2008年7月30日水曜日

本;『フランス植民地主義の歴史』

平野千果子『フランス植民地主義の歴史』人文書院、2002

68
「フランスがこの北アフリカの奴隷制をやめさせることも「文明化」であり、征服はそれを達成する正当な手段だと位置づけられる」

85
「奴隷制廃止の後にアルジェリアの支配が確定していくのは、きわめて象徴的である。それまでの奴隷貿易では、アフリカ大陸の拠点から人を連れ出して、おもにカリブ海などに送り込んでいた。それに対してアルジェリアは、まさにアフリカ大陸の土地をその住民とともに、いわば面で支配する最初となったからである。」

140
「フランスの場合も1880年に海外領土は100万平方キロ、その人口は540万人であったが、15年後には、それぞれほぼ10倍に膨れ上がった。ー略ー 「フランス植民地帝国」という、日本人にはいささか耳慣れない言葉が使われ始めたのも、1890年頃からだとされる。」

141
「民族自決の原則が謳われていく第一次大戦後、とくに1930年代以降は、「植民地」よりも「海外のフランス」という用語が用いられる場合が増えた」

143
「フランスで歴史的に草の根レベルでの教育を担っていたのは、末端の教会の司祭たちであった。司祭が子供たちに読み書きを教えることは、聖書を読めるようにすることであり、ひいてはカトリックの教義を教え込むことでもある。したがって、革命の系譜を引く世俗共和派にとって、次代を担う子供たちの学びの場からカトリック勢力を排除することは、共和主義的な新しいフランスを建設する第一歩でもあった。」

フェリーの発言
150-151
「くり返し申し上げましょう。優れた民族には権利があるのです。なぜなら優れた民族には義務があるからです。つまり劣った民族を文明化する義務があるのです」。」

153
「対比はあくまで「文明」と「野蛮」であって、奴隷制を廃止しない限り、フランスは真に「文明の国」たりえないとも批判されていた。」

「さらに、フェリーが人権宣言は黒人のために書かれたのではない、と公言していることも見過ごせない。現実の歴史でも、人権宣言は黒人奴隷だけではなく、女性たちにも即座には適用されなかった。それどころか、フランスは人権宣言の国であったがゆえに、奴隷制廃止という大義名分を掲げて植民地拡張にひた走った。」

中国思想がフランス知識人に与えた影響を買いた本
後藤末雄『中国思想のフランス西漸』

182-183
「フランスの植民地帝国はイギリスに次ぐ規模であったとはいえ両者の間には決定的な相違がある。それはイギリスとはちがってフランスが、海外領土に送り出す過剰人口をついに持たなかったことである。」

222-223
「紀元2000年を機に同年三月、ヨハネ・パウロ二世は過去2000年の歴史における教会の過ちを認め、神に許しを求めた。「記憶の浄化」のためで、2000年間の歴史全体について法王が言及するのは初めてだという。法王が示した7つの大罪の中には、魔女狩りや宗教裁判んど、カトリック教会内部での事件もある。他方、十字軍での暴力やユダヤ人に対する暴力など、異教徒への暴力もあげられた。」

235
「「文明化」は、国レベルでの植民地化だけではなく、黒人の私的利益を糊塗するという、二重の役割を果たしていた」

242 クレマンソーの言葉
「フランス人一人が死ぬよりは、二人の黒人の死を」

303-304
フランスの植民地主義への批判がさほど聞かれないのはなぜか?
「革命の理念と植民地主義が、実はフランス人の意識において矛盾していなかったという点。そして掲げた理念の「普遍性」ゆえに、フランスに侵略された側もこの理念に容易に共鳴し得たという点。これらのことが、フランス植民地主義の「免罪符」になり、ひいてはフランスが自身の植民主義の過去を問い直す、大きな壁になっているのではないだろうか。」

317
「21世紀は「遊牧の世紀」になるともいわれるが、人の移動は形を変えて確実に増えるだろう。そうした社会において、ことさらにアイデンティティを一つに固定化するような、旧来の民族自決の意味合いは、急速に薄れていると言っていい。まして経済のグローバル化によって、むしろ貧富の差の拡大が指摘される中で、弱小地域が独立を必ずしも是としないのは、旧フランス領の例にも明らかである。」

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