2008年3月30日日曜日

プンタゴルダ(ベリーズ)からプエルトバリオス(グアテマラ)へ

08/03/26(水)
前編

1米ドル=7.5ケツァール

7時前に起床。扇風機をつけて寝ていたが、朝になると寒く感じ、扇風機を止める。気温は20度前半くらいか。そもそも扇風機の「1」の風力が強いから、一番弱い風にしていても狭い部屋では十分すぎるくらいに躰の熱を飛ばすことができる。

昨日会った協力隊員の人が、朝は海岸沿いの通りに市がたつと言っていたので、朝飯がてら出かける。公園のまわりにはバスを待っているらしい人たちが30人ほど。海沿いの通りには言っていた通りに市がたっていた。野菜や果物が中心。直線距離で言うと100mほどなので、規模は小さい。

宿の方から行くとその通りは突き当たってT字路になっている。そのT字路にたどり着いたとき、左手からはスクールバスと書かれたバスが市の前を通り過ぎようとしていて、バスの向こう側ではなんだか騒々しい声と物音がした。

バスが通り過ぎてから、そちらを見ると生卵が大量に道路に崩れ落ち、割れている。右手に視線をやるとおじさんが椰子の実を頭上にふりあげ、誰かを追いかけており、その誰かは人混みの中に走り込んでいるよう。走り込まれた人混みの中の人々は、椰子の実をふりあげて走ってきたおじさんを見て、一斉に逃げ出す。ひょろっとしたおじさんだったので、椰子の実をそんなに強く投げられるとは思わなかったが、しかしあんな硬いものをぶつけられてはひとたまりもない。

おじさんは誰かに向け、椰子の実を放り投げたが、当たったかどうかはぼくの視角からは見えなかった。そちらに気を取られていたら、すぐ目の前で若い女の人が二人「ファック」と言って、卵を踏みつぶしている。

何がどうしたのかはさっぱりわからないが、大人が喧嘩しているのを見たのは、この旅行で2~3回目だ。

カメラの電池が切れたので、一旦宿に帰り、また出直す。船着き場に行ってみると、イミグレの入り口にマヤ系の男の人が二人座っていて、声をかけられる。二人はグアテマラのプエルトバリオスに行くチケットを売っていて、今日の9時半に出ると言う。

昨日、ここで確認したときには別のおじさんが今日は舟が3便あって、9時半、14時、17時だと言っていた。だから、午前中はここでのんびりして、午後の舟で出ようと思っていた。

が、チケットを売っている人が言うに、午後の便はいずれも料金が高いと言う。それを聞いて予定を変更。9時半の舟に乗ることにする。料金は40ベリーズドル(20米ドル)。バスが8時間乗って10ドルちょっとだったから、舟もそれくらいだろうと思っていたが、そうではないらしい。高い。

市を一通り見て回る。小降りのバナナがあったので、それを買う。小さいが一房10本ほどついて1ベリーズドル(約60円)は安い。味も大きいバナナと違ってさわやかな甘さでなかなかよろし。ただどうも粉っぽい。

それから人気のないところで隠していた米ドルを取り出し、さっきのチケット売りの人のところに行き、チケットを買う。ベリーズドルはないので米ドル払い。20米ドル。チケットを買うときにはパスポートを見せる。彼はそれを見ながら名前などを書き写す。

チケットを買い終わってから飯を食いに行く。

市が出ている道沿いの海側には長屋風のコンクリートづくりの建物があって、そこも商店となっている。店は道路側だけでなく、海側にもあってそっちには食堂が4~5軒並んでいた。メニューも何もないが、地元の人がそこで食事をしている。昨日、協力隊の人におすすめの店を紹介してもらったのだが、けっこう人がいっぱいだったのと、きれいなのでヤメにし、こちらで食事をすることにした。

ぼくは一番南側の見せで朝飯を食べることにする。出てきた料理は、大盛りの赤飯に煮込んだ鶏モモとキャベツのサラダ。ご飯には鶏を煮込んだカレー味のスープがかかっている。ご飯大すぎ。たぶん日本の旅館で出る茶碗5杯分はある。どうもこれはぼくが6ベリーズドルくらいで、と最初に料理を頼んだのがまずかったよう。普通は4ベリーズドル(2米ドル)らしい。

さっき買ったバナナをすべて食べた後だったから、後半は完食するのにやや苦労する。ベリーズドルがなかったので、米ドルで3ドル払う。

それから宿に戻り、荷物を持ってイミグレへ。チケットを買ったときに、舟の人からは9時までに来て、イミグレのスタンプをもらうよう言われていた。イミグレに着いたのは8時45分頃で、バックパッカーらしきカップルが一組すでに来ていた。あとは地元の人が数人。

建物に入って右側が手続きをするところで、そこに行くが5分待ってとごついおじさんに言われる。しばらく待っているとOKが出たようで、他の人たちも並び始める。

手続きはさっさとすすみ、自分の番がまわってくる。パスポートを見せると、たいした質問もなくすんなり終わり、最後に7.5(ベリーズ)ドルと言われる。出国税にしては安いなと思いつつ、ベリーズドルはないから20米ドル札を出すと両替してこいと言う。公共の機関で、カネを取るなら釣りぐらい用意しておけよな、と思うのだが、そんなこと言えるわけもなく・・・。

また人気のないところに行って、かばんの奥に入れていた1ドル札の束の中から3ドルぶん抜き取り、それにベリーズドルの50セントコインを付けて出す。

すると”PACT"と書かれた名刺サイズの緑色の紙をもらう。領収書かと思い、書かれてある文字を読むと、今払った7.5ベリーズドルは、ベリーズの自然資源や文化資源を守るために使われると書かれてある。PACTというのは、上のことを定めた法律の略称で、元は"Protected Areas Conservation Trust Act No.40 of 2002"と言うよう。

出国の手続きはそれで終わり。荷物のチェックもなし。

桟橋のところで舟を待つ。9時半前に舟がどこからともなく現れて桟橋に接岸する。どんな舟かと思っていたら、大型のモーターボートだった。ブルーシートの屋根付きで、20数人乗り。

舳先の方に客の荷物をまず乗せる。ぼくは一番最後に乗り込んだのだが、一番前の席しか空いてなかった。なんで後ろの席から詰まったのかよくわからなかったが、その後、先頭の方が揺れが大きく、また水しぶきもかかりやすいからという理由を体得する。

乗船すると、オレンジ色に黒のマジックで舟の名前が書かれたライフジャケットがみんなに配られる。

舟は9時45分頃、離岸。あっと言う間にトップスピードに乗る。想像していたのよりも早い。ただ、キーカーカーに行ったときの舟よりも風圧は低いので、そこまで早くはないよう。

昨日は風速10mくらいはありそうな風がびゅんびゅん吹いていたが、今日は一転して快晴で穏やか。波もない。

舟の先頭の方は例のごとく10°くらい上に傾いている。なので、一番前に座ったのに前が見えない。ときおり数十センチ浮き上がり、ストンと落ちる。身構えていないとけっこうな衝撃がくる。後ろに座っているおばさんは、浮き上がったときに、キャーともヒャーとも聞こえる声を上げる。他の人は黙って乗っている。

15分もすると右手奥には陸がうっすらと見える。雲がかかっていてあまりはっきり見えないが、近づくに連れ、海岸沿いに家が立っていることなどがわかってくる。

そのうち左手にも陸が見え、湾に入っていくことがわかる。湾の奥にはフェリーや貨物船が停泊している。また、同じようなボートがリビングストンの方面から走ってくるのも見える。

ベリーズ側を出てから約1時間後の11時前。小さな水しぶきを10回近く浴びて、舟はグアテマラのプエルトバリオスの船着き場(ドック)に到着。ボート専用の船着き場のようで、似たようなボートが数隻ある。

ボートから降り、あたりを見回すが、イミグレらしき建物が見えない。同じようにバックパックを背負ったカップルが先に歩いていたので、彼らについていく。すると船着き場から50mほど行ったところにイミグレがあった。

一応道路沿いに看板は出しているのだが、まわりの木の陰になっていて、建物のすぐ近くまで行かないと気がつかない。建物も独立した建物ではなく、商店などと並んであるので、気づきにくい。

一緒に乗ってきたボートの客がすでに中にいて、その後ろに並ぶ。自分の番になって、パスポートを出すと、英語でどこに行くのかと聞かれる。グアテマラシティと答えると、質問はそれだけで、ここも荷物のチェックもなく、入国手続き完了。

つづく

ベリーズシティからプンタゴルダへ

08/03/25(火)

夜中、カサカサとビニール袋が擦れる音で目が覚める。もしやと思ったら案の定ゴキブリが4匹。日本のよりもでかい。移動のバスの中で食べようと思っていたバナナの袋の中に入ってなにやらしている。ああ。サントドミンゴの宿もぼろかったけど、ここまでひどくなかったけどなぁ。ゴキブリが入り込んでいる袋を動かすとドアの下の隙間から部屋の外へと逃げていく。

8時。メキシコペソを両替しようと銀行に行く。宿から歩いて5分圏内に銀行は4カ所ほどあり、そのうちの3カ所に行くもペソの両替はやっていないと言われる。ある銀行の窓口の人に、どこで両替できるかと聞くと中央銀行ならできると言われ、海のそば、ベリーズ博物館裏の中央銀行に行く。

が、ここは両替自体をやっていないと守衛に言われる。無駄足。これで国境に両替屋がいなかった理由がわかった。ベリーズではメキシコペソは、まったくと言っていいほど価値がない。しかし、陸路で簡単に行き来ができる隣の国の通貨を両替していない国なんてそうないだろうに。

結局、別の銀行の窓口の人が言っていた船着き場の店が両替商も兼ねていた。店の看板にはそれらしいものは何もないから教えてもらわないとわからない。インド系の人がやっている店で両替してもらうと、1ベリーズドルが7ペソ。2軒の店で合計700ペソ(約65米ドル)ぶんを両替してもらったが、100ベリーズドル(50米ドル)にしかならず。為替差額で実に10米ドル以上損した。

経済の実態から言うと、ぜったいメキシコペソの方が強いと思うのだが、米ドルに固定しているから、こんなことになる。やれやれ。がっくりですわ。

カネがかかることもあり、さっさとベリーズを出ることにする。結局、ベリーズシティも連休だったから、普段どんな感じのまちかがわからなかったが、もう1泊する気にはなれない。

さすがに今朝は昨日、一昨日と違って朝から人手が多く、車もひっきりなしに走っている。8時過ぎにはどの店も開店の準備をしていて、確かにベリーズ最大の都市というだけある物量がかいま見える。

10時くらいのバスに乗れればいいかと8時40分頃宿を出る。歩いてバスターミナルへ。朝飯はまだ食べていなかったが、ターミナルの周りに出ている市でまた果物でも買おうかと思っていた。

20分ほど歩いて、バスターミナルがもうそこに見えているところまで来た時、ちょうどフロントガラスにPunta Gordaと書いたバスが正面から来た。

ラッキーと思って、右手を挙げてバスを止める。インド系のお兄さんが出てきて、どこに行くんだと聞くので、プンタゴルダと答えると、乗ってという合図をされる。

パッと見た感じでは満席なのだが、一番の奥の席が空いていた。車内は中央に通路があって、その両脇に二人掛けの椅子が並んでいる。12列ほどあって、50人近くが座れる。

一番後ろの席の後ろが、荷物置き場になっていて、そこにリュックを置く。すでに置かれているバナナなどの荷物で床が見えない状態になっており、どこに置こうか迷っていると、右の列に座っていたおじさんが背負っていたリュックを抱えて置くのを手伝ってくれる。

車内はエアコンもテレビもなし。窓からの涼しい風が入るから、エアコン付きで窓が開かないバスよりもだいぶん気持ちがいい。

乗客はチェトウマルからのバスと違って、マヤ系の人も多い。

車窓からは何にも使われていない木々がパラパラと茂っている平原が見える。高床式の家もときおり見える。

ベリーズシティを出て1時間10分後の10時20分、ベリーズの首都ベルモパンに到着。バスターミナルは郊外にあるのか、まわりは道路と民家が少々。バスの中にバナナチップ売りの男の子やピザ売りのおじさんが乗り込んできて、乗客に売り込む。ぼくはバナナチップを購入。1ベリーズドル(約60円)。例のごとく塩味。

星条旗のマークが入った帽子をかぶったヨーロッパ系のおじさん(70歳手前くらい)が、その友達というおじさんと一緒に乗り込んできて、隣に座る。しゃべる英語からアメリカ人っぽいように感じる。ベルモパンには買い出しに来てたようで、プラチックのトレーに入った肉や野菜などを大量にバスに積み込む。

同じバスに乗ってた若いアメリカ人らしき男の人とおじさんは話す。

まちを抜けると山道に入る。道路沿いには広大なオレンジ畑。山の斜面まで開墾しており、傾斜のきついところにもオレンジが植わっている。数十分もの間、オレンジ畑の脇を走る。面積で言うと数十ヘクタールはあるよう。木々には実が着いているものもあるし、ないものもある。実も黄色や緑がかっている皮の固そうなものばかり。

ぼくがオレンジ畑の写真を撮っていると、アメリカ人ぽいおじさんが話しかけてくる。オレンジが好きかというので、イエスととりあえず答えると、あっちにもと右手の畑を指さし、こっちにもと左手の畑を指さして、写真を撮ったらというような仕草をする。

そして、ジャパニーズかと聞いてくる。そうだと答えると、昨日もダングリガ(Dangriga)行きのバスで日本人のかわいい女性にあったらしい。彼女はベリーズで教師をしていると言っていたらしい。ベリーズで教師をしている日本人ってどんな人だろうとそのとき思ったが、あとで思うに、どうもその女性は協力隊員のよう。

オレンジ畑の中を走ること30分ほど。そのおじさんは自分の家があそこにあると左手奥に見えてきた赤い屋根の家を指さす。自分で"Big house"と言うのだが、確かにそこそこでかい。聞くとおじさんは運良くビッグマネーを手にし、25年以上ベリーズに住んでいるらしい。家は山の斜面にあり、やはりオレンジ畑に隣接している。隣の家までは50m以上離れており、辺りの人口密度はかなり低そう。

道沿いには、マヤ系の人たちの集落を多く見る。コンクリートづくりの家もあるが、集落によっては木製の壁に椰子の葉で屋根を葺いた家だけというところもある。家の周りにはバナナなどが植えられ、たいてい家の玄関前などで子どもたちがじゃれあって遊んでいたりする。ほとんどの女性がいわゆる民族衣装を着ている。

辺りはジャングルで緑が深い。川を何本も渡ったから水も豊富なようだ。

広大なオレンジ畑を見て、これらをどうしているのかと思っていたら、途中1カ所だけジュース工場を見た。どこの会社がやっているのか知りたかったが、工場の入り口には車窓から見る限り、はっきりとわかるような看板はなく、わからずじまい。ちなみに、その工場の入り口のところにみかんを抱えた労働者の銅像が建っていた。

12時20分、ベリーズの南部の中心町らしいダングリガ(Dangriga)に到着。ここもジャマイカなどから連れてこられたりしたアフリカ系の人が多く住むまち。その人たちのことをガリフナ族と呼ぶらしいが、まちの外れにはガリフナに関するミュージアムがあり、まちの入り口になっているロータリーにはドラムをたたく人たちの像が建てられ、台座には"Drum is My Father"という文字が彫り込まれていた。

ここでバスに乗っていた4~5人のヨーロッパ系・アメリカ系の旅行者はバスを降りる。旅行者らしき人間はぼくだけとなる。

ダングリガを出ると、バスはこれまた広大なバナナ農園の中を走る。両脇に数ヘクタールにわたってバナナが植えられている。

バスはまたジャングルに挟まれた道を通る。ここまではすべて舗装されていた道路を走っていたが、ダングリガを出てしばらくすると未舗装の道に出る。20分ほど未舗装の道が続く。未舗装と言ってもちょうど舗装の工事をしているところで、おそらく数ヶ月後や1年後には舗装されるのだろう。未舗装の道から舗装されている道に切り替わる地点の脇には、工事に使う車両などとともに、飯場として使われているのか、プレハブの建物が建てられていた。

13時50分、Independence Villageという村でお昼の休憩。レストランが併設されている駐車場にバスは停まり、乗客のほとんどがバスを降り、レストランに入っていく。ぼくは荷物のことがあるので、バスの中で待機。レストランに行かなくても、バスの中まであれこれ売り込みに来てくれるので、それを待つ。

物を売りにバスに乗り込んで来たのは、子どもばかり。体格からすると8~10歳くらいと思われる男の子と女の子ばかり。食事代わりになるようなものはなかったので、食べたことのない物を男の子から買う。名前がわからないが、猛烈に甘い練り菓子だった。日本にも似たようなお菓子があるが名前が出てこない。きな粉を使った棒状やあめ玉状の甘いお菓子に似ている。

20分ほど、ここには停車してまたバスは走り出す。バスの中から見た限りでは、この村は幹線道路以外は舗装されていない。だから、車が走ると砂埃がすごい。ここでも高床式の家が散見される。

外の景色は、さっきまでのジャングルは消え、ベリーズ北部の移動時に見たような平原が広がる景色に変わる。

バスの中も乗客がだいぶ減り、すかすかになってきた。

15時半を過ぎた頃、車掌的役割をしているバスの乗務員のおにいさん(インド系)が、前から順に乗客になにやら聞いて回っている。ぼくのところにも来て、英語で何やら聞く。2度聞き返してやっとわかったが、プンタゴルダのどこで降りるかと聞いているのだった。これまでそんなことは聞かれることなく、目的地のターミナルにどかっと降ろされるのが定番だったので、そんなことを聞かれるとは思っていなかった。

市場の近くで降りたいというと、おにいさんはうなづいて、運転手横の自分の定位置に戻る。

ふと、左手に海が見えていることに気づく。おにいさんとしゃべっている間に海沿いに出たよう。目的地のプンタゴルダは海に面したまち。これはかなり近づいている。

すぐにバスは家が立ち並ぶ通りに入る。客が一人降り、二人降りして、最後にぼくともう一人マヤ系の人だけになる。公園らしき一角でバスは停まり、車掌のおにいさんが、ここだと合図をする。

リュックを背負ってバスを降りる。まだ時間は16時前。ベリーズシティでバスに乗り込んだのが9時10分だったから、7時間ちょっとしかたっていない。ガイドブックによれば8時間とあったので、17~18時に着くと予想していた。だから、予想外に早く着き、驚く。

空は曇り空。風が強い。

公園には8時40分で針が止まっている時計があった。周りには不揃いの形をした商店が並び、ぼくがバスから降りたすぐ横の店では女の子二人がゲームセンター(ゲーセン)によくあるゲーム機でゲームをしている。その店にはゲーム機は5台ほどしかなかったが、こんなところにもゲーセンがあるとは。

ガイドブックの地図を見て、位置を確認し、顔をあげたとき、「何かお探しですか?」と日本語が聞こえる。えっ?と思って、声がした正面を見ると、日本人の女性がラフな格好で立っていた。ぼくと同じくらいの年齢くらいか。

「宿を探しているんですけど」と言ったら、じゃあここがいいですよと『歩き方』にも載っている2軒のゲストハウスを紹介してくれる。どっちがいいか聞かれたので、近い方と伝えると、じゃあ、と案内してくれる。

その女性は、青年海外協力隊の隊員の人で、このまちで商店の販売の手伝いをしているという。今は、ちょうどその帰り道だったらしい。

宿は公園から歩いて5分もかからないところにあった。宿主とは知り合いのようで、料金まで全部確認してくれる。一泊35ベリーズドル(17.5米ドル)だったのは、予算的にちょっといたかったが、施設はベリーズシティの宿とは比べ物にならないくらい良い。風呂桶もあり、タオルも付いている。テレビ、扇風機もある。テレビはケーブルテレビのようでチャンネル数多し。なので、どれがベリーズのチャンネルかよくわからず。

協力隊の人に高床式の家のことを聞くと、洪水対策らしい。雨季にはものすごい雨が降り、あっと言う間に水がたまり、今とはまったく景色も違って見えるという。

チェックインを済ませてから、その人に近くの店まで案内してもらう。中国系の店がここも多いので、そのことについて聞くと、ベリーズの国が以前土地を売り出したときに、中国人が大量に買い付けた結果、このように中国人が住み着き商売しているという。

中国人は世界中にいるというが、商売を始めるまでの過程がどうなっているのか気になる。ベリーズの場合にしても、そもそもベリーズについての情報をどこで得たのか、また外国の土地を買うカネを持っていた中国人はどういう人たちだったのか、あるいは各国の土地が売り出されたときに土地を買い付けるようなブローカー的な人やグループなリがいる/あるのか。きっと誰かが調査しているとおもうが、その辺が気になる。

あと蛇足だが、協力隊員の男女比を聞いたところ、5分の3以上~4分3以下が女性らしい。圧倒的に女性が多いとのこと。ベリーズの隊員は、その女性が7番目でまだまだ始まったばかりらしい。このまちには他に3人の隊員(いずれも女性)がおり、その人たち等は学校で教員をしているらしい。

紹介してもらった商店で、絵はがきとヨーグルトとアイスを買う。アイスはとりたててうまくはないが、まずくもない。ヨーグルトは日本の有名メーカーのプレーンと比べると酸味がやや強い感じがするが、ほとんど味は変わらない。

公園のベンチは座席(?)がやや上を向いているため、座り心地がいい。

一通りまちを歩く。

船着き場に行き、入り口付近にいた人に、明日の船便を聞くと、一番早いのが9時半で、次が14時、次が17時と言われる。

ネットカフェもあり、1時間4ベリーズドル(2米ドル)。中国系の店は10店舗近くあり、中華料理店や日用品店をやっている。中国語で話しているおじさんたちもいた。

ベリーズシティと違うのは、アフリカ系の人よりもマヤ系の人が多いこと。協力隊の人も言っていたが、この辺りは住民の6割だったかがマヤ系らしい。

1時間ほどふらついて、宿に戻る。宿に着いたとき、警官二人が後ろから来て、自分たちはツーリストポリスだと言って、ここに住んでいるのかと聞いてくる。なぜか写した写真を見せろと言われ、写真を見せる。ふらふらしているときに、住民の誰かが通報したのだろうか。中国系の人が多いまちだから、怪しい中国人がいると思われたのかもしれない。

実際、パスポートを見せると"You are japanese!"という反応。それからパスポートの写真を見て、"You look like Ninja-man"などと言う。どういう忍者を見たというんじゃ!?

写真をチェックしていた方の警官は、2000枚以上になっていた画数に気が付き、その数字を指さし、これが枚数かと聞いてくる。そうだというと、いいカメラだと言い、値段を聞いてくる。200米ドル位というと、そうか、と感心して終わり。何かあったら自分たちに言ってきてと言うが、すでに何か起こっているんですけど・・・、と一人ごつ。

警官が帰った後に、宿のおじさんになぜ彼らが来たのか聞いたが、わからないとのこと。まったくベリーズではツいていないというか、何というか。

6時過ぎ、協力隊の人に薦められた店に行く。体感風速10mほどもあるからか、客は誰もいない。店も客が来ないと見込んでいたのか、料理の準備もできていないという。20分ほど待ってくれればできるというので、待つことにする。

どんな料理が出てくるのかと期待していたら出てきたのは、ご飯に魚のフライが2枚、あとちょっとしたサラダ。もうちょっといいものが出てくるかと思っていたのでがっかり。タマリンドのジュース2杯とあわせ、15ベリーズドル(約900円)ほどだったか。

18時を過ぎたら、天気が悪いこともあってか、辺りは真っ暗。道を歩いている人も少ない。中心部の公園付近には若い人等がたまっておしゃべりしてはいた。

警官といい、さっきのレストランといい、なんだか不満がたまることばかり起こるので、商店で水を買うついでに夜食用にトルティージャチップスのスナック菓子とベリーズ産というチョコレートを買う。これらでまた800円近くとぶ。ベリーズではちょっと無駄遣いするとあっと言う間にカネがなくなる。

レストランの中には英語をしゃべる白人観光客が20人ほど入っている店もある。

20時前には宿に戻り、イライラしながらトルティージャチップスを食う。カネのこともあり、早くベリーズを出たい気分になってくる。明日は風がやみ、いい天気になるよう祈る。

08/03/29
Guatemala city,Guatemalaよりアップ

2008年3月28日金曜日

お休みベリーズシティ、キーカーカー

08/03/24(月)

6時頃目が覚める。涼しい。10時まで部屋でもろもろの整理。同室のオランダ人は7時過ぎ頃、グッバイと言って出ていった。彼女は2週間ほどの休みで来ているそうで、ベリーズの海が目当てのよう。昨日、ぼくに明日はどこに行くのかと訪ねたとき、ぼくがベリーズシティ内を散歩と言ったら、海には行かないのかと言っていた。ベリーズは世界遺産に登録されている珊瑚礁群などもあり、みなこれを目当てに来るよう。

10時になって、宿を出ようとすると、宿のおじいさんが今日も泊まるのかと聞いてきて、そうだというとお金を払えと言う。誰に払えばいいのかと言うと、ちょっと待ってと宿主を呼ぶ。出てきたのはメキシカン系の年輩の女性。英語もスペイン語も話す。

今夜も泊まると言うと、そこの部屋に?と聞くから、もっと安い部屋はあるか聞くと、ちょうど掃除し終わった一人部屋を案内してくれた。値段を聞くと20ベリーズドル(1米ドル=2ベリーズドル:固定相場)。こっちの部屋の方が窓があり、気持ちよさそうなので移ることにする。

荷物を移して外に出ようとしたとき、宿主のおばちゃんが話しかけてきた。"Are you a photographer?" 写真家ってなんでまた、と思いながら、"No"と言うと、何をしているか聞くので"Office worker"と答えると、おばさんは"あなたの顔(容貌、風貌)がとてもアーティスティックだから、写真や絵など何か芸術をやっている人かと思った”と言う。

そんなことを言われるのは人生で初めてだが、これから先、入国時などに職業を聞かれたら、そう答えてみると面白いかなと思ったりする。今まではオフィスワーカーと言っていたが、すでに旅も2ヶ月近く。普通のオフィスワーカーが2ヶ月以上も休みを取れるはずがないから、芸術家だなんて言ったら面白そう。

まずは大量に残っているメキシコペソの両替をしようと銀行に向かう。スウィング橋を渡り、中心街へ。宿から歩いて5分程度。銀行が見えたが、開いている雰囲気がない。月曜の10時なのにおかしい。

他にも銀行の看板が2軒ほど見えたので、そちらも行くがどこも閉店。入り口の開店時間には月曜は8時からとなっているのに。銀行と同じ通りに並んでいる店もほぼすべてシャッターが降りている。今日が日曜だったかと思い、道ばたにいた警官に、銀行がいつ開くかと英語で聞くと、明日だと言う。今日は祝日で、店は休みだと。

