2008年7月16日水曜日

サントスのまちへ

08/06/17(火)くもり

・あんぱん、ミルクパン
・日本語の本屋
・サントス

7時過ぎに起床。おじいさんはすでに出かけたよう。昨日買ったパンを朝飯代わりに食う。また、やはり昨日かったピーナッツを頬張る。が、これが生だった。やれやれ。

1階に降りてテーブルにあった日本語の新聞2紙を読む。面白かったのが100周年のイベントに関わる記事。

9時過ぎに宿を出て、近くの日本人移民資料館に行く。が、資料館は午後1時過ぎからだと入り口の受付にいた無愛想なおじいさんに言われる。そのおじいさんに100周年のイベントについてまとめたスケジュールパンフのようなものはないか聞くと”さぁ、ここにはないですね”とそっけなく言われる。どこに行けば手に入るかと聞くと、これもやはり”サァ”との返事。この対応! 一大イベントだろうに、この要領と関係団体との連携の悪さ! まさしく日本的。う~ん、素晴らしい。日本的なものがしっかり根付いている。

アホかと思いながら、資料館をあとにし、ネット屋でメールチェック。

今日は昨日行っていないサンパウロ市内をふらつこうかと思っていたが予定を変更。日本人移民が最初に着いたというサントスのまちに行くことにする。

地下鉄に乗って(2.4ヘアル)、終点まで行き、そこからサントス行きのバスに乗る。運賃15ヘアル(約1000円)。

9時45分のバスに乗り、サントスのバスターミナルに着いたが10時前。寝ていたのであっと言う間だった。

バスを降りて、ターミナル内のインフォメーションに行く。地図をもらう。インフォメーションのおじさんは、いわゆる小人病(だっけ?)の人だった。親切なことにポルトガル語と英語とどちらがいいか聞いてくる。てっきり地図のことか思ったが、そうではなくしゃべる方のことを聞いているのだった。

”英語で”とお願いすると、どこに行きたいのかと聞いてくるので、日本人移民の像があるところに行きたいと言うと、地図上に位置を示し、何番のバスに乗れば行けると教えてくれる。さらに明日サントスで日本人移民に関するセレモニーがあると言って、セレモニーの会場の位置と時間を教えてくれ、さらにここに行けばもっと詳しいことがわかるだろうと日本人がやっているらしい店の名前を教えてくれる。その店の人は、おじさん柔道(柔術?)の先生だという。

ここまで情報を持っていることに驚くとともに感謝。そういうわけでバスに乗ってまちの中に入る。

バスは2.2ヘアル。ターミナルから乗るときは、電車の改札のように窓口でチケットを買って改札機を通ってからバスに乗り込む。まちから乗り込むときは前のドアから乗り、運転手に運賃を払うなり、切符を持っていればそれを改札機に通し、回転バー(実際はバーではないのだが)を押して中に入る。

バスはまちの中を通る。想像していた以上に大きいまちで何よりよく整備されている。自転車道が敷かれ、そこをチャリに乗った人らが走っていく。高層マンションの間に古い教会があったりする。

目的地にたどり着く前に銀行があったので、そこで両替。米ドルのトラベラーズチェックを現金化したら1米ドル=1.54ヘアルというレートでがっくり。ため息が出る。ちなみにボリビアとの国境では米ドル現金が1.8ヘアル。

またバスに乗って目的地に向かう。バスは浜辺(ビーチ)に沿って走り、車窓からは砂浜に設置されている遊具で遊ぶ子やサーフィンをしている人たちが見えた。気温15℃程度で、かつ曇りだからさすがにサーフィン意外は海の中で遊んでいる人はいない。天気のせいか海はあまり美しくない。ウグイス色に濁っている。

このビーチ沿いは、公園が整備され、その中にモニュメントがいくつかぽつぽつと建てられている。日本人移民のブラジル上陸記念碑もその中にあった。道路を挟んでビーチと反対側には高層ビル(マンション)が立ち並び、いかにもリゾート地という雰囲気が漂っている。

