは、どうしてこうなんでもかんでも盗むかなぁ、もう少し盗むものを選べばいいのに、なんてことを考える。充電式の電池とその充電器は売れるとしても、カメラ用の充電器なんて、そもそもそれらが使えるカメラも出回っていないのだから、そんなに売れないだろうに。

もしかしたらおじさんのような盗人は、盗るものの価値も知らずに盗んでいるのかもしれない。まんまと盗んだものの売れもせず、まして自分で使うこともできずに、放ってあるというものがけっこうあったりするのかもしれない。

あるいはとにかく出せば売れるという裏市場があって、そこでバンバン売り買いされているのかも。

しかし、それにしてもおじさんは、盗んだものにどう値段を付けるのだろうか。観光客から盗んだ物の中には、どう使えばいいのかわからないものとか、そもそもこの国ではそのままでは使えない(コンセントの規格などが違うなど)物もあるだろう。

どこかであった日本人旅行者に聞いた話で次のような話があった。彼はアフリカを旅行していたという別の日本人旅行者から聞いたらしいのだが、その人がアフリカで強盗に遭ったときに、カネなどは盗られたがiPodは盗られなかったらしく、あいつらはiPodの価値がわかってない、とその盗まれた日本人は言っていたらしい。

ショッピングセンターに行けば、いわゆる先進国で売られている物はたいていあるから、そこで値段を知ることはできるだろうが、結局、買い手に買い叩かれていたりするのではないだろうか。

海外ドキュメンタリーを作るならこれをテーマにすると面白そう。外国で盗難に遭っている人は、そこそこいるだろうし、海外旅行経験者や希望者にもウケるかもしれない。ちょっとちゃちぃテーマなのが、難だけど。

ぼくは腹の調子がよろしくないのに、気分を落ち着かせるためにあまりうまくもないパンをパクつく。

バスは渋滞に巻き込まれながら、なんとかキトの待ちを出て、広い幹線道路を走る。しばらくすると、雪をかぶった山が正面に見える。地図で確認するとどうもCotopaxi(コトパクシィ?)という山のよう。標高は5897m。エクアドルにはVolcan Chimborazoという標高6310mの火山があるようだが、そちらはここから見えるには遠すぎるように思える。

周りの景色は、昨日、オタバーロに行くときに見えた景色と似たような感じ。てっぺんまで耕された、あるいは牧場になっている山々の間をバスは走る。トウキビ畑などが見え、牛や馬が草を食んでいるのが見える。

こうした風景は、”のんびりとした”という形容詞を付けられてしばしば言われたりするのだが、それは見ている人の都合でそう言ってるだけで、そこにいる人が本当にのんびりしているわけではない。そう思う。

日本でも”田舎はのんびりしていい”なんて言われたりするが、田舎の都市部は一部そうかもしれないが、田舎の田舎にいる人は、けっこうやることが多くて、休みという休みはなかったりする。

都会暮らしとは、ほとんどの人にとっては雇われ暮らしであり、雇われている以上は、自分の意思に関係なくやらなければならないことが次々と発生し、それをこなさなければ暮らしていけない(もっともこなし続けたことで逆に体を壊し、最悪の事態では死に追いやられることもあるが)。

そういう人にとっては、田舎の風景は、のんびりとして見えるだろう。ただ、実体はのんびりとしているわけではない。ただ、同じ商売をしていても自営業だったり、自作農であれば、より自律している面はあるだろう。そして、そのぶん-自分であれこれ決めることができる=誰かに決められるわけではないぶん、のんびりしているように見えるかもしれない。

つまり、ある人たちにとって、のんびりした風景とは、より自律した風景であるにすぎず、それ自体がのんびりしているわけではない。ただ、いずれにしても比較の問題だから、そうとも簡単には言えないかもしれないが、それを詰め出すときりがないので思考を停止する。

ある畑では、小さい子どもやおばあちゃん、おじいちゃんまで、要は家族総出で何かの収穫作業をしている。

LantacungaやSalcedoといった比較的大きなまち以外にも、いくつもの集落や村々を通り、10時半アマゾンへの分かれ道となるAmbato(アンバート)に到着。何人かの乗客を乗せ、すぐにバスは発車。

バスはこれまでの広いとおりから、谷がちでより狭い道路に入る。ぼくはうとうと居眠り。なんだかだんだんと暑くなって来たのを感じ、目が覚めるとBanos(バーニョ:正確にはnの上に波線が付く)に着いていた。時刻は11時半。

ここでしばらく休憩。バスの周りには飲み物やバナナチップなどのお菓子などを売りに来ている人がいる。

ここでいくらか客が入れ替わる。バスは再度発車。狭い渓谷の間に集落ができていて、ときおり広い農地が見える。沿道には苗屋さんをしばしば見る。

30分ほど走り、トンネルをくぐると景色は一変した。それまでは、山々は緑が薄く、頂上までなんらかの形で人に使われている様子だったが、トンネルのこちら側はとても人が入って行くには森が深すぎるように見える。

Rio Negroという地名を知らせる看板が見える。Rioとは川の意味であり、Negroとは黒色を意味する。谷間を流れている川は、黒とはさすがに言えないが、茶色い濁流で、アマゾンという言葉のイメージになかなかフィットする様相をしている。

道幅は大型バスがすれ違うことができる程度はあり、また路面も舗装されていて、問題はない。ここも観光地化が進んでいるようで、ときおり、エコツーリズムと書いた看板なども見える。また、途中にはバンジージャンプができるところもあり、ヘルメットなどをかぶって、これから飛ぼうという少年が、おそるおそるはるか川底を覗いているのも見えた。

2~3カ所ほど、滝となって水が豪快に落ちてくる場所もあった。

やがてShellというまちに入り、沿道に家や店が立ち並んでいるのを見る。また、小さな飛行場もあった。

一旦、家並みが切れ、くねくねとした道に入るも、30分ほどで広い通りに出る。そして、左手に見えてきたバスターミナルに、バスは入る。

ガイドブックではターミナルから1kmほど離れたまちなかのホテルしか紹介されていなかったので、移動が面倒だなと思っていたが、ターミナル周辺にはホテルが10軒近くあり、ネット屋もレストランもあった。

バスから降り、ターミナルから50mほどしか離れていないホテルにまずは行ってみる。宿泊料を聞くと1泊6米ドルというので、そこで決定。ターミナルに近く、建物もコンクリート造りで比較的新しい。この宿で6米ドルなら4ドル位のところもあるかと思ったが、あまり費用の削減効果はないし、明日また朝が早いので、ここに即決する。

パスポートを見せてチェックインし、部屋の鍵をもらう。部屋は10畳ほどもあって、ダブルベッドでシャワールーム、トイレ、トイレットペーパー、石鹸、タオル、テレビ付き。加えてベッドの横にはベビーベッドまである。そのきれいさは日本のしょぼいビジネスホテルよりもずっと上だ。

あまりの豪勢さ(?)にぼくは感じ入り、しばしベッドでごろり。

それからネット屋でちょっとネットをする。1時間0.8米ドル。キトと比べるとちょっと高いが、早さは十分。パソコンは10台ほどあり、客はぼくの他に中学生くらいの男の子が一人。店主はおばあちゃんとおじいちゃん。

それから歩いて中心部に向かう。 ネット屋のおばちゃんに聞いたら通りをまっすぐ行って左に行けば行けると言うことだったので、その通りに行ってみる。通りを歩いていると、左の方からバスが来てこちらに向かって曲がって来た。フロントガラスにcentro(セントロ)とあったので、このバスが出てきた方向に向かって歩く。

左に曲がってみると、道は舗装されていないし、民家もあまりないし、人通りもほとんどない。幹線道路とまちの中心部とを結ぶ道路が未舗装というのはあまりないので、歩きながらこの道でいいか不安になるが、聞く人もあたりにいないのでとにかく歩く。

10分ほど未舗装の道を歩き、交差している通りを右左と見てみると、右の方に舗装されている道路や店が多かったので、そちらに向かう。そちらに行くとレストランやアマゾナスと書いたトラベルエージェンシーの店、中国語で書かれた中華料理屋の看板も見える。

適当に歩いていると三叉路に行き着く。そこには2体の銅像が立っていて、互いに握手している。1体は上半身裸に日本で言うとふんどしのインディヘナで、もう1体は白人系の人をイメージしたもの。どうもこれらの像は両者の友好を表しているよう。

ガイドブックによればミュージアムがあるというので、そこに行ってみる。広場に面した3階建ての建物の3階にそのミュージアムはあった。2階には行政の事務所か何かがあるようで、書類を持った人たちがずいぶん並んでいた。

その建物の手前、広場の端では男の子が3人、ビー玉で遊んでいる。あまりはっきりとはわからなかったが、ある地点からビー玉をはじいて、あらかじめ掘った穴にどっちが1発で入れるかを競っているようだった。

彼らが遊んでいるところへ別の子がやってきた。その子が歩いてきた方向には家などないように見えたので、どこから出てきたか確認すると、その子が出てきたのはコミュニティレストランと書かれた白い四角いコンクリート造りの建物だった。そのレストランは、底所得者のために普通よりも安い値段で料理を出している店のようで、表にはその日のメニューが0.5米ドルと書かれていた。

そこで飯を食ってみようかと思って、やや遠くから中を覗いたところ、もうほとんど昼の時間は終わったようで、片づけらしきことをしていた。

腹の調子も良くないので、そこでの食事はやめ、ミュージアムに行く。ミュージアムはビルの一室にあって、入場料は無料だっった。

中に女性の職員がいて、先客の男性2人にあれこれ説明をしていた。展示物は、アマゾンに住む人たちの家を復元したものや狩猟・採集、料理などに使う道具、アマゾンの生き物の剥製、多種の蜘蛛や蝶の標本など。解説文はほとんどない。

アマゾンでもいろんな部族のものを集めたようで、復元されていてる家も違う物が6種類ほどある。そのうちの一つはMitad del Mundのミュージアムにもあった家と同じタイプの家で、獣の進入から逃げるために、入り口が二つあるという家だった。

それからまちをふらふらする。人口が少ないからか、人通りは少なく、閑散としている印象を受ける。お店はそれなりに服屋からパソコンを売っている電器屋までそろっているが、客はあまり入っていない。ネットカフェも10軒以上はある。

歩いていたらツーリストインフォメーションを見つけたので、そこで地図とバスの情報をもらうことにする。対応は丁寧で早かった。市内の地図をプリントアウトしてくれて、市場の位置を聞くと、そこにマーカーを付けてくれる。バスについても相談に乗ってくれ、どういうルートで行けるかを教えてくれる。

さらに3種類ほどのカラーのパンフをくれて、極めつけにはそれらを特注の紙袋に入れてくれる。カラーのパンフのうち一枚はMAPA DE LA REGION AMAZONIAとタイトルが打たれたもので、エクアドルのアマゾニアと呼ばれている地域全体の地図が載っている。アマゾニアでもいくつかの地域に別れており、それぞれの地域名と主要都市名、アマゾンの旅のルート例、それからそれらの旅をサポートするエイジェントの名前と電話番号の一覧が載っている。

プーヨはPastaza(パスタサ)という地域の中心都市ではあるが、ここまでツーリストインフォメーションの対応がいいとは想像していなかった。エクアドルがどれだけ観光に力を入れているかが、こういうところでもわかる。

またここまでされると、エクアドルのアマゾンの中にもっと入ってみたいものだとも思ったのだが、あいにく腹の調子が悪く、明日もこの調子が続きそうなので、やめる。

目的の市場はここと同じ角にあった。外見からはそれとわからず、ぼくは近くの通りを何度も歩いて別のところを探していたりしたのだが、気づくと10m程度しか離れていなかった。

市場はコンクリートの3階建ての建物の中にあり、真ん中が四角く吹き抜けになっている。天窓からの光だけなので、中は薄暗い。

入ると4歳くらいの男の子がぼくを見て、”チーノ”という。ぼくがにこりともせずに、そちらを見ると、隣にいたその子のおにいさんらしき子は、その子に二度目を言わせないように制している。エクアドルに来てからは、チーノなどとは言われたことはなかったので、久しぶりだ。

中は20m四方程度の広さしかなく、店数も客も少ない。歩いていると、みんなの視線がこちらに集まる。1階は野菜や果物を売っている店が多く、2階には食堂が数軒と服屋さんが多い。野菜や果物の品ぞろえはキトと代わり映えしない。一回りして出る。

地図を見ると、まちの近くに大きな川が流れているようだったので、そちらの方に行くが、河原はジャングルさながらに草が生い茂っていて入れない。別のルートをとぼとぼ歩いていたが、とても川に出そうになかったのでやめる。

まだ明るかったが、さっさと宿に帰ることにする。

宿やバスターミナルが面している幹線道路に出て、歩いていたら焼きバナナを売っている屋台があったので、腹に何か入れとかないといけないなと思い、そこで焼きバナナを買う。キトで買ったときはバナナをただ焼いただけのものだったが、ここのは違った。

1本頼むと、店の女性はバナナを乗せる皿やきれいな紙がないと断った上で、バナナの皮を取り出し、そこに網から焦げ目がついたバナナを乗せ、ナイフで縦に切れ目を入れる。そこにふわふわしている(ぼろぼろとした感じ)チーズを入れ込み、最後にぼくに"Aji(アヒ)?"と確認した上で、緑色のサルサソースをかける。この緑はアボカドの緑のよう。料金は0.3米ドル。ここまで手をかけるならもうちょっと取ってもいい気がするが、まあいい。

食べてみるとなんとも不思議な感じだ。バナナの甘さにチーズの塩気に、サルサのピリッとした辛み。これは調和していると言っていいのかどうか、判断が難しい。これもまた誰かがただのバナナに飽きて、こうしたものを発明したのだろう。

宿に帰ってからシャワーを浴びる。シャワールームには、水用とお湯用と思われる2つのあの捻る取っ手(?固有名が出てこない)があるので、お湯用と思われる方を捻ってお湯が出るのを待っていたのだが、なかなか出ない。けっこう待ったのに出ないので、これはお湯はでないのだなと意を決して冷たい水の中に入る。なんとか水になれてきた頃、だんだんと水の温度が上がってきてお湯になり、今度は熱すぎるくらいの温度になる。慌てて水の方を出し、熱さを調整する。

時間はまだ17時前だったが、さっさとベッドに入る。

それにしても今回の腹の不調は長い。腹の不調の原因はいくらでも思い当たるので、どれがまずかったのかがわからない。もしかしたらそれぞれの要因が合わさって、これだけ長引いているのかもしれない。

キトでは毎日、道ばたで売られていたゆで豆やトウキビを食っていたから、それが消化に悪かったのかもしれないし(豆は歯ごたえがある程度に硬かった)、氷の入ったジュースも飲んでいる。また、食堂や道ばたで食い物を買ったときには、店の人は盛りつけるときに素手も使っていたから、そこからなんらかのばい菌が入ったのかもしれない。

とにかく自分の腸内細菌の力を信じ、寝ることにする。病は気から、信じる者は救われる?

2008年4月26日土曜日

クスコ入り

現在、4/25 朝の9時15分です。

先ほどクスコに付きました。
ナスカを出てから約17時間。ひたすら山道で車酔いをしてしまった次第。

ここは標高3000mを越える地帯ですが、相変わらず高山病は全く問題なし。

午前中はちょっとのんびりして、午後からマチュピチュに行くための準備をしようかと
思っています。

ではでは。

Cusco,Peruにて

2008年4月25日金曜日

ナスカ入り

いま、ナスカです。
昨日の夕方につき、いま、地上絵を見てきました。飛行機の微細な動きのおかげで酔いましたね。

奇しくも
日本からのツアー客の人と同じ飛行機になりまして、久しぶりに日本語を聞いたところです。

今晩は、クスコに移動です。

では。

nazca


2008.4.25 10:07
Nazca,Peru

2008年4月24日木曜日

リマ入り

昨日、4/22の昼にペルーの首都リマに入りました。
げんざい、4/23のお昼前です。

エクアドルのマチャラからペルーのピウラ行きのバスに乗り、約7時間かけてピウラに着き、ピウラですぐにリマ行きのバス乗り、昨日の11時ころリマにつきました。

途中は、たんぼあり、砂漠ありでなかなか印象的な風景が多かったですね。

リマに急いだのは、ここでブラジルビザを取る予定をしていたからですが、大使館に行ったところ往復のチケットがないと発給できないといわれたため、ここでの取得はあきらめ、ボリビアで取ろうかと思っています。しかし、ボリビアでも取りにくいとの情報があるため、予定通りボリビアからブラジルのアマゾンに行けるかは未知数です。

リマは交通渋滞が激しく、まちもいまいち凝縮性がないので歩いて回るには不便ですね。

これから明日のバスの手配をして、明日はナスカに移動です。

では。

2008.4.23
de Lima

なんとなくキト

2008.4.16(水)

・国立博物館
・学生証をつくりに
・焼きバナナ

どのようにここから移動してまわるかのルートが決まらず、またMuseo del Banco Centralという博物館も気になっていたので、結局、この日もキトに泊まることにする。

午前中は昼前まで宿にいる。道ばたで食べたゆで豆や空豆、乾燥させたようなトウキビの実がうまく消化できていないのか、腹の調子がいまいち。

まずは博物館に行く。トロリーバスで近くまで行こうと思ったが、学校帰りらしい子どもたちがいっぱいでかなり混雑していたので、一旦カネを払って乗り場まで入ったのに、乗るのはやめて歩いていく。歩いても20分ほどでそこに着く。

博物館の展示は、アジアから祖先は渡ってきたという話から始まり、今のペルーにあったインカ帝国による侵略に関わる話や、当時の装飾品や発掘された人骨などが展示されている。金の装飾品が数多く展示されているのが、これまで見てきた博物館とは違うところ。

2階にはスペインが入って来て以後の展示になっているが、展示物はキリスト像だとかマリア像ばかり。合わせて50体くらいある。

展示の説明は英語も併記されているが、専門用語が多く、よくわからん。

博物館の後、大学近くのビルで国際学生証が作れると聞いたので、試しに作りに行ってみる。事前の情報では写真2枚と10米ドルで作れたとあったのだが、行ってみると、学生であることを証明する文書か何かを持っていないと作れないと、至極あたり前のことを言われ、断念。ぼくより年上の人が写真2枚で作れたらしいのに、なぜ?とも思いながら、ビルを後にする。

ガラパゴスに行きたい人は国際学生証があると飛行機代の割引が受けられるので、こうしたところで学生証を作って
割引料金で飛行機に乗るようなことをしているよう。

ぼくの場合は、あまり学生割引が使えそうなところには行かないから作らなくてもいいかなと思っていたが、サンホセで見た飛行機の学割価格が衝撃的だったので、もしやアフリカ行くときになんかに使えるかもしれないと皮算用をし
て行ってみたのだが・・・。

中心街に戻る。シモン・ボリバールのモニュメントがある広場を歩いていると、焼き芋に似たにおいがしてきたので、その匂いの方へ行ってみると、焼かれていたのはバナナだった。焼き芋ならぬ焼きバナナ。しっかり焦げ目がついている。

試しに1本買う。0.3米ドル。紙ナプキンにのっけられて渡される。熱い。味は確かにバナナ。ただちょっとすっぱみがある甘い焼き芋だと言われて食べたら、たぶん芋と間違えるくらい味も少し似ている。

バナナを揚げているのなら見たことはあったが、焼きバナナは初めてだ。

それからバスターミナルに明日乗るバスの下見。その途中、道ばたの食堂で湯気が立っている白い飲み物が売っていたので、もしやこれはグアテマラにもあったArroz con leche(米粒入りの甘いホットミルク)かと思い、飲んでみると味はほとんど同じだが、入っている粒々の歯ごたえが米にしては硬い。トウキビのような気もするが、確信が持てない。

店のおばさんにこの粒を指さしながら、お米かどうか聞いたが、おばさんは、"Morocho(モロチョ)”と、この飲み物の名前を言うばかりで、ぼくが聞きたいことを悟ってくれない。名前が違うから中身も違うと考えてもいいが、何がどう違うのかが気になる。

それからバスターミナルにバスのスケジュールを調べに行く。

ぼくは、まだエクアドル内をどう移動するか決めかねていた。当初、マングローブ地帯に作られたエビの養殖場を見に、キトから北西にある太平洋側の村に行ってみようかと思ったが、スペイン語ができない旅行者が一人で行くには、交通の便や宿泊の面でなかなか難しいらしいことがわかり、それはやめにした。