昨日はイースターで休みとは聞いていたけど、今日まで祝日とは・・・。完全に当てが外れる。ということは、郵便局も博物館も図書館も開いていないんだろうなと思ったら、まったくその通りで、それぞれの入り口まで行ったが、完全に閉まっていた。

これはどうしたものかとがっかりする。ベリーズは米ドルとの固定レートを取っていて、米ドルがそのまま使えるが、メキシコペソが余っているのに米ドルを使うのはもったいない。

やれやれと思いながら、とりあえず朝飯を食うことにする。来た道を戻る。マーケットの建物の入り口やその向かいの建物前には、昨日もいた路上生活者らしい白髪まじりのおじさん、おじいさんたちが10人ほど。みなアフリカ系の人。何をするでもなく座り込んでいる。中にはラスタのヘアスタイルをしている人もいる。さっき通ったベリーズ銀行横の公園には20~30人くらい同じような人がいた。ここベリーズシティは8万4千人の人口があるというが、人口割合から言うとハバナやサントドミンゴ(ドミニカ)よりも多いような気がする。

スウィング橋近くの屋台で弁当を買う。マッシュポテトが主食で、魚のフライとサラダが入っている。なかなかうまい。

行こうと思っていたところが軒並み休みなので、とりあえずバスターミナルに行くことにする。明日はまた移動するので、その下見。

商店の看板は並んでいるものの本当に見事に閉まっている。さらに人通りもない。

ネットカフェと書いてあったところがガラスドアが見え、開いてそうだったので入り口をたたくと、なかからおばさんが"No open"と言ってくる。

ぼちぼち歩いていると、アフリカ系の女の子2人連れがバナナチップを売り歩いていた。ぼくに買わないかと言ってくるので、1袋買う。いくらか聞いたら2袋で4ベリーズドル(約240円)と言う。高い。カンクンでも同じようなバナナチップスは1米ドルもしなかったのに。でも、まぁ、子どもの小遣いなりになればいいかと言い値を払う。

聞くと二人はいとこ同士で、小さい方の子は9歳だという。歩きながらかすかに開いてる店や歩いている人に売り込みに行く。

バスターミナルに続くこの道は、きちんと舗装されてあったが、脇の住宅街に入る道の中には舗装されていない道もある。住宅街と言っても、木造の家は木材が朽ちてけっこうぼろぼろの家もある。道ばたにはお菓子の袋や弁当箱などのプラスチックごみなどがぎょうさん落ちているところも。時折、家の中からレゲエが聞こえてくる。

バスターミナルに到着。昨日も来たところだが、ここが一番人が集まっていた。バスを待つ人。その人たちをターゲットにした物売りの人。そして、すぐ近くには野菜の市場があった。簡易テントが20軒ほど並んでいる。店主は多くがマヤ系かヨーロッパ系の強いメキシカン系。アフリカ系の人のも何店舗かある。なかにはラスタのヘアスタイルをした人もいる。

売られている野菜は日本で見るものとほぼ同じ。キャベツに人参、赤いじゃがいも、インゲン、トマト、カボチャ、ピーマン、タマネギ、ピーナッツ、サツマイモ、里芋、キャッサバ、オクラ、米なすにニンニク、しょうが。果物はパインにマンゴー、パパイヤ、メロン、みかんなど。乾燥させたハーブ専門の店もある。

ここではわりとスペイン語の方が話されているが、英語も十分通じる。アフリカ系の人は基本は英語のよう。ぼくは一通り見て、ひとつの店でバナナを買う。10本で1ベリーズドル(約60円)。これは安い。野菜の写真を撮らせてもらう。

どの店も子どもを連れてきており、子どもは店の奥でじっと客の様子を見ていたり、兄弟がいると道ばたで遊んだりしている。

バナナを食べながらバスターミナル内に向かう。ターミナル内には国境の町のColozalや南の中心町Dangrigaに行くバスが停車しており、バスの運転手らしき人がそれぞれの行き先を大声でいい、客集めをしている。家族連れなどがバスに急ぐ。

時刻表を見ようと思ったが、2006年とかのしかないので、当てにならなさそう。チケット販売の窓口もあるがすべて閉まっていて、壁には料金はバスの中で払うように書いてある。

これは明日は適当に来てバスを待つしかないなと思い、引き上げる。

途中、地元の人が次々と並んでいた露店が気になり、そこに立ち寄る。ここではタマーレとポタージュスープを売っていた。スープは紙コップ1杯が1ベリーズドル(約60円)。味は日本で売られている普通のものよりも甘い。

それから市内をぶらぶら。途中、道ばたで切り身の果物を売っていたので、パパイヤを買う。

ベリーズ一の大都市とあったが、祝日ということもあってか、人も車も少ない。すれ違った人の数も数えられるくらい。3時間ほど歩いていたが、バスターミナルを除けばせいぜい100人くらいとしかすれ違っていない。

ぐるっと回って中心街に戻ってくる。まだ半日残っているが、どうも見るべきところはないので、急遽、観光地のキーカーカーという島に行くことにした。

スウィング橋のたもとに乗り場があり、朝もアメリカやヨーロッパからの旅行客で乗り場の待合室はいっぱいだった。昼過ぎだから少しは空いているだろうと思ったら、その逆。100人以上の人が待っていた。

チケット売場の窓口で次の便を聞くと13時半だという。まだ30分ほどある。チケット代を聞くと30ベリーズドル(15米ドル:約3500円)と言う。米ドルしかないので、ちょっと惜しい気がしたが、たぶんもう二度と来ないので、試しに行くことにする。

乗り場の建物内には5軒ほど売店があり、お菓子や飲み物の他、水中で使える使い捨てカメラや絵はがきなども売っている。また、グアテマラやメキシコ行きのバスのチケットも扱っているよう。1軒の店には、日本語の張り紙が貼られており、トラベラーズチェックを無料で両替できると書かれてある。

また、いくらかしらないが荷物を預ける木製のロッカーも備え付けられている。

13時半になったが、まだ船は出ない。しばらくして、まずはサンペドロ行きの船の乗船が始まり、その後にキーカーカー行きの乗船が始まる。

同じ船に乗る人たちは圧倒的にアメリカやヨーロッパからの旅行客が多い。特にアメリカ人らしき集団は16人ほどで、みな白髪であることから退職者のグループのよう。あとは30~40代のカップルなど。地元の人らしき人は1割程度。

船は大型のモーターボートで、40~50人乗り。船の縁が座席になっており、前頭部には屋根が着いている。乗船するとみな日焼け止めを塗り始める。

13時50分ころ、船は出発。一気にスピードをあげ、前の方は浮き上がったような状態になる。風圧がすごい。海風があるとして差し引いても、体感速度でいうと30~40kmは出ている。髪の毛がぺちぺちと顔をたたき、やや痛い。加えて目にも入るから、目を開けておくのにも苦労する。カツラだったら絶対飛んでいるだろう。

出発時にはあった日差しも、進むに連れあいにくの曇り空の下に入り、肌寒くなる。何人かは長袖を取り出し、着込んでいる。

20分ほどするとマングローブの一群が両脇に見え、その間を船は通る。海の色は濃い緑いろ。

それからしばらくすると左手に島が見える。バンガローが何棟かあるが、人はいない。

さらにもうしばらく行くと、海上に小屋が建っていた。それも2軒だけ。人は見えなかったので、家なのかどうかはわからない。

波はなく、穏やか。きっと空が晴れていれば、海の色はエメラルドグリーンなのだろうが、曇っていてあまり美しくない。

1時間ほどして、船は目的地の島に到着。桟橋には帰りの船を待っている観光客がぱらぱらいる。海岸には桟橋が20本ほど出ており、ところどころにヨットが停泊している。

桟橋から下を見ると、はっきりと底まで見える。水深は2mもないくらい。

島に入ると道はすべて砂の道。雨が降ったのかそこらじゅうに水たまりがある。走っているのはゴルフカートと自転車ばかり。止まっている車はあっても走っているのは一台もない。

レストランやホテルが建ち並び、観光客がふらふらしている。ここにも中国人は店を出していて、食料品店やホテルをやっている。この人たちはどうやって商売を始めたのかと不思議に思う。

島内は1時間もあればほぼすべて見て回れる。海産物の市場でもあるかなと思っていたが、それらしきものはない。島内にはインターネットができる店もあった。試しにしてみると20分で5ベリーズドル(2.5米ドル=約500円)。さすがに離れ小島とあって高い。

海で泳ぐつもりもなく来たので、すぐに飽きてしまい、16時の船で帰ることに。帰りの船もいっぱい。今度はすべて屋根で覆われているタイプの船だったので風圧がない上、外が眺めにくいこともあり、寝てしまう。

17時ごろ、ベリーズシティに到着。昨日も弁当を買った店で夕食を買い、宿で飯を食い、寝る。

08/03/27
Puerto Barrios,Guatemalaよりアップ

2008年3月27日木曜日

プエルトバリオス、グアテマラ入り

今日の午前中、ベリーズ側のプンタゴルダからモーターボートに乗ってグアテマラに入りました。
詳しくはまた後ほど。

では。

2008.3.26 12:49
Puerto Barrios, Izabal Guatemalaより


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カンクンからベリーズへ

08/03/23 
目が覚めたのは朝の5時半。部屋に差し込んできた薄い光と近くのダンスホールかなにかから聞こえてくるダンスミュージックが二度寝を妨げる。同じ宿に泊まってる人は、音楽がうるさくて、昨日の晩はずっと起きていたと言っていた。やかましい音楽は、ここでは毎晩のことだし、僕の感覚ではそこまでひどくないが、気になる人にとってはつらいだろう。

ちなみに、だいたいそういうところ(観光地で夜中までやっているやかましい店)で踊っているのは、アメリカ人やヨーロピアンというのが、日本人旅行者の間での定説になっているよう。ある日本人旅行者は、別の国を旅行していたとき、夜に歯を磨いているときにヨーロピアンにこれから踊りに行かないかと誘われたらし。こっちは寝る準備をしてるっちゅうに、とはいわなかっただろうが、そんな感じで断ったらしい。

結局、カンクンには2泊の予定が、キューバで買ったものなどを日本に送ろうとあれこれしていたら、4泊に伸びてしまった。予想していなかった21日(金)の祝日と昨日土曜日の郵便局の閉店。そして、キューバのもの(コーヒー)は、どうもアメリカを経由するため送れないらしいこと。

それから値段。昨日DHLに持っていったら5kgで1万3000円ほどだった。そのときも閉じてあった段ボールを開けられ、中のものを一つ一つチェックされた。やれやれ。

明日には郵便局が開くもののもう1泊する気にはなれず、今日、ベリーズに向かうことにした。決めたのは昨日の夜。目が覚めたら出ようと。

5時半に目が覚めたので、昨日決めたことに従って、荷物を整理し、宿を出る。

宿からバスターミナルまでは、歩いて3分ほど。宿に7冊(『コロンブス航海記』、『敗れざる者たち』、『ボブ・マーリー語録集』、『ボーン・フィ・デッド』、『ラスタファリアンズ』、『コロンブスからカストロまで』ⅠとⅡ)を置いていき、キューバで会った学生に1冊(吉田太郎本)あげたので、そのぶん荷物は軽くなったが、まだまだ重い。

バスターミナルのチケット売場で、Chetumal(チェトゥマル)行きのチケットを買う。バスもいろんなグレードがあるので、”エコノミコ ポルファボール”と言って安いバスにしてもらう。

バスは7時発で料金は177ペソ(約2000円)。窓際の席を頼んだが、座席指定はしていないらしい。

まだ時間は6時15分。しばらく時間はある。バスターミナルにはすでにバスを待っている人が100人以上はいて、売店も開いている。

荷物を送る代金としておろしたメキシコペソが大量に余っていて、どうしたものかと困る。もしかしたらATMで預けられるかもしれないと、根拠のない期待をして適当にボタンを押してみたらさらにカネが出てきてしまった。ATMも便利だが、現地通貨で出てくるのが困りもの。英語がちゃんとわかればこんなことはないのだろうが、銀行用語などを理解していないからこうなる。ため息。

これから行く国々で両替するしかないなと諦め、ベンチで本を読みながら待つ。出発30分前をすぎたので、Baggage check inと書いてあるところにリュックを持っていく。そこの係員にチケットを見せると、あっちの方だと言われる。

係員に言われたとおりに30mほど離れているところに行き、また係員らしき人にチケットを見せるとそこで待てと言われる。そこにも待合室があり、地元の人たちがたくさんバスを待っていた。どうもぼくが待っていたところは1等などのバスを使う人たち用の待合室で、こっちが安いバス用の待合室のよう。

アナウンスが流れるが、よくわからないし、7時が近づいても人の動きがないので、職員にチケットを見せると、あのバスと言って教えてくれる。すでにバスに乗り込もうとしている人がいた。

バスの腹部分にある荷台にリュックを乗せ、バスに乗り込む。乗り込んで5分程度、7時ちょうどに発車した。乗客は10人ほど。これまでの長距離バスの中では一番少ない。

バスはところどころで客を乗せたりしながら走る。道路は広く、よく整備されている。まわりの景色は雑草地や3~4mの薄い雑木林ばかりで、椰子の木もバナナも見ない。つまらないので寝てしまう。

8時半、バスターミナルに到着。ホテルなどがまわりにあったので、これまた観光地のよう。数人の客が降りる。

10分ほどで発車。景色は相変わらず退屈。

11時、Felipe Arrillo Puertoと書かれているバスターミナルに到着。バスの乗降車口には乗客をあてにした人たちがタコスや揚げ物を売りに来ている。昼も近かったので、茹でたか焼いた鶏肉を裂いたものとキャベツなどが乗っているタコスを1つと、揚げ物を2枚買う。それぞれ6ペソ(約70円)。揚げ物の方は、1枚はチーズを練り込んでいる生地で、もう一方は何もしていないもの。冷えていることもあり、そんなにうまくない。

10分ほどで発車。

しばらく走ると片道3車線で中央分離帯がある広い幹線道路に出る。12時40分、チェトゥマルまで46kmとある標識を通り過ぎる。

途中では7割くらい埋まっていたのに、気がつくと客はほとんど降りてしまっており、あと8人くらいになっている。運転手は、ときおり携帯でメールをしながら運転する。

13時5分、チェトゥマルまであと19km。

道路は相変わらず片道3車線の大きな道路。国境に近づくにつれ、道路脇に店がポツポツと出てくる。ぼくは国境に近くなればなるほど、道は狭くなり、人気もなくなるだろうと思っていたが、ここは逆だった。

13時20分、日本でもそれなりの人口があるところでしか見られないような巨大ショッピングセンターが左手に見える。もちろんマクドナルドも入っている。その近くで1人乗客が降り、それからちょっと行ったところでさらにもう一人が降り、客はぼく一人になる。

ショッピングセンターを見て、チェトゥマルの市内に入ったのかと思ったら、案の定、バスは幹線道路から左に入り、バスターミナルに到着。13時半。カンクンを出てから6時間半後だった。

ターミナルは大型バスが4台ほど停まっているが、人気はなく閑散としている。バスから降り、リュックを背負い、さて国境行きのバスはと思っていると、アフリカ系の人が話しかけてきて、ベリーズに行くと言うと、停まっていたバスのうち、一番古めかしいバスを指さし、あれに乗れと言う。値段を聞くと100ペソ(約1200円)とのこと。

バスのフロントガラスのところにはBelizeという札があったので、それを信じ、リュックを荷台に乗せる。バックパックがたくさん積まれていたので、他にも旅行者がいるもよう。

バスに乗り込むと座席はほぼ埋まっており、しかも乗っている人はアフリカ系の人ばかり。さっきまで乗っていたマヤ系の人もいない。よく見るとアメリカ、ヨーロッパからの旅行者らしき人が6人ほどいる。アジア系はゼロ。

イギリスがベリーズを植民地にしているときに、労働力としてジャマイカからアフリカ系の人びとが連れてこられたというのは、ガイドブックにもあったが、車内でこんな割合で会うとは予想外だった。

唯一、便所の前の座席が2席空いていたので、そこに座る。便所のにおいがたまらん。

バスは47人乗り。前に座っているのはドイツからの旅行者のようで、ドイツ語の新聞を広げ、読んでいる。左の座席に二人ならんでいる金髪の若い男性等は英語の本を読んでいるので、アメリカ人のよう。

乗り込むと10分もしないうちにバスは発車する。乗り継ぎがロスなくできたことに安心する。というのも、国境でビザを発給しているイミグレは16時までとガイドブックにあったからだ。今、13時40分だから何かあったとしても16時には国境に着けそう。

車内では音楽が流れる。低音量でレゲエ系の音楽。これで大音量だったらジャマイカにいたときと同じ感じなのだが、音量が小さいのが決定的に違う。

ターミナルを出てから20分後、メキシコの出国ゲートに到着。こんなに早く着くとは思ってなかった。

みなバスを降り、ゲート前のイミグレに並ぶ。国境を行き来する車も人も少ない。左手にATMあり。

列に並んでいるときバスの運転手が、旅行者らしき人たちに、メキシコに戻ってくるか英語で聞きまわる。もし、メキシコに戻ってくるなら、再入国時の税金などを払わなくて済むよう処理してくれるとどっかで読んだので、それらしい。

パスポートと出国カード、100ペソを出す。質問などはなく、あっと言う間に手続きは終わる。イミグレの前でマヤ系のおばちゃんがマンゴーを売っていたので買って食べる(15ペソ:約180円)。うまい。

バスに乗り込み、今度はベリーズの入国ゲートへ移動。この間には、casinoと表に書いてある立派な建物があった。

入国ゲート前に着き、みんな自分のリュックなどを背負って、入国審査等がある建物の中に入っていく。

まずは入国審査があり、そこでパスポートを審査官に見せる。審査官はマヤ系の女性とアフリカ系の男性の二人。基本は英語のようだが、スペイン語もOK。

空港でのそれとは違い、審査官はベリーズ国籍であろうアフリカ系の人たちのときは、ポンポンスタンプを押すだけで、顔を確認することもしていない。旅行者になるとさすがにいくつか質問をしてから通す。それもけっこうフレンドリーで、さっきのドイツ人の女性には、男性の審査官はドイツ語で"Auf Wiedersehen(さようなら)"と声をかけてたりしている。

最後に並んでいたぼくはビザが必要なので、パスポートを見せると、どれくらいベリーズにいるのか、ベリーズのどこに行くのか、ベリーズの後はどこに行くのかなどを聞かれ、それからビザ申請のための記入用紙を渡される。

英語の用紙でところどころわからないところがあるが、あまり重要そうでもないので、飛ばして記入。記入後、その用紙とパスポート、それから日本から用意してきた証明写真を1枚、それにビザ代600ペソ(約6500円)を付けて、審査官に出す。

ビザは基本的にUSドル払いで50ドルのようだが、大量にペソがあったので、ペソで払うことにした。レートから言うとUSドルで払った方が数ドル安い(1ドル=10.5~10.8ペソなので)が、ペソから各国のお金に両替するときのことを考えれば同じようなものだろうとそうすることに。

審査官は、ちょっと待っていてと言い、事務室の方にそれらを持っていく。一旦、彼は出てきて仕事を再開。5~10分ほど待って、事務室からぼくのパスポートを持った職員が出てきて、それを女性の審査官に渡す。

女性の審査官は丁寧にも、こっちが入国スタンプで、こっちがビザと教えてくれる。これで入国審査はパス。キューバに比べればラクチンだ。

それから税関審査。すばらしい体格の女性審査官の前に背負っていたリュックなど、荷物を置くと、”何か申告するものは?”と聞かれ、”ない”と言うと、荷物をチェックすることもなく、入っていいとの合図。そんななら、リュックを背負ったままでいれば良かった(重くて背負うのがけっこう大変なんです)と思うほど、早かった。時間にすれば30秒ほどか。

結局、並んでいる時間も含め、30分ほどで入国審査を通過。他の旅行者の話ではビザ申請で時間がかかるので、バスに置いていかれることもあると聞いていたが、幸いなことにバスの運転手はぼくが申請している間、横にいてぼくを待っていてくれた。

バスに戻る。すると、乗客が増えていた。さっきまで座っていたところに人が座っている。ドイツ人の女性の横は荷物があったものの空いているようだったので、そこに座る。

14時40分、バスは発車。意外だったのは、国境に両替屋がいなかったこと。メキシコペソを国境で両替しようと思っていたのに、あてが外れた。

国境を越えたところでバス料金を集めにくる。ぼくはメキシコペソで100ペソ(約1200円)払うとベリーズドルで4ドルぶんのコインのお釣りが来た。米ドルとベリーズドルのレートは1米ドル=2ベリーズドルのようなので、結局バス代は米ドルで8ドルほどだったよう。

隣のドイツ人は、すでに払っていると回収に来たお兄さんに言う。するとチケットを見せてと言われ、それを見せると料金の回収はなし。どうもこの人はバスターミナルでチケットをすでに買っていたようだった。

10分ほどで、ベリーズ側の国境の町Colozalに到着。何人か客を降ろす。

そしてすぐに出発。ベリーズ側はメキシコ側と違って、ショッピングセンターなどない。道路は舗装されているものの片側1車線で、車線も消えている(のか最初からないのか)。

まちとまち、あるいは村と村の間は、林か畑かしかない。目に付くのはサトウキビ畑で、キューバの規模に比べれば小さいものだが、それでも数ヘクタールはある。家の敷地にバナナや椰子が植わっているのも見る。

建物はコンクリートやブロックで造られたものが半数以上だが、木造の家もそれなりにある。今回の旅で初めて見たのが、高床式の家。インドネシアなどではよく見たが、こちらでは初めて。

数こそせいぜい1割程度だが、1mほど床を地面から離している。

それから目に付いたのが、旗。国旗ではないようなのだが、やたらと国旗等と同じサイズの旗が家いえにたてられている。フランスの国旗のような赤、青、白の3色の旗など3種類ほどある。

インゲンと思われる畑やトウモロコシ畑、牛や馬の放牧地も見えるが、農作業をしている人の姿は不思議と見ない。

15時40分、オレンジウォークタウンというまちに到着。ヨーロッパ系の旅行者など数人が降りる。バスが止まった周辺はコンクリートの建物が建ち並んでいるが、店は空いていない。屋台がなんぼかあるだけ。

ここには15分ほど停車したが、その間、車内にはお菓子売りのにいさんやミニサイズのトウモロコシやタマーレ(トウモロコシの粉で作ったチマキみたいなもの)を持った6~7歳くらいの男の子が乗り込んできて商売をする。男の子が持ってきた5袋(1袋に2本)くらいのトウモロコシはすぐに売り切れる。ぼくも買おうかと思ったが、あいにくベリーズドルの手持ちがない。

バスはまた走り出す。外を眺めているとYourth Centerと名前が入った建物が見える。また、商店か何かの入り口には”Let's talk Chinese”と書かれた紙が貼られている。ベリーズではここのところ中国系の移民が増えているとどこかに書いてあったが、中国語講座を開くくらいに受け入れられているのだろうか。

町を抜けるとバスは低木の雑木林の中を走る。

17時前、きれいに舗装された道が何本も交差しているところに出て、流量豊かな川が見える。それから、そこそこ大きなスーパーらしき建物が見える。

17時10分、ベリーズシティのバスターミナルに到着。カンクンを出てから約10時間後だった。

バスを降りて、まず位置をガイドブックの地図を見て確認。元首都のバスターミナルだからツーリストインフォメーションがあるかと期待していたが、ターミナル内にはなかった。

タクシーの客引きはおじいさんに近いおじさん一人だけ。サントドミンゴのこともあったので、今回は声をかけてくる人は片っ端から無視することにし、歩く。

地図に乗っていたターミナルの位置に着いていれば、歩いている方向は正しいと思うが、ハイチのこともあって、そもそも地図上のバスターミナルに着いたかどうかも確信が持てない。

道を歩いている人に聞こうとも思うが、こちらの偏見で人を選んでいるとなかなか聞けない。途中、中国系の5~6歳の女の子3人が遊んでいるのを見る。そういえば、これまで中国系の人がいるところにも行ったが、こうして小さな子が遊んでいるのを見るのは初めて。

通り過ぎる家のなかには大音量で音楽をかけている家もある。車の通りがある道を目指し、適当に歩いていると、ベリーズバンクのある交差路に出る。これで間違っていなかったことを確信。

日曜ということでか店は1軒も空いていない。その交差路には弁当を売っている露店とホットドッグを売っている露店が2店あったが、それ以外はまったく店らしきところがない。

事前に調べたガイドブックに乗っているゲストハウスに向け歩く。20分ほどしか歩いていないが、肩がつらい。途中、ホテルを探しているのかと聞いてくるおじさんがいる。見ると、おじさんがいる後ろにホテルがあったので、そこの客引きかと判断し、無視。そしたら、それに怒ったのか、通り過ぎるた後ろから、ジャッキーチェンとかジャッキーリーとか言い出す。中国系の人もいっぱい住んでいるのに、なんなんだこのおじさんは。

予定していた8ドルのゲストハウスは移転したのか見つからず。その近くのゲストハウスに行ったが、ガイドブックには12米ドルとあったのが15米ドルというので、却下。

来た道を戻り、別の宿を探す。途中、中国語で書かれたゲストハウスを発見。泊まってみると面白いかもと値段を聞くと、対応してくれた女の子が30米ドルというので、やはり却下。そんなに高いとは。

それでガイドブックに載っている10ドルの宿に行く。途中、サッカーをしている若者たちを見る。目的の宿に着くと入り口に"Sorry, No Vacancy”の文字が・・・。空いてないってマジで、と思い、入り口にいたおじいさんに聞くと、やっぱり空いていないが、ちょっと考えると行って奥に消える。

しばらくして出てきて、やはり入り口にいたオランダ人の女性に部屋をシェアするのでもいいかと聞いている。ありがたいことに、彼女は問題ないと言ってくれ、同じ部屋に泊まることに。

おじいさんに部屋に案内される。6畳くらいのスペースに2段ベッドが一つとベッドが1つ。3人寝れるようになっている。値段を聞くと20ベリーズドル(10米ドル)。安く済んで良かった。

荷物を部屋に置いて、外に出る。すでに18時をまわり、外は薄暗くなり始めていた。さっき通った唯一開いてていた食料雑貨店で水を買う(約150円)。今朝、カンクンで1.5リットルを買って、まだ半分以上残っていたのに、乗ってきたバスに忘れてきてしまった。ああ。

水代は米ドルで払い、お釣りをベリーズドルでもらう。それからさっきの露店に行き、ミートボールの弁当を買う(7ベリーズドル=約400円)。意外と高い。

宿に戻り、食事。ミートボールはスパイスが利いていてなかなかうまい。ご飯はキューバやジャマイカと同じ、黒豆入りのご飯。わりともちもちしていてうまい。あと黒豆の煮豆とポテトサラダ。いずれもまずまず。

飯を食った後、シャワーを浴びる。サントドミンゴのシャワーもけっこうぼろかったが、ここはけた違いに施設が古い。足下には水が徐々にたまる。お湯は出ず。それそれで気持ちいい。

