2008年10月29日水曜日

[diary]ゴールドリーフシティ、アパルトヘイトミュージアム

ゴールドリーフシティ、アパルトヘイトミュージアム

08/08/23(土) 曇り、晴れ
[Johannesburg:South Africa]

・両替できず
・金鉱山後のテーマパーク
・アパルトヘイトミュージアム

7時頃目覚める。昨晩は毛布等をかぶって寝たので寒くなかった。

昨日作ったスープを火にかけ、朝飯準備し、8時頃朝飯。

9時過ぎに昨日できなかった米ドルへの両替をしようとショッピングモールの両替屋に行く。ぼくが行ったショッピングモールには2軒の両替屋と1軒の銀行があるので、そこで両替をしようと思ったら・・・

1軒目の両替屋で米ドルを買いたいというと、パスポートと居住地の証明書(Proof of Residence)、航空券を見せろという。住んでいるところの証明書はないから他の2つを見せたら、ここでは両替できないと言う。両替したいなら空港へ行けとのこと。

店を変えてもう一つの両替屋に行くと、ここではパスポートのコピーをまず見せろと言われ、さらにここにはいつ来たかと聞かれる。初めて来たのでそう伝えるが、他の日本人と勘違いしているようで、なんか納得していない。両替する金額がでかいこともあってか、両替はできるが手元のランドを入手したときの証明書(ATMのレシートなど)を見せてもらわないとできないと言う。あいにくATMのレシートは宿に置いてきているし、いちいちプリントアウトしてもいない。そういうわけで、ここでも両替できず。

ここの両替屋の人にどこで両替できるかと聞くと、銀行でトライしてみたらと言う。なので、銀行に行き、両替と看板が出ている窓口に行き、米ドルを買いたいと言うと、コンサルタントに相談してくれと、奥の個室のようなところに案内される。土曜ということでか、コンサルタントは2人しかおらず、二人とも先客の対応中。20分ほど待ってやっと自分の順番になる。対応してくれたのは、台湾系の人。ここでもパスポートを見せろと言われたので、見せると知っている日本語を交ぜて説明してくれる。結論は、ここでも両替できないとのことで、理由は、外国人にドルを売るためには政府の許可を得ないといけないのだが、その許可をこの銀行は得ていないとのことだった。どこで両替できるか聞くとやはり空港だと言う。

結局、目的は果たせず、徒労感が漂う。こんなに南アフリカでの両替(ランドに両替するのはまだ楽なよう)が面倒だとは思っていなかった。

宿に戻り、10時過ぎにゴールドリーフシティまで送ってもらう。ゴールドリーフシティは金鉱山の跡地に作られたテーマパークで金鉱に入るツアーもあるというので行くことにしたところ。

※Gold Reef City
http://www.goldreefcity.co.za/

金やダイアモンドは南アフリカの歴史とは切り離せないし、アパルトヘイトにつながる背景ともなっている。たとえばヨハネスで言えば、文字通りの一攫千金を狙って南アフリカ中または世界各地から人がヨハネスに集まったことで、ヨハネスは急速に都市化し、人口増加が社会問題となり、そうした中で白人は黒人が白人よりも優勢になることをおそれ、まちから黒人を郊外の地域に強制移住させた。その移住地がこの間行ったソウェトなど。

こうした動機のほかに、ボリビアのポトシでもすず鉱山に入ってみて驚いたことがいろいろあったし、金の精製現場が見られるなんて話もどこかで読んだので、それも関心があった。

宿からゴールドリーフシティは車で30分ほど。宿からの送迎はもちろん有料で片道150ランド(約2300円)。高い! 公共交通機関はあることはあるが、宿からだとまちの中心部などで乗り換え、乗り換えしないと行けないよう。

ゴールドリーフシティは金鉱山に関するテーマパークの他に観覧車やジェットコースターなどいろんなアトラクションも兼ね備えた遊園地でもあった。土曜ということで10時半の開園時間直後に行ったが、すでに入り口には数十人が並んでいた。子ども連れの家族、高校生くらい子たちのグループが多い。白人から黒人から、アラビア系からインド系までいろんな人たちが遊びに来ている。ただ中国人の家族などは見ない。

金鉱に入るツアーは時間が決まっており、ツアーでないと中に入れないようになっている。ツアーは入場料込みで170ランド(約2500円)。高いねぇ。11時からのツアーに参加する。

最初に映画館で古い映像などを使ってゴールドリーフシティの歴史を紹介するビデオを見て、それから金鉱に入る。金を掘るときに使っていたらしい巨大な機械などが展示されているところでヘルメットをもらい、実際に作業用に使われていたエレベーターを使って地下へ。