それでも太平洋側に行ってみたかったので、Manta(マンタ)というまちに行こうかと思い、バスターミナルでマンタ行きのバスの時間を聞くと、今晩10時半発で明日の朝8時半頃着くバスがあるらしい。聞くと、明日はそのバスはないと言うので、今晩出るか思いながら宿に帰る。

しかし、夕方過ぎからなんだか熱っぽくなってきたため、宿でしばらく様子をみることにする。一眠りしても、まだ熱がとれない。結局、マンタ行きも変更し、バスの本数も多い、アマゾン側に行くことにする。

夜はひたすら寝る。

北半球・南半球行ったりきたり

2008.4.15(火)

・甘いバナナチップ
・木のない山
・雲の中で農業
・大ハウス地帯
・オタバロで買い物
・地球の半分でぷぷっと笑う
・地球の半分で”おおっ”と叫ぶ

昨晩、今日はOtavaloというところに行くことを決め、ちょっと早くに動き出す。

6時前に起き、6時半前に外に出る。今日も曇り。外は15度くらいで、みんなコートを着たりジャンバーを着たりしている。すでに歩いている人は多い。

宿からバスターミナルは地図で見るとけっこう近い。歩いて15分ほどくらい。宿のある広場からずっと下っていたPlaza Santo Domingoというところからトローリーバスで1駅のところにある。

駆け降りるように坂を下り、ちょうどトローリーバスが来たので乗る。窓は人の熱気で曇っている。すでにほぼ満員状態。昨日乗った乗り物とはまた違う乗り物のようで、この乗り物には、横に細長い電光掲示板があり、次に止まる駅の名前が右から左へと流れながら表示される。また、社内放送も電子声だがあって、次に止まる駅のアナウンスがある。

ほー、なかなかすごいなと感心したり、考えごとをしていたら、いつの間にか乗り過ごしていて、慌てて降りる。通ってきた道を戻る。車内では曇っていて見えなかったが、あたりは斜面に囲まれていて、細い道路が一本走っているのみ。車は渋滞し動かない。よけないとすれ違えない狭い歩道を歩き、また駆け足で戻る。

ちょっとしか乗り過ごしていないと思ったが、けっこう乗り過ごしていた。こんな坂あったっけという、上り坂をトレーニングがてら駆け上がろうとするが、途中で呼吸がきつなり素直に歩く。

15分ほどあるいてようやくバスターミナルに到着。

ターミナルは思いの外でかかった。中は電気があまり点いていないので、薄暗い。食堂やツーリストインフォメーション、ATMも併設されている。1階のチケット売場に降りると、20社かあるいはそれ以上の会社の窓口が向かい合って並んでおり、それぞれの窓口からは行き先を連呼する声が聞こえてくる。

例えば”リオバンバ、リオバンバ、リオバンバ、リオバンバ、リオバンバ、リオバンバー”というふうに10回近く連呼する。日本語の感覚からすると、面白い音の地名もあるので、連呼される声を聞いているとなかなか楽しい。

窓口には行き先と時刻表が基本的に書かれており、行き先が同じ会社も多々ある。客引きをしている人から"A donde va(どこに行くのだ)?”と聞かれ、オタバーロと言うとあっちの会社だと窓口を教えてくれる。

そこの窓口でチケットを買う。3ドル。

バスは7時40分にターミナルを発車。客はまたもやぼくしかない。と思ってたら、ターミナルの出口のところで何人か乗客を乗せる。ターミナルでチケットを買って乗るときには、バス乗り場に入るときに使用料みたいな代金0.3ドルを徴収される。たぶんそれを逃れるために、そこから乗るのだろう。

バスの車内ではテレビがつけられ、ニュースが流れる。走るごとに客が増えていく。通りは渋滞で、なかなかバスはすんなりとは走らない。

沿道には店と家が延々続く。見える斜面も家だらけ。さすがに140万人都市だけある。

途中の停車場でバスの中に物売りの人が入ってくる。”パピータ・・・”などと言いながら通路を飽きながら買い手を探す。朝飯代わりにバナナチップを買う
0.5ドル。てっきりいつもの塩味のバナナチップかと思って食べたら、甘い。甘いバナナチップは、今回の旅では初めてのような気がする。

1時間もするとようやく都市の混雑を抜ける。料金所を通り、今度は山岳地帯の曲がりくねった道をくねくねと走る。あたりには民家や畑、牧場が広がる。山には木はほとんど生えてなくてっぺんまで草地だったり畑だったりする。

畑にはトウモロコシやキャベツなどが見え、たまにジャガイモ畑も見える。

車内のテレビではギャング対一人のヒーローが対決するみたいなよくあるパターンの映画のDVDが上映されていて、銃声などがかしましい。外の雰囲気とまったく合っていない。趣なきこと甚だしい。

それからホテルなどもあるまちをいくつか抜け、10時頃、目的地のOtavalo(オタバロ)に到着。オタバロは人口3万1000人のまちで、標高はやや下がって2550m。ここは土曜日に大きな民芸品の市があることで有名なまち。

パンアメリカ大通り(正式には同訳されてるか知らない)で降ろされたぼくは、適当にまちの中心部であろうと思われる方向に向かって歩く。

石畳に狭い歩道。沿道には店があることはあるが、家と混在していて、また客も少ない。そもそも歩いている人がほとんどいない。

地図もちょっと見ながら歩いていると広場に出た。Plaza Bolivarという名前の広場で市庁舎と教会が広場に面して建っている。目に付くのが民族服を来た人たち。女の人では若い人からおばあちゃんまで、男の人では基本的におじいちゃんに近い年齢の人が着ている。女の人だけに限れば、たぶん洋服を着ている人との割合は、ぼくが歩いた範囲では半々に近い印象だった。

何をするともなく、その広場のベンチに座っているおじさんも多い。

教会を正面に見て、右脇の通りには野菜や果物、服などの屋台が並んでおり、その先に100mくらい行くと左手にメルカド(市場)の建物が表れる。

建物周辺の路上も市場と化しており、路上で売られているものは食べ物が多い。じゃがいも、豆、トウモロコシの種類が多い。ジャガイモは見た目の色や大きさ、形から判断できる範囲ででも5種類(赤いものや黄色みが強いものなど)ほどあり、豆もひよこ豆やインゲン豆、大豆、黒豆など多種類、トウモロコシも白いものから黄色いものまで複数ある。

つらつらっと見てまわり、路上版市場の切れ目のところで果物屋さんの屋台で売っていたスイカを買う。0.3米ドル。味は中の下くらい。

それから適当に歩いていると広場に出る。そこでは露店の骨組みを組んで、商品を陳列する作業があちこちで進められていた。30m四方程度の広場は、そうした露店がところ狭しと立っており、売っているものはインディヘナ系のデザインの布地やマント、ポンチョ、セーターなどの服や、インディヘナの人たちがかぶっているがっちりした帽子などなど。

50店近くが密集していて、1店1店見ていたらキリがないくらい。似たようなものが多いが、それゆえに他とは違うものを探そうとすると、時間がかかるというパターンに陥りやすい感じかな。

メキシコのグアダラハラで厚手のポンチョを買ったものの、一度も着ることなく、どこかのバスの中に忘れ、さらに日本で買ったレインコートもキューバのサンタクララあたりに忘れたため、これから寒いところに行くため防寒用に一枚布地を買うことにした。

値段はポンチョやセーターなどは15ドルで、50cm幅くらいの大きめのマフラーみたいな布地は8ドルといった具合。ぼくは薄手の毛布としても使えるよう、180cm×1mくらいの何かの毛の布地を購入。15ドルを14ドルにまけてもらう。

雨がぽつぽつ降り出す。

あとでロンプラの地図を見たらこの広場はPlaza de Ponchos(プラサ デ ポンチョス=ポンチョの複数形)という
名前だった。ほんとにそのままだ。

このポンチョ広場と最初に通った教会などが面しているボリバール広場(Plaza Bolivar)をつなぐ通りはきれいに整備されており、それもちょっと微妙にあか抜けた感じで、なんだかまちの雰囲気と合っていない。その通りに入ったとき、日本のどこかのまちの再整備された一角かと思ったくらい。基本はヨーロッパ調なのだが、何かがずれている感じがするんだな。勝手な偏見かもしれないのだが。


その通りには、外国人受けしそうな雰囲気のカフェやレストラン、トラベルエージェンシー、ホテル、土産物屋さんなど小さな店がびっしりと並んでいて、その中にコーヒーとチョコレートの店があった。

日本では、コロンビアもそうだが、エクアドルのチョコもあまり手にする機会がないので、ここでお試しに買う。チョコは数種類あり、中にはジャングルチョコという名前のチョコもある。それはエクアドルのアマゾン地帯で育てたカカオを使ったチョコレートで、その箱にはフェアトレード商品であることを示すマークが付いていた。

その他の商品も商品説明のステッカーにいろいろと英語で商品の背景などかかれてある。たぶん2度と買うことはないだろうという6ドルのチョコを購入。味はなかなかのもの。

さっいは市場の建物の中は見てなかったので、建物の中を見に行く。中はもっぱら食堂で、昼時と言うこともあり地元客らしい人たちが、めいめい食堂で食事している。

食堂は、どの店も日本で言うと屋台くらいの広さしかない。客は10人座れる店はでかい方で、どこも5~6人が限界。通路沿いに料理の入った鍋を火にかけたまま見せている店もあるし、外観からは何を出すかよくわからない店もある。

食べている人を見ているとけっこうスープものを食べている人が多い。

どの店も人が多いので、空いていた店で食べる。出てきたのは、湯がいたトウキビの実の部分とその上にタマネギなどのサラダがかかったもの。トルティージャのような形式ではないが、エクアドルの人もよくトウキビを食べる。

その後、別の店でスープを食べる。鶏のスープでなかなかうまい。店のおばさんがジュースか何か飲まないかというので、ジュースは何があるか聞くと、ナランハかトマトならあると言われる。ナランハのジュースはだいぶ飲んでいるので新しくない。トマトジュースは新しいが、なんか味がわかりそうな気がする。それにスープだからこれ以上水分はいらないかなと思って、飲み物は断ろうかと思い、おばさんの方を見たとき、おばさんはトマーテ(トマト)と言って、左手に現物を持って、こちらに見せる。

トマトジュースは基本的に好んでは飲まないし、上のようなことでジュース自体を頼むつもりもなかったのだが、トマトの現物を見て、即座に心変わりをしてしまう。そのトマトは、日本で一般にトマトと言って売っているものとは、色の具合や形などが違っていて、言われなければ、別の果物と思うような様相をしていた。

実際、さっき市場を見たときに、おばさんが言うトマトが山積みにされて売られていて、それを見たときは別の果物かと思っていた。葉の様子や皮の質感から言うと、日本にあるもので近いのは柿だが、色が柿のようなオレンジではない。色は、日本で一般的なトマトのような赤ではなく、クランベリーのような暗めの赤といった感じ。


『世界を変えた野菜』という面白い本によると、スペイン人が中南米に来たときに、インディヘナの言葉では品種によって何種類もあったトマトの呼び名を、スペイン人はすべてトマトという一つの名前でのみ記録・記憶したらしい。

おそらくこのトマトもその名残だろう。ほんとは別の名前があったのが、今ではトマトとして呼ばれるのみ。

おばさんはそのトマトの皮を剥き、ジューサーに氷などとともに入れて、シェイクする。そうして出てきたジュースの味は、イチゴに似ていた。そのトマトを直接食べていないし、ジューサーの中におばさんがあれこれ味付けするためのものを入れている可能性もある(ずっとは見てなかったので)のだが、いわゆるトマトジュースの味ではまったくない。

食事後、中心部からやや離れた高台の方を散歩。線路が通っており、地図を見ると駅もあるようだが、とても使われてるとは思えないくらい整備がなされていない。

その後、バスを降りた幹線道路まで戻り、そこでキト行きのバスに乗る。

Royal Flowerと看板に書かれたビニールハウス地帯をまた通ってキトに戻る。

2時間ほどして、キトの郊外に戻ってくる。この後は、Mitad del Mundという北・南緯ゼロ度=まさしく赤道直下を材料に観光開発されたところに行こうと思っていたので、キトの中心部に戻る手前でバスを乗り換える。

反対車線からフロントガラスのところに大きくMitad del Mundと書かれたバスが何本も来ていたので、それに乗る。

さすが観光大国とも言うべきか。Mitad del Mundに向かう途中にはある間隔おきにMitad del Mundの方角を指し示す小さな看板が道ばたに設置されている。どうせならそこまでの距離も書いていてほしいものだが、基本的には方向のみ示している。

バスは緑が薄い山を右手に見ながら走る。バスを乗り換えてから30分ほどした頃、バスが左に曲がると正面奥にそれらしきモニュメントが見える。長方形の台座に地球をかたどったモニュメントが乗っかっている。

300mほど手前でぼくはバスを降り、歩いてモニュメントの方に向かう。正面から太陽が照りつけ、まぶしい。

近づくに連れ、なるほどでかいものだということがよりよくわかってくる。これじゃあ、作り直しなんてなかなかできるものじゃないな、とも。

モニュメントまで100mくらいのところまで来ると、そこから先はテーマパークみたいな敷地になっていて、駐車場があり、仕切がある。適当に歩いて入れたので、すたすたと入る。後に施設を出るときに入場料が必要だったようだと気づいたが、すでに時遅し。

敷地内にはフランスのジオグラフィック館みたいなものやプラネタリウムの他、さっきまで行ってたオタバロのポンチョ広場に売ってたようなセーターやパーカーなどを売っている土産物屋、食堂などがある。

平日ともあってか観光客はほとんどいないため、閑散としている。

モニュメントのしたまで来て、縦長の長方形の台座が東西南北を示していることがわかる。各面に方角を示す文字が書かれていて、東と西の面を下から見上げていくとてっぺんにある地球儀の赤道に部分につながるようになっている。地面には赤ではなく黄色で、ここが赤道(?)とわかるようにラインがひかれており、これをまたいで行ったり来たりすることで、北半球と南半球を何回も往復した気分になれるはずだった。

”はずだった”、と書いたのは、実はここは赤道ではないから。『ロンリープラネット』によるとGPSの機械で調べたところ、本物の赤道より240m南にずれていることがわかったらしい。まぁ、それでも宇宙から見ればほとんど違わないでしょうが。

ここで久しぶりに出会ったのが、ホセ・マルティの像。中米・カリブ海の国ではたいていの国にホセ・マルティの名を冠した広場や通りなどがあったが、南米に来てからは初。パナマでは見なかったような。

モニュメントは見てもたいして面白くなかったが、この後、行った本物の赤道直下にあるミュージアムはなかなか面白かった。

そのミュージアムはモニュメントがある敷地の北側の外壁に接してあって、こちらは建物やモニュメントを見せる施設ではなく、一見は植物園的な様相をしている。

モニュメントがある敷地を出て、幹線道路沿いを北に少し歩くと左手に手作りの看板があり、その看板の指示に従って細い土の道を歩き、小さな木製の吊り橋を渡るとそこが博物館になっている。

サボテンなどの熱帯性の植物がところ狭しと植えられていて、椰子の葉葺きの民家みたいなものも見える。入場料は2米ドル。

吊り橋を渡ったら若いスタッフの人が声をかけてきて、案内するからちょっと待っててと言われる。ヨーロピアンらしき若い旅行客6人組くらいがすでに来ていて、本物の赤道直下で記念写真を撮ったりしてはしゃいでいる。

あたりを見回していると、ハチドリのような嘴の長い鳥やその他の小鳥があちこち飛んでいるのが見える。

若い女性のスタッフが、名前を告げ、ガイドをするがスペイン語がいいか、英語がいいか聞かれる。英語でお願いし、まずはこっちにと、本物の赤道直下のところに連れて行かれる。そこには石でできた作りものがあって、これはインディヘナの人たちが使っていた日時計だと言う。この石に映る影の出来具合で、時(とき)を知ることができるらしい。

その説明のあと、赤道のラインが地面に書かれているところに少し移動してそこである実験を見せてくれるという。そこには持ち歩けるステンレス製のシンク(台所の水受け?)があって、まずはそれを赤道上に置き、流し口に栓をし、バケツに入れてあった水を流し込み、シンクに大量の水がたまっている状態をつくる。それからシンクの下に出てきた水をためるため、そのバケツを置き、栓を抜く。

当然、水は流し口の穴から下へ流れ落ちるのだが、その際の様子が普通と違う。普通であれば渦ができ、ぐるぐるまわるように穴に吸い込まれていくのに、それがない。

それを見た後、同じ事を北半球と南半球で、それぞれやる。すると北半球では半時計まわり(だったような)に、南半球では時計回り(だったような)に渦ができる。地球の自転の影響でこうなるらしいが、こうやった実験ができるのも赤道直下ならでは。おもしろい。

それから赤道直下では卵を縦に立てやすくなると言って、下向きに打ち込まれている釘の皿の部分(小槌などでうちつける平たい部分)に卵を立てる実験をやらせてくれる。

ぼくの前にやっていた人は、なかなか立てることができないようで、ぼくが後ろで待っていると諦めてゆずってくれた。釘と卵との接触点を確認しながら、卵の重心がまっすぐになるよう調整しながら置くとすんなり卵が、釘のあの平たい部分に縦に立った。時間にすれば1分ほど。ガイドのお姉さんは、”おおっ、グレイト”とほめてくれる。まぁ、こんなもん、たいしたことはないですよ、と思いながら、ぼくの前に試行錯誤していた彼をちらりと見る。

それから場所を移動して、インディヘナの人たちが実際に住んでいたという移築した民家を見せてくれる。壁は土壁で彼女はストローと言っていたが、藁のようなものが混ぜこまれている。

中ではフイという大型のネズミが飼われていて、これをインディヘナの人たちは食べるらしい。彼女に食べたことがあるか聞いたところ、"Yes,it's nice."とのこと。キトで食べられるか聞いたら、キトではあまりポピュラーではないらしい。ただ、この辺の食堂に行けば食べられるという。

その後、エクアドルのアマゾンに住む人の住居を復元したものや木製の機織り機で織物を作っている様子などを見せてくれる。またアマゾンの人たちが使っていた(いる?)吹き矢も実際に使わせてくれる。

最後には卵を立てることができたからと、それを記念する証書みたいなのをくれた。

聞くとここは民間団体がやっているミュージアムだという。モニュメントよりもこちらの方が断然おもしろい。

夕方になったのでバスに乗って帰る。バスに乗ってから、あっ、フイ(ネズミ)を食べるのを忘れたとふいに思い出す。

来た道をバスは戻り、1時間ほどたった頃、大聖堂などが見えてきてキトが近くなっていることがわかる。

てっきりぼくはバスターミナルに止まるのだろうと思っていたら、いつのまに大聖堂などキトの町並みが見えなくなり、Mitad del Mundに行くときに通った道をバスは走っている。

どうも、さっき乗客がごそごそ降りたところで、降りる必要があったよう。トロリーバスの乗り場のようなものが見えたから、そこで市街地に入るバスに乗り換えるべきだったようだ。

バスはすでにキトをUターンして、Mitad del Mundにまた向かっているようだったので、また、適当にバスを降り、反対車線を走ってきたキトのバスターミナルに行くバスに乗り換える。

日はもうだいぶ傾いていて、しばらくすると完全に日が落ちる。相変わらずキトの町中に近いところは渋滞していて、なかなかバスは進まない。車内のブラウン管のテレビでは、ハリウッド映画のDVDなのだろう、派手な銃撃戦や爆発シーンが多用されたやかましいアクション映画を上映している。

外を見ると、街灯や家々の明かりがともり、キトの夜景が見える。

結局、19時半頃ターミナルに着く。歩いて宿に帰り、おしまい。

2008年4月21日月曜日

マチャラいり

エクアドルの太平洋側も見たくて、クエンカに2泊ご、今朝、太平洋側のまチャラに移動してきました。

いま、午前11時半です。ぷよよりも暑いです。
気温36度しつど70% ってところです。

明日午前11時発のバスでペルーのピウラ(Piura)に向かいます。約6時間のたびの予定です。

では。


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2008.4.20
Machala,Equador

2008年4月20日日曜日

キトの平日、旧市街と新市街を少し

2008.4.14(月)