あとトイレには電気がない。これで10ドルは、とメキシコと比べてつい思ってしまう。

その後は、部屋で本読み等。で寝る。扇風機が着いているが、2段ベッドの上に寝た僕にはいっこうに風が来ないためむし暑くて、夜中目覚める。やれやれ。蚊がいないのがせめてもの救いだ。

belize

2008年3月23日日曜日

『ラスタファリアンズーレゲエを生んだ思想』より

レナード・E・バレット『ラスタファリアンズーレゲエを生んだ思想』1988(=1996)、平凡社

61-62
「ジャマイカ初期の歴史は、人間の苦悩と無法状態、そしてあくどい金もうけが入りくんだ哀れをそそる筋書きの、ひとつの長い物語だ。中心人物は、現代のジャマイカ人の祖先ーアフリカ人奴隷たちである。ジャマイカの奴隷制度には人間らしところがひとつもなく、一握りの強欲なプランターが何千もの奴隷に絶対的な権力をふるっていた。

少数者によるそのような完全支配は、暴力によってのみはじめられるし、永続しうるものだ。北アメリカ同様、ジャマイカでも奴隷統治のための心理学が著しく発達した。そして、フレデリック・ダグラスがいったように、「奴隷たちの心の奥に、不安と畏怖と服従心が編みこまれた」。」

こうした完全支配の下に、ふたつの抵抗のかたちが生まれた。闘争と逃走である。」

294-295
「「ラスタファリアニズムは髪形の問題じゃない。それは、精神的な力、反逆、よりよき生活についての問題提起の必要性なんだ。」」

08/03/22 カンクンよりアップ

『コロンブスからカストロまで Ⅱ』より

E.ウィリアムズ(川北稔訳)『コロンブスからカストロまで Ⅱーカリブ海域史、1492-1969』岩波現代選書

カリブ海域の奴隷制度は19世紀のうちに次々と廃止される。
1803年 デンマークが奴隷貿易を廃止
1807年 イギリスが奴隷貿易を廃止
1817年 フランスが奴隷貿易を廃止(1802年にナポレオンが復活させていた)
1820年 スペインが対英条約の中で奴隷貿易の廃止を約束
1818年 オランダが奴隷貿易を廃止
1824年 スウェーデンが奴隷貿易を廃止
1833年 英領の諸島で奴隷制度そのものを廃止
1846年 スウェーデンが奴隷制度そのものを廃止
1848年 フランスが奴隷制度そのものを廃止
1863年 オランダが奴隷制度そのものを廃止
1873年 プエルト・リコで奴隷制度そのものが廃止になる
1880年 キューバでで奴隷制度そのものが廃止になる

カリブ海域における奴隷制廃止の要因
1.経済的要因
1-2
「奴隷制の廃止ものまた、基本的には19世紀になって、この制度が本国経済に対して以前のような意味をもちえなくなった」

例:キューバを除くカリブ海の諸地域では、奴隷解放前夜には生産が停滞ないし減少の傾向にあった。

2.政治的要因
本国側の要因
奴隷制の廃止は「1789年のフランス革命によってフランスで生まれ、1832年の第一次選挙法改正とともにイギリスで発達し、1846年のイギリス穀物法廃止によって勝利をおさめ、合衆国の南北戦争における北軍の南軍に対する勝利によって絶頂をきわめた、かの産業ブルジョワジーの地主貴族に対する闘争の一局面であった」

また「奴隷解放は民主政治を志向するヨーロッパの産業プロレタリアートの運動の一部でもあった」

植民地側の要因
19
「スペイン領の植民人の観点からすれば、奴隷制の廃止は、キューバの独立とプエルト・リコの自治確立を求める闘争の一部であった。」

3.人道主義者の宣伝

4.国家間及び植民地間の抗争
42
「スペイン人やキューバのプランターから見れば、キューバの開発を可能にする前提条件はただひとつ、ニグロ奴隷の貿易だけであった。・・・・・・
しかし、キューバの前途は多難であった。すべての国が奴隷貿易を完全に廃止すべきだとうキャンペーンが、すでにイギリスによって始められていたからである。・・・・・・
イギリスがこのような政策を打ち出したのは、ひとつには国内で奴隷貿易廃止論者が盛りあげた熱狂的な世論のためであったとはいえる。しかし、より根本的な理由はーとくに1807年のイギリス奴隷貿易廃止以後はー、毎年奴隷を輸入することができなくなった英領西インド諸島のプランターを、依然として奴隷貿易を継続しているキューバやブラジルの砂糖生産者との競争から保護しなければならない、という事実にあった。」

5.社会的要因
フランス革命に影響を受け、ハイチが1798年に独立

それに影響を受けた各諸島で反乱が頻発

106
「労働力の問題を移民によって解決するには、解放奴隷やその子孫のことは一切顧みないことが必要だったのである。」

168
「マルティにとっては、キューバの至上の課題は独立であった。キューバがニグロの奴隷制を基盤にしている限り、独立はない。マルティにとって奴隷解放とは政治的要請というより道徳的要請であった。キューバ共和国は「万人のための万人のもの」でなければならない、と彼は考えていたのである。「万人」という言葉のなかにニグロが含まれることを、彼は一瞬たりとも疑ったことはなかった。」

291
「現在のカリブ海地方は不安定さを特徴とする一地域である。それはまた政治的、経済的分裂主義と国制の多様制、経済的、心理的、文化的、さらに政治的な対外依存性および大量の失業と潜在失業、経済不安、未解決の人種対立、潜在的な宗教紛争、苛立つ若者たち、いたるところで感じられる合衆国の脅威など、いまだに無数の問題を抱えた地域なのである。」

「過去の歴史がこのようなものである以上、カリブ海てょうの未来については、それが一つの地域としてのまとまりをもちうるかどうか、この地の人びとが一つの国民としての意識を持ちうるかどうかが唯一、最大の関心事である。」

316
「「歴史の研究とは、戦闘と政治家、年代と事件を記録することではない。人間の愚劣さや欠陥を衝くことでもない。形態はいろいろなのだが、いずれにしろ人間性が陶治されてゆく過程、人々の生活や社会が発展してゆくさまを記録することこそが歴史なのである」」

フランス革命を知るにはワズワースを、ピューリタン革命を理解するにはマーヴェルを

08/03/22 カンクンよりアップ

『コロンブスからカストロまで Ⅰ』より

E.ウィリアムズ(川北稔訳)『コロンブスからカストロまで Ⅰーカリブ海域史、1492-1969』岩波現代選書

27
エスパニョーラの人口動態に関する推計より
エスパニョーラ人口の推移
1492年 20万~30万人
1508年 6万人
1510年 4万6000人
1512年 ほぼ2万人

1548年オビエードの発言
「もはや純血のインディオは500人とは生存していないのではないか」

1570年 エスパニョーラのインディオは2集落を残すだけとなった。

32
「スペインのインディオ政策の重要性は、それがカリブ海域でスペイン人に代って次々と勢力を拡大していった諸国に教訓を与え、これらの諸国は速やかにその政策を改善しえたという事実にある。労働は人間の品格を落とす、という消し難い印象がカリブ海域の人びとのあいだに残ったのは、まさにこの政策のためであった。それはまた、後のはるかに広汎かつ包括的なニグロ政策の基礎をも提供したのである。」

33
「インディオを過重な負担から逃れさせようとして、ラス・カサスは1511年、国王に接見するに際して、ドミニコ会士の発案なる解決法をひっさげていった。つまり、「ニグロ一人の労働力はインディオ4人分以上に当りますからmエスパニョーラにはギニアからできるだけ多数のニグロを導入すべく、全力を傾けるべきであります」、と彼は進言したのである。にグロの奴隷制とニグロ奴隷貿易の正当化がここに始まった。」

「しかし、インディオの絶滅によって生じた労働力不足を解消するために、スペイン政府が最初に注目したのは、ニグロではなく、白人であった。」

白人労働力の供給形態
1.囚人(結局は、囚人の数は多くなかったようであまり使えなかった)
2.白人奴隷
3.外国人(神聖ローマ帝国内にはイタリア人、フランドル人、ドイツ人などが混在していた)
→これらだけでは、植民地の労働需要は満たせずスペイン人の自由移民を積極的に推進することになる。

しかし、広大な植民地(エスパニョール島:ドミニカ・ハイチ、キューバ、ジャマイカ、プエルト・リコ、パナマ、メキシコ、コスタ・リカ、ニカラグア、グアテマラ、ホンデュラス、エクアドル、ペルー、ベネズエラ、ユカタン半島、フロリダ半島など)の労働需要はスペイン人だけでは満たせず。

38
「したがって、カリブ海域で砂糖を生産するには、何か別の労働力源を確保することが不可欠であった。
しかし、スペイン人はこのことであれこれ思い悩むこともなかった。16世紀初頭といえばポルトガル人はすでに半世紀以上にもわたってニグロ奴隷の貿易を展開してたし、スペイン人もポルトガルの奴隷市場でニグロ奴隷を買うことに慣れていたからである。」

「こうして1501年9月3日、国王自身によってニグロ奴隷貿易が開始された。・・・こうして、スペインの奴隷貿易は西アフリカから西インド諸島へではなく、スペインから西インド諸島への奴隷輸出として始まったのである。」

51
「スペインの新世界貿易独占政策には主要な目的が二つあった。ひとつは、アメリカ産の金、銀が他国へ流出しないよう防止すること、いまひとつは、貿易利潤を国王とその臣下のために確保することがそれであった。つまり、必ずしもスペイン製品のみならずあらゆるヨーロッパ商品の植民地への供給権を独占し、植民地物産、とくに貴金属をも独占することがスペインの政策意図であった。この政策は、植民地における農業奨励策とも矛盾しなかったし、工業育成政策とさえ必ずしも両立しえないものではなかった。まさにこの点にこそ、スペインの植民地政策の特色が認められる。その競争相手たるイギリスやフランスがのちに構築する植民地体制との根本的な相違点もここにあったといえよう。スペインの独占は、あくまで貿易と航海の独占にすぎなかったのに、イギリスやフランスの政策には、この他に生産の独占が含まれてたわけである。」

60
「スペイン政府の高等教育に対する並々ならぬ関心は、メキシコとリマに大学を創り、西インド諸島でもサント・ドミンゴとハバナに大学を創設したことにも表れている。この事実もまた、スペインの植民地政策をのちの英・仏のそれから●然と区別する特長であった・・・」

61
「スペインがそのカリブ海域植民地で植民地主義を展開し、これを強制しはじめると、本国と植民地の利害は真っ向から対立するようになった。植民地側の運動には二つの形態が区別できた。すなわち、白人である植民地人は本国から離反し、有色の植民地人は公然と反抗したのである。いつこの二つの要素が合体して本国による抑圧に対抗し、異口同音に植民地の独立を要求しはじめるか分からない。こういう不安定な要因をはらみつつ展開したのがカリブ海域の歴史だったのである。」

113ー114 白い貧民
3つの白人移民の供給源
1.年季契約奉公人(経済的に困窮してやむなく、他人に渡航費を負担してもらって植民地に渡り、一定期間労役奉仕を行うことを承諾した男女のこと)
2.囚人、犯罪者(国家が全面的に援助し、植民地の労働力問題の解決に寄与する形態の刑罰が導入される)
3.反体制派の人々(17世紀にイギリスが宗教および政治上の争乱に巻き込まれた結果、本国の体制派の宗教を支持しない人がプランテーションへ送られた=流刑)

124
白人労働制度はカリブ海地方における労働の質をさらに一段と下げた。白人強制労働が展開されるにつれて次第に倫理感が薄れ、黒人強制労働の導入に道を開いたのである。

130
白人労働力の利用に際しての三つの重大な障害
1.白人労働力の供給が砂糖生産に必要な労働力の領に比べて極度に不足していたこと。
2.白人労働力が高価すぎるということ。
3.砂糖キビの大農場には年季明けの奉公人を受け入れる余地がない。

132
重傷主義者の考え方
「白人労働力に基礎を置く植民地は必ずや競合的な製造業をおこすであろうし、独立への野望をも育むに違いない。それゆえ、プランテーションは黒人奴隷に頼るに限る」

134
「砂糖が王様だったところでは、白人の生き残る道はプランテーションの所有者になるか、現場監督になることしかなかった。それ以外の白人は要するに余計者であった。」(例:ジャマイカ)

178
「三角貿易は、本国の物産に西アフリカと西インド諸島の市場を与えた。この市場のお蔭で本国の輸出が増え、本国における完全雇用の達成が容易になった。アフリカ西岸で奴隷を購入し、西インド諸島で彼等を使役したことによって本国の製造業も農業も測り知れないくらいの刺激を受けた」(イギリスの毛織物工業)

196
フランスの奴隷貿易の拠点ナント商業会議所の主張
「「植民というものは、本国と異質であればあるほど完璧である。・・・・・・この点で、カリブ海植民地こそはその典型である。そこでは、フランスが輸出する商品は何ひとつ産出しない。フランスには欠けていて生産不能なものだけが採れるのだ。」」

229
「植民地の独立志向は、とりわけカリブ海地方では、大部分の植民地が特定の個人の私物となっていたという事実、つまり個々の島が国王からそれぞれの個人に贈与されたという事実によって育まれたものである。」

240
18世紀の奴隷制
仏領西インド諸島の総督フェヌロンが1767年に宣言した言葉から
「「私は、ヨーロッパ人一般の御多分に漏れず、に愚論もキリスト教の諸原理を教えてやることが必要だという考えを抱いてここに来た。しかし、健全な政策とは何かという問題を、人道主義の見地にしっかりと両足を下ろして検討してみると、これは間違いであることがわかる。というのは、白人の安全を守るためには、ニグロを徹底的に無知にしておかなければならないから。ニグロは獣と同じように扱わなければならないと、いまでは私は強く確信している。」」

247
奴隷が奴隷制の苦境を逃れるためにとった4つの方法
1.自殺
2.プランテーションからの逃亡
3.1772年以後、英領西インド諸島の奴隷にはイギリス・アイルランドに入国すれば(プランターに連れられてなど)自由になれる道ができる。
4.反乱

297
「西インド諸島史は、人類の愚劣さとひ弱さの記録そのものである」

08/03/22 カンクンよりアップ

『敗れざる者たち』より

2008.3.22(土)カンクンにて
沢木耕太郎『敗れざる者たち』文春文庫、1979

1.クレイになれなかった男
カシアス内藤
59
「以前、ぼくはこんな風にいったことがある。人間には”燃えつきる”人間とそうでない人間の二つのタイプがある、と。
しかし、もっと正確にいわなくてはならぬ。人間は、燃えつきる人間と、そうでない人間と、いつか燃えつきたいと望みつづける人間の、三つのタイプがあるのだ、と。
望みつづけ、望みつづけ、しかし”いつか”はやってこない。内藤にも、あいつにも、あいつにも、そしてこの俺にも・・・・・・。」

2.三人の三塁手
長島茂雄、難波昭二郎、土屋正孝

3.長距離ランナーの遺書
円谷幸吉

4.イシノヒカル、おまえは走った!

5.さらば 宝石
榎本喜八
The Overreachers=背伸びをした人々、行き過ぎた人々
217
「打つこと以外に何もなかった男が、まさに打つというそのことが崩壊しはじめた時、彼はどうしたらよかったのか。」

6.ドランカー<酔いどれ>
輪島功一
239
「マスクの下には、いつもより少し硬ばっただけの当り前の彼の顔がある。マスクで何かを隠そうとしていたんでは決してない。騙そうとしていたのだ。報道陣や柳済斗ではなく、自分自身を欺こうとしていたのだ。マスクはそのシンボルだった。
俺は調子が悪そうだ。だが、これは人にそう思わせるための演技なのだ。こう躰が動かないのも、調子が悪いせいではない。人を欺いているだけなのだ・・・・・・。
だが、それは自分自身を欺き通すことでもあった。輪島にとって、このファイトの最大のテーマは、どこまで自分自身を欺けるか、つまり自分自身をどこまで信じ切れるかという点にあったのだ。」

『世界がキューバ医療を手本にするわけ』

【本】
ハバナにて

吉田太郎『世界がキューバ医療を手本にするわけ』築地書館、2007
p222
医師とタクシー運転手で40倍の給料差
国営企業の独立採算制化、米ドルの合法化(現在はユーロ)、農産物自由市場の開設、自営業の拡大、外貨獲得に向けた観光の振興など、市場主義型経済を導入
→ニューリッチ層の誕生
→社会に貢献している労働者が四苦八苦するしている一方で、簡単にそれらの人々の月給を稼ぐ人がいる。
社会格差についてのカストロの発言
「格差という問題は新しいものではない。だが、経済危機がそれを悪化させた。不平等が高まったのだ。ある者は、グアテマラやアフリカの僻地で、あるいは標高数千メートルのヒマラヤの山中で、命を救う活動に従事している医師よりも、たった一月で40倍も50倍も稼いでいる。米国は決して、われわれを滅ぼすことはできやしない。だが、われわれは自滅できる」

p138
キューバの格言
「ソニャール・エス・コン・ロス・ビエス・エン・ラ・ティエラ」
(Sonal es con los pies en la tierra)

2008年3月22日土曜日

カンクンで一休み

2008.3/20-21

今日、21日はメキシコも春分の日ということで祝日。郵便局も宿の近くの文具屋もお休み。さすがに観光地なので、観光客相手の店は開いているが、今日、日本に小包を送ろうと思っていたので、予定が崩れる。昨日のうちに出すべきだった。

昨日、今日と中米に向けての情報集めと荷物の整理、一休み。幸いなことにカンクンはまちを歩いても面白くないまちだから宿にいて、もろもろの作業をしていてももったいない気がない。そういう意味で、ちょっと落ち着くにはいいところもかもしれない。

明日(3/22)は、郵便局が開いているというので、朝市で小包を出したらバスで南隣の国ベリーズに行く予定。メキシコ側の国境のまちチェトゥマルまではバスで6時間。郵便物がうまく片付いて早く出ることができれば夜にはベリーズシティに着く予定だが、どうなることやら。そもそもビザを国境で取るつもりだが、明日は土曜なのでやっているのかどうかが気になるところ。週末に移動するというのは、ハイチでもそうだったが両替その他不便なことが多いからなぁ。

カンクンでiPod探し+野球観戦

2008.3.19(水)

宿に着いて荷ほどきをして、またすぐに宿を出る。近くの広場にある屋台でモーレ料理を昼飯に食う(35ペソ:約400円)。

それからiPodを探して、カンクンの商業施設をまわる。カメラのデータを移すハードディスクなどを持ってきていなかったので、途中で会った旅行者何人かが写真などのデータの保存に使っていたiPod classicを買ってみることにした。

Plaza Americanという世界的に有名なメーカーやブランドのショップが入っているショッピングモールに行くと、コニカの店で扱っていた。USドルで80GBが約330ドル、160GBが約530ドル。値段はまあまぁ。

それからWal martにも安く売っていないか見に行ったが、ここにはなかった。

iPod探しはこれで終了。当初の予定では夜は宿でゆっくりするつもりが、Wal martの近くに野球場を発見してしまった。しかもこれから試合があるらしくライトが点いている。前回もこの辺を通ったのに気づかなかった。球場の入り口まで行くとすでに客が並んでいるが、試合自体は20時からのよう。

カメラの電池が切れていたので、一度宿に帰り、電池を交換し、また球場に行く。19時を少し過ぎたくらいだったが、すでに入場は始まっていた。入り口は人だかりで牛歩並みのスピードでしか進んでいない。

ぼくは入り口右手のチケット販売所にチケットを買いに行ったが、もう閉まっている。張り紙を見ると18時で販売は終了したよう。ありゃりゃと思っていたら、若い兄ちゃんが"Ticket?”と声をかけてくる。日本で言えばダフ屋のようで、130ペソ(約1500円)のバックネット裏のチケットを150ペソで売ると言う。

えらく高いなと思ったが、チケット売場に貼られている値段表を見ても一番やすいのが25ペソ(約300円:外野席)で、次が90ペソ(約1000円)、その次が130ペソ。でも、130は高いと思い、断り別のダフ屋を探す。

見ると10人近くいて、そのうち30代位の人に声をかけるとその人は90ペソのを90ペソで売るという。予定していたよりも高い値段に躊躇したが、もう2度と見ることはないかもしれないとそれを買う。

ここのチームはTigersというようで、Tigersのオフィシャルグッズも売っていた。ユニフォームを着ている客も多い。場内で売られているファースとフードはやっぱりタコス。

座席は三塁側の内野スタンド。すでにほぼ満員状態で、わずかに空いていたところに座る。日本人が見に来るのは珍しいのか、多くの人がこちらを見る。

20時前、チアリーダーが出てきて、ホームベース付近で音楽に合わせてダンス。それからみんな起立して音楽がかかる。3曲流れ、最後が国歌だったよう。

さて、試合が始まるかと思いきやこれからが長かった。チームのマスコットが車に乗って出てきて、ダンスをしたりして盛り上げる。それから、ライトが落とされ真っ暗な中、鼓笛隊が演奏しながら出てくる。その音楽に合わせて、火のついたバトンのような物(遠くからでよく確認できず)を持った女性が5人ほど出てきて、やはり鼓笛隊の演奏に合わせて踊る。みんなは静かに見ている。

早く終われよな、と思って待つ。10分ほどそれが続き、今度は花火。グランドにロケット花火が用意されており、それが10発ほど上がった後に、でかい打ち上げ花火が20発ほど。

それが終わってようやくライトがつく。そんなことしているから当然後始末が必要で、球場の係員が花火の後始末をしている。選手は芝生のところでアップを始め、ピッチャーはピッチングを開始。

それから、一旦選手がベンチに引き上げ、今度は選手の紹介。やっと審判が出てきて、両チームの監督がホームベースのところで握手。

で、やっと8時40分頃試合が始まった。

スタンドではビールやジュース、ピザや果物(マンゴー、きゅうりなど)、綿菓子、バナナチップ、ナッツ類を売る売り子が休みなく動いている。10代くらいに見える男の子も多い。みんなよく飲み、よく食べる。

カンクンのチームのピッチャーは140km台の球をバンバン投げる。が、3回につかまり4失点。その後、カンクンも2点を返すが、5回表を終わって22時半近くなっていたし、どんなもんかわかったので、帰る。

印象としてはぼくの見たキューバの試合よりもレベルが高い。それはモチベーションの違いなのか、たまたまそういうチームだったのかはわからない。

メキシコのは完全にメジャーリーグ式で、日本のような応援団はない。が、試合の合間合間に音楽がかかり、それに合わせて客が手拍子をしたりする。

メキシコもドミニカも野球は盛んだが、キューバのように街中で野球をしている姿はほとんど見なかった。日本でそうだったらしいように、現在のように経済的に発展する前は、それぞれの国もキューバのように街角で野球をやっていたのだろうか。

2008.3.21 カンクンからアップ

ドミニカ出国→ハバナトランジット→カンクン

2008.3.18(火)ー19(水)

6時頃おき、日記と荷物の整理。

8時半、郵便局に行く。宿を出ると昨日タクシーの約束をしたおじさんがすでに待っていた。

途中、メインストリートでパパイヤ4分の1カットを買う(15ドミニカペソ)。メインストリートは歩行者天国になっており、長いすなどが設置されている。その長椅子のところでは靴磨きの少年2人がすでに仕事を始めていて、若い20代くらいの男性やおじさんの靴を磨いている。郵便局に行き、葉書を出す。5枚で100ドミニカペソ(約400円)。

コロンブスの墓とコロンブス家の博物館に行こうと思ったが、遅れそうなのでやめる。結局、ここでは観光という観光はせず、ただ中学野球を見て、マーケットなどを歩いて、スーパーを見て、果物を食っただけになった。

銀行に行きカネをおろし、ユーロに両替する。手持ちのUSDはほぼなくなり、またハバナでのトランジット時にもしかして必要になるかもしれないとキューバでは有利なユーロにしたが、ドミニカペソからユーロはレートが結構悪い。ドルの方が良かったような。

道ばたを歩きながら蒸しパンらしきものを売っているおばさんがいたので、その人から買う(10ドミニカペソ)。食べてみるとトウモロコシの粉などを使って作ったプリンと蒸しパンの間のような食べ物。

宿に戻り、荷物を背負ってホテルを後にする。タクシーの運転手は外で待っていて、こっちを見て手を挙げる。よほど放したくない客らしい。後部座席にリュックをつみ、10時過ぎ発車。

しばらくして運転手が”テレフォン”と言って、ペンと紙を取り出す。自分のタクシーの名前らしく、ラファエロタクシーと言って、彼の携帯電話の番号を教えてくれる。また来たときにはそこに電話しろとのことらしい。たぶんもう二度と来ないんだよなぁ、と思いつつ、わかったわかったと彼に伝える。

コロンブスのどでかい墓のモニュメントの横を通り、海沿いの片側4車線の道路を走る。雲が多いものの、数日前と同じく海はコバルトブルー。すっかり凪いでいて、ときおりつりをしている人も見える。

30分ほど海を眺めながら走って、空港に到着。そこで700ドミニカペソ(約3000円)払う。30分走って、ドミニカでの外食7食分は高いのか安いのか。ガソリンスタンドを見ても単位がリッター当たりなのかガロンなのかわからないが、130ペソなどと書いてある。どちらにしても700ペソくらいじゃ、とても1ヶ月は食えそうにないことは明らかだろう。

とにかくここも含めカリブ諸国はタクシー代がバカみたいに高いのには閉口する。しかもここはタクシー以外の代替手段を用意していないし。

空港に入り、インフォメーションでクバーナ航空のチェックインカウンターを聞く。場所は教えてくれたが、何時からチェックインできるかわからないといったことを言う。えっ!と思い、電光掲示板を見たら、他の航空便はon timeとなっているのが、クバーナはno confirmとなっている。もしや飛ばないってことはないだろうなと、若干不安に思いながら30分ほど時間をつぶし、適当にチェックインするために列に並ぶ。

チャックインカウンターに入る前に、列を作っているところで女性がエアポートタックスとチケットのチェックをする。

ぼくのチケットを見て、キューバに入るにはビザ(ツーリストカード)が必要だから、それをチェックインカウンターで買えと言う。キューバには入国せずにトランジットで空港内のウェイティングルームにいるだけだと英語で伝えるが、彼女は解しない。それで用意していた簡単なスペイン語でキューバには入国したくないと言うと、ようやくわかったようで解放してくれる。

チェックインカウンターでは、荷物の個数を聞かれただけで、ツーリストカードについては何も聞かれず、すぐに手続きは終わり搭乗券をくれる。

それから出国審査。パスポートを渡すと、入国審査と同じくいっさい質問なしで、”タ ビエン”と言われて終わり。

次の手荷物検査では、靴まで脱がされ機械に通し、さらに身体検査。プラスぼくはカバンの中身のチェック。そのチェックが終わって、税関審査みたいなところがあり、2枚のカードに記入し提出しようとする。すると、ふらふらしていて職員に止められ、また荷物を検査される。カバンの中を開け、スペイン語でなんだかんだと聞かれるが、わからん。

その後は、特に何もなく通過。サントドミンゴのデューティーフリーショップはモンテゴベイ並みで、予想していたよりも店がある。

時間は12時。14時予定だが、何時になるかわからない飛行機を待合室で待つ。

飛行機は予定より約1時間遅れて15時に出発。ぼくは通路側の席だったため外を見ることができず、本を読む。

2時間半後の17時37分(ドミニカ時間)、ハバナに到着。着陸時には拍手がわく。この空港もこれで5回目だから見慣れてしまった。

さて、トランジットはどうするものかと飛行機を降りて様子を見る。通路には出国を待つ待合室につながるTransitと書かれたドアがあったのだが、そこの警備員はチケットを見せても入国審査の方に行けと言う。

それで入国審査の方に行き、審査の前に入国カードなどをチェックしていた職員に聞くと、一旦入国審査を通過しないといけないと言う。

しょうがないので、鬼門のキューバの入国審査なのだが、仕事が早そうな若い女性の審査官のブースに入る。が、これが失敗。

ツーリストカードについては問題なかったものの、パスポートの写真とぼくを見比べて首をひねる。それで他の職員に声をかけ、2~3人の職員にぼくは顔認証をされる。

その若い審査官は”You changed"とぼくを見ながら言う。まぁ、写真の自分は髪が短く髭もないけど、これまで他の国でも、またこの国でも他の審査官だったらなんの問題もなかったのに。まさかチケットなどのことではなく、こんなことで今回つかまるとは・・・。これだったら指紋認証の方が早いななどと思ったりする。

10分ほどそこでジロジロ見られたりして、なんとか通過する。

今度は手荷物の検査だったが、今度は行き先のことでおばさんの職員に問いただされる。どうもツーリストカードがないことを問題にしているようだったが、今し方入国審査を通ったばかりなのに、また聞くか!?

