E.ウィリアムズ(川北稔訳)『コロンブスからカストロまで Ⅰーカリブ海域史、1492-1969』岩波現代選書
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エスパニョーラの人口動態に関する推計より
エスパニョーラ人口の推移
1492年 20万~30万人
1508年 6万人
1510年 4万6000人
1512年 ほぼ2万人
1548年オビエードの発言
「もはや純血のインディオは500人とは生存していないのではないか」
1570年 エスパニョーラのインディオは2集落を残すだけとなった。
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「スペインのインディオ政策の重要性は、それがカリブ海域でスペイン人に代って次々と勢力を拡大していった諸国に教訓を与え、これらの諸国は速やかにその政策を改善しえたという事実にある。労働は人間の品格を落とす、という消し難い印象がカリブ海域の人びとのあいだに残ったのは、まさにこの政策のためであった。それはまた、後のはるかに広汎かつ包括的なニグロ政策の基礎をも提供したのである。」
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「インディオを過重な負担から逃れさせようとして、ラス・カサスは1511年、国王に接見するに際して、ドミニコ会士の発案なる解決法をひっさげていった。つまり、「ニグロ一人の労働力はインディオ4人分以上に当りますからmエスパニョーラにはギニアからできるだけ多数のニグロを導入すべく、全力を傾けるべきであります」、と彼は進言したのである。にグロの奴隷制とニグロ奴隷貿易の正当化がここに始まった。」
「しかし、インディオの絶滅によって生じた労働力不足を解消するために、スペイン政府が最初に注目したのは、ニグロではなく、白人であった。」
白人労働力の供給形態
1.囚人(結局は、囚人の数は多くなかったようであまり使えなかった)
2.白人奴隷
3.外国人(神聖ローマ帝国内にはイタリア人、フランドル人、ドイツ人などが混在していた)
→これらだけでは、植民地の労働需要は満たせずスペイン人の自由移民を積極的に推進することになる。
しかし、広大な植民地(エスパニョール島:ドミニカ・ハイチ、キューバ、ジャマイカ、プエルト・リコ、パナマ、メキシコ、コスタ・リカ、ニカラグア、グアテマラ、ホンデュラス、エクアドル、ペルー、ベネズエラ、ユカタン半島、フロリダ半島など)の労働需要はスペイン人だけでは満たせず。
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「したがって、カリブ海域で砂糖を生産するには、何か別の労働力源を確保することが不可欠であった。
しかし、スペイン人はこのことであれこれ思い悩むこともなかった。16世紀初頭といえばポルトガル人はすでに半世紀以上にもわたってニグロ奴隷の貿易を展開してたし、スペイン人もポルトガルの奴隷市場でニグロ奴隷を買うことに慣れていたからである。」
「こうして1501年9月3日、国王自身によってニグロ奴隷貿易が開始された。・・・こうして、スペインの奴隷貿易は西アフリカから西インド諸島へではなく、スペインから西インド諸島への奴隷輸出として始まったのである。」
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「スペインの新世界貿易独占政策には主要な目的が二つあった。ひとつは、アメリカ産の金、銀が他国へ流出しないよう防止すること、いまひとつは、貿易利潤を国王とその臣下のために確保することがそれであった。つまり、必ずしもスペイン製品のみならずあらゆるヨーロッパ商品の植民地への供給権を独占し、植民地物産、とくに貴金属をも独占することがスペインの政策意図であった。この政策は、植民地における農業奨励策とも矛盾しなかったし、工業育成政策とさえ必ずしも両立しえないものではなかった。まさにこの点にこそ、スペインの植民地政策の特色が認められる。その競争相手たるイギリスやフランスがのちに構築する植民地体制との根本的な相違点もここにあったといえよう。スペインの独占は、あくまで貿易と航海の独占にすぎなかったのに、イギリスやフランスの政策には、この他に生産の独占が含まれてたわけである。」
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「スペイン政府の高等教育に対する並々ならぬ関心は、メキシコとリマに大学を創り、西インド諸島でもサント・ドミンゴとハバナに大学を創設したことにも表れている。この事実もまた、スペインの植民地政策をのちの英・仏のそれから●然と区別する特長であった・・・」
