2008年10月29日水曜日

[diary]ジョハネスバーグに到着、ソウェトツアー

ジョハネスバーグに到着、ソウェトツアー

08/08/21(木) 曇り
[Johannesburg:South Africa]

・ラクラク入国
・充実した空港の本屋
・広い道路
・ソウェトツアー

ガーナのアクラからジョハネスバーグに向かう飛行機の中。
ようやく眠りについたかと思ったところでバタバタする音に起こされる。着陸態勢に入った模様。

南アフリカ上空はすでに明るくなっていて、窓から外をのぞくときれいに地上が見える。他のアフリカの国と違う点は、おそらく空港の周辺に倉庫らしき建物がたくさんあることだろう。それだけでもどれだけ物資の行き来が盛んな国かがわかる。道路もきれいに整備されている。

アクラ時間の5時半に飛行機は、ジョハネスバーグの空港に着陸。南アフリカとガーナは時差が2時間あるので、時計を2時間早める。

機体を降りるとスゥッーとひんやりした空気に包まれる。夏の西アフリカから冬の南アフリカへ。気温は18度程度だろうか。

南アフリカに入るにあたって気になっていたのが、往復チケットの提示を求められるか否かということ。すでに往復チケットを買っているから、聞かれても別段問題はないのだが、少し気になっていた。

はたしてイミグレでは簡単な質問をされただけで、往復チケットの提示は求められず。全体でも5分もかからずにパスできた。

荷物を受け取りにベルトコンベアがまわる部屋に行く。辺りを見回してガーナの飛行場と比べ、変化したのが人。白人が多い。

リュックを受け取り、到着ゲートを出る。出たところに出発ロビーの階にあがるエレベーターがあったので、それに乗って出発ロビーにあがる。目的はお金をおろすこと。到着ゲートを出た右の方にもATMはあったもののまわりから丸見えなので、あまり安全なように思えなかった。そこで出発ロビーに行き、そこの一角にあったATMでカネをおろす。

それから宿に電話をするために電話屋を探す。到着ロビーの端に電話屋と公衆電話があった。公衆電話はコイン式のため、手持ちの札では使えず。電話屋で電話した方が、コインの減りとかも気にしなくて済むので、そちらで電話をする。

ヨハネスにはバックパッカー向けの宿がいくつかあって、だいたいどこも電話をすれば空港まで迎えに来てくれるような仕組みになっている。その理由はもちろん治安。ヨハネスの街では公共交通期間を乗り継いでまちなかまで行き、宿を探すなんて当たり前のことができない。

ぼくはEast Gate Backpacker'sという日本語の情報ノートがある宿に電話をする。英語での電話は苦手なのだが、まぁ、話は通じて迎えに来てくれることになった。しばらく電話屋周辺の空港施設を見学。けっこう充実した本屋があり、マンデラの本が数種類見えやすいところにレイアウトされている。ガーナをはじめ西アフリカでは本屋はほとんど見なかったから、これだけ充実した本棚を見るのは久しぶりだ。

電話屋の前で待っていると左手にコーヒーカップを持った細身の女性がやってきて、声をかけてくる。彼女が宿主らしい。サラという名の彼女は見た頃40代。彼女に付いて空港を出て、近くの駐車場まで行く。これが自分の車だと指さした車は、トヨタの古い型の車。おそらく80年代後半くらいのもののように思われる。

助手席に座ろうと右側のドアの前で待っていたら、逆側に回ってと言われる。車は日本と同じ右ハンドルだった。なんだか久しぶりの感覚。駐車場を出て、化片道3車線の幹線道路に入る。車は左側通行。これもなんだか懐かしい感じ。

沿道には大型のスーパーやホームセンターのような店が見える。道路はまったくきれいに整備され、走っている車も型は古くてもへこんだり、ドアがなかったり、ガラスが割れていたりすることもない。

聞くと彼女はイギリス出身で西アフリカを3ヶ月旅したりしたこともあるという。仕事でタイに暮らしたこともあり。南アフリカには10年ちょっと住んでいるとのこと。

彼女はヨハネスではどこに行くのかと聞いてくるので黒人居住区だったソウェトに行きたいと言うと、ちょうど今日、宿に泊まっている別の日本人がツアーで行くので、それに便乗してはと提案される。それならと今日、行くことを決定。