ここの鉱山は最深部は約3500mもあるらしいが、ツアーでは安全な地下300mにある坑道を回る。女性のガイドがあれこれと坑道を歩きながら、観光ポイントで説明する。例えば、アルフレッドノーベルの名前が入ったダイナマイトの箱などが展示されているところでは、ダイナマイトをどう使うかといったことや坑道内の救急処置コーナーの役割、水を排出する機械の説明、崩壊した坑道(実際に崩れたままになっている)のの説明等々。英語なのでほとんど言葉が頭に残らない。が、ポトシと比べるとこちらの方がずっと近代的のように感じた。

その後、当時の家族が住んでいた家を復元しているところに行き、家内を見学。家具等は当時のものらしい。当たり前だが、いかにもヨーロッパ的なレトロ感があり、また家具類がえらく多いことからかなりの金持ちの家らしいことが感じられる。

最後に金の精製の実演を見る。ぼくはてっきり本物の精製過程が見られると思っていたのだが、見ることができたのは金を鋳型に入れるパフォーマンスだけ。二人の男性のスタッフが、釜の中から溶岩のようにどろどろになって真っ赤にたぎっている金を取り出し、それを金の延べ棒の鋳型にそそぎ込み、金らしく見えるまでしばらく冷やしておしまい。金があんなになるのかというのは驚きではあったが、期待はずれだった。完全に冷えている別の金の延べ棒は、触ることができて客が次々と手に持ったりしていた。

その後、硬貨の製造過程を紹介した銀行の博物館に行く。なぜか中国や日本の古いお金も展示されていた。また、ここでは金を売っていた。

あとは見るべき物はなし。いろんなアトラクションがあるだけなので、園を出る。ツアーに参加しただけだったが、2時間ちょっと園にいた。

その後、駐車場を挟んで向かいにあるアパルトヘイトミュージアムに行く。宿の人にここを見て回るのは3時間くらいかかると言われたのだが、確かにその通りだった。

展示はヨハネスの歴史からアパルトヘイトが生まれ、それに対する反対運動がおき、廃止されるまでを丹念に追っている。言葉は英語オンリー。実物(銃や装甲車、アパルトヘイト時代に黒人に外出時の携帯が義務づけられていたパス、ポスターなどなど)の展示から当時の映像や写真も多用されているので、当時の雰囲気がけっこうわかる。

※apartheidmuseum
http://www.apartheidmuseum.org/

アパルトヘイトに関する常設展のほかに、今は特別展としてアパルトヘイト廃止運動で大きな役割を果たしたスティーブ・ビコ(Steve Biko)展もやっていた。ビコが死んでから(殺されてからと言った方が妥当だろう)30周年ということで、それを記念しての展示らしい。その他にHome Afairsというタイトルで多様な家族のあり方(ゲイ、レズビアンのカップルを含む)を紹介する展示もあり。また、受付横にはアパルトヘイトの歴史をアニメで簡単にまとめた子ども向けの無料の冊子もあり。

これで入場料30ランド(約450円)は安い。これと比べるとゴールドリーフシティはカネを取りすぎだ。

ヨハネの歴史の展示から見る。壁紙が当時の写真を引き延ばしたものになっており、遠目から見ると当時のヨハネはほんとにタダの平原(草もたいして生えていない)で、そこに最初に入植してきた人(オランダ人やイギリス人など)はテントを張って暮らしていたことがわかる。

その壁には、ヨハネの発展の歴史の解説と、ヨハネに移住してきた一般の人たちの簡単な個人史が紹介されている。その中に中国人の人がおり、その人の部分を読むと顔写真が出ている人のおじいさんだかお父さんだかが中国から南アフリカにやってきたらしい。目的は金で一儲けすることだったらしいが、南アフリカに来てみると中国人は金鉱山では働いてはいけないという差別的な法律があり、そのため金の夢は諦め、他で仕事を見つける他なかったという。

その他、インド系の人の紹介もあり。

展示を見ているとヨハネは本当に金があったからこそできたまちだったということがわかる。

アパルトヘイト時代の展示については、写真や映像も豊富。有色人種(黒人、カラード、アジアン)を隔離するために書かれた住居地図やそれを正当化した法律などについて細かな説明があるが、とても全部は読み切れない。

映像では子どもたち(中学生くらい)や若者などを中心にデモ(英語ではmarchと表示されていた)をしている様子やそれに対して警察や軍が発砲し、捕まえた人を棒でさんざん叩いたりする様子を映したものも流れている。驚いたのは反対運動をしていた10歳前後の子どもまで警察は自宅まで行っていわゆる検挙し、強制的に連れていったことがあったということ。これも映像で流れていた。

それから目をひいたのが、そうした反対運動をする黒人を黒人の警官がさんざん殴り付けている場面。マンデラが刑務所に入っているときにその見張り役だった人が黒人で、その人はマンデラと接する中で、だんだんと白人政府のおかしさを理解するようになったという話をどこかで読んだが、こうした場面を見ると問題の複雑さを感じる。