そのおばさんは5分ほで解放してくれる。時間は18時を回っていた。

明日の昼過ぎまで空港で待つことに。2階の出国ロビーに行き、ベンチで本を読んだり、ボーとしたり。

夜はベンチに横になって寝るが、結構冷えて長袖のシャツを着ていても目が覚める。

翌日19日、朝の5時過ぎには目が覚める。夜中の2時発の飛行機もあったので、夜中電気がついていて、人の出入りも多かった。この時間もメキシコシティかどこかに行く人たちがチェックインカウンターに列を作っている。

ぼくは朝飯代わりに空港内の売店でクラッカーを買う。本を読んだり、うとうとしたりして待つ。

11時。チェックイン。リュックをビニールでパッケージングして(クバーナの無料サービス)、今度は窓際をお願いする。トランジットだから不要な気もするが、払えというので出国税(Airport Tax)を25CUC払う。ハイチで手持ちのドルがほとんどなくなったので、昨日、こんなときのためにサントドミンゴでユーロに替えていた。それが役立つ。

さて、次はサントドミンゴに行くときにつかまった出国審査。前回は、最終的には問題はなかったものの、メキシコからのチケットは持っているのかとか、メキシコの次にどこに行くのかとか、いくらカネを持っているかなどを聞かれ、15分ほどひっかかってしまった。

今回はすんなりいくようにと、やや年輩の女性の審査官のところにいく(ちなみに審査官は女性ばかり)。すると今度はキングストンに行くときと同じく、無問答でかるくスルーする。すばらしい。

手荷物検査を受けて、それから搭乗ゲートの前で待つ。2時間ほどあったので、キューバ産のチョコレートを買って食う(0.3cuc:約40円)。他いくつか買い物。

今回は予定通りにフライトは飛ぶ。14時05分に出発し、メキシコ時間の14時30分頃到着。時差の関係でこうなるのがおもしろい。実際のフライトは1時間半ほど。今日は天気が良く、窓際だったこともあり、眼下の景色はなかなか良かった。相変わらずカンクンの海岸は波がきれい。

メキシコの入国もなんの質問もなく、逆にキューバはどうだったと聞かれただけ。すんなり入る。が、手荷物の検査に長蛇の列。1カ所でしかやっておらず、30分ほど待ってやっと通過する。

税関審査を出ると、左手にインフォメーションデスクが5つほど並んでいる。さすがリゾート地だ。

空港を出たらタクシー乗り場に出るが、宿の近くのバスターミナルまで行くADOという会社のエアポートバスに乗る(35メキシコペソ:約120円)。バス乗り場は入国用の出口から100mほど離れていて、出国用の出入り口を通り越した反対側にある。なんでこうわかりにくいところにあるのかと不思議。

バスの乗り口で料金を払って乗車。さすがメキシコ。バスは新品同様。車内のテレビでは動物園の飼育係のドキュメントのDVDが流れている。

30分ほどでバスターミナルに着き、その5分後くらいに宿に到着。前回泊まったときに忘れていったデジカメは、無事保護されていた。ありがたや。

ハラハラのハイチ出国 後編

2008.3.17(月)

プシューと言って起こしてくれた女の人に続いてバスを降りる。ドミニカから来たときは、ハイチに入国するとき以外はずっとバスの中にいたので、今回もそんなもんだろうと思っていたが、違った。

バスを降りて入国するときにも入ったイミグレの建物に入る。15分ほど待っていると、乗客ひとりひとり名前を呼ばれる。名前を呼ばれた人は、順に建物から出ていく。パスポートは、預けたまま。

ぼくも含め10人ほどまだ名前を呼ばれていない人が残ったが、よくわからないが、まとめて出ていいと言われ、みんな出る。

そして、隣の建物の玄関先の方へ移動する。玄関先のスペースには長机とパイプ椅子が並べられ、長机の方には制服を着た審査官が座り、向かい合って乗客が並べられたパイプ椅子に座る。審査官は2人いて、一人は左肩にハイチの国旗をつけており、もう一人は同じ場所にアメリカの国旗をつけている。その後ろを国連のマークをつけた一番偉そうな人がうろうろしている。

積み重ねられたパスポートが長机に届けられ、そこでまた名前を呼ばれ、パスポートと照合する。パスポートはハイチ人と外国人とに分けられて置かれており、それを見ると50人近くいる乗客のうち外国人は10人ほど。ヨーロッパ系の人は年輩(50過ぎ?)の女性ひとり。他はドミニカの人っぽい。

名前を呼ばれたらハイチ側の国境を歩いて越えて停まっていたバスに乗る。バスでドミニカ側の国境まで移動。5~10分ほど。

国境ではいろんなものを積んだトラックや大荷物を持った人たちがドミニカからハイチへ続々と流れていく。ハイチに入るときは気づかなかったが、こうやってハイチに物が流入しているのかと改めて気づく。

ドミニカ側の国境では各自自分の荷物を持ってバスから降りるよう言われる。

荷物検査場では3人の係官が客のカバンのチャックを開け、中まで調べる。空港にあるような検査機はない。

ぼくもリュックと手に持っていたカバン、ウェストバックの中身を調べられる。いい体格をした髪を赤く染めている女性の係官は身体検査の係りのようで、足下から腰の周りまで調べる。これまでは誰も気づかなかったのだが、このおばさんはぼくの腰巻きに気づき、中に何が入っているか聞いてくる。お金が入っているとちらっと中を見せて言うと、あとで建物の外で何かをするような仕草をする。なんのことかと思って、わからないと言っていると、親指と人差し指をすりあわせながら、”ディネロ(お金)”と言う。

基本的にすべてスペイン語なので、よくわからなかったが、どうもぼくが腹巻きに大金を隠して持ち込もうとしていると思ったらしく、それを見逃してやるからカネを出せということのようだった。

わからないと言っていたら、バスの添乗員の女性がぼくを呼びに来て、一緒に来てとイミグレの事務室内に連れて行かれる。空港でするような直接審査官と向き合っての入国審査はなく、荷物のチェックだけしかみな受けていないのだが、なぜかぼくだけ呼ばれ、なんだなんだとやや不安に。

事務室内の椅子に腰をかけ、しばらく待ってと職員に合図される。壁には国境の職員がカネを受け取るのはダメだという意味あいのポスターが貼られている。こんなポスターを貼っているなんて、やっぱりさっきのおばさんのように相当カネを要求する係管がいるよう。

10分近く待って、奥に案内される。白い制服をきた部署のトップらしい人がそこに机をかまえていて、ぼくのパスポートを持っていた。それで、パスポートとぼくを見比べ、日本人かと訪ねられた以外は特に質問はすることなく、紙を取り出し、ここにサインをしてと言われる。

パスポートのサインと照合するらしく、ぼくはその紙にパスポートにしたサインと同じようにサインをして、紙を渡す。じっとそれぞれを眺め見比べる審査官。

時間にすれば20秒ほどか、納得したらしく解放してくれた。パスポートをその場でもらえるのかと思ってたら、バスの添乗員に返すと言われ、預けたままその事務室を出る。

バスに戻ると例の荷物検査場にいたおばさんが入り口で待っていた。座席に座ると、おばさんは車内の荷物をチェックしながら(ふりだけだと思うが)、ぼくの座席まで来る。

あいにくぼくは一番後ろに一人で座っていた。おばさんが近づいてくるにつれ、今だけ適当に隣に人がいるところに座れば良かったと思うが、もう遅い。おばさんはぼくのところにきて、小さな声でカネを出せと言ってくる。まぁ、ここは正攻法でいくしかないなと思い、"No"と言って申告しなければいけない100000ドル(だったと思う)なんて持ってないと言う。

実際にハイチに来たことで手持ちのドルがなくなり、腹巻きには40ドルくらいしかなかった。けっこうしつこく迫ってくるかと思いきや、おばさんはそれを聞いて、クソッという雰囲気を醸し出すものの、あっさり引き上げていった。

結局、国境を抜けるのに1時間以上かかり、またドミニカに入る。ドミニカにはいると例の大統領選のポスターがあちこちに。

ハイチから戻るとどみにかの全体的な豊かさ(経済的)を実感する。韓国と北朝鮮との間の差はもっと大きいのだろうが、それに近いんじゃないかとも思う。

サントドミンゴに着いたのは、夕方4時過ぎ。もっと早く着いて、今日はコロンブス家の博物館みたいなところに行こうかと思っていたが、無理そう。

バスターミナルから30分歩いて泊まっていた宿に戻る。鍵をもらおうとするが、オーナーがいなくて、受付のおじいさんに宿泊代を払えと言われる。前回泊まったときに前払いしているとスペイン語の会話帳をひきつつ、伝えるがまったく理解しない。

10分近くそんなやりとりをしていたところへオーナーがきて、受付のおじいさんと話すとやっと話が通じる。オーナーと握手して、荷物を置いて飯を食いに行く。

例のごとくホテルの前の果物屋さんの屋台でパパイヤを買うが、一口食ってみると悪くなっていた。なので、別の屋台で買い直す。

メインストリートには、観光客がいっぱい。地元の人とチェスをしている若い女性の観光客もいる。

宿に戻ると近くで車を止めていたタクシーの運転手が声をかけてくる。明日空港に行くので、運転手にいくらか聞く。最初800ドミニカペソ(2500円くらい)と言っていたが、600にできないか聞くと、ガソリン代が高いからと700にしかしてくれなかった。まぁ、この物価高だし、ガソリン代も130とか書いてあったし、空港までは40分くらいかかるからいいかと、それで決定。

部屋に戻り、ぼたぼたと水が落ちるシャワーで汗を流し、荷造りをして寝る。


2008.3.21 カンクンからアップ

ハラハラのハイチ出国 前編

2008.3.17(月)

朝は6時過ぎに起きて、荷物の整理などをする。7時過ぎ、フロントに行ってタクシーを頼む。今日のフロントの人は英語が通じる。すると今、呼ぶのかと言い、そうだと言うと、なんかいらついたような表情をする。どうもすぐにはタクシーを呼べないよう。

ぼくは30分あればタクシーは来るだろうと見込んでいたのだが、これが大間違い。7時45分になってもタクシーは来ない。

サントドミンゴ行きのバスは8時半発だから、予定では7時半にタクシーに乗って、8時くらいバスターミナルに着く予定だった。それが7時半を5分すぎ、10分過ぎ、刻々と8時に近づくにつれ、焦ってくる。

ホテルの人は、すぐタクシーは来るというが、どうもしばらく来そうにない。

やっぱり朝早く出て乗り合いトラックバスに乗れば良かったかと思うも、乗ってきたときには暗くなっていたので、どこから乗ればいいかが定かではなかった。その上、行きは中心部の誰もが知っている場所が目的地だったので、誰に聞いても行き方を知っていたが、今度は普通の人はおそらく使ったことはないであろう、サントドミンゴ行き専用のバスターミナルが目的地。通りがかりの人に聞いても、住所を見せてもたぶんわからないだろうなと思い、また治安のこともあり、苦渋の決断(?)で20USDもするタクシーにしたのだが・・・。どうせなら昨日、乗り合いトラックバス(グアグア)の予行演習をしとくべきだったと後悔も少々。

いてもたってもいられなくなり、ホテルの出口の方に行く。昨日、歩いた限りでは他のまちのように”タクシー!”と声をかけてくる人がいなかったので、個人を相手にしているタクシーはなさそうだなと思っていた。だから、ホテルの前の通りで洗車をしている人と交渉して乗せて行ってもらおうかとも考えていたら、前から怪しげなおじさんが近づいてきて、タクシー?と英語で話しかけてくる。

この際は、怪しいかどうかよりも早くターミナルに着かなければならないので、おじさんにとりあえず値段を聞く。すると30USDと言う。

緊急事態だし、乗り遅れたらドミニカ行きのバスチケットはおろか、明後日のハバナ行きの航空券もその次の日のメキシコはカンクン行きの航空券もパーになってしまうから30USDで着けば安いかな、と逡巡するも、念のため値切る。30ドルに首を振ると25ドルになり、こちらが15ドルと言うとNOと言って20ドルにまで落ちる。

もっと強気で25ドル以下には下がらないだろうと見込んでいたが、あっさりと下がった。まぁ、20USDは覚悟していたからしょうがないかと思い、おじさんにOKを出す。するとタクシーを探してくると行って一旦通りに出る。あんた探しに行くってどういうこと? と思うが、ぼくはホテルの人に別のタクシーに乗ることを伝えようとホテルのフロントに向かう。

フロントに着く前にディーゼルエンジンの大きな音を立てながらおんぼろなミニバン(?)の車が駐車場に入ってくる。運転席には若い男性がおり、助手席にさっきのおじさんが座っていた。どういう組み合わせなのかよくわからないが、それがタクシーだった。

車の音を聞いて、フロントの人が出てくる。フロントの人は当然のことながら、そのおじさんと何やら言い合いをする。が、ここはごめんなさいとぼくはその車に乗り込む。ホテルで頼んだタクシーはまだ来ていなかった。

7時50分頃、ホテルを出る。バスも予定時刻の8時半ちょうどには発車しないだろうから、30分で着けばなんとか間に合うかと思うものの、本当にこのおじさんがバスターミナルを知っているかが不安だった。

車は来るときには絶対通っていない道を走る。一方通行が多いし、朝の通勤時間だから裏道を通っているのかと推測するが、なかなか来るときに通ったような道に出ない。

来るときは暗かった上、荷台で外もまともに見えなかったので、周りの景色をはっきり覚えていなかった。

今朝も国連軍のパトロールの車が走っている。ハイチ軍の軍人もところどころに立っていている。道沿いにはグアグアを待つ人だかりができているところもある。また、すでに歩道に野菜や果物を並べて売り初めている人もいる。

15分ほどすると車は登り坂で渋滞にはまり、ほとんど進まない。これは間に合わないかなと少し覚悟する。

10分近く渋滞にはまって、ようやく抜け出す。だが、メーターも動いていないおんぼろ車。坂道を勢いよく登ることはできない。体感時速20~30kmで車は頑張る。

こんなところ通ったかなと不安に思いつつもどうしようもないので、黙って座って着くのを待つ。

ホテルを出てから30分ほど、来るときにグアグアに乗った場所を通る。これでターミナルにちゃんと向かっていることを確信し、安心する。時間もまだ8時半までには10分ほどある。

ターミナル前で車は止まり、ぼくはリュックを背負って20USDを払い、メルシーと言ってターミナルの受付窓口に行く。

待合室にはすでに20人くらいが待っており、乗車も始まっていた。ぼくは受付でチケットとパスポートを見せ、預ける。”Tax”と言って28USDと50ドミニカペソを請求され、それを払うと、チケットに座席の番号を書いてくれ、さらにボーデイlングパスと言って番号の書いてあるプラスティックの長いカードを手渡される。

それを持ってバスに行く。荷物を預けようかとしたら荷物にタグを付けないといけないようで、それを取りにまた受付に戻る。荷物3つすべてにタグを付け、ようやく乗車できる。

予想通り8時半を過ぎても乗客らしき人が車で乗りつけてくる。その間、ぼくはポケットに入っていた小銭を使いきろうと、ターミナルの入り口に来ていたパン売りの人からクロワッサンを1個買う。どうも小銭だけでは足りないようだったのだが、そのパン屋のおにいさんは困った顔をしつつも売ってくれた。

バスは結局9時頃発車。車内ではすぐにパイ生地のパンが配られる。

それを食べ、しばらく外を眺めている。緊張の糸の切れたのかいつの間にか寝ており、プシューと言う声に目覚めたらすでに国境に着き、みなバスから降りているところだった。

2008.3.21 カンクンからアップ

ポルトープランスでぶらぶら

2008.3.16(日)

部屋の蒸し暑さで目が覚める。昨晩からつけっぱなしにしていたはずの扇風機は、スイッチが入ったまま止まっている。コンセントを差し替えたりしたが、ファンは回らない。節電なのか、停電なのかどうも電気が通っていないよう。

ホテルの朝食は別料金で5ドルくらいすると言われたので、朝食は外でとろうと思い、8時前に散歩がてらに外に出る。

シャンマッの広場では、昨晩、コンサートで会ったMenleyが言っていたように、サッカーの練習をしている。ランニングをしている人やストレッチ体操をしている人などもおり、けっこう本格的な練習のよう。格好もサッカーだな、と人目でわかるような格好をしている。地面はコンクリートだからサッカーシューズを履いている人はいないが。

見学をしながら広場を横切る。広場で練習しているチームは10チームほどあり、それぞれ広場の一画を練習場にしている。広場は一面平らというわけでなく、段差があったりして、それらが隣のチームとの境になっている。もちろん練習するスペースはそれぞれまちまちで、一番大きくてもフットサルのコートくらいの広さ。狭いところでは5m×20m程度のスペースで練習している。練習している人の人数は、200人くらいだろうか。年齢は20歳前後くらいの人が多い印象。

ホテルの近くでは、この時間に食事ができそうなところは見当たらない。まだまだ時間が早いのかと思って、適当に歩く。


坂道を歩いていたらラスタのヘアスタイルをしたおじさんが、こっちをみてにこにこしながら何か言っている。"You Rasta?"とぼくが言うと”イエス”と言う。

ジャマイカにはラスタのヘアスタイルをした人が、そこら中にいるがドミニカ、ハイチとも1人みかけたくらい。

通りのところどころには給水ポイントならぬ水道ポイント(井戸ではなかった)があって、みんな大きなバケツを持って、そこへ水を取りに来ている。もっぱら水を運んでいるのは、女性(お母さん)と子ども。子どももそれなりの小さなバケツを両手に持って水を運んでいる。

コピー屋さんが集まっている通りや教会の前などを通り、両替をしようと銀行の前に来る。

もう9時を過ぎていたので開くだろうと思っていたら、開いていない。銀行の入り口下の階段には、5cmくらいの札束を持った男の人が3人ほどおり、英語で話しかけてくる。両替屋さんのようで、こうして銀行の前で客待ちしているよう。

昨日、ホテルで両替した5ドル分のハイチのお金ももうわずかになっていたので、両替する。USドルはもったいないので、あまりそうなドミニカペソを両替してもらう。ドル換算で言うと10ドル相当の300ドミニカペソが、250ハイシャングーに。相場はわからなかったが、ドミニカとハイチを比べてハイチの方が強いということはあり得ないだろうと思い、250を300にしてもらう。

昨日のホテルでの両替が5ドルで約200ハイシャングーだったから、ドル換算でいえば400あってもいいのだが、あいにくドミニカペソはホテルでは両替してくれないので、300でいいことにする。

しかし、この人たちは、元手はどうしたのだろう。何かの商売で外貨を稼いでから、この商売に転じたのか。それとも誰かに借金して元手を作ったのか。外国人観光客がほとんどいないこの状態で、食えるほどに客がいるのか。気になる。

ポルトープランスは、湾を有しているまちとあって、坂道が多い。適当に坂道を上っていくと、左に曲がったとおりが市のようになっているを発見。

路上にびっしりと露天が並んでいる。路面は舗装されてなく、しかもどこから流れてきてるのか、水たまりがあちこちにできていて、そのためところどころ路面がぬかるみ滑りやすくなっている。さらに人でいっぱいのその道をRVの車が時折通る。

外国人、特に東洋人自体が来るのが珍しいのだろう、多くの人がこちらを見て、子どもはぼくを発見すると親に報告するように何か言っている。並んでいるのは農産物、肉、魚がメイン。農産物はじゃがいもや人参、3cmほどの小さなオクラ、キャッサバ、バナナなど。肉は鶏肉が多い。

すぐに食べられそうなものを探すが、あまりない。加えて、どうも腹の具合がよろしくない。

一通り見て、その通りを後にする。今度は、海を見に行こうと海に向けて歩く。『ロンリープラネット』によれば、海岸沿いはスラムができていて、行くべきではないとあった。だが、車が頻繁に行き来している大きな通りは比較的安全だろうと思い、大きいとおりに従って海を目指す。

途中、ジャッキーチェンやジャッキーリー(ブルースリーのことらしい)などと言って声をかけてくる人が少々。声がする方を見ると、こっちと目を合わせてにこっとしたりするから、どうもキューバと同じ感じのよう。小さい子どもの中には何度もこっちを振り返って見る子もいる。

歩道には鍋を炭にかけ、スープを売っているおばさんや、炭そのものを売っている人もいる。店としては一番目に付くのがLOTOなどの文字が入り口に書かれている店。宝くじ屋のようだが、定かではない。人の出入りもあまりなさそうだし。

それから散髪屋・美容室は表にそれとわかる絵(人の顔)が書かれており目立つ。それから、ときおりCyber Cafeと書かれた電話屋兼ネット屋(日曜とあってかどこも閉まっている)もある。全体的には、店舗(建物)をもって商売している人は少なく、歩道や路上の脇に、シートなどを敷いて商品を並べて売っている人が多い。

そうして歩いていると比較的大きな通りとの交差点に着く。その通りを右に曲がってみると驚いた。ずっと露天が続いていて、かるく500mはありそう。その通りを歩いてみると、今度はその通りと交差している別の通りもずらっと露天が並んでいる。(Rue Miracles,Rue Bonne Foi,Grand Rue,Rue du Magasin de I'Etat,Rue du Quaiなどの通り)

売っている物は農産物(米、豆、キャベツほかいろいろ)や肉、魚(メキシコでも見た干し魚あり)、香辛料、お菓子(スナック菓子など)など食料品はもちろん、服や化粧品、石鹸、シャンプー、香水、ウィスキーなどの酒、文房具、南京錠や工具類などなど。電化製品は見なかったが、一通りの生活用品はすべてある。

さらにボロボロの建物が市場となっていて、その中でやはり服や米、さらに竹かご、箕なども売っている。

歩いていると”ムッシュ”と声をかけてくる店の人もいる。

その通りも、どっかで水道管から吹き出しているのか、水浸しになっているところがある。地元の女の人の中にはサンダル履きだからか気にせず、水の中を歩いている人もいる。

露天がある通りをひたすら歩く。歩いた感じだと両サイドに露天が並んでいる状態で全長2kmはありそう。店舗(露天)数にすると、ほとんどの人が両腕を広げた位のスペースで商売をしているから1000はありそう。

それにしてもここまで大規模な市があるとは想像していなかった。メキシコシティには勝てないが、その他の地域にはこれほどの市はなかった。きっと店舗による商売がまだそれほど広まっていないということも1つの要因かもしれないし、店舗を持たずとも商売ができる環境があるからかもしれない。あるいは、もしかしたらこの日が特別な日だっただけかもしれない。

ぼくは夏みかんのような柑橘系の果物を買う。4つで20ハイシャングー。

それから海に向かう。海に向かってまっすぐ伸びている幅10mはある通りを歩いていくとT字路にぶつかり、右か左かに曲がらなければならなくなる。

正面にはこれまた使われていないような建物があり、その下で30代~40代くらいの男の人たちが4人ほどで麻雀らしきことをしている。その建物の敷地は、一応金網と金網のドアで区切られていたものの、向こう側に行く近道として通りぬけできそうだった。向こう側には広い広場と、けっこう豪勢な建物が見え、その向こうに海が見える。

おじさんたちに絡まれないといいなと思いつつ、開いているところから敷地に入る。すると予想通り、麻雀らしきことをやっているおじさんたちのうちの1人が野太い声で”You!"と声をかけてくる。声の主を見るとごつい。

こっちに来いと手招きしているが、あまり人相がよろしくない。人は見かけで判断してはいけないと思うが、ちょっと嫌な予感がしたので、海の方を指さしあっちに行くんだという仕草をし、そそくさと通る。おじさんはあっさりと諦めてくれたみたいで、それ以上は何もなかった。

広場はPlace de Nations Uniesというところで、50カ国くらいの国旗が掲げられ、中央にはよくわからないモニュメントがあった。ベンチに座ってる人は数人。

その隣にある豪勢な建物だなと思ってたものはアメリカの大使館だった。

そのアメリカの大使館と海岸の間には片道1車線の道路があり、それを渡るとあまり手入れがされていない公園がある。そしてその向こうがすぐ海(Baie de Port-au-Prince)になっている。公園には、そこに住んでいる人っぽい人が数人と何をするというわけでもなく、友達とおしゃべりをしている人が数人。

そのおしゃべりをする人のうち一人が大きな声で話しかけてくる。開いてとの距離は20mほど。当然、言葉がわからないので何を言っているかわからない。その声があまりフレンドリーではなかったこともあり、声の主の方を見て、かるく手を振っただけで素通りし、海まで行く。

右手には貿易船なのか、巨大な貨物船らしき船が10隻ほど見え、その手前では子どもたちが海で遊んでいる。湾ということもあり、並みもなく穏やか。水も一応、底が見えるくらいには透き通っている。

海の淵まで歩いていったら、長い髭と長い髪のおじさんが素っ裸で水浴びをしていた。服が地面に置かれており、水に入った状態だったので、全身が見えたわけではないが。

左手の海岸沿いには家なのか倉庫なのか低い建物が並んでいる。バラックだと言われるとそうなんだと思ってしまうような建物が多い。

Port-au-Princeは低い山に囲まれている。海からぐるっと山の方を見ると、その取り囲んでいる山の7分目くらいまで家が張り付いている。コンクリートらしきもので作られた白っぽい建物が多い。何が原因なのか、少し霞んでいてはっきりと見えない。

海辺にいたのは数分ほど。あまりのんびりしていても悪い人に出会うとも限らないので、早々に引き上げる。

朝から4時間ほど歩きっぱなしだったので、宿に戻って休憩。途中、宿の前の広場でクーラーボックスに入れて飲み物を売っている人から水を買う(20ハイシャングー)。「力」と漢字で書かれた飲み物があり、気になったのだが、高そうだったのでやめる。

宿に戻って水の入っていないプールサイドで本を読んだりする。隣の椅子にはインドから来たという30~40代の男の人。ヒンディー語の小さな本を読んでいる。彼が話しかけてきて、少しだけ話す。

彼はインド生まれで、今はパナマに住んでいるらしい。パナマには10数年住んでおり、無関税(デューティーフリー)商品を扱う仕事をしているという。ハイチはこれで4回目。ハイチには仕事で来ており、5日ほど滞在しているらしい。ここでは仕入れた中国製の服を販売業者に卸していると言う。

暑さがやわらいだ16時頃、さっきとは逆の方向の地域に行ってみる。ロンプラによれば、こっちにもネット屋があるよう。

さっき行ったところは人通りの多い、いわば繁華街だったが、こちらはどちらかというと住宅街。人通りが少ない分、やや緊張する。

歩いていると右手にCyber Cafeの文字を発見。散髪屋と一体化しているようで、散髪屋のドアを開けると中に2人の若い男性がおり、180cm以上ありそうなドレッドの人の方が店主だった。店内にはレゲエの大コンサートのポスターが貼ってある。

ただ、「インターネット」と言うと、うなづき右奥にある今使っていたらしいパソコンを空けてくれる。30分ほどで10ハイシャングーだったか。スピードはかなり遅い。

それからしばらく散歩。家の玄関前に座っていた10歳くらいの女の子がこっちをじっと見ているので、”ボンジュール”と言うと挨拶を返してくれ、どこから来たのかというようなことを聞いてくる。”ジャポネ”と言うと、にこっと2~3度うなづく。

またぶらぶら歩く。店も人も少ない。Collegeと書かれた大学らしきところを通る。街角には迷彩服にマシンガンを持って武装したハイチの軍人が立ってパトロールしている。これはキングストンと同じ。

今度は30分ほど歩いただけで宿に戻る。お金が余っていたし、腹も良くなってきたので、ホテルの周りで食い物を探す。宿近くにファーストフードっぽい店づくりの食堂があり、地元の料理らしい写真が貼ってあったので、行ってみる。入り口では、ストリートチルドレンらしき10歳にもいってなさそうな一人の男の子がカネを乞う。小銭がないので、ノンと手を振りながら通り過ぎる。

店でショーケースに並んでいる料理を指さし、いくらか聞くと240というので、断念。高すぎる。

それで少し先の通りに行くと、揚げ物を売っているおばさんがいたので、そこで買うことにする。鶏モモの唐揚げや魚の唐揚げ、バナナやキャッサバらしいものの揚げ物など7種類ほどある。肉、魚は食べる気がしなかったので、バナナなどを頼む。発泡スチロールの弁当箱にそれぞれ数枚手づかみで入れてくれ、最後にキャベツの”マリネ(と聞こえたような)”の汁を全体にかけ、キャベツも上に乗っけてくれる。これで70ほど。

さっきの食堂の前をとおり宿に戻る。途中、またあの男の子がこっちを見て、乞うてくるので20ハイシャングーをプレゼント。ただ、この物価高では何を食べられるのか?

