08/06/10
・資料館
・スナックタカラ
朝起きてみると2カ所ほどやられているのだった。今でこれだから、移住してきた当初は相当なもんだったろう。ボリビアやペルーではアンデスの高地に多くの人が暮らしているが、蚊だけを考えてもそちらの方がずっと暮らしやすい環境なのではと思う。
8時頃、宿の人が来て宿を出るように言われる。えっ? と思い、12時までいたいんだけどと言うと、しぶしぶOKしてくれる。やはりここは宿ではないらしい。昨日チェックインしたときも宿帳に名前を書いたりしなかったから、こうしてたまに来る人を受け入れているだけのよう。
9時頃、宿を出る。宿は入り口が閉まっていたため、宿の人に言って開けてもらう。
昨日は汗が出るくらい暑かったのに、今日は涼しい。気温は20度前後くらいだろうが風があるから半袖では寒い。曇り。
日本人学校の隣の敷地にある資料館に行く。そこには文化センターと資料館と慰霊碑が建てられていて、文化センターも資料館も想像以上に立派な建物だった。
資料館に行ったものの入り口が開いていない。開館時間などを書いた張り紙を見ると、この時間は開いているはずなのだが、中を覗いても誰もいない。
なので、文化センターに行き、その事務室にいる人に訪ねる。文化センターには日系の人らしい女性が3人ほどいた。窓口に行って資料館を見たいんですが、と言うと、ちょっと待っててくださいと年輩の女性が若い女性に目配せして、その女性が鍵を持って出てきた。
無言で資料館までの30mほどの道を歩き、無言でドアの鍵を開けてくれる。そして、見終わったらまた知らせてくださいと言って文化センターに戻っていった。ちなみに言葉は沖縄のイントネーションだった。
入り口を入ると、正面に移住地の模型と沖縄からの航路を描いた地図があり、脇の柱には当時の沖縄の新聞記事のコピーが貼られていた。
また数年前に入植50周年を迎えたそうで、そのときの記念式典の様子を写した写真などの特別展示もされていた。
展示物は入植当時の写真や日本から持ち込まれた数々の道具などがメイン。
壁には入植当時からの出来事を書いた数メートルにわたるお手製の年表が貼られている。
写真は沖縄からの船上の様子(甲板で赤道祭りなどをしていたよう)を写したものから、ブラジルのサントス港について、サンタクルスまでの汽車での移動の様子、そして開墾の様子など移住のはじまりからの様子がわかるものがあった。きちんと写真が残っていることに驚く。特にサントス港からの汽車での移動の様子は、当時の汽車が薪を燃料としていたため、その薪を乗客も一緒に途中で補給しながら走ったらしい。また途中では脱線もするなど、なかなか大変だった様子。なお、ブラジル沿線ではブラジル移民の人等から熱烈な歓迎を受けたらしい。
その他現物展示については、移住当初大活躍した測量機械や大きなノコギリ、医療道具をはじめ、沖縄から持ち込まれた馬車用の荷車、手巻き式の蓄音機(?)、尾崎きよひこや藤圭子らのレコード、サンシン、重箱などさまざまあり、興味深い。
中でも印象的だったのが、米軍の爆弾の空薬莢(?)を使った味噌入れなど、米軍由来のものがいくつかあったこと。
そもそもこの入植自体が戦争でボロボロになった沖縄の人の力になろうと、すでにボリビアに移民していた沖縄出身者が駆け回って実現したものだった。また当時、沖縄はアメリカの統治下にあったため、移民の手続きはアメリカ政府とボリビア政府が行っており、入植後も重機の提供などはアメリカ政府の支援だったという。
また、南米に移住した元炭鉱労働者のこと書いた上野英信の『出ニッポン記』には、ボリビアに早くに移住していた沖縄出身者は、当時のボリビアよりも沖縄の方がずっと厳しい状況にあることを知って驚いた、という話があった。
そうしたアメリカが絡んだ物などを見ていると、米軍の沖縄上陸がなければ、おそらくここに移住してくる必要はなかった人たちだったのではと思えてくる。
資料館の隣に立つ慰霊碑には、ここで亡くなった数百の人たちの名前と年齢が刻まれている。さすがに沖縄らしく、90歳や100歳まで生きた人がちょこちょこいる。一方で、1歳や3歳、16歳や20歳など若く(幼く)して亡くなった人も相当数いた。
沖縄から来たという来館者の感想には、展示品を見ていて涙が出てきたというものもあった。
一通り展示物を見て、文化センターに戻り、見終わった旨を伝える。それから文化センター内にある図書室を見学。1千冊はあるだろうか、文庫本や単行本などが並んでいる。タイトルを見ているとだいたい10~20年前の本が多い。ビデオの貸し出しもしているらしく、日本の番組のビデオも並んでいた。
また、琉球新報や朝日新聞、サンファン移住地の日本語の広報のようなものもあった。