・アビアンカでチケットキャンセル
・ネットのマンダリン
・交差点でジャグリング(再)
・きれいな中央市場

昨日は週末のキトをちらりと見たので、今日は平日のキトを見てみることにする。

なので、朝はのんびり。と言っても、やはりやや冷えたこともあり、6時過ぎに起きる。外は曇り空。今日も雨が降りそう。

10時頃まで宿にいて、外に出る。まずはアビアンカ航空にパナマへの戻りのチケットのキャンセルをしに行く。往復チケットで買ったので、あまり期待できないが、もしかしたらたまたま勘違いで払い戻しもあるかもしれないとわずかな希望を抱いて。

アビアンカ航空のオフィスの場所がわからなかったので、まずは宿が面している広場近くにあるツーリストインフォメーションで聞く。スペイン語で聞いたらスペイン語であれこれと言われ、わからずにいると、英語に切り替え説明してくれる。

どうもはっきりと住所を知っているわけではなく、新市街のトラベルエージェントが集まっているある通りに行けば見つかるだろうということだった。それを信じ、適当にその通りに行きそうなバスに乗る。

通りすぎる通りの名前を確認しながら、コロン(コロンブス)通りに来たところで降りる。目的の通りはAv. Amazonas。つまりアマゾン通り。バスから降りて10分ほどでその通りに入る。確かにトラベルエージェントがたくさんある。エクアドルのアマゾンに行く人はここらでツアーを申し込んでいくよう。

通りを歩いてもそれらしきオフィスが見あたらない。しょうがないので、トラベルエージェントの人に聞く。親切にも電話帳で調べてくれ、もっと向こうの方だと教えてくれる。

教えてもらった方向に歩いていく。途中、病院の前を通る。病院の周りには、例のゆでた豆やトウキビなど売っている人たちがいる。

さっき教えてもらった通りにぶつかる。右に行こうか左に行こうか迷い、まずは右に行く。だが、それらしき建物はない。歩道で話し込んでいた警官に聞いても、ここらにはないという。

来た道を戻って、さっきの交差点を今度は左に行く。探すよりも聞いた方が早いかと思い、国内線のオフィスがあったので、そこで聞く。するともっと先を左だという。たぶんのその人は丁寧に教えてくれているのだが、こちらのスペイン語が不十分なので、全体のたぶん2割くらいの情報しかつかめていない。

なので、また迷うことになる。左というのは聞き取れたから、ここを左かと思って曲がってみるが見つからない。そこでまた警官がいたので、その人に聞くと、さっき歩いていた通りを横断して向こうだと言っているよう。

また、来た道に戻り、警官が指さしていた方向に大通りを渡り、細い道に入って左手にあったブティックショップの人に聞く。店の入り口横のガラスを拭いていたおばさんは、よくわからないと言って、あっちのセニョーラは何でも知ってるから、あの人に聞いてと、路上で路駐の整理をしていたおばさんを指さす。

そのおばさんの方に言って聞くと、ちょうどコーヒータイムをしていたようで、紙コップでコーヒーをすすりながら、あの建物とすぐ正面に見えていたガラスばり20階建てほどビルを指さす。

なんか住所の通りと違うんだけどなぁ、と思いつつ、あのビルなら入ってそうだしと思い、ビルに続く坂道を上る。50mほど歩いたところで、何度も後ろからピーっという口笛が聞こえてくるので、振り返る。すると、さっきのおばさんがこっちを向いて、こっちに来いと手招きする。

何だろうと思って駆け降りていくと、あそこはなんとかだったと言って、こっちと言ってさっき歩いていた大通り沿いに出る。どうもおばさんは勘違いしていたようだ。大通りに出て、先の方を指さす。ぼくにはアビアンカの目印である赤い看板が見えないが、おばさんはあそこにある、わかるでしょ、って感じでさかんに言う。

方向はわかったので、とりあえず指さしてた方向に歩く。しかし、看板が見えないので、今度はクリーニング屋のおばさんに聞く。パンを食べているところ悪いなと思いつつ聞くと、さっきぼくが左に曲がったところを曲がらずにまっすぐ行くように言われる。

そうしてやっとこさアビアンカを発見。大通りに面してちゃんと赤い看板にAviancaとあった。オフィスに入り、開いていた右端の窓口でキャンセルの旨を伝える。最初はスペイン語で、それから英語で。相手は乗る日を変えるのだと思ったようで、50ドルの手数料がかかるがいいかと聞いてくる。違う違う、ちがう、そうじゃないと言って、乗らないのだと伝えると、何度も確認され、ようやくキャンセルの手続きをしてくれる。

窓口の女性は手続きをして、これで終わりと言うのだが、狙っていた返金がない。念のため、返金はないのかと聞くと、苦笑いしながらないと言われる。

100ドルでも返ってきたらという甘い期待は、予想通り裏切られ、オフィスを出た後、道端でさっき交差点で車相手にお菓子を売っていた人から買った洋菓子を食べながら、しばらく黄昏る。

それから旧市街に戻るかと歩き出す。ここでも交差点は商売の場となっていて、赤信号で止まった車を物売りの人たちが歩いてまわる。これまでもこうした光景は幾度となく見てきたが、ここで初めて目にした売り物があった。

それはネットに入ったみかん。これまで柑橘類というと夏みかんのように大きいものか、小さいものでもポンカンのようなものばかりだった。だが、ここの路上で売っていたのは、日本でよく売られているようにあのオレンジ色のネットに縦にきれいに詰められて売っている。大きさも日本でいっぱんにみかんと呼んでいるものとほぼ同じかやや小さい。

民族服を着たおじさんが交差点で売っていたので、声をかける。”マンダリン”と言って、ネットに入ったみかんを見せてくれる。買ってみたところ、10個(玉?)入って1米ドル。安くはない。ついでに別の民族服を着たおばちゃんからも1袋(網?)買う。こちらも1米ドル。それを見て、若いにいちゃんが袋に5個入りのリンゴを売りに来たが、リンゴはパス。

近くにトロリーバスの乗り場があったので、それに乗って旧市街に戻ることにする。トロリーバスの乗り場は路面電車の駅のように通りの真ん中にあって、さらに入り口と出口があり、どこからでも入れるという構造にはなっていない。

ぼくは近かったこともあり、バー式の回転扉のところから入ろうとする。普通に歩くスピードのままでその回転扉を押して入ろうとしたら、扉が動かずくちゃっとなる。あれっと思ったら反対側からこの扉に入ろうとしていたおじさんが、ここは出口だと教えてくれる。

どうも片一方からしか入れない構造になっていたようで、しょうがないのでわざわざ反対側まで歩く。まったく面倒くさい。そちらの入り口には係員がいて、1米ドル出すと両替してくれて、25センターボを機械に入れると回転バーがまわるようになっていた。これは効率がいいのか悪いのか。

バスはずっと満員状態。鮨詰め状態まではいかないが、一目見ただけでは乗る隙間がないというくらい。乗って外を
見ていたら、ある交差点で止まったとき、隣の車線で止まっている車の前で、さっき買ったようなみかんを3つ使ってジャグリングしている男の子がいる。見たところ体格からすると12歳前後。

その後ろでは別の少年が、左手に水(もしかしたら洗剤も)が入ったボトル、右手にお手製のワイパーのような道具を持って、止まっている車のフロントガラスを掃除している。交差点で信号待ちをしている車のフロントガラスを掃除する人はメキシコで初めて見て以降、エルサルバドルなどところどころの国でも見た。それぞれの国で誰かが思いついてこの商売を始めたのか、それともそういうことをしている人がいるということを聞いて始めたのか、国を隔てて同じ路上の仕事をしている人がいるというのも興味深い。

旧市街に戻り、お昼を過ぎていたので、メルカド(市場)に行くことにする。バスを降りたところで、博物館のような建物の警備をしていた人に行き方を教えてもらう。

メルカドの入り口ではマンゴーや豆などを売ってる人が5人ほどいた。

建物は一見立体駐車場かと思えるようなコンクリートの四角い建物で、わりと新しく見える。中に入ると3~4人は並んで歩けるような広い通路があり、整然と各店がしきりに隔てられて並んでいる。通路が広い点と建物が2階立てになっている点は、コスタリカのサンホセと違うが、そのきれいさと整然としている様は同じ感じだ。

野菜屋や肉屋の数よりも食堂の方が多い。野菜などの買い物客はほとんどいないが、食堂では多くの人が食事をしている。座席は各店共用のようで、ショッピングセンターのフードコーナーのように、店は調理場のみで、客は適当に空いている席に座って食べている。

肉を使った料理屋が多い中で、魚料理屋があったので、そこのを食べることにする。Cevicheという生のエビや貝などを使った酢の物(マリネ)を頼む。カマロン(エビ)か??(何かわからず)にするか聞かれ、わからない方を頼む。

テーブルに座ってまず出てきたのは、バナナチップとポップコーンが入った小さなカップだった。メキシコのトルティージャののような位置づけのよう。

15分も待たずにCeviche登場。何やら茶色い。中にはシジミのような貝が入っている。なぜ茶色いのか原因不明。海草のようにも見えるが、そうでないようにも見える。その後、すぐに白米が皿に盛られて出てきたので、それと一緒に食べる。塩気と酸っぱみは、まさしく酢の物という感じだが、醤油は使ってないだろうから、どういうふうに味付けをしているのか気になるところだ。

周りの人は、スープを飲んでいる人や焼いた鶏肉のプレートなどを食べている人が多い。

2階に上がると、穀類屋さんがあって、ショーケースには白いトウキビや黄色いトウキビ、マカロニなどが入っている。果物屋もあり、細長いスイカやマンゴー、メロン、クランベリー、ぶどう、青・赤りんご、パパイヤなどが売られている。目に付いたのはライチのような外見がトゲトゲしたものを売っていたこと。中身は未確認なので、何かはわからない。

2階にも食堂があり、初めて見る料理があったので、さっき食べたばかりなのに、その料理を頼む。料理の名前はPapas con Cuero。そのまま日本語にすると”ジャガイモと皮”という料理だ。出てきたのはシチューのような感じのもので、4つ切りの大きなジャガイモの上にゼラチン状のものが2枚とその上にマヨネーズのような色をしたタレがかけられている。

辛くはなく、味はやっぱりシチューに似ている。ゼラチン状のものは豚か何かの皮のようで、トロトロしていて、最初は珍しくて食えるが、後半はその感触がだんだんどぎつく感じるようになり、きびしくなる。

食べていると後ろにジュース屋があることに気づく。そちらを見ると、店の女の子が来て、何か飲むかと聞いてくる。何があるか聞くと、ナランハ(でかいみかん)とか聞いたことのある名前の中にMora(モーラ)という名前を言う。なんかすごそうな名前だなと思い、それを頼む。

すると、また何か聞いてくるが、何を聞かれているのかわからない。女の子はもう~っと言った感じで、何かを連呼する。その中で”バッソ”というのは聞き覚えがあったので、なんだっけと思いだし、コップであることを思い出す。

"Si, Vaso"と伝える。コップと何て言ってんだろうと首をかしげつつ、食事の続き。出てきたのは300mlは入りそうなコップに赤白い飲み物。Batido(シェイク)のようで、牛乳と混ぜられているよう。飲んでみるとなんか飲んだことあるような味。あとでわかったが、モーラはブラックベリーだった。

それからバッソと何かと言っていたのもわかった。どうも300mlほどのコップ入りと、花瓶のようなコップ(もはやコップではないが)入りの2種類があるようで、小さいコップは0.5ドルで、でかい方は1ドルとのことだった。周りを見ると、そのジョッキのような形をしているわけでもない花瓶のようなコップからストローで飲んでいる人もいるし、家族で分けて飲んでいる人もいた。見たところ1リットル近く入っている。なかなかやるなぁ。

腹も膨れたので、ぼつぼつ歩きながら帰る。平日とあって、昨日は閉まっていた店がことごとく開いている。居並ぶ店を見ていると、まさしくここはこの国の大都会で大商業地なのだなと実感する。面白い店と言えば、宿が面している広場の角にはペット屋のような店があって、そこではひよこが売られていた。将来の食用なのかどうかはわからない。

宿に戻り、終わっていない日記等の整理。

Fin

2008年4月18日金曜日

ぷよぷよ

ちょっと予定以上に長居したキトを出て、アマゾン川のまちプヨに来ました。キトからバスで5時間ちょっと。

暑いです。緑もいっぱい。

明日はまた北に向かって移動です。
では。


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2008.4.17
Puyo,Equador

2008年4月17日木曜日

キトでお休み+詐欺師登場

2008.4.13(日)

・豆、とうきび、じゃがいも
・ゲバラのための歌
・詐欺にあってみる

暑さで寝苦しくはなかったものの、寒くて朝目覚める。6時。外は静かだ。

あいにく空は曇り空。

違うまちに来て、初日ということで出歩きたい気もするが、日記がたまっていたため、今日はそれに当てることにする。

朝起きて、トイレに行こうと部屋を出る。部屋の鍵はそれぞれ旅行者が持参した自分の南京錠でかけることになっている。わずかの時間だが、もしもがあるからと、一旦部屋を出ていたが、南京錠を取りに戻り、鍵を閉めてからトイレに行く。

トイレから戻ってきて部屋のドアでハタと気づく。閉めるための鍵は持って出て、しっかり鍵をしたが、開けるための鍵を持って出なかった。これグアテマラシティの宿のように、ネジを抜けば扉を開けることができるドアだったら良かったのだが、幸か不幸かここの度は鉄板でできており、南京錠をかけている鉄の輪は溶接でドアと完全に一体化している。

窓から入ろうかと思うが、ベランダもなかったし、それにそのためには隣の人を起こさないといけない。

とりあえずはフロントに行く。フロントの人は基本的にスペイン語オンリー。最初、ぼくが言っていることがよくわからないようだったが(単語を並べただけだから当然)、やがて気づき、おおっ、困った顔をする。

そして、フロントの台の引き出しを開け、たくさんの鍵が付いたわっかを取り出し、部屋に行こうと言う。何かと思ったら、100はありそうな大量の鍵の中から、ぼくの南京錠に会う鍵を探し出し、それで開けようというのだ。

ぼくは、おーっと、これは旧ソ連的だと、大学の時ロシアの授業で見せられた旧ソ連時代の映画を思い出す。

その映画は非常に風刺に富んだ映画で、主人公の男がモスクワでさんざんウォッカを飲んでべろんべろんに飲んだ後、タクシーか何かで帰ることになった。しかし、どういう理由だったか忘れたが、言葉が似ているか何かで飛行機に乗ってしまい、違うまちに着く。主人公は酔っぱらったままで、自分がどこをどう移動しているか、つまり飛行機に乗ったことも気づかない。

それで飛行場からタクシーに乗って、運転手に自分の住んでいるアパートの通りと名前を告げる。運転手は言われたとおりにその通りのそのアパートに連れていく。主人公はタクシーを降り、自分の部屋まで上がり、自分の部屋番号の書かれてあるドアに家の鍵を差し込む。

かギはすんなり開いて、主人公は次の日の朝までそこで寝る。次の日、そこの本当の宿主が帰ってきて、顔を合わせた主人公と宿主はお互いにお前は誰だと言い合う。住所を確認しても部屋番号を確認しても、鍵も同じ。

最終的には、部屋の中身かなんかで主人公がおかしいと気づき、帰るのだが、旧ソ連下ではどこのまちにも、例えばレーニン通りがあり、建っているアパートもどこも同じ格好で同じ高さに見えるのが多かった。アパートの鍵も同じ棟の別々の部屋が実は同じ鍵だったということもあったらしく、そのようなことがこの風刺映画の背景になっていた(映画の細かいところは間違っていると思うが)。

その映画とはまったくシチュエーションは違うけれども、同じ鍵を探すなんて発想はなかった。というより、そんなものを宿の人が持っていると思わなかった。

一つ目、宿主のおじさんは鍵穴と同じくらいのサイズの鍵を取り出し、差し込み回す。簡単にまわらず、おじさんは何度も気合いを入れて鍵穴を回そうとする。いやいや、力を入れないと開かない鍵ってあまりないでしょ、と思いながら、いやここは外国だからそういう鍵が普通なのかもしれないと思い直す。

しかし、結局、開かず。これは捜し当てるまでにそうとう時間がかかるし、この中になかったら本当にどうするかなと思っていたところへの、二本目。スパッと鍵穴が動き、南京錠が外れる。すばらしい。

宿主のおじさんは、”Si"とにこっとして去っていく。まるで何事もなかったかのように。

やれやれ、まだまだパナマからの悪いこと(単なる不注意だが)が続いている。

9時、息抜きに外に出る。朝飯を食う場所を探すが、さらっと歩いたところ、きれいな店ばかりであまり面白そうな店がない。

しょうがないので広場に面した客がけっこう入っている店に入る。キトも鶏肉を扱っている店が多い。ここの店頭には鳥が丸ごと串刺しにされて炭火がたかれているオーブンの中をぐるぐるまわっている。

料理は平均すると3ドル程度ものが多い。値段は料理名とともに壁に貼られていて、その中から1.6米ドルのスープを頼む。

ちなみにエクアドルもパナマと同じく紙幣はすべて米ドル。硬貨は米ドルとエクアドル独自のものがごっちゃになっている。だから、日曜に来ても両替する必要がないので楽だ。

出てきたスープは澄んだ色をしてて、その中に鶏の足が入っていた。モモではないあの黄色い鱗模様の足だ。爪はさすがにない。他に入っているのが砂肝とどこかよくわからない部分。

つまり丸焼きにするときに除かれた部分を使ってスープとして出しているようだった。ジャガイモなども入っており、味もあっさりとしていてうまい。足は皮しか食べるところがないので、皮をかじる。

あとあまり肉のついていない、どこかの部分をかじっていたら、黒い縁にゼラチン状の薄い膜のものが、スープの上に落ちた。一瞬何かと思ったが、すぐに目であることがわかる。どうもかじっていたのは頭のよう。皮も何もついてなかたのでよくわからなかったが、改めてみると頭蓋骨のような形をしている。魚の目は食べるけど、鶏のはなぁ、と勝手なことを思いながら、別の皿に取り出す。それにしてもここまで徹底して使っているとは天晴れだ。

ちょっと歩いてみると、日曜と言うことでか、人通りは多い。しかし、店は軒並み休み。食堂くらいしか開いていない。

途中、大きなかごを持ったおばさんから何か買っている人を見る。気になるので寄っていって見ると、おばさんはふかしたジャガイモ売っていた。通りにはトルコのタコスのような屋台は一切なく、物売りしている人も少ない。他のように道端で食事はしないのか、と思っていたが、こうしてかごに入れて売っているよう。おばさんは歩きながら売っており、上には布がかかっているからすぐにはわからない。

一旦宿に戻る。宿の入り口まで来たとき、手前の通りの車の陰にかごをもったおばさんとおばあちゃんを発見。おばあちゃんが持っているものを買う。ゴルフボールくらいの蒸かしたジャガイモと湯がいた大豆、それに豚の皮らしいものを持っていて一つ頼むとはがきサイズくらいのビニール袋にそれぞれを入れ、「Aji(アヒ:唐辛子)?」とぼくに聞いた上で、チリソースを上からかけ、渡される。スペイン語でそれぞれの名前を聞くが、50センターボ(0.5米ドル)と言うだけで伝わっていないよう。

もう一人、小さい3歳くらいの女の子を連れたおばさんは、似ているがまたちょっと違うものを売っていたのでそれを買う。こちらは揚げたバナナチップにトウキビの実と大豆、それにトマトや香菜などで作ったサラダ。おばあさんと同じように小さなビニール袋にそれらを詰め、50センターボ。

それを持って部屋に帰る。部屋に帰って上から売れているかなと、おばあさんの様子を見るとおばさんは車の横で広場の方を見ながらかがんでいる。何をしているのだろうと思っていたら、おばあさんの視線の先には車でパトロールしている警察がいた。

おばあさんたちが、かごを持って立っていたところは、通りの入り口から車が邪魔になって見えにくく、なんでこんな一目の付かないところで商売しているのだろうと思っていたが、どうやらそれは警察の目から逃れるためだったようだ。警察の動きを見ながら、車の陰に隠れようとするおばあさんを上から見ていると、本人には悪いけどなんだか微笑ましい。

また、飽きた頃に外に出てうろうろする。たまたま入ったところは外から見たときはわからなかったが、狭いアーケード街に靴屋と服屋がびっしりと詰まっている通りだった。これこそ他で言う市場の雰囲気。サンフランシスコ広場のすぐ近くで、こんなところがあるとはと驚く。その狭いところを抜けるとショッピングセンターがあった。が、中の店は休み。ここも人があふれ賑わっている。