空港から20分ほどで宿があるイーストゲートという地区に入る。沿道には2m以上ある白い壁に有刺鉄線という住宅が並び、それぞれの邸宅の入り口の門の横には、セキュリティ会社のシールが貼られている。壁の向こうにちらちらと屋根が見えるが、中の建物がどういったものかは見えない。きっと豪勢な家なのだろう。

宿もがっちりとした門の中にあった。安全上なのだろう、入り口にはそこが宿だとわかるようなものは何もない。鉄のゲートを開けて、中に車ごと入る。敷地は30m×30mといったところか。かなり広い。使われていないテニスコートもある。建物はL字の平屋建て。ドミの部屋には2段ベッドが5つほどあり、その他にも個室が何部屋かあるよう。豪邸(ぼくから見れば)を宿として使っているようだった。

ちなみに宿代は1泊80ランド(約1200円)。荷物をおいて一息ついていると、サラがソウェトツアーの車が来たと伝えに来る。表に出ると通りに乗用車が一台。助手席に日本人1人。運転手兼ガイドの黒人男性が一人。

車に乗り込む。車はまずヨハネス中心街に向かう。高層ビルと古いヨーロッパ調の建物が並ぶ中心街は人通りが少なかった。まだ朝の10時だからか?それともやはり歩けないほど危険だからか? 基本的に歩いている人は黒人ばかり。白人は一人だけ。見た印象ではたいして危険そうではない。

運転手のおじさんは、この建物はどうだああだとガイドブックに載っているようなことを言う。

市街地は本当に通り抜けるだけでそのままソウェトに向かう。相変わらず幹線道路は2車線や3車線で広くきれい。市街地の東になると数百メートル向こうに小山が見える。自然にできた山ではなく、人工的に積み上げられたような山。おじさんはそうした山を指さしながら、ああいった山はどれもダイアモンドなどの鉱物を掘ったときにできた山だと解説する。

ソウェト地区の入り口らしいところ(ただの道ばただったけど)でいったん車を止め、外を眺める。中心市街からここまでの間に見えた家々は一軒家で日本の基準から言ってもそこそこの金持ちが住んでいそうな家ばかり。

ところが、そこからソウェトの中心部の方へ行くと、政府が作ったという労働者向けのアパート群が見える。車はある居住区の前で停車。ここにはこの居住区を案内するガイドがいるから、その人について見て回るといいと言う。

ガイドという青年は見たところ20歳前後。ガイドとは言ってもあれこれ説明してくれるわけではなく、その地区を一緒に歩いてくれるだけ。質問をすればもちろん答えてはくれるけど。

その地区は数百人の人が自分たちで資材を拾ってきて、自分たちで家を作って住み着いたという地区だった。幅2mほどの未舗装の道の両脇に住宅が建ち並んでいるのだが、どれも堀立て小屋レベル。壁などに使われているトタンはきれぎれ、バラバラ。なんとか隙間のないよう上手に貼られている。家の大きさは6畳からおそらく大きくても10畳程度。そこに家族で住んでいるよう。水道は何カ所かにあり、そこから水を汲んで自分の家で使うらしい。互いの敷地は有刺鉄線で仕切られていて、人によってはその敷地内に小さな畑を作っている。

歩いていると住民の人と目が合う。ハローというとにこやかにハローと返してくれる。

ガイドの青年によれば、ここに住んでいる人たちは仕事がなく、そのため収入もないため生活はかなり厳しいらしい。

20分ほどでそこをあとにする。

途中、運転手のおじさんは沿道に見えたこの地にある大学について説明した。なんでも南アフリカのいろんな問題がつまっているこの地で現場に関わりながら、そうした問題を解決していこうとする人を育成するために作られた大学らしい。

次に止まったのが教会。昼近くということでか、いわゆる炊き出しをもらいに来ている年輩者が数人教会の敷地内にいた。

この教会は反アパルトヘイト運動でとても重要な役割を担った教会だそうで、ここでは政府、つまり警察も横暴なことはできない、してはいけないというような互いの了解があった場所らしい。しかし、ここでも警官が発砲するようなことがあったらしく、そのときの弾痕が建物にはそれとわかるように残されていた。

それからまた車に乗って移動。次に行ったのは、世界で唯一ノーベル賞受賞者が2人ーその2人とはマンデラ元大統領とツツ大司教ーも出た通り。つまりマンデラとツツの生家がある通りで、ぼくとしてはマンデラハウスに行くことを楽しみにしていたのだが、これがなんと改装工事中。10月のリニューアルオープンまでまったく見学はできないとか。そういうわけで工事している脇を車で素通りしただけで終わる。

