2008年7月29日火曜日

皇太子の登場、パウリスタ大通り、金曜会

08/06/20(金) 晴れ 26℃

7時過ぎに起き、1階のリビングでニッケイ新聞とサンパウロ新聞を読む。相変わらず100周年関係の記事が多い。国内のニュースとしては、リオで警察が若者4人ほどを麻薬組織に引き渡したことで、その若者らが殺されたことに関するニュースの扱いが大きい。北朝鮮が核計画を考えているというニュースもかなり大きな扱いになっている。

リビングには、同室のおじいさんと韓国人の男女各1名とぼく。

今日の午前10時半頃に、ここリベルダーデにある日系人の移民資料館に皇太子が立ち寄り、その後、ガルバンブエノ通りを通るということで、同じ部屋のおじいさんは皇太子に会いに行くいう。

そこへ宿のおばさんが来て、”早く行かないと場所がなくなるよ”とそのおじいさんに言う。

おじいさんと二人で話していたら、韓国人二人が何を話しているのかと気にしていたようなので、でたらめ英語で解説。皇太子は英語でプリンスになるのか? などと思いながら適当な英語で伝える。状況はわかってもらえたよう。

彼らに韓国では、韓国人の移民について勉強するか尋ねたところ、しないとのこと。これは日本と同じだ。

10時前、ぼくも皇太子を見に来ている人たちを見に行こうと思い、外に出る。通りはもういっぱいだろうと思っていたら、それが予想外にがらがら。人でいっぱいだったのは、移民資料館の入り口付近と、大阪橋からリベルダーデ地下鉄駅にかけての100mの区間のみ。あとはパラパラ。

集まっている人たちはやはり日系が多いが、非日系のブラジル人も多く来ている。全体の割合で言うと日系7割:非日系3割という感じ。

平日の午前中という時間帯もあるのだろうが、日系の人は圧倒的に年輩者が多い。たぶん9割程度。非日系のブラジル人は20~40歳代程度と見られる人が多い。

日本とブラジルの小旗が沿道の人々に配られる。小学1年生くらいの子どもたちが40人ほど教員らしき人等に連れてこられていて、沿道で旗を振る練習などをしている。浴衣を着た年寄りたちやおそろいのジャージを着たラジオ体操協会(?)の年寄りたちは横断幕を持って立ったまま待っている。

テレビ局らしきカメラも数台。カメラマンは10人くらい。待っている人たちは互いにデジカメや携帯カメラで写真を撮り合ったりしている。

11時前、先導車に続き、皇太子が乗った白い車が通過。車は止まることなく、去って行く。おそらくほとんどの人が皇太子がどこにいたかわからなかっただろうというスピード。それに1世などの年寄りは背が低いから、最前列にいなければ車もまともに確認できなかったのではと思えるくらい。皇太子の車の後に、マスコミ関係者を乗せたバスが通り過ぎるとき沿道の人は旗を振って声を上げて遊んでいた。

その後、パウリスタ通りという映画館や官庁のある地帯を見に行く。

途中、昼飯を食うため町中でみかけるファーストフード的食堂に入る。よくわからないので、適当に頼んだら鳥の唐揚げの定食だった。ブラジルで鶏の唐揚げなんて失敗だ。

定食は白米、豆を煮たもの、生のレタスとトマトとキャベツ、それに唐揚げ。それぞれ別個の皿に盛られている。各テーブルには、1人の客に1枚の平皿が用意されており、その皿にそれぞれから移しとって食べるらしい。一枚の皿にまとめて出せる量のように思うのだが、なぜこういう習慣になっているのかが不思議だ。

豆はご飯にかける。煮豆はけっこう塩気が強いので、ご飯と混ぜるとちょうどいい具合になる。テーブルにはビネガーと塩、オリーブオイルがあるので、生野菜にはそれらを適当にかけて食べる。

また、爪楊枝(こちらのは両端がとがっている)があるので、食後にそれを使っている人もいる。

これでお代は6.5ヘアル(約400円)。

しばらく歩いていくと幹線道路の交差点で自動車のフロントガラス拭きをしている家族(?)がいた。10歳に満たないであろう男の子と女の子、180cm近い身長がある10代半ばくらいの男の子、そして母親らしい中年の女性が2人。

近くのちょっとした広場の端には洗濯物が干されており、そこで暮らしているらしい人が数人でおしゃべりをしていた。

さらに歩いていくと商店が建ち並んでいる地帯に出る。

ここでようやっと見つけたのは焼きそばの屋台。”Yakisoba"と書かれた歩道の屋台では、中国系の夫婦が中華鍋で調理している。若いヨーロッパ系のブラジル人が3人ほど、屋台の周りで焼きそばを頬張っている。値段は3ヘアル(約250円)。