部屋に戻り、飛行機の機内で手に入れたプラスチックのフォークを取り出し、さっそく食べる。冷めているので、もさもさして食べにくいが、味はいける。腹の調子が良ければ道ばたで売っているスープが食べたかったのだが、明日また長距離の移動ということもあり、自制し、これだけ。これは心残り。

夜はまた昨日とは違う人がコンサートをしていた。今日は、ラスタの格好をした人たちのグループが演奏する。ジャンベ(だったっけ?)とかいう太鼓がリズムを刻み、ボーカルのおじさんはアコースティックギターを弾きながら歌う。音楽が昨日よりカリブ海っぽいし、アフリカっぽい。レゲエという感じではなかった。

演奏を見ていると昨日と同じようにストリートチルドレンらしき子が腹が空いているという仕草をして手を出してくる。カネはホテルに置いてきたので、首を横に振るとしばらく粘られるが、別のおじさんたちの方に行った。

今日は最後まで聞くことなく、切り上げホテルに戻る。
明日はまたドミニカへ。

2008.3.21 カンクンからアップ

2008年3月21日金曜日

ハイチへ

2008.3.15(土)

昨日、地図を買った店の人の反応を見て、ハイチは大丈夫と思えたため、無性にハイチに行きたくなる。

ただ『ロンリープラネット』には2日前には予約を、というようなことが書いてあったので、今日は席がないかもと思いつつ、とりあえずバスターミナルに行くことにする。

6時過ぎに起き、ハイチに行けることになった場合のために、荷物をまとめる。もし、ハイチがダメだったら国内の内陸部に行こうと思い、辞書などをキューバで買ったビニール製の手提げカバンに入れて宿を出る。

宿のドアはまだ閉まったまま。年寄りの管理人が、起き出してきて開ける。外はやや涼しいが、ハバナほどではない。昨日の日中はあんなに走っていたタクシーなどもこの時間帯ではほとんど動いていないようで、車の通行量も人通りも少ない。

昨日、インフォメーションで教えてもらったカリブツアー(Caribe Tours)のバスターミナルに向かう。地図上では歩くと30分くらいの位置にある。

うまく迷うことなく、カリブツアーのターミナルに到着。メキシコほどではないかなかなか立派なターミナルだった。施設の案内も英語が併記されている。

インフォメーションでハイチに行きたいというとここでは売っていないというようなことを言い、あっちだというふうに指さす。とりあえず時間と料金が知りたかっただけだったが、その人はチケット売場の方を指さすので、そっちで同じように聞くと、今度は建物の入り口の方を指さし、右の方のなんとかと言う。

言われたとおりに右の方に行くと、Travel Agent、Atlantic Toursと書かれたオフィスがあり、どうもここのようだった。だが、まだ開いていない。ガラス張りになっている壁をのぞき込んでいると通りがかりのドミニカ人の男性が8時半になったら開くと教えてくれる。

まだ50分ほどあったので、施設内をうろうろしたり、来る途中に買った新聞(25ドミニカペソ)を見たりする。新聞はジャマイカと同じく、縦長で4部ほどに別れており、広告雑誌も入っており、けっこう分厚い。

記念に新聞の写真を撮っていたらセキュリティのおじさんが話しかけてきてぼくが持っているカメラの値段を聞いてくる。値段を言うと、ふ~ん、そうかといったような反応。

8時半過ぎにオフィスが開いたので、窓口にいた人にハイチに行きたいと言うと、いつ行きたいのか聞かれる。出発時間を聞くと、11時だという。今日でも大丈夫そうだったので、値段を聞く。よく聞き取れなかったので料金を紙に書いてもらうと、片道が66USドルプラス100ドミニカペソ、往復だと129USドルと200ドミニカペソだと言う。

まだ3時間近くあるし、お金もなんとかなるので、行くことに決定。歩いて宿に帰る。

宿に戻り、受付のおじさん(というよりおじいさん)にハイチに行く旨を伝え、前払いしていた宿代を払い戻ししてもらえないか聞く。スペイン語だけのやりとりなので、なかなか伝わらないが、やっとこさこっちの言いたいことは伝わる。だが、その人は雇われている人のようで、ホテルの主が10時までには来るから、その人が来てからというようなことを言われる。ちょっと遅いなと思いながらもしょうがないので、それまで待つことに。

とりあえず部屋に戻り、荷物の整理。リュックの下の方に入れていたフランス語を含む5カ国会話帳を取り出すなど、荷造りをして受付に行く。

受付には2日前に予約をしにきたときにいたおじさんが来ていて、何かようかと言われる。それで同じように用件を伝えると、雇ってるガードマンらしき細いおじさんに80USドルくらいを渡し、外に両替しに行かせる。

事前に4泊ぶんの1800ドミニカペソ(約60USD)を払っていたが、900ドミニカペソ(約30USD)を返金してくれる。

時間は10時。バスの発車時刻の11時まで1時間を切ろうとしていたので、宿近くに停まっていたタクシーを使ってターミナルまで行く(150ドミニカペソ=約5USD)。

ハイチ行きのバスを扱っているトラベルエージェントのオフィスには6人ほど客が列を作っていた。中に入って並ぶ。先頭の窓口には、アフリカ系の男性がスペイン語で窓口の人と話している。その傍らにはアメリカ人らしきアングロサクソン系の女性(20代前半)が立っており、ときおりその男性と英語で話をしている。どうもその男性はトラベルエージェントの人のようで、そのアメリカ人らしき人等をツアーかなんかでハイチに連れていくようだった。

ぼくの前にはハイチと書かれたパスポートを持った人が3人並んでいる。その人等は窓口ではスペイン語ではなく、フランス語かクレオールで話していた。

20分ほど待ってぼくの順番がまわってくる。窓口の人は朝のことを覚えていて、パスポートをお金を出すと何も言わずに手続きをしてくれる。朝のやりとりのとおりに、今日出発で17日ハイチ発の往復のチケットを手早く準備してくれる。

129USDに200ドミニカペソをここで全部払ってしまうのかと思っていたが、そのうちの28USDと50ドミニカペソぶんは帰りに払うと言う。料金の内訳がどうなっているのかよくわからない。チケットを見ると代金のところには行きにも帰りにも75USDと書いてある。

パスポートは窓口で預ける。どうもバスの添乗員が乗客のパスポートはまとめて管理し、出入国の時の手続きも基本的にしてくれるよう。

10時45分に1番パーキングに来るように言われる。あと10分ほどしかない。施設内の待合室は100人以上座れるがすでに満杯。施設内にある売店で飲み物だけ買って、1番パーキングで待つ。

同じバスを待っている列には白人系の人が10人ほど並んでおり、みな英語を話している。学生らしき男女がほとんどだが。50代くらいの年輩の夫婦も見える。

予定通りの時間に乗車する。バスはきれいで外観は新品同様。内部もなかなかきれいで座席は背もたれとシートが動くタイプ。50人乗りのバスはほぼ満席で、3割くらいが旅行客のほかはだいたいハイチ人のよう。

幸いぼくの隣は誰も座らなかったので、2席独占できる。

発車予定時刻を過ぎた11時20分頃、バスはターミナルをでる。例のごとく車内はキンキンに冷える。温度計を取り出して計ると座席の上で20℃。外は30℃くらいあったから調子が狂う。

1時間もしないうちに郊外にでる。サトウキビ畑やバナナ畑、果樹園などが見える。

大統領戦のポスターがこれでもかというくらい貼られていて、道路沿いでもまちに入るごとに候補者のポスターを見る。途中のまちでは、それぞれの候補者の(政党の?)シンボルカラーの旗を持った人や服を来た人が選挙運動なのか、道ばたにずらっといた。

12時すぎると車内では弁当が配られる。弁当のことは聞いてなかったんで、ラッキー。あとコーラのサービスもあったが、炭酸嫌いなので却下。ペットボトルの水がただでもらえるようだったので、そっちをもらう。

バスは海沿いに出ては、また内陸に入る。初日飛行機から見たとおりに山には木がない。

3時間も走るとまちらしきところを見ることはなくなり、州道路沿いの集落を見るのみ。ある集落では集落内に1mほどの幅の川が通っており、そこで子どもたちが素っ裸で水遊びをしていた。その川はみた感じだと川というよりも人工的な用水のようだったが定かではない。

例の選挙ポスターはこんな田舎の集落にも貼られていた。政治体制が違うからなんとも言えないが、カストロならこんなポスターにカネをかけるよりも、サンとドミンゴの靴磨きをしている子らにカネを使うだろうなと思ってしまう。候補者はいずれも”肌の色の薄い”人。

マシンガンを持っている兵士が検問をしているところを2カ所通過する。バスは特に止められることもなく進む。

そして出発から約5時間後の15時40分にハイチとの国境地帯に到着。外務省の安全情報などを見て、もっと物々しいところかと想像していたが、軍人がたくさんいるわけでもなく、他とあまり変わりはない。

まずはドミニカ出国。乗客はバスの中で待機。添乗員がみなのパスポートなどを持って外に行く。

驚いたのはすぐそこが湖で、増水しているのか今にも道路に水が入り込もうかというくらい水位が高い。淵に立って手を伸ばせばすぐ届くところに水がある。

実際、ドミニカ領からハイチに入る短いトンネル(10mもない)の中には水が入って来ていて、バスはみずしぶきをあげながら通っていた。ハリケーンが来たときなどは、一帯は沈むのではないか。

出国はぼくは問題なかったもののアメリカ人らしきグループのツアー参加者の中から一人女性が呼ばれて外に出る。あとハイチの人が何人か呼ばれて出ていく。

アメリカ人の人は戻ってきて、ツアーの方の添乗員の男性にお礼を言っている。なんかいろいろ聞かれたらしいが、その添乗員が話をしてくれたよう。こういうことがあるときにはツアーの添乗員がいると心強い。

結局、出国手続きだけで50分ほどかかり、16時半にバスは発車。ハイチ側に入り、今度は全員が降車し、歩いてイミグレの建物へ。このときにもまだパスポートは手元になく、バスの添乗員に預けた状態。

バスを降りてイミグレの建物までの10mほどを歩く。両替商のおじさんたちが何人か声をかけてきて、持っている札束を見せ、両替しないか聞いてくる。またぼろぼろの格好をした10歳くらいの子どもが、カネをくれというように手を差し出してくる。後ろからUNの文字の入った車が通り過ぎる。車の荷台には武装した国連軍の兵士が数人。

イミグレの建物に入る。他と同じく一人一人質問などされるのかと思っていたが、そういうことはなく、名前を呼ばれ入国スタンプが押されたパスポートを受け取るだけだった。さっき出国時にひっかかっていたアメリカ人らしき女性は、またもやひっかかり何か質問を受けているが、添乗員がついていきすぐに質問は終わっていた。

10人目くらいでぼくの名前が呼ばれ、パスポートを受け取る。中を見てスタンプを確認。バスに戻る。バスはすでにハイチ側に移動しており、乗客は歩いてハイチ側に入る。その間、50mほど。

ハイチ側に入ると向かって左手に鶏の唐揚げなどを売っているおばさんが4人ほどいる。ハイチのお金は持っていなかったので、さっき両替すれば買えたのに。1人のおばさんが何やら言ってくるがどうもスペイン語のようではない。フランス語とクレオールをきっちり聞き分けられるほど、フランス語を知らないので、どちらなのかもよくわからない。

バスの入り口にはさっきと別だがほとんど同じくらいの年の男の子がカネをくれと立っている。ドミニカのコインをやってもしょうがないかなと思いつつ、20ドミニカペソのコインを渡す。その子はにこっとして受け取る・・・。

バスに乗り込む。他の客が左の窓からバスの下をのぞき込んでいるので何事かと思い、ぼくも見ると、乗客の荷物がバスの外に持ち出され、その持ち主らしき人と検査官らしき人が何か言い合いをしている。

でかい長方形上の金属で作られたもので、なんかの機械のようだが、何かはよくわからない。しばらくもめて、その機械はバスの荷物置きのところに男が3人がかりで戻される。

結局、バスが国境を離れたのは17時15分。サンとドミンゴを出てすでに6時間たっていた。バスのチケットを買うときにはサンとドミンゴまで7時間と聞いていたので、暗く前につくかと思い行くことを決めたのだが、これでは着いた頃には暗くなっていそう。

右手に湖を見ながらバスは走る。しばらくすると石灰岩の山なのか、真っ白い山を切り崩して土を運んでいる現場を通り過ぎる。ハイチ側に入ったからと言って急に風景が貧しくなるということはない。

ドミニカ側でもトタンを貼り合わせたような家家があったが、それと同じ程度。もしくはブロック塀やコンクリートで作られた同じ形の家が立ち並んでいるところもある。

道路沿いに多くの人が出ていて、派手なトラックバスも走っている。様子を見ているとけっこう安定している感じ。

バスが走る道路は舗装されていて、基本的に問題はない。

前方には山。ポルトープランスは海に面しているところだから、あの山を越えていくのか。太陽の傾き具合を見ると、まだ2時間はもちそう。

国連のキャンプのようなところを右に見ながら通る。左手では濁った水で洗濯などをしている人がいる。それからしばらく行って、登り道に入ったところで左手にHYUNDAIやHONDAといったメーカーの看板が目に入る。共同オフィスなのかそれらしききれいな建物が見える。その隣にはよく整備されているグランドもある。

坂道を上っていくとまちらしき雰囲気になる。建物が密集し、道路脇では野菜などの食料品や石鹸や化粧品などの生活用品などが売られており、電気屋の店舗も見える。見た感じでは一通りの生活用品はそろっている。問題は買えるかどうか、という段階っぽい。

坂を上りきると空が開け、前方が海であることがわかる。ヨーロッパ調の町並みの中に入り、その一画でバスは止まる。どうも終点のよう。時刻は18時40分(ドミニカ時間。ハイチでは17時30分くらい)。まだ明るい。もう30分ほどは持ちそう。

バスを降りると例のごとくタクシー屋が待っている。一人のおじさんは「コンニチハ」と日本語で話しかけてくる。無視して一旦通り過ぎるが、荷物を取り出していたところへまた話しかけてくる。値段を聞くと20USDと言う。ロンリープラネットの地図に載っているバス乗り場に着いたのであれば、乗り合いタクシーを使ってなんとか事前に調べておいた宿までは行けそう。だが、そうでなかったら時間的に厳しいなと思いつつ、とりあえず高いし、それほど危険そうではなかったので、断る。

とりあえず同じバスに乗ってたハイチ人の人に聞く。ロンリープラネットの地図を見せると、どうも載っていないようなことを言う。それでグアグア(乗り合いタクシー?)にそこから乗っていけと、スペイン語で教えてくれる。

ターミナルを出て、とりあえず歩く。だいぶ日が傾いてきた。早く着かないといけないと思い、ちょうどすれ違いそうになったおばさんに聞く。スペイン語で聞いてみるが、通じていない。宿は中心部のChamps de Marsにあるので、その文字を見せると、フランス語らしき言葉でなんとかと言う。ただ”マシーン”だけ聞き取れたので、車に乗らないと遠いことくらいはわかる。

親切にもおばさんはそのマシーンが車で一緒に待ってくれる。だが、2分ほど待ってもこないので、おばさんはまたマシーンに乗るんだよというようなことを言ってぼくが来た道を歩いていく。

するとすぐにマシーンが来た。おばさんはこちらを振り返り、マシーンの方を指さし、これに乗れと言うような仕草をする。

横に手を挙げ、マシーンを止める。キューバのバラコアで乗ったときと同じような乗り合いトラックバス。幌が付いているトラックの荷台に載る。中には乗客が10人ほど。空いていて良かった。

隣のおじさんにChamps de Marsの文字を見せると、「シャンマッ」とわかった様子。まさか「シャンマッ」と発音するとは・・・。おじさんは他の乗客に声をかけ、シャンマッに行く人を見つけてくれた。若い20代くらいの男の人が手を挙げる。で、おじさんは彼と一緒に行けというようなことを身振りも交え言う。

外は暗くなった。車もライトをつける。車内で代金を集められる。ハイチのお金はなかったので用意していた1ドル札を渡すと、ハイチのお金で20ハイシャングード(?)札1枚とコインをもらう。1ドル札をそのままいかれるかと思ったが、トラックの人は正直な人だった。


坂道を下り20分ほどで降りる。歩いたら1時間近くかかりそうな距離だった。

一緒におりたお兄さんの後に着いていく。トラックを降りたところから左に入ると目の前に広い広場が現れる。ここがシャンマッのよう。なぜかお兄さんのテンションがあがってきて、なにやら言う。その様子から、これはカネを要求されるなと感じる。

行きたいホテルの住所も見せていたのに、公園で別れようとする。そして、予想通りカネを要求される。片言英語を聞いているとどうもタクシー代が浮いたんだから、そのぶんをよこせと言っているよう。

1ドル札を見せると首を横に振るので、次に大きかった5ドル札を渡すとさっさと離れていく。まぁ、20ドルにくらべれば安かったからいいかと自分を納得させる。

広場ではコンサートがこれからあるようで、設営されたステージ上では準備が進められている。ステージ横には横3mくらいの巨大スクリーンが立てられ、そのコンサートのタイトルのようなものが映し出されている。

1泊20~30ドルというゲストハウスは、この公園から近いはずなのだが、そのゲストハウスがある通りを歩いてみたものの、すぐには見つかりそうになく(看板が見あたらない)、人に聞いても知っている人がいない。その宿がある方角はわかったものの、周りはすっかり暗くなっていることもあり、また夜の様子を見るのには公園に近い方がいいと思い、公園に面している通りにあるPark Hotelに泊まることにする。

フロントに行き、予約をしていないが泊まれるか聞くと、OK。愛想はよくない。1泊の部屋代は38USDなのだが、それに税金だ、電気代だというのが付いて結局49USDかかる。トラベラーズチェックで払えるかと思っていたら、フロントにはキャッシュオンリーという文字が。2泊するので、その2泊ぶんここで払えと言うので、100USD払い、お釣りをもらう。

ホテルの造りはプールが2つあり、部屋もきれいで広々としていて豪華。部屋にはサンヨーの強力な扇風機とエアコンあり。シャワーはお湯も問題なく出る。トイレも水洗で良好。トイレットペーパー、バスタオル、石鹸つき。

腹が減っていたので、とりあえず公園の方に行く。人がだいぶ集まってきており、数百人はいそう。屋台もジャマイカにあったようなジャークチキン屋やスープを売っている人、スパゲッティ屋、クーラーボックスで飲み物を売っている人、その他歩き回りながら、タバコやお菓子、電話機などを売っている人がいる。

ジャークチキン屋に行って、いくらか聞くと。数字を言われても理解しなかったぼくに100ハイシャンググード札を見せて、これだと教えてくれる。手元には20しかなかったので、とりあえず宿に戻り、両替をする。

5ドルぶん両替すると、ハイチのお金では200程度にしかならなかった。あまりドミニカと物価は変わらない。

それを持ってさっきの屋台に行き、チキン弁当を買う。それからペットボトルの水(500ml)を買う(20)。コンサートはまだ始まりそうになかったので、一旦、宿に戻ってそれらを食う。チキン弁当は、鳥ももの炭火焼きにゆでたキャッサバとバナナ、あとキャベツを千切りにしたサラダが入っている。味付けは塩味で、ちょっと塩気がきついものの、まぁうまい。

食べ終わってからまた公園に戻る。さすがに外国人らしき人は一人も見あたらないので目立つ。大人も子どもたいていの人が、じっとこちらを見つめる。公園には親子連れや友達連れなどで賑わっていて、その中に混ざってストリートチルドレンらしき子も数人見える。

コンサート会場は円形状になっており、中央はなにもない平面の広場で、周囲が階段状になっている。舞台のすぐしたのところにはすでに人だかりができており、階段状になっているところにも多くの人が座って、コンサートの始まりを待っている。

やがてアフリカ系の女性が出てきて、演奏が始まる。ハイチで人気のある女性なのか、そこそこの歓声があがる。ただその人は4曲ほど歌ったら舞台を去ってしまう。どうも前座だったよう。

その間、汚れた服を着た10歳くらいの男の子3人が寄ってくる。ストリートチルドレンのようで、腹が減ってるからカネをくれというような仕草をする。一旦は首を横に振る。するといろいろ話しかけてくるのだが、まったくわからない。3人のうち右側に座った子がどうもリーダーのようで、その子が一番しゃべる。

その子が握手を求めてきたので、握手。それからぼくの髪の毛を触る。ジャマイカの女の子同様、直毛の髪の毛を触ってみたいらしい。ただあんまり長く触るので、途中で手をどかす。

カネをもらうまでどうも離れる気がなさそうなので、コインを数枚と20のお札を渡す。さっき買い物をした感じでは、これだけのカネだけでは3人で何か食べられるものは買えそうにないが。カネを受け取ると3人は歩いて、どっかに行ってしまった。外国人はまずいないから、きっと地元の大人の人からカネをもらいに行ったのだろう。

周りを見渡すと携帯電話で話している人やCDプレイヤーで音楽を聞いている人もいる。あとローラーブレードで走り回っている10代中ばくらいの男の子が2人ほど見える。身なりはメキシコやドミニカと変わらない。

しばらくしてヨーロッパ系の女性が出てくる。この人が看板に出ていた人のようで、こちらが本番らしい。ケベックの方の人なのか、歌詞はフランス語のよう。レゲエのように特に特徴があるというような歌ではない。

座って聞いていると、今度は左隣に座っていた人が話しかけてくる。若い男性の4人グループ。一人は30~40代くらいの人で、他は20代くらい。ぼくの隣に座っていた人が、一番英語を話せるようで、その人ともう一人少し年がいった人がいろいろ聞いてくる。

年がいった人は英語で話しかけているのだが、文法が間違っているか発音が違うかで、何を言っているのかよくわからない。それを若い子が通訳してくれる。

年のいった人は名前をStanleyと言い、若い方はMenleyと言う。2人はいとこ同士でStanleyは、ドミニカからいろんなものを仕入れてハイチで売る仕事をしてり、Manleyは大学生で英語とスペイン語を勉強しており、将来は教師になろうと思っているらしい。

2人に聞かれたのは、ビジネスで来ているのかそれとも観光かということや、ここは怖くないかということ、日本への飛行機の運賃やぼくの給料、日本のどこに住んでいるかということ。それからジャッキーチェンに会ったことはあるかといったことも。

彼等が日本のことで知っていたのは、ヤクザのこと。映画で見たらしく彼等は危険だというようなことを言う。それからぼくが埼玉に住んでいるというと、Menleyの方は埼玉を知っていて、なぜ知っているのか聞いたらワールドカップの会場だったからと言う。そして日本にはいい選手がいると言って、中田ヒデや小野伸二などの名前を挙げる。聞くと彼は大学でサッカーのチームに入っているらしい。

また、彼は言葉を勉強していることもあってか、MotherやI love youなどを日本語でなんと言うのかと聞いてくる。それで紙に日本語とアルファベットで書くと、日本語を見てフランス語とぜんぜん違うと驚き、他の仲間にもぼくが書いた文字を見せたりする。

Stanleyの方は、どうも商売をやりたいような雰囲気で、ぼくにいつ会社の幹部になれるのかといったようなことを聞く。それから、もしぼくがハイチに来て商売をすればビッグマネーをつかめるとも。例としてアラブ人がハイチに来て、なんかの商売でもうけ、大金持ちになったという話をしてくれる。