そんなことをしているうちに12時近くになったため、宿に戻り、荷造りをして出る。大荷物を持って移住地を歩く気力はなかったため、車を拾ってサンタクルスに戻る。結局、ここでも地元の人とは話はせず。
モンテーロまで行き、そこでTrufi(乗り合いタクシー)を乗り換えるために降りる。カネを払うのを忘れたが、車はさっさと行ってしまった。
サンタクルス行きのTrufi乗り場のチケット売場には行列ができていた。ボリビアーノが少なくなっていたこともあったので、近くにあった銀行に両替に行く。
窓口のにいちゃんに20米ドル札を出し、両替を頼むとどこに住んでいるのかとスペイン語で聞かれる。自分としてはサンタクルスのホテルと答えたつもりだったのだが、どうも伝わらず。そのやりとりを見ていた店の若い女性がやってきて、”ニホンジンデスカ?”と聞いてくる。そうです、と答えると、”イエハドコ?”と聞いてくる。なので、サンタクルスのホテルと言うと、彼女はそれを聞いて窓口のにいちゃんにスペイン語でベラベラと伝える。
彼女は外見は日系ではなかったので、日本語を勉強しているのかと日本語で聞くと、”ウン、少しわかる。ここは日本人が多いから”と言う。
銀行に来る前にSnack Takaraという看板を出している食堂があったので、もしかしてあれも日本人がやっている店かと彼女に聞くと”ウン、そう”と答える。”はい”ではなく、”ウン”と言うところが、なんだかいい。
時間も12時だったので、Snack Takaraに行ってみる。店には客が6割方くらい入っていて、なかなか盛況。ぼくが入ると、店のおばさんが”こんにちは”と声をかけてくれる。一発で日本人とわかったらしい。
席に座るとそのおばさんが”何にしますか”と聞いてくる。ありがたいことに壁には料理の写真があったし、他の人が食べているのも見えたので、適当に指さして魚のスープを注文する。料理は日本食ではなく、地元風のものばかり。
料理を待っていると、小学生くらいの女の子が”ただいま”と言って入ってきた。娘さんらしい。見た目はボリビア人とのハーフっぽいが確認はせず。
スープに入っていた魚は身は鯖に似ていたが、川のにおいがした。海のない国だから川か湖のものだろう。
食べ終わってレジに行くと、おばさんが”旅の途中?”と聞いてくる。さっき帰ってきた女の子が横に来て、にこにことこちらを見る。ぼくのリュックを見て”でっかい荷物やなぁ”というので、おばさんに出身を聞くと沖縄と言った。沖縄は沖縄でもボリビアのOkinawaらしい。
宮崎出身の人はいないか聞くが、直接は知らないらしい。サンファン移住地にはいろんなところから来ているから、もしかしたらそこにはいるかもしれないと言う。
ちなみに女の子は、小さい頃は大阪にいたらしい。詳しくは聞かなかったが、大阪にはたくさんの沖縄出身者が住んでいるからその辺りに親戚でもいるのだろう。
この後のことを聞かれたので、”これからブラジルに行くんです”、と言うと、”ブラジルは物価高いよー”とおばさんは言う。
いろいろ聞いてみたいことがあったが、お昼時で忙しそうだったため、20分ほどで辞去する。
乗り合いタクシーに乗る。舗装された広いとおりを走り、1時間ほどでサンタクルスに入る。が、問題発生。この車はサンタクルスには行くが、サンタクルスのバスターミナルには行かないらしい。しょうがないので追加料金を払って、ターミナルまで連れていってもらう。モンテーロからサンタクルスまでの1時間近くが7ボリビアーノ(約120円)なのに、サンタクルス市内の15分ほどの移動で5ボリビアーノも取られる。くそおやじめ、と思いながらも、まぁ、100円くらいだからいいかと払う。
この間泊まった宿に行く。部屋は開いているかと聞くと、15時半になれば開くという。まだ1時間ほどあったが、フロントのソファで本でも読みながら待つことにする。昨晩眠れなかったこともあり、うたた寝。
16時になったが、ホテルの人は何も言ってこない。だいたいこちらの人は待っておけと言いながら、その後のフォローがない。まったく!と思いながら、フロントに行き、部屋のことを聞くと、すぐに"Vamos(バーモス:行こう)"と言って部屋を案内してくれる。親切なことにぼくのリュックを背負ってくれたが、その重さには驚いていた。
今度は3階の部屋。部屋に入ると、まだ前の人が出てから片づけがなされていない。荷物をおくと、ちょっと待っててとすぐにベッドのシートなどを変えてくれる。
16時を過ぎていたが、サンタクルスのマチナカに行ってみる。この間はビザの申請のためにバタバタと通り過ぎただけだったので、少しのんびり見てみる。
中心の広場から見て北北東にあるQuijaroという通り沿いに市場があった。見事な露店街で、それらのお陰で歩道で通れる幅も元の半分くらいになっている。パン(フランスパン、丸形のパンなど10種類くらい)、携帯電話機、時計、服、バナナ、みかん、牛か何かの内臓とジャガイモの炒め物、果汁を絞ったジュースなどごちゃごちゃ。露店と屋台で日常必要なものはなんでもそろい、三食違ったものを食えるくらい。