適当に歩いていたら音楽が聞こえてきたので、音のする方へ行く。聞こえてくる歌は聞き覚えがある歌。なんだっけな、と思っていたら、サビの部分にかかったところでビリージョエルの(たぶん)ピアノマンという歌であることがわかる。スペイン語で歌っており、曲も少しアレンジされているが、サビの部分はあまり変わりない。

昨日、お菓子を買った広場にはテントが張られ、その前で白い衣装を着た8人構成(だったか)のグループが演奏している。年齢層は高い。一言で言えばおじさん。

広場に面してある大聖堂(カテドラル)の階段が、即席の客席になっており、そこに200人くらい座っており、周りを含めるとけっこうな人だかりができている。幸い、みんなそんなに背が高くないので、ぼくの身長でも歌っている人の顔が見える。

アンデス系の人。ギターやドラムの他にマラカス、ケーナを持った人がいる。メキシコのグアダラハラに行ったときにも着いたその日にコンサートが行われており、しかもそのグループはメキシコで超人気グループだった。

ここでももしや同じことが合ってるのかもしれないと思い、しばし聞く。「コンドルは飛んでいく」のようにゆったりとしたメロディではなく、どちらかと言えば早いリズムの曲が多い。歌がなく、楽器の演奏だけという曲も。

聞き初めて3曲目だっただろうか、今度はゆっくりしたメロディの歌だった。有名な歌らしく口ずさんでいる人もけっこういる。段々曲が盛り上がってきて最後のサビの部分、聞こえてきた言葉は、「コーマンダンテ、チェ ゲバ~ラ」だった。
ゲバラに捧げる歌があることは知っていたが、実際に聞いたのは初めて。一緒に歌っているしわしわのおじいさんやおばさんを見て、ゲバラがそうとう根付いているのだな、と改めて感じる。

その次の歌がラストの予定だったらしく、曲の最後にメインボーカルの人はいろいろ礼らしきことを行った後、最後に”Viva Latin America"と言って締めくくる。

が、「オートラ、オートラ(もう1曲:言葉の意味としては別の、他の”という意味)」とう観客のアンコールに応えて2曲続けてアンコール演奏。どれもみな知っている歌らしく口ずさんでいる人が多い。また、演奏者の前にできているスペースではおばさんや小さな女の子が出てきて踊り出す。腰の曲がったがりがりのおじいさんも出てきて踊りだし、それを見て、ぼくの後ろにいたおばさんは一緒に来ていた人と微笑み合う。

ステージはなく、テントの前の路上での演奏だったこともあってか、終わってから演奏者に握手を求めている人もいる。ぼくは司会をしていた女性にグループの名前を聞く。グループの名前はHUIPALA(ウイパラ)と言うらしい。

ぼくはいやいや良かったと”コーマンダンテ チェ ゲバ~ラ”
のフレーズを口ずさみながら宿に戻る。

宿に帰ってもぞもぞしていると、ドアを叩く音がする。何かと思い、出ると髭ずらのヨーロッパ系の男の人が立っている。そして、ぼくの隣の人を訪ねて来たんだが、いなくて困っているという。彼が言うには荷物を全部盗まれて、これから空港から変えるのだが、エアポートタックスの料金40米ドルが足りず、それを借りに隣の人のところに来たらしい。

隣の部屋の人は彼の友達で、その友達が書いたらしい宿の住所と部屋番号、名前を書いたメモを見せる。それから、ぼくに彼から返してもらうように言うから、今、40ドルを貸してくれないかと言う。

はい、きたー、これが噂の盗難されました詐欺か。と、思い、そんなカネはないと断る。ちなみにやりとりは英語。しかし、断ってしまっては、この人が本当に詐欺かどうかはわからない。どんな展開になるか一度経験するのも面白いなと思い直す。

断ると、彼はプリーズなどと懇願してくる。そして、紙に隣の人へのメッセージを書くから、これを渡してと筆記体の英語でさらさらと隣の日本人に40ドル借りたから返しておいてくれと書き、最後に自分のサインをする。

ぼくは隣の人の名前を知らなかったので、フロントに行って彼が言っている人の名前があっているか確認する。宿帳に書かれた文字は彼が持っているメモの字と同じ。どうやら知り合いということは間違いないらしい。

しかし、怪しいのはカネの貸し借りができるほどの友人と同じ宿に泊まっていないことだ。旅行者が、カネの貸し借りができる友人というなら、同国人の古い友人しかありえない。旅先で会った人にカネを借りることもありえるが、その場合は貸す側からすれば基本的に返ってこないことを想定しなければいけない。

それにもし借りに隣の人が友人だとしても、その隣の人がそんな人知らないと言ってしまえば、ぼくにカネは戻ってこないことになる。

しかし、どうなるか気になるので、返ってこないだろうなと思いながら30ドル渡す。20ドルは完全に捨て金で10ドルはもしかしたら戻ってくるかもという希望的観測によるカネだった。

彼は空港から宿に電話するからと言って、階段を下りていく。彼を見送った後で、どうせならパスポートを見せてもらい、かつデジカメでビデオメッセージを撮っておけば良かったと思うが、時すでに遅し。

夜、隣のドアが開く音を聞いて、訪ねる。隣は初めて顔を合わせたが、ヨーロッパ系の若い男の人だった。彼のメモを見せると、Thank youと言って、なんだかスムーズにいく。おお、これは詐欺じゃなかったんだと思ったのも束の間、彼はそのメモをじっくり読むと、どういうことかよくわからないと言い出す。

それで事の次第を話すと、"Oh,God"と両手を頭にやって”I can't believe this.”と言う。友達じゃないのかと聞くと、広場に面したネットカフェで会ったことがあるだけだという。そして、ちょっと彼とのことをぼくに話さないといけないと言って語り出す。

彼の話では、ネットカフェでそいつに会ったとき、そいつはコロンビアで荷物を盗られ、週末をしのぐカネががないから20ドル貸してくれと言ってきたらしい。そして、月曜日になればカードでカネがおろせるからと。それで、そのとき彼はそいつに20米ドル渡した。月曜日の夕方16時にこの宿にカネを返しに来るよう言っていた。しかし、彼はその日、この宿には現れなかったと言う。そのときはオーストラリア人を名乗っていたらしい。ちなみに、今回はドイツ人。

これで完全に詐欺師だということが判明。彼はメモに書かれていた詐欺師のメールアドレスに、自分が怒っている旨などを書いて送ると言う。でも、おそらくこのメールアドレスは存在しないだろうとも。

彼は宿のパソコンでメールを送った後、こんなことで時間とカネをロスして本当に頭にくる、と言う。そして、これはお互いにとって人を信じるための人生のレッスンだとも。

まぁ、予想はしていたとは言え、やっぱり10米ドルにしておけば良かったとちょっと後悔。でも、まぁ、おもしろい。

この構造が面白いのは、詐欺師は金持ち旅行者ではなく、カネをあまり持っていないバックパッカーを狙っているということ。どうせなら金持ち旅行者を狙えばいいのに、少しのカネで好奇心と人によっては何らかの問題意識を持って旅行しているバックパッカーを狙う。カネがない人の方が、人が良かったりするから、彼のように困っている人がいれば手を差し伸べることを厭わない人がはまると易々とカネを手中にすることができる。

まぁ、もっとも、ネットカフェで話しかけて話に乗るのは、そもそも若いバックパッカーくらいしかいないかもしれないけれども。

朝の鍵の件といい、今回の詐欺といい、まだまだだな。

2008.4.16
キトよりアップ

パナマシティ→ボゴタ→キトへ

2008.4.12(土)

・リュックの重さを勘違いしていたカラクリ
・ボゴタでチョコ
・予想外にでかかったキト

今日はキトへ移動日。安いということでコロンビアのボゴタ経由の飛行機にした。ボゴタ行きの飛行機は12時発予定。3時間前に空港に行ってと言われていたため9時には着かないといけない。

今朝も寝苦しいのは変わらず。6時頃おきる。荷造りをする。昨日、ぼくの上のベッドに入った人の荷物が邪魔で持ち出すのに苦労する。

空港まではタクシーで1時間もかからないから朝飯を食ってからという手もあったが、早く空港に行ってのんびりすることにする。

7時前にチェックアウトする。ホテルの前のVia Arsentina通りにはタクシーの運転手が3人でおしゃべりをしていて、ぼくに気づくと”タクシー?”と声をかけてくる。

いくらか聞くと20米ドルと言う。この間、別の運転手に聞いたときは16~20ドルという話だったので、20米ドルは拒否して15米ドルでどうかと聞く。すると、”ベインテ(20)”と譲ろうとしない。じゃあ、別のタクシーにしようと思い、歩き始めると3人のうちの一人の人が、15でいいと言い出した。なので、15でお願いする。

空港まではバスもあるので、昨日もバスで行くか迷っていたのだが、しばしば満員であることと、バスの通路がせまいことと、渋滞や客を乗せるためにしばしば止まるので遅いという3つのことがあり、やめた。バスだったら0.25ドルで行けるのだが、運が悪いと2時間もかかるというので、ちょっと高いがタクシーにした。一人だとこういうのにカネがかかる。

タクシーは快調にとばす。案の定、土曜日の早朝にも関わらず、空港行きのバスは満員。タクシーはバスを4~5台追い抜いていく。ちょうど正面に太陽が昇ったばかりでまぶしい。

30分足らずで空港に到着。7時30分にもなっていないから、さすがにまだチェックインできない。

2階の食堂でパンを一つ買い(0.65)、昨日買った水とで朝食。9時までそこで過ごす。

9時になったので、1階の出発ロビーに降り、チェックイン準備。すでにカウンター前には客が20人ほど並んでいる。チェックインの列に並ぶ前に、荷物のチェックがある。リュックを手荷物用の小型リュックを開けて見せる。検査官の男性は、小型リュックを持ち上げて重すぎる(重量オーバー)というようなことを言うが、こっちはわからないふりをする。そこで、預ける荷物用のタグをもらい、並んでいる間にそのタグに名前などを書く。

さて、心配は荷物の重さ。チケットを買ったとき、窓口の女性は預ける荷物の上限は30kg、手荷物は10kgと言っていた。そして、それを越えるとペナルティがあるとも。

ただ、これまではそんなことは一度もなかった。しかも、どこのチェックインターの秤も30kg以下を示していた。だから、ぼくは自分の荷物は30kg程度と思っていたのだが、30kgにしては重すぎると思っていた。実際の重さがわかったのは、サンサルバドルのバスターミナルで計ったときのこと。68kgと出て、やっと感覚と数字が一致した。

さっきアメリカン航空だったかのチェックインカウンター近くを歩いたときにはも50kg以上だと50ドルくらいの追加料金が発生するという立て看板があった。だから、それくらいかかるかもしれないとは予想できた。

それでも、手荷物についてはこれまで重さを測ったことはないから大丈夫だろうと、手荷物のリュックに本をだいぶ移し、大きなリュックを軽くしていたのだが、さっきの検査官は重いなんて言う。だから、もしや検査があるかもしれないと思い、10kg以内くらいになるよう、再度本をでかいリュックに移す。

前に並んでいる人たちを見ると、たいていの人がボストンバックを持っていて、確実に30kg越えしていると思える人たちばかり。なので、その人たちをまずは観察。見ていると、チェックインカウンター横の秤に荷物を乗せ、30kgを越えるとやっぱりお金を払ったりしている。

いやいやこれは参った。ぼくのリュックはおそらく上限の重さのダブルスコアだから、けっこうカネをとられるかもしれない。そうなったら本をここで捨てるのかなとも考えた。

自分の番になり、チェックインカウンターの職員にチケットとパスポートを渡す。職員は秤に預ける荷物を載せるよう言う。その声に促され、リュックを乗せようと持ち上げたとき、わかった。なぜぼくの荷物がこれまで30kg以下と表示されていたのかということが。

原因は秤の枠だった。チェックインターの秤は一般的な体重計とは違って、固定された四角い枠に囲まれている。たいていの荷物(キャスターが付いたバッグやスーツケース)は立てた状態で秤に乗せるから荷物は枠にかからない。

それがリュックの場合、そもそも寝転がってしまう構造になっているから寝かした状態で秤に載ることになる。小さいリュックであれば外枠にかかることはないが、幸いなことに、ぼくのリュックの場合、70リットルと大型のためリュックが秤の四角からはみ出て外枠にかかってしまう。

つまり、外枠にかかっている重さが減殺されて、30kg以下と表示されるわけだ。それに気づいたぼくは、できるだけ外枠にかかるように、荷物をおいた。その結果、ここでの表示は26kgだった。おかげで心配していたことは起こらず。

これには、チェックインカウンターの職員が自分で荷物を持つことがないということも一つの要因になっているだろう。たいてい、チェックインカウンターで対応をしているのは女性で、その人は電光掲示される数値をみるだけで、荷物をラインに乗せるのは別の男性職員だったりする。荷物をラインに乗せる人は表示された荷物の重さをいちいち確認することはない。

もし、チェックインカウンターの職員がベルトコンベアーのラインに乗せる体制になっていれば、毎日の仕事の中で、上限の重さの感覚を体で覚えてしまうだろう。そうなれば、表示された数値と自分が持ち上げたときの感覚とが違っているとわかるだろうが、実際はそれぞれがそれぞれの仕事をしているだけなので、それに気づかない。まぁ、ぼくにとってはありがたいばかりだけど。

そうして無事、チェックインを済まし、今度は手荷物検査と出国審査。手荷物検査を待つ列に並ぶ。自分の番がもうすぐまわってくるというときに、ペットボトルの水が残っていた事に気づく。後ろの人に順番を譲り、ぼくは列の脇で残っていた水を飲み干す。のどが渇いているわけでもないのに、500mlくらい残っていたから、ちと苦しくなる。

それから出国審査。たいした質問もなく、すんなり通過。

出発までの間にDuty free shopでカメラの買いもの。市内のショッピングモールには売っていなかったが、ここにはなくしたものと同じものが売っていたので、購入。日本で買った方がかなり安いが、致し方ない。だが、1年間の国際保証付きというのはこれからも旅が続くのでありがたい。

予定通りの時間に搭乗がはじまる。チケットを見るとぼくの座席は15A。Aということは窓際だ。ラッキーと思いながら乗り込むと、ちょうど緊急脱出用の扉のところの席だった。その席だけは他の席よりも前の席との感覚が広く、足をゆったりとのばすことができる。

これまたラッキーと思っていたら、添乗員の男性が、スペイン語で、スペイン語を完璧に話せるか、とぼくに聞いてきた。スペイン語を話せるかということなら、これまで何度も聞かれたし、普通の質問なので何とも思わないが、なぜか彼は”完璧に”という言葉を付けて聞いてきた。

なんでそんなことを聞くのだろうと不思議に思っていたら、何かまたスペイン語で言い出す。そして、後ろの列に座っていた人に、何か話しかけている。どうも、緊急避難口ということで、もしものときに添乗員とコミュニケーションがとれないといけないから、この席にはスペイン語ができる人しか座ってはいけないよう。

幸い席を替わると名乗り出た男性も窓際の席だったので、ぼくは窓際の席にありつける。

機内では軽食が出る。珍しかったのが、干しトマト。なかなか味があっていい。

窓際の席はとれたものの、眼下は雲ばかり。退屈なので本でも読む。

パナマを出てから1時間半足らずでボゴタに到着。コロンビアの空港内にはビールの看板が多かった。ここで1時間ちょっと乗り継ぎの待ち合わせ。

トランジットの人は係員に案内されて、Duty free shop
経由で再度手荷物検査を受けて、待合室に入る。

一度、手荷物検査を受けて待合室の方に行ったが、こちらには店も小さな売店のみでなにもない。せっかくコロンビアにきたのだからDuty free shopだけでも見ようと思い、係員の人に行って待合室から出る。

Duty free shopは、30軒ほどあって、うち2軒は喫茶店で、あとはコーヒーやお菓子を売っている店や布地や服屋、本屋、カメラ屋などがある。コーヒー屋にはコロンビア産のダークチョコレートが売っていたので、3.3ドルと高かったものの買ってみる。

パッケージにはSantanderという文字が筆記体で大きく書かれており、その下にはカカオを収穫する絵がある。そしてそれを縁取るようにCOLOMBIAN SINGLE ORIGINとある。一番下には「National de Chocolates」 「ESTABLISHED 1920」とある。

完全に輸出向け、あるいは観光客向けのようで、パッケージの裏側には英語でこのチョコレートの説明がある。

商品の名前であろうSantanderというのは、コロンビアの東側の地域の名前で、コロンビアでは一番カカオの栽培に適している地域と言われているらしい。その裏面の右上にはコロンビアの地形図があり、その位置もわかるようになっている。

説明は細かく、標高600~900mの地域で、気温は23~28度、平均湿度は75~80%、4~6月と9月~11月の2つの季節には1600~2500ミリの雨が降り、年間の平均日照時間は1600時間、そして微量要素の豊かな土に恵まれている、とある。

SantandarにあるSan Vicente deChucuri,El Carmen,Rionegro,Landazunといった町や村では、2世紀以上もカカオを栽培している。そして、その生産は12000家族以上の中規模または小規模の農家によって支えられているという。

その後、まだまだ説明は続く。チョコレートは、粉薬の包装として使われるような薄い紙で包まれている。アルミ箔が一般的な日本とは違う。このチョコだけなのかもしれないが。そう言えば、アルミホイルというものを旅行中、ほとんど見ていない気がする。一度、メキシコあたりの屋台で使われているのを見たが、それ以外は見ていない。

アルミを作るのには大量の電気が必要で、またその過程では有害な物質が大量に出るというような話を聞いたことがある。アルミホイルの使用量の国際比較などもあったような気がするが、不確か。

キトに向かう便の出発までまだ1時間あったので、珍しく喫茶店で一服する。コーヒーは2米ドル。酒も含めたいていが10ドル以下だった。

もう一度、手荷物検査を受けて、待合室に入る。さっきはほとんど素通りできたのに、今度は入念にかばんの中をチェックされる。チェックしている係員のおじさんは、日本語の本を見つけるとパラパラとめくり、その文字を見て驚いたようで小さく笑う。そして、同僚の人を呼んで、これを見て見ろと笑いながら見せる。

ハイチでハイチ人と話したときに思ったが、ひらがなやカタカナの50音表、それからあれば同じような漢字の表を持ってくれば良かった。それをこうしたおじさんに見せれば、少なくともひらがなとカタカナにどういった文字があるのかが、一目でわかる。それで例えばどの文字が格好良いかなどを聞いてまわるのも面白そう。外国語の会話帳にもそういうのを付ければいいのに、とも思う。

特に何もなく、検査を通過。16時前、搭乗が始まる。今度は通路側。また、機内食(パンとちょっとしたもの)が出る。機内食にはデザートがついていたのだが、これがけっこうきつかった。小さなカップ(50gくらいだったか)に入った固まっていないキャラメルで、完食するには甘すぎる。でも、完食したけど、量は半分でも十分すぎるくらい。

前の席が空いていたので、食事後、席を移動する。パナマからボゴタは、眼下は雲一色で地上が見えることがなかったが、今度は高度が低いこともあるのか、たまに雲の隙間や雲の向こうにうっすらと地上が見える。

曇っているおかげで地上か海かも判別できないような色。だがルートから考えて、また時折濃い緑または青色の間に白い道路と思われる線が見えることから地上だとわかる。
山に木々はあまりなく、頂上周辺まで耕されている。

ボゴタを出てから1時間30分程度で、機体は雲の中を抜け、キトに上陸。まちのすぐ上空を通って着陸したので、まちの作りや車、歩いている人まで見えた。

機体から降りるとひんやりとする。空港内は最近造られたのか、デザインも洗練されていて、ただの四角い箱という感じのハバナなどの空港とは違う。

驚いたのが、入国審査のシステム。入国審査の順番を待つ人は一つの列に並ぶのだが、そのラインの前には小さな電光掲示板があり、そこに審査が終わったボックスの番号が点灯する。それを見て、次の人はそのボックスに行く。

どこの空港もたいていは空いてそうなところを各々見つけ、並ぶというスタイルだが、こんなふうにしているのを見たのは初めて。もっともこんなことしなくても、係員が一言"Passe (パセ)" "Aderante(アデランテ:お入りください)"と声をかければそれで事足りるのですけどね。

審査官の女性は、スペイン語でよくある質問をする。どれくらい滞在するのかとか、この後、どこに戻るのかとか。帰りのチケットの提示はなし。こんなことなら30ドルくらい安かった片道チケットを買っておけばよかったなどと思うが、まぁ、それも時の運のようなものだろうからしょうがない。