どうも道を間違えたらしく、なかなか目的の通りに出ない。さまよい込んだ住宅地には立派な邸宅が立ち並んでおり、それらを眺めていると漢字が目に飛び込んできた。5階建てくらいのそのビルの壁には栃木県人会館とある。

他にも宮城県人会館や鹿児島県人会館などあるが、こうしたかたちで建物を所有(借用?)しているのは、日系人くらいじゃないのかと疑問に思う。そもそも県別に建物を持つというところがよくわからない。長期的に見れば、世代交代する度にそれぞれの県と具体的・直接的な縁がある人はどんどんいなくなるだろうに。

まあ、いなくなればなったで誰かに貸すなり、売るなり、返すなりすればいいだけのことだが、このような感覚だと出身者が少ない県の人は肩身が狭い思いをしているのではと思ってしまう。

ぐにゃぐにゃ歩いてようやく目的地近くまでたどりつく。かなり遠回りというか、完全に方向が違っていた。道路名がほとんど書いていない簡単な地図しか持たずに、五叉路や三叉路が多いこのまちを歩くのはなかなか難しい。

のどが渇いたので、道ばたの果物売りの人からスイカの切り身を購入。1ヘアル(約65円)。果物売りのおじさんは、ぼくからコインを受け取った後、ギザギザのパン切りナイフ(アルゼンチンではピザを食べるときに使っていたナイフ)を取り出し、ぼくに渡す。これを使って食べるらしい。

スイカで喉の乾きを潤し、また歩行を再開。パウリスタ通りは、片道3車線くらいの広い車道が真ん中を走り、その両脇にビルが建ち並んでいる。歩道も幅3mほどあり広い。車の交通量は多いものの、排気ガスのにおいはほとんどしない。

歩いている人も多い。また、物乞いしている人を2~3人みかける。セントロの方では路上で寝ている人らをたくさん見たが、物乞いをしている人は見なかった。こちらの方が金持ちが多そうだから、それを当てにしているのかもしれない。路上に座り込んで人が通る度に右手を差し出している一人のおばあちゃんに、適当にポケットのコインをつまんで渡すと、驚いたような顔をしていた。ぼくの外見がそうさせたのか、それともそうしたことがあまりないのか。

しばらく歩いていると「いらっしゃいませ」と日本語で書かれたビニール袋を手首からぶら下げている日系らしいおじさんを発見。両手に箱を抱えて歩道に立っているので、何をしているのかと思ったら、その箱にはイヤリングらしき小さなアクセサリーが20個ほど並べられていた。ここでこうして売っているようだが、10分ほど見ていた間では足を止める人はいなかった。

映画館やパスタ屋、電化製品屋、本屋などの他に美術館のような建物がちらほら。退屈なので、地下鉄の駅に着いたところで地下鉄に乗り、明日のバスのチケットを買いにチエテという駅まで行く。

フロリアノポリスまでの夜行バスのチケットは88ヘアル(約5000円)。12時間ほどの移動でこの値段。まぁ、こんなもんか。

それから宿に戻る。

19時頃、前に雑誌で読んだ宮城県人会館で毎週金曜日に金曜会というビアガーデンのようなものをやっているという記事を思い出し、行ってみることにする。

宿のおばさんに会館の場所を聞くと、すぐ近くだった。教えてもらったとおりに歩いていくと4階建ての立派なビルを発見。入り口には3mほどの高さの格子状(?)の門あり。

ちょうど玄関にけっこう年輩の男性がいたので、声をかけ金曜会のことを聞くと、どうぞどうぞと中に入れてくれる。建物に入るとまず左手に家紋の置物を展示しているショーケースがあった。

へぇっと見ていると、そのおじさんが「面白いでしょう?」と話しかけてくる。聞くと宮城県出身の移民の人で家紋が好きな人がいて、その人が作ったものらしい。おじさん言うには、100周年記念ということで、現在特別セールのようなものをしており、希望者があればその人の名前や出身地などから先祖を探り、その人の家紋を特定し、瓦のような材質の材料で家紋を表した置物を作ってくれるらしい。もちろん有料。

ショーケースの上にはその申込書があり、おじさんはもしよければとその紙を一枚ぼくにくれた。

エレベーターで3階(日本式だと4階)にあがる。エレベーターを出たところに受付のおばちゃんがいて、その後ろで別のおばちゃんたちが2~3人でおにぎりなどをにぎっている。

代金は25ヘアル(約1500円)。たぶんこの旅行で飯にかけるお金としては最大。高い。高い理由はビールが飲み放題で、他いくつかの酒も飲めることのよう。

4階は屋上になっており、そこに運動会で使うようなテントが5棟ほど張られ、七夕飾りのような装飾もされている。おそらく100人はゆっくり座れるくらいのスペースがあり、すでに20人くらいの人が飲んでいた。おじさんが多い。