ビーチを通り越したら、今度はヨットやボート、漁船などが停まっている湾沿いにバスは走る。適当に降りたが、目的地が見あたらず、近くの船着き場の人に聞く。

現在地を教えてもらい、目的地に向かう。インフォメーションの人は、Estrela de Ouroというところに行けば、明日の情報は得られるとのことだった。バスを降りてから15分ほどで、その文字が入った建物を発見。建物の横は魚市場になっていて、10軒ほどの魚屋がいろんな魚を並べて売っている。たこやいか、冷凍もののエビなどもあり。

建物の入り口に行くと、日系人らしい白髪のおじいさんがいたので、日本語で声をかけるとポルトガル語で日本語はわからないというようなことを言われる。

なので、適当に建物の中に入る。なんの建物かと思っていたら日本料理を出すレストランだった。100人以上が入れるくらいの広さで、内装はビアガーデン的。

次に声をかけた人は、見た目60歳くらいのおじさんで、ぼくがしゃべる日本語は解した。ただ、おじさんがしゃべる日本語は、助詞が抜けたりする日本語。明日のことを聞いたら、迷惑そうな顔をすることもなく対応してくれる。が、どこで何時にあるかということは知らなかった。ただ、食事はこの店で食べるということだけは確実な情報らしい。

結局、インフォメーションで聞いた以上の情報はわからず。ビーチの方に向かって歩く。高層マンションが建ち並ぶ住宅街の中を歩く。ゴミ置き場はアルゼンチンと同じように、地上から1mくらいの高さに鉄枠があり、そこに置くスタイル。道ばたにはゴミはほとんど落ちていない。

英会話スクールや英語とスペイン語の会話教室の看板も見える。また、日本の高級スーパーに似た作りのスーパーや、ぼくには一生縁のなさそうな高級そうなレストランも並ぶ。総じて高級住宅街っぽい。

浜辺に出る。さっき通り過ぎた日系人の碑に向けて、公園を歩く。車道沿いには片道1車線の自転車道が伸び、そこをマウンテンバイクやロードレーサー、こちらではママチャリにあたりそうな自転車が走る。また、アルバイトなのか、企業の広告を貼り付けた自転車を漕いでいる人たちもいる。

浜辺をサッカーらしきユニフォームを着た女子(高校生くらい?)がランニングしている。レガッタよりももっと大きなボートをこれから海に出そうとしている男子(大学生?)もいる。

椰子の実ジュースやポップコーンなどを売っている露店や屋台があるが、少ない。面白いなと思ったが、浜辺に図書館があったこと。小さな図書館で、10~20畳のワンフロアのみ。自動ドアを入ってすぐが閲覧席になっており、10人近くの人が本を読んでいた。

日本人移民の上陸を記念したモニュメントにたどり着く。写真を1枚撮る。すぐ近くで日系らしい白髪のおじいさんがポップコーンやチュロスを売る屋台をやっていたので、買いに行ってみる。

日本語で声をかけようかポルトガル語で声をかけようかと迷っていると、おじいさんと目が合い、ポルトガル語でなにやらあれこれと言われる。当然、わからないので、首をひねっていると、”日本人ですか?”と日本語で聞かれる。

”そうです”と応えると、”今、向こうに行っているからちょっと待って”と言われる。意味がわからなかったが、とりあえず待つ。しばらくして浅黒い肌のおばちゃんがやってくる。おじいさんは、おばさんの代わりに店番をしていたらしい。

そのおばちゃんにおじいさんは、何とかとポルトガル語で言い、おばちゃんは、どれがほしいのかとポルトガル語で聞いてくる。ポップコーンをポルトガル語でなんと言うのかわからなかったので、指さしで注文。2ヘアル(約140円)。

立ったまま食べ始めるとおじいさんが、”まぁ、かけてください”と椅子をすすめてくれる。促されるままに座る。おじいさんとおばさんは、ポルトガル語であれこれとしゃべっている。

おばさんとの話が一通り終わってから、おじいさんもチュロスを頬張る。横に座ってしばらくおしゃべり。

おじいさんは、移民の碑を指さし、”明日で1回目の移民が来て100周年になるね”と言う。そして、”あれは橋本(龍太郎元総理)さんが送ってくれたのよ”と続ける。”橋本龍太郎も死んじゃいましたね”と言うと、”ああ、あの人死んじゃったの?”と知らなかったようだった。