一通り質問が終わった後、彼女はパスポートの写真と目の前に立っている人間の顔を照合する。そして、パスポートの写真は何歳のときのものかと聞いてくる。さすがにハバナのあの係官の女性のように、あなたは変わったとは言わなかったが、やっぱりなかなか一致しないよう。

しかし、総じてぼくにしてはスムーズに通る。審査の最後に彼女はにこっとして、”Bienvenido(ビエンベニード:ようこそ)"と言って通してくれた。

荷物をベルトコンベアからピックアップし、税関審査に行く。ここはたいした検査もなく通過。

ちょっとここで戻って税関審査場内にあったツーリストインフォメーションでキトの地図をもらう。パンフの類はたくさんあって、かなり観光に力を入れていることがわかる。また、市内までのタクシー料金とバスでの行き方を聞く。

外に出る。出たところには迎えの人がたくさん。”Bienvenido MARI”と書いた紙を持っている子どもたちもいた。"MARI”が日本人なのかどうかはわからないが、ぼくの他に東洋系の女性が一人いたので、その人もかもしれない。

空港を出るとすぐがタクシー乗り場。ただ、ごちゃごちゃと客引きがいるわけではなく、数人の人がタクシーが必要かと声をかけてくるだけ。Noと言えば、それでおしまい。

女性のタクシーの係りの人がぼくに声をかけてきたが、タクシーは断り、バス乗り場を聞く。すると嫌な顔もせず、駐車場を出た大きい通りを越えたところにあると教えてくれた。

教えてもらったとおりに大通りを渡り、歩道でバス乗り場を探す。ガイドブックを見ていなかったので驚いたが、大通りの真ん中を2車両つなげた大きなバスが走っている。真ん中は専用ラインのようで、これはメキシコシティにあったものと同じスタイル。

バスの乗り場がよくわからなかったので、通りすがりの女性二人に聞く。ものを訪ねるのは女性の方がいい。男は変なやつにあたるときが往々にしてある。

そこを通るからと言うので一緒に歩く。歩いて10mほどでParada(乗り場)と書いている看板下に到着。

5分も待たずに青色の車体のバスが入ってくる。パナマのような派手な小さなバスじゃない。日本で普通に走っているようなバス。車体はHINO自動車のもの。

ここのバスにも客引き担当の人が乗っており、乗車口に立って早口で行き先を叫ぶ。目的の宿がある広場まで生きたいのだがというと、客引きの少年は運転手のおじさんに確認し、乗せてくれる。

車内は満席。しかし、ありがたいことにこのバスは運転手の後ろに、エンジンの真上になるのか楕円形に突起したスペースがある。そこには座れるようにカバーがついており、縁に8人くらい座れるようになっている。つまり、日本のバスと比べると、運転手後ろの座席2列ぶんくらいがなく、前が広く空いているのだ。

車内を見渡したとき、一瞬どこに立とうかと思ったが、客引きの少年に促され、そこに座る。このバス、バックパッカーにとっては非常にありがたい。

外はすでに暗くなっている。沿道にはホテルやレストランが多い。走っている車も多く、しばしばクラクションの音を聞く。

地図で見た距離感とバスに乗っている時間とがだんだん合わないように思えてくる。もう20分は経過しているから到着してもいい頃なのだが、声はかからない。バスは幹線道路から一旦住宅街のような狭い路地に入り、また幹線道路に戻る。隣をトローリーバスが追い越していく。こんな標高の高いところに、電気を食うバスを走らせているなんて想像していなかったので、やや驚く。

空港を出て30分もしたころ、トローリーバスの乗り場もある広場で降りるように言われ、あっちに目的の広場があると少年が指さす。あとで確認したら降ろされたところはPaza la Marinというところだった。さっきまではほとんど路上を歩いている人は見かけなかったのに、ここらは多い。

バスを降りて客引きの少年が指さしていた方向を見ると、あいや、ものすごい坂。チャリでブレーキをかけずに降りてきたら時速50kmは出るだろうというくらい(わかりにくいたとえですね)の急勾配で、チャリはおろか重い荷物を持っていると歩いてでも登るのを一瞬ためらってしまうくらい。

通りはきれいにライトアップされており、正面からは人があるいて降りてくる。通りにはファストフード系の店がちょぼちょぼある。

キトが標高2850mというのは後で知ったが、坂を上り始めて50mもいかないうちに呼吸が乱れてくる。先は長い。

気温は低いものの上着を着ていたおかげで、だんだんと汗がにじみ出てくる。

歩いている人たちは、パナマよりもグアテマラのマヤ系の人々に似ている。そこまで寒いとは思わなかったが、みなコートやジャンバーを着て、手をポケットにつっこんで歩いている。

交差する通りを見てもヨーロッパ調の建物がずらっと並んでおり、ライトアップされた教会のような大きな建物が数棟ある。予想以上に旧市街の規模がでかい。

広場では小さな男の子や女の子が小さなお菓子を詰めた木製の箱を持って、歩いている人たちに買わないか声をかけている。靴磨きの道具を持って歩いている10歳くらいの男の子もみかける。

500mも歩いただろうか、でかい宮殿のような建物が左手に見え、そこに警官がいたので、目的の広場への行き方を聞く。2つ先の角を左に曲がったら着くという。

そこまで来るとほとんど平らになっていたので、呼吸はずいぶん楽になった。やがて広い広場が突然表れ、ここが目的地だとわかる。

正面向かって左の角に目的の宿Hostal Sucreはあった。建物の壁に黒い文字で書かれていたのでそれとわかる。入り口がわからず、一度人に聞いて、宿に入る。

階段を上ると吹き抜けのロビーに出る。建物は古い。若いスタッフが対応してくれる。部屋を準備するから待ってくれと言われ、しばらく待つ。日本人がちらほら。

2階の3号室に案内される。6畳ほどの部屋にベッドが一つ。机と台が1つずつ。椅子はない。窓からは広場が見え、その向こうには明かりの点いた旧市街が広がっているのが見える。

1泊3ドル。今回の旅では最安値だが、なかなかいい。ぼくが学生の時、山形にしばらくいたときに、世界を旅して回っている人に会った。その人は日本で例えば半年なり工場などで働き、カネがたまると旅行に出ているらしかった。

そのときに、その人からキトに数ヶ月滞在していたことがあると聞いたのだが、この宿がその人が滞在していた宿だった。パナマにいるときにキトの宿をネットで探していたところ、その情報を目にし、驚く。当時のぼくはこうした旅に出ることなど、まったくと言っていいほど考えていなかった。それが8年の時を経て、こうしてつながったことが面白い。

聞くとその人が滞在した2000年頃はここは1泊50円程度だったらしい。連れ込み宿の一番上の階を日本人に提供していたらしいが、今はそういう雰囲気もない。

部屋に荷物を置いて、ちょっと飯でも食いにと外に出る。が、さっきは開いていた店もことごとく閉まっていた。時間は20時過ぎ。

人通りもぐっと減って路上でバナナチップなどを売っていた人たちも後かたづけをはじめている。しょうがないので、ぼくは後片づけしているおばさんからポテトチップと水を買う。宿に戻る途中Plaza Grandeを通ると、通りから奥に入る通路があり、そこで食事をしている人たちが見えたので、そこに入ろうとする。

するとそこへ菓子売りの少女と少年が2人、何か買わないかと寄ってくる。女の子の方は小さいが10歳は越えているだろうか、男の子よりもしっかりしている雰囲気。

通路を少し入ったところで立ち止まり、一つずつ適当なものを買うかとものを見る。するとそこへ警備員のおじさんがやってきて、女の子の左肩をつかみながら、強い口調で何やら言い、そのまま寄り切るように通路の外までゆっくりと押し出す。

女の子はおじさんをにらみ、その手をはじく。そして、おじさんに向かって強く文句を言う。そんなことをしたらおじさんがキレて、持っている警棒で女の子を叩いたりするのでは、なんて一瞬思ったが、外まで押し出した後は、口げんかのみだった。女の子が自分の3倍近い体積のあるおじさんに猛然と文句を言っている姿は、強く美しかった、と小説家が書きそうな光景だった。

それぞれから50センターボ(0.5米ドル)のお菓子を買い、その通路を通って中に入る。建物は3階立てで、真ん中が四角く吹き抜けになっており、各階に店が入っている。レストランでは観光客らがにぎやかに酒を飲んでいる。

たいしたものがなかったので、さっさとそこを出て、宿に戻る。こんなに早くに人気がなくなるとは思っていなかったので、意外だった。もっとも宿の周りは治安が悪いとは聞いていたが。さっきまでいた警官も姿が見えなくなる。

オレンジ色の街灯がまちを照らしているが、そこには人が歩いていない。遠くから眺めるためだけの光という感じだ。

宿のベッドには薄い毛布が一枚。窓を閉め、それにくるまって寝るが、夜中ひんやりして目覚める。ここまで寒い夜もこの旅では初めて。

そういえば、これから南半球は冬だ。

2008年4月14日月曜日

パナマ警察にお世話になる。そして運河へ。

2008.4.12(金)
曇り時折雨と青空

・警察に出頭
・盗難レポートづくり
・スペイン語で読み聞かせ
・パナマ運河

今朝も蒸し暑くて目が覚める。気温が高い上、9畳ほどの部屋に6人も人がいるから余計暑いのだろう。窓は開けているものの風はまったく入らない。

早く盗難の件の始末をつけようと、宿主に警察の事務所の場所を聞く。コンチネンタルホテルの近くというので、7時過ぎには宿を出る。こんな早い時間からやっていること期待できないが、とりあえず行ってみる。

コンチネンタルホテル近くまで行ったが、警察署は見あたらない。どこだろうときょろきょろしていたらちょうど自転車(マウンテンバイク)でパトロールしている警官二人が前からやてきた。二人とも黒の半ズボンに灰色のポロシャツという制服で、頭にはヘルメットを付けている。

事前に会話帳を見て書き写していたお願い文を見せる。それを見て、用件がわかったようで、こっちにと呼ばれる。

コンチネンタルホテルの入り口近くに四角錘の屋根をした小さな交番のような建物があって、そこに案内にされる。表には何も書いていないのでわからなかったが、ここはツーリストポリスのオフィスだと言われる。

オフィスと言ってもスチール机と椅子、それから観光者向けの無料の新聞、雑誌があるだけ。なかはがらんとしている。

椅子に座ってと言われて、座る。そして、名前と出身国、ツーリストかそうでないのか、どこで何をいつなくしたのかなどを聞かれる。

質問はすべてスペイン語。だいたい何を聞かれるかはわかるので、たいていのことは察しがつく。対応してくれているのは、30代くらいのアフリカ系の男性警官。その警官は、表紙がぼろくなっているノートに聞き取ったことをメモする。

そうして一通り聞き取った後、しばらく待てと言われる。これから日本で言うところの警察の本署に行って、そこで盗難のレポートを作成するらしい。そして、その本署まではパトカーで連れていってくれるという。

10分ほど待っていたが、なかなか来ない。することもないので、あたりを見回したりしていると、オフィスにあった観光客向けの新聞や雑誌を持ってきて、これでも見ててと勧める。新聞や雑誌は英語とスペイン語の併記式。

新聞の1面は、カリブ海側にあるサンブラス諸島でガイドをしている現地の男性の話を掲載していた。サンブラス諸島には先住民の 族の人たちが以前からのスタイルを変えずに暮らしており、観光も受け入れている。取り上げられている男性は50歳くらいの男性で、以前、パナマシティに働きに来たときに英語とスペイン語を覚えたらしい。今はそのときに覚えた言葉を駆使し、自分の出身地を訪れる人たちに対し、ガイドをしているという話だった。

一方の雑誌は2種類あり、小さいA5サイズの方は、観光地にはよくあるクーポンや店の広告がたくさん載った雑誌。観光で行くとおもしろそうなところも紹介している。国内とパナマシティの地図が付いているのはありがたい。

もう1種類は、住宅会社が共同で出している雑誌のようで、表紙はきれいな高層マンションの写真。中を見てもマンションの広告ばかり。アメリカやカナダ、オランダなどからパナマに移り住んだ人たちの体験談も載っている。

その中のあるアメリカ人夫婦の話では、9.11のときになんらかのトラウマを負った妻がのんびり暮らせるようにと新しい土地を探していたところ、パナマの内陸の高地地方にベストな土地が見つかり、そこに移り住んだということだった。そこは自然がいっぱいで、妻もその土地とその地の人々をすぐ好きになり、落ち着いた生活ができているとあった。

在パナマ日本大使館のホームページを見たときに、ここのところ下り調子だった経済が建築需要の増加で持ち直しているという話があったが、どうもその需要の背景にはこうした外国人がいるよう。

実際、パナマシティに来て驚いたことは、次々と高層ビルが建設されていること。それもほとんどがマンション。建築中の建物がある通りを歩くと完成予定図があり、たいてい30階や40階立てになる予定のようだった。細かく数えてはいないが、そうした建築中の高層ビルが新市街には10棟はあり、しかもそれらは互いに半径3~5km圏内に集まっている。

ここのオフィスには他の警官も集まってきておしゃべりがはじまる。ある年輩の警官は、新しい携帯を今し方買ったばかりらしく、携帯会社のビニールの袋に箱詰めされた携帯を入れて持ってきていた。

それを他の警官が、見せてと言って中身を取り出す。ピンク色の折り畳み式ではない、日本で言うと旧式のスタイルの携帯。メーカーはSUMSUNG。値段を聞かれてその警官は、30米ドルくらいだったと言う。なかなか安い。

そうして待つこと1時間ほど、9時半頃になってようやくパトカーがやってきた。

パトカーには3人の男性の警官が乗っている。ぼくは助手席の後ろに座る。

運転している若いアフリカ系の警官が、英語で何が起こったか聞いてくる。なので、さっきオフィスで対応してくれた警官に伝えたことを繰り返す。

20分ほで本署に到着。日本の警察署のようにでかいビルではなく、3階建て程度の小さなところだった。入り口を入ると階段があり、10段ほど下った半地下が外来者の応対をするフロアだった。

運転していた警官が受け付けの人に何をか伝え、受付の前にあった丸テーブルのところでしばらく待つ。その間、また被害の状況を聞かれる。

しばらくすると、黒縁メガネをかけた金髪のヨーロッパ系の年輩女性の職員が流暢な英語で話しかけてくる。これからドキュメントを作成するが、十分に英語は話せるかと、まず聞かれ、十分ではないと伝えると、正確に書くことはできるかと言われる。

正確には書けないと言うと、まぁ、わかったという感じで、ちょっと書類を取りに行ってくるから待っててと言う。

運転してきた警官は、そこで席をたち、ビルを出ていく。別の男性の職員が、自分の英語は十分ではない(bad)がいいか?と断った上で、また被害の状況を聞かれる。ぼくの英語は彼のよりももっと十分ではないので、詳しく説明しようとすると単語が出てこないし、時制がぐちゃぐちゃになる。彼はわかったようなわからないような様子。

さっきの警官はわかってくれたから、彼から聞いてくれた方がすんなりいったのにと思うが、彼はもういない。

そうこうしているうちに、先ほどの女性の職員が戻ってきて、4枚の紙を渡される。そして、こことこことここを埋めてと、ぼくにとっては早口の英語で説明する。

一枚目の紙には自分の名前や誕生年月日、年齢、出身国と生誕地、パスポート番号、両親の名前、日本の住所と電話番号、メールアドレスを記入する欄があり、2枚目はパスポートを紛失した場合の紙でこれは記入不要。3枚目が被害にあった物とその金額を書く紙。4枚目は30段ほど罫線が入っただけの紙で、冒頭にいつ、どこで、どういう状況で、どういう被害にあったのかを書く紙になっていた。

また後から来るからと言って、その女性職員は去る。ぼくは持ってきた英和・和英辞書を取り出し、思いつかない単語をひきひき書く。

書いている途中、60歳手前くらいの男性がやってきて
、ぼくと同じテーブルで似たような用紙に必要事項を書き込む作業を始める。どうも彼も盗難か何かに遭ったよう。

ぼくが辞書をひいたりしているとそのおじさんが話しかけてくる。スペイン語で普通にしゃべるので、何を言っているのかわからない。首を傾げているとおじさんは自分の目と紙を交互に指さしながら何か言う。

その仕草で、どうやら老眼か何かで文字が見えないということがわかる。おじさんが言いたいのは、ここにはなんて書かれているのか、ということのようだった。

それで、そのおじさんの文書を見せてもらい、ぼくが読み上げる。おじさんはそれを聞いて、ああわかったと空欄になっているところに筆記体で何か記入している。

空欄は5カ所ほどあったので、おじさんが1つ記入すると、その続きをまたぼくが読み上げるという作業を繰り返す。

アクセントの位置を間違い、また英語とほとんど同じ単語を英語式に呼んでしまい、おじさんが考え込んでしまうこともあったが、基本的にはぼくのスペイン語を聞いて、おじさんは次々と空欄を埋めていった。

これがもし英語やフランス語、ロシア語だったらこんなことはできない。日本語と発音が近い言語だからこそできることだ。

もし、中学や高校で習う外国語がスペイン語だったら、きっとぼくは英語よりもできるようになったに違いない。文法事項はスペイン語の方がちょっと複雑ではあるが、それは覚えれば済むこと。英語のRとLや細かな”ア”の発音の違いなど、聞き分けることはもちろん、それを再現することに比べれば簡単なことだ。もちろん、日本式発音の英語でも実際上は十分通じることもあるが、試験ではそうはいかない。

スペイン語圏は日本からは地理的に遠いが移民などの縁で言えば近い。中学の最初にでも複数の言語を紹介されてその中から選択できるとなっていれば、ぼくは聞き分けや発音で苦労しない外国語を選んだだろう。なんてことは、今だから言えることだが、実際大学では選択肢にあるいくつかの外国語の中から選んだのは、日本語と発音がけっこう似ている(発声が違うが)ドイツ語だった。

レポートを書き終わってそんなことを考えていたら、さっき自分の英語は不十分だと言った男性職員が寄ってきて、終わったかと聞いてくる。

それで終わったと言うと、ちょっとまた待っててとレポートを持って別のオフィスに入っていった。

待っている間も目の悪いおじさんは、ぼくに普通に話しかけてくる。なので、例のごとく、空欄をおじさんが埋められるよう、ぼくがスペイン語の文を読み上げる。

そうしているうちに先ほどの女性職員が来て、レポートを作ったから内容を確認するのでこっちに来てと言われる。あるブースに連れて行かれ、そこのパソコンの画面に映し出された文書を彼女が読み上げる。

文書自体はスペイン語で書かれているが、読み上げるのは英語。文の切れ目ごとに、ぼくに内容に間違いがないか確認をする。ぼくは特に修正する必要もなかったので、OKを連発。そうして全文確認した後に、彼女から何か付け加えることはないかと聞かれ、何もないと答えると、それをプリントアウトして持ってきた。全部で3枚。それぞれのページに自分のサインとパスポートの番号を書くように言われ、それらを記入する。

現物は警察で保管するというので、コピーをもらう。その女性職員は、それを渡すときにぼくにこう言った。”Thank you for your effort." この言葉はもしかしたら儀礼的な言葉かもしれないが、それでもこんなことを言われるとは思っていなかったので意外だった。逆にぼくの拙い英語に付き合ってくれてありがとうと言いたいくらい。

おもしろいのが紙のサイズ。盗難のレポートが印刷された紙は、A4とかB5とかというような基準の紙ではなく、A4をさらにひょろ長く伸ばしたようなサイズ。アメリカやジャマイカ、ドミニカの新聞がひょろ長かったが、それと同じ感じ。紙のサイズの基準に、A4などの他にどんなものがあるのか、気になる。

帰りもまたパトカーで宿まで送るというから、至れり尽くせりだ。

本署に着いてからの対応は早く、2時間かからないくらいですべての手続きが終わった。時刻はすでに12時近くになっており、ふと腹が空いていることに気づく。

パトカー=ツーリストポリスが迎えに来るからロビーで待っててと言われて待つ。ここからが長かった。待つこと2時間ちょっと。14時過ぎにここに連れてきてもらったときに運転してくれた警官が、また迎えに来てくれた。

それまでの間はロビーに設置されているケーブルテレビを見ていた。放送されていたのはミスタービーンの吹き替え映画。言葉はわからないが、手続きが終わってほっとしたことで気軽に笑える。他にも10人くらいロビーにいて、それを見ながら笑っている人は多かった。