それからその通りから100mほどのところにあるヘクターピーターソン博物館(Hector Pieterson Museum)に行く。

※Hector Pieterson Museum
http://www.southafrica.info/about/history/hector-pieterson.htm

ヘクターピーターソンは、1976年のソウェト蜂起で警察からの発砲を受け、犠牲となった人の名前。当時彼はまだ12歳だった。

入場料をツアー代とは別に払い、博物館を見学。当時のビラや落書きの文句、ビデオ映像などを多用した情報量の多い博物館で、とても1時間や2時間では見切れない。例えばガラス窓にもその窓から見える風景の中のどこで何があったかという説明が付されている。

アパルトヘイトについては、概要程度しか知らなかったが、この博物館に来て初めて、10代の、日本で言えば中学生程度の子たちも半ば命がけでアパルトヘイトを撤廃させる運動をしていたことを知る。また当時の政府はそうした子どもさえも逮捕し、拘留するなどしていたとあり、そこまでひどい政府だったのかと驚く。

また、印象に残ったのが、ピーターヘクターソンの名前について。ピーターソンという苗字はそもそもの苗字ではなく、そもそもはPitsoという苗字だったらしい。しかし、アフリカネイティブのこの苗字では就業等に不利だったためヨーロッパ的なピーターソンという名前に変えたと言う。ふと在日外国人(特にコリアンや中国人ら)が日本社会で生き抜くために日本名を作り、名乗っていることを連想してしまう。その点だけで言えば、当時のアパルトヘイト下のアフリカネイティブの感覚とそうしたふうにして日本社会に生きる在日外国人の感覚は似ているのだろう。そういう意味では明文化こそしていないが、日本社会の差別的な圧力もアパルトヘイトに劣らず苛烈なものだった(である)と言えるかもしれない。

小学生や中学生、高校生たちも授業の一環で見学しに来ており、館内は盛況。ノートを片手に説明板に見入り、盛んにメモを取っている子もいる。

入り口横には売店があったので行ってみたところ、アパルトヘイトに関連した書籍や映像(DVDなど)資料がおそらく100点以上並べられていた。なかなかの量。

既に同行者と運転手は博物館を出ていたので、ぼくも1時間足らずで博物館をあとにする。

ツアーはこれでおしまいであとは宿へ。博物館代別でツアー代は約50米ドル。高いなぁ。

帰り道はすっかり寝てしまう。

宿に戻ったのは15時過ぎ。それから同宿の日本人旅行者と近くのショッピングセンターに買い出しに行く。近くにはショッピングセンター内をのぞき、食事ができるところがないので、自炊用の野菜などを買いに行く。

ここイーストゲートはショッピングセンターが集まっている地区ということで、ショッピングセンター周辺には大きな駐車場が整備されている。宿からは歩いて10分ほど。このあたりは歩いても安全らしい。

行ったのは複数あるショッピングセンターの1つだけ。3階建てで日本人の感覚からしてもなかなかでかい。中には銀行や両替屋、本屋、ネット屋、香辛料屋、高級スーパー、スポーツ用品店、電化製品店などがあり、たいていのものはここでそろう。

スーパーで夜食用の食材を探すが、品種は豊富ではあるものの値段が高い。これにもびっくりだ。自炊してもそこまで安く上げられそうにはない。

その後、センター内のネット屋に行ってみる。値段を聞くと1時間あたり400~500円。これまた驚く。当然、ネットはせず。

ショッピングセンターの近くの通りでは、路上で菓子を売っている人や交差点で新聞、果物(いちごやリンゴ)などを売っている人たちがいた。が、あまり売れている様子ではない。

明るいうちに宿に戻り、しばらくのんびりした後、調理をして夕食。ぼくは豚の肉を大量に投入したスープを作る。アクがすごかった。同宿の人は羊の肉のステーキを作る。互いにお裾分け。羊のステーキはなかなかうまかった。

夜は宿で旅話をしたりなんたりして過ごす。
シャワーはもちろんお湯が出て快適。トイレもきれい。
もう少し安ければいいんだけど、西アフリカの平均値と比べれば、圧倒的に心地よい。

Fin

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