それからしばらくおじいさんの移民の話や東京に働きに行ってたときの話などを聞く。

おじいさん(以下、Oさん)は、ブラジルのサンパウロ州生まれで現在73歳。Oさんのおじいさんの代にブラジルに渡ってきたという。Oさんのおじいさんは、”戦争の後、すぐに”ブラジルに来たという。ときは1908年6月18日。つまり、笠戸丸に乗ってやってきた第1回移民だったらしい。

Oさんは、”おじいさんは戦争の後すぐにブラジルに来たと言ってたなぁ。そして、その戦争で何かの勲章をもらってたようだった”と言い、ぼくに”日本はアメリカと戦争したんですよね”と聞いてくる。ぼくは、日本が19世紀末から20世紀半ばまで戦争に明け暮れた歴史をOさんも知っていると思っていたので、この質問にちょっと驚く。質問から察するに、どうもOさんはおじいさんがアメリカとの戦争に従軍したと思っているようだった。

なので、日清戦争からアジア太平洋戦争までの流れを年表形式で少し説明すると、”そんなに日本は戦争してたのかぁ”と驚いたふうだった。

戦争のすぐ後に笠戸丸に乗って来たというなら、Oさんのおじいさんは日露戦争後にブラジルに来たということだろう。

Oさんのお父さんはその頃、まだ1歳くらいだったとか。Oさんのお母さんは熊本の八代出身で1934年頃、ブラジルに来たらしい。Oさんは八代のことを”やっちろ”と言う。この呼び方は本物だ。

現在73歳というので、Oさんの生まれは1935年あたりになる。Oさんの家族は百姓をしていたらしい。何を作っていたのかは聞きそびれる。

第1回の移民船で来た人は、10年くらいブラジルで働いてお金がたまったら日本に帰ろうと考えていた人が多かったらしい。しかし、コーヒーを作ったら、これでずいぶん儲けることができたらしく、”だんだんと日本のことを忘れていった”という。Oさんは、”だから田舎に行くとお金持ちがいっぱいいる”と言う。

”戦争の頃は大変だったよ”と言って話し始めたのは、アジア太平洋戦争時のこと。サントス港近辺にいた日本人やドイツ人は内陸部に送られ、そこで働かされたという。しかし、Oさんの話では賃金も何もない強制労働ではなく、賃金をもらっての仕事だったそうで、しかもこれでけっこうカネを貯めた人がいたらしい。

ぼくは”ブラジルにいて良かったですね”と言うと、”うん、あのころはブラジルの方が良かった。でも、今は日本の方がいいね。”と言う。

Oさんは1945年の日本の敗戦をめぐって、ブラジルの日系社会で繰り広げられた勝ち組・負け組の抗争ことも、小さかったから細かいことはわからないものの、今でもしっかり覚えているという。

1955年にはOさんはブラジルの軍隊に入り(たぶん兵役)、大型のトラックを運転したりしていたという。それを聞いたOさんのおじいさんは、自分の孫が軍隊に入りそのような仕事(?)をしていることを聞き、たいそう喜んだらしい。

ただ軍隊生活は、上下関係から何から厳しくて大変だったらしい。

軍隊にいた期間は1年。父親が亡くなってしまったため、家に帰らねばならないと説明し、辞めたらしい。

軍隊を辞めたOさんは、家業の農業を継いだが、これが余り面白くなく仕事を変える。新たな仕事はトラックでの運送業で、野菜などを内陸の農業地帯から運び出し、都市部に届ける仕事をしていたという。

特に運んだのがスイカで、1玉10kgも20kgもあるスイカを多いときには10トンも積んで走ったらしい。しかも、当時はアスファルトなどなかった。今はサンパウロからバスで40時間足らずで行けるリオ・デ・ジャネイロは、2週間もかかったらしい。

それでも小さい頃からトラックが好きだったらしく30年ほど運送業をして、今はもう引退して年金暮らしらしい。

日本へは1993年に初めて行ったらしい。新幹線ひかりの関係をしていたらしく、5年ほど東京の池尻に住んでいた。日本に行ってなにか変だなと思ったりしたことはなかったかと聞いたところ、そういうのはなかったと言う。