ただアフリカ系の男性だけは一度も笑うことがなかった。その人は、ぼくが記入用紙を書き終えた頃に、警官と一緒に本署に入ってきた人で、かなり落ち込んだ様子だった。ぼくは始めパナマの人かと思ったが、その人には英語のできる女性職員が紹介され、英語で話をしていた。

目の前で話をしていたので、少し聞き取れたところによると、その男性はジャマイカから来たらしい。パナマシティのある地区でパスポートなどが入ったカバンを目を離した隙に取られてしまったらしい。彼は見たところ40~50歳くらい。終始浮かない顔をしていた。

パトカーにまた乗って、宿まで送ってもらう。さすがパトカー、早かった。別にサイレン鳴らして、他の車をどかしながら走ったわけではないが、バスと比べると早い。

宿に戻り、レポートの写真を撮り、カバンに保管してからやっとまちに出る。

腹が減って動きが鈍くなっていたので、昨日も行った旧市外に行って飯を食う。旧市街にはパナマ運河を建設するために連れてこられたアフリカ人についての博物館があり、そこに行きたかったのだが、すでに3時を過ぎており、閉館間際(3時半閉館)だったため、断念。

昼飯に選んだ店も外れで塩気がきつすぎてダメだった。旧市街では食堂というと、かなりの割合(たぶん7割くらい)で中国系や台湾系の店になる。そうでなさそうな店と思ってこの店を選んだが、外れだった。

その店を出た後、口直しに5月5日広場でおじさんが売っていた肉とキャッサバのセット物を買う。1ドル50センターボと予想外に高かったが、味はまずまず。香辛料とチリソースがかかっており、けっこう辛いが、それはそれでうまい。

それからタクシーを捕まえてパナマ運河のビジターセンターもあるミラーレス水門に行く。ここはカリブ海側から来た船が太平洋にまさに出るという水門で、船底が川底につかないよう水量が調節され徐々に船が太平洋側に出る様子が見られる。

バスでも行けるらしいが、歩き方によると、最寄りのバス停から20分くらい歩くとあったので、ちょっと空が雨模様になってきていたこともありタクシーにした。タクシーでは片道5米ドル。

20分ほどで水門に到着する。ビジターセンターの入場料が5米ドル。それを入って中にはいるとビジターセンターのバルコニーから水門の様子を見ることができる。まずは5階(こちらの数え方では4階)に上がり、その様子を見る。ヨーロッパ系の観光客がたくさん来ている。

思ったよりも水門の幅はせまい。50mほど。しかし通過する船はでかい。幅も思ったよりせまいとは言え、こんなものを作ろうとすれば相当の労力が必要になることはわかる。

ビジターセンターには運河建設の経過などがわかる博物館も併設されているのだが、それを見るとアフリカ系の人は主にジャマイカから連れてこられたらしく、黄熱病やマラリアなどで相当数の人が作業中に死んでいったらしい。

また展示の中には、タンカーは巨大化を続けており、その傾向から言うと、パナマの運河は幅や川底の深さの問題から2012年頃には限界を迎えると見込まれているらしい。そうなるとパナマ運河の重要性が相対的に薄れるので、今と同じような位置を占め続けるためにも拡張が必要だと書かれている。

1時間ほど見て、タクシーで国営バスターミナルに行く。ここに併設されているショッピングモールでカメラ探し。なくなったカメラと同じ物がないか探すが、見つからない。カメラはパナソニックとソニーのものが多い。

それにしてもカメラを盗っていた人はあれをどうするのか。だいたい充電が切れれば使えなくなるし、あのカメラにあった充電器なんてこのショッピングモールの品ぞろえを見る限り、簡単には手に入らない。

誰かの手に渡ってまた使われるなら良いけど、充電ができないという理由で売れもせず、ほったらかしにされるとしたら、それこそ盗られた意味もない。それに説明を日本語バージョンにしていたから、わからないだろうな。質屋も充電器がないのに買ったりするのかねぇ。

盗難物がどのような流通に乗るかも調べたらおもしろそうなことだ。

結局、カメラは見つからなかったので、明日行く空港のDuty Free Shopに期待することにして、宿に帰る。

宿のフリーのネットは写真のアップが難しいので、1ドル払って近所のネット屋で1時間ネットをする。

宿にもどって、今度は宿のネットで明日の宿について調べる。調べていたらドイツ人と日本人のハーフというドイツからの旅行者がパスタを作ったから食べないかと言ってくる。ありがたくいただく。

ドイツからは男女4人くらいで来ているようで、みんなでパスタを作ったらしい。そのお裾分けに預かったわけだ。彼女らはいつも夕方になると化粧をして夜中どっかで遊んでいるよう。

他にもネットをしてたら、”どうですか?”と日本語で話しかけてくる男性がいる。日本語が少ししゃべれる彼は、米軍の兵士で通算2年日本にいたらしい。相撲がすきなようで、”ワカハナダ”を連発。それからパチンコがいっぱいなどと言う。

宿泊客はひきもきらず、毎日誰かが出ていっては、誰かが入ってくる。4月になったということもあってか、日本人客はいない。ロビーの本棚には誰かが置いていった2~3年前の歩き方が2冊ほどあった。ぼくもここで歩き方の中米編を手放す。

それから明日出発のために荷造りをして、寝る。今晩も暑かった。

08/04/14 キトよりアップ

パナマシティでまさかまさかのとーなんときた

2008.4.10(木)

・郵便局探しで閉口
・荷物発送
・ソナロハ
・カメラを紛失

今、思えばパナマ入国寸前にホテルに忘れ物をし、パナマ運河を越えるのを見逃したりした一昨日から、どこか調子が狂ってきていたのかもしれない。

朝は暑くて、6時前に目が覚める。2度寝しようとするが、暑さで眠れず。

7時すぎ朝食。パンとコーヒー、バナナ、チーズを食べる。朝食付きで10.5米ドルとはなかなかよろしい。

9時頃、宿を出て銀行に行くが、目的のことはできず。

それからメキシコで一反は送ろうと思って、ここまで持ち越してきたものを送ることを決断し、それらを箱詰めし、郵便局に行く。郵便局の位置は歩き方もロンプラも当てにならず。

宿の人に聞いて、近くの郵便局に行く。するとここでは小包などは扱っておらず、旧市街の郵便局に行くように言われる。

言葉があまり通じないことがわかった郵便局の窓口のおばちゃんは、行くべきところをメモしてくれるが、筆記体で書かれているため、読みづらい。タクシーで1.25米ドルだと言われたが、ケチってバスに乗っていくことにする。

バス停にいた人に、もらったメモを見せると止まっていたバスの客引きのにいちゃんにその旨を伝えてくれる。

泊まっていた宿の近くで、そのバスのにいちゃんが合図し、降りるように言われる。あっちの方に行けと指さすので、そっちに行くがそれらしき建物が見あたらない。

建物の警備をしてる人に聞くと、知らないという。別の建物の警備員に聞くと、海に面した通り沿いにあるというので、そこに行ってみるが見あたらない。

ホットドッグを売っているおじさんに聞くと、一緒にいた他の二人の人たちとあっちだこっちだと議論をはじめる。すぐに店主のおじさんが二人を無視して、あっちに行けと言って、バスを降りた方向を指さす。

おじさんの言ったとおりに行くが、見あたらない。またそこでおばちゃんに聞くと、あっちの通りだという。20mほど離れたビルの1階にCorreos(郵便)の文字を発見。そこに行くと、そこは窓口ではないと言い、別の入り口から入らないといけないと言われる。その入り口はすぐ近くにあり、そこで荷物を送れるか聞くと、ここでは小さなものしか扱っていないといって、ぼくのサイズはここからは遅れないという。

そして、先のところの郵便局に行ってと言われる。

言われたあたりで人に聞いてみるが、なかなかわかる人がいない。すでに宿を出て2時間近くたっている。やれやれ。

宿近くに民間の国際郵便会社があったので、そちらから送ることにする。少しでも安くと思って郵便局を探したが、結局見つけられず、半日無駄にした形となった。

宿近くのその会社に行く。荷物の重さをパウンドで言うから、何kgかわからない。送ろうと思って詰めていたものすべてを送るとなると150米ドル近くかかるというので、中身を減らし、100米ドルにし、それで発送してもらう。

IDを見せてといわれるが、あいにくパスポートは宿に置いてきていたため、とりに戻る。パスポートのコピーが必要らしい。

こうしてやっと発送作業が終わった。もう時間は3時をすぎている。

旧市街にあるムゼオ(博物館)に行こうと、またバスに乗って旧市街に行く。しかし、この博物館は3時半閉館で見ることができず。

旧市街には古いヨーロッパ調の建物が並んでおり、一部の通りは歩行者天国になっている。歩行者天国には人がたくさん歩いており、新市街とはまたぜんぜん雰囲気が違う。

新市街ではほとんど見なかった民族服を来ている女性も歩いており、こちらの方が歩いていて圧倒的に面白い。ちなみにここで見る民族服は、グアテマラやメキシコ南部で見たものとは、ぜんぜん違う。グアテマラやメキシコ南部の方が気温が低い地域だからか、あちらの方が布地が厚いように思う。インドネシアのサルンのような腰巻きタイプのスカートに、帯などは似ているが、まったく異なっているのが、手首から肘にかけてと、足首から膝にかけての部分。

こちらの人は、オレンジなどの鮮やかな色(たいてい一色)をした紐(ミサンガのようなもの)を、上記の部分に重ならないよういくつもつけており、一目見たときには時代劇に出てくる人がはいている脚半(感じが違うような)のように見える。

ただこうした民族服を来ている人は圧倒的に少数。おそらく女性の中でも1割もいないだろう。具体的に言えば、3時間くらいそれらの地域をぶらぶらすれば、おそらく千人以上の人とすれ違ったりしていると思うのだが、その中でその服を着ているのは10人程度しかいない。

基本的には年輩の女性が着ている場合が多いが、20代くらいの女性が着ているのを見ることもあった。あと付け足しで書くと、サリーを着ているインド系のおばあちゃんもいた。

パナマシティもニカラグアのグラナダと似てアフリカ系の人が多い。コスタリカのサンホセでは圧倒的に少数だったのに、こちらでは半数とまではいかなくても、それなりの割合を占めているよう。これもパナマ運河の建設の歴史と関係があるのだろうか。ポルトープランスで会ったインド人のように、運河建設後に、出稼ぎに来た人たちが多いのだろうか。

歩行者天国になっている通りの海に近い方の入り口には線路跡があった。そこにはちょっとした広場もあり、そこで麻雀のような遊びをしている叔父さんたちを見る。

通りの入り口の向こうには海が見えたので、ぼくは海を見るためにそこまで歩くことにした。

3~4階建ての古いアパートが立ち並び、一部の建物は崩れて廃墟になっている。ちらっと中を覗いてみると、中はは自然とゴミ捨て場になってしまっているようだった。

路上でボールを蹴って遊んでいる少年がいる。アパートのベランダから下を眺めている人もいる。建物の高さがまったく違うものの、建物の古びた感じや壊れかけの感じがハバナに似ている。

向かいから荷車にアイスを入れて売り歩いているおじさんがやってきたので、リモン味のアイスを買う。0.5ドル。なかなか味はいい。

正面には海と住宅街を隔てた1m50cmほどの壁があり、その手前にはベンチがあった。そこに地元の人たちが腰掛けてしゃべっていた。

壁の手前でぼくは右に曲がる。そして次の角を左に曲がったところで海を少しの間だけ眺めた。ヨットらしき船や遠くにはタンカーのような船が見える。

眺めると言うよりも見たという程度だったが、それで満足し来た道を戻る。歩いていたら道端で別の人と話していたおじいさんが、何をしているのかと聞く。散歩しているだけだと適当に単語を並べ、身振りも交え答えると、おじいさんは来た道を通って帰った方がいいというようなことを言う。そして、握った右手を首もとにやり、親指を立てて、首の左から右へと動かす。端的に解釈すれば首を切られるぞ、と言っているよう。

ガイドブックでは、パナマシティでは平均100件の犯罪が一日に起こっているという。そしてそのほとんどが、旧市街のある地区で起こっているとも。その地区はここから近いものの、そこには入っていないと思っていた。

でも、危険地帯では長老の言うことは聞いた方がいい。おそらくそれだけのものを他の人よりも長く見てきているから。ぼくは来た道を戻る。

だが、さっきの歩行者天国となっている通りの入り口には戻らず、バスも通っている別の通りを見に行ってみた。小さなスーパーがあったので、そこで水を買う。ちょっと歩くと、バスが通っている道に出る。その通りの壁にはDOnationとかyoung,drug,arcoholなどという文字とともに、頭を抱えている人の絵やドラッグの絵が描かれている。今思うと確か英語で書かれていたはずだが、なぜスペイン語でなかったのか、あるいはぼくが勝手に英語として見ていたのか、ちょっとひっかかるところはある。

ただ、そういう問題がこの地区にあることはわかった。先ほどの年寄りはこうしたものを見てきたのだろう。

その壁の絵の写真を撮ろうと立ち止まると道端で、飲み物を売っていたヨーロッパ系のおばさんが、親しげに話しかけてくる。その飲み物を飲まないかということだったで、1杯もらうことにする。

パイナップルのかけらが入った透明のもので、たとえて言うと、パイナップルの缶詰の汁のようだった。おばさんはそれをぼくに渡しながら、ここは”peligroso(ぺりぐろそ)"と言う。そして、ここは"zona roja(ソナ ロハ)"と呼ばれていると、眉間にしわを寄せ、真剣な表情で言う。

両方とも以前に聞いて知っていたが、すぐには対応する日本語が出てこない。”peligroso"って聞いたことがあるけど、なんだったっけと思っていたら、話し続けていたおばさんの言葉の中に"seguro(セグロ)"と言う言葉を聞く。これは安全(safe)に対応する言葉で、銀行の広告やホテルの広告によく載っていて覚えていた。そして、”peligroso"がその反対の概念、つまり”危険”を表す言葉だということをようやく思い出した。

つまり、おばさんはここは危険だと言っていて、そうとわかるとさっきからおばさんが何を言っているかすべてわかった。おばさんは今買ったものを飲んだら早く、ここを出た方がいいと言っているのだった。

"zona roja"も英語にすればred zoneのこと。さっきのおじいさんの言葉と壁の絵、そしてこのおばさんの言葉に、そんなに何があるかわからない地区なのかと改めて知らされたので、ちょうど走ってきたバスにコップを持ったまま乗り込む。

おばさんはこっちを見て、うんうん、うなづいている。

そのバスは宿に近い通りも通るバスだったので、まだ17時前だったが、宿に戻ることにする。買ったジュースはパインは食べきったものの、ジュースが甘すぎてとても飲む気になれず、発泡スチロール製のコップに入ったまま。揺れるバスにジュースがこぼれないか気を使いながら、外を眺める。

何度も通った通りに入り、隣には体格のいいおばさんが座った。ぼくはときどき窓から写真を撮ったりしている。

そして、降りる場所が近くなったとき、手元にあったはずのカメラがなくなっていることに気づく。バスは渋滞でなかなか先に進まない。

いつもはカメラに付けているストラップを手首にかけていて、自分でもそうしているものと思っていたが、無意識のうちに外していたようだ。カバンを見てもない。その様子を見たのか、隣のおばさんは腰をどかす。そして、渋滞を待ちきれなくなったのか、すたすたと突然バスを降りていった。

ぼくはおばさんが座っていた座席や座席の下などを探し続けるが、見つからない。バスはやや前に進む。そして、その瞬間、さっきのおばさんが盗っていったのではないかという可能性に気づく。

ただ、おばさんが降りてからもう数分経過しており、今、降りたとしてもおそらくわからない。何より顔を覚えていない。隣に座っている状態なら聞くこともできるが、路上でそれらしき人を見つけても知らん顔をされればそれまでだ。

相手はぼくの外見からすぐにぼくだとわかるだろうが、例えば別のバスに乗っていたりしたら、ぼくはおばさんを判別できない。

こういうときの反射と瞬発力が、ぼくにはないことを改めて感じる。いろんな可能性を考える前に、さっさとおばさんを探せばいいが、それよりもありえることをいろいろ考えすぎて時間を食う。

やっと、もしかしたらけっこうまぬけなおばちゃんかもしれず、その辺をうろうろしているかもしれないという可能性を考え付いたところでバスを降り、来た道を戻ったが、いるはずもなく、そこでカメラが戻ってこないことを認めざるをえなくなった。

午前中の郵便局探しといい、カメラの紛失といい、今日は禄なことがない。幸い保険に入っていたので、保険を請求すればカメラ代とXDカードの代金は100%ではないにしろ戻ってくる。が、コスタリカからここまでの写真のデータはバックアップをとっていなかった。今思えば、今日、宿を替えた後に宿のパソコンででもバックアップをとっておけばよかったが、あれこれやることがあるし、これまで大丈夫だったから、大丈夫だろうと思い、先延ばしにしていた。

また、この2日間は国境に泊まったり、ネットのない宿だったのでパソコンにアクセスできなかったことも多少は影響した。

保険を請求するには基本的に警察の盗難に関するレポートが必要。でも、すでに暗くなりはじめているので、今日、警察に行くのはやめ宿に戻り、保険の証書を読む。

それによれば何かあればコレクトコールで対応してくれる窓口あるとあったので、それで相談してみようかと考える。コンビニのような店の中にある公衆電話まで行き、いざコレクトコールをかけようとしたところ、まずコレクトコールをつないでくれる、この国の国際電話局のオペレーターを呼び出す番号がわからないことに気づく。

保険の証書にはイギリスやアメリカなど、日本人がよく行く国の番号は載っているが世界中を網羅していない。解説にはホテルのフロントに頼めばつないでくれるとあるが、さっき宿のフロントの人に言ったら、ここの電話ではできないようなことを言われる。そんなはずはないと思うのだが、ちょっとずれたとようなところのにいちゃんなのでわからないだろう。

そうするとネットで調べるか、近くの高級ホテルに聞きに行くかということになる。ネットで調べたが、他の国のは別の保険会社のホームページにあったものの、パナマのがない。

世界中のコレクトコールの呼び出し番号を整理したページがあってもよさそうだったが、探し方が悪いのか見つからなかった。

ホテルに行くという選択肢も考えたが、気が進まずやめる。高級ホテルはちょっと離れたところにあり、暗くなっていたこともあり、どうも悪いことが続きそうな予感だったのでやめる。

そして、明日警察に行くことにして、宿のパソコンで保険会社に質問のメールを出した後は、のんびりと考えごとをする。明後日にはパナマシティを出るから、明日、警察のレポートをもらわないと、出発日を替えるか、レポートを諦めるかしなければならない。出発日を替えるとなると、また手数料が数十ドルかかる。

そんなことを考えていても、どうこうなるわけではないので、気分を変え、南米のガイドブックを見ながらルートを考えたりする。ガイドブックを見ていたら、とても数ヶ月ではまわれないように思えてくる。やっぱり各地域ごとに半年くらいないと細かくは見て回れないななどと思う。また、世界を見尽くすことはたぶん人生のすべての時間をかけても、ほとんど不可能なのかもしれないとも。

100カ国以上、旅して回ったという人は、ネットで探せばごろごろいるが、1カ国に1ヶ月いるとしても100ヶ月以上、つまり10年近くかかる。

1つの大きなまちを見ようと思えば1週間はかかるので、1ヶ月いてもせいぜい10カ所も見られればいい方だろう。

もちろん、何を見るかによるが、ぼくの趣味の範囲でいうと、そういう計算になる。

旅の途中で会うヨーロッパ系の旅行者はたいていが1ヶ月単位で旅行をしており、そのぶん、日本人はあまり行かないところまで行っている人が人が多い。彼らも感覚的には日本人の一般的な観光旅行とあまり違わないのかもしれないが、ガイドブックの内容で比較する限りでは、だいぶ見ているものが違うのかもしれないと思う。

ガイドブックを持っている人が、それをちゃんと読んでいるかという問題はあるにしても、少なくともガイドブックの会社は、こういう点は知っておいた方がいいと判断して書いているのは間違いない。その知っておいた方がいいという範囲が、日本でメジャーなガイドブックと比べると圧倒的に広い。英語(他の言語はわからないので)で書かれた3種類ほどのガイドブックを読む限りでは、そう思う。