その話を聞いていて、さっきの男の子らの状況や以前に読んだことのあるハイチの村むらの状況とを合わせると、ここも相当の貧富の差があることが推察できる。

コンサートの方は、そっちのけでそうした話をしているうちに、コンサート自体が終わってしまう。終わるとみなそれぞれ帰っていく。彼等とはメールアドレスを交換し、会場を後にする。歩きながら閑散となった会場を振り返って見ると、さっきの3人の男の子が階段状のところに並んで寝ていた。

22時すぎ、宿に戻り、シャワーを浴び、寝る。夜中、付けていた扇風機が切れていたようで、暑くて目が覚める。どうも停電のよで、スイッチを押しなおしても、コンセントを挿しなおしても扇風機はまわらない。

おわり。

2008.3.20 カンクンからアップ

宿代え、マーケット、野球

2008.3.14(金)

9時頃、銀行にお金をおろしに行く。

11時前、荷物を背負ってチャックアウト。メインストリートを通り、新しい宿に向かう。

途中、ベンチに4人で座って話していた10代半ばくらいの男の子たちの前を通り過ぎようとしたとき、一人の男の子が、”チーノ”とか”ジャッキーチェン”と言って囃すので、わざと睨みつけるような顔をして突然立ち止まり、その子の方をふち返る。すると、その男の子は慌ててベンチを立ってぼくから離れる。自分が人を怒らせるようなことをしているという自覚はあるよう。キューバなどではチーノと言われても、たいてい言うのはおじさんか小さな子ども、たまにおばあさん、おじいさんで商売でもしてない限り若い人が声をかけてくることはなかった。それも、声をかけてきても、たいていの人がただ手を振ったりするだけで、あからさまにバカにするようなことは表面上はなかった(ぼくの経験した範囲では)。が、どうもここは違うらしい。

その男の子らを通り過ぎたら、今度は社会科の見学なのか小学校高学年から中学生くらいの集団とすれ違う。そのとき、”チノ”がどうということを一人のガキが言ったので、振り返って声がした方を見ると、言ったと思われるガキは目をそらして知らぬ存ぜぬという顔をする。こちらも確信犯のよう。

メインストリートには中華料理屋もあるし、中国系らしき若い男の人がネイル屋をやっていたりもするから、チーノはわりと身近であるはずなのだが、バカにする対象になっているよう。

新しい宿にチェックインし、前払いで4泊ぶん1800ペソを払う。

部屋に荷物を起き、ツーリストインフォメーションに行く。サントドミンゴは小さなまちで、きれいに道路も整備されており、治安もいいのでこの時点ですでに退屈してしまった。

ツーリストインフォメーションで田舎に行くバスターミナルを教えてもらう。対応は丁寧で親切。地図も3種類くれ、長距離バスの時刻表のコピーもくれる。英語可。

Caribe Toursというところがハイチよりの西側の地域に行くバスのターミナルになっているらしく、とりあえずそこに行ってみることにする。

地図を見ると途中にメルカドがあるようなので、そこを通ることにする。観光スポットとなっている歴史的な街並みが残っているゾーンから400mほど北のAv. Mellaという通りに出ると、そこは商店街になっており、文具店や安売りの服屋、電化製品店、ホームセンターなどが立ち並んでいる。歩道はせまく、片道1車線の通りをボロボロのワゴンのルートバスが走っていく。

乗用車はみな日本並み(ジャマイカ同様日本車が多い)にきれいなのだが、ことこのワゴンのルートバスとなるとすさまじいほどおんぼろ。さびているのは当然として、フロントガラスが割れてへこんでいるものや車両のドアがないもの(取り外している?)、ライトが壊れていたり、フロントがへこんでいたり。キューバのおんぼろさは、さびて古くなったという感じだが、ここのおんぼろさはあちこちにぶつけまくって壊れかけているようなおんぼろさ。運転はジャマイカ並みに荒い。

やがて『ロンリープラネット』にもあるメルカド(市場)についたのだが、ここもメキシコのカンクンと同じ土産物専門のメルカド。絵と民芸品ばかり。客はヨーロッパ系の観光客が少々。がっくり。

だが、付近に農産物市場を発見。市場と言っても通りに簡易な造りの露天が並んでいるだけだが。規模はとても小さい。たぶん200mくらいしかない。野菜は他と同じくじゃがいも、小さな人参、キャッサバ、キャベツなど。

同じ地帯は倉庫街になっているようで、大型のトラックが道ばたに停まっており、トラックの下の日陰で雇われているらしい人たちが寝そべって休んでいる。

ぼくはその1角で弁当を売っていたおばちゃんから昼飯を買う(80ペソ:約300円)。4種類の鍋があり、それぞれ肉や魚が入っている。ぼくは魚の方を頼む。ご飯に魚、キャベツの千切りのサラダが発泡スチロールの弁当箱に詰められる。

その辺で食べようとしたが、路上が汚く、水たまりもあって蠅がうようよ。倉庫らしきところの入り口のブロックに座って食べていたら、おにいさんが電話帳3冊を持ってきて、この上に座れと日陰のところにその三冊をどさっと置き、どっか行く。ありがたくそこに座ったものの、目の前に水たまりがあり、蠅がぶんぶん飛んでいる。

ので、移動。狭い歩道にはなかなか適当なところが見つからず、かといって公園もなさそうなので、適当に水たまりのないところで食う。

それからまたCaribe Toursを目指す。Av.Mexicoという片側2車線のきれいに舗装された通りに出る。道路沿いには新築らしき5階建てのきれいなマンションが並んでいる。大型の路線バスが通り過ぎていったので、試しに乗ることにする。当たりを見回しバス停を発見。ベンチも日除けもあるきれいなバス停。

そこに行く途中。路上生活者らしいおじさんとすれ違う。ズボンが尻辺りまでずれ落ち、後ろから見るとハンケツ状態。髪の毛も髭も伸び放題で、異臭がするので、だいぶこの生活が長いよう。すれ違うときにこちらを見てパッと手を出されるが、反射的に避けてしまう。

おじさんはスルスルと車道に出ていく。あぶねぇなと思い見ていると、信号で停まった車に近づいて行き、物乞いをしている。相手にする人はいない。道路を渡って反対側のバス停にいたおばさんたちにも物乞いをしているが、何も手に入らない。おじさんは、そのバス停から10mほど離れて歩道に座り込んだ。

バスが来て、乗る。前乗りで乗車すると回転バーがあり、その横にお金を回収する女性が座っていた。その人に適当にコインを渡すをお釣りをくれる。どうも15ペソ(約180円)のよう。回転バーを教えて中に入る。

冷房付きのバスで車内もきれい。Caribe Toursに行く予定だったが、せっかくなのでしばらくバスに乗る。官庁街らしきところをぬけ、Av.Independenciaという片道2車線の大通りに出る。通り沿いにはレストランやコピー屋などが見え、さらに大型ショッピングセンターが右手に見える。その道路を挟んで反対側には野球の練習場があり、外野は混在しつつ、各4角がホームベースとなって4面で練習試合らしきことが行われている。

ぼくはそっちが気になってバスを降りる。ドミニカはアメリカを除いた国では一番メジャーリーガを輩出している国。金の卵がいるかもとグランドに行く。

4面のうち3面は小学生くらいの子たちが試合形式で練習している。みんなユニフォームにグローブ、スパイクを身につけている。これまたキューバと大違い。

1面では体格としては高校生くらい子らが試合をしていた。ぼくが行くとじろじろと見られる。が、チーノはない。

バックネット裏にいた人たちに混じって観戦。180cm近くあるピッチャーは130kmくらいの球を投げており、なかなか速い。話しかけてきたおじさんに彼等の年齢を聞くと13~15歳という。ボールは硬式ボールでバットは黒の木製バットを使っている。ペイントの剥げかけているバットで2本を使い回ししているところを見ると、そんなに道具が豊富なわけではなさそう。

どのくらいの重さなのかわからないが、この年にしてはかなりスイングスピードの速いものもいる。それからぼくが知っている中学野球と比べると肩の強さがまったく違う。こちらは日本でいうと高校野球でも強いチームなみに強い。キャッチャーは特にセカンドまで低い弾道で軽々と投げる。おそるべしドミニカ。

30~40分ほど試合の様子を見て、終わったところでぼくも切り上げる。どうもグランドの利用は時間制になっているようで、ある時間が来ると一斉に利用するチームが入れ替わっていた。

それから道路を挟んで向かいにあるショッピングセンターを見学。ここにもグローブやバットなどが売っていた。電化製品もiPodなどはないが、デジタルオーディオなどはある。

物量は豊富でアメリカのスーパーと変わらない。客も多い。

水とヨーグルト、ハガキを2枚買う。約150ペソ(600円)。ヨーグルトが高かったよう。

またバスに乗って戻る。

いつもホテル前で果物を売っているおじさんからメロン4分の1とパパイヤ4分の1を買う。100ペソ(約400円)札を渡すとお釣りがないというので、100ペソぶんということで小さなパイナップル2分の1を追加で買う。メロンはたいしたことないが、パパイヤとパインは抜群にうまい。

それから道ばたで売っていたキーぺという円錐系のメンチカツみたいなものとパナダという餃子を広く薄っぺらくしたような揚げ物を買って食う(キーぺ1個15ペソ、パナダ1個20ペソ)。

晩飯をどっかで食うつもりだったが、果物と揚げ物で腹が膨れる。

明日はドミニカの田舎の方に行こうと思い、メインストリート沿いのビルの3階にある地図専門店に行き、地図を買う。ドミニカと世界地図を買う(それぞれ200ペソ:約800円)。

店主のおじさんと若い店員がいて、二人とも気さく。店主のおじさんがけっこう話しかけてくるが、スペイン語のみなのでわからずにいると、若い店員が英語に訳してくれる。どこから来たのか、JICAの仕事で来たのか、どれくらいいるのかと聞かれる。

話ついでにハイチのことを聞く。ハイチに行きたいというと、ハイチに行くにはけっこうお金がかかるといわれる。往復で150ドルくらいらしい。また、バスは橋は結局行かなかったCaribe Toursから出ているという。危険なのかと聞くと、首をかしげ、それほど危険というわけではない、というような反応。その反応を見て、明日はハイチに行こうと決める。

宿の近くの日本語が読めるネットカフェでハイチ情報を検索。外務省の安全情報は「渡航の延期をおすすめしまう」。やっぱりそれなりに危ないよう。その他見てみると、最近、行ったという人の話も見つかり、またメキシコかどっかの宿の情報ノートにも2月上旬くらいに行ったという情報があったので、行くことに決定。

あたりはすっかり暗くなっている。今頃になってCaribe Toursに今日、行っておくべきだったと思うも、朝早く行けばなんとかなるかと思い、とりあえず明日行けることを前提に荷物を整理して、寝る。

2008.3.20 カンクンからアップ

サントドミンゴへ

2008.3.13(木)

朝、5時前にドアベルが鳴り、タクシーが来たことがわかる。それからすぐに部屋のドアが開き、宿主が起こしにくる。荷造りをして部屋を出る。

玄関の鍵を開けてもらい、グラシアスと言って宿を出る。監獄のような古びたエレベーターで10階から1階までおり、道路に出るとタクシーの運転手は運転席に座りスタンバイしていた。今度は、TAXIのマークが入った車。運転手は後部座席に荷物を入れるのを手伝ってくれる。今回は運転手一人だけで、髭をはやした50歳くらいの男の人。15CUCということだけ確認し、発車する。あたりはまだ真っ暗。

運転手は音楽をかけ、無言で車を走らせる。5時半には空港に着き、そこで15CUC払う。

空港には早朝のカンクン行きの飛行機に乗る人たちがいて、にぎやか。

チェックインし、エアポートタックスの25CUCを払う。出国審査のところに行き、さてどの人だったらすんなりいけそうかなと思い、左端にいたおばさんところに行く。ジャマイカに行くときは若い男の人を選んだら質問もなく、すんなりいけたのだが、今回の選択ははずれだった。

サントドミンゴに行って、トランジットでまたハバナによってカンクンに行くというチケットを見せるのに、何やら言って通してくれない。スペイン語しか解さない人のようで、ぼくも相手も何をお互いに言っているのかわからない。そもそもこっちは何が問題なのかがわかってないし。

それで、そのおばさんは別の年輩の男性の職員に相談する。するとその人は、ぼくにメキシコから日本に行くチケットを持っているかと聞いてきて、持っていないと言うと、いくらカネを持っているか聞いてくる。それで適当に現金とトラベラーズチェックの金額を言うと、そのおじさんはイミグレの事務室に行ってしまう。事務室に入るときに、こっちを見てノープロブレムと言うが、すでにプロブレムは起きてるじゃないかとつっこみたくなる。

しばらく待たされ、おじさんが出てきて、やっと解放してくれる。

ここの手荷物検査は相変わらずなんの問題もなく、通る。待機中なのかなんなのか男性職員2人は机に伏せて寝ている。

本屋などは開店の準備をすでに終わっていた。本屋で英語の本を買う(15CUC+10USD:CUCがなかったので)。内容はCIAなどアメリカがキューバに仕掛けたいろんなテロ攻撃について。アメリカに亡命したキューバ人が主犯だったりする。

腹が減っていたので、昨日まちで買ったしけたビスケットを食べる。閉じているはずの空港のベンチは、なぜかスズメかなにかの糞で汚れている。

予定通り8時半に搭乗開始。9時過ぎには離陸する。機内は寒く24℃。離陸すると例のように何十年前のものだというような救命用具の使い方の説明がある。

10時半。眼下に島が見え、ドミニカに入ったことがわかる。あとで確認したところ、ハイチ上空は飛ばずにドミニカの北の方から入ったよう。本で読んでいた通り、木が少ない。きれいな畑も見える。

10時50分着陸。入国審査はまったく一言の質問もなく、素通りのような形で通過。すばらしい。荷物をピックアップし、空港の外に出る。他のようにタクシーの客引きがいるかと思いきや、それはない。造りや雰囲気がロサンゼルスに似ている。

空港のインフォメーションで地図をもらう。そしてバスで町中までいけないか聞くが、タクシーしかないと言われる。値段を聞くと30~40ドルと恐るべき値段を言う。

念のためドミニカペソに両替。タクシー乗り場に行くと、おじさんが話しかけて来る。行き先を告げると40ドルと言って、料金表を見せてくれる。それにはホテル名がずらりと書いてあって、すべて40ドルとなっている。

他にタクシーもないので、そのおじさんに20ドルくらいでいけないかというと、25ドルにまでしてくれる。それで手をうち、タクシーに乗る。

タクシーの運転手は陽気な人で、窓の外に広がる海に手を広げながら、ハイテンションでスペイン語で何やら言う。これまでの空港からまちへの移動で言うと、一番景色が良い。

海はコバルトブルーで波もなく静か。車もジャマイカで乗ったほどきれいではないが、まぁまあ良い。道路は片道4車線で道路沿いには牛乳やなんだかんだの商業看板に加え、おっさんが写ったどでかい看板やポスターがこれでもかって言うくらい設置されている。"tu Presidente"などと書かれているので、大統領選のポスターのよう。

3人くらいの候補者の看板やポスターが、気持ち悪いくらい大量に設置されていて、すれ違う車の中には、それぞれの候補者の政党のシンボルカラーの旗を立てているものや、ステッカーをびっしりと貼っているのもある。ドミニカってこういう選挙をするところなのかと感心する。と同時にキューバと比較して、民主主義はこんなものにカネをかけなきゃいけない(政治家にとっては)のだなと思う。

車は30分ほどしてヨーロッパ調の街並みの中心部に着く。予定していたホテルに行くが、1泊40ドルと事前情報よりも高かったため却下。

どうしようかと思っていたら道ばたのおじさんが、安い30ドルのところがあると言ってついてこいと言う。最初はただの親切心で案内してくれているのかと思ったが、やたらとおじさんが話しかけてくるので、これは下心ありだと感じる。

荷物を持ちながらの移動も面倒なので、1泊くらいはいいかとその宿に行くと35ドルと言うので、却下して出ようとするとドミニカペソで1000ペソ(約30ドル)になる。それならいいかと部屋を案内してもらう。

いわゆる1DKの部屋でキッチン、テレビ、シャワー・トイレ付き、寝室にはベッドが2つあり、エアコンは故障しているようだが、天井に備え付けの扇風機は使える。自分にしてみれば、余計なものばかりで無駄に広いのだが、記念に泊まることにする。

一旦1階のフロントに戻り、用紙に記入し、鍵をもらって2階にあがる。荷ほどきをして、飛行機用に長袖を着ていたのを着替える。さて、あのおじさんをどうまこうかと考えるが、おじさんの方から部屋のドアを叩いて”アミーゴ”などと言ってくる。無視してしばらく部屋におり、その後、下に降りるとやはりおじさんはいた。

鍵は持ったまままちに出る。おじさんがついてきて、両替に行くのかとかあれこれ聞いてくるのを無視していると、親切にしてやったんだからカネをくれないかと言い出す。そういうのは親切心とは違うと思うのですが・・・と思いつつ、うっとうしいのでいくらか聞くと5USDと言う。ドルをやるのはもったいないので、ペソで聞くと150ドミニカペソと言う。多少いらつきながら、ハイよ、とカネを渡すとまっすぐ行けばどこに行くとか教えてくれるが、そんなの地図を見ればわかること。さっさと別れる。後で思えば、カネをやるぶん、もっとおじさんに案内してもらうなり身の上話を聞くなリすれば元が取れたような気もするが・・・。

この宿から中心のコロン広場までは歩いて5分もかからない。広場にはヨーロッパ系の観光客が目立つ。スペイン語を話しているので、スペイン人のよう。10歳くらいの少年5人くらいが、靴磨きの道具を持って観光客や道行く大人に、靴を磨かないか聞いている。子どもが単独でこうして働いている姿を見たのは久々。メキシコのサンクリストバルの少女たち以来か。

公園で売っていた移動式屋台のアイスを買う。20ドミニカペソ(約80円)。やっぱり物価は高い。

コロン広場から西にEl Condeというメインストリートが伸びており、そこは歩行者天国になっている。両脇に土産物屋やスーパーや、服屋、スポーツ用品店、ネイルアートの店やアイスクリーム屋、ケンタッキーやピザーラ、ゲームセンター、ネットカフェなど、いわゆる先進国と変わらない。

歩いている人は、少なく観光客と地元の人が半々。地元の人はムラートと呼ばれるアフリカ系とヨーロッパ系の人が多く、ジャマイカのキングストンよりもアフリカ度は低い。キューバと感じが似ているが、キューバよりもアフリカ度は高い。メジャーリーガーで言うと、アレックスロドリゲスなどの系統。

キングストンでは、女性のほとんどの人が縮毛を生かした多様な髪型をしていたが、ここはストレートヘアの人が多い。

道が交差しているところには、リヤカーなどに積んで椰子の実やマンゴー、パパイヤ、バナナを売っている人たちがいる。試しにバナナを一本買ってみると、1本で15ペソ(約50円)。ジャマイカと同じくらい。キューバと比較すると1本当たりで言えば、10倍以上高い。それから切って4当分になっていたパパイヤを買う。こちらは30ペソ(約110円)。

スポーツ用品店をのぞくと、野球の道具がグローブからバット、ユニフォームまで一式あったので、店内に入って見る。野球の道具の他、バスケットボールやサッカーボール・シューズ、フィットネスマシンなどもある。グローブの質は、日本のものと比べるとかなり安っぽいが、バットは変わりない。日本で数千円するものばかり。

記念にボールを買おうと思い、4種類ほどあった公式ボールを見比べる。officialとマークの入った公式ボールは150ペソ(約500円)ほどで、"MADE IN CHINA"の文字がデカデカと書いてある。これはちょっと興ざめなので、中古品のボールが85ペソ(約300円)だったので、こちらを購入。ボールには”Team Ball” "Official PROFESSIONAL LEAGUE"と文字が入っているので、たぶん試合か練習で使われたボールのよう。擦れていてはっきりとはわからないが、"ODSHIONEDOORK CENTER HAITI"の文字もある。

まちを歩きながら明日からの宿を探す。そのメインストリートに小さな看板が出ていたホテルで聞いてみると50USドルなのでダメ。メインストリートが終わった正面にはParque Independencia(パルケ インディペンデンシア)という円形の広場とその中に博物館みたいなのがあり、その広場の周りを囲んでいる壁には絵入りのパネルが360度貼られている。文字はスペイン語なので、よくわからないが、その絵からドミニカが独立するまでの過程を説明しているもののよう。

Independenciaと聞いて、メキシコかどっかの宿で、安宿があると書いていた情報を思い出し、探してみるとHotel Independenciaという路上に出ている看板を見つける。

フロントはおじいさんで、4泊泊まるというと1800ドミニカペソ(約7000円)という。部屋を見せてもらうとベッドが二つあり、シャワー・トイレ付きの部屋を見せてもらう。扇風機もある。今晩泊まるホテルに比べれば施設は使えないことはないが、ぼろぼろ。1泊20ドルを切っているが、メキシコの10ドルくらいの宿などと比べると、施設からすると3ドル程度。

他に宿を探すのも面倒なので、予約だけしてまたまちをうろつく。

海岸線沿いに出ると、どでかいコロンブスの像が見える。近くまで行くと、その像の下狭いスペースで20歳くらいの男3人がキャッチボールをしていた。公式ボールにグローブ。キューバではさんざん街角で野球をしているのを見たが、まもとなグローブできれいな硬式ボールを使ってやっているのはほとんど見なかった。キャッチボールの様子を見るだけでも、経済的にどれだけ豊かがわかる。

その東どなりには船体にPANAMAと書かれたでかい客船が停まっていた。乗るつもりはなかったが、船着き場の入り口の警備員にいくらか聞くと、相手は乗るものだと思って、往復200ドルくらいでパスポートが必要などとスペイン語で言う。パナマ行きかを訪ねるとプエルトリコ行きらしい。今日の20時に船は出るという。

話だけ聞いて、その船着き場の横の道路を歩いていると、こちらに船乗り場があった。3mくらいある鉄壁の向こうにフェリー乗り場と書かれた建物があり、入り口には人がごった返している。

中心街に戻ろうと、陸橋で道路の反対側に渡る。すると降りたところでおじさんに何時かと聞かれる。いかにもという怪しげなおじさん。体に合っていない服に、何年履いているのだろうかと思うような汚れた革靴。

時計を見せるとチノかコリアンかと聞いてくる。ハポネスと言うと、親しげに話しかけてくる。メレンゲ(ドミニカの音楽)がどうとかと言って、テンションが高いのが怪しい。どこに行くのかと言うのでホテルだと言うと、自分にコーラをおごらないかといったようなことを言い出す。ほらきた!と思い、さっきのおじさんのこともあり、いらついてきたので、少しイジメることにする。

まずは”Porque(ポルケ)?"とぼくがおじさんにおごる理由を聞く。するとおじさんは一瞬戸惑い、口ごもってから”友達だから(・・amigo・・)"みたいなことを言う。この間、話しかけてきてから3分ほど。ふ~ん、て感じでおじさんを見るとさっきまでのテンションの高さは消える。

ま、付き合ってみるかと、行こうという仕草をすると、あっちの方だと案内される。着いたのは街角の立ち飲み屋みたいな店。おじさんはさっそくカウンターにいたおじさんに注文する。何を注文するかと思いきやいきなり酒。ラムのようだった。値段を聞くと80ペソ(約300円)と言う。コーラだったらかわいいもんだから買ってやろうかと思ったが、結局、酒が飲みたいだけかと思い、高いと言っておじさんを置いて店を出る。

するとおじさんは早足でついてくる。コーラじゃなかったのかと言うと、わかったというような感じで、別の店に連れて行かれる。そこは酒を含めた各種飲み物とお菓子などを売っている店。だんだんカネを出す気がなくなってきたので、おじさんが店に入って店主に話しかけているのを見て、気づかれないように黙って外に出る。まったく性格が悪い。

するとおじさんはあわてた顔して走ってついてきて、50ペソでどうだと言う。しかも現金で。首を横に振り、30ペソまでならいいとおじさんに言うと、うなづいて別の店に案内される。こっちもさっきと同じような店。

おじさんはぼくにコーラなどをすすめてくるが、ぼくはいらないと言って、おじさんが選ぶのを待つ。おじさんは冷蔵庫から500mlの紙パックのジュースを手に持ったり、冷蔵庫に戻したりを2度ほど繰り返す。どれを買うか迷っているというよりも、これを買っても意味がないから、またぼくと交渉するかどうしようかと迷っている様子。その姿を見ていて、だんだんちょっとやりすぎた気がしてくる。

おじさんは結局、冷蔵庫から商品は持ってこないで40ペソを現金でくれと言い出す。さっさとおじさんを無視して別れる選択肢もあったのに、ここまで引っ張ってきて、何も得る物がなかったとなるとおじさんに悪いから、40ペソをコインで渡す。

何も買わずに店を出るのも悪いので、ちょうど必要だった水(500mlペットボトル)を買って(20ペソ?)その店をでる。

コロン広場を通って、宿に戻る。ドミニカにはメレンゲという音楽があるからハバナのように観光客が多い店では演奏でもしてるかと思ったが、音楽はどこからも聞こえてこない。

ドミニカのカネがなくなったので、両替しようとさっきのメインストリートに行ったが、両替屋は17時くらいで閉まるようで開いていない。しょうがないので、歩いて宿に戻る。

途中、立ち止まったときに後ろから肩を軽く叩かれる。振り返ると路上生活をしているらしきおにいさん。見た目はまだ20代っぽかった。にこっとして手のひらを上にして右手を差し出してくるので、ポケットにたまっていたコインをジャラジャラっと適当に渡す。にいさんはグラシアスと言って、メインストリートと交差している横道をコインを数えながら歩いて行った。

靴磨きをしていた少年たちは、もう客がつかないと判断したのか、それとも店じまいの時間なのか、道具を抱え3人くらい一緒になってメインストリートを郊外の方に向けて歩いている。

すっかり暗くなる。宿の入り口近くで6歳くらいの女の子を連れた女性が弁当を売っていたので、それを買う。ゆでたバナナにキャッサバ、豚肉、キャベツのサラダで50ペソ(約200円)。

宿でテレビのチャンネルを回しながら食べる。ケーブルテレビなので、CNNからBBC,Nationa Geographic,Discover、映画チャンネルなど30チャンネル以上ある。ドミニカの番組を見ようと思ったが、ニュースをやっているチャンネルが4つか5つほどあったが、キャスターがしゃべるか、討論するかというような内容で、映像があまりない。わからないので、BBCを流しっぱなしにする。中国の出稼ぎのことやインドの信仰についてのドキュメンタリーをやっていた。

ドミニカ(サントドミンゴ)の第1印象は、はっきり言ってこれまでのどのまちよりもインパクトがないということ。ヨーロッパ調の小さな街並みには、なんだかもう飽きてきたし、店で売ってる物はありきたりのものだし、道路はきれいだし、歩いている人は少ないし、アイスは日本並みにおいしいし、まぁ、過ごしやすいところではあろうが、とにかくインパクトがない。