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「スペインがそのカリブ海域植民地で植民地主義を展開し、これを強制しはじめると、本国と植民地の利害は真っ向から対立するようになった。植民地側の運動には二つの形態が区別できた。すなわち、白人である植民地人は本国から離反し、有色の植民地人は公然と反抗したのである。いつこの二つの要素が合体して本国による抑圧に対抗し、異口同音に植民地の独立を要求しはじめるか分からない。こういう不安定な要因をはらみつつ展開したのがカリブ海域の歴史だったのである。」
113ー114 白い貧民
3つの白人移民の供給源
1.年季契約奉公人(経済的に困窮してやむなく、他人に渡航費を負担してもらって植民地に渡り、一定期間労役奉仕を行うことを承諾した男女のこと)
2.囚人、犯罪者(国家が全面的に援助し、植民地の労働力問題の解決に寄与する形態の刑罰が導入される)
3.反体制派の人々(17世紀にイギリスが宗教および政治上の争乱に巻き込まれた結果、本国の体制派の宗教を支持しない人がプランテーションへ送られた=流刑)
124
白人労働制度はカリブ海地方における労働の質をさらに一段と下げた。白人強制労働が展開されるにつれて次第に倫理感が薄れ、黒人強制労働の導入に道を開いたのである。
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白人労働力の利用に際しての三つの重大な障害
1.白人労働力の供給が砂糖生産に必要な労働力の領に比べて極度に不足していたこと。
2.白人労働力が高価すぎるということ。
3.砂糖キビの大農場には年季明けの奉公人を受け入れる余地がない。
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重傷主義者の考え方
「白人労働力に基礎を置く植民地は必ずや競合的な製造業をおこすであろうし、独立への野望をも育むに違いない。それゆえ、プランテーションは黒人奴隷に頼るに限る」
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「砂糖が王様だったところでは、白人の生き残る道はプランテーションの所有者になるか、現場監督になることしかなかった。それ以外の白人は要するに余計者であった。」(例:ジャマイカ)
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「三角貿易は、本国の物産に西アフリカと西インド諸島の市場を与えた。この市場のお蔭で本国の輸出が増え、本国における完全雇用の達成が容易になった。アフリカ西岸で奴隷を購入し、西インド諸島で彼等を使役したことによって本国の製造業も農業も測り知れないくらいの刺激を受けた」(イギリスの毛織物工業)
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フランスの奴隷貿易の拠点ナント商業会議所の主張
「「植民というものは、本国と異質であればあるほど完璧である。・・・・・・この点で、カリブ海植民地こそはその典型である。そこでは、フランスが輸出する商品は何ひとつ産出しない。フランスには欠けていて生産不能なものだけが採れるのだ。」」
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「植民地の独立志向は、とりわけカリブ海地方では、大部分の植民地が特定の個人の私物となっていたという事実、つまり個々の島が国王からそれぞれの個人に贈与されたという事実によって育まれたものである。」
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18世紀の奴隷制
仏領西インド諸島の総督フェヌロンが1767年に宣言した言葉から
「「私は、ヨーロッパ人一般の御多分に漏れず、に愚論もキリスト教の諸原理を教えてやることが必要だという考えを抱いてここに来た。しかし、健全な政策とは何かという問題を、人道主義の見地にしっかりと両足を下ろして検討してみると、これは間違いであることがわかる。というのは、白人の安全を守るためには、ニグロを徹底的に無知にしておかなければならないから。ニグロは獣と同じように扱わなければならないと、いまでは私は強く確信している。」」
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奴隷が奴隷制の苦境を逃れるためにとった4つの方法
1.自殺
2.プランテーションからの逃亡
3.1772年以後、英領西インド諸島の奴隷にはイギリス・アイルランドに入国すれば(プランターに連れられてなど)自由になれる道ができる。
4.反乱
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「西インド諸島史は、人類の愚劣さとひ弱さの記録そのものである」
08/03/22 カンクンよりアップ
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