ふとガイドブックの比較研究をやっている人がいるのかどうかが、気になる。もしいればその人の書いたものなどは、けっこう面白いかもしれない。ただ言葉の壁があるからなかなか難しいだろうな。自前のガイドブックを持っていない国も多いだろうし。

夜は相変わらず寝苦しい。

おわり

08/04/14 キトよりアップ

パナマシティで宿替え、チケット購入

2008.4.9(水)

・宿探し、チケット探し
・キト行きチケットゲット
・林立する高層ビル

エアコンをつけずに寝ていたら、やはり朝には蒸し暑くなった。

テレビをつけ、CNNのニュースをボーと見る。もうメジャーリーグは開幕したんですね。

この宿には朝飯はついていない。チェックアウト時間は14時なので、それまで次の宿と飛行機のチケットの下調べをすることにする。

宿から出て幹線通りでバスを待つ。目的の安宿はここ旧市街ではなく、新市街にある。新市街までは一本道でつながっているが、2~3km離れている。

まちを走っているのは、色鮮やかにデザインされたバスたち。運転手の趣味なのであろう、それぞれのバスには様々な絵が描かれている。中にはボブ・マーリーもあるし、キリストなどを扱った宗教的な絵を描いているバスもある。

バス乗り禁止のマークの下が、バス乗り場らしく人が集まっているところでぼくも待つ。フロントガラスの下にそれぞれの行き先(主には通り名や番号)が書かれており、それを見ているとけっこういろんなルートがあることがわかる。

どれに乗ったらいいかわからないので、待っている人に聞くと、ぼくの行き先にはどのバスが行くかわからないという。地図で最寄りの通りの名前を調べ、適当にバスの運転手に聞いて乗り込む。乗り込んだときに1米ドル札を渡すと75センターボのお釣りがあった。

パナマ市内のバスは、前乗り・前降り制で、料金は後払い。ぼく以外の人はみな乗り込むときにはカネは払っていなかった。こういう後払い制は今回の度で初めて。後払いだからといって、距離に料金が比例しているわけではなく、0.25ドルの均一料金。

パナマも米ドルがそのまま流通しているので、エルサルバドルで余った米ドルコインが使える。しかし、こういう自国通貨を作っていない国は、金融政策はどうなっているのだろう。貨幣の発行量を調整するなんてことはできるのか。

バスは、人が立っているところに次々止まるので、5分も続けて走らない。止まってばかり。さらに渋滞しているから、100m進むのに10分くらいかかる。自転車で移動した方が圧倒的に早い。各まちや各宿で自転車のレンタルがあったらどれだけ移動がスムーズだろうかと思うこと、たびたび。ニカラグアとかでは自転車に乗っている人がけっこういたのに、バスから見る限りじゃ、ほとんど見ない。たいして勾配があるわけでもないのに、なぜチャリに乗らないのか不思議。

前もって行きたいところを告げていたので、近くに来ると運転手が教えてくれる。

バスを降りたら近くにコロンビアのAvianca航空があったので、そこでチケットの値段を聞いてみる。パナマシティからボゴタ経由でキトに行く往復のチケットは586米ドル。やっぱり高い。片道を聞いたら550米ドル程度。ほとんど変わらない上、やはりここでもキトからの帰りのチケットを買わないといけないと言われる。

情報だけ聞いて店を出る。歩いて宿探し。ガイドブックに載っていた8ドルの宿を探す。ガイドブックに載っている住所に行くと、看板はあったもののどこから入ればいいかわからない。ビルの入り口にいた警備員に聞くと、ちょっと待ってと言って、カバンからこの宿のチラシを持ってきた。

それを見たら、この宿は引っ越ししたらしい。そこまでの道を教えてもらい、また歩く。宿はバスを降りた場所からけっこう離れていた。幹線道路のエスパーニャ通りからは歩いて10分足らずだが、そのエスパーニャ通りは一方通行で、ダウンタウンから来るバスは通れない通りになっている。

ダウンタウンから新市街に向かうバスはエスパーニャ通り(Avenida Espana:スペイン語標記ができないため文字が不正確)から500mほど離れた50号線(Calle 50)という通りを通る(正確には一本道でも区間によって名前が変わるため、別の名前の通りも通っている)。

しかも移転した先はゆるやかな坂道を上っていった先だった。料金も1泊10.5ドルになっていた。この暑さで、あの重さでこの距離はちょっと面倒だなと思い、他に安い宿がないか探す。

宿に戻る道を歩きながら、通りがかったトラベルエージェントでチケットを聞いてまわったりもする。

昨晩から泊まっている宿の周りには、他にもホテルがあるのだが、ぼろそうなところに行っても、たいてい20ドル以上。表に10米ドルと掲げている宿も値上げしたのか、10ドル台がほとんどない。

もうお昼が近くなっていることもあったので、新市街の宿に移ることにして、宿の近くの食堂で食事をする。地元の店だろうと思ったら入ったらカウンターにいたのは、台湾系の夫婦。彼らが店主らしい。他に地元の人がウェイターをやっている。

店主等はスペイン語で注文を聞いてくるが、ぼくが聞いても中国語あるいは台湾語なまりのスペイン語。つまり、声音(だったっけ)がついており、音程だけ聞いていると中国語かと思えるほど。

ぼくは彼らが何を言っているかさっぱりわからず。とりあえずぼくはスープが食べたかったので、それを伝えるが、まだ何か聞いてくる。で、わからずに首をひねっていると、店主等の後ろにいた生粋のパナマ人らしき男の人が、"Sopa y Arroz ,1 dollares"と言う。"Si"とぼくは了解すると、それでことは済んだ。

食事をすませ、宿に戻り、荷物を持ってバス停へ。どのバスも混んでいて、さっきと同じバスに乗れそうにない。まぁ、近くまで行けばいいやと、乗客の少ないバスに乗る。

すると、さっきのバスでは右に行った交差点をこのバスは左に曲がる。えーっ、なんかぜんぜん違うところに行きそう、と思い、次に止まったところで降りようと思ったが、方角的には近づいているようなので、しばらく様子を見て、おそらくここらへんのはずというところで降りる。そこはパナマ大学のすぐ近く。学生がじろじろとこちらを見る。

ぼくは宿の方に歩く。そのうち見えてきた看板を見ると、間違ってはいなかった。近くまで来ている。宿はVia Argentinaという通りにあるのだが、歩き方の地図には通りの名前がほとんど載っていない。よって、使えない。

これまでの経験でいうと、中南米でバスに乗るときには通りの名前が重要。それを載せていないなんて、ダメだ。あとでロンリープラネットをみると、倍ほどの紙面を割いているが、細かい通り名まで書いていた。こうでなくては使えない。

さて、地図の問題のみならず、パナマシティは歩いていても通りの名前がわからない。たまに通りの入り口には通りの名前を書いた看板があるのだが、基本的にはあまりない。

目的のVia Argentinaと接している通りには来たものの、どの通りがそれなのかがわからない。さっき通った雰囲気に似ている通りがあり、ここかなとも思うが、確認するため聞く人も近くにいなく、いやもうちょっと離れてるだろうとも思ったので、先に進むと、先の直感の方が合っていた。

ここかもと思ったが通り過ぎてから10分ほど歩いたところで聞いたら北方向を指さされ、がっくり。来た道には戻りたくないし、こっちの道もVia Argentinaにぶつかりそうだからと思って、そっちの道を歩く。果たしてねらい通りにVia Argentinaにぶつかったのだが、さっき通り過ぎた通りの入り口からは10mほど入っただけのところだった。ため息。

暑さと重さと坂道で、汗が噴き出し、指先から汗がしたたり落ちる。寝袋もあるし、もうここらの路上で寝るかな、なんて思いつつも、もうちょっとだからと言い聞かせ歩く。

坂道を上りきったところで、宿が入っているビルを前方に発見。通りの花壇の縁に座り、しばし休む。

また、気合いを入れ直して歩き、ホテルにチェックイン。旧市街の宿をチェックアウトしてから1時間以上たっていた。やれやれ。

部屋は2段ベッドが3つ入った6人部屋。先客が3人おり、みな学生くらいの女性だった。

荷物を置いて、フロントで宿代を前払いし、航空券を買いに出る。Copa Airlineに行ったが、やっぱり600ドル台なので、さっき行ったAvianca航空で買うことにする。一応、コロンビアにも滞在したことになるから、まぁ、いいかということで。

さっきとは別の女性が対応してくれる。さっきの人は英語を解したが、今度の人はスペイン語のみ。対応は丁寧だった。さっきとは違う人なので、念のため、自分は日本人だが、帰りのチケットは買わないといけないかと訪ねる。すると、別の人に聞いたりしてくれる。そして、机にあったパソコン画面をぼくに見せる。そこに英語で文章が書かれてあって、たしかに帰りのチケットが必要だと書かれてある。

搭乗拒否にあっても面倒なので、往復で買うことにする。ルートはコロンビアの首都ボゴタ経由。

トラベラーズチェックで払えるか聞いたところ、あまり扱ったことがないらしく、電話でどこかに問い合わせている。電話が終わって大丈夫とのことだったので、それで支払う。

プリントアウトしたチケットを見せながらスペイン語で”Entiende(エンティエンデ:わかりましたか)?""Completo(コンプレート:全部わかった)?"と、ひとつひとつ確認。ほんとに丁寧だ。

最後の方はよくわからない部分もあったが、チケットがあれば大丈夫だろうと店を後にする。店内は冷房がきいており、ちょうどぼくはクーラーの風が直にあたるところで手続きをしていたので、すっかり体が冷えてしまった。

冷えた体には外気は暖かく気持ちいい。

とりあえず今日のノルマは終わったので、あとはぶらぶら。銀行に行きたかったので、目的の銀行を探す。が、これがまた見つからない。あっちに行き、こっちに行きして見つかったのは夕方の5時過ぎだった。当然閉まっていたので、用事は明日すますことにする。

それにしても新市街には建築中の建物が多い。どれも100mはある建物でざっと数えても30階は越えている。これだけ高層ビルが建っており、かつ建築中でもあるまちは中米でははじめてみた。どれもマンションのようで、建築現場には高級感あふれる完成予定図が張られてある。

誰がこんなところに住むのだろうと不思議に思いながら歩く。

ちょっとまちから離れたところに行ってみようと思い、適当にバスに乗る。20分ほど乗って、野菜の露店が並んでいる場所で降りる。郊外というよりも中心部のまわりを走っている幹線道路沿いというところで、バス待ちをしている人も多い。

果物や野菜などを並べた露店が6軒ほど軒を連ねており、どこも品ぞろえは似ている。60cmくらいあるパパイヤは縦半分に切られて売られており、値段は0.7米ドル。安い。

買って帰ろうかとも思ったが、冷蔵庫にも入りそうにない大きさなので腐らせるだろうと思い、何も買わず。そのかわりでもないが、箸の露店がバティド(Batido:シェイク)を売っていたので、パパイヤのバティドを飲む。ジューサーにパパイヤの切り身を半分ほどまで入れ、そこへ牛乳、塩と砂糖と思われる2種類の白い粉、それから何かわからぬ黒い液体をちょびっと加えて、最後に氷を入れてスイッチオン。

量でいうと300~400mlある。味は、ちょっとなぁ、いまいち。パパイヤの味が損なわれている。ぼくの好みとしては白いものと黒いものを入れなかった方がうまいと思うんだけど。

暗くなってきたので、宿に帰る。

宿の周りの新市街にはカジノがあり、24時間開いている大型のスーパーもあり、有名ブランドのスポーツショップやアウトレットショップもある。

旧市街では1ドルちょっとで食事ができたが、ここらにあるファストフード系などの店の値札を見ていると最低3米ドル。日本で考えても高いと感じるくらい。

ここらで食事をしている人たちなんて、ぼくより金持ちなんだろうなと思いながら宿に戻る。

晩飯は、宿に戻る前にスーパーの駐車場にあった露店でホットドッグと大きなジャガイモに味のついたご飯を詰めあげたものを食べる。それぞれ1米ドル。ホットドッグのソーセージは化学物質いっぱいそうで、ちょっとひいたけど、まぁ、こちらの人がけっこう食べていたので、試しにと思い食べる。kれで腹一杯。

宿に戻ってからは、無料のネットをしたり、本を読んだり。

ロビーのソファで本を読んでいると同宿の女の子が”日本人ですか?”と話しかけてくる。そうだというと、自分の母親が日本人だという。ただ、日本語はほとんど話せないようですぐに英語になる。どこから来たのか聞いたらドイツから来たらしい。

宿のにいちゃん(宿主の息子らしい)は、またけったいな奴ですでにぼくのことを日本人をわかっているから、ぼくとすれ違うときにふざけてお辞儀をする。ただ、その仕方は日本人のスタイルと曲げ方とかお辞儀をする速度とかが違うので、最初は何をしているのかわからなかった。あとは手を合わせてみたりとか。そんなことご飯を食べるときとかしかしませんから。

またもや不覚なことに、部屋に扇風機はあるものの、ぼくのベッドまでは隣の人が邪魔になって風が届かず。窓は近くにあるものの風は入ってこない。電球も一つしかないから暗い。

12時には部屋の電気が消える。また、熱帯夜の日々が始まった。

08/04/14 キトよりアップ

シクサオールからパナマシティへ

2008.4.8(火)


・忘れ物危機一髪
・国境はバナナ鉄道
・1時間後の世界
・約15時間の移動

5時頃、目覚める。扇風機をつけて寝ていたら朝にはちと寒くなった。外からはいろんな鳥の声がする。近くからは鶏の鳴き声と牛の声も聞こえる。

部屋をでてみると、部屋がある建物の裏は牛の遊び場になっており、1頭の牛が部屋がある敷地とその遊び場の境まで来ていた。境には有刺鉄線があるからこちら側には入ることはできない。一方、こちら側は鶏の遊び場になっていて、雄鶏・雌鶏がせわしく羽をばたつかせながら走り回ったりしている。そして、ときおりコケコッコッーと雄鶏が鳴く。ぼくが歩いていると鶏が集まってくるので、どうも餌をくれると思っているらしい。

ホテルが面している道路沿いにでる。このホテルは路線バス(長距離含む)の終着点にもっとも近い宿ということで、その運転手等が泊まっており、ホテルの前には10台近くバスが止まっていた。5時過ぎだが、もうだいぶ明るく、道端に停まっているバスの何台かからは低いエンジン音が聞こえる。小学生くらいの子どもたちが、そのバスに乗り込む。こんな朝早くからどこへ行くのだろうか。道路には人の姿はほとんどない。

バスに近づいていき、運転手の女性にパナマに行きたいんだけど、と言うと、タクシーで行ったらと言われる。が、そのあと、考え直したように”Pase(パセ:入って)”と言って乗せていってくれるようなことを言う。荷物を持っていなかったので、スペイン語で”荷物、荷物”とホテルの方を指さし、ちょっと待ってと言って部屋にあわてて戻る。

部屋に戻り、荷物を整理して、バスがいたところに急いで戻ると、バスはすでにいなかった。

リュックを背負ってバスのまわりをふらふらしていたら、準備をしていた別のバスの運転手がどこに行くのか聞いてくる。パナマと言うと、乗れと言われる。

ありがたい、ありがたいと思いながら、乗り込む。進行方向左手、カリブ海の方に太陽が見える。沿道の家家は高床式で、その奥にはわりと大きな集落が見える。

正面からは自転車に乗った男の人たちが数名、こちらに向かって走ってくる。

5分もしないうちに国境に到着。こんなに近かったとは。バス自体は国境に入る道路から左にそれ、路線バスの終着点であるターミナルに行く。その手前で運転手は降ろしてくれる。

国境に入るための道は1本のみ。まだ国境が開いていないのか、路上には20台以上トレーラーが止まっている。パナマ側からは何人もの人が歩いてこちら側に来るので、てっきり歩きの人は通過できると思っていたが、そうではなかった。

バスから降りて国境の方に向かうと、アフリカ系の男性2人が英語で話しかけてくる。トレーラーの運転手らしい。どこに行くのかと聞いてくるので、パナマだというと、パナマのどこだと聞いてくる。細かいことを聞いてくるので、もしかしたらタクシーの運転手かとも勘ぐったが、そうではなかった。彼はそこをまっすぐ行って、コスタリカのスタンプとパナマのスタンプをもらって、その先に行くと左手にタクシー乗り場があって、右手にバス乗り場があると教えてくれる。

トレーラーの間を縫って、歩いてくる人たちが出てくる方向に行くと、目の前に鉄橋が現れた。鉄橋はコンクリートやアスファルトで舗装されてはおらず、分厚い板が路面には敷かれている。それもよく見ると板の間には線路が見える。どうも元線路だったところを車が通れるよう、分厚い板を敷いて段差をなくし、平たくしているよう。

パナマ側からはその板の上を歩いて、パラパラと人が渡ってくる。長靴を履いている男性が多い。

確認したわけではないので、はっきりとは言えないが、つまり、ここの場合、パナマとコスタリカをつないでいるのは、バナナの運搬用に敷かれた昔の鉄道用の鉄橋のようだった。

鉄橋の手前右手にはイミグレの建物があるが、鉄格子の入り口は閉まっている。左手奥には警官が何人かいておしゃべりしていたので、そちらに行ってパナマに行きたい旨を伝える。すると、イミグレの建物を指さして、スタンプを押さなければいけないというような仕草をする。そして、イミグレは7時に開くと教えてくれる。

時間はまだ5時40分。6時の間違いじゃないかと思い、またしばしば7(シエテ)と6(セイス)を間違えるので、時計を見ながらその警官に”1 hora(ウナオラ)?"
と聞くと、”そう、まだ1時間ある”と答える。

こんなことならホテルでゆっくりしておけば良かった。これからまた戻るのは面倒だからイミグレの鉄格子の前に荷物を降ろし、そこで待つことにする。あたりは木々にかこまれており、そこから何種類かの鳥の声が聞こえる。

そういえば、パナマは米ドルだから、細かい米ドルを用意しとかないといけないなと思い、財布と貴重品を入れていたバッグの中を探る。そんなことをしていたときに、ふとトラベラーズチェックと保険証書、さらにイエローカード(黄熱病の予防接種証明書)を入れた袋がまるごとないことに気づく。

ゲゲゲっと思い、どこにやったかを急ぎ思い出す。そう言えば、昨日、宿に着いたとき、ベッドの下に隠したような・・・。一応、リュックの中や手持ちのカバンの中を確認したがない。やっぱり宿に置いてきたよう。

急いでリュックを背負い、バスターミナルに向かう。さっき会ったアフリカ系の人が、パナマに行くんじゃなかったのか?と聞いてくる。忘れものをしたと言うと、パスポートかと聞いてくるが、そこは曖昧にして答えず。

バスターミナルに行くと、さっき乗せてくれた運転手がいて、パナマに行くんじゃないのかと聞いてくる。それで、手元の辞書で忘れたという単語をひき、適当なスペイン語でホテルに荷物を忘れたと言うと、パスポートか、と彼も聞いてくる。ここもとりあえず曖昧にして、出発しようとしていたバスの方に行く。こちらの運転手はいつのまにか去っていた最初の女性の運転手だった。

どこに行くのか聞くので、ホテルだと言う。どうも事態が飲み込めないようで、スペイン語でなにやら聞いてくるが、何を言っているのかわからない。さっき見たはずの忘れたというスペイン語の単語はすでに頭から飛んでおり、また調べる。すると後ろからさっきの運転手が大声で何やら伝えてくれる。それを聞いてようやくわかってくれた。

タダで乗せてくれるかと思ったが、一応、値段を聞くと容赦なく350コロン(約80円)と請求される。なんだよ、たった1kmくらいなんだからもっと安くしてくれよ、とスペイン語ができれば言いたいところだが、言えず。

バスは基本的に均一料金の前払い制。日本のように距離ごとに細かく料金が分かれていない。遠いところに行くには、非常にありがたいのだが、今回のように近場に行くときは損した気分になる(実際は遠い所に行くときには得しているんだが)。

バスはPuerto Limon行き。すでに20人くらい乗客がおり、ホテルに着くまでの間にも10人近く乗り込んでくる。

すぐにホテルの前に着く。バスを降りるとちょうどホテルの管理人のおじさんが表にいた。また、忘れるという単語を忘れる。おじさんに”en habitacion,mi equipaje(部屋に、私の荷物)”と片言スペイン語で言うがまったく伝わらず、おじさんは”1泊1人5000コロンだ”と聞いてもいないことを言う。やはり状況がまったくわかっていないよう。