ただ、思い出したように、”新宿に行ったとき、あの紙をこうやって束ねるのは日本語でなんて言うんだっけ。その中で寝たりして”と言うので、”段ボールハウスですか?”と言うと、”そう、あれを新宿に行ったとき見たね”と言う。

それから出たのが川のこと。”ブラジルの川はどこも濁っているけど、日本の川はきれいなんだよね”、”ぶどう狩りに行ったとき、川の中にいる魚まで見えた”と言う。

Oさんは2重国籍取得者で、”ブラジルにいれば日系ブラジル人3世になり、日本に行けば日本人になる”と言う。日本に行ったときは、日本のパスポートを取得してから行ったらしい。ブラジルを出るときはブラジルの”パサポルテ”を出し、日本に入るときは日本の”パサポルテ”を出して入ったという。

二重国籍を持っている人は多いのかと聞いたところ、今はもう100人くらいしかいないらしい。基本的に70歳以上の人ばかり。

孫たちが日本に行きたいと言っているものの、日本に行くにはビザを取得せねばならず、その取得がまた大変らしい。そのためちょっと日本に遊びに行くということは、大変むずかしくなっているという。この扱いは日系人も非日系人も同じ。厳しい理由を”日本でブラジル人が悪いことをしたから、それで厳しくなった”とOさんは説明する。

ちなみに今朝のサンパウロ新聞(日本語)には、投書欄にこのビザの取得の厳しさについて批判する意見が載っていた。投書した人の記事によれば、日本政府は日系人から日本国籍を剥奪した上、日系人が日本に行くときにもビザの取得を義務づけ、かつその手続きは、ほとんど日本に来るなと言っているようなものらしい。記事を読むだけでも投稿者がかなり怒っていることがわかる。

ぼくにブラジルの料理はどうと聞いてくるので、ちょっと塩気がきついですねと応えると、そうなんだよねと言って、日本人の口には合わなかったりすると言う。ぼくが自宅では日本食を食べているのかと聞くと、家ではブラジルの料理を基本的に食べているという。その理由として、”娘たちが、日本の料理をしきらんから”と九州的な言葉で言う。

サントスのまちについては、40年前頃からこんな立派なビルが立ちだしたらしい。また、ブラジルの治安について、ブラジルではピストルを持っている人が多いのが危ないという。聞くとパラグアイやアルゼンチンで買って持ち込むらしい。鈴国との行き来はチェックがかなり甘いから簡単にピストルを手に入れることができるらしい。

すっかり日が暮れたので、おいとまする。サンパウロに戻ることを言うと、そこの道を15分ほど歩いていった通りでサンパウロにダイレクトで行くバスに乗れると教えてくれる。

店の時計をのぞいてみると時間は19時を過ぎていた。店はまだ開いているし、人通りもわりかしある。バス待ちをしている人も多い。

おじいさんの15分とぼくの15分はだいぶ違うと思うんだけど、と思いながら適当に歩いて、適当に待つ。なかなかバスは来ない。30分ほど待ってバスにありつける。

バスはセントロを通ってバスターミナルに入る。ターミナルに入ると乗客のほとんどが降りる。ダイレクトで行くと言っていたからぼくは乗ったまま発車を待っていたのだが、発車前にチケットのチェックがあり、持ってなかったぼくは降りるよう言われる。これで1本逃す。

ターミナルの窓口でチケットを買って、別のバスに乗り込む。また寝る。バスに乗るとどうも寝てしまう。

気がついたらサンパウロの地下鉄駅のターミナル。乗客の少ない地下鉄に乗ってリベルダーデに行く。21時を過ぎていたが、日本食のレストランや居酒屋などは開いていて、客もけっこう入っていた。

ぼくはネット屋でメールをした後、宿に直行。

22時過ぎに同室のおじいさんが帰ってくる。スーツにネクタイ姿。今日はアンニェンビーという日本人移民100周年を記念したイベントが行われている文化施設に行ってきたらしい。昼過ぎに行ってからこの時間までいたという。今日は沖縄の太鼓団の演奏やなんとかという女の演歌歌手か何かのコンサートなどがずっとあっていて、途中で抜けようにも抜けられず、この時間になってしまったという。

今日も新たな客なし。部屋には2人のみ。

Fin

sao paulo

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