また、マンデラと同じ黒人居住区で生まれ育ち、ノーベル賞を受賞したツツ大司教(最新のReader's Dugestの表紙を飾っていた)がお祈りをしている場面の映像も印象的。大ざっぱに言っていたことを訳(日本語訳と要約)すると、次のようなことを言っていた。”神よ、私たちは信じている。今、私たちが自由の道に向かって歩いていることを。しかし、なぜこんなにも多くの犠牲が必要なのか。”

アパルトヘイトの廃止に諸外国からの圧力があったことも展示ではふれられており、そうした中に日本もあるか探してみたが、ざっと見た限りでは見あたらず。誰かが書いていた話では、中国人などが差別されていたにもかかわらず、日本人はその経済力を背景に名誉白人扱いとなり、当時の南アフリカ政府と貿易をしていた富士通なんかは軍事技術の向上に一役かったとか。南アフリカに住む多くの人々にとってだけでなく、その他のアフリカ諸国にとっても黒人を差別する南アフリカ政府は敵でしかなかったのに、その南アフリカ政府を太らせるのに日本企業(その進出を止めなかった日本政府)が一役かったことは記憶しておく必要があるだろう。

結局は、国内及び国外のアパルトヘイト反対運動とヨーロッパやアメリカなどによる経済制裁・国交断絶などによって、アパルトヘイトは廃止される。が、それまでには50年ほどの年月がかかった(50年とは言うのは政府がアパルトヘイトという言葉を政治の場で正式に使った時点からのこと。アパルトヘイト的考え方はそれよりも前から存在していた)。

アパルトヘイトの経緯を見ていて思うのが、人が変わること、世代が変わることの影響の大きさ。アパルトヘイトが一気に廃止に向かったのは、政府側の変化として大統領をしていたボタが病気で倒れ、デクラークに大統領に変わったことがあった。これは冷戦の終結の過程と似ている。また、政府の圧力によって反対運動が停滞したときにはビコら若い世代による新たな論理を掲げた運動が、その流れを変える役目を果たした。また、展示では80年代には豊かな黒人の中間層が増えていたことが、運動にも変化を与えたというようなことが書かれていた。

当時の状況からすれば絶望するのも無理はないと思えるような中から、平等と自由を求めて動いた人たちはすごい。そうした人たちを動かし、支えたのは何だったのか? 精神的、経済的な支えとなったのは何か?

気になるのはマンデラが釈放されてから大統領になるまでの数年間の間、白人政府とマンデラ等のグループの間でどのような交渉がなされたのかという点。後半は、英語を読むのに疲れたので見逃したのかもしれないが、これについてはあまり展示もなかったように感じる。マンデラの自伝は日本語になっているので、帰国後要チェック。

ミュージアムの売店では、マンデラの本など数10種類の本やCD、DVDなどが売られていた。日本ではあまり手に入らなそうな本を3冊購入。これでまた荷物が1kgくらい増える。

夕方17時半に宿の人に迎えに来てもらう。宿には直行せず、途中の中央バスターミナルで宿泊客をピックアップするというので、ぼくもつきあうことに。バスターミナルはまちの中心部にあり、まわりは危険区域。鉄道駅も併設されていて、明日ここから電車に乗ることもあり、見ておきたかった。

バスのターミナルは屋内式になっていて、中はとてもきれい。10社ほどのバス会社がカウンターを構えており、ここからジンバブエなどにも行ける。人もそこそこ多い。ぼくは明後日の電車のチケットがほしかったので、鉄道のチケット売場に行くと、ほんの3分ほど前に終了したとのことでゲットできず。

ピックアップする客は30分後くらいにここに着くらしかったが、時間があったので宿の人と一緒に2階のバーでお茶しながら待つことに。大音量で音楽が流れ、客の9割9分が黒人。ぜんぶで客は100人以上いそうなのに、白人は2人ほどしかない。でも、雰囲気は特に悪くはない。表には警官もいるし。壁の大型スクリーンではイギリスのサッカー、プレミアリーグの試合を流していた。なので、ぼくは紅茶を飲みつつ、それを眺める。

当初の予定の時刻になっても客は現れず、結局、1時間ちょっとこのバーで待つことになった。

ヨハネスの夜景を左手に見ながら宿に戻る。中心部はほんとに人気がなかった。

宿に戻って、昨日までに買っていた野菜などで夕食づくり。今日もスープ。

食事後は荷造りと明日行く先の地図の読み込み、日記書きなど。夜は半袖では寒いほど冷える。

今日はぼくの寝ているドミトリーには3ヶ月ほど滞在しているという60代後半くらいのおじさんとぼくだけ。

FIn

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