入るとおじさんが、「何、のむ?」とまったく居酒屋的な調子の日本語で聞いてくる。何があるんですかと聞いたら、「じゃあ、まずはビールでいいか」とビールを中ジョッキよりやや小さいコップについでくれる。

適当に座ってと言うので、空いているところに1人で座る。

直径40cmほどの皿に複数のつまみが盛りつけられ運ばれてくる。おつまみは鯛っぽい白身の刺身が5切れほどと、しいたけの佃煮のような煮物、生セロリ、白菜の漬け物、なすの天ぷらなど。あと肉は適当に焼けたら持ってきてくれるらしい。それから最後にはソッパ(味噌汁)が付くという。

運んできてくれたおばさんは、一人じゃつまらないだろうから、みんなの中に入ったらとすでにできていたおじさんたちの輪の一つに案内してくれる。

せっかくなので、お言葉に甘え混ぜてもらうことにする。見た目みな50代後半から60代半ばくらいのおじさん4人と40代くらいの人が1人という輪の中に入る。

それほど盛り上がっていたわけではなく、わりとみなさん静かに飲んでいる。そのうち1人、2人と人が増え、徐々ににぎやかになる。

ブラジル生まれの人は1人ほどで、ほとんどの人が日本で生まれ移住してきた人らしい。そのためおしゃべりは日本語だし、イントネーションなどもまったく日本で聞くものと同じ。

そのうちぼくと同じ名字の人は、12~13歳のときにブラジル丸(だったかな)で家族とともにブラジルに来たという。船に乗ったらすぐに船員に”暇か?”と聞かれ、暇だと答えたところその日から船の食事作りの手伝いをやらされたらしい。それも45日間ずっと。話している様子からすると楽しかったよう。ロサンゼルスに停泊したときには、移民の中ではただ一人だけ下船を許され、そこで食べた大きなアイスが「それはうまかった」らしい。ロスでは観光客と船員だけが下船できたそうで、移民の人は停泊中ずっと船の中だったらしい。なので、移民の人の中にはロスで下船してみたかったと言う人が多かったらしい。

そうしてリオ・デ・ジャネイロに到着。すると今度は盗難の嵐だったらしい。移民の人たちが持ってきた荷物を、港で待っていた地元の人(おじさんは「くろんぼ」と言った)が船に乗り込んできて親切に荷物を船から降ろす手伝いをするふりして、カメラやラジオなどを盗んでいったらしい。

話題は今回の100周年の話から日本の政治家の話(民主党批判、次の首相は麻生がいいといったこと)、相撲話(モンゴル勢の次はロシア勢か?)、市町村合併の話、秋葉原の殺人事件の話、便所掃除の話など。基本的に日本に関わることが中心。みんなよく知っている。

ある人はぼくに、”あちこち旅行しているみたいだけど、ここが一番暮らしやすそうだと思わない?” と聞いてくる。また、日本がもし大変なことになったら受け入れてくれるのはブラジルくらいしかないよ、とも。それからブラジルには何かやろうと思えば、それができる環境があるという。具体的には例えば日本や欧米では資格が必要だったり、あるいはもろもろの煩雑な手続きを経ないとできないことが、ここではそうしたことが少ないためより早くスムースに実現できるということらしい。

また日本のお菓子や食料品の袋に入っている乾燥材などについて、”あれは食べられるのかどうか外国の人にとってはわかりにくい。もっとドクロのマークにバッテン(×)するなどわかりやすくしないと間違って食べてしまうよ。俺はそれがいっつも心配なんだよ”といったことを言う。

そんなもろもろの話を聞かせてもらっているうちに閉店の22時になる。

切り上げるときに、同じ名前のおじさんは、”あなたは今日はいい話を聞いたよ。今日の話はなかなか聞けないことだから。今日聞いたことを自分の子どもたちなどに聞かせたりしてほしい”というようなことを言う。

ブラジル式に握手して解散。

宿に戻る。カイピリーニャというサトウキビで作った強い酒を飲んだせいで頭がイタい。ダチョウのたたきは美味だった。

寝る。

Fin

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

そのさー100周年記念の写真展やってたよ。
たまたま行った別のイベントの写真展の脇にそっと置いてあった。
なんかけーーっこう日本人のかたっていらっしゃるんだねぇ。

何気ないところでふぅとつながると、ちょっとコウフンするよねぇ(^―^)

皇太子、元気そうじゃった??

ぶらぷらびと さんのコメント...

皇太子はあいかわらずの笑顔だったよ。帰国したらシュハスコしましょう。