自分のこれまでの日常とは違うものが見たいという、ある種傲慢な欲を原動力に動いている現状から言えば、そんなふうにサントドミンゴは感じたのであります。

おわり

2008.3.20 カンクンからアップ

2008年3月20日木曜日

カンクン到着

現在、3月19日夕方6時44分、メキシコのカンクンです。

無事、大陸に戻ってきました。
メキシコはやはり大国です。ここがリゾート地ということもありますが、経済的な環境は日本とほとんど変わりませんね。

ここに2泊した後、陸路でベリーズに向かいます。その後、また海路と陸路でグアテマラを目指します。

この間の出来事は明日にでもまとめてアップする予定です。

では。

2008年3月18日火曜日

サントドミンゴ到着

現在、3/17 20:30 ドミニカのサントドミンゴです。
無事、ハイチから戻りました。

明日は午前中に空港に行き、午後の便でハバナに行き、20時間のトランジットで
明後日メキシコのカンクンに戻ります。

1か月のカリブ海の旅も終わりです。

では。

2008年3月17日月曜日

ハイチ

今、ハイチはPort au Princeにいます。
昨日のよるに国際バスできました。

ハイチはこれまでの中で一番貧しい国と言われているところですが、
そのとおりでなかなか水道などがせいびされてなくて、
まちのなかでも水道があるところにみんな水くみに来てるのをみます。

治安もずっとわるいといわれていたけど、そこまで悪い感じはしません。
今日、午前中4時間ほど歩きましたが、特に問題はありませんでした。

ただ武装した国連軍がパトロールしているからやっぱり悪いんでしょうが。

明日の朝のバスでさんとどみんごに戻ります。
では。

2008.3.16.12;39 from Port au Prince,Haiti

2008年3月15日土曜日

サントドミンゴ到着

昨日(3/13)サントドミンゴに着きました。
ここもタクシー代の高さには閉口。しかも代替手段がないというのが、最悪。

物価も高い。野球シーズンも終わっているし。

第1印象は、これまでのまちで一番なにも感じないというあまり来た甲斐を感じないまち。

ここに5泊の予定でしたが、うまくいけば明日からでもハイチに行こうかと思っています。
では。

2008.3.14.19:36 de Santo Domingo

「キューバにおける日本のプレゼンス 日本・キューバ交流開始100周年」より

在キューバ日本大使館でもらったパンフレット「キューバにおける日本のプレゼンス 日本・キューバ交流開始100周年」より

「1868年以降、日本国内の事情により、多くの日本人が国内で仕事を見つけることができず、よりよい暮らしと一攫千金を求めて移民の道を選んだ。彼らは、様々な理由、主に経済的竜から、故郷に錦を飾る事を夢見る出稼ぎ労働者として自国を離れていったのである。

出稼ぎ労働者たちの際しょん定住地は、ハワイや他のアジア諸国、アメリカ合衆国、カナダ等であったが、そのような定住地において成功の見込みがなかった日本人は、帰国する資金さえままならぬ状況であったために周辺諸国に移り住む他に方法がなかった。
主にアメリカ合衆国のタンパ、キーウェスト、ワシントンDC、メキシコのベラクルス及び米州地域の他の国々からキューバへ到着した人々が日本人として初めてキューバに移り住んだ人々である。

1914年、藤代という日本人移民がキューバへ着いたがその時すでにキューバには60名程度の日本人がいた。数ヶ月後彼は67名の日本人を連れてきたが、一団はサンタ・クララ、トリニダなど中部に定住した。その地で彼らは、既に入植の始まっていたシエンフエゴス県のカンポ・デ・カルメリナとして知られる場所での経験を生かし入植を続けた。なおカンポ・デ・カルメリナには翌年、最初の日本生産者組合が設立されることになる。

20年代は日本人移民がキューバへ大挙して押し寄せてきた時期であり、国内各地の移民グループの間では、国内の協力を推進するため新しい組織を構成することと、彼らの活動の財源を獲得するために、政府に対し公的地位を得る必要性が高まった。

こうして1927年には加藤英二氏が代表する”キューバ日本教会”、1933年には吉沢正氏が代表する”松島農業組合”が結成され、その他、松島の小林トメハチ氏が代表する組合やハバナ市内レイリー通りにある大平氏が代表する組合など、政府非公認の組織も結成された。

キューバへの日本人移民は大まかに幾つかの時期に分類されることができる。第1期は移民を開始した19世紀末から1914年、第2期は1915年から1923年、第3期は1924年から1926年。特にこの第3期は日本船籍の船が計382名の日本人を乗せてキューバに到着するなど、移民数から見て非常に重要な時期であった。この時期にやってきた日本人の90%が男性であったが、多くは金を稼いだ後に日本に戻るか、日本から連れてきた女性と結婚したため、ごく少数の者しかキューバ人と結婚しなかった。

1943年から1946年が第4期で、第二次世界大戦で18歳以上の日本人がほとんど松島の刑務所に収容された。最終期は1948年から現在に至る。

キューバへの移民の場合、日本人は特定の場所にとどまることなく、当時の6県46カ所と松島等、島全体に広がって定住し、農業、鉱業、砂糖業、漁業、園芸業、機械工、電気工や様々なサービス業に就いた。

キューバにやってきた日本人移民の数はそれほど多くなかったものの、彼らは非常に規律正しく、献身的で勤勉な美徳を有しており、また日本各地の独自の伝統と習慣等をもたらしたのみならず、彼等の子孫にまでそれらが受け継がれたため、質という面では大いなる足跡を残した。

移民としてキューバに渡った日本人の数は、2000年までに約170名にのぼるが、そのほとんどが第二次世界大戦前に渡ってきた者である。戦時中には
345名の男性と68名の女性が残留したが、この時以来20世紀末までキューバにやってきた日本人は20名にも満たない数であった。

1898年から1943年にかけてキューバに到着した日本人移民の中には、原田モサク、竹内賢治、大家サムロ、内藤ゴロウ、加藤英二等名声ある者がいたが、2000年に生存している者はわずか10名(女性6名、男性4名)に過ぎなかった。

紛れもなく、日本人移民及びキューバ生まれのその子孫達は、過去及び現在において、他国からの移民と同様、キューバの国民性とアイデンティティを豊かにしている。」

ハバナでひきこもり+キューバ最終日

2008.3.11(火)ー12(水)

11日は激しい腹痛にさいなまれ一日ひきこもり。この旅で1日宿にいたのはメキシコのグアダラハラ以来1ヶ月ぶりくらいだが、そのときも腹痛だった。ただ、そのときはたいしてひどくなく、本を読んだりする気力もあったが、この日はひどくずっと寝てる。たまにラスタに関する本を読んだりもするが。ベッドから見える空は、天気がいいこともあってなかなかよろし。

寝ていたら宿主の人が自家製のポカリスウェットのような飲み物(水に塩と何かを入れているよう。味は甘くないポカリスウェット)を作ってくれて、飲む。

昼と夜は、バナナとキャッサバを摺りおろしてお湯で溶かしたどろどろの食事を作ってくれる。味は里芋と小豆を混ぜたような味。キューバ式の病時食(?)を経験できるとは。ありがたや。

翌日(3/12)、全快とはいかないまでもほぼ回復。ただ、日中はほとんど、たまっていたジャマイカでの日記などを整理。夜は同部屋の学生3人とハバナビエハのレストランに飲みに行く。ビールのみ少し飲むが、日本のビールよりも炭酸がきつくなくてよろしい。

彼等とはこの日以外にもキューバの印象について話したり
したが、その際出てきたのは、ぼくの印象も含めて書くと、次のようなこと。

・給料が安く(平均15CUC)生活が大変(物があっても買えない)。
・物がない(絶対的に足りないものもありそう)。
・共産主義の理想を実践しようとしているのは政府関係者のみではないか。
・CASAをやっている人はけっこうな金持ちだから、それ以外のキューバ人がどのような生活をしているかがよくわからない(見えない)。
・本(吉田太郎著)には、キューバの医療についてきれいに書いてあるが、ちょっときれいすぎるのでは。

この日はキューバ最終日だったが、とりあえず今回の旅(通算16日間)は十分という感じ。

おわり。

2008.3.14(金)
サント・ドミンゴよりアップ

ハバナの高級住宅街、宿でのごちゃごちゃ

080310(月)

昨日はハバナはずいぶん寒かったが、今日はだいぶ天気がいい。

午前中は日本大使館に訪ねごとをするために行く。P1のバスに乗って大使館のあるMiramarという地区に行く。この地区は高級住宅街だそうで、たしかに豪華な一軒家やマンションが目に付く。ホテルがまた豪華で、ハバナにこんなホテルがあったのかと驚く。

メキシコシティと違って、日本大使館が入っているビルには日の丸がぶらさげられており、これでここにあるのだということがわかる。ビルに向かっているときにパスポートをもってこなかったことに気づく。メキシコシティではビルの1階の入り口でIDを求められたので、それと同じだと入れないなと思いながら、とりあえず行く。

ビルに入ると普通のビルのように受付はあったが、検問はない。素通りできそうだったが、受付の人がこっちを見ていたので、念のため日本大使館に行きたいと伝えると”five"と5階にあることを教えてくれる。

エレベーターに乗り、5階へ。エレベーターを降りるとさすがに警備員がいる。けっこう年がいってそうな年輩のおじさんで、一応銃は持っているが弱そう。「こんにちは」と日本語で話しかけてきて、誰に会いたいかと聞いてくる。誰にと言われても誰でもいいので、ツーリストカードについて聞きに来たと日本語で伝えるが、どうもわかっていないよう。

片言スペイン語まじりで伝えるが、やっぱり伝わってなさそう。ここで、やっぱりパスポートの提示を求められたが、持っていないというと、大使館の閉まっているドアの横にあるドアフォン(?)で大使館の職員にスペイン語でそれも含め来客を告げている。

すぐに職員が出てきて用件を聞かれる。用件を伝えると中に入れてくれる。

重たいドアを入るとロビーになっていて、机の上には日本の主要4紙の新聞が積まれている。本棚には日本語の雑誌もある。雑誌は数年前のものばかりで古い。

ツーリストカードについて聞く。ドミニカからカンクンに戻るときにハバナでトランジットで24時間ほど空港内で待とうと思ってるのだが、ツーリストカードはそうした滞在でも必要なのかが知りたかった。事前の情報では24時間以内の滞在ならツーリストカードはいらないというような話もあったが、定かでなかったため。

キューバの入国審査はこれまで2回ともひっかかっているし(最終的に問題はなかったが)、ツーリストカード代も25CUC(約3000円)するし、さらにいったん入国したら今度は出国税としてプラス25CUCがかかるので、できればドミニカからの帰りはキューバには入国せずに済ませたいのだ。

職員は一旦事務室に行き、別の職員に確認してくる。それによるとツーリストカードは入国時に必要なものなので、入国しなければ(入国審査を通らないなら)必要ないとのことだった。

ただ、これまではカンクンでもキングストンでも空港でのチェックイン時にツーリストカードの提示を求められたので、その点について聞くと、説明すれば大丈夫だろうが、厳しいところではその場で買わされるかもしれないとのことだった。

対応は丁寧で、一通り知りたいことを教えてもらう。それでありがとうござましたと伝えると、”新聞などもあるので良かったら読んでいってください”と言われる。

その親切な対応にのっかって、ロビーの壁に貼られていたパンフレットの残部があればもらえないか訪ねる。職員はたぶん大丈夫と事務室に戻り、そのパンフを取ってきてくれ、ありがたくいただいて帰る。

パンフレットは「キューバにおける日本のプレゼンス 日本・キューバ交流開始100周年」というタイトルで、キューバへの日本人移民のことなどを紹介している。

しばらく高級住宅街を徘徊。小さなショッピングモールにはベネトンやアルマーニの店もあるが、ほかと同様店内は暗い。

バスに乗ってホテルハバナリブレの近くにあるクバーナ航空に行く。20分ほど待ってリコンファーム完了。対応は相変わらずそっけない。

それから革命広場にある内務省の壁に描かれている(正確には電飾されているものなので描かれてはいないが)下バラを見に行く。

革命広場に行く道すがら病院の前の路上で古本を売っているおじさんがいた。日本にいる間にみたカストロへのインタビュー番組の本があったので、しばし迷うがその値段にまけ買う。値段は40ペソ(約200円)。スペイン語だからたぶん読むことはなさそうだが、記念に購入。

革命広場には、観光バスが5台ほど停まっており、ヨーロッパ系の観光客がわさわさ歩き、ゲバラの前で写真を撮っている。

さっきの本を買ったことでペソがなくなったので、アストロのバスターミナルに行く。そこで3CUCをペソに両替。今日もレートは1CUC=24ペソだった。

ターミナルはこの間、来たときと同様バスを待っている人がいっぱい。ターミナルの中にある本屋にさっき買った本がいくらで売っているか見に行くが店内にはなし。

歩いて宿に戻る。途中、のどが乾いたので道ばたの店で2ペソのタマリンドのコップジュース1杯、バディード(シェイク)1杯、1ペソのサトウキビコップジュースを飲みながら帰る。キングストンではありえない安さ。経済面だけで言えばジャマイカよりもキューバの方が圧倒的に”発展途上”だなと感じる。

歩いていたらたまたますれ違った日本人に話しかけられる。大きな荷物を持っており、聞くとサンティアゴ・デ・キューバなどに行って戻ってきたところらしい。安い宿を探しているようで、それを知っていれば教えてくれないかという。

ぼくが泊まっている宿は、宿主と仲介者間の取り決めで、メールでの予約なしの人間は泊められないが、宿の近くのCASAマークが出ているところを案内することはできると言うと、それでもいいというので、バスに乗ってカピトリオまで行き、宿の近くのCASAマークがあるところを案内する。

泊まっているすぐ近くのCASAマークを出している建物の人に一泊いくらか聞くと食事なしで25cuc(約3000円)と言う。その人は予算の上限が20CUCだそうで、そこまで値下げできないか聞く。話していた女の人はちょっと待ってと電話する。

電話が終わったので、また安くできないか聞くが、スペイン語なのでなんと行っているのかわからない。ただ、仕草から泊まる部屋はマークを出している建物ではなく、ぼくが泊まっている宿(10階)が入っているビルの9階だというようなことがわかる。

そして、そこのおばさんがここに迎えに来るという。しばらくしてやってきたおばさん(というよりもおばあさんに近い)は、エレベーターで見たことのあるおばさん。”Vamos(バーモ)"
というので、着いていくがなんか嫌な予感。

入り口で宿主のおばさんとすれ違う。ああ、こりゃまずいなと思うが、どうしようもない。

9階の部屋に案内され、その日本人の人はもう一度価格交渉をするが、20cucから下には下がらない。とりあえずそれで数泊することにするが、もっと安い方がいいというので、もしもの可能性を考えてぼくが泊まっている宿にも連れていく。

ちょうど宿を仲介している日本人女性(見た目40代後半:以下、仲介者)が宿にいたので、泊まることはできるか聞くが、やはりメールでの予約なしでは泊まれないと言う。

普通の宿なら部屋が空いている限り大丈夫だから、なぜだめなのか聞くと、その仲介者が言うに、以前は予約なしで受け入れていたときもあったが、家族の方が事前連絡もなしに次から次に来る客にストレスを感じて嫌になったからだという。それで客をコントロールするためにメールでの事前予約のみにしたらしい。

仲介者はひととおり説明した後、彼にどこに泊まっているか聞く。9階だと言うと、う~ん、それはそれでけっこうまずいかも、と仲介者は言う。

なぜか聞くと、ここの宿主と9階のおばさんは以前、客を巡って大喧嘩したらしい。具体的には、当時10階は1泊15CUC(食事つき)でやっており、9階は1部屋20CUC(食事なし)でやっていた。最初に日本人の客がついたのは10階の方だが、9階のおばさんはエレベーターで乗り合わせた日本人に自分の宿の名刺を渡したりして宣伝したら、2人連れの旅行者を中心に9階に客が流れたらしい。キューバでの5CUCはでかいので、無理もない。

それに怒った10階の宿主は、仲介者にメキシコの宿にある情報ノート(旅人が各地の旅行情報を書き込んでいるノート)に書かれている9階の宿の宣伝記事や名刺を消してきてくれと頼んだりし、また仲介者も実際にそれをして、もう9階には日本人が行かないと安心していたところだったらしい。

そこへ意図せざる結果とは言え、結果的にぼくが9階に客を紹介した形になったため、その仲介者は”まずい”と思ったよう。

仲介者は宿主に相談してくると言って宿主のところへ。面倒なことになったと2人で話ながら、仲介者を待つ。最終的には10階の宿主と9階の宿主が話をして、その日本人も2泊目以降は10階の宿泊者と同じく食事つきで15CUCに。この結果もよくわからない。

ぼくが最初にハバナに来たときはスウェーデン人の家族が10階と9階に別れて泊まっていたので、大喧嘩以降、10階と9階の間でなんらかの約束ごとができているのだろう。

その後は、宿にいる。ハバナは通算1週間ほどだが、さすがに飽きてきた。スペイン語がわかればもっと違うだろうが、歩ける範囲は歩き、だいたいの雰囲気はわかった気になってしまった。それからキューバでの予算はほぼ消化してしまったので、博物館などに行くのもちとつらい状態。

明日明後日と西のタバコ生産地などに行くつもりだったが、バス代が厳しいこともあり、ドミニカに行くまでハバナにいることにする。

おわり

2008.3.14(金)
サント•ドミンゴよりアップ

2008年3月13日木曜日

『ボーン・フィ・デッド』より

読んだ本からの抜粋

原題
"Born Fi' Dead: A Journey Through the Jamaican Posse Underworld" by Laurie Gunst,1995
日本語版
『ボーン•フィ•デッド ジャマイカの裏社会を旅して』森本幸代訳、2006

ボブ・マーリーとも付き合いのあった良心的?ギャングだったトレバー・フィリップス(1997年に殺害される)の言葉
280-281
「丁度中学出たてだったからかな、ムショで最初に読んだのはバートランド・ラッセルだった。それからH・G・ウェルズの『アウトライン・オブ・ヒストリー』。人にもらってネルソン・マンデラの『ノー・イージー・ロード・トゥ・フリーダム』も読んだんだけど、この本は俺の人生にすごく影響を与えたね。マンデラは南アフリカでどんな風にイギリス人がインド人と黒人を戦わせてたかを書いてあってね、ジャマイカと一緒だなって思ったよ。

俺も親父がインド人だったからよくいじめられたもんさ。ラスタなんか俺のこと『インド人』って呼んでてさ、『ようインド人、俺らがみんなアフリカに帰ったらお前はどこに行くんだ? お前は黒人じゃないし、白人でもない。お前の体は二つに裂かれちゃうぜ』って言うんだ。

俺自身そんな経験があったから、マンデラの本読んで植民地支配のもたらすもんはどこでも一緒なんだって分かったんだ。問題も、疑問もひとつにまとまったってゆーかね。それからはまたバカみたいに本読んだ。エルドリッジ・クリーバー言うところの、『自分を救うための読書』さ」


333
同じくトレバーの話。キューバとの関係について

「キューバとのブリガディスタ交換プログラム。それに参加したラスタが、キューバ人ホストに無理矢理豚肉を強要されてベジタリアン暴動を起こした話。(ラスタは肉を口にしない) 彼等は人生四分の1を暴動に捧げたという。

それから1977年にフィデル・カストロがジャマイカを公式訪問をした際、ラスタと握手をするのを避けていたとか、ジャマイカがキューバと親交を深めるとアメリカがヒステリーを起こしたなど・・・」

「「ほら、あんたも知ってると思うけどさ、あれだけ大々的に宣伝しといて、結局カストロはジャマイカ人が嫌いだったんだぜ。ラスタが原因だったかは知らないけどさ、キューバ人にとっちゃ俺らはトラブルメーカー以外の何者でもなかったんだよ。俺らは革命に使えないってね。カストロは俺らに手を貸す気なんかはじめからなかったんだ」

トレバーの話では、PNP党員はキューバから銃を支援してもらえるとずっと信じていたそうだ。しかしそれも結局ただの夢に終わる。1980年の選挙前、シアガがCIAの助けを借りて武装している時も、PNP党員はキューバに銃の手配を要請していたが、あっけなく期待は破られる。カストロはジャマイカを次なるアンゴラにする気などなかった。」

338
トレバーから著者への手紙から
「ーーもしあんたが俺と同じくらいジャマイカの流れをみつめてきたなら。暴力で命を落とした人間を知っているなら。政治抗争していたギャングがアメリカのドラッグポシーに変化する課程で、俺と同じくらいあんたが死んだ人間を見てきたなら。原因は社会が人種差別を乗り越えられなかったことにあるってわかってるなら。特に若いやつらなんか今の事態を予測できたはずだ。

ポシーのほとんどが黒人やスペイン系、ジャマイカ生まれか、そうでなければ行き場のない白人達だ。スーパーキャットが「若い奴らのことを思うと泣けてくる」って歌う気持ちも分かるだろ。

ドンが死んだりムショに入れられたら、若いヤツ、野望をもってる奴、食うために必死な奴は次のドンを狙ってる。もちろんそのリスクはやつらも承知の上。バンドの演奏を続けさせるための、バンドリーダーになるわけだ。

恵まれた人間は暴力を避けて暮らせるけど、俺らは毎日暴力と共に生きなきゃなんない。

俺が確認したいのは、ほんとにあんたが俺らのことを理解しているかということ。あんたが毎日死んだ人間の数を数えながら床に就いたり、目を覚ましたりするようになって初めて俺らの現実を理解するようになるだるお。あんたの友達や家族が殺されて、やっと俺らのことがわかるだろう。

ジャングルやティボリ、クラックハウスさえ知らなければ、その外で生きられたなら、大学に行って学位を取り、殺されずにすんだ奴らもいるんだ。--」

339
「--これだけは覚えておいて欲しい。あんたがどれだけ俺らに同情しても、俺らのことを「調査」しても、この残酷な世界に捕らわれた悲しみは、俺らにしかわからない。この苦しみは、俺らにしかわからない。--」



2008.3.12(水)ハバナよりアップ

パトワ語入門

2008.3.12(水)

ジャマイカは一般に英語が公用語と、日常会話はパトワ語と呼ばれる英語が変形した言葉をしゃべる。

ジャマイカに行ってまず覚えるパトワ語は”Ya-man"と"No-man"だろう。ヤーマンは、yesの意味でも使うし、呼びかけにも使うし、そうだそうだと言うような時にも使う。

それから私を意味する主語が他の英語と違う。ジャマイカでは"I"は使わず”mi"を使う。mi a go a townといった具合に(a は to の意味。to はあまり使われない)。

それからイギリス英語やアメリカ英語と違うのが、いわゆるthの発音。数字のthreeはトゥリーと発音するし、theなど日本語でザと書くような音はダと発音される。

それからぼくが通じなかったのがウォーター(water)で、これはペットボトルにもWATAと書いてあるがウァタ(ワタに限りなく近い。アクセントはWA)と発音する。

それからcome。旅行中にこの単語はけっこう使うが、ジャマイカでは”コム”と発音する。2番目の宿の子が”mi soon come(ミ スーン コム)と言ったように。また、何かを訪ねたときに案内されるときに”コム”と言われる。

以上はジャマイカ人としゃべっていて気づくことだが、他はほとんど聞き取れないので、何がどう違うかよくわからない。

たとえば辞書を見てみるとaskはパトワ語でaksだったりと、単語内の文字というか発音の順番が入れ替わっている言葉も多々あるよう。

ぼくがジャマイカの宿で買った『ボーン・フィ・デッド』というのもパトワ語で書けば"Born fi' Dead"となるそうで、”fi'" は"for"が変形したものらしい。

ジャマイカにも英語の語学研修を受けることができる学校があるが、イギリス英語やアメリカ英語を安く学ぼうと思っていくと、失敗するだろう。

テレビや新聞などでは、いわゆる英語が使われているものの、一般のジャマイカ人と普通に話そうと思うと、相手には自分の英語は伝わっても、相手のパトワ語は聞き取れない。もっとも観光客とわかれば、ジャマイカ人の方が、こちらにわかる英語を話してくれるが、ぼくがブルーマウンテンの村に行ったときに話しかけてきておばあちゃんなどは、パトワ語そのままのようで、まったく聞き取れなかった。

もっともパトワ語に限らず、英語圏と一口にいっても、アメリカ英語とイギリス英語ははっきりと発音の明確さが違うようにそれぞれで特徴があり、違いがある。

メキシコのグアダラハラで同室だったオーストラリア人は、アジアに行ったときには自分の英語がなかなか聞きとってもらえなかったと言っていたし、そのオーストラリア人と英語でしゃべっていた同宿のベルギー人は、やはり同宿のアメリカ人の英語は聞き取れていなかった(結局、2人はスペイン語ではなしていた)。

文字と音が合っていないという点で、ぼくは英語は非合理的な言葉だと思うが、もし英語がもっと世界の共通語として広まっていったとすれば、だんだん文字に発音が一致してくるのではないかと、勝手に想像する。

その点でパトワ語は、英語と思って聞きさえしなければ、音としては聞きやすい言葉のように思う。なまじっか英語をしゃべるだろうという前提で聞くから、まったく何を言っているのかわからなくなるのだろう。もっともわかるようになるためには、パトワ語の語彙を増やさなければ始まらないのだが。

レゲエなどではこのパトワ語が使われているので、日本でパトワ語に接しようと思えば、レゲエのCDを聞きながら歌詞カードを読むのが一番てっとり早いだろう。


2008.3.12(水)ハバナよりアップ

キングストンからハバナへ

2008.3.9(日)

ハバナへ行くフライトが朝の7時ということで、夜は寝ないまま飛行場に行くことにした。

一昨日、この宿の門番の若い男の人にタクシーを紹介され、その人には3時に宿を出ると伝えていた。空港までは宿から40分ほど。飛行機の出発予定時刻の3時間前に空港入りするように、クバーナ航空の人に言われていたので、こんな真夜中に移動することになった。

ちなみに空港までのタクシー代は、運転手の言い値で40USD。真夜中だし、キングストンだしといういことで、その言い値でOKした。

荷物の準備をしてから、1時からホテルのパソコンを使ってネットに写真をアップ。これまでフリッカーにアップしていたが、200枚を越えると使用料が発生するらしく、その旨の通知が来たのでGoogleのピカサに変更。こっちの方がアップロードが早いし、容量も大きい。

パソコンは受付があるロビーの片隅にあって、パソコンに向かって左手がホテルの受付になっている。ロビーにはコンポが置かれてあって、ずっとレゲエ風の音楽が流れている。受付には若い(?)女の人が1人。パソコンでフリーセル(ゲーム)をしている。