そんなの昨日泊まったから知ってるよと思いつつ、また忘れるという単語を辞書で調べ、見せる。すると、すぐにわかって、部屋の鍵をくれる。

果たしてベッドマットをどかしてみると、捜し物はそこにあった。まったくアホだ。せっかくただで国境までいけたのに。少し部屋でゆっくりして、今日、使いそうな金額ぶんのお金を用意して、再度宿を出る。

ホテルの前には2台、バスが止まっていたが、その運転手らしき人はいない。まったく発車する気配がないので、ため息をひとつつき、歩いて国境に向かう。

制服を着た中学生くらいの男の子が二人前を歩いている。気温は30度にはなっていないようだったが、日差しはすでに強く、汗がじわじわと染み出してくる。

15分ほど歩くと、トレーラーが見える。また、トレーラーの間をぬって歩いていると、野球帽に半袖のポロシャツ、セミロングのジーパンにスニーカーという軽装のムラートのにいちゃん(30代くらいか)が英語で話しかけてきた。そして、どこに行くんだと聞いてくる。パナマシティだと言うと、タクシーを勧めてくる。

予定では、国境を渡ったところで、バスに乗り、パナマ側の国境近くでは交通の拠点になっているチャンギノーラ(Changuinola)というところまで行き、そこでバスを乗り換え、太平洋側のダビ(David)に行き、そこでパナマシティ行きのバスに乗り換えるつもりだった。

そのにいちゃんは、チャンギノーラまではタクシーで行ったほうが早くていいという。どれくらい時間がかかるか聞くとチャンギノーラまでは30分と言う。運賃を聞くと10米ドルと言う。30分で10米ドルは高いなと思い、妥当だと思う5米ドルにできないか聞くと8米ドルと言う。

彼は横浜や神戸に居たことがあるそうで、日本人にとっては8米ドルなんて安いだろと見込んで、そのような値段を言っているようだった。

考えている間、彼は加えて、国境の向こうでもしタクシーをひろうとなれば15米ドルは要求してくるはずと言う。さらにタクシーを使えば、今日の夜8時くらいにはパナマシティに着けるとも。チャンギノーラからダビまでは10米ドル、ダビからパナマシティまでは12.5米ドルかかるということも教えてくれる。

彼の話から推測すると、バスで行くとすれば、待ち時間も入れるとチャンギノーラまで1時間ちょっとはかかりそう。そうするとパナマシティ着はそれだけ遅くなる。到着が夜になることは避けられそうにないようだが、できるだけ早くつきたい。

そういうわけで、8米ドルの出費は許容するかと思い、彼にOKを出す。すると彼は”Vamos(バーモス:行こう)"と行って国境に向かって歩き出す。

イミグレの建物の前に着き"You have to wait here"と彼は言う。さっきは誰も居なかったが、4人ほどイミグレが開くのを待っていた。

待っている間、彼はぼくに名前を聞いてきて、自分の名前も名乗る。Jose(ホセ)と言うらしい。彼はマリーンで働いていたらしく、日本の他にも中国や香港、ベトナムのサイゴン(ホーチミン)、インドなどに行ったことがあるらしい。

彼はぼくにコービーを知っているかと聞いてくる。コービー? 知らないというと、携帯を取り出し文字を見せる。見ると"koby"とある。はて?

そこで思い出したのが、NBAのスタープレイヤー、コービー・ブライアントの話。聞いた話によると彼のコービーという名前は、彼の両親が日本の神戸が好きだったかなんかで、その神戸から取った名前らしい。

もしや彼も神戸のことも言っているのかと思い、まちの名前かというと、"Yes, big city!"と言うからやはり神戸のことのようだった。

彼は"Japan is rich country."と言って、技術力は高いし、まちはとてもきれいだと付け加える。インドは嫌いだと言うので、なぜか聞くと彼の答えは”Too dirty"だった。

また、彼はベトナムにいたときに良い女の人がいて、その人とパナマで一緒に暮らそうと思いもしたらしいが、彼女をパナマまで呼び寄せるための飛行機代が高くて、それは諦めたらしい。たしかにベトナムからパナマじゃ20万円近くはかかるだろう。ベトナムじゃ20万円なんて、いい給料をもらっている人でも数年ぶんの収入だし、パナマ人にとっても金持ちじゃないとなかなか出せない金額だろう。

7時。イミグレの窓口が開く。パスポートを持って待っていたら、ぼくの後ろにいた男の人がこれが必要だと言って、彼が持っていた出国カードのようなものを見せてくれる。どこで手にはいるか聞くと、窓口の方をあごでさす。

窓口の男性にドキュメントをくれというと、何もいわずにくれる。そこに必要事項を記入し、それとパスポートを持って待つ。

10分ほどで自分の番がまわってくる。それらを出すとパナマに行くのかと聞かれただけで、他に質問はなし。スタンプを押してくれる。

さて、次はパナマの入国手続き。問題はこちら。情報によるとかなりの確率で、陸路での入国でも出国用のチケットの提示を求められるとあった。それは飛行機でもバスでもいいらしいが、昨日の結果、飛行機のチケットはないし、バスのチケットも買っていない。さてさて、どうなることやら。ただ、この国境の雰囲気から言うとチェックはぬるそう。

鉄橋を歩いて渡る。歩行者はトレーラーなどが通る脇の鉄板の上を歩く。基本的にさびていて、一部隙間ができている。近いうちにこれは作り替えるなり改修するなりしないと、この鉄板もさびて弱くなり誰か落っこちることになるんじゃないかと思えるくらい。

鉄橋の下には幅30mくらいはある川が流れている。水の色は茶色。鉄橋の真ん中よりややパナマよりまで行くと、歩行者用の通路は欠けていて、前から来る人たちはトレーラーが通っている真ん中部分(枕木)を歩いていた。混雑しているのか、トレーラーが2台鉄橋の上で止まって動かない。前からも人が来るので、道を譲り合いながらでないと、前に進めない。

距離にすれば50~100mほどだろうか、鉄橋を渡り終え、パナマに入国。

パナマ側に上陸すると、靴磨きの道具を持った10歳前後の男の子が二人いた。鉄橋を渡り終えた左手にパナマ側のイミグレがある。ホセがこっちだと言って、そこを案内してくれる。

そこの窓口の女性にパスポートを出す。手続きが終わるのを待っていると、その靴磨きの少年の一人が寄ってきて、何やら言う。何を言っているのかわからなかったが、どうも靴を磨かせてほしいと言っているよう。ぼくのはランニングシューズだし、第一くさいから彼に良くない。

なので、断る。特に質問もなくパスポートは戻ってきた。パスポートを返しながら女性が何か言うがよくわからない。それをホセが訳してくれて、こっちでツーリストカードを買わないといけないと案内してくれる。

ぼくが理解したのを見て、窓口の女性はぼくの横にいた靴磨きの男の子を呼び、なにやら叱っている。彼はにこにこしながらそれを聞いていたが、たぶんここでの商売は禁じられているのであろう、バス乗り場などがある方へ歩いていった。

イミグレの窓口の3つほど隣に、また事務室があり、そこに入る。事務室には年輩の男性が一人いて掃除をしていた。彼がここの主らしく、ホセが彼に何か言うと、彼は机に書類を取り出し、ツーリストカードを発給する準備を始める。

名簿に自分の名前と国を書くように言われる。名簿を見るとUSAやAustraliaの人の名前がある。

すぐにツーリストカードは発給され、それをパスポートと一緒にしまっていると、ホセが入ってきて、それにスタンプを押してもらわなければいけないと言って、それを渡せと言う。渡すと、さっきの窓口に行ってスタンプをもらってきてくれる。

これで入国手続きは完了。

時計を見ているとホセが、パナマは1時間プラスだと教えてくれる。今の今まで7時すぎだったのに、橋を渡ると1時間後だった。時計の針を1時間すすめないといけない。

線路後を歩いていくとすぐに左手にタクシーが数台止まっているところがあった。そのうちの一台に案内され、運転手を紹介され、彼に8ドル払うようにホセに行われる。てっきりホセが運転手だと思っていたので、こうなるとは思っていなかった。

荷台にリュックを乗せる。後部座席にはすでに3人の地元の乗客が座っている。これまたてっきり一人乗りだと思っていたが、外れた。乗り合いタクシーとなれば8米ドルはかなり高い。でも、いまさらごねるのも格好悪いので颯爽と車に乗り込む。

タクシーに乗り込むとホセは握手を求めてきて、英語で別れの挨拶を言う。

車はすぐに発車。トヨタ製のタクシーは快調にとばす。道路も舗装されきれい。右手にはすぐに広大なバナナ畑が見える。

20分ほどでチャンギノーラのバスターミナルに到着。そこでダビ行きのマイクロバスに乗り換える。マイクバスの運転手に促され、リュックを後部の荷台に乗せる。良かった、これで雨がもし降ってもリュックが濡れることはない。

待つこと20分ほど。パナマ時間9時過ぎにバスは発車。発車と同時に頭の上から冷気が降りてくる。このバスも運転手と客寄せ兼集金の二人体制。客寄せ担当の方が、車の窓を閉めるよう言う。せっかく窓際に座ったのに、これじゃだいなし。しかもスモークがかかっているから、外界の色がちょっと変わってしまう。

頭の上から吹き付けてくる冷気は異常に冷たく、汗が一気に冷える。止めようと思っても、操作できないよう防御されている。それもあり、2度だまって窓を開けたが、その度に注意される。いつもそうしているのか、あるいは窓を開けるのを警戒してか、集金担当の彼は後ろを向いたまま立っているので、3度目はできなかった。他の乗客も強すぎる冷気を気にしている様子。一人の若い男は上着を取り出し、それを着ていた。なんで運転手に弱めろとみんな言わないのか、不思議だ。

チャンギノーラのまちは思いの外大きく、しばらく商店が並ぶ道沿いを走る。バナナのまちということなのか、道沿いに見えるレストランの中には、チキータバナナという看板を掲げいる店もある。

まちを外れると車道横に線路跡が見える。線路の脇には民家が建ち並び、それを抜けるとまたバナナ農園が広がる。

20分ほどすると、バスは信号待ちで停車する。信号は鉄橋の入り口にあり、ここも国境と同じく鉄道用の鉄橋のようだった。停まったバスにバナナチップスをかかえたおじさんが寄ってくる。が、入り口のドアは開かない。昨日の晩はクッキーを少し、今朝は何も食べていないという状況だったので、窓を開け、おじさんに向けて手を振る。おじさんは気づき、こちらにやってくる。値段を聞くと50センターボ(0.5米ドル)という。袋には小さい紙が付けられていて、そこには商品名と賞味期限らしき日付まで書かれてある。道売りの人から買ったもので、こんなものが付いてるのは初めて。

バスは、徐々に山の中に入っていく。山は、コスタリカ同様緑の種類が豊富。だが窓が開けられないのが、残念。

くねくねした山道を走っていくと、道に沿って高床式で椰子の葉葺きの家々が見えてくる。ベリーズで見た先住民系の人たちの家と同じ。沿道には制服を着た中学生くらいの男の子や女の子がときどきいて、何人かはバスに乗り込んでくる。たまに民族服を着た人もいるが、ベリーズの同様の地域やグアテマラに比べれば圧倒的に少ない。

パナマにも先住民系の民族が つあり、 と は自治区になっている。そのうちの は観光を受け入れており、観光客も行けるが、残りのふたつは基本的には入れないことになっている。

その地域にここが当たるのかは、勉強不足でわからない。

座席はすでに満席だったので、途中で乗ってくる子等は通路にギュウギュウに押し込められる。モンゴロイド系の子が多いが、アフリカ系の子やヨーロッパ系の子も見える。彼らは途中、学校の前でみんな降りていった。

11時30分、Chiriqui Grande(チリキグランデ)というまちのターミナルに到着。ここで客が3分の1ほど入れ替わる。

待っている間は、エンジンを切るため冷房も切れる。久々に窓が開く。そしてそれ以後は、2度と冷房が付くことはなかった。山の間だけということなのか、それとも単なる気まぐれか、なぜこの間だけ窓を閉めて切っていたのか謎だ。すれ違うバスの中には、窓を開けて走っているのもあったのに。

バスはさらに山の中に入り、ときおり左手にはカリブ海が見える。あいにく曇っているから、海の色も冴えない。右手には山並みが見え、見た感覚だと1000m超の山々が連なっている。相変わらず緑は濃い。

段々と窓から入ってくる風がひんやりとしてくる。

苦しそうに山道を登り終え、下りに入ると右手奥には平べったい空間が広がっているのが見える。曇っていて、空と地上との区別が判然としないためわからないが、おそらく晴れていれば太平洋が見えるのではないかと思う。ようやく太平洋側に出たのは間違いなさそう。

カリブ海側は緑の濃い熱帯雨林という様相だったが、一転して太平洋側の山の斜面は放牧場になっている。こちらの方が、傾斜がゆるいということもあるのだろう。

それから下りは、ずっと放牧場が続く。窓から入る空気も生ぬるくなってくる。グアテマラ同様、牛の数にしては土地が広すぎるように思うが、季節によって牧場の使い方が違ったりするのだろうか。なぜこんなにだだっ広いのか、謎だ。

チャンギノーラを出て、約5時間後、パナマ時間の13時半頃、ダビのバスターミナルに到着。久々の本格的なバスターミナルで、楕円形場の建物を取り巻く形で、各地に向かうバスが止まっている。

バスを降り、荷物を背負う。さて、パナマ行きのバスはどこかときょろきょろしていたら、建物の壁にこのターミナルの見取り図が貼られていた。これはありがたい。

それを見ると、このターミナルには40近くの乗り場があり、それぞれで行き先が違う。パナマ行きは29番乗り場で、一番北側。乗り降りしている乗客も多く、店も多い。面白いと思ったのが、売店で鞍を売っていること。土産物にしては、こんなところで売るのは不適当だと思うので、おそらく実用品なのだろう。

見取り図のおかげで迷うことなく、パナマ行きのバス乗り場にすぐにつく。運のいいことに、ちょうど14時発のバスがあった。窓口でチケットを買う。12.5米ドル。

乗り換えの時間が15分ほどしかなかったが、売店でハンバーガーとトルティージャケーキ(?トウモロコシの粉で作った蒸しパンみたいなの)を買う。二つ合わせて3米ドル足らず。コスタリカより安い。

バスは大型バスで、車内には2カ所ブラウン管のテレビがぶら下がっている。ほぼ満席。窓は開けられないようになっており、また寒い思いをするのかと思いきや、奇跡的なことにこのバスの温度設定はまともだった。

たぶん25度程度で、暑くもなく寒くもなく、やや涼しいと感じるほど。こんなまとな温度設定はアメリカ以来。やるな、パナマ。

気持ちの良い温度に、腹も膨れて、あとは終点を待つだけという気楽な状態になったこともあり、だんだん眠くなる。幸いなことに(?)窓の外は、雑草地ときどき牧場、ときどき民家とあまり変化がない。寝る。

バスは時折乗客を降ろしながら走る。

ダビを出て、約3時間後、Santiago(サンチアゴ)のターミナルに到着。レストラン付きのターミナルで、ここでみんな夕食をとる。ぼくもPapas salteadas(ジャガイモのペースト)とGuacho Deldoreo(※スペルが合っているか疑問。トマト味の鶏肉と野菜の炒め物)、Arroz con lecheを食べる。それぞれだいたい1ドル。

Arroz con lecheは、グアテマラシティで飲んだような暖かい飲み物としてではなく、ゼリーのように小さいカップに入った冷たいデザートとして売っていた。グアテマラシティで飲んだものよりも甘い気がする。

30分ほどここで休憩して、バスはまた走り出す。だんだんと空は暗くなり始め、6時過ぎには完全に暗くなる。暗くなると車内ではテレビで映画が放映される。

うとうとしながら、窓の外を見ていると、空がときおり光っている。音は聞こえないが、雷が鳴っているよう。国境で会ったホセは、20時にはパナマシティに着くと言っていたが、どうもその見込みは甘いような気がしてきた。グアテマラシティで買った中米の地図を見ても、もう1時間ちょっとで着くとは思えない。

雷の光を見ながら、パナマシティも雨が降っていたら最悪だなと思う。そもそもバスがどこに着くかわからないし、安宿街は治安が悪いらしいから、歩いて宿を探すのはちょっと面倒だな、と思いながらうとうと。

そして気が付いたら、パナマシティに着いていた。楽しみにしていたパナマ運河を渡る瞬間を完全に見逃す。地理的にはパナマ運河を渡ることで南米大陸に入ったことになるのだが、その瞬間を不覚にも逃すとは、アホだ。

まわりをみるとみんなバスを降りようとしているところで、ぼくも荷物を持って外に出る。

驚いたことに、ここのバスターミナルもでかい。2階部分にバスは止まったようで、一階部分を見下ろすとそこにもバスがどんどん入ってきている。ここも楕円形状になっており、建物の外側が乗り場になっている。そして建物の内側は10m近くある広い通路の両脇にきれいな店がずらっと並んでいる。

時間は21時30分。

リュックを一旦ベンチに置き、さてここからどうするかなぁ、と考えていたところへ、会社の制服を着た女の人が話しかけてきた。"Habla espanol(アブラ エスパニョール:スペイン語はしゃべれますか)?”と聞いてきて、少しと答えると、ホテルを探しているのか聞いてきた。そうだと言うと、トイレ付き、お湯が出るシャワー付きで20米ドルの部屋があると言う。

どうもホテルの売り込みの人らしい。見ると、近くにはホテルの写真、連絡先などが書かれた看板があり、その下には空港のインフォメーションのような受付ボックスがある。

聞くとホテルまでの送迎も含めて20米ドルと言う。パナマシティでは8米ドルくらいの宿に泊まろうと思っていたので、ちょっと予算オーバー。聞いても安くはならないらしい。

自分で探すとなるとここからバスに乗ってホテル街までどれくらい時間がかかるかわからないし、安宿がすんなり見つかるとも限らない。そうすると下手したら宿を決めるのに23時くらいまでかかる可能性もある。あれこれとしばらく逡巡した結果、予定を変更してこの宿にすることにする。

1泊だけと頼むと、迎えが来るから待ってとその女性はいい、ボックスの方で新聞を読み始める。

15分ほどしてHotelと書かれたトヨタのワゴンが到着。それに乗り込む。運転手は若いおにいさん。これがなかなかひどかった。

急発進、急ブレーキは当たり前。おいおい、アクセルの踏み方おかしいだろ、と思うのだが、キュッキュキュッキュと踏み込む。そして、交差点ではポッピングブレーキ。ヤン車ならともかく客を乗せたホテルの車がポッピングブレーキなんて、そんなことありえませんから。

背負いなおすのがめんどくさいからと、ぼくはリュックを背負ったまま車に乗っていたため、前に横に振られる振られる。おにいちゃんは、そんなことに気づいているふうもなく、ゴキゲンよろしく運転している。

オレンジ色の街灯の光をくぐり、静かに夜のパナマシティに入っていくつもりが、なんですかこれは!

幸いなことにホテルはターミナルからそう遠くなく15分ほどで宿に着いた。やれやれと思いながら車を降りる。このにいちゃんは、ぼくの荷物を持とうともしない。こちらではマイクロバスの運転手などは、客の確保のためだろうが、率先して荷物を運んでくれたりするのが当たり前だったから、あんたちょっとマイクロバスの運転手とかに弟子入りしたらと思うも、そんなことは言えず。

ホテルの受付で、宿泊カードに名前などを書き、1泊ぶんの料金を払う。鍵をもらう。408号室。エレベーターはなく、疲れた体にむち打ち、リュックを背負って4階まであがる。

ホテルは日本で言うビジネスホテルそのままという感じ。部屋はこちらの方が広いが、机にエアコンに、トイレとシャワールーム、ケーブルテレビがある。扇風機派のぼくとしては扇風機がほしいのだが、あいにくない。

シャワーを浴びて、ベッドにねそべりテレビを付ける。ここも圧倒的にアメリカの番組の吹き替えなどが多い。フランス語やドイツ語の番組はない。

CNNにチャンネルを合わせていると、ハイチのニュースが数秒だけ流れる。ポルトープランスをパトロールしていた国連軍の兵士が発砲したらしい。映像を見ているとぼくが泊まった宿の前にあった中心部の広場で、それは起こったよう。トラックに乗ってパトロールをしている国連軍に対し、ハイチの人が抗議をしていたら、突然ある兵士が発砲した様子をテレビは放送していた。

夜は蒸し暑さで何度か目覚める。パナマは蒸し暑い。