店舗の方は肉屋がずらっと並んでいたり、工具屋がずらっと並んでいたりと専門店街ができている。市場の建物もあり、3階建てくらいの建物の方には服屋がびっちりと入っている。
30cmくらいのフランスパン1個(1ボリビアーノ=約20円)を買って、かじりながらまちを歩く。
17時過ぎには暗くなってきたので、バス(大型のバン)に乗る。運転手にターミナル行きかを確認したのだが、ぼくが行きたかったターミナルとは違うターミナルのところで降ろされる。雨が強くなり始める。
そこでまたバスを探すが、目の前をいくつも通り過ぎるが乗りたいバスがなかなか来ない。
ようやっと乗ったバスも満席で立たざるを得ず、そうなると外の様子がわからないため(頭は天井につくくらいなので立っていると見えるのは道路の表面だけになる)、いつの間にか降りる場所を逃す。
どうせならこのたくさんの乗客がどこで降りるか見ようと思い、そのままのり続ける。乗客の入れ替わりはあったものの満員のまま1時間過ぎる。運賃の1.5ボリビアーノ(約30円)を考えるとやはり安い。これが日本のようにちょっとした距離でボンボン運賃が上がる仕組みだったら、こうしたこともできないだろう。
バスは舗装された幹線道路をずっと走っていたが、途中、未舗装のでこぼこ道を通る。その辺りが住宅地になっていて、一旦、そうした地帯を抜け、舗装された道路に戻ったものの、また縦に横に揺れる道を走る。そうした未舗装の道を行った先にちょっとした集落があり、バスが通る道沿いには3軒ほどの商店と同数くらいの食堂、屋台、それから1軒のゲームセンターがあった。
時間はすでに20時を過ぎていたが、店も開いていて、食堂で食事をしている人も多い。
予定では終点まで乗ったまま行き、そこでバスは引きかえすだろうから、そのまま乗り続ける形で帰ろうと思っていたのだが、終点らしきところまで来たとき、運転手が降りるように言う。
乗客はぼくの他にもう一人小さい子を抱えた女性がいたので、まだ終点ではないと思っていたのだが、どうもその女性らは運転手の家族だったよう。
運転手ターミナルまで行きたいと答えると、ちょっと座っておけと言って、バスをUターンさせ、さっき通り過ぎた店などがあつまっている通りまで乗せてくれ、そこで降ろされる。そして、別のバスがターミナルに行くからそれを待つように言われる。
そして、バスは家族3人を乗せて走り去ってしまった。
水たまりをよけながら土の道を歩き、道ばたの店を見学。1軒の店に入り、500mlのペットボトルの水を買うが、ペットボトルに商品名などが書いたシールなどが貼られていなかったので、どうも中の水をつめなおしたものらしい。
その店では、10歳前後の男の子が何を探しているのかとすぐに応対してくれる。その子の親らしい人も店内にはいたが、子どもに一部は任せているよう。
他に遊びに来ているのかやはり10歳前後の女の子が2~3人いて、何か話ながらこちらをじろじろと見ていた。
買い物をしていたら、バスが来たので急いで道路に出て、バスを止め、乗り込む。さすがにこれから中心部に向かう人は少ないようで、5人ほどしか乗っていない。
運転手はでこぼこした道を果敢に攻める。ハンドル裁きを見ていたが、右に左に小刻みに動かし、それほどスピードを落とさずに走り抜ける。運転はなかなかうまいが、それでも上下左右の揺れは大きく、時折座席から尻が浮く。
乗客は20分もすると、ぜんぶ降りてしまった。残ったのはぼくと、運転席の横に座っている若い女性だけ。彼女は運転手の恋人らしく、客がいなくなると二人で親しげにおしゃべりを始める。おしゃべりするのはかまわないのだが、さっき攻めていた道よりも走りやすい道に出ているのに、運転手はなぜか車のスピードを落とす。
おそらく時速20km程度。トロトロと運転しながらひたすらしゃべっている。やれやれ。
黙ってみていたら、とりあえず話したいことは話し終えたのか、しばらくして音楽のボリュームを上げ、またスピードを上げて走り出す。幹線道路に出たあとは、まわりのスピードに合わせることもあるからだろう、再び遅くなることはなかった。
おしゃべりを終えた運転手が"Amigo,para donde(どこまで)?"と聞いてくる。ターミナルまでと伝えると、近くに着いたときに教えてくれ、そこで降ろしてくれた。
宿に着いたのは22時頃。だが、露店などは遅くまで開いているから、パラグアイのアスンシオンと違って人気がなくて怖いということはない。
こちらの宿には蚊はいないので、昨晩のような闘いは不要。ゆっくり眠ることができる。
Fin
0 件のコメント:
コメントを投稿