ヨーロッパ系の観光客がこの時間に何人か帰って来る。おそらくダンスかなんかのお店に行っていたのだろう。

3時前にチェックアウトの手続きをする。チェックアウトをするというと、受付の人はこの時間に?と聞き返してくる。夕方、別の人に今晩チェックアウトすると伝えていたのだが、どうも夜番の人には伝わっていなかったよう。

キーデポジットとして初日に払っていた500ジャマイカドルが戻ってきたが、それはそのまま2時間のインターネット代に消える。

荷物を持って表に出る。門番の男の人が、タクシーが必要かと聞いてくるので、予約しているというと門の外に泊まっている車か?と聞かれる。

車内の電気が付いていないので運転手の顔がわからなかったが、たぶんそうだと言うと、鉄柵の門の鍵を開け、車まで一緒に付いてきてくれる。そして、門番の人が運転席の窓をこつこつノックすると仮眠していた運転手が起きてきた。

確かに一昨日予約した人。白い乗用車で、左側のドアには悟空や悟飯のシールが貼られてある。ちなみに悟空のはスーパーサイヤ人状態のもの。

助手席に座るとこれまた悟飯などのシールが貼られている。"You have many Dragonball"とぼくが言うと"Ya-man(ヤーマン)、Ya-man"とジャマイカ式の"yes"を2回言う。

街灯の黄色い明かりの中を車は走り出す。空には星が見えるが、キューバに比べると圧倒的に少ない。

車は途中ガソリンスタンドに寄り、給油する。24時間やっているのか、スタンドには女性の店員がこの時間帯におり、給油作業もする。ちなみにガソリンの値段は、これまでみたところだいたい65ジャマイカドル=1USD。

車はアップタウンの西側のとおりを走る。左手の一段高いところは高級住宅街のビバリーヒルズ。ここからの夜景がきれいだと言われていたので、この時間に寄ってもらうように最初に伝えておけば良かったと思うが後の祭り。

ちなみに別の日本人の人から聞いた話では、その人も夜にビバリーヒルズに行こうかと思っていたらしいが、ジャマイカ人に、ここに住む金持ちを狙っているバットマンたちがいるというからやめたと言っていた。

さすがにこの時間帯だと人通りはない。途中、電信柱にもたれかかって寝ている男の人をみる。また、この時間に路上に止めた車を修理している人もいた。

車は発電所の脇を通り、次の交差点を右に曲がれば空港へ一直線というところまでくる。順調だなと思っていたら、左手に警察が2人立っており、止まれと合図をする。

運転手のおじさんはちゃんとタクシーの免許を持っているのかな、とふいに疑う。許可のないタクシーの取り締まりは厳しく、昨日もバスターミナル付近で無断で人を乗せていた運転手が警察に路上で事情聴取を受けていて、ひたすら運転手は謝っていた。

車は止まり、運転手はゆっくりと降りる。ぼくは車内で待っていればいいかと思っていたら、運転手が助手席のドアを開け、出てというような合図をする。

景観は1人は若くせいぜい20歳前半、もう1人は40歳くらいに見える。長い銃を脇に抱え、腹部には防弾チョッキを付けている。いつでも戦闘可能といういでたちだ。

彼らはジャマイカ英語のパトワ語で、かつ早口でワーっとなにやら聞いてくる。が、よく聞き取れない。

聞き取れたのはマリファナ(発音としてはマリワナ)とイリーガルと、あと少々。マリファナを持っているか、とか、吸ったかなどと聞かれるので”No”と否定する。それから、持っていたウェストバックの中を見せろと言われる。警官の1人が、ぼくのバックの中をごちゃごちゃと手でかき回しながら探る。

外務省の安全情報にも載っていたが、日本人がここで大麻を手に入れ、日本に持っていこうとしたり、またジャマイカ人に頼まれてそれと知らず、預かっていたりするようなことが数多くあるらしい。たぶん、その影響もあるのだろう、警官は執拗にマリファナについて聞いてくる。

さっきからマリファナはやっていないというのに、信じられないと言った具合で、何度も聞かれる。それから日本での仕事を聞かれ、靴屋の店員と答えると、じゃあ、ビジネスで来たのか、と今度は別の路線で疑われる。

そして、いつからジャマイカにいるのかと言うから、3月3日からと伝えると、ちょっとパスポートを見せてと言われる。パスポートを見せると、これから空港に行くのかというので、そうだと伝えると、今度は航空券を見せろと言う。

その間も早口でほかにも聞かれるのだが、よくわからない。すでにID等を見せ、警官からのチェックを済ませた運転手は脇で、”彼は(警官の言葉を)理解できていない”と警官に言う。運転手は落ち着いているふうだったので、まぁ大丈夫かと思っていたが、とにかく警官はしつこい。

ジャマイカにガールフレンドがいるのかなどとまで聞かれる。最後の方になると、なにもないとわかったのか、だんだん向こうもにこにこ笑いながら質問してくるので、半分遊んでいるかのようだった。

時間にしたら10分ほどだったろうか、無事に解放され、車に戻る。

運転手にこうしたチェックはけっこうあるのか聞くと、”Ya-man"と答える。さっきの警官はいい奴だみたいなことも言うので、やはり途中からは遊んでいたようだ。ただ、でかい銃を持って武装しているので、そういうのに慣れてない身としては、それを使って何かされたらと疑ってしまうので、なんとも気分が悪い。

運転手は”ジャマイカはいいところだろ”と言う。そして、次はいつもどってくるのかとも。ぼくは”いいところだろ”と運転手が言ったのを意外に感じた。と言うのも、最初に泊まった宿で買った本には、キングストンのあまりに悲惨な出来事ばかり書かれていたから。それらのことは主に1970~1980年代に起きたことなので、当時からすれば今はずいぶん安定しているようには思う。

でも、未だにキングストンでは殺人事件は多いし、アップタウンとダウンタウンは見事に隔てられているように見えた。そんなだから、他のまちに住んでいるならまだしもキングストンにいて、いいところだろ、と言ったのがぼくには意外に思えたのだ。

本心から言えば、いろいろ問題(特に暴力の問題)が多いな、というのがこの国の印象だったが、運転手からの質問には”もちろん”と答え、飯もうまいし、人は親切だし、なんたって音楽がいい(ほとんど聞いたことがないのに)と、ありきたりなことを言う。

運転手は”Ya-man!"を繰り返す。3時45分頃空港にタクシーは到着。40USDを払い、ジャマイカ式の握手(握手をした後に、握った拳を軽くコツンとぶつけ、さらにお互いの親指を合わせ互いに右方向に向けて1回強く擦る)をして運転手と別れる。

空港は夜は完全に閉まってしまうと聞いていたが、確かにそのとおりで中に入れない。路上に車を停めて開くのを待っている人もいる。

対岸にはキングストンのまちの明かりが見え、耳をすませば波の音が聞こえる。風が眠るにはちょうどいい具合にぬるく、一気に眠気がきてあくびが次々とでる。

空港の職員が次々とやってきて、職員用の入り口から入っていく。その職員の1人にいつドアが開くか聞いたら、もう開いていると言って客用の自動ドアの前に立ってみせるのだが開かず、やはり職員用のドアから入っていった。

ロータリーに次々と車が入ってきて、ドアが開くのを待っている。

結局、空港のドアが開いたのは4時20分すぎ。30分以上も入り口で待っていた。

空港内の椅子にはヨーロッパ系の女性が1人寝ていた。夜中には完全に閉まると聞いていたので、前日から空港で寝るのは無理かと思っていたが、前日でも早く着ていれば眠ることができそう。

電光掲示板に出発便の時刻等が映り、チェックインカウンターが開く。電光掲示板でぼくのフライトを探すが、それらしきものが見あたらない。フライトはクバーナ航空だったのだが、行きと同じくエアジャマイカと共同便なのかと思い、エアジャマイカのチェックインカウンターに行く。

準備をしているところにそのチケットを持っていくと、すぐにそこで受け付けてくれる。やはりエアジャマイカのよう。チケットとパスポート、そしてツーリストカードの提示を求められる。それから、リュックの中から壊れやすいものなど手荷物で持ち込むものを取り出し、リュックを預けてチェックイン。

次に手荷物検査場に行くが、まだ準備ができていないと言われ、10分ほど待つ。持っていたペットボトルの水を没収された以外は何もなく、通過。

出国審査も1つの質問もなく通過。待合いロビーに出る。てっきりモンテゴベイのように豪華に店が立ち並んでいるだろうと思っていたら、お土産屋など6店舗ほどがあるだけ。やはり首都よりもリゾートがある空港の方が豪華だった。もちろん、店はまだ閉まっている。

搭乗時刻の6時20分まで2時間近くあるので、椅子に座って寝ることにする。天井から吊られているテレビでは、ボディビルの大会の映像が流れている。どうもカリブ海一帯の大会のよう。やっている人には悪いが、なかなか気持ち悪い。

しばらくして目が覚める。気づいたら閉まっていた店は開き、待合室には多くの白人があふれていた。時刻も6時をまわっている。1人だけ若い女の人がマックのノートパソコンでネットをやっていた。

そろそろ搭乗の時間だなと思い、搭乗ゲートの入り口(搭乗ゲートに入るための入り口が1つあり、そこから各搭乗ゲートに行く作りになっている)に行き、入り口に立っている女性の担当者にチケットを見せて、入れるか聞くが”まだダメ”と言われる。

しばらくして搭乗の案内が館内に流れる。何を言っているのかよくわからなかったが、人がその入り口に並び始めたので、ぼくも並ぶことにする。入り口に立っている女性の担当者が1人1人のチケットとパスポートをチェックする。チェックするのはその人1人なので、すぐに50人くらいの列になる。

ぼくがチケットを見せると、ぼくのフライトではないと言われる。それで、列から離れ、椅子に座っていると5分もしないうちにまた案内放送があった。今度は、ハバナという言葉が聞き取れたので間違いなさそう。

列に並び、チケットとパスポートを見せる。担当者はチケットの名前とパスポートの名前を見比べ確認し、すぐに返してくれる。

搭乗ゲートは1番。19Aの窓側の席。チェックインするときに窓側を希望していたが、席は翼の付け根。これでは海を眺めることができないなと思うが、しょうがない。

機内はがらがら。来たときよりももっと少ない。各列(横6席)に1人程度しか座っていない。ぼくはさっさと寝てしまい、気づいたら着陸体勢に入っていた。

行きと同じくモンテゴベイ経由。モンテゴベイの空港に8時頃到着。ここでまた乗り換えるのかと思っていたが、機内の放送でハバナ行きの人はそのまま乗っておくよう案内が流れる。

ほどなくして、乗務員がハバナ行きの人たちのチケットをチェックしに来る。チェックはチケットを見るだけ。その人に続いて今度は空港の職員らしき男性がまわってきて荷物の確認がある。天井下の荷物棚にある荷物の持ち主を確認したいので、自分のものかどうかを教えてくれと言う。もし、持ち主がいない荷物があれば忘れ物として機外に持っていくらしい。

しばらくしたらモンテゴベイからの乗客が乗ってくる。席ががらがらだったし、他の人もしていたので、ぼくは外がよく見えそうな座席に移動する。

モンテゴベイに着いてから30分後の8時50分ごろ、機体は離陸する。機内ではすぐに朝食の準備が始まる。女性の添乗員がまわってきてエッグとなんとかのどっちにするか聞いてくる。”なんとか”の方が聞き取れなかったので、エッグにすると卵焼きに葉っぱの炒め物が入った機内食を持ってくる。味はまぁまぁ。まずくはない。

眼下は雲だらけ。行きに見えたきれいな海は見ることができない。なので、ジャマイカで買った本の続きを読む。『ボーン フィ デッド』は、なかなかの力作だ。1970~1980年代のキングストンのギャングと政治家の関係や、ゲットーの人々がどういう環境で生きていたかががよくわかる。

モンテゴベイを出てから2時間たらずでハバナに着陸。曇っている。

前回の経験から若い審査官よりも年輩の審査官の方がいろいろ知っていてすんなり入れそうだったので、入国審査では、少し年輩の女性のところに入る。

パスポートとツーリストカードを見せると、何日間滞在するかを聞かれ、答えるとハバナを出るチケットを見せろと言うので、チケットを見せる。すると、やや考え込み、ハバナに住んでいるのかと聞かれる。日本に住んでいるというと、ちょっとそこで待っててと言われ、またもや止められる。女性の審査官は別の職員を呼ぶ。

男性の職員が来て、2人でなにやら相談。その男性の職員がぼくのところに来て、英語はできるかと聞くので、とりあえずハイと答える。そしたら日本での職業を聞かれる。オフィスワーカーだと言うと、バケーションかと聞くので、そうだと言う。そしたら、女性の審査官の方を向いて、OKというような仕草をする。

それで女性の審査官にまた呼ばれる。今度は、ツーリストカードの入国の部分にスタンプが押され、"Welcom to cuba"と言って、通してくれる。

荷物をピックアップし、外に出る。またタクシーの強引な客引きがいるだろうなと想像していたら、今度は誰もいない。客引きに1人も会わなかった。

今回はバスで市内に行こうと思い、道路沿いに歩き出す。外は寒い。1週間前はハバナは天気がよく30℃近くあったのに、今日は20℃台前半くらいに感じる。途中、通りがかりのタクシーが声をかけてくるが、断る。

しばらく歩いたところで、すれ違う人に乗り場を聞く。するとここからは出ていなく、乗り場はもっと向こうと指し示す。グラシアスと言って、しばらく歩き、またおばちゃんに聞く。すると隣がガソリンスタンドで、そこにタクシーが止まっていた。

それで乗っていけという。値段は15CUC。最初の日は25CUCだったので、ずいぶん安くなったが、それでもキューバの予算が厳しくなっているので、断るとさかんに引き留める。そしたら、タクシーの横にいたクバーナ航空の車の人が10CUCでというので、それで妥協する。

タクシーではないので、もちろんクバーナ航空の人は裏仕事になる。乗ったらすぐにお金を払ってくれというので、10CUCを渡す。車は新品のプジョーの小型車。静かで速い。

運転手はキューバは初めてかと聞いてくるので、2回目と答える。それからキューバに彼女がいるのかと聞いてくるので、NOと言う。

久しぶりのハバナは落ち着いているように見える。キングストンで感じていた緊張がすっかり解ける。キングストンに比べると歩いている人が多い。人が安心して出歩けるまちという点ではキングストンよりもハバナの方が上だ。

すんなり宿近くのカピトリオ(旧国会議事堂)に着き、宿に行く。チェックインし、昼飯を食べに外に出る。

5ペソ(15円程度)のタマーレ(トウモロコシの粉で作ったあくまきのようなもの)を食べ、やはり5ペソのパンを買う。

カピトリオ近くの路上では野菜の市をやっていて多くの人であふれていた。サルサのようなレゲエのような音楽が流れ、野菜を売っている人の中には踊りながら売っている人もいる。買いに来ている人の中にも踊っている人がいる。さすがキューバだ。

その市でワイン(22.8ペソ=約110円)とバナナ(8ペソ)、見た目はようかんのようなお菓子(3ペソ)などを買う。

両替をしに行き、しばらく中華街などを歩く。相変わらず路地やちょっと広場では野球をしている。そう言えばキングストンではまったく野球は見なかった。寒いこともあり、みんな長袖を着てる。

昼過ぎに宿に戻り、昼寝。夕方にちょっとまた散歩して、6時前に宿に戻る。

今日もこの宿は日本人がいっぱい。8人くらい泊まっている。夜は同部屋の学生が持ってきていたキューバの医療に関する本を借りて読む。

夕食時に買ってきたワインを飲んだが、どうもアルコール発酵というよりも酢酸発酵しているようで、味は黒酢に近い。ワインという感じではなかった。

おわり

2008.3.12(水)ハバナよりアップ

2008年3月9日日曜日

トレンチタウン、ポートロイヤル

2008.3.7(土)

ジャマイカ最終日。ずっと行くか迷っていたがトレンチタウンに行くことにする。

トレンチタウンはゲットーと呼ばれている地域の1画でボブ・マーリーをはじめレゲエのトップミュージシャンなどが生まれ育ったところ。地球の歩き方には迷い込まないように、などと書かれている「危険地帯」。

昨日も3日前に行ったスパニッシュタウンで白昼に銃による殺人事件があり、そうしたものに偶然遭遇しないかと迷っていた。最初にここで泊まっていた宿の人は、タクシーを使ってトレンチタウンを通ったらしいが、その運転手からこっちの方は写真を撮ったりしたらダメとか、ここからは危ない通りだからと窓とドアを完全に閉めて急いで通りすぎたりしたと聞いていた。

また、その人はジャマイカ人から、日本人がさっき銃を突きつけられていたよと言われたこともあったらしい。

そんなこともあって、どうしようかと思っていたのだが、ホテルの前に止まっていたタクシーのおじさんが話しかけてきた( cheap taxiなんて言ってきたが、最終的には高くついた)のをきっかけにタクシーを使っていくことにした。

カネがなくなっていたので、9時頃両替をしに行く。両替後、アフリカのフランス語圏にそなえて英語・仏語辞典を買う(567ジャマイカドル)。あと記念にパトワ語辞典も買う(190ジャマイカドル)。英語関係の辞書はオックスフォードばかり。両替にはパスポートが必要なので、一度、宿に戻りパスポートをおいてから行くことにする。

11時頃、タクシーに乗ってトレンチタウンに向かう。そのおじさんは日本人の友達がいるといい、DJのパパUGTを知っているかと聞いてくる。もちろん、ぼくは知らない。

CITIグループのビルや銀行のビルがあるニューキングストンを通り、車はトレンチタウンに入る。武装した女性警官2人が、通りに立ってパトロールらしきことをしている。そこを通るときに、運転手はここは"Bad place"だと言う。

宿を出てから30分ちょっとでトレンチタウンにあるCulture Yardに到着。ここはボブ・マーリーの代表曲”No woman No cry"に出てくる”goverment yard"と呼ばれていたところ。

Culture Yardはただ広場だった。リングはないがバスケットコートのラインが引かれており、その他は何があるというわけでもない。広場の入り口の壁は竹を横に並べて作られていた。竹でこうしたものが作られているのを見たのは初めて。ポートアントニオに行く道沿いは竹がぎょうさんあったが、あまり竹を使ったものを見ることはない。

入り口に向かって左側の大きいとおりに面した壁にはボブ・マーリー基金によって、トレンチタウンから生まれたミューシャン等の肖像画が描かれている。

広場の中に入り、写真を撮っていると180cmは越えているラスタの格好をしたおじさん(おじいさんに近い)に、声をかけられる。何を言っているかわからなかったので、近い付いていって聞くと、なんで写真を撮っているのかと言っているのだった。

ボブ・マーリーの歌に出てくるからというと、詳しいツアーをやっているからと広場の向かいにあった建物に案内された。

そこには他にもラスタの格好をした男の人が、3人ほど表におり、タクシーの運転手はその人達と雑談をしていた。入り口近くの建物が受付になっており、そのおじさんに促されるままに入っていく。そして、ツアーの参加名簿を渡され、名前などを書くように言われる。料金を聞くと700ジャマイカドル(約1200円)。高いなと思いつつも、ここのお金はトレンチタウンをよくするために使われているとどっかで読んでいたし、ここまで来たのでツアーを利用することにする。

客はぼくの他にはなし。おじさんがマンツーマンで案内してくれる。受付の建物の裏側に口の字のように小さな建物が並んでおり、まずは左手の部屋に案内する。

そこにはボブ・マーリーが入っていたバンドのウェーラーズのメンバーの写真やトレンチタウン出身のレゲエミュージシャン等がここで小さなコンサートをしたときの写真、またここを訪れたドイツ政府の人の写真などが壁に貼られていた。

次に案内されたのが、ボブ・マーリーが使っていたアコースティックギターが展示されている部屋。ギターはそうとう使い込まれたようで、黒の塗装が擦れて木目が見えている。

次の部屋はボブ・マーリーが曲を作ったりしていた部屋で、彼がよく座っていた椅子などがおかれている。壁にはいろんんな言葉が書かれている。また、壁にかけられた写真を指さし、おじさんはこれは自分だという。ボブ・マーリーの方が6歳年上らしく、当時のおじさんはボブ・マーリーと同じくらい痩せていた。

それから次に案内された部屋がベッドのある部屋で、おじさんはボブ・マーリーの歌を口ずさみ、その歌の歌詞に出て来る"bed"がこのベッドだと言う(なんの歌か忘れた)。

部屋から出ると中庭にあるボブ・マーリー像のところに行き、ちょっと待ってとおじさんに言われる。おじさんはカップに水を入れてきて、像の下に植えられている植物に水をやっている。そして、"Herb"を育てているんだ、と言う。"Herb"と言って指さした植物は他でもない大麻。日本でもよく麻製の財布などに大麻の葉っぱがデザインされているが、ほんとにそのままの形だった。

それから案内された敷地内のグッズショップの入り口の会談したにもやはりハーブがあった。`

店内には毛糸で編んだバッグやセイレ・ハラシエのTシャツ、ラスタが使っているような帽子、ボブ・マーリーの絵が入っているハンカチなどが売られていた。どれもなんだかいまいちなのだが、他に客もいないし、おばさんたちはあれこれすすめてくるから、ここまで来たら買わなければ。

そんで携帯電話を入れる小さな毛糸のバックとボブ・マーリーのハンカチを買う。2つ併せて700ジャマイカドル(約1200円)。高い!ハンカチには大きくMade in Thailandとあるのに。

そこを後にし、その右手向かいにあった建物を見に行く。入り口にはVIN LAWRENCE PARKと書かており、入り口右手の壁には”TRENCH TOWN READING CENTRE”、左手の壁には”KNOWLEDGE IS THE KEY TO SUCCESS”と書かれてある。

タクシーの運転手はすでに車に乗って待っていたので、車に乗り、ダウンタウンのマーケットに行く。途中、トレンチタウンの道ばたでは大勢の人が集まってサッカーをやっていた。わりと人通りはあるので、1人で来ても大丈夫そうに思える。トレンチタウン一帯の多くの家はトタン板をつぎはぎしたような家が多く、確かにアップタウンとはぜんぜん違う。

マーケットまでは車で5分ほど。運転手は最初500ジャマイカドルと言っていたのに、500ジャマイカドルはトレンチタウンまででそこからマーケットまでは300ジャマイカドルだという。おいおい、話が違うぞと思いつつ、言い値で払う。

マーケットは土曜日ということもあってか前回来たときよりも人出が多かった。屋根代わりのブルーシートが風にはためく。その下を歩いていると店の人から”チャイナマン”とか”ミスターチン”とか”ジャパニ”とかと声をかけられ、キャベツを買っていけなどと言われる。

マーケットの野菜はキューバよりも豊富。2種類のジャガイモ、人参、キャベツ、半径40センチはありそうなカボチャ、楕円形のスイカ、レタス、ココナッツ、夏みかんに似た柑橘系の果物、空芯菜に似た葉っぱなどなど。キューバではいっさい見なかった魚も売っている。

ダウンタウンのバスターミナルからPort Royalに行くことにする。Port Royalは空港近くにある1200人の小さなまち。このまちには1656年にイギリス人が入植したが、1692年に大規模な地震があり、まちは壊滅的な被害を受けた。そのときにそこから逃げ出した人たちが移り住み作ったのが今のキングストンらしい。

まずはPort Royal行きのバスを探す。ここのターミナルはハーフウェイツリーのそれと違って広場にバス停があるだけ。行き先を書いた看板があるわけでもないので、人に聞くしかない。適当にバスの添乗員の人に聞く。が、発音が悪く
”Royal”が伝わらない。で、紙に書くと理解してくれ、乗り場を指さしながら98番のバスに乗れと言われる。

乗り場の方へ歩いていく。途中、果物屋さんでパパイヤを買う。量り売りでぼくが買ったのは1個70ジャマイカドル(約120円)。川を剥くかというような仕草をするので、お願いする。鉈(なた)のような包丁で皮をむき、食べやすい大きさに切ってビニール袋に入れてくれる。早速食べるてみたが、これがうまい。

98番のバスを発見。まだ出発まで時間がありそうだったので、近くで売っていたジャークチキンを買う。舞の上に円柱形の肉があったので、内蔵かと思ったがよく見ると鶏の首の部分だった。50ジャマイカドルぶん買う。さすがに首の部分だから肉が少ない。味付けは辛いケチャップのようなもの。

バスはスマートカードが使えるバス。料金は50ジャマイカドル。バスは途中から初日に空港から宿まで行くのに通った道を通る。途中、空港にも停まる。このバスを使えば、37ドルも払わずに500円程度で宿に行けたのかと今更ながら気づく。ガイドブックにはバスは危険だと書いていたが、まったく危険な雰囲気はないし、座席もそこそこ広いので荷物を持っていても大丈夫そう。

空港から10分ほどでPort Royalに到着。キングストンとはまったく雰囲気が違う。さびれた港町という雰囲気。バス停からは店ひとつ見えない。

波の音がする方に行く。低木の生い茂る合間にできている道を通っていくと海岸に出る。水はにごっており、ゴミも多い。地元の人が泳いでいるが、見渡したところ3人ほどだけ。これだけ海が近いなら子どもが遊んでいてもいいようなものだが、子どもの姿はない。

海辺から大きな広場に移動。広場では古い建物の解体が行われていた。壁をハンマーのようなものでぶち壊し、建物の柱とトラックをワイヤーでつなぎ、トラックで引っ張って建物を倒す。周りでは男の子達が、建物の端材とトンカチを使い釘を打ったりして遊んでいる。

それからしばらくまちのなかをふらふら。あるのは住宅ばかりで、食事ができるところが2カ所ほど。キングトン側の岸沿いには釣り屋などがあるが、客はいない。海岸につながれている船の上で釣りをしている地元の子どもたちが数人いる。

魚の唐揚げを売っている屋台があったので、そこで魚を1尾と練り物系の天ぷらを1枚買う。

まちには1時間ほど滞在して、帰る。ダウンタウンでバスを乗り換える際に、またパパイヤを同じ屋台で買う。屋台に行くと屋台のおじさんはうまかっただろというようなことを言う。今回も70ジャマイカドル。

バスに乗ってハーフウェイツリーに向かう。バスターミナルの近くにアイタルフード(ラスタファリアンが好むベジタリアン料理)のレストランがあったので、そこで夕食をたべることにする。2階にあるそのレストランに入るとマリファナのにおいが立ちこめている。店内にいる人もラスタの格好をした人が多い。

近くの店が大音量でレゲエを流している。

150ジャマイカドルの料理を頼むとすぐに発泡スチロールの弁当箱に入って料理が出てきた。

店の外の廊下にある椅子に座って、レゲエを聴きながら、また奥の人が吸っているマリファナの煙が流れてくる中、飯を食う。タバコの副流煙はのどが痛くなることもあって嫌いなのだが、マリファナの副流煙(?)はタバコの煙に感じるような嫌な感じがしない。

午前中に両替した40ドルも予定外の出費(トレンチタウンのツアーと買い物、タクシー代)でほとんどなくなる。

宿に戻り、明日の出発の準備をし、仮眠